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2006年11月23日

11月例会記録(2)

■ 山本紀久雄氏

やはり出来が違う


 神坂次郎著の『幕末を駆ける』を古本屋で購入した。
人間は直観力がある。その本には「山岡鉄舟」と書かれていなかったが、読んでいると突如として鉄舟が出てくる。
岩倉具視がお金を払ったリストがあり、そのリストの探偵費支払いという項目に鉄舟の名前が出てくる。探偵ということはスパイ。
西南戦争は中央政府と西郷隆盛の戦いで、西郷側から戦争を起こさせるために、中央政府は密偵を薩摩に送った。密偵が、薩摩側を暴発させるための手紙を落とした。これを見た薩摩側がカーッとなって、戦争を起こした。こういう話の中に鉄舟が出てきて憤慨した。

 川田剛(甕江)『正宗鍛刀記』での記述を紹介する。
岩倉具視が、“普段贈り物を断っているが、忠臣からもらったので特別に受け取った。彼の功績を世間一般に広く知らせることにした。その記録の文章を作ってほしい”と川田に頼んだと記されている。
この文章の中で、駿府で西郷隆盛を説得し無血開城に導いた鉄舟の功績を認めている。鉄舟は貧乏だったから「探偵費」というのは岩倉具視が鉄舟にお金を支払う口実だったのではないか。

1.幕末維新に活躍した人物は外国と接したことで変化した
   勝海舟  薩摩藩士  長州藩士

 明治維新の際、なぜ薩摩だけが盛り上がったかを考える。西南戦争を起こした中心は農民ではなく士族。南九州の薩摩藩、佐土原藩、高鍋藩などでは、全体の人口の20~30%が士族だった。
当時、兵農分離が行われており、兵は城下町に住んでいた。武士は江戸に住む、農民は田んぼで田舎に住む。武士は街中に住むから人口比率が3~5%と少ない。
薩摩藩は兵農分離が進んでいなかった。普段は田畑の仕事をしながら、何かのときに刀を出す。そのため南九州では士族の比率が高く、西南戦争は士族の不満から出たということがデータから判る。

 薩摩藩が明治維新を起こした。薩英戦争(薩摩と英国の戦争)で、イギリスの近代兵器に驚き、開国を推し進めた。
長州藩も下関事件が起き、四か国の艦隊が長州藩を攻撃した。外国を知った薩摩藩と長州藩の2藩が明治維新を作った。
勝海舟も出世しようと思ったからオランダ語を学び、長崎でオランダ人と接して船の操縦を学び、サンフランシスコに行った。外国に詳しい。


2.戦国時代の実力主義とは人の目利き力

 鉄舟は外国と一度も接していない。鉄舟は慶喜から指示されたときに、駿府に行きたくない、といいましたか?
 尊王攘夷だった人間が開国派の話で、意見を取り入れた。当時は勝海舟など、ほんの一部の人しか、官軍に降服して受け入れようと思っていなかった。ほとんどの人たちは官軍が来るならやってやろう!と思っていた。
 薩摩藩や長州藩、勝海舟は外国と接しており、新しい思想を持っている。ところが鉄舟は、旗本で、剣と禅をしながら古い思想の中に居た。それなのに、なぜ近代的な志向があったのか?少数派の言葉をなぜ理解することが出来たのか。

 慶喜から駿府行きの命令があり、勝海舟の元へ挨拶に行った。勝海舟は鉄舟に、これから先駿府まで官軍がいっぱいいる、と。鉄舟は“臨機応変は胸中にあり“とその場を臨機応変に対応すると言っている。レジュメ6の②に「心胆練磨之事」とある。23歳の時に書いた”臨機応変“が、この、いざというときに出てくる。


3.徳川慶喜が鉄舟を駿府行きに選んだ目利き力

 15代将軍慶喜はそんな重大なことをなぜ一旗本に頼んだのか。百俵二人扶持の鉄舟に頼んだのか。推薦されていたとしても、会ったときに信用置けないような人物だったら、頼まないだろう。慶喜には目利き力があり、鉄舟に会ったときに一瞬の直観力、目利き力で決めたのだろう。
戦国時代、殿様は子供つくり、誰を跡継ぎにするかを決めることが重要だった。判断を誤ったら藩はつぶれてしまう。

 鉄舟を推薦した高橋泥舟については、子母沢寛が『逃げ水』で書いている。高橋泥舟が生まれたとき親父が、“こいつは者になる!”と言ったという。顔を見た瞬間に高橋泥舟の未来を予測している。これも目利き力。人の査定能力がすごく大事。

 日本の経済は復活したと海外で評価されている。日本国民が小泉元首相を選んだ目利き力。戦国時代も現代も目利き力を大事にした。
また時代を表す元号についても同じ。徳川家康は、大阪夏の陣で豊臣家を潰し、これから平和が来ると、慶長20年(1615年)に元号を慶長から「元和(げんな)」にした。その後249年間戦争がなかった。
元号が「元治」となった1864年明治維新の4年前、世の中は“元来国を治めるのは天皇である”というムードになっていた。元治元年に長州が禁門の変を起こした。ここから戦争が始まった。


4.その鉄舟は明治天皇の扶育係りとなった

 明治天皇は15歳のときに天皇になった。明治天皇20歳、鉄舟37歳のときに鉄舟は侍従になった。明治天皇は15歳まで、宮中の奥深く女官に囲まれていた。公家なので男性でも白粉を塗っている。
天皇になられて5年経ち、当時の帝国主義ロシア、イギリス、フランスに対抗するためには、なんとかして明治天皇をそれなりの人にしなくてはならないと西郷隆盛が扶育係りに鉄舟を選んだ。明治天皇も鉄舟も大酒飲みだから、毎晩一緒に飲んだ。飲みながらどんな話をする?年上だから、経験談を話すでしょう。

 20歳のときの明治天皇は断髪してない。翌年、断髪令(1871年に発令)から3年過ぎて、断髪した。諸外国と交渉するときに写真にサインをして相手と交換する。それで急遽断髪した。
断髪前と断髪後の2枚の写真は内田九一さんという人が撮った。

 この21歳のときに撮った写真を15年使った。しかし35歳で21歳の写真を使うのは諸外国に会うときにどうだろう。伊藤博文も明治天皇に写真の撮りなおしをお願いし続けたが、明治天皇は断り続けた。
写真が取れないなら、写生をしようと考えた。しかし天皇を置いて写生をすることは恐れ多くてできない。


5.明治天皇の御真影はイタリア人画家エドアルド・キョッソーネの写生

 イタリアジェノバ、キョッソーネ美術館に日本から持ち帰った日本の古美術品がある。保存状態が凄く良く、並べ方にも愛着がある。彼は天皇が開いた晩餐会にも2回呼ばれている。

 明治天皇が皇居を出て外で食事する機会があり、天皇が食事をしている間にキョッソーネは、ふすまの陰からが写生をした。その絵を写真に撮ったものがご真影となった。

 外国の君主との写真交換の際、土方宮内大臣は、この写生によってできたご真影を(天皇に黙って作ってしまったので)おそるおそる差し出した。明治天皇は良いとも悪いとも言わず黙ってサインした。その後はこれをご真影として使った。
キョッソーネの明治天皇のご真影は、目がきりきりと輝いて、素晴らしい人物。天皇が亡くなるまでこの写真を使った。

 明治天皇21歳のときの写真とは顔が異なっている。人物が成長していると判断できる。20歳からの10年間、鉄舟が日夜教育したのだろう。鉄舟は自分が持っている哲学をしゃべった。では鉄舟の哲学はなんだったか。


6.鉄舟が基礎力育成の系譜
①「修身二十則」・・・十五歳

 ある日突然「修身二十則」を書くことはできない。過去、両親や友人などから学んだことをメモしておいて、沢山書いたメモの中から二十則を選んだのだろう。記録しておかないと急には書けない。


②「心胆錬磨之事」・・・二十三歳
(しんたんれんまのこと)

 鉄舟は32歳のときに駿府に行ったが、そのときに出てきた「臨機応変」に対応するという考え方は、23歳のときに書いている。

 23歳から24歳のときに②~⑤の4つを書いている。この2年間に鉄舟の基礎的哲学は完成したと思う。この中の23歳のときにメモしていた「臨機応変」にするということが、勝海舟と会ったときに出た。頭にしっかり入っているということ。
鉄舟は以下のように言っている。
一度思いを決めて事にあたれば、猛火の熱も、氷の冷たさも、弾の雨も、白刃も気に掛からなくなってしまうものだ。しかし世間ではこういうような人間を気魂の豪気なものと言う、そしてそれを褒める、だが私はこれを本当の豪気なものと思ったことは一度もない。
やり遂げると決めたことを思った通りやった、目的持って実行した、困難があってもやり遂げた、このような人を世間は素晴らしいと褒める。しかしそれはたいしたことがないと鉄舟は言う。

 本当の豪気というのは、問題にあたるときに心を決め、大いに奮闘するようなものではない。決意する前に決意していなければ駄目だ。つまりやるかやらないかではない。問題が来るのかが判らなくても、問題が来ても来なくても、いつでも同じ状態で居ること。時と事柄に応じて、縦横に変化することをいう。どんな問題でも立ち所に解決できる、そういう人間になりなさいと。

 目的持って行動することさえもできない人がいる。目的そのものも曖昧にしている人が事に当たっても、目的がふらふらしているから、行動に厳しさはない。何が目的で人生を生きていくのか。

 目的を持っていて、目的を達成しても、それはたいしたことではない、と鉄舟は言う。どんなことが起きても臨機応変にやっていけるような肝を作っておくことが、私の目標だと書いてある。
これが真理だが、自分の熱意が足りないからできていない。これを書いたのは、時々読んで、こうならねばならないために修練として書いて日夜訓練していると。

③「宇宙と人間」・・・二十三歳

 『ベルダ』の編集長と話していたら、鉄舟の「宇宙と人間」を読んで、あれはヘーゲルだ!と言った。ヘーゲルは、1700年代のドイツ観念論の哲学者。絶対知を出した人で、自然、倫理、芸術、宗教、歴史、哲学など、精神医学全般にあたる論を書いた。主観と客観は対立しない、全てに自分は一体化する。万物自然と自らの精神が混在的になることを書いている。
鉄舟の「宇宙と人間」を読んだときに、そう理解している、

 鉄舟は亡くなるときの心境は、世間は我と共にあり、地上はわれとともにあり
世の中の出来事は一切自分の責任である、生きとし生けるもの自分の子供である。万物と自分が一体化した。そして人間として、思考しない。臣民として思考する。

④「修心要領」・・・二十三歳

⑤「武士道」・・・二十四歳


7.やはり出来が違う

 禅を中心にして、剣・書から境地に来た。自分に起きたこと、気がついたことをメモしておいて、積み重ねて、エッセンスを拾い出して、修身二十則、心胆練磨之事、人間と宇宙などを見直しながら修練していた。
鉄舟の本を読んでも、強くこのようなことを言っていない。

 明治天皇は酒を飲みながら、真理を持っている鉄舟から話しを聞いた。
明治天皇はどんな人物かというと記憶力が抜群だった。しかし知識人ではない。論語最高の、“剛毅朴訥仁に近し”という人物で、意志が強固で、飾り気がなく、口数の少ない人物で、人として徳である仁を持った人。最高のご君主に近い人になった。20歳~30歳の重要な多感な時期に明治天皇は鉄舟に出会えた。

 鉄舟は、自らメモして、経験を整理し、理論として消化していた。それは鉄舟を研究していくとわかってくる。

 全国大会のときに松岡正剛さんについて話をする。鉄舟が始めて「武士道」という言葉を作ったという記述があった。鉄太郎23歳の安政時代に、彼は「武士道」と名づけていた。鉄舟は、哲学者だと思いませんか?
駿府の会談で成功するには、西郷隆盛を納得させるには人間の基礎的思惟基礎的がある

来月の全国大会にも参加してください。

【事務局の感想】
江戸時代、明治の一廉のじん物であれば精神を鍛えて直観力もすぐれているものとはおもいますが、鉄舟は若いときからの鍛え方が違っていたことがわかりました。
 鉄舟が初めて「武士道」という言葉を作ったのだということを聞いて、驚きました。武士道がこれほど人気になっていながら、だれもそのことについては言っていませんので、山本さんの研究に感謝いたします。これからも、鉄舟研究は面白くなりそうですね。


アメリカの所得階層は以下の四区分

1.特権階級

①400世帯前後いるとされている純資産10億ドル(1200億円)以上の超金持ち
②5000世帯強と推測される純資産1億ドル(120億円)以上の金持ち

2.プロフッショナル層

①純資産1千万ドル(12億円)以上の富裕層
②純資産200万ドル(24,000万円)以上で、且つ年間所得20万ドル(2400万円)以上のアッパーミドル層
③この層は高級を稼ぎ出すための、高度な専門的スキルやノウハウ、メンタリティを持っている。

以上の想定500万世帯前後は、全米11,000万世帯の5%であるが、ここに全米の富の60%が集中している。経済的に安心して暮らしていけるのは、この5%の金持ちだけだ。

3.貧困層

①ここで疑問をもつのは、かつての中産階級はどこに行ったかである。
②アメリカの中産階級は70年代以降、国力が相対的に低下する過程で、徐々に二分されてきた。
③一部は高度な専門的スキルやノウハウを磨いて「プロフッショナル層」へステップアップした。しかし、大半は「貧困層」に移ってしまった。
④理由は製造業の衰退で、レイオフされステップアップできなかった層である。マイケル・ムーア監督映画「ロジャー&ミー」にあるとおり。

4.落ちこぼれ層

①四人家族で年間世帯所得23,100ドル(280万円)以下。
②スラムや南部諸州に集中している黒人やヒスパニック、インディアン。
③海外からの難民と密入国した違法移民。
④この層が全人口の25%から30%占めている。

以上の出典は「超格差社会 アメリカの真実」小林由美著 日経BP社 

投稿者 staff : 2006年11月23日 14:06

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