« 6月例会の感想 | メイン | 6月例会記録(2) »

2006年07月02日

6月例会記録(1)

6月例会記録

■ 矢澤昌敏氏 
『日本の西洋美術談義 PARTⅡ』 
 副題:フェノロサ&岡倉天心&ボストン美術館

1.油絵略史
わが国と西洋との出会いは、1543年(天文12年)ポルトガル人の種子島漂着に始まる。【鉄砲の伝来】 1549年(天文18年)フランシスコ・ザビエルが来日、キリスト教を伝え、1569年(永禄12年)には、織田信長がルイス・フロイスの京都在住と伝道を認めた。 布教や交易のために、多くの人々とともに南蛮渡来の品々が入って来た。
 その後、徳川幕府の鎖国政策のため、この伝統が継承されなくなった。
 しかし、8代将軍徳川吉宗は1720年(享保5年)、キリスト教以外の書籍の輸入を許可した。 以来、蘭学が盛んになった。
オランダから輸入された書籍の挿絵図は銅版画であった。
明暗法や透視遠近法を用いた緻密な西洋画風の表現は、当時の人々を驚かせ、再び洋画の研究が始まった。
当時の画家には、平賀源内(1728~79年):日本初の洋風画「西洋婦人図」、小田野直武:おだのなおたけ(1750~80年):杉田玄白ら「解体新書」の挿絵画家、佐竹曙山:さたけしょざん(1748~85年)、司馬江漢:しばこうかん(1747~1818年)、亜欧田田善:あおうだでんぜん(1748~1822年)らがいる。
 幕府は19世紀中葉に、英、仏、独などの洋学を研究、教育する機関を創った。
名称は洋学所(1855年:安政2年)、蕃書調所:ばんしょしらべしょ(1857年:安政4年)、洋書調所(1862年:文久2年)、開成所(1863年:文久3年)【「開成所」は、幕府の教育機関の中でも最重要の位置を占めるに至った。そして、明治維新とともに新政府に移管され、「開成学校」として再編された。
「開成学校」は、現在の東京大学 法・理・文三学部に発展した。】などと変わったが、ここに洋画技法の研究機関があり、川上冬崖:かわかみとうがい(1827~81年)が指導者であった。高橋由一の本格的な洋画研究も、ここから始まった。油絵の始まりでもあった。

2.近代洋画の創始者:高橋由一と近代日本画の創始者:
狩野芳崖
高橋由一(1828~94年):【 代表作「鮭」「花魁」「豆腐」など 】と狩野芳崖(1828~88年):【 代表作「悲母観音」「仁王捉鬼:におうそっき」「大鷲図」など 】は、同年生まれの画家で、共に武士の家に生まれ育った彼らは、明治維新で身分を失う。
由一は、持ち前の文章力を生かして自己の窮状を訴える一方、維新前から学習した油絵の大作を博覧会やウィーン万博に出品し、活躍する。

*山岡鉄太郎(鉄舟)との交遊は、1874年(明治7年)由一(47歳)は、山岡鉄太郎(宮内少丞:39歳)の紹介で「海魚図」「田子浦冨嶽図」「興津海岸」を宮内省に献上、賞典を下賜(かし)される。

これに対し、芳崖の絵は全く売れず、生活は悲惨を極める。
二人の運命を逆転させたのは、1882年(明治15年)のフェノロサによる洋画排斥論で、予てよりフェノロサの知遇を得ていた由一は、この突然の「翻意」で、忽ち 元の不遇に陥る。
一方、フェノロサに認められた芳崖は、彼の助言の元、「大鷲図」のような力作を発表して西洋に通じる新しい「日本画」の創造に邁進する。         

2.アーネスト・F・フェノロサと岡倉天心
   【日本美術品の海外流失………江戸から明治】:
   (江戸期から始まっていた美術品の海外流失):
中国の混乱による磁器の輸出減少に伴い、日本の磁器、古伊万里、色鍋島、柿右衛門などがヨーロッパに輸出された。蒔絵も加わり輸出は増えていった。浮世絵が加わったのは、その後である。
 特に、ヨーロッパで日本文化を広めたひとりにオランダ商館の医師シーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト)がいる。彼は、精力的に日本の資料を集め、その資料の収集の中に日本の地図があったことからスパイ容疑を招き、1829年に強制退去させられた。【シーボルト事件:1828年(文政11年)】帰国したシーボルトは、1830年から自宅で収集したものを公開した。後に、これら収集品はレイデン国立博物館(オランダ:レイデン市)の基礎となった。このことが、ヨーロッパで日本文化を広めるきっかけとなった。

(明治の美術品流失……神仏分離により始まった廃仏毀釈)
1880年(明治13年)には、ジークフート・ピングが来日し、東京・神戸・横浜に支店を造り、収集した美術工芸品をパリに送った。彼のパリ:東洋美術工芸品店に【廃仏毀釈】による、ただ同然の仏像や仏具、絵巻物がどれだけ送られたかの記録はない。日本人が、自分の国の美術品に価値を見出さないのに、外国人が高い価値を見出し、警鐘を鳴らした。その1人が、大田区に縁の深いエドワード・シルヴェスター・モースである。彼は、「大森貝塚」の発見で知られているが、2度目の来日で、日本中から系統的に陶磁器を収集した4千点を超える収集品はボストン美術館の東洋美術の基礎となっている。
また、彼がアーネスト・フランシスコ・フェノロサを日本に呼び寄せたことは、大事な功績の一つである。
フェノロサは、来日した日本で【廃仏毀釈】が吹き荒れ、日本寺院が破壊されていることに大きな衝撃を受け、保護に立ち上がった。彼は、文部省に掛け合い、美術取調委員となった。
フェノロサと弟子の岡倉天心は、全国の社寺を回り、美術品の学術的な解明と保護に努めた。
この折、彼自身も自分への給料で、多くの美術品を買い求めた。
収集品は、2万点にも登る美術品はボストン美術館に寄贈された。
この時の金額は、28万ドルであったと言われる。
因みに、鹿鳴館の総工費は、この3分の2であった。
同様に、友人で医師のウィリアム・スタージス・ビゲローは、密教に興味を持ち、収集品は5万点にも登る。この日本と中国の美術品をボストン美術館に寄贈した。

(日本人による、積極的な美術品の輸出):  
林忠正は、フランスのパリ万博を機会に、フランスの印象派の画家たちに《浮世絵》を売った。彼の仲間の小林文七も、フェノロサ・ビゲロー・モース・フーリアに大量の美術品を売った。 アメリカに山中商会を開いた山中定次郎は、アメリカの大富豪や博物館に美術品を売った。彼らは、日本美術を世界に広めるという理想があったかも知れないが、あまりにも大量の《浮世絵》などが流失したため、日本には殆ど残らなかった。明治年間に、《浮世絵》の第一級品は、日本から姿を消したのである。
 勿論、《浮世絵》に価値を見出さなかった日本人に責任があるが、
しかし、仏像や仏具・絵巻物の類になると明治初期の【廃仏毀釈】
の影響が大きかったと言わざるを得ない。
古道具屋に、山と積まれていた仏具や寺宝は、日本人は誰も買わなかったのである。 
価値を見出さなかったのである。
 「日本人が売るのだから買うのだが、実に勿体無いことだ」と言うフェノロサたちの言葉を聞き、岡倉天心が日本美術の保護(国宝保存法)に乗り出すきっかけとなった。

ボストン美術館が購入した「吉備大臣入唐絵詞:きびだいじんにっとうえことば」(日本にあれば国宝)がきっかけとなり、1933年(昭和8年)法律が制定され、美術品の輸出が制限された。
やっと美術品の流失に歯止めがかかったが、既に 多くの美術品が流失した後だった。

1.「日本美術の恩人」:アーネスト・F・フェノロサ
(1853~1908年)
まず、「日本美術の恩人」:アーネスト・F・フェノロサの功績は、
1.西欧崇拝の風潮の中、「美術真説」(1882年:明治15年)などで日本美術の優秀性を鼓舞し、伝統美術(日本画)復興に大きく寄与した人。
2.寺宝物調査に参加し、岡倉天心とともに、法隆寺夢殿「救世観音:ぐぜかんのん、あるいは くせかんのん」を強引に開扉(1884年:明治17年)、世に紹介した人。 【現在、春と秋にこの「救世観音」が特別公開されるのは、フェノロサのお陰!】
3.高い鑑識眼で、古美術品を蒐集。 その日本画を中心とした体系的コレクションは、今 ボストン美術館にあり、自らも東洋部長を勤めた人。
しかしながら、フェノロサは、もともと美術研究家ではなかった。

アメリカの日本美術研究家。マサチューセッツ州セーラム(現ダンバース)出身。
1870年に、ハーバード大学に入学して哲学を学ぶ。4年後に首席で卒業。
その頃から絵画に興味を持ち始め、24歳でボストン美術館に新設された絵画学校に入学する。1878年(明治11年)25歳で来日。東京大学で哲学・経済学を教える。

当時の日本は、先進国の欧米に追いつくために、学者・技術者・軍人などの多くの欧米人を「お雇い外国人」として、高給で雇い入れた。              
ピーク時の1874年(明治7年)は、500人以上が招かれ、明治期全体では延べ3千人にものぼった。
しかし、1877年(明治10年)の西南戦争で財政難に陥り、次第にその数は減っていく。
因みに、フェノロサが来日する直前に、大久保利通が暗殺されている。

 フェノロサは来日後すぐに、仏像や浮世絵など様々な日本美術の美しさに心を奪われ、「日本では全国民が美的感覚を持ち、庭園の庵や置き物・日常用品、枝に止まる小鳥にも《美》を見出し、最下層の労働者さえ山水を愛(め)で花を摘む」と記した。
彼は、古美術品の収集や研究を始めると同時に、鑑定法を習得し、全国の古寺を旅した。
 やがて、彼はショックを受ける。日本人が日本美術を大切にしていないことに。

明治維新後の日本は、盲目的に西洋文明を崇拝し、日本人が考える《芸術》は海外の絵画や彫刻であり、日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受けていた。
東州斎写楽、葛飾北斎、喜多川歌麿の名画に、日本人は芸術的価値があると思っておらず、狩野派・土佐派と言ったかっての日本画壇の代表流派は世間からすっかり忘れ去られていた。

 特に、最悪だったのが仏像・仏画。
明治天皇や神道に《権威》を与えるために、仏教に関するものは政府の圧力によって、タダ同然で破棄された。また、全国の大寺院は寺領を没収されて、一気に経済的危機に陥り、生活のために寺宝を叩き売るほど追い詰められていた。
  【廃仏毀釈】(はいぶつきしゃく):
日本人の手で、日本文化を破壊した最悪の愚行。
1868年(慶応4年:明治元年)、明治維新の直後に神仏分離令(3月13日)が発布され、各地の寺院、仏像が次々と破壊された。(廃仏毀釈運動が起こる)
約8年間も弾圧が続き、全国に10万以上もあった寺院は半数が取り壊され、数え切れぬほどの貴重な文化財が失われた。

フェノロサは、寺院や仏像が破壊されていることに強い衝撃を受け、日本美術の保護に立ち上がった。自らの文化を低く評価する日本人に対し、如何に素晴しいかを事あるごとに熱弁した。

2.「日本美術界の巨人」:岡倉天心:本名 覚三
(1862~1913年)

近代日本を代表する文明批評家・美術史家で、1862年(文久2年)横浜:貿易商の家に生まれた。
幼少から英語を学び、東京大学入学後に、教師のフェノロサの通訳を務めるほど堪能だった。
卒業後、1880年(明治13年)18歳:文部省に勤務、フェノロサらとともに奈良・京都の古社寺を調査し、美術学校の設立に尽力するなど、明治政府の美術文化行政の確立に目覚
しい功績を上げ、1889年(明治22年)27歳の若さで帝国博物館(現在の東京国立博物館)理事兼美術部長となり、翌1890年(明治23年)28歳で東京美術学校(現在の東京藝術大学)の2代目校長となった。

 しかし、彼の指導方針に反発する派との対立から、1898年(明治31年)36歳:に帝国博物館、東京美術学校を相次いで排斥され辞職し、橋本雅邦・横山大観・下村観山らと日本美術院(「本邦美術の特性に基づき、その維持開発を図る」ことを目的として創設された民間団体)を創立し、野に下った。

 以後、岡倉天心は、1901年(明治34年)インドで詩人ラビンドラナート・タゴール(1913年、アジア人として初のノーベル文学賞を受賞。1861~1941年)の一族と親交を結び、インド独立運動の青年たちに影響を及ぼす一方、1910年(明治43年)アメリカのボストン美術館中国日本部長となる。

英文著書『東洋の理想』(The ideals of the East:1903年 ロンドンで刊行。 冒頭に掲げられた《Asia is one.》[アジアは一つである]の言葉は、天心の思想を語る上で欠かせない。) 『日本の覚醒』(The Awakening of Japan:1904年 ニューヨークで刊行) 『茶の本』(The Book of Tea:1906年 ニューヨークで刊行。)を出版するなど、国際的に活躍の場を広げた。


3.ボストン美術館
アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン市にある、世界有数の規模を持つ美術館である。

 ボストン美術館は、1870年(明治3年)地元の有志によって設立され、アメリカ独立百周年にあたる1876年(明治9年)に開館した。王室コレクションや大富豪のコレクションが下になった美術館とことなり、ゼロからのスタートし、民間の組織でして運営されてきたと言う点、ニューヨークのメトロポリタン美術館と類似している。所蔵品は50万点を数え、「古代」、「ヨーロッパ」、「アジア・オセアニア・アフリカ」、「アメリカ」、「現代」、「版画・素描・写真」、「染織・衣装」および「楽器」の8部門に分かれる。
エジプト美術、フランス印象派画家などが充実している。

 ボストン美術館は、仏画、絵巻、浮世絵、刀剣など日本美術の優品を多数所蔵し、日本との関係が深いことでも知られる。エドワード・シルヴェスター・モース、アーネスト・フェノロサ、ウィイリアム・スタージス・ビゲローなどの収集品が多く所蔵されている。
20世紀の始めには、岡倉天心が在職しており(1904年:ボストン美術館へ入り、1910年には東洋美術部長となった。)、敷地内には彼の名を冠した小さな日本庭園「天心園」が設けられている。
*なお、このボストン美術館所蔵の肉筆浮世絵展「江戸の誘惑」
が、既に《神戸展》4月15日(土)~5月28日(日)神戸
市立美術館、今現在は《名古屋展》として、6月17日(土)~8月27日(日)名古屋ボストン美術館、最後に10月21日(土)~12月10日(日)江戸東京博物館で開催され、かつ 開催中であり、予定されています。本展覧会は、明治時代にアメリカに渡って以来、一世紀ぶりの里帰りとなり、またとない機会です。 是非 ご高覧ください。

3.おわりに
フェノロサについて《貴重な日本美術を海外に流出させた》 と批判する意見がある。

 日本に残っていれば100%国宝指定を受けていた作品は、尾形光琳「松島図屏風」、雪舟「花鳥図屏風」、住吉慶恩「平治物語絵巻」、狩野永徳「龍虎図屏風」など。
しかし、どんな資格があって日本人が、彼を批判できるのか?流出させたのは日本人自身だ。
フェノロサは、日本人が気づかなかった《美》を日本画に見出し、価値が判るから購入したのであり、彼が集めた2万点の美術品は、ボストン美術館が大切に所蔵・展示している。

 日本人は、自らの手で仏像を破壊し、古寺を廃材にした。
寺宝や浮世絵が古美術商の店頭に並んでいても買わなかったし、誰も美術品と思わず欲しなかった。
そんな自分たちのことを棚に上げて、フェノロサを非難するなんてチョット酷過ぎる。
来日した医師ビゲローは書いている『維新後に、名品が大量に市場に出たのは、2つの原因による。 1つは、経済的に困窮した貴族層が値段の見境なく売りに出したこと、もう1つは、日本人の間に極端な外国崇拝があること。』
フェノロサも天心に呟く『日本人が売るから買い求めるのですが、本当に勿体無いことです。………』
フェノロサは、日本の美術や文化を単なる酔狂やポーズで好んでいたのではなく、本気で愛していた。
能楽を習い、茶室に滞在し、改宗して仏教徒にまでなった。日本美術への眼識の高さは、名匠さえ唸らせるものであり、日本美術界の未来まで考えて、東京美術学校のために奔走するなど、その愛情の注ぎ方は、極めて熱く誠実なものだった。そして、フェノロサは日本政府に美術品を収蔵する施設として帝国博物館の設立を訴え、西洋一辺倒の日本人に『日本美術の素晴しさに気づいて欲しい。』と心から願って活動・行動をした。その行動の核に、純粋さがあったからこそ、あの頑固者の芳崖でさえ、彼を受け入れた。岡倉天心との古寺調査は、国宝誕生のきっかけとなったし、海外に日本美術の魅力を紹介することで、日本の国際的地位をも高めてくれた。

だから、フェノロサは日本美術にとって、強いては日本国の恩人と断言できるのである!!

以 上

参考文献:
ミネルヴァ書房「狩野芳崖・高橋由一 ― 日本画も西洋画も帰する処は同一の処」より
NHKブックス「油絵を解剖する―修復から見た日本洋画史」より
新潮日本美術文庫「高橋由一」より
河出書房新社「日本美術の恩人」影の部分 ― フェノロサより
小学館「明治時代館」より
ぎょうせい「名画の秘密 ― 日本画を楽しむ」より
東京大学出版会「日本美術の歴史 ― 縄文からマンガ・アニメまで」より
集英社「日本近代の出発」(日本の歴史NO.17)より
フリー百科事典『ウィキペディア』より 
他文献多数


【事務局の感想】
矢澤さんに発表していただいたのは、ついこの間と思っておりましたが、ぬりえ美術館での発表でしたので、もう2年前のことでした。矢澤さんの美術好きは、お持ちの資料からもよく分かりますが、ずっと続けて絵を見続けていることが感じられます。その矢澤さんの関心のテーマを、私たちも継続して発表を聞くことで、内容を深めることができるので、大変ありがたいと思っています。今後も、次の時代の発表を期待しておりますので、よろしくお願いいたします。

投稿者 staff : 2006年07月02日 11:35

コメント

コメントしてください




保存しますか?