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2009年04月28日

山梨県・北杜市に鉄舟を訪ねる

2009年4月19日
山梨県・北杜市に鉄舟を訪ねる

去る4月19日、山梨県に行ってまいりました。
向かった先は、山梨県北杜市。ここに鉄舟の書があるとのことで、山本会長と馳せ参じました。

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新宿から約2時間。JR中央本線・長坂の駅を降り、まず向かったのは、北杜市白州(はくしゅう)町。甲州街道の宿場町で、今も街道の風情を残すところです。ここに「山梨銘醸株式会社」という酒蔵があり、そこに向かったのです。

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山梨銘醸株式会社

山梨銘醸は、創業300年というとても歴史のある造り酒屋です。
江戸時代には白州宿の本陣も兼ねていたそうです。
ここに、鉄舟の書があるという噂を聞きつけ、やってきました。

長坂駅からタクシーで約15分。山梨銘醸の前に降り立つと、立派な店構えの建物が目に入ります。大きな杉玉に「七賢」の看板。どれも大きくて立派です。
中に入るともろみのいい香りがします。酒蔵の香りです。
入るとすぐ、「行在所(あんざいしょ)ご案内時間」の看板が目に入りました。訪問客のために行在所を案内してくれるようです。

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山梨銘醸の座敷

説明が遅れました。
山梨銘醸には、明治13年、明治天皇ご巡幸の折、母屋の奥座敷を行在所(仮の御所の意)としてお使いになったのだそうです。そのとき、鉄舟は先んじて巡幸ルートを回ったので、書はそのとき書いたものかもしれませんね。

さっそく行在所である奥の座敷に。
この座敷はつい最近まで酒蔵のご主人が生活されていたのだそうです。とても天井が高く、立派な梁が縦横に組まれています。
次の間に入ると、いきなり鉄舟の書が目に飛び込んできました。
高さ一間あまりの大きさの屏風です。感動!

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座敷にあった鉄舟書の屏風

屏風は全部で3幅。落款が「鐵舟高歩書」とあるように読み取れます。
明治13年といえば、鉄舟は45歳。3月に大悟したとされる年です。この山梨巡幸は6月ですので、大悟の3ヵ月後ということになります。

 
 
 
(上の写真はクリックすると拡大します)

明治天皇の賜り品そっちのけで鉄舟の書ばかりじろじろ見て案内の方に不思議がられながらも、鉄舟の豪快な筆の跡を心に焼き付けようとじーっと眺めておりました。
我々は山岡鉄舟研究会で、鉄舟の書があることを聞きやってきたことや、鉄舟の功績などを逆案内しました。
あとで案内の方が「そんなお方の大層なものをこんなところに放置していたんじゃ罰が当たるかしら」などとおっしゃっていましたが、訪れる皆さんに気軽に見ていただけるようにしていることこそ、大事なことなのではないかと思います。
その意味で、ここは素晴らしいです。

「これらの書の読み方はお分かりになりますか?」と質問してみました。
係の方は何度も尋ねられているらしく、「ごめんなさいわからないんですよ」と即答。しかし、「そういえば昔、いらっしゃったお客様が訳してくださったものがありますよ」と、ひとつの屏風の裏側を指し示されました。

 
(上の写真はクリックすると拡大します)

何だかわからないが、素晴らしい。
実に貧弱な鑑賞の仕方で大変恐縮ですが、書から溢れんばかりの勢いとパワーを鑑賞することが、鉄舟の書の鑑賞方法だと独り決めしている次第です。
いつか読めるようになりましたら、ご報告申し上げます。


山梨銘醸は、「七賢」というブランドのお酒を造っています。現在の当主は12代目だそうです。
店の入り口に利き酒コーナーがあり、喜んで利かせていただきました。
私には少々甘口でしたが、とても美味しかったです。

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次に訪れたのが、「長坂郷土資料館」。
ここは、美しい山々と田園に忽然と建てられたとても立派な建物でした。
ここの学芸員、大庭様を訪問いたしました。

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長坂郷土資料館内部と富岡敬明展

このとき、館では「富岡敬明展」を行っておられました。
富岡敬明は、山梨県最初の権参事(副知事)で、晩年この地域の文化活動、文人育成に貢献した人物です。
富岡敬明はもともと佐賀の人です。地租改正実施の際、農民の暴動が起きたのを鎮めるため派遣されてきました。そのとき、どうも鉄舟が関係しているようなのです。鉄舟は伊万里県(佐賀県)権令の任に少しの間就いていましたが、そのとき知り合っていたようです。山梨県への役人派遣の際、鉄舟が富岡敬明を推薦したといわれているそうです。
学芸員の大庭様は、「文人」についての研究をご専門とされているそうです。これは一度当会でご発表いただきたいものです。その後、山本会長の熱心な説得がしばし続きました。大庭様、近いうちにご発表よろしくお願いします。

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学芸員の大庭様(左)と山本会長

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それにしましてもここ、山梨県北杜市・長坂の地はとても素晴らしい景色の地でした。
四方を雄大な山々に囲まれ、なだらかな田園風景に点在する家々がなんとものどかです。時の流れ方が違うようです。
江戸情緒を残す造り酒屋で鉄舟に触れ、南アルプスを頂く雄大でのどかな風景に心癒された、今回の鉄舟を訪ねる旅でした。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 18:06 | コメント (1)

2009年04月27日

2009年4月例会の感想

山岡鉄舟研究会 例会報告
2009年4月15日(水)
特別例会「ジョン万次郎講演会」
講師:中濱武彦氏

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今回は特別例会として、『ジョン万次郎講演会』を行いました。
講師はジョン万次郎の直径の曾孫でいらっしゃいます、中濱武彦氏です。
山岡鉄舟と同時代に生き、維新に大きな影響を与えたジョン万次郎について、中濱氏からお身内ならではのエピソードも交え、その人間像に迫っていただきました。

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講師の中濱武彦氏

当日は大変多くの皆様がご参加くださいました。ありがとうございました。
中濱氏は、万次郎の漂流から帰国、そして、欧米列強との外交交渉において万次郎が果たした重要な役割についてお話しくださいました。


万次郎は幼少期、とても活発な男の子だったそうです。
もう少し正確に申しますと、創意工夫を凝らす利発な子どもだったのですが、まわりの大人からはやんちゃと誤解されることがあったようです。
その万次郎が、日本の変革期を支える大人物に成長するのです。このあたりは鉄舟に通じるものを感じます。では、なにゆえに万次郎はそのように成長し得たのでしょうか。
このことを、中濱氏は、メジャーリーグの松坂大輔氏のエピソードを交えて語られました。
松坂投手に記者が、アメリカに渡って何が一番変わりましたか?という質問をしたとき、松坂投手は「自分が日本人であることを知った」と答えたそうです。
自分の一挙手一投足が、すべて日本の代表として見られている。否応なくそれを認識させられた松坂投手は、自然と背筋がピンと張り、自分は日本の代表として振る舞うようになったのだそうです。
期せずして日本から世界の荒波に飛び出した万次郎は、そこで自分が日本人であるということを初めて認識したのではないでしょうか。万次郎がアメリカで過ごした数年間は、日本国の代表として見られ、そして自らも行動したことでしょう。それが、彼を大人物へと成長させた大きな原動力ではなかろうか、中濱氏はそう分析しておられます。

鉄舟も、境遇はまるで違いますが、私心を捨て自分自身を「公人」として、始終振る舞っていました。それは、『宇宙と人間』や他に遺した訓戒などからも読み取ることができます。

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幕末維新という大きな檜舞台の上で、己は何を演じるのか。時代が用意したシナリオに相応しい振る舞いができた人物が、傑人として名を残すことができるのではないでしょうか。その意味で、私たちは彼らから大いに学ばねばならないと強く感じた講演会でした。
中濱様、貴重なお話を賜り、誠にありがとうございました。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 11:08 | コメント (0)

2009年04月16日

2009年5月例会のご案内

春本番となりました。いかがお過ごしでしょうか。
山岡鉄舟研究会・5月の例会をお知らせいたします。

日 時:2009年5月20日(水) 午後6:30〜8:00
場 所:東京文化会館 中会議室1
参加費:1,500円
発 表:「鉄舟研究発表」山岡鉄舟研究家・山本紀久雄会長

皆さまのご参加をお待ちしております。
初めてのご参加も大歓迎です。

>>>参加お申し込みはコチラ!

投稿者 lefthand : 09:48 | コメント (1)

2009年04月13日

尊王攘夷・・清河八郎編その一

尊王攘夷・・清河八郎編その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

尊王攘夷論が日本国中に跋扈したのは、嘉永六年(1853)から明治維新(68)が成立するまでの十五年間であり、その後はピタッと消え失せたのであるが、この尊王攘夷の風雲の始まりは「清河八郎の九州遊説から開幕したといってよい」と述べるのは司馬遼太郎である。(幕末・奇妙なり八郎 文春文庫)

さらに、司馬遼太郎は同書で「幕閣老から八郎奇妙なり」と評せられたと述べ、清河が天子に上書したことをもって「奮怒せよ、と無位無官の浪人のくせに天子まで煽動した幕末の志士は、おそらく清河八郎をおいていないだろう」と書いている。

この点を突いて評論家の佐高信は「言葉尻をとらえるようだが、私は『無位無官の浪人』を賛辞としてしか使わない。私自身もその一人であることを誇りに思っている。ものかきは本来そういうものだと思うが、司馬は違うようである」と批判した。(山岡鉄舟 小島英煕著 日本経済新聞社)

清河八郎を主題に取り上げたものに「回天の門」(藤沢周平著 文春文庫)があり、この中で同郷の想いもこめて藤沢周平は次のように語っている。

「清河八郎は、かなり誤解されているひとだと思う。山師、策士あるいは出世主義者といった呼び方まであるが、この呼称には誇張と曲解があると考える。

おそらく幕臣の山岡鉄舟や高橋泥舟などと親しく交際しながら、一方で幕府に徴募させた浪士組を、一転して攘夷の党に染め変えて手中に握ったりしたことが、こうした誤解のもとになっていると思われる。
しかし、それが誤解だということは、八郎の足跡を丹念にたどれば、まもなく明らかになることである」と。

このように清河の評価は分かれるが、幕末の複雑化・混沌化した尊王攘夷の中、清河はどのような役割を果たしたのか。また、その果たすまでの経緯はどのようなものであったのか。それを今号と次号で追ってみたい。それが鉄舟の理解にもつながるからである。

山形新幹線の終点駅新庄から陸羽西線に乗り換え、三四十分で清川駅に着く。駅から歩くと十数分のところに一つの神社がある。清河神社である。鳥居近くに縁起が掲示されていて、これによると創立は昭和八年(1933)で、御祭神は「清河八郎正明公」、由緒沿革に「幕末の激動期に尊皇攘夷を唱え、天下に奔走し維新回天の先覺者として大義に殉じ、明治四十一年特使を以って正四位を贈られる」と書かれている。

清河は天保元年(1830)出羽(山形)庄内・清川村の酒造業斉藤家の長男として出生した。名前を斉藤元司といい、同家は大庄屋格で士分として十一人扶持を与えられている。

余談となるが、清河八郎が亡くなり、妹辰の息子正義が跡を継ぎ、正義は七男四女の子沢山で、四女栄の夫が作家の柴田錬三郎である。(山岡鉄舟 小島英煕著)

元司は七歳で祖父から孝経の素読を受け、ついで論語の素読も受け、十歳で鶴岡の母の実家から清水郡治の塾と伊達鴨蔵の塾に学ぶ。しかし、従順な子どもでなく、十三歳で退学し、清川に戻って関所の役人畑田安右エ門に師事したが、十四歳ごろから酒田の遊郭通いを始めるという早熟な子どもであった。

元司の性格は「ど不敵」であったと藤沢周平が「回天の門」で解説している。

「ど不敵とは、自我をおし立て、貫き通すためには、何者もおそれない性格のことである。その性格は、どのような権威も、平然と黙殺して、自分の主張を曲げないことでは、一種の勇気とみなされるものである。しかし半面自己を恃(たの)む気持が強すぎて、周囲の思惑をかえりみない点で、人には傲慢と受けとられがちな欠点を持つ。孤立的な性格だった」

元司の頭脳は明敏で、師の畑田安右エ門を驚かせたが、この頃、斉藤家に藤本鉄石が立ち寄り、長逗留することになった。

藤本鉄石(1816-63)とは岡山藩士、脱藩して長沼流軍学を学び、一刀新流の免許を受け、諸国を遊歴し、私塾を伏見に開き、文久二年(1862)に真木和泉ら尊攘派と倒幕を計画、翌年天誅組を組織し挙兵したが惨敗、和歌山藩陣営に斬りこんで戦死した人物であって、鉄舟とも後日縁が生じた人物である。

その縁とは飛騨高山時代の鉄舟が、嘉永三年(1850)十五歳の時、父の代参で異母兄の鶴次郎(小野古風)とお伊勢参りに出発したが、その旅の途中で鉄石と出会い、林子平(1738-93)「海国兵談」の写本を借り写し終え、海外情勢を説いてくれた人物であった。

その鉄石が弘化三年(1846)、元司が十七歳のときに斉藤家に滞在したのである。鉄石が鉄舟と出会う四年前である。元司も鉄石から大きな影響を受けた。それはアヘン戦争のことであり、世界には大国の清を簡単に打ち負かす力を持った国々があるという国際情勢であり、長沼流軍学・一刀新流の免許を持つという文武二道の鉄石の生き方であった。

これらの影響もあって、江戸遊学の願いをもち、父に申し出たが、当然ながら跡取りであることから激しく叱られ、とうとう十八歳で家出をして江戸に向った。

元司はいいにつけ、悪いにつけ徹底しなければやめない性格であり、自分自身が押し流されるまでもの集中力をみせ、それが学問にも、遊蕩にもあらわれるのだが、鉄石から広い世界を知った結果は、江戸へという家出になったのである。

江戸で神田お玉が池の儒者、東条一堂塾に入門する頃になって、ようやく事後承諾という形で遊学を認められ、故郷から訪ねてきた伯父たちと一緒に旅に出た。京都、大坂から中国路を岩国まで行き、四国の金毘羅参りし、奈良、伊勢を回った。元司はその後も全国各地を歩き回ることになるが、その最初の旅であった。

最初の江戸遊学中に、斉藤家の跡継ぎを予定した弟の熊次郎が突然に病死となり、帰郷を余儀なくされ、しばらく家業を手伝うことになったが、ここでまたもや放蕩の虫が騒ぎ始め、酒田の遊郭通いが激しさを増し、それがゆきつくところまでいくと、突然の如く、再び学問への望みを志し、父から三年間の許しを得て、今度は京都に向った。だが、京都では良師に巡り会えず、九州の旅に出た。

九州では小倉から佐賀へ、長崎でオランダ船を見物し、オランダ商館に入って異人を近くに見るという経験を踏み、島原、熊本、別府、中津を経て小倉から江戸に戻ったのである。

江戸では、東条一堂塾に入りなおし、東条塾と隣り合わせの玄武館千葉周作道場に入門した。当時、江戸で有名な剣術道場としては、北辰一刀流・千葉周作の玄武館、鏡新明智流・桃井春蔵の士学館、神道無念流・斎藤弥九朗の練兵館、この三道場を称して江戸三大道場と称し「位は桃井、力は斎藤、技は千葉」と評されていた。これに心形刀流・伊庭軍兵衛の練武館を加え、四大道場という場合もある。
元司は二十二歳という当時の剣術修行としては晩学であったが、その分熱心に千葉道場で汗を流して東条塾に帰ると、深夜まで学問に励んだ。

その頃、元司はひそかに、諸国から英才が集まる、幕府の昌平黌に入りたいという気持ちを強く持ち始めた。昌平黌に入るためには、昌平黌の儒官をつとめる学者の私塾に入って推薦を受けなければならない決まりがある関係上、安積(あさか)良(ごん)斎(さい)塾に入った。また、千葉道場の初目録を受けることができ、これは通常三年掛かるところを一年で受けたもので、千葉周作から非凡との誉め言葉を貰うと共に、心中に江戸で文武二道を教授する塾を開けたら、という望みを浮かべたのであったが、ここで父と約束した三年という期間が過ぎ、故郷清川村に戻ったのである。

だが、嘉永六年(1853)のペリー来航から始まった幕末の複雑化・混沌化世情の中で、元司はまたもや江戸へという気持ちを抑えきれなくなり、父へ申し出、ペリーが再来航した安政元年(1854)に江戸に戻り、元司は二十五歳になっていたが、念願の昌平黌にはいることができた。

このときに斎藤元司から「清河八郎」に名前を変えている。清河とは、勿論、故郷清川村の地名をわが名としたのである。なお、この名前については神田三河町に私塾を開設したときに改めたという説もある。

しかし、氏名を改め、気持ちを新たに入った昌平黌は、清河にとって意外に収穫の少ない学問所だった。諸藩から集まった秀才たちは、あまり勉学に力を入れず、集まると天下国家を論ずるという風で、遊びも激しかった。清河はこの雰囲気に馴染めなかった。

さらに、昌平黌の講義そのものが期待するほどのレベルではないことに気づき、失望を味わい、再び東条塾に戻って、昌平黌は自然退学という形になり、東条塾を手伝う、つまり、通い門人に素読をさずけるということを行いながら、自分の中に何かが醸成し、形つくられていくのを感じた。それは、自分の塾を開くことであった。

故郷の父に相談し、開塾の許しを得ると、神田三河町に武家の貸地があったので、ここに建坪二十一坪の新築を行って「経学、文章指南、清河八郎」の看板を掲げた。安政元年十一月であった。

いざ開塾してみると、いたって評判がよく、清河を慕って昌平黌からも、東条塾からも転じてくるものがいて、賑やかな好スタートを切ったのであった。

この評判のよさは容易に推測がつく。当時の儒学者は書籍上の講義だけであったろう。ところが清河は違った。十八歳の家出から始まり、既に日本各地を回っており、長崎では異人オランダの状況も見聞きしたという実践行動は、清河の語り口に従来の儒学者を超えたものがあったはずである。

これは吉田松陰の松下村塾も同様である。松蔭と清河は同年である。松蔭は二十歳まで長州を出たことがなかったが、二十一歳のときの九州半年間の旅に続いて、江戸、東北、ついには安政元年三月、下田に停泊中の黒船に乗り込もうとするほどの行動力をみせた。松蔭の方針は「飛(ひ)耳(じ)長目(ちょうもく)」(遠方のことを見聞することができる耳や目)で「ただ情報を集めるだけでなく、行動せよ」と門下生に教示したことが、明治維新の志士達を育てたのである。

なお、松蔭の松下村塾開設は二十七歳であったが、清河塾は二十五歳での開設という早さであった。
だが、好事魔多しである。この塾は年末の二十九日に、神田三河町一帯を襲った火事で、あっけなく消滅してしまった。

これが今後の清河の姿を暗示する事件であったが、本人は不運とも思わず、父への金策願いも兼ねて故郷に戻ったのである。

戻ってみて、十八歳の家出から二十五歳までの七年間、両親に孝養を尽くさなかったことを悔やみ、母を連れて半年間、周防岩国まで旅をした。北陸から名古屋に出て、お伊勢参りをして、関西から四国、周防を回って江戸を経て戻る大旅行であった。

江戸滞在中、訪ねてくる友人・知人が皆、清河塾の再開を奨めるのを聞いた母は、自分の息子の出来映えを理解し、塾開設にむけて資金援助を申し出たので、早速に薬研掘に売家を見つけ手金を払って、三月二十日から続いた旅を終えるべく九月十日に清川村に戻った。

ここで読者の方々が、少々不思議な感じをもたれかもしれない。清河の旅の道程について詳しく述べたからである。清河は記録を詳細に記していた。鉄舟にはこのような記録はなく、それが研究者に苦労を強いるところだが、清河は違った。

なぜなら、清河は少年時代からよく日記を書き、それが現在でも「旦起私乗(たんきしじょう)」三冊、「私乗後編」三冊、「西遊紀事」一冊、計七冊が遺っていて、「旦起私乗」は生年より十七歳頃までの父母より聞いたこと、十八歳からは日録となっていて、清河八郎記念館に保管されている。また、「西遊紀事」は母を連れた旅の半年間の記録であるが、これが「西遊草」(清河八郎著 小山松勝一郎校注 岩波文庫)として出版されている。

もうひとつ大事な特徴は、清河の旅の多さである。この時代、基本的に目的のない旅は本来許されていなかったはずで、それは農民の離散を招く恐れから農業生産の低下をもたらすことに通じ、年貢の減少につながるからであった。商工業者にとっても同様であり、また、住所不定の輩が増えることは治安の問題を引き起こすことにつながるので、江戸では無宿人狩りが頻繁に行われていた。とにかく人の移動を自由にするということは、住所不定の人間を増やすことにつながるからである。

だから旅は本来難しいはずだが、清河が旅した回数は当時としては異常に多い。例外的であろう。松陰も旅をしたが、松蔭は武士であった。清河は士分とはいえ出自が異なる。その出自を埋め合わせるような旅の多さであり、その旅の記録を残すという勤勉な行為、その結果は清河の頭脳に各地の実態が刻み込まれ、それと学問と剣術が加わり、攪拌され、多分、清河は当時の最先端人間になっていたであろう。

つまり、時代の動きを体現していたのであり、それが、幕臣として動きの不自由な鉄舟や泥舟をとらえた真因であろう。次回も清河分析がつづく。

投稿者 Master : 11:40 | コメント (0)