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2004年12月26日

謎の人物、白井音次郎

1. 謎の人物白井音次郎

謎の人物白井音次郎とは「清水次郎長と明治維新 田口英爾著 新人物往来社」に書かれていたものである。
今までの資料にない新しい人物であるので、今回はこの人物についてこの本に基づいて紹介したい。
この本の中に、白井音次郎の子孫、愛媛県宇摩郡土居町の井出家に鉄舟の手紙があるといい、その手紙には次のように書かれている。

「駿府中ニ西郷氏出張ニ付、夫迄罷越候間、益満兄ヨリ篠原氏迄、貴兄御繰込之一書、相頼候間、都合宜敷出来候ハバ大急ギ御出張奉願候、怱々
  三月八日
白井音次郎様  山岡鉄太郎
    急用
  
  この手紙の内容と意味について検討してみたい。

2. 白井音次郎は徳川慶喜の家臣だった

「清水港開港100年史」の編纂携わった著者の田口氏が大正6年発行「清水町沿革誌」から「明治8年に白井音次郎に港の一部31,000坪の土地を払い下げ受け、価格は60円であった」という内容を見つけたのである。明治初年と今の物価価格を比較して、仮に2万倍とすると「60円」というのは「120万円」となる。坪当たり約40円となり、いくらなんでも安過ぎる。この払い下げと価格に対して地元民は県庁に異議申し立てしたが「徳川家のことであるから」という理由で説得され、やむなく引き下がったという事情も書かれている。つまり、慶喜の家臣だったのである。

3. 白井音次郎は港造りのために土地提供ここに次郎長の末廣が開業された

白井音次郎が払い下げされた土地というのは、清水港の心臓部や市役所の周辺がすっぽり入る中心地に当る重要場所であった。
外海港とすべく波止場の造成をする必要上、白井音次郎の土地を提供受ける必要があって、その交渉を白井音次郎と行った。白井は協力的であり、所有地のうち、繋船場に必要な5400坪の土地を提供した。
この土地の一部に次郎長が晩年の住居ともした船宿「末廣」が明治19年に開業したのである。

4.鉄舟から白井音次郎に宛てた手紙の意味
   
1項で記載した鉄舟から白井音次郎に宛てた手紙の意味は何を示すか。日付は3月8日である。2日前に海舟の手紙を持って江戸を出ている。海舟のすすめで、鉄舟は薩摩藩士益満休之助を随行させた。品川宿を通過して六郷川を渡ると官軍先鋒部隊が布陣している。隊長は薩摩藩士篠原国幹だ。鉄舟は「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、大総督府へまかり通る」と大声で怒鳴り通り過ぎた。
   ここで1項の手紙を再確認してみたい。「益満兄ヨリ篠原氏迄、貴兄御繰込之一書」とある。これは益満が篠原に宛てた手紙を、白井音次郎が送り届けたことを示唆している。鉄舟の行動が阻止されないよう、白井音次郎が先回りして工作したのだ。そうでなければ「朝敵徳川慶喜家来」と名乗っているのに咎めないはずはない。
   この手紙は白井音次郎の子孫である井出家に秘蔵されたままになっていて、歴史の表舞台に出ることがなかった。
   江戸から駿府まで官軍陣営を強行突破した鉄舟の背後には、白井音次郎の工作が見え隠れしている。白井音次郎は慶喜のお庭番、すなわち隠密だったらしい。

以上が田口英璽著から引用した内容である。これが事実とすると鉄舟の行動の背景を解明する糸口になると思われる。
但し、この見解は白井音次郎の子孫である井出家にある鉄舟の手紙が本物であるかどうかにかかっている。この確認をしてから田口氏の見解について再検討してみたいが、このようなことはあっても不思議でなく、当時の背景を探る重要な資料と思えるので今回採り上げてみた。

皆様のご意見をお待ちしております。

投稿者 Master : 21:13 | コメント (1)