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2006年12月23日

第三回山岡鉄舟全国フォーラム 記録

■山本紀久雄氏

「鉄舟という人物像」

 1853年から15年経った明治維新の時代についてお話します。鉄舟についてご説明申し上げますが、抹香臭い話しと思われると困るので、別の話しから。

小泉チルドレンが誕生したとき、初めて国会議員になった者たちを自民党は毎月1回教育した。どのように教育したかというと、職業が変わり、今後どういう気持ちで仕事をしなければならないかを『西郷南洲遺訓』より語った。

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」これは西郷隆盛が鉄舟と会ったときに、こういう人間がいたのか!と驚いて書いた言葉。

小泉チルドレンに、なってほしい人物像として挙がったのが山岡鉄舟だった。鉄舟が今や最先端の人物であることを言いたかった。

鉄舟は、西郷隆盛から、江戸無血開城を決めた駿府での交渉を評価された。徳川家をつぶし、慶喜を殺すと戦争を仕掛けた西郷側に対し、幕府側の要求は、徳川家を残し、慶喜を生かしたい。
互いの要求の交渉に鉄舟が、西郷隆盛が出てきた。損得勘定と人間の感情がぶつかり合う交渉の中、人間の波動によって乗り越えられるかが交渉力。
西郷隆盛は鉄舟の言うことに納得して、徳川家を残したということは、感情が損得勘定を乗り越えたということ。

百俵二人扶持の下級武士である鉄舟が、将軍徳川慶喜から交渉の命令を受けた。当時、慶喜は江戸城を出ていた。大将が城を出ることは降服をしている意味だが、官軍は品川まで攻めて来ていた。官軍が居る中で、どのように交渉の地である駿府に入って行ったのか。鉄舟を助けた人物について、若杉氏からしていただきます。


【若杉昌敬氏より】
静岡県由比に薩埵峠というところがあり、そこに山岡鉄舟を官軍から助けた藤屋望嶽亭があり、現在松永さだよさんという方が守っている。

望嶽亭20代当主の松永七郎平と妻・かくさんが、鉄舟を匿い漁師の格好で逃がした。そのときに鉄舟が置いていったピストルというものが現存している。
フランス製の10連式ピストルで、フランスの鑑定書もある。

人斬り以蔵が持っていたピストルが坂本竜馬記念館に飾ってあった。勝海舟が持っていて、海舟からもらったと思われるフランス製のピストル。

望嶽亭にあるピストルは、ナポレオン三世からフランス公使ロッシュを経て徳川慶喜の手にわたった。謹慎している慶喜からの使者である証として鉄舟に渡されたのだろう。フランスの鑑定書があり、10連式、製造年1850年~1860年。作られた国がフランス。推定価格2000フラン。28センチ、900グラム。日銀で確認したところ明治34年の相場が1フラン0.394円。物価は当時から1418倍になっている。現在は111万7000円くらいの値段。
残っていた弾は危ないので、海に捨ててしまったそうだ。

 *  *  *  *  *  *  *  *   * (若杉氏の話、終了)

駿府に行って、西郷隆盛を説得したので、江戸の総攻撃はなく、無事明治維新が開いた。鉄舟は明治維新の基礎を作った人である。

剣の達人である鉄舟がピストルを持つ、ということに疑問を感じた。駿府で西郷隆盛にあったときは持っていなかった。
坂本竜馬もピストルを持っており、伏見の料亭で役人に囲まれたとき、刀とピストルで応戦した。鉄舟のピストルは竜馬のような護身用と同じピストルではないと思う。
薩長軍は徳川家を潰そうと思っていたが、慶喜が一瞬早く、政治権力を大政奉還してしまった。薩長軍は攻める理由がなくなってしまったので、戦略の建て直し考えていた。志士たちは、各地に飛ぶが、京都に岩倉具視を残した。そのとき大久保利通が京に残る岩倉具視に「動揺するな」の意味でピストルを渡した。
鉄舟の持つピストルは、慶喜が私の身代わりとして持って行ってほしいという意味で渡したピストルであると解釈した。
1. 幕末三舟が共通に目指したもの
幕末三舟=勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟
頭山満さんが『幕末三舟伝』という本を書いている。
勝海舟は軍艦、政治の中心、泥舟は槍の泥舟で有名。鉄舟は駿府に行くまで誰も知らなかった。

ロシアとの戦争に勝ち、日本を振り返ったときに、今一度困難を乗り切ったことを考えたときに反省とも確認とも思えるように研究をはじめた。
昭和3年、『戊辰物語』で三舟のことがかかれ、昭和5年に『幕末三舟伝』が書かれた。3人は何をしたかというと、徳川幕府は戦わないようにしようと言った。権力は持たず、自らの考え方を活動したこと。したがって、天皇を中心にした日本を作る意識だけだった。

フセイン政権が倒されたイラクは今、内戦状態。三舟が活躍しなかったらイラクのような危険がこの日本にもあったかもしれない。


2. 鉄舟を歴史の舞台に登場させたのは海舟か、泥舟か

アメリカが来航して、日本は外国から価値観の変更を余儀なくされた。
勝海舟、高橋泥舟のどちらが慶喜に推薦したか意見が分かれている。勝海舟と鉄舟は一度も会ったことがなかった。当時鉄舟は暴れん坊で、海舟を殺しにくるのではないか、と警戒されていた。警戒している人間を慶喜に推薦するはずがないことから海舟説には無理がある。

泥舟は慶喜の護衛頭であり、槍を持って護衛していた。泥舟の出身は、山岡家で、山岡家には兄が居たので、40俵の高橋家に養子に行った。泥舟は40俵でありながら破格の出世をした。
当時の組織は足高、有能は人間を引き上げよう、地位についたら、○○石という給料が役についている間にもらえる。
高橋泥舟は、槍と人格に優れており、慶喜が信頼していた泥舟が駿府への交渉役に鉄舟を推薦した。

3. 海舟に発した「臨機応変」

官軍が充満している中どうするか?と海舟に聞かれて、鉄舟は臨機応変にやると言った。鉄舟の言う「臨機応変」は、いいかげんな意味の「適当」ではない。
普通の人は前から計画するだろうが、それは網を張って鳥を取るようなもので、相手は用意しているので捕まる。作戦計画がないまま物事をやる、計画なくてもできる人間であるべきといっている。
33歳のときの発言だが、研究すると23歳のときに「心胆練磨之事」というメモ書きを残している。庭の草を食べつくすほどの貧乏の中でも、考えをメモし、それを紙に整理していた。その整理した中に、本当に肝が据わっているということは、変化に応じ決意してからやることはたいしたことではない。常に生きていることと死との間に、自分の思念を会得する。生と死は一つに帰着する、そのために修行していくと23歳のときに文章にしている。

その結果、勝海舟から訊かれたときに臨機応変にやると答えた。


4. 明治天皇の扶育係り

明治天皇は15歳で即位された。それまでは京都御所奥深く女官に囲まれて過ごされていた。外国はロシア帝国、イギリス帝国、フランスはナポレオン三世、プロイセンドイツなど植民地を狙う大国があった。少年明治天皇にはしっかりしていただかないと日本国は危ない。明治天皇を教育するための学問の先生も多数居た。しかし腹がなければ英語ができても仕方ない。西郷隆盛が鉄舟の教育係りになってほしい、と鉄舟に頼んだ。

明治天皇20歳から30歳までの10年間、剣・禅・書の達人鉄舟はどのように教育したのか。明治天皇とお酒を飲んで、そのときに鉄舟が語ることばが明治天皇に染み込んで行ったのではないか。

5. 武士道完成までの系譜

「宇宙と人間」
安政5年、「宇宙」という言葉を武士が思いつくだろうか。図では天皇の下の公家・武士・僧侶・学者・農工商の層が同列で並んでいる。
天皇・幕府が居て、幕府の下に大名が居る封建社会の時代に、天皇の下の層は、全員公平である、と描いている。外国にも行ったことがないのに、民主主義的根幹思想を持っている。

15歳のときに「修身二十則」
23歳のときに「心胆練磨之事」「宇宙と人間」
24歳のときに「武士道」

明治天皇の写真(絵)を見比べると、素晴らしい人物に成長している。鉄舟が明治天皇を素晴らしい人物に育てた。

新渡戸稲造が『武士道』という本で、日本人の持っている精神を紹介した。誤解されないように英文で発表し、それは日本語に訳された。新渡戸稲造は侍ではない。鉄舟は侍。近々新渡戸稲造と鉄舟の武士道の違いを表にしてお渡したい。

泥舟は明治維新を機に、官職を断り世に出なかった。江戸時代まったく無名だった鉄舟は、明治維新を機に世に出てきた。

山岡鉄舟の武士道についてお伝えしていきたい。

一般的に考えられている考え方には3つのノウハウがあり、プラス思考、夢を明確にしてイメージする、ギブアップしないこと。

そういう手段や方法を超えたところに鉄舟が居た。

世界は矛盾である、普通はその矛盾をあきらめる。社会の矛盾を飲み込むのではなく、突き抜ける、矛盾に入り向こう側に行く。

鉄舟は我々とは別の境地に立っている。どうしてその境地に成れたかという解明はまだまだ続く。この研究成果を来年もお話したい。

来年は山岡鉄舟の武士道を世界に発表していきたいと思っている。

以上

投稿者 staff : 12:05 | コメント (0)

2006年12月21日

危機を救った「望嶽亭」

危機を救った「望嶽亭」
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

時代の変革とは、偉大な人物の登場によってなされ、それらの人物に共通しているのは時流を捉え、つかみ、編集し、行動できる力量を備えていることではないかと思う。
徳川幕府時代から明治への大変換時、その起点となった江戸無血会場、そこへ直接的に関わって成功させた人物は、西郷隆盛であり、勝海舟であり、山岡鉄舟であったが、この三人に共通していたことは、時流に適合した改革者としての要件を保持していたことであった。つまり、その時代のなかで、抜きんでる力量を備えていたのである。

では、その抜きんでていた力量とはどのようなものであったか。それを当時、お互いに相手を評価した記録から確認してみたい。ただし、鉄舟については、今後も本連載で人物像を詳細に評価・検討していくので、ここでは海舟と西郷、この二人についてお伝えしたい。

まず、海舟が西郷をどのように評価していたかである。
≪おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南州とだ。
横井は、西洋の事も別に沢山は知らず、おれが教えてやったくらゐだが、その思想の高調子な事は、おれなどは、とても梯子を掛けても、及ばぬと思った事がしばゝあったヨ。おれはひそかに思ったのサ。横井は、自分に仕事をする人ではないけれど、もし横井の言を用ゐる人が世の中にあったら、それこそ由々しき大事だと思ったのサ。
その後、西郷と面会したら、その意見や議論は、むしろおれの方が優るほどだッたけれども、いわゆる天下の大事を負担するものは、果たして西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ。
そこで、おれは幕府の閣老に向って、天下にこの二人があるから、その行末に注意なされと進言しておいたところが、その後、閣老はおれに、その方の眼鏡も大分間違った、横井は何かの申分で蟄居を申付けられ、また西郷は、漸く御用人の職であって、家老などいふ重き身分でないから、とても何事も出来まいといった。けれどもおれはなほ、横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはやそれまでだと心配して居たに、果たして西郷は出て来たワイ≫(『勝海舟全集・21・氷川清話』講談社)
また横井小楠の人となりを『氷川清話』の「注意書き」でこう言っている。
≪横井小楠は、西郷ほど有名ではないが、肥後出身の儒学者で、一時は越前藩に招かれて藩公の賓師となり、松平春嶽が文久二年に幕府の政治総裁職になったときは、その顧問格で幕政にあずかった。その年の暮、江戸で襲われて無腰で逃げるという事件があり、翌年、肥後藩に戻って士籍没収の処分を受ける。「横井は何かの申分で蟄居を申付けられ」とは、そのことを指す≫

海舟が「果たして西郷は出て来たワイ」と指摘した通り、西郷は幕府の前に東征軍大総督府参謀として登場し、立ちはだかってきた。海舟の人物観は正しかったのである。
その立ちはだかる西郷に、幕府は和平使者を幾人も差し向けたが、撥ねられ、受け入れられず、和平への道は閉ざされたかと思ったそのときに、突如として一介の旗本である鉄舟が時代の前面に登場し、決死の駿府駆けを成し遂げ、江戸薩摩屋敷における西郷・海舟会談につなげ、ここに近代日本の基点が成立したのである。
この明治新日本のスタート時に、海舟と西郷という人物が存在しなかったならば、別の展開になっていたと思われるほど、この二人の人物が果たした役割は偉大である。
つまり、日本の近代化がスタートした明治時代の幕開けというタイミングに、時の官軍に東征軍参謀として西郷が存在し、一方の幕府に海舟という時代の流れを国家的に編集できる人物がいたこと、それが明治維新を成功させた背景であった。
もう少し海舟の西郷評をみてみよう。
≪官軍が品川まで押し寄せて来て、今にも江戸城へ攻め入ろうといふ際に、西郷は、おれが出した僅か一本の手紙で、芝、田町の薩摩屋敷まで、のそゝ談判にやってくるとは、なかゝ今の人では出来ない事だ。
あの時の談判は、実に骨だったヨ。官軍に西郷が居なければ、談はとても纏まらなかっただろうヨ。その時分の形勢といへば、品川からは西郷などが来る。板橋からは伊地知などが来る。また江戸の市中では、今にも官軍が乗込むといって大騒ぎサ。しかし、おれはほかの官軍には頓着せず、たゞ西郷一人を眼においた≫(同上)
正に海舟が述べたとおり「たゞ西郷一人を眼においた」交渉作戦は、西郷という人物の偉大さを示し、時代が西郷を迎え、西郷によって新しい時代がつくられていくこと、それを海舟が知っていたことを示している。このように海舟が認識した西郷という人物は、当時の日本で際立つ力量の人物であった。

では、その際立った人物の西郷からみた海舟、それはどのような人物像であったのか。
西郷が海舟に初めて会ったのは、元治元年(1864)の9月11日。海舟が神戸の海軍操練所から老中の阿部豊後守に呼ばれて大坂まで出てきた際、旅館の一室に西郷が訪ねてきたときであった。
当時の政治的国家重大事件は第一次長州征伐であり、兵庫開港問題であった。このころの西郷は征長に非常に熱心で、幕府の戦争準備が手緩いのをはがゆがって、軍艦奉行の海舟の意見を問いただし、諸外国の兵庫開港要求についても海舟の意見を聞きに来たのであった。この西郷に対し海舟は、得意の相手の逆手をつく論法をもって、現状幕府の腐敗しきった内情を暴露し、雄藩の手で政治を一新しなければだめだと説いたのであった。これを聞いた西郷は、その結果の報告を含めた大久保一蔵へあてた手紙で、海舟を次のように語った。
≪勝氏へはじめて面会仕り候ところ、実におどろき入り候人物にて、最初は打叩くつもりにて差越し候ところ、とんと頭を下げ申し候。どれだけ知慧のあるやら知れぬ塩梅に見受け候。まづ英雄肌合の人にて、佐久間(象山)より事の出来候儀は、一層も越し候らはん。学問と見識とにおいては、佐久間抜群のことに御座候へども、現時に望み候ては、この勝先生を、ひどく惚れ候≫(『海舟余波』江藤淳著)
これは殆ど「べたほめ」といえる内容である。この手紙は大久保公爵家に保存されていたが、このとき西郷と同道して海舟に会った伯爵吉井友美(幸輔)が、明治20年ごろになって大久保家から入手し、明治天皇の天覧に供した。そのとき吉井が海舟にもそれを見せたところ、海舟は西郷の勝評を見て涙を流さんばかりに感激し、のちに側近にむかって、
≪あの手紙には感じたよ。勝は喰えない男だ、といふくらゐに思はれていたろうと思ったら、かくのごとく見てくれたことは真に感謝にたへない≫(同上)と言ったという。
これらの記録から分かることは、人物は人物をお互い評価し合っていることである。
なお、この大坂での会談は、結果的に西郷が持っていた幕府に対する考え方を、大きく変えるきっかけになった。西郷が考え方を変えたということは、薩摩藩の幕府に対する方針が変わったという重要な歴史的会談である。これについては次回に解説したい。
 
さて、主題を鉄舟に戻したい。鉄舟が駿府にたどり着き、西郷に会うこと、そのことこそが江戸無血開城へのターニングポイントであった。何故ならば、西郷はその独特の人物判定価値観により、たちどころに鉄舟の本質である「すべてを捨て去ることができる力量」に感服し、鉄舟の戦略目的であった「慶喜の生命安全」について、「吉之助が請け負う」という言質を鉄舟に与えたからだ。
では、どうやって鉄舟は駿府にたどりつけたのか。それを明らかにする一つの秘話がある。その秘話を語るのは、静岡県庵原郡由比町西倉沢「藤屋・望嶽亭」の松永家23代当主、故松永宝蔵氏の夫人である松永さだよさんである。望嶽亭に代々口承伝承されてきた内容、それは慶応4年(1868)3月7日深夜、藤屋・望嶽亭の玄関の大戸を密かに叩く一人の侍がいた、ということから始まる。以下は松永さだよさんが語り、それをまとめた「危機を救った藤屋・望嶽亭」(若杉昌敬編)からの要約抜粋である。

 慶応4年3月7日の深夜である。
 鉄舟は、「由比」倉沢の薩埵峠に差し掛かった。ここは五十三次の中でも難所中の難所といわれ、海岸沿いの道は、波にさらわれないで渡りきる潮時が難しく「親知らず子知らず」と呼ばれている。もう一方の山道は切り立った崖に沿って曲がりくねった細い峠越えの道であり、鉄舟はここを急ぎ足で登りだした。そのとき「止まれ!誰か!」と官軍の誰何。薩摩藩の益満休之助は、箱根で体調を崩して同行していない。如何に鉄舟といえども一人では官軍の中を突破できない。鉄舟は急いでもとの山道を引き返した。官軍は怪しいとみて鉄舟の背に鉄砲を撃ってくる。急坂を降り走って、薩埵峠の麓まで戻ると、そこは望嶽亭の前であった。
 「たのむ!たのむ!」「たのむ!たのむ!」「・・・・・・」
 官軍に悟れぬよう、押し殺した必死の声で大戸を叩く。ようやく望嶽亭の中で、大戸の近くに人が立つ気配がし、そーと戸を開けかかったその瞬間に、鉄舟がすべり込む。大戸を開けたのは望嶽亭20代松永七郎平の女房「かく」であった。 
 「駿府の大総督府に行かねばならぬ大事な身である。官軍に捕まるわけにはいかない。匿ってもらいたい」と低く重い声で、一途に頼み込む鉄舟をみた七郎平は「これは深い訳のある人だ」と瞬時に判断、母屋と切り離された15畳の蔵座敷に通し、厚く重い漆喰つくりの扉を閉めた。客間でもある蔵座敷で、改めて鉄舟から事の次第を聞いた七郎平は「それならば陸路は危ない。海路しかない」と、鉄舟を漁師姿に着替えさせ、船の手配と共に、清水の侠客次郎長に「この方は、大事なお方だから無事駿府の大総督府に届けてもらいたい」と手紙を書いた。

 表の通りに官軍の足音が迫ってきた。蔵座敷から海に抜ける階段を駆け降り、望嶽亭お抱え漁師の栄兵衛が待つ櫓舟に乗り込む。「栄兵衛、頼むぞ」の声と共に、艫(とも)を沖に向け押し出し、栄兵衛も満身の力を込めて水棹(みさお)を突き、引き潮に乗って江尻湊(現清水港)を目指した。無事、江尻湊に漕ぎ着き、鉄舟は栄兵衛の案内で次郎長のところへ向った。七郎平の手紙を読み終えた次郎長は「倉沢の望嶽亭・七郎平の頼みとありゃこの次郎長、命に懸けて守りやしょう」と子分に家の周りを警戒させ、鉄舟を座敷に上げる。翌3月8日、鉄舟は、はやる気持ちを抑えて次郎長宅で休息した。
いよいよ9日、鉄舟は次郎長と子分に守られ、清水から駿府の西郷が宿泊していた伝馬町・松崎屋源兵衛宅に向かい、そこで西郷と会見した。

以上が「危機を救った藤屋・望嶽亭」の粗筋であるが、実は望嶽亭20代の松永七郎平が鉄舟との対応に追われている間、女房「かく」は大変なことになっていた。
というのも、官軍が大戸を破れんばかりに叩き「官軍じゃ!早く開けろ」と叫び、開けた途端に「ここに武士が逃げ込んできたであろう」と跳びこんできたからであった。
官軍は、かくの頬に刀の鎬地(しのぎぢ)を当て「隠すと為にならんぞ」と厳しく問い詰めた。武家の出のかくは落ち着いて「お疑いでしたら、屋敷内をお探し下さい」と答える。「よし、くまなく探せ」という隊長の命で、布団部屋から納戸まで銃剣や刀で突き刺し探したが、鉄舟は既に海の上であったので見つからない。すると、官軍は「騒がしてすまなかった」と詫び、小判をおいて立ち去ったが、このときの出来事がかくの脳裏に深く刻まれ、以後、藤屋・望嶽亭に代々口承伝承されてきたのである。
この秘話について、歴史学者は記録がないという立場から認めていない。だが、今回、改めて23代当主夫人の松永さだよさんにインタビューし、これは真実ではないかと確信を持つに至った材料を確認した。これについては次回にお伝えしたい。

投稿者 Master : 10:57 | コメント (0)

2006年12月17日

07年1月の例会案内

今年も残すところ、僅かとなりました。今年も例会やイベントへのご参加ありがとうございました。又、Hpをご覧になってくださった方々にも感謝申し上げます。
来年も、研究を続けてまいりますので、ご支援、ご鞭撻の程よろしくお願いいたします。

1月の例会は、1月17日(水)に開催いたします。
発表者は、高橋育郎さんと山本さんです。
高橋さんは、今年も日本童謡協会新作展にて「森はふしぎな オルゴール」が発表されるなど、童謡の作詞、作曲を長年続けれら、童謡の会でご指導もされています。
今回は、高橋さんの音楽人生を振り返ってお話をしていただきます。
山本さんには、鉄舟研究を発表していただきます。

07年1月例会
日時:1月17日(水)
場所:東京文化会館 中会議室1
時間:午後6時30分~8時

参加のお申し込みは「例会参加申し込み」ページよりお申し込みください。
http://www.tessyuu.jp/reikai_sanka.htm


07年度も鉄舟・21・サロンへのご参加お待ち申し上げております。

どうぞ良いお年をお迎えください。

投稿者 Master : 17:22 | コメント (0)

2006年12月11日

第三回山岡鉄舟全国フォーラム 盛会の内に終了

12月10日(日)如水会館にて開催の、山岡鉄舟全国フォーラムは、70名近い参加者を迎え、熱心な質問も飛び交い、盛会のうちに無事終了いたしました。
来年は、10月6日(土)、7日(日)のいずれかに第四回山岡鉄舟全国フォーラムを開催する予定です。来年もご参加をお待ちしています。 

幕末・維新史では当代随一の北海道大学文学部の井上勝生教授による、「幕末・開国の頃の江戸」についての講演
研究者ならではの、歴史の史実の実証例を挙げていただきならが、当時の江戸や人々が物怖じせず、歓待するようにペリーらを迎えていたこと、またそのころの浦賀の景色の美しさにペリー一行が感嘆したことなどを講演していただきました。


今回も70名近い参加者の方が熱心に講演を聞いてくださいました。


若杉さんによる、藤屋望嶽亭に保存されている鉄舟のピストルの講演


山本鉄舟研究家の山本紀久雄氏の講演
鉄舟の人物の凄さは、どのようなことからそうなれたのかという講演をしながら、現在の海外資金は、幕末の黒船にたとえるなど、いつもながらの時流の話を加えながら、講演していただきました。


若杉さんのご発声で、懇親会を開始いたしました。どのテーブルも和やかに歓談されていました。

投稿者 Master : 19:08 | コメント (0)

2006年12月10日

第三回山岡鉄舟全国フォーラム2006(鉄舟全国大会)開催ご案内

第三回山岡鉄舟全国フォーラム2006(鉄舟全国大会)開催ご案内


明治時代において、当時の日本国民に最も敬愛され、尊敬された人物は山岡鉄舟 でした。
 その鉄舟像を研究し、当時と時代状況が変化し、今の世に生きる糧とするため、鉄舟から何を学び、何を取り入れていくか。そのことを今年も追及する全国フォーラム2006(鉄舟全国大会)を開催いたします。

今年の発表者は「幕末・維新史」の研究では当代随一と評価されている
   北海道大学文学部 井上勝生教授
     1945年生 京都大学文学部卒 
     主な著書「幕末維新政治史の研究」(塙書房)
         「開国と幕末変革」(講談社)
      
をお迎えしております。
 井上教授は、幕末時の日本を根底から動かしたのは「経済の上昇」であり、    「ロシアの動向」であると指摘し、この二つをつないでいる鍵は「アイヌ民族独自の営み」であるという思いがけない分析をされ、「江戸時代について」従来にみられ  ない新しい視点から論じます。
 鉄舟が活躍した幕末時の江戸時代、その実態を新鮮で鋭い角度から分かりやすく 解説していただけ、「眼からうろこ」間違いなしのお話と期待されます。

もう一人の発表者は、毎月の鉄舟・21・サロン例会講演でお馴染みの
   山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏
     1940年生 中央大学商学部卒
     鉄舟研究を月刊誌「ベルダ」に連載中

です。
 今回は、何故に 鉄舟が「最も敬愛され、尊敬された人物」になり得たかの背景  思想について、分かりやすくお話しいただくことにいたします。

 皆様から活発なご質問をお受けする時間も設けております。
 是非、皆様 お誘いの上、ご来場を心よりお待ちいたしております。

【日 時】平成18年12月10日(日)
     14:00〜18:00
【会 場】如水会館 コンファレンスルーム

     千代田区一ツ橋2-1-1
     TEL:03(3261)1101(代)
【交 通】
    ・地下鉄東西線 竹橋 1B出口 徒歩4分
    ・地下鉄半蔵門線・都営三田線・新宿線
     神保町 A8出口 徒歩3分

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【講 師】北海道大学文学部教授 井上勝生氏
     山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏
【参加費】2,500円
【開催要領】14:00~14:10  開会の挨拶
      14:10~16:00  井上勝生氏講演並びに質疑応答
      16:15~17:50  山本紀久雄氏講演並びに質疑応答
      17:50~18:00  閉会の挨拶
【懇親会】閉会後 18:15~19:45で、ご希望者による懇親会を予定しております。
如水会館内 テラス&パブ「マーキュリー」
会費は3,000円程度を予定しております。
井上勝生氏、山本紀久雄氏も同席いたしますので、ご都合がよろしい方ご参加をお待ちしています。
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【お申し込み・お問い合せ】
・ 下記の参加申込書にご記入の上、FAX等でお申し込みください。
・ 鉄舟サロンのホームページよりお申し込みいただくこともできます。
http://www.tessyuu.jp/reikai_sanka.htm
【事務局】鉄舟・21・サロン(ぬりえ美術館内) 荒川区町屋4-11-8
TEL:03-3892-5391 FAX:03-3892-5392

投稿者 lefthand : 14:00 | コメント (0)