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2009年02月26日

2009年3月例会のご案内

春の声が待ち遠しいこの季節、いかがお過ごしでしょうか。
山岡鉄舟研究会・3月の例会をお知らせいたします。

日 時:2009年3月18日(水) 午後6:30〜8:00
場 所:東京文化会館 中会議室1
参加費:1,500円

発 表:「鉄舟研究発表」山岡鉄舟研究家・山本紀久雄会長


皆さまのご参加をお待ちしております。
初めてのご参加も大歓迎です。

>>>参加お申し込みはコチラ!

投稿者 lefthand : 10:19 | コメント (0)

2009年02月24日

2009年2月例会報告 その2

山岡鉄舟研究会
2009年2月例会報告

山本紀久雄会長の研究発表です。
今回は、清河八郎暗殺の真相に迫ります。

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山本紀久雄会長

清河八郎はなぜ殺されねばならなかったのか。
その裏側には、必然とも言うべき情勢と、周到な計画があったのです。

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今回の発表報告は、山本会長の配付資料をもとに構成しています。
■印は山本会長の資料から抜粋したものです。

清河暗殺の周到な下準備

重要なのは、清河暗殺は、幕府が周到な下準備をしていたということでした。

■清河八郎は、文久三年(1863)4月13日の午後3時ごろ、江戸麻布の出羽三万石上山藩の上屋敷を退出し、一の橋を渡りきったところで暗殺された。佐々木只三郎以下の暗殺チームによってである。幕府はその翌朝には、残された浪士組の宿舎を取り囲むため、荘内、小田原等六藩の兵2,000名を動員した。この時を待つように周到な準備をしていた。

何故に京都から江戸に戻る中山道筋で斬れなかったのか

この部分は、従来の鉄舟関連の書籍ではほとんど語られていません。山本会長はいくつかの文献を紐解き、次の理由を挙げられました。

■理由その1
道中で清河を斬った場合、一緒に江戸まで戻りつつある清河を頭と仰ぐ仲間たちが、おとなしく帰順し、捕縛され、そのまま江戸に戻るとは考えられず、凄絶な死闘が繰り広げられることになり、幕府側もかなり傷を負うことになる。

■理由その2
清河を斬った後、残りの浪士組メンバーがどのような行動にでるか、それが向背不明であって、反乱ということも予想される。確実に相手を抑えつけ、反攻の戦意を失わせ、混乱を起こさないためには、通常相手の3倍から5倍の人数を要するだろう。

■理由その3
当時の諸藩における兵の動員力は、10万石大名でもせいぜい1,000人であった。家康から家光の戦国気分がさめやらぬ時代では、10万石大名で2,000名の兵を優に動員できたが、250年も続いた天下泰平の結果、各藩動員兵力は半減してしまっている。

■理由その4
浪士組に対応する兵力の動員には、一藩では無理で、数藩に依頼することになり、実際に兵士が動員されるまでには時間を要するであろうから、その間、騒乱は続き、かえって幕府の権威を落とすことにつながる。

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清河の暗殺を急いだ新たな背景

清河の暗殺は、一刻を争う火急の事態でした。それは、生麦事件で外国と大変微妙な交渉関係にあったこの時期に、火に油を注ぐ如き計画を、清河は立てていたからです。
これ以上外国との摩擦を生ずることは何としても避けなければならない。幕府にとっては緊急事態であったのでした。

■清河の狙う実行内容は「大挙して横浜に押し出し、市中に火をつけて、そのごたごたに乗じて、外国人を片っ端から斬りまくり、黒船は石油をかけて焼き払い、すぐに神奈川の本営を攻めて、軍資を奪い、厚木街道から、甲府城に入って、ここで、攘夷、しかも勤王の義軍を起こそうというのである」であった。

■これが実行されていたらどうなったか。結果を最小限に見積もっても、生麦事件の解決は賠償金支払いというレベルを超える。

横浜の外国人の対応(アーネスト・サトウ著「一外交官の見た明治維新」)

■「イギリスとフランスの代表から、攘夷派の横浜襲撃に対する防御策を講ずることを申し入れて、日本側の承諾を得た」と記されている。

■「この時分は、浪人という日本人の一種不可思議な階級がいだいている目的と意図について、よほど警戒すべきものがあった。この浪人というのは、大名へ仕官をせずに、当時の政治的な撹乱運動へととびこんできた両刀階級の者たちで、これらは二重の目的を有していた。その第一は、天皇を往古の地位に復帰させること、否むしろ、大君を大諸侯と同列まで引き下げること。第二は、神聖な日本の国土から『夷狄』を追い払うことであった。彼らは、主として日本の西南部の出身者であったが、東部の水戸からも輩出していたし、その他のあらゆる藩からも多少は出ていた。5月の末には、浪人が神奈川襲撃をたくらんでいるという風説があったので、神奈川にまだ居残っていたアメリカ人も何がしかの『騒動に対する補償金』をもらって、余儀なく住居を横浜に移さなければならなくなった」

■「6月の初めに、六人の浪人どもがこの土地に潜伏しているという情報があったので、別手組(江戸の公使館に護衛兵を出す団体)が、訓練された若干の部隊とともに横浜へやってきて、野毛山の下に新築された建物内に駐屯した。その時から1868年の革命(注:明治維新)のずっと後まで、われわれは断えず日本の兵士の厄介になっていた」

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幕府は清河の行動を熟知していた

■アーネスト・サトウがいう「5月の末」を、5月31日と考えれば、旧暦4月14日(庚寅)となり、同じく「6月の初め」を、6月1日と考えれば、旧暦4月15日(辛卯)となる。清河が横浜襲撃と予定したのは4月15日である。幕府は清河を危険人物として十分に監視していたからこそ、その動向について詳しく把握していたのである。

清河を正式に逮捕・勾留できず暗殺しなければならない理由

■それは朝廷からの達文である。
「イギリスからの三カ条の儀申し立て、いずれも聞き届け難き筋につき、そのむね応接におよび候間、すみやかに戦争に相成るべきことに候。よって、その方引き連れ候浪士ども、早々帰府いたし、江戸表において差図を受け、尽忠粉骨相勤め候よう致さるべく候」

■清河八郎という一介の素浪人は、この当時、幕府にとって国の行方を左右するほどの国際関係問題上の重要人物になっていた。

ゆえに、幕府にとっては、清河を暗殺せしむる以外には方法がなかったのです。
清河の暗殺は、必然性と周到な計画に裏打ちされた、避けられない事態であったのです。

清河の暗殺は、日本の政治情勢が攘夷から開国へと大きく舵を取っていく分岐点になったのではないでしょうか。

次回もお楽しみに。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 22:26 | コメント (0)

2009年2月例会報告 その1

2月の例会は、北村豊洋氏に、飛騨高山と鉄舟の思い出についてお話しいただきました。

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北村豊洋氏

来たる7月19日、鉄舟の法要会を高山で行うことが決まりましたので、高山とはどんなところか、また、高山で鉄舟はどのように想われているのだろうということを、高山で生まれ育たれた北村氏にお聞きしたいと思い、急遽お願いしたのでした。

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北村氏は飛騨高山に生まれ育たれました。そのため、小さい頃から鉄舟のことはご存じだったそうです。鉄舟のブレない生き方をご自身の仕事や生き方に活かしたいと願い、研鑽を重ね、鉄舟会にも参加されていらっしゃいます。

江戸時代、高山は天領でした。
その前の豊臣時代には、金森氏がこの地を治めていました。元禄5年(1692)出羽国上ノ山に転封となり、それ以後天領となります。天領ですから、江戸から代々、代官がやってきて治めることになり、その第21代代官が小野朝右衛門、すなわち鉄舟のお父さんだったわけです。
高山の人びとは、この江戸から来る代官にあまり馴染みを感じていなかったようです。今でも高山の人びとは金森氏を神様のように敬っているのだそうです。
高山は天領という、一種独特の統治形態であったため、街の有力商人である「旦那衆」が自治の実権を握っていたそうです。高山市郷土館には、旦那衆の様々な資料が展示されていました。

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高山市郷土館

高山の人びとにとって、江戸は「遠いところ」という印象なのだそうです。
高山はどちらかというと、京都の文化圏だそうで、方言も京都の言葉がまじっているのだそうです。高山は小京都と呼ばれ、街並も碁盤の目のように縦横に通っています。

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高山市の街並

江戸期、高山は貧しい地域であったといいます。米の収穫量が低く、庶民はかわりに京都や奈良の寺社建築に携わる、いわゆる労働奉仕をしていたのだそうです。これが、飛騨の匠となり、代々継承されてきたのだそうです。春(4月)と秋(10月)の高山祭には、絢爛豪華な山車が街を練り歩くそうですが、この山車も飛騨の匠の技の結晶であるのです。何でもうわさによると1台数億円はするそうです…。

飛騨の匠は家屋にも工夫を凝らしたそうです。
高山には江戸から代官がやってきてこの地を治めたのですが、言ってみればよそ者が土地を治めているのですから、なるべく表向きは質素な生活をしている風を装う伝統が息づいているようです。高山の町屋は、「前貧乏、後ろ豪華」の造りになっていて、通りに面した前側は軒も低く地味な造詣ですが、二階の奥座敷は一段高くなっており、豪華な造りになっているのだそうです。そういえば先日高山を訪問したとき、岩佐先生邸にお邪魔したのですが、中にはいるととても高い天井で、奥へ行くほど広くなっていました。

このように、高山天領における代官はよそ者的存在で、北村氏によれば代官自身も赴任期間を義務的に努めたのではなかろうか、と分析していらっしゃいます。
そんな中、幕末の弘化2年(1845)第21代代官の小野朝右衛門が、その家族を伴ってやってきたのです。

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高山陣屋の御座之間(左)。代官が執務した部屋
鉄舟の父母、小野朝右衛門と磯の墓(右)。宗猷寺境内

鉄舟の父である小野代官は、代々の代官の中でもかなり慕われたと、北村氏は語ります。そして、父に伴ってやってきた鉄太郎少年は、頭もよく、腕もたち、飛騨の自然豊かな風土でのびのびと育ったようです。飛騨の衆の気骨で一途なところにお互い感化され、引かれていったようです。これらのことは、地元の作家、江馬 修さんの『若き日の山岡鐵舟』(田中宗榮堂・1943)や、岩崎 栄さんの『山岡鉄舟 代官の児』(広池学園出版部・1968)などに描かれています。

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若き日の鉄太郎像(高山陣屋前)

『……高峻で、壮大で、しかも景色は柔いうるほひを缺(か)いではゐない。かゝる大いなる自然の美しさが、少年鐵太郎の純な、透明な魂に多くの力づよい影響を與(あた)へたらうことは容易に想像される。例へば國境に立ちつらなる崇高な飛騨山脈が彼の高潔な心情(こころ)と何ら觸(ふ)れるところがなかつたとは到底考へられない。彼は維新の風雲児となるべき荒々しい時代の子ではあつたが、少くとも年少で飛騨で暮らしてゐた頃には、また自然の子でもあつたらう。美しい飛騨よ、お前はこの清らかな、英雄的な魂を育てあげるのに役立つたことを誇つて良い!……』(『若き日の山岡鐵舟』江馬修・1943より)

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若き鉄舟が駆け回った飛騨高山の地は、鉄舟に清らかで雄大な心を育んでくれたことでしょう。
そんな高山で、7月19日、法要を行います。
北村氏にも地元へのお声掛けをお願いしております。
ご発表、ありがとうございました。
そして、法要へのお手伝い、よろしくお願いします。
読者の皆さんも、高山での法要会にご期待ください。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 22:16 | コメント (1)

2009年02月18日

ジョン万次郎講演会を開催します

日本の開国はジョン万次郎によってなされた
・・・・・曾孫が語るジョン万次郎の真実・・・・・

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4月15日(水)18:30〜20:00
上野・東京文化会館
講師:中濱武彦
   ジョン万次郎の曾孫(ジョン万次郎の三男・慶三郎の孫)

日本が世界第二位の経済大国に成長発展した基因は「日米同盟」にあり、その米国との始まりはペリー来航(嘉永6年・1853年)にあるが、実は、ペリーの前に一人の日本人が重要な役割を果たしていた。

元総理吉田茂は、そのことを次のように語っている。
『米国がペリーを派遣した目的は、今日、既に史実に明らかなところであるが、ペリー来朝より12年も前に、漂流の日本人少年万次郎が米国に在って、多くの市民の愛情と善意によって教育され、それが後年の黒船騒ぎの時、幕府当局をして事の処理に過ちなからしむるのに大いに役立った』(エミリイ・V・ワリナー著『新・ジョン万次郎伝』)

ジョン万次郎(中濱万次郎)は多くの米国民に信頼され、教育を受け、身につけた最先端「情報」をもって、周囲の反対を押し切り鎖国下の日本へ決死の帰国をし、その「情報」によって幕末時の要人たちが目覚め、あの日米和親条約につながり、今の成長発展につながったのである。

では、その「情報」とは何か。また、誰がその情報によって目覚めたのか。

ジョン万次郎の直系曾孫である「中濱武彦」氏から、単身、米国に渡り万次郎の足跡をたどり解明した「ジョン万次郎の真実」を情熱こめて語っていただきます。

真実だけがもつ、歴史と人間の素晴らしさに、思わず目頭が熱くなる感動が押し寄せることでしょう。

【中濱武彦氏略歴】
昭和15年(1940)生まれ。神奈川県立鎌倉高校卒。東京ガス勤務を経て、現在日本ペンクラブ会員


■◆■中濱武彦氏の著書販売とサイン会を行います■◆■
講演会の前(18:00〜18:30)に、中濱武彦氏の著書の販売とサイン会を開催します。
当日ご購入の際には、中濱氏自らサインをいたします。
中濱氏の講演と併せて是非お求めください。
販売書籍
『ファースト・ジャパニーズ ジョン万次郎』講談社 1,500円


■山岡鉄舟研究会特別例会『ジョン万次郎講演会』開催概要■
【日時】2009年4月15日(水)18:30〜20:00
【会場】東京文化会館 大会議室
    台東区上野公園5-45 TEL:03-3828ー2111 ※JR上野駅・公園口出てすぐ
【参加費】1,500円
【主催】山岡鉄舟研究会
【お申し込み・お問い合わせ】
    申込フォームよりお申し込みください。
    →申込フォームはこちら
    担当:田中達也 info@tessyuu.jp

 ※特別例会『ジョン万次郎講演会』チラシのダウンロード

投稿者 lefthand : 08:30 | コメント (0)

2009年02月11日

尊王攘夷・・・その一

尊王攘夷・・・その一
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 鉄舟に影響を与えた人物に清河八郎がいる。
 
 清河八郎とは、天保元年(1830)出羽(山形)庄内・清川村の酒造業の長男として出生、十八歳で故郷を出て、幕末、尊王攘夷運動の一翼をにない「回天の一番乗り」を目指した人物である。「回天」とは「天下の情勢を変えること」を意味している。鉄舟より六歳上である。

 清河については、明治・大正初期に活躍した山路愛山が次のように評している。

「(八郎)かつて書を同志山岡鉄太郎に与えていわく、予は回天の一番をなさんとするものなりと。その剣客たる風概もって想うべきにあらざるや」と。(山岡鉄舟 小島英煕著 )
また、その清河が、同志山岡鉄太郎に与えたという手紙は、次の内容である。(清河八郎 成沢米三著)

「先程より度々芳意(注:親切に対する尊敬語)を得候通り、最早各邦の義士参会、則ち近日中、義旗相飜えし、回天の一番乗仕るべく心底に御座候。折角御周旋甲士(注:甲州の土橋鉞四郎)に早々御手配成さるべく候、塚田には内々国元に遣わし候もの、頼み遣わし候間、彼も義気あるもの故必らずうけがいくれ申すべく存じられ候。千万御苦心仰奉り候 頓首  
   初夏 十一日                正明
山岡高歩君
   薩の和泉殿(久光)明日当邸に着也

初夏十一日とは文久二年(1862)の四月のことであり、正明とは清河の號(いみな)、宛名の山岡高歩(たかゆき)とは鉄舟の名前で、鉄舟は號であるが、この時清河は大坂の薩摩藩邸に滞留していた。

何故に山形・清川村の酒造業の息子が薩摩藩邸にいたのか、また、鉄舟が何故に清河の同志と呼ばれるようになったのか。さらに、この手紙の最後「薩の和泉殿明日当邸に着也」にあるように、薩摩藩主島津忠義の後見役である、父親の島津久光が京都に入るタイミングに、何故に回天の一番乗りを果そうとする意気込みを述べたのか。

これらの疑問を解明するためには、当時の政治状況を振り返って見なければならない。

安政の大獄で反対派を弾圧した大老井伊直弼が、万延元年(1860)三月三日桜田門外で暗殺されたあと、政治は一気に混沌化した。井伊大老は、幕府を元来の幕府に戻し、保とうとしたのであるが、暗殺されるという不始末は、目指していた方向が、時代に逆らっており無理だということを、満天下に示すことになってしまった。

この変化は、井伊大老の後の幕府の運営が、老中久世大和守広周と同安藤対馬守信睦になって、朝廷に対する対応が変化したことでわかる。

また、この変化は、幕府の権威が次第に失墜すると共に、尊王攘夷運動が急テンポで展開されてきていたことへの対応でもあった。

つまり、井伊大老の時代は朝廷を統制しようとする意図が強かったが、久世・安藤政権になると朝廷の権威を借りて幕府の権力を強固にするという方向に変わったのである。これは、抑えるというより、利用・協調するという形、これを公武合体というが、幕府側の一歩後退であり、妥協であった。

もうひとつの背景は、当時の尊王攘夷運動というものが、反幕府勢力結集のスローガンとなっていて、幕府がこのスローガンに対抗するためには公武合体が必要だ、という考えからでもあった。

実際問題として、攘夷実行なぞは、安政五年(1858)六月の日米修好通称条約、その後七月に蘭・露・英と、九月には仏と調印済みで、その後年々貿易が盛んとなっている状況下では全く無理である。

という条件を考えれば、とるべき対応策は尊王となる。現実的に考えて、攘夷の実行は不可能であるから無視する。一方、尊王については、反幕府側の主張と同じ立場になることによって、反幕府側が反対できないようにする方策、これが公武合体であり、具体的には皇妹・和宮の降嫁という発想になったのである。

つまり、「かたじけなくも皇妹が将軍の御台所になるならば、これ以上の公武合体はないし、尊王のあらわれはない」という理屈であった。

したがって、幕府は無理押ししても、皇妹・和宮の降嫁を実現しようと動いた。

この幕府の申し出に対し、孝明天皇は反対であった。すでに有栖川宮と婚約が整っており、和宮も「何とぞこの儀は、恐れ入り候えども、幾重にも御断申上度、願いまいらせ候。御上御そばはなれ申し上げ、はるばる参り候こと、まことに心細く、御察しいただきたく、呉々も恐れ入り候えども、よろしく願い入りまいらせ候」(開国と攘夷 小西四郎著)と固く辞退したが、さまざまな朝廷内や幕府の工作が激しく行われ、とうとう孝明天皇は承諾された。

その承諾に当たっての最大の要因は「念願とする攘夷が、和宮の降嫁という公武合体によって実現するかもしれない」という強い希望であり、攘夷が実行されるのならば、どのような犠牲を払ってもと考えたからであった。

この孝明天皇の意思を変えさせた、朝廷内における有力な見解は、天皇の諮問に答えて上書した岩倉具視であった。

「幕府の権威がすでに地に堕ち、昔のような威力がないことは、大老が白昼に暗殺されたことで明らかである。したがって幕府は、国政の大権をあずかる力はない。・・・・だが朝廷の権力の回復を急ぐあまり、武力をもって幕府と争うことは、現在の国情ではかえって国内の争乱をおこし、外国の侵略を招く恐れがある。そこで名を捨て、実を採ることが肝心である。いま幸いに幕府が熱心に和宮の降嫁を請願しているので、公武合体を表面の理由として許可し、今後外交問題はもとより、内政についても大事はかならず奏聞の後、施行するよう幕府に命ぜられたならば、結局幕府が大政委任の名義を有していても、政治の実権は朝廷にあることになる。・・・・まず幕府に条約の破棄を命じ、もし幕府が本当にこれを承るとならば、国家のためと考えられて、降嫁の願いを勅許せらるべきである」(開国と攘夷 小西四郎著)

 理路整然とした意見書であって、孝明天皇はこれによって、大きく気持ちが動いたのである。

実際に幕府は、万延元年(1860)七月に、和宮の降嫁が実現すれば、攘夷を実行するとの誓約を行った。二年前に調印した五カ国との修好通称条約ということを考えれば、全く無責任極まる誓約であり、現実の実態を無視したものであった。

幕府としては本当に攘夷をしようとする気はなかったのであるが、何が何でも皇妹・和宮の降嫁を実現したいという立場から、偽りともいえる誓約であったが行ったのである。

その後、この誓約の実行を、再三再四朝廷から攻め立てられ、とうとう三年後の文久三年(1863)五月十日を攘夷期限と上奏、その旨を諸大名にも通知した。

この機会を待っていた長州は、五月十日に関門海峡を通りかかったアメリカ商船を、二十二日にはフランス軍艦を、二十六日にはオランダ軍艦を砲撃した。しかし、この砲撃結果は六月に入ってアメリカ・フランス両国軍艦による報復を受け、陸戦隊の上陸も許し、大損害を受け、翌年の元治元年(1864)八月五日に行われた、いわゆる四国艦隊の下関攻撃とつながっていくのである。この経緯については後日に詳しく検討したい。

なお、翻訳家・日仏文化交流研究者の高橋邦太郎氏(1898年-1984年)が、次のように述べている。(パリのカフェテラスから 高橋邦太郎著)

「四国艦隊の下関攻撃で長州藩の大砲六十門が捕獲され、このうち二門が戦利品として、フランスに持ち帰られ、今なお、パリのセーヌ河畔のナポレオンの墓所として有名な、アンヴァリット(廃兵院)前の広場にさらしものになって、パリを訪れる観光客は毛利侯の紋章を好奇の目を輝かして眺めている。山口県では、この大砲の返還をしばしばフランス政府に交渉したが、ナポレオン一世以来、戦利品を敗戦国に返した事例のない理由で容易に承知しない」

さて、このような情勢下にあって、諸藩の動きも大きな変化が生じてきた。それを一言でまとめると「雄藩の中央政界への進出」である。

これまで外様大名は、幕府政治体制の中に組み込まれておらず、藩主が個々に発言することはあったが、政治への参加はなされていなかった。

しかし、この時点になると、藩の力を背景に公然と政治活動を行うようになり、その代表が長州と薩摩であった。このように藩が政治活動を行うことを「国事周旋」といい、具体的には、朝廷と幕府の関係に割り入り、雄藩が発言権を発揮しようする工作が行われてきた。

だが、藩の中も複雑である。藩の中に尊王攘夷運動が高まって、その動きの方向に簡単に進む、と考えたいが、そう単純にはいかないのである。藩主-重臣-上級階層-中級階層-下級階層という封建的身分関係があり、その間に軋轢や微妙な考え方の差があり、それらが統一されていくのはもっともっと先になる。

これらについても後日詳しく検討したいが、今回は清河八郎が、何故に回天の一番乗りを果そうとする意気込みを、鉄舟への手紙で述べ、そのために島津久光が京都に入るタイミングを待っていたのか、これを検討してみたい。

薩摩藩は藩主島津斉彬が安政五年(1858)七月に亡くなって、斉彬の弟である久光の長男忠義が藩主になり、久光が後見役となって藩政の実権を握った。

久光は薩摩藩の実力を背景に中央政界に乗り出そうとし、大久保利通を重用し、その大久保の請願で西郷隆盛を流罪地から呼び戻した。

薩摩藩の尊王攘夷派の中でもいろいろな考え方があった。まず、久光の意図は、あくまでも幕政を改革し、公武合体を実現することであって、大久保や西郷は久光の意見に従いながら、次第に尊王攘夷勢力と薩摩藩の発言権を強めていこうとしていた。
ところが、尊王攘夷の急進派は、幕府を見限り、挙兵による倒幕に向かうべきという強攻策を主張していた。

この久光が文久二年(1862)三月、藩兵千人を率いて鹿児島を出発した。これまで、このような大兵で、一藩が動き、京都に行くということは考えられず、それも藩主の後見役とはいえ、正式の藩主ではない、無位無官の久光の示威行動が許されたということ、このようなことは井伊直弼が、桜田門外で暗殺される以前ではあり得なかった。まさに時代の変化を示す大事件であった。

その久光の京都入りの目的は、安政の大獄で処分されたままになっている公家や大名の罪を許すこと、松平慶永(春嶽)を大老に(実際は政治総裁職)、一橋慶喜を将軍後見職にすることであり、それを朝廷の承認をとりつけ、勅旨として大原重徳を差し下ししてもらうことであった。

また、久光は鹿児島出発時に「過激な説を唱え、各地の有志者と交わりを結び、容易ならざる企てをする動きがあるようだが、そのようなことは決してならぬ」と藩士に戒めている。つまり、倒幕とは反対の、幕府維持体制の改革を狙った大兵を率いた行動だったのである。

ところが、尊王攘夷の各地急進派志士たちは、この久光の目的を理解していなかった。今こそ、薩摩の軍事力で倒幕の道に行くべき時がきたと、薩摩の急進派をはじめとして、著名な急進派志士が、ぞくぞくと京都・大坂に集結したのである。

真木和泉(久留米水天宮祠官)、筑前藩の平野国臣、長州藩の久坂玄瑞、それと鉄舟に手紙を書き送った庄内出身の清河八郎であり、これら当時の一流志士と認められていた人物たちが、久光の京都入りを首を長くして待っていて、その多くは、大坂の薩摩藩邸に滞在していたのである。

四月十六日、京都に入った久光は、当然ながら急進派志士たちが期待する行動は起さず、その気配もなかった。それもそのはずで、久光は、急進派過激浪士を取り締まろうと考えていたのである。この大きな両者の齟齬から伏見寺田屋事件が発生し、清河八郎の「回天の一番乗り」の夢は絶たれたのである。次号に続く。

投稿者 Master : 08:52 | コメント (0)

2009年02月02日

鉄舟が少年期を過ごした飛騨高山に行ってきました

去る1月30日、飛騨高山に行ってまいりました。

今回の目的は、7月19日の鉄舟翁忌日に、鉄舟のご両親が眠る高山の地で法要会を催すため、そのご協力を各方面にお願いするためです。

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(鉄舟の書の師匠・岩佐一亭宅。当時のままの建物。今もご子孫が住んでいらっしゃいます)

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鉄舟の忌日である7月19日には、鉄舟が眠る東京・谷中の全生庵、鉄舟が再建に尽力した静岡・鉄舟寺など、各地で盛大に法要が行われています。
では、鉄舟が少年時代を過ごし、その「人間力」を醸成した、いわば鉄舟の人間形成に多大なる影響を与えた地である飛騨高山はどのようになさっておられるのでしょうか。
聞くと、ご両親の眠るお寺「宗猷寺」のご住職が、お一人でひっそりとされているというではありませんか。
嗚呼、やんぬるかな。

それでは、我々山岡鉄舟研究会が、高山での法要に馳せ参じたらどうか。
そう思い立った山本会長に同行し、高山での法要会に参加のお許しを得るべくはるばる高山を訪ねたのです。

*****

飛騨高山へは、東京より新幹線で名古屋へ行き、特急ひだ号に乗り継ぐルートが最短です。合計4時間あまりの道程です。

高山駅を降り立った我々は、早速鉄舟のご両親が眠る地、臨済宗・宗猷寺に赴きました。

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(高山の町並み)

当日は曇り空でしたが、雪はなく、夕刻には雨が降るという暖かさでした。さすがに東京などに比べれば寒いのですが、宗猷寺ご住職曰く、この時期に道路が見える状態であるのはとても珍しいとのこと。まれにみる暖冬ということだそうです。

駅より歩くこと20分あまり。宗猷寺に到着。

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(宗猷寺門前)

石垣の苔むした具合や立て札の木の擦れ具合が、長い年月を経て今ここにあることを感じさせます。建立は寛永9年(1632)といいますから、377年もの歴史を刻んでいるのです。現在の本堂は築190余年だそうです。ということは、鉄舟が禅の修行に励んだときのものと同じ本堂が、今も残っているのです。時は隔てども少年鉄舟と同じ場所に立つ感慨が沸き立つのを感じました。

高山の寺社はとてもユニークです。
山々に囲まれた盆地に南北に走るJR高山本線を中心に、東西に高山の市街は広がっているのですが、その東側の山の麓に、いろいろな宗派のお寺や神社が並ぶように建てられているのです。これは、この地が天領になる前の領主、金森氏が行ったものだそうです。自然、墓地もこの周辺にかたまっています。そのため、お彼岸のお墓参りの時には町民がこぞって集結することになり、昔はお墓参りが若者のお見合いの場にもなっていたそうです。若い娘さんなどは着飾ってお墓参りに来たのだとか。
鉄舟のご両親も、この光景を微笑ましく見守ってくださっていたことでしょう。

お話が逸れました。
ご住職に会い、法要会開催のお願いをしなければなりません。
とそこへ、宗猷寺の今城(いまじょう)住職がやってこられました。
ご住職に促され、本堂内へ。
東京からの珍客に少々面食らったご様子のご住職でしたが、当会の主旨に快くご賛同くださり、7月19日の法要会開催を約束してくださいました。
ということで、山岡鉄舟研究会は、今年の鉄舟法要を高山にて行います。
高山の豊かな自然に身を包み、少年鉄舟が、剣に禅に書に励んだ光景に思いを巡らせたいと思います。

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(左・鉄舟が持ち出そうとした鐘。右・鉄舟の碑)
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(左・本堂。右・今城住職と山本氏)

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ご住職に再会のお約束をし、次に我々は高山市役所に向かいました。

高山で法要会を開催するのですから、在の鉄舟ファンにも是非お知らせし、法要を盛大に行いたいものです。そのため、高山市にもご支援いただけないかとお願いするために行ってまいりました。

高山市役所では、田中文化財課長が私たちのお話に耳を傾けてくださいました。
今城住職同様、最初は東京からの奇妙な二人連れに戸惑っておられるご様子でしたが、我々が真面目に研究を行っていること、鉄舟の法要会を催し、鉄舟と縁深き高山の皆さんに、鉄舟のことを思い起こして欲しい、他に二心あらずとの山本氏の熱弁により、当会の主旨をご理解いただくことができ、うち解けることができました。そして、法要会に広報面でのご協力を賜ることをご快諾くださいました。

田中課長は、高山市郷土館の館長も兼任されており、そこに鉄舟を加えたいとかねがね願っておられたようです。と申しますのも、年々、在の若者は鉄舟に関心が薄くなっているとのこと。我々でお手伝いできることがあれば是非とも協力させていただくことをお約束し、市役所をあとにしました。
僅かではありますが、鉄舟を想う火が灯り続けていたことを嬉しく思いました。

嗚呼、本懐果たしけり、重畳。
事を成し終えた我々東京からの珍客は、ついでに法要会の時の宴会会場まで見極めをつけ、さらについでにそこで一献重ね、満悦の体でホテルに投宿したのでした。

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高山での鉄舟法要会開催に、快くご協力を賜りました宗猷寺の今城住職様、並びに田中文化財課長様、本当にありがとうございました。7月にお会いできますのを楽しみにしております。

読者の皆様、7月は高山にて鉄舟を偲ぶ法要会に是非お出かけください。
詳細は春以降お知らせすることになると思います。
お楽しみに。

(田中達也・記)

投稿者 lefthand : 21:05 | コメント (0)