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2010年12月25日
2011年1月例会のご案内
新年最初の例会は次の通りです。
開催日 2011年1月19日(水)
場所 東京文化会館第一中会議室
時間 18:30から20:00
発表者
①末松正二氏から「盧溝橋事件」の後半「盧溝橋事件和平交渉経緯」について発表いただきます。
②山本紀久雄から鉄舟研究と2011年の日本と世界情勢分析をお伝えいたします。
2011年2月例会
2月は16日(水)18:30~20:00に開催いたします。
会場は東京文化会館第一中会議室です。
発表者は 池田高志氏から2010年9月に発表いただいた「幕末の水戸藩」の後半部分。
山本紀久雄から鉄舟研究を発表いたします。
皆様のご参加をお待ちしています。
以上。
2010年12月開催結果
12月12日(日)は史跡巡りと忘年会で、まず、「健康ハイキングの会」企画の「江戸ウォーキング・・・坂本龍馬と岩崎弥太郎」に参加いたしました。
上野公園→旧岩崎邸庭園→品川駅構内で昼食→山内容堂墓→土佐藩下屋敷跡→浜川砲台跡→坂本龍馬像→品川駅というコースでした。天候にも恵まれ、ハイキングの会の安田守会長による巧みな歴史解説で歩きました。
その後、忘年会を「地鶏や」品川西口駅前ウィング高輪一階で楽しく過ごしました。
ご参加の皆さんに感謝いたします。
2010年12月15日
大悟する
山岡鉄舟研究 大悟する
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
鉄舟が大悟へのきっかけをつかんだのは、平沼銀行(現横浜銀行)を設立した豪商の平沼専蔵のビジネス体験話からであり、それを一言でまとめれば、「損得にこだわったら、物事は返ってうまくいかないという、心の機微を実践の中から学び、この実践を通して事業を成功させた」というものであった。
これに鉄舟は深く頷き、「専蔵、お主は禅の極意を話している」というと同時に「解けた」と叫んだのである。
しかし、このような平沼専蔵が語った内容を冷静に考えてみると、特別なことではなく、一般的によくいわれることではないか。つまり、「欲にくらませては、返ってうまくいかない」ということであり、これは巷間よくいわれることで、特に改めて感じ入り、感動するほどの内容ではないだろうと、思われる。
だが、鉄舟は、この一般的と思われる専蔵の話に深く感動したのであった。
何故に鉄舟は、この普遍的で、事例として世間によくある内容から、一般人が決して辿りつけない大悟という境地、そこへのきっかけと、なし得たのであろうか。
鉄舟も一人の人間である。この素朴な疑問を検討しておかないと、鉄舟は偉大な人物だから、当たり前の普通のことからヒントを得られたのだ、という解説で終わってしまう。
先日、北京オリンピック開催時に、金メダルの北島選手を含む水泳日本選手団を指導した林成之氏(日大医学部付属板橋病院救命救急センター部長)からお話を聞く機会があった。
林氏は、脳細胞の基本的機能からみると、他人の話を感動して聞けるようになれば、頭がよくなるし、記憶にも残る。物事を肯定的にとらえ、好きになる感情は脳にはとても大切だ。また、脳細胞が働かないのは、インプットに問題がある場合が多いと語られました。
成程と思います。林氏の主張は、人から受ける内容を、自らのものにできるかどうかは、受け止める自分サイドに鍵がある、ということを述べているのです。
どのような素晴らしいことを聞いたとしても、それを受け入れる自分自身のセンサーが鈍っていては、その情報は何ら役立たない。逆にいえば、大したことではない内容でも、求め続けていることに少しでも関係していれば、重要なヒントとしてこちらに入ってきて、結果として自らのものにできる。
平沼専蔵の体験話は、鉄舟にとって林氏の教えに当たるものではないか。すでに見てきたように、鉄舟は浅利又七郎との立ち合いから、以後17年間も浅利が日夜のしかかってきていた。今まで立ち合った剣の相手とは全く異なり、心の中まで浅利に斬り込まれ、気持を切り刻まれる状態にあった。
その状態から抜け出すため、禅僧につき、公案を受け、それを寝ても覚めても考え続けていた。そのようなとき、平沼専蔵が訪ねてきたのである。
平沼は別段、鉄舟が苦しみ求めていることを知り、それを助けようと、敢えて意図的に語ろうとしたのではないであろう。日頃から感じていた自らの体験を普通に語ったにすぎないであろう。しかし、その何気ない体験話が、鉄舟にとっても素晴らしいヒントになった。求め続け、考え続け、何とかしたいと足掻き、もがき苦しんでいたからこそ、普遍的でよくある事例でも、鉄舟には感動話として受け止められ、その感動が強い刺激となって、深く脳細胞にインプットされたのであろう。
つまり、感動して聞けば脳に肯定的に入ってくるという脳細胞の構造に合致し、それが大悟へのヒントになったのである。
では、大悟とは何か。これをある程度明確化しておかないと、抽象的な検討に終わってしまう。
大悟とは完全な悟りといい、迷いを去って真理を悟ること、と広辞苑にある。では、悟りとは何か。同じく広辞苑に、理解すること、知ること、気づくこと、感ずることとあり、仏教でいう迷いが解けて真理を会得することとある。
また、認知科学では、人間の知覚というのは、徐々に潜在意識に深く入って行き、知覚→意味付け→納得→悟りになると考えているらしい。
しかし、この悟り、悟った状態を、言葉で完全に表現することは不可能であるともいわれている。確かに、この連載を目にする読者の全ての人は悟っていないわけであるから、いくら論理的に検討しても、悟りの状態を体験的に理解することはできないであろう。
そこで、再び、林成之氏の講演内容から引用したいのであるが、林氏は冒頭「私は、人間が能力を最大限に発揮するための方法論を述べる」と語った。
これをヒントとしたい。自分自身が持つ能力、それが余すことなく、最大限に発揮されれば、誰でも素晴らしい人生を送れるはず。
能力を最大限に発揮していないから、多くの人は課題・問題をもって、不十分な環境下におかれているのではないか。また、他人に対する影響力も少なく、結果として思い通りの人生になっていないのではないか。
では、鉄舟は大悟した後、どのような状態になっていたのだろうか。それを鉄舟の身近で内弟子として同じ屋根の下で過ごした小倉鉄樹が次のように語っている。
「とにかく。かうして完成せられた後の師匠(鉄舟)は、一段と立派なものになって、實に言語に絶した妙趣が備わったものだ。性来のたいぶつが、磨いて磨き抜かれたのだから、ほかの人の、形式的の印可とはまるでものが違ふ。師匠が稽古場に出て来ると、口を利かずにだゞ座っているだけだが、それでもみんながすばらしく元気になってしまって、宮本武蔵でも荒木又右衛門でも糞喰へといふ勢ひだ。給仕でおれなぞが師匠の傍に居ても、ぼっと頭が空虚になってしまってたゞ颯爽たる英気に溢れるばかりであった。客が来て師匠と話をしてゐると、何時まで経っても帰らない者が多い。甚だしいものになると夜中の二時三時頃までゐた。帰らないのは師匠と話をしてゐると、苦も何もすっかり忘れてしまって、いゝ気持になってしまふものだから、いつか帰るのをも忘れてしまふのである」(「おれの師匠」島津書房)
この小倉鉄樹の語り、大悟後の鉄舟という人物の豊かさ、素晴らしさを示していて、大悟するということは、具体的にこういう状態になれるものだと判断できるし、鉄舟が本来持っている能力が最大限に発揮されて様子が、正直に素直に伝わってくる。
このような姿であったのだから、明治の女の子が手毬歌で遊び
「下駄はビッコで 着物はボロで 心錦の山岡鉄舟」
と歌った意味背景がよく理解できる。大悟によって鉄舟の人物像が、小倉鉄樹の感想通りに、時の民衆の間にまで沁み渡っていっていたのである。
その証明のもうひとつ、それは鉄舟亡きあと、墓前で殉死する人が相次いだのである。明治21年(1888)という明治の中頃、封建時代の江戸時代ならまだしも、近代国家としての体裁と国民意識が変革していた時、殉死という主君の後を追う臣下のように自殺するということの意味背景、それを考えると鉄舟の持つ人間性がひときわ異彩を放っていたことが分かる。恐ろしいまでのすごさである。
さて、前号に続く大悟への瞬間である。
平沼専蔵からヒントを受け、それから五日間、昼は道場で、夜は座禅三昧に集中した。燈火は消し、障子越から入る月明かりが部屋に入ってくるだけ。
肩の力を抜き、静かに長く息を吐く。折り返し吸う。臍下丹田に入っていく。いつしか今までと全く異なる心境になりつつあった三月二十九日の夜、ふっと三昧からわれに帰ると、ホンの一瞬かと思ったのに、すでに夜は明けなんとする頃になっている。気持はいつになく爽やかで、清々しく、すっきりしている。
鉄舟は座ったままで、剣を構えてみた。すると、昨日まで際(きわ)*やかに山のような重さで、のしかかってきた浅利又七郎の幻影が現れてこない。
「うむ、これはつかみ得たか」と頷きつつ、道場に向かい、木刀を握った。
すると、立つは己の一身、一剣のみ、浅利の姿は全く消えている。四肢は自由に伸び、気は四方に拡がって、開豁(かいかつ)無限である。
ついに浅利の幻影を追い払い、「無敵の極意」を得ることができたのだ。
この瞬間を鉄舟は次のように表現している。
「専念呼吸を凝らし、釈然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを覚ゆ。時既に夜を徹して三十日払暁(ふつぎょう)とはなれり。此時坐上にありて、浅利に対し剣を振りて試合をなすの形をなせり。然るに従前と異なり、剣前更に浅利の玄身を見ず。是(ここ)に於いてか、窃(ひそか)かに喜ぶ、我れ無敵の極処を得たりと」
鉄舟が自らの剣において、極意をつかみ得た瞬間を書き述べた「剣法と禅理」の感動場面である。
鉄舟は湧きあがる気持ちを抑えつつ、門弟の籠手(こて)田(だ)安定(やすさだ)を呼び起こした。
籠手田は肥前平戸藩出身、心形刀流の免許皆伝で滋賀県・島根県・新潟県知事を歴任し、鉄舟晩年の「山岡鉄舟武士道」を口述記録した人物であり、ちょうど母屋に泊まっていたのである。
「籠手田、立ち合ってくれ」
道場の中程で、鉄舟と木刀を持って構えた籠手田、いきなり膝をつき剣をおき、
「だめです。ご勘弁願います」と叫んだ。
「どうした!!」
「長い間、先生のご指導を受けてまいりましたが、今日のような刀勢の不可思議を見たことがありません。到底、先生の前に立つことができません。このようなことが人力で為し得るものでしょうか」
と驚嘆するばかりである。
それならば、と鉄舟はすぐに浅利又七郎を招いて、試合を願った。
浅利は喜んで承諾し、鉄舟のもとに参り、木刀を持ち、互いに一礼して相対した。
道場はシーンと静まり返っている。浅利の切っ先が揺れ、右に回り、左に回って機を窺うが、鉄舟は正眼に構え、逆に浅利の切っ先を抑え、じりじりと一歩、二歩、追い込み始める。以前は、常に鉄舟が、じりじりと押され、羽目板まで追い込まれ、押し返すことができない状態だった。
それが鉄舟の気迫がすさまじく、浅利が押されて羽目板まで追いつめられた。
「参った」
と、さすがの浅利が木刀をおき、容(かたち)を正して、
「貴殿は、すでに剣の極致に達せられた。到底前日の比でなく、私も遠く及びません。一刀流の秘伝をお伝えしたい」
このように述べて、流祖伊藤一刀斎のいわゆる無想剣の極意を伝えたのである。明治十三年三月三十日、鉄舟四十五歳のことであった。
鉄舟はこの時の心境を次のようにを詠んだ。
学剣労心数十年 剣を学び、心を労すること、数十年
臨機応変守愈堅 機に臨み、変に応じて、守り愈々(いよいよ)堅し
一朝塁壁皆摧破 一朝塁壁(るいへき)みな摧破(さいは)す
露影堪如還覚全 露影堪如(ろえいたんじょ)として、還(かえ)って全きを覚ゆ
(剣を学び、心を労して数十年。相手次第で臨機応変、自由に変化して、負けることがなくなった。堅い塁壁も一朝ことごとく摧破され、痕跡もなくなった。そういう絶対の境地に達してみると、瑞々しい白露が己にこだわることなく、相手を意のままに映し出しているように、私の気分も滞ることなく、自由闊達、どこにも欠けたるものがなくなってしまった)(「春風を斬る」神渡良平)
この年の四月、鉄舟は「聊(いさ)さか感じる所」(剣法と禅理)あって、新たに無刀流という一派を開いた。これについては次回にしたい。