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2008年06月06日

5月例会記録(2) 2/2 

■山本紀久雄氏

「幕末の風雲は清河八郎の九州遊説から開幕」 2/2 

5.お玉が池・清河塾土蔵の中での「豪傑踊り」
10年前に鉄舟と益満休之助はこの清河塾で意見を戦わせ、豪傑踊りをした仲です。なぜ「豪傑踊り」をしたかを考えないといけません。
すべて物語には背景・ストーリーがあります。一流の人はやることに意図があります。世の中に妥当な正しい意図がある人は時間とともに伸びていきます。意図が悪い人は時間とともに問題を起こしていきます。


防衛庁の守屋次官が国民のためにゴルフ接待を受けたのでしょうか。ゴルフ接待を受けた!ということはその結果何か悪いことをしているに違いないと疑いを持たれるでしょう。誰が考えても悪いことしていると思うでしょう。

清河塾の土蔵の中で話しあっていました。必ず「いつ火攻めをするんだ!いつ横浜居留地をやるんだ!」という話しになります。ちょっと待てと鉄舟がいつも止めました。酒を出して裸になって踊り、他の人も踊りだし、踊り疲れるとまた酒を飲みました。清河の家はお金持ちだから酒はある、あそこに行けば旨いものがあるから集まった人もいると思います。酒を飲む、踊る、疲れて寝てしまうと火攻めできません。鉄舟が豪傑踊りを考えたんですね。

静岡の牧之原台地で茶畑を開墾していた中条景昭も豪傑踊りに加わりました。
「今になって思えばまるで山岡に馬鹿にされていたようなものだ。なにせ山岡が士気を鼓舞するのだといって、真っ先に素っ裸になって樽を叩き出すのだから。それに乗って皆が裸で踊り出したのだ。まさか裸じゃどこにも行けない。」

鉄舟は幕臣ですよ、横浜居留地を襲撃したら幕府が困るでしょう。江戸の真ん中に生まれ育っているのだから、普通の人間なら日米和親条約、日米通商条約を結び、五カ国と通商が始まっているのに、それを攘夷として国際条約をひっくり返すことはできないでしょう。開国してしまっているのだから、普通の感覚だったら受け入れざる得ないことです。そういう理由もあって、横浜居留地を襲撃できません。そういうことを直接攘夷の勉強会で言えません。違った方法でやらせなきゃ良いわけです。それが豪傑踊りになったんだろうと思うわけです。

天狗党も木戸孝允も横浜居留地を攻めようとしていました。幕府が開国の条約をしたことを違勅として攘夷をさせようとしていました。結局実行できないまま終わりましたが。

渋沢栄一は幕末パリに行きました。お金がないので、フランスからお金を借りて帰って来ました。銀行とはこういうことかと学んで銀行を整備した人です。徳川家は70万石では食えません。徳川の武士に何をさせようかと考えて、生糸の生産かお茶の生産はどうかと渋沢栄一が考えました。その柱を支えたのが、鉄舟です。

6.「浪人運動では力が知れている。ろくなことは出来はせん」
・・・維新の三傑の一人、大久保利通の見解

火攻めはできませんでした。大久保利通の発言は、大きな事業・大きな改革は組織でしなきゃだめということを意味しています。
薩摩藩77万石が財政を良くし武器をイギリスから買って、薩長と提携して向かって来ました。
薩摩は赤字財政で、それを立て直したのが家老の調所笑左衛門です。お金を削るだけではなく稼がなくてはだめです。薩摩は琉球国を支配しました。イギリスもフランスも琉球国に来て貿易するわけです。貿易して巨額の利を得ました。
開国しても幕府以外は外国と取引できないのも不満の種でした。
幕府に取引することを申し出しようとして、調所笑左衛門は阿部正弘の元に申し出に行きました。阿部正弘の外部ブレーンは薩摩の島津斉彬だったので、阿部正弘は斉彬さんがそういうならと見逃しました。
 篤姫は家定将軍の3人目の奥さんで、2代目の奥さんは小さかったらしいですね。

駿府で西郷隆盛と話をつけたのは鉄舟さんですか?と読売新聞から問い合わせが来たので、資料をつけて送りました。篤姫が功績を担ったのですか?と。
和宮(静寛院の宮)と天璋院が慶喜に言われて動きました。本人たちが行かないで、土御門という侍女に行かせました。
西郷隆盛は確かに使者が来たけれど、よろしゅうお願いしますと頭を下げるばかりで目的がよく分らなかったといっています。そのときに鉄舟が来て交渉しました。交渉するには、何のために行くかを持っていかないと交渉できません。
仕事行くときも売ってこようか、売らないでおこうか、目的をはっきりさせないでお願いしてもだめです。
慶喜の命なのか、徳川幕府なのか、江戸城攻撃をさせないのか、そういうことをはっきり指示していたのだろうか。
それに対して鉄舟は時の政治権力者である勝海舟に相談しました。それが鉄舟の強みです。

薩摩藩が京都で動いても幕府は気にしません。井伊大老が暗殺されてもびくともしません。老中が辞めても次から次と出てきます。組織の力で相手の力に勝るものがなければできません。武力、体力、財政力。清河は個の力でどうにかしようとして失敗しました。テロリストです。
鉄舟は個の力で相手を変えました。組織の場合は、組織対組織です。個の場合は、相手の意思決定のできるトップの人間に直接合うことができれば、個の力が生きます。鉄舟は西郷隆盛に会ってそこに全力を尽くして海舟と相談したことを伝えました。それによって江戸無血開城が成り立ちました。
なぜ薩摩藩・長州藩が幕府に勝てたか、それは、組織対お金と武力を十何年も掛けてやってきたからです。個の人間ができたのは別の筋です。それが鉄舟の偉大さです。
個の力を出すには、相手のトップと話をつけられる人間でなければだめです。
駿府に行くまでには益満休之助がいました。益満休之助は豪傑踊りをした仲であることを海舟は知っていて3日前に牢屋から出していました。
清河八郎が塾を開かなければ、益満休之助と鉄舟は知り合わなければ、あ・うんの呼吸で東海道を走れなかったでしょう。清河は江戸無血開城のひとつの因子を作った人物として記録に残すべきだと思います。

7.全国を逃亡する。
清河八郎は有名になってきまして、水戸天狗党と提携を取ろうと水戸に行きました。天狗党は幕府から睨まれていますから目をつけられました。土蔵の中にいろんな人間が出入りしていることを幕府は逐一わかっていて捕まえるチャンスを狙っていました。まとわりついた岡っ引を斬って清河八郎は幕府のお尋ね者になって逃亡生活に入りました。逃亡が清河八郎を出世させました。

8.「廃帝」の噂。
塙次郎に調べさせて孝明天皇を辞めさせてしまうという「廃帝」の噂を聞いた清河はそれを武器にして九州に遊説に回りました。幕末は九州の遊説から始まったと司馬遼太郎先生もおっしゃっております。次回は遊説の内容についてお話いたします。


【事務局の感想】
「浪人運動では力が知れている。ろくなことは出来はせん」
武力、体力、財政力、個か組織か、如何に優秀でも、どこで、どのようにするかを
間違えるとその力を発揮することはできないということですね。
次回は7月になりますが、まだまだ鉄舟研究は続きます。
                       

以上

投稿者 staff : 2008年06月06日 15:38

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