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2007年12月16日

11月例会記録(1) 1/2

◆中瀬勝義氏
「エコライフから海洋観光立国」1/2

中瀬と申します。 レジメに沿っていきたいと思います。遊び呆けているだけなんですが、順番なので発表させてもらいます。

1.生まれと育ち
 ・東京都江東区亀戸
 ・40日目の20年3月10日の東京大空襲で、母に背負われ、荒川放水路で生き延びる。

当時は城東区というのですが、亀戸で生まれました。城東区は深川区と一緒になって江東区になりました。当時の人口は42万人ですが、終戦後は9万人。10何万人が死んで、それ以外の20万人くらいはどこかに行ってしまった。
つい3、4年前までは人口が伸びなくて、隅田川より向こう側の山の手の人は住みたくなかったみたいですが、最近江東区も住みたいところに変わりつつあります。
焼けてしまったので10歳くらいまでは神奈川県横浜市の鶴見区に住んでいました。その後戻って江東区深川に52、3年住んでいます。地元で小学校・中学校・高校を出ました。

 ・大学は松前総長の海洋資源開発論に憧れて、東海大学海洋学部に入学。

当時、海洋開発、宇宙開発、原子力開発は科学技術庁の政策で、正月の新聞の特集号に出ていました。それにつられて東海大学の海洋学部に入学した。  
その前は、脳外科の医者になろうと考えていました。夏目漱石の『心』、武者小路実篤の『友情』などを読み、三角関係になり、人間関係が難しくなる。そこでなぜ三角関係なるのか考えていた。そこで記憶を消せたら解決できるのではないのかと、パーマネントような機械に頭を入れて、スイッチを押すと、過去の記憶が消えてしまうものを考えたいと思っていた。しかし、途中で嫌になり、海洋開発に憧れて入った。できたばかりで入学したときは何もなくて、校舎もあるとかないとかで、そんな感じで大学を出た。

 ・社会に出てからは、主に発電所環境調査に従事、原発で美味しく飯を食べ続ける。

地方の現場周りです。九州、四国、中国、北海道などを旅芸人みたいに点々と回っていました。原子力がブームになっていたので、原発で仕事をしていれば給料だけは確実にもらえた。公害ブームが過ぎて、環境調査は小さくなった。

 ・途中から、ヨーロッパの脱原発に感化され、環境や脱原発に関心高まる。

アメリカでスリーマイル事故、ロシアでチェルノブイリがあって、ヨーロッパも脱原発になり、イタリアは原発を国民投票で完全にやめた。ドイツやスウェーデンはやめると言いつつやめていない。隣のフランスは原発をやっている。脱原発を考え出して、段々と傾いていった。

 ・通信教育で法政大法学部10年、慶応大経済学部15年間学ぶも、後者は卒業できず。

環境は自然科学というよりは社会科学だ、と法政大学法学部通信部に入学し10年掛かって卒業した。その後慶応大学経済学部に入学したが、卒業できず。卒論は金子勝教授に指導を受け、ゼミと授業を5年間聞いて、卒論は6回書き直して、OKになった時には単位が不足で退学になった。この時に原発がなくても生活できるという提案がなければ嫌でしょといわれて、それで6回書き直した。その結論が海洋環境立国で、本を出すことになった。

2.山岡鉄舟との係り
 ・ 学生時代は清水で、当時アルバイトの家庭教師をしていたところが鉄舟
寺の隣で、何度か遊びにいった。東海大学の前身の航空専門学校が久能山
にあったことから、東海大学校歌には鉄舟寺が歌われている。
 ・会社の上司と意見対立・揉め始め、40才位から上智大学座禅会に参加。導
師は鉄舟の弟子の大森曹玄に免許を頂いた方。司祭では始めて座禅の免許皆伝を得ている。

上智大学の座禅会は10年くらい通った。師匠である門脇先生は、山岡鉄舟、大森曹玄を継いだ方です。先生は上智大学の司祭です。先生は、大森曹玄の前は朝比奈さんという有名な方の元に通っていたんですが、朝比奈さんとは、相性が合わなくて、大森曹玄のところにいって免許皆伝できたそうです。免許を一回だけ見せてもらったことがあります。
この先生は面白い方で、遠藤周作等から寄付金を集めて、パリとローマとブラッセルで「キリストの洗礼」という創作能をやりました。能は本人ではなく弟子がやったのですが、上智大学ともなると能楽師の子どもさんが学生で入っています。

 ・その後も時に 谷中の全生庵に座禅にいったことがある。

3.ボランティア他
 ・ 会社では非主流を歩いていたこともあり、母の介護を理由に早期退職し、
介護の合間に地元江東区のエコリーダー養成講座に通うことになり、「自転
車エコライフの会」を立ち上げ、また「屋上菜園エコライフ」で遊ぶよう
になった。

定年2年前に会社を辞めました。会社を辞めたくて仕方なくて、でも勝手には辞められなくて、母の介護の4年目に入って女房が危なくなってきたのを理由に辞めました。女房が9割やって、私は1割位やり、あとは遊んでいられたので、エコリーダーになりました。自転車エコライフの会を立ち上げて、毎月の通信を出し始め、屋上菜園エコライフということで、生ごみを処理して土を作り、野菜を作っている。はじめて5、6年経ちますが、プランターも100個くらいになった。

・その後、江東エコリーダーの会代表などを担当するも、環境では政治家も行政も動かないと感じるようになるとともに、「お江戸深川さくら祭り」、「水彩まつり」、地元の夏祭りなどを経験して行く中で、観光立国に関心が高まった。
・慶応大学の幻の卒論「原発誘致の経済的影響」を書く中で、原発のない日本が生きてゆくためのオルタナティブとして「海洋観光立国」を結論とした。

投稿者 staff : 2007年12月16日 11:16

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