« 2008年01月 | メイン | 2008年03月 »

2008年02月29日

2月例会記録(1) 

「私流アンチエイジイング実践法」                                         
井上喬博氏

 先月1月に横浜の元町を歩いていたら、自分の色で差をつける街のおしゃれ人で、インタビューを受けました。原稿を書いたのでチェックしてほしいとEメールがきました。現在66歳、来月3月11日で67歳になるんですが、記事に「57歳」と書いてありました。一応訂正を入れました。シニアファッション研究所から出ている雑誌です。
25年くらい前に山本さんほか情勢判断学会とか、脳力開発をやっていて、実は20年前から年々若返ってきている。それを皆さんにぜひお話ししたいと思います。


脳力開発の特徴は行動力をものすごく重視します。アクションの力をつけるにはどうしたらいいか?きわめて印象に残っているのは「行動とは口と手と足を動かすことだ」という言葉です。口と手と足を動かす日常的なトレーニングは何かと潜在的に頭に入っていました。私が毎日やっていることをお話しして、体験があったほうが良いので皆さんに試していただけたらと思います。

■運動(毎日原則)

 1.スクワット      朝、昼、晩に各100回
 2.骨盤体操       朝、昼、晩に左右各1回
 3.胸を広げる運動    朝、昼、晩に各20回
 4.四股踏み       朝、昼、晩に各20回
 5.手振り運動      朝2,000回 昼1,000回、晩1,000回 (※資料参考)
 6.ウォーキング     一日平均12,000歩
7.テレビ体操      朝、6時30分~1回

森光子さんが朝晩150回スクワットをやっているというのは有名ですよね。私も森光子さんと同じように300回やっていました。スクワットは、ただの屈伸だと思っていましたが、本当のスクワットというのは、膝を折って、足の先に膝をあわせて床と腰が平行になる。これを回数やるのは大変なんですね。
次に手振り運動をやっています。具体的な内容はインターネットで「達磨易筋経」というキーワードを入れて検索すれば沢山出てきます。1400年前に達磨さんというお坊さんが「易筋経」を書いてそこで取り入れている運動で、一切の病から開放され極めて安上がりな方法ということで誰しもやりたいと思うわけですが、一日4000回というのです。
山本さんの話しで大鵬が四股踏み1日2000回とありましたね。四股踏みよりは楽だけど4000回だからあきらめてしまう。
「達磨易筋経」は東京電気大学教授の関英男先生が訳されました。関さんにお会いしたとき、やっていたとは知りませんでしたが活力があって96歳まで生きられました。正しいやり方は、2000回は日の出前にやることが原則です。冬は朝5時スタートです。慣れないと50分くらい掛かりますが、慣れれば30分くらいでできます。夏になると日が昇るから朝4時にやらないとならない。私は11月からは1日も欠かさず4000回やっています。1日4000回やるとは知らないで、それまでは400回でしたが、いろいろ調べていくと400回でもそれなりに価値があると書いてありました。
さらに「洗心(せんしん)」という言葉を言ってやることが望ましい。「洗心」と言っていたら数を数えられない。それで私は「1.2.3.4…」と40まで数えて、「洗心」5回を2セットやって10回、これを8回繰り返して400回。正の字を引っ張って、4000回を数えています。言葉を発すると腹筋使うので良いみたいですね。

毎週日曜日朝7時から6チャンネルで放映されている「カラダノキモチ」という健康番組を見て、必ず新しい運動を取り入れていますが全部は取り入れられないので、歌手の中島啓江さんが出演されたときに骨盤体操をやっていたのでそれを取り入れています。一緒にやってみましょう。
黙々とやっていると飽きてしまうので、朝5時から3チャンネルを見ながらやります。今日の「人生の歩き方」には楽天の野村克也監督の人生の話をやっていました。運動やりながら勉強できるメリットがあります。

朝6時半になったらラジオ体操を毎日やります。ウォーキングして、外で朝食をとります。銀座・原宿・神保町に行っており、朝7時代にお店に行ってしまいます。会社が10時からですが、平均して8時半に出勤して、また1000回やります。

■発声(毎日原則)
脳力開発と同じで基礎習慣で連日やっていると無意識で出来るようになります。自然にそういうレベルに行きます。
1.滑舌のレッスン1    1回   (※資料参考)
2.滑舌のレッスン2    5回   (※資料参考)   
3.腹式発声のトレーニング 2種、各1回   (※資料参考)
「あー」と繰り返してやっています。からだが響くような感じで、寒いとき「はぁ~」というのを内に向かってやります。
4.絶好調、嬉しいな、楽しいな、素晴らしい、愉快だな、快適~5回
毎日繰り返すと壁にぶつかっても立ち向かう感じになります。
幸せだな豊かだな、やってやれないことはない、やらずに出来ることはない~5回

南砂町という東西線の駅から10分くらい歩いたところに砂町銀座という活気のある商店街があり、300メートル歩いたところに斎藤一人の「ついてる神社」があります。リズムをつけてやるといいです。
ついてる 50回、      大丈夫 50回

この後の言葉は私流にやっています。自分の中に取り入れたいメッセージがあれば、それを自分のものにします。毎日やらないと反射神経のごとくに入らないから毎日やらないとだめです。
開き直り 5回、 選択と集中 5回

行動は重要なので、即実践と言います。 
当たり前のことを当たり前にやる即実践 5回、 案ずるより生むがやすし 5回
この二つは取り入れる価値があります。たいがいのことは案ずるが生むがやすしでできちゃうんですよね。
常にビジネスモデルを構想しよう 5回、 白紙でトライ!シンプルに大胆に 5回
困ったことは起こらない 5回、 人生に困ったことなんて有りえない 5回
人によっては違うかもしれないけれど、斎藤一人の言葉で、日本人は商人のことを嫌うけれど経済観念は必要だという観念があります。
商人頭がないといいように利用されるだけ 5回、 商売に甘さが出る 5回
商売に必要ないものを徹底的に削ぎ落とす 5回
英語なんかすぐ必要じゃないことを日本人は努力するけれどその前にやることがあるだろうと斎藤一人の本の中に出てきます。頭の中が雑念でいっぱいになって集中できない。無駄なことを省き、必要なことを徹底的にやります。

これも良い言葉です。
全ての良きことが雪崩のごとく起きますように 5回
回りの世界を天国にしてしまえ 5回、 腹から笑うこれが腸能力 5回
眼の前の小さな幸せに気づこう 5回 
私たちは幸せの鳥を離れたところに求めるけれど、結構目の前に幸せがあるからこれを再確認しましょう。シニアになるとリスクを犯すことが怖くなります。毎日発声していると危険な道を歩く傾向が少なくなります。
自分サイズ!手の内で勝負出来る世界でのみ勝負する 5回
年とともに体はガタが来ます。死ぬときは来るからしょうがないと開きなおりができます。
人間すべて死亡率100% 5回、 生きることは爆発だ!人生はドラマだ爆発だ 5回

発声は、滑舌レッスンを含めて15分くらい、早ければ10分です。朝5時に起きて、体操をすべて実行して1時間弱、滑舌レッスンは早ければ10分くらいで、6時までに終わります。6時半までのラジオ体操までに時間が余まるので、身の回りの整理やお茶を飲んだりしています。
日々やっていることですが、多少なりとも参考になれば良いと思いまして、発表させていただきました。
以上

【事務局の感想】
井上さんは、考え方が前向でいつも大変元気な方です。前回の発表は「散歩の達人」というテーマでしたので、歩かれていることは知っていましたが、今回の発表を聞いて、これだけの運動と発声・滑舌運動をされているとは、本当に驚きでした。元気で前向きな考え方の秘密がわかりました。これからも継続されて、男性版「森光子」を目指してください。

投稿者 staff : 12:23 | コメント (0)

2008年02月26日

3月例会のご案内

3月の例会は、3月19日(水)に開催いたします。

■日時:2008年3月19日(水)午後6時30分~8時
■会場:東京文化会館 中会議室1
■講師:今井裕幸氏、山本紀久雄氏 
今井さんには「大森曹玄老師の思い出」を発表いただきます。
山本さんには、鉄舟研究を発表いただきます。

大きな春一番が来ました。これから日一日と春めいてきます。
春の一日、3月19日(水)開催の例会へご参加ください。
お待ち申し上げております。

投稿者 Master : 21:21 | コメント (0)

2008年02月24日

2月例会記録(2) 1/2

■山本紀久雄氏
「尊王とは、攘夷とは」1/2

 井上さんの講演、声が大きくすごい迫力でしたね。井上さんは自分の得意なことを極めようとしています。自分の得意なことを極めると自分というものが発展していきます。得意なことの中に自分の世界がありますから、自分の得意なものを知ることが大事です。私も自分を訪ねる旅をしています。ソクラテスが紀元前に「汝自身を知れ」という言葉を残しています。自分が得意なものを掴んだ人は、幸せとか成功が入ってくるということを井上さんが言ってくれたのだと思います。
鉄舟の勉強会も縁ですよね。鉄舟を全然知らなくても集まり、仲間の中に世間とは違ったグループが出来て、気持ちの良い何かが入ってきています。


昨日は田中淳一さんという静岡の中学校の先生から、神田の古本屋を歩いていたら静岡藩~明治2年に廃藩置県で静岡藩になり、その後静岡県になる一瞬の間~の名簿が手に入りましたと送ってくれました。山岡鉄舟のことが書いてありました。これもネットワークです。嬉しいですよね。
神田の古本屋街は財産です。あれだけのものは世界にはないと思います。

前回は山岡鉄舟に影響を与えた清河八郎のことをお話して、今日はいよいよ「尊王とは攘夷とは」についてお話します。尊王攘夷運動が世間を騒がせたのは日本の歴史の中でたったの15年間です。ペリーが日本に来て明治維新になりました。その15年間日本国中を吹き荒れたのが尊王攘夷でした。明治維新以後「尊王攘夷」という言葉はなくなりました。それ以前もありませんでした。激しい言葉の動きでした。
「15年」というのは因縁のある年数で、バブル崩壊以後日本が立ち直ったのが15年です。みなさんも15年くらい続けたことはありますか?私はこの仕事をはじめたのがちょうど11年前です。最近は良いことばかりです。仕事はどんどん忙しくなるし、体は絶好調だしね。

1.尊王か、尊皇か
「そんのう」は「尊王」「尊皇」と両方あります。昭和7年頃から「尊皇」を使っている人が多いのは「天皇家」だからです。誰が「尊皇」を使い出したかというと徳富蘇峰、徳富蘆花のお兄さんです。徳富蘇峰は『近世日本国民史』を書きました。全50冊です。徳富蘇峰は当時とても有名な方で尊皇攘夷について書いています。その徳富蘇峰が、“私が「尊皇」を使いました”と言っています。

2.中国・周時代に遡る(紀元前770~前221年)
「詩経」魯頌に「戎狄是れ膺ち、荊舒是れ懲らす」

「尊王」は中国から出た言葉です。当時中国は戦国時代でした。
不思議なことに地球はあるとき偉人が一気に出るときがあります。2500年前
に今我々が勉強している老子・孔子・孟子・孫子が出て、それ以後ぴたっと出ないですね。そういう時代が中国の2500年前にありました。
『詩経』は五経のひとつで、五経は、『易経』・『書経』・『詩経』・『礼経』・『春
秋経』です。『詩経』の「魯頌(褒め称えるの意)」という項目の中に「戎狄是
れ膺ち、荊舒是れ懲らす」(西北の蛮族をうち、南の荊舒を懲らしめる)とあり、
これが「攘夷」という言葉の元です。「尊王」は、周の時代王様を尊重しない人
が多かったので、みんなで王様を尊敬しましょうと尊王論が出ました。周の王
様を尊敬して、周王朝を守るため侵入する周辺諸民族を打ち払いました。これが尊
王攘夷です。これをペリーが来たときに思い出して使ったわけです。誰が最初
にこれを使ったかというと、水戸藩の徳川斉昭が使いました。

3.尊王論は水戸藩・・・徳川斉昭(烈公)、会沢正志斎、藤田幽谷、藤田東湖など
弘道館に掲げた「王を尊び、夷を攘ひ、允に武にして允に文に、以て太平の基を開けり」というものが、王を尊び、夷を払い、「尊王攘夷」となりました。しかし、当時言い始めたときは「倒幕」になっていませんでした。

4.攘夷論は大きく分けて二方向・・・
  ① 尊王であり、敬幕
  ② 倒幕の手段

京都にいる天皇陛下を敬いましょう。江戸幕府も日本を治めているのだから敬いましょうと言っていました。しかしあるときから敬幕が倒幕になりました。そしてもう一方は幕府の構造改革になりました。

アメリカ・ウィスコンシン州では大統領候補のオバマ氏が勝利しましたね。オバマ氏が選挙で勝ったらアメリカはどうなりますかね。アメリカの歴史200年間誰がリードしましたか?インディアンを殺して誰が作りましたか?侵略したのはキリスト教の国の人で、その人たちが住み着いたのですから、アングロサクソン、白人でしょう。アメリカは「WASP」(ワスプ:「ホワイト・アングロサクソン、プロテスタント」)が根本にあり、これではない人間はアメリカでは偉くなれないと言われていました。オバマ氏が大統領になったらどうなりますか?長い伝統がなくなるということです。これは価値観の変化です。今後もしかしたらプロテスタントが仏教やイスラムになるかもしれません。
アメリカの中心がなくなるのは民主主義の名の下に大統領が選ばれてきたからです。日本は違います。小泉・安倍・福田と首相が変わっても、天皇は昔からいて、中心が定まっています。「尊王」があるので中々変わりません。アメリカは“日本は変らないからけしからん”と言います。日本には中心が定まった2000年の歴史がありますが、アメリカはごろっと変ります。
幕末時でも天皇陛下が居られたから、井伊大老が日米修好通商条約を締結して揉めても簡単に変わりません。ところがあるとき「尊王攘夷」が消えるのも日本の珍しいところです。
いつ頃から倒幕になったのか?
ペリーは何のために来て何を要求しましたか。開国させて日本と交易しようとして日本の林大学頭と交渉しました。ペリーは交易すれば良いことありますよ、と言って来ましたが、林は“我が国は、そういうことは必要ないです”と交易を外して和親条約を結びました。アメリカが困ったら薪や水や野菜は与えますが取引はしませんという内容です。
アメリカは目的が交易だからどうしても交易したくて、孝明天皇が反対しましたが、井伊大老が日米修好通商条約結んでしまいました。その結果日本に大インフレが起こりました。
インフレが起こるのは、アヘンでやられた清(中国)の例でわかっていました。日本からは輸出するものは生糸くらいで、輸出すれば国内で品薄になり、日本人が買おうとしたら値段が上がり、それにつられて他の物の値段も上がります。幕末はインフレで苦労しましたが、それを乗り越えないと世界に入っていけないので、井伊大老は構造改革を実行しました。
 一般の人たちは、一つは、外国と通商条約を締結したから生活が苦しくなった、二つ目は、孝明天皇が反対しているのに幕府は日米修好通商条約を結んだ、尊王ではない、三つ目は、安政の大獄をやり、文句いうやつを捕まえて牢屋に入れて、その反発が起きました。こういうことが重なって外国人は夷敵!日本を汚している!と倒幕に走っていきました。 
何とかしたいと思った人の中に徳川斉昭がおり、反対に清河八郎は倒幕に走りました。その同志が鉄舟です。
当時外国の人たちは日本の偉い人に会うために土産を持ってきました。ハリスは13代家定へのお土産として、シャンパン、シェリー酒、リキュール酒、切子硝子、特性火筒(鉄砲)、硝子瓶、望遠鏡、博物図鑑、などを持ってきました。将軍は、羽二重などの服、生地を上げました。向こうは科学的なものを持ってきました。

投稿者 staff : 15:22 | コメント (0)

2月例会記録(2) 2/2

■山本紀久雄氏
「尊王とは、攘夷とは」2/2

今月の始めはエジプトに行ってきました。エジプトは4000年前に世界4大文明が栄え「世界の母」といわれており、当時世界で最も豊かな国でした。小麦がいっぱいできたから他国が食糧を貰いに来ました。ナイル川に畑を作り当時一反あたりの小麦の収穫量は今の日本の群馬県の農協と一緒で、メソポタミアの4倍以上でした。


今エジプト行ったら、日本より酷い食料輸入国になっています。昔は豊かだったのに、ナイル川は今も流れているのに、4000年経ったら貧乏になっているのはなぜですか?ナイル川の水をコントロールしようとしたからです。
ナイル川の水はアフリカ中心部から6万6000キロ流れてきます。そのうちの下流1500キロがエジプトです。川の水は流れながら途中の地面の土を抱え込み、7月になると大雨が降るから増水してナイル川に入ります。一般的に洪水といいますが、日本の洪水は海から流れるけれど、エジプトは広く、高低差がないからひたひたと水が浸り、水による損害がなく、終わったら水が引いていきます。水が引いたあとに、窒素・リン・カリ、自然のものが残り、栄養満点の土に作物が育ちました。だからピラミッドが出来ました。お金があるからです。

水を一定にしておけば、いつでもいっぱい作物が出来るだろうとアスワン・ハイ・ダムを造りました。栄養のある水はたまったところに落ちて、上澄みの肥料ゼロの水だけが流れ、化学肥料を入れないと作物が出来なくなり貧しくなりました。なぜこんな簡単なことが解らないのでしょうか。人間の浅知恵です。

ダムで写真を撮ったら、小銃持った兵が走ってきました。何かと思ったらズームをして撮影したからです。ズームして写真を撮ることが禁止されているということは、撮られると困るものがあるんですね。
アスワン・ハイ・ダムはエジプトのアキレス腱で、軍が守っています。アスワン・ハイ・ダムが攻撃され、決壊したら、東京から大阪までの水が一気に流れ込みます。人口はナイル川流域に偏り7000万人が川のほとりに住んでいるので、全滅です。
アスワン・ハイ・ダムのせいで、食料が出来なくなりました。アスワン・ハイ・ダムの決壊が一番怖いので、軍が守っています。ダムを作らなければ良いのにと思いました。
フルーカという帆船に乗りました。操縦する青年に自分の船かと訊くとオーナーの船で、週3日働いて、他4日は何もしていないと言います。30歳くらいだと思ったので、結婚しているのか、生活が大変だろうと訊くと20歳でした。

エジプトはオスマントルコに征服されました。パリのコンコルド広場に行くとオベリスクがありますが、これはフランスのナポレオン三世がエジプトから貰ったものです。
当時エジプトはオスマントルコの傭兵出身のムハマンド・アリーが支配していました。(ムハマンド=マホメッドのこと)ナポレオンは王様に時計を上げました。エジプト人は日本人と同じように義理堅いから何か差し上げなくてはと、何がいいですか?何でも良いですよと言うと、ナポレオンはルクソール神殿にあった対のオベリスクの内1つをフランスに貰って帰りました。今はエジプトには台座だけ残っています。

月曜日に保田の漁協に行きました。保田海岸の漁協の食堂「ばんや」は1995年にオープンして11年間で27倍の売上になりました。問題はないですかと参加した新聞記者が質問すると、団体客が来て困るのでそのことだけで、今は団体客専用の施設を作っているそうです。
丁寧・親切・上品・的確なサービスはありません。三ツ星レストランとは全然違います。しかし月曜日なのに駐車場はいっぱいで活気があります。人間にとって大事なのは、元気のあるところで食べることで、それが喜びなんですね。宣伝は一切しない、周りは何もないけれど、海からも陸からも人がどんどん集まります。ばんやに入って食事が終わって出たら元気になるという「元気」が魅力なんですね。
店の外では戸板に鯵とか干したものを屋台で売っています。その中の一人に昨日どのくらい売れたかと訊くと、190万円売れたと言います。1日で190万円です。行ってみてください。現場を見ることが大事です。不便なところなのに日曜日は2000人来ると言っていました。

「ばんや」は「鉄舟」だと思いました。全然飾らないので「ぼろてつ」といわれたのになぜみんなに敬愛されたのでしょうか。お金がなく、生まれた子供は栄養不足で死んでしまう、女遊びはする、酒は飲む、討幕運動の清河八郎の友人、そういう人間がなぜ明治天皇の先生になったのですか。我々も一般的な知識ではないものを吸収しなければならないと思います。


5.斉昭の子である慶喜の見解

「烈公(斉昭)の攘夷論は、必ずしも本志にあらず。烈公いまだ部屋住たり
し時より、しばしば戸田銀次郎等を引見して、水戸藩政の改革せざるべかざ
ることども論議し給い、哀公(水戸斎脩卿)の後を受けて水戸家を相続し給
いてよりは、いよいよ日頃思うところを実際に施さんとて鋭意し給いしが、
非常の改革を行うには、何等かの名目なかるべからざるをもつて、一時の権
宜として、改革は武備充実のためなり、武備の充実は、近頃頻々近海に出没
する異船を打攘わんがためなりと称せられたるなり。
すなわち、攘夷の主張は全く藩政改革の口実たるに過ぎざりしが、後に至りては名目が目的となり行きて、形のごとき攘夷論者となり給いぬ。されば烈公は、異船来ると見ば有無をいわせず直ちに打攘わんというがごとき、無謀の攘夷論者にはあらず。もとより我が砲術の拙さを知り給えば、新たに西洋の砲術を学びて神発流と名づけ、胡服(注 中国北方の民族の胡人の着る着物・・広辞苑)は一切用い給わざりしも、つとに藩士をして、甲冑を廃して筒袖・陣羽織に古風の烏帽子を戴かしめ、自ら師範者となりて藩士を訓練せられたり」

構造改革で言い出した「尊皇攘夷」が広まって、簡単に言うと冗談で言ったようなことに対して、日本中の人が真剣に動きました。このために志士が何人死んだのでしょうか。


6.徳富蘇峰の解説(近世日本国民史)
 
「以上は烈公の愛子徳川慶喜の自ら語る所、父を知るは子にしくは無し。我等は之によりて烈公の本意が、必ずしも攘夷で無かったことを知るを得た。烈公尚然り、況や其他をやだ」さらに続けて
 
「文久(1861)以前はいざ知らず、文久・元治(1864)の攘夷論に至りては、其の理由や其の事情は同一ならざるも、何れも対外的よりも、対内的であったことは、断じて疑を容れない。或る場合は、他藩との対抗上から、或る場合は、勅命遵奉上から、或る場合は、自藩の冤を雪ぎ、其の地歩を保持せんとする上から、其他種々あるも、其の尤も重なる一は、攘夷を名として倒幕の實を挙げんとしたる一事だ。即ち倒幕の目的を達せんが為めに、攘夷の手段を假りたる一事だ。されば一たび倒幕の目的を達し来れば、其の手段の必要は直ちに消散し去る可きは必然にして攘夷論は何処ともなく其影を戢め(おさめ)去った。而して何人も其の行衛を尋ねんとする者は無かった。偶ま(たまたま)真面目に攘夷論を主張たる者は、今更ら仲間の為に一杯喰わされたるを悔悟して、或は憤死し、或は絶望死した。偶ま最後まで之を行はんとしたる者は、空しく時代後れの蟷螂の斧に止った」

時代を知らない人は、憤死し絶望死したということです。これが歴史の実態です。恐ろしいですね。
鉄舟会でいろいろお話します。エジプトの話もしましたが、結局エジプトはナイル川を仕切って貧しくなりました。
エジプトはスエズ運河がありので、船が通ればお金が入り、砂漠から石油が出るし、観光客がいっぱい来ます。その国が食糧の輸入で援助を受けています。4000年前は世界の覇者だったのに。

たった15年間でも尊王攘夷の言葉の意味に載せられて走り回った人たちがたくさんいました。倒幕に携わり、倒れ死んだ人は靖国神社に祭られています。勝海舟や山岡鉄舟は倒幕に関係ないから靖国神社におりません。

7.清河八郎の役割と、同士である鉄舟の存在とは?

どうして山形の酒屋の息子が江戸に出て来て統幕の中心リーダーとして動けるようになったのでしょうか。例えると集団就職で出てきた人が出世したようなものです。その清河と鉄舟はどこでどう知り合ったのでしょうか。鉄舟はその後明治天皇の教育係りになりましたが、その間の変化は何なのでしょうか?鉄舟は本気で倒幕しようと考えていたのでしょうか?そのあたりを整理したいと思っています。
以上

【事務局の感想】
今月は、尊王と攘夷と題して、「尊王」と「尊皇」の違いや攘夷の始めについて、またそれらが15年で起こったことなどを勉強いたしました。斉昭の攘夷についての慶喜の見解を知って、長いものには巻かれろという日本人の国民性でしょうか、巻き込まれて亡くなった人のことを思いますと、大変な時代であったのだとつくづく思います。今月は、エジプト、アメリカのお話がでましたが、日本を日本からだけ考えるのではなく、世界から見る視点が必要であるということからお話をしていただいていますが、今世界が大きく変わろうとしている時ではないかと思いますので、今後も海外からの報告を期待したいと思います。

投稿者 staff : 15:07 | コメント (0)

2008年02月21日

2月例会の感想

真冬真っ只中のぬけるような青空のもと、2月の例会が行われましたので、その様子をお知らせいたします。
reikai080220_01.JPG

今月の発表は、井上喬博氏による「私流アンチエイジング実践法」。
普段から若々しく、あちこち飛び回っておられる井上さんの健康の秘訣を垣間見ることができるとあって、楽しみにしておりました。
reikai080220_02.JPG reikai080220_03.JPG

井上さんは毎日朝・昼・晩と運動をしておられるそうです。
資料を見て、解説を聞いてビックリ。
ちょっとご紹介します。
1.スクワット   朝・昼・晩に各100回
2.骨盤体操    朝・昼・晩に左右各1回
3.胸を広げる運動 朝・昼・晩に各20回
4.四股踏み    朝・昼・晩に各20回
5.手振り運動   朝2000回、昼1000回、晩1000回
6.ウォーキング  一日平均12000歩
7.テレビ体操   朝 6:30〜 1回
驚きました。これをこなすだけで日が暮れてしまうのではないかと心配になりました。
井上さんの健康の秘訣は日々のたゆまぬ努力にあったことをあらためて思い知らされました。

皆さんでやってみよう、ということで、その運動を体験してみました。
reikai080220_04.JPG reikai080220_05.JPG

目標に向け日々の鍛錬を怠らないこと。
鉄舟が身をもって教えてくださっている、このあたりまえなのにできないことをコツコツとこなされておられる方が身近にいらっしゃることを知り、感服いたしました。

続きましては、山本紀久雄氏の発表です。
reikai080220_06.JPG reikai080220_07.JPG

鉄舟が活躍した当時の武士の価値観の下地となる「尊王」という思想はどのように発生したのか。
そして、「尊王」はどのようにして「攘夷」あるいは「倒幕」へと変容していったのか。
鉄舟研究は、当時の武士階級の一般的思想の根元を掘り起こすことから展開するという、新たなアプローチが始まりました。
幕臣であり、「敬幕」であらねばならないはずの鉄舟はなぜこの当時、「倒幕」に加担したのか。清河八郎との関係はどのように鉄舟に影響したのか。
興味は尽きません。
次回の例会をお楽しみに。
(田中達也・記)

投稿者 lefthand : 15:59 | コメント (0)

2008年02月06日

玄武館道場に入門

玄武館道場に入門
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 
前々号で、鉄舟は「人間の出来がもともと違う」と思わざるを得ない事例として、二十三歳で「心胆錬磨之事」から「武士道」まで一連の思惟基盤をまとめ得たことを述べ、前号では、義兄高橋泥舟の鉄舟に対する目利き力が、江戸無血開城の偉業につながり、歴史に鉄舟を登場させたことをお伝えした。

また、今までの連載で、飛騨高山の少年時代から、両親の死によって十七歳で江戸に戻り、異母兄の小野鶴次郎屋敷に転がり込み、二歳の乳飲み子を含む五人の弟達を、鶴次郎から冷たい待遇を受けながら必死に面倒を見て、その生活を見かねた剣道師範の井上清虎からの勧めもあり、両親から受け継いだお金を持参金として、弟達を他家に養子に出し、自らは百両のみ手許に置き、残りは鶴次郎に贈って身辺整理を終えたまでをお伝えしてきた。この時、鉄太郎(鉄舟)は十八歳であった。

今号からは、鉄太郎の江戸での生活について、各方面から述べていきたい。

弟達の養育から解放された鉄太郎は、飛騨高山時代からの剣術の師・井上清虎の紹介で嘉永六年(一八五三)千葉周作の玄武館道場に十八歳で入門した。

ただし、入門した年齢は二十歳という説もある。だが、これには疑問が残る。鉄太郎は二十一歳の安政三年(一八五六)に、幕府が武芸訓練機関として設置した講武所に、世話役として入所している。つまり、二十一歳の時点で鉄太郎は既に剣の使い手として、幕府内で認められていたことになる。とすると、世話役就任一年前の二十歳入門では早すぎる感がある。その前に剣を鍛えていた期間が必要と思われるので、身辺整理を終えた直後の十八歳で玄武館道場入門、というのが妥当な見解と考える。

さて、当時の江戸には剣術道場が軒を並べていた。これは幕末の時代背景が生れさせた現象であった。嘉永六年(一八五三)にペリーが浦賀にやって来る前から、中国・清がアヘン戦争(一八四〇~四二)でイギリスに負け、国土を割譲されたことに、日本の支配層である大名・武士・知識人たちは危機感を募らせていた。そのときペリーが四隻の黒船を率いて日本に開国を求めてきたのである。

これは戦慄すべき事態であった。日本が大国と認識していた中国・清と、同じ運命になるかもしれない。その強烈な危機感は、現代の我々にとって想像を超えるものであった。

この危機を凌ぐためにはどうすべきか。対策は現状の日本を西欧諸国に対抗できる国家に造り変えるしかなく、そこに向うあるべき姿の模索と、その方法論をめぐって、国中に凄まじい戦いが始まり、その中で精神を、肉体を燃焼させるためには、まず、もう一度自ら自身が強くならねばならない。その想いが全国に六百流派とも言われる剣術道場を派生させた背景であった。

これは日本刀つくりにも顕れた。戦国時代が終わり、泰平の世が続き、武士の魂であった刀も、本来の戦うための武器から、威厳を示すもの、外装を重視する装飾的な拵え物となっていたが、幕末時には実戦本位の刀に変化してきた。自己を守るため、敵を斬るための強靭な武器として、幕末刀の登場である。

さらに、剣術道場が流行った理由として稽古の変化もあった。それまで武家諸法度で武芸者同士の真剣勝負は禁じられ、元禄文化のなかで実用を離れ華やかな技法への風潮によって、打ち合い勝負で稽古することを避けていたものが、宝暦年間(一七五一~六四)に一刀流中西派の中西忠蔵が、現代の竹刀と防具にほぼ近い形の自由打ち突き突稽古を完成させ、これを多くの流派が採用するようになったことも、多くの人達を剣術道場に向わせた理由であった。

また、これら道場の門をたたいたのは、武士の子弟だけでなく農民や町民の子弟も多かった。加えて、江戸には全国から大志を抱く若者が集まった。坂本龍馬が江戸に出てきたように、地方の下級武士の子弟たちにとって江戸はもともと憧れの地であり、地元の窮屈な身分制度を抜け出して、江戸の道場に遊学することがブームとなった。

江戸で有名な剣術道場としては、北辰一刀流・千葉周作の玄武館、鏡新明智流・桃井春蔵の士学館、神道無念流・斎藤弥九朗の練兵館、この三道場を称して江戸三大道場と称し「位は桃井、力は斎藤、技は千葉」と評されていた。これに心形刀流・伊庭軍兵衛の練武館を加え、四大道場という場合もある。

これら有名道場では、従来の型稽古を中心とした古流とは異なる、当時の時代風潮であった「手っ取り早く習えて、上達が早い」という、いわば顧客志向の稽古方法や剣術理論を採り入れていった。中でも鉄太郎が入門した北辰一刀流は、古流剣法が権威を誇り守るため、難解な言葉と剣術を哲学や宗教と結びつける傾向が強かったのに対し、簡易な言葉を使い、合理的な練習法を編み出し、それまで八段階に定められていた一刀流の修行段階を初目録、中目録、大目録の三段階に簡略化するなどの工夫をした。そのため「他流では目録を取るまで三年かかるところを、北辰一刀流では一年でもらえる」と評判になり、多くの門弟を獲得し、当時、門人三千余人といわれた。
 
また背後に有力な庇護者を持てた事も、大道場として隆盛する要因といえる。玄武館は水戸藩、士学館は土佐藩、練兵館は水戸藩・長州藩、練武館は亀山藩と強い絆を持っていた。なお、後の新撰組組長近藤勇も当時、牛込に天然理心流・試衛館道場を構えていた。

このような背景の中で鉄太郎が北辰一刀流・千葉周作の玄武館に入門したのであった。

余談になるが、千葉周作の弟である千葉定吉は千葉道場、この道場は現在の中央区八重洲二丁目にあたる桶町にあったので「桶町千葉」、また、兄の周作と区別するために「小千葉」とも呼ばれたが、ここに坂本竜馬が入門している。

竜馬は勝海舟の門下になることによって、時代の新しい国家感覚に目覚め、後の活躍につながったのであるが、竜馬が海舟の門下になった経緯には、この千葉定吉の長男である千葉重太郎が絡んでいる。
重太郎と龍馬の二人は、勝海舟が唱えていた開国論に反発し、海舟の暗殺をすべく赤坂元氷川下の勝屋敷を訪ねた。だが、龍馬が海舟の識見に感激し、その場で師と仰ぎ門下入りしたのであった。このところを司馬遼太郎は「竜馬がゆく」(三巻)で臨場感溢れる表現力を持って展開しているが、それをまとめると次のようになる。

海舟は訪れた竜馬に向って、地球儀を回し、日本と同じ小さなイギリスが何故に世界一の大国になったのかを解説し、日本国百年の興国大構想を滔滔と論じているうちに、その内容に引き込まれた竜馬は、海舟の論弁が終わった途端「勝先生、わしを弟子にして任ァされ」と弟子入りする情景、竜馬が時代感覚に鋭敏であることも理解させる、見事な文体で表現し、秀逸である。


余談のついでにもう一つ余談であるが、歴史作家の加来耕三氏が主張する「竜馬は剣客でなかった」という説が、朝日新聞(2000.3.12)に大きく掲載された。従来、竜馬が剣客とされる根拠は安政五年(一八五八)に、千葉定吉から与えられた「北辰一刀流長刀兵法目録」とされているが、これは「短期講習会の修了書」みたいなものだと「免許皆伝」説を否定している。また、インターネットでフリー百科事典「ウィキペディア」を検索すると、竜馬が授けられた「北辰一刀流長刀兵法目録」は、北辰一刀流に含まれていた長刀術(薙刀術)の目録とあり「剣術の皆伝を示すものでない」とある。

竜馬が免許皆伝剣客でなかったとすると、司馬遼太郎がつくりあげた「日本人に最も人気の高い偉人」という竜馬イメージ、これは果たしてどうなるのであろうか。

だがしかし、本題の主人公である鉄太郎は、正真正銘の本物剣豪である。

鉄太郎は、弟たちの身の振り方をつけ、生活に不自由がなくなり、ようやく自らの修行に突き進むことができる環境となった。ここでいう修行とは、剣のみでなく、禅でもあり、もうひとつは色道修行であり、いずれの修行も猛烈であった。それらについて今後順次お伝えしていくが、まずは剣の修行について見ていきたい。

鉄太郎はもともと身辺を飾るタイプではない。今でいうフアッション感覚には関係ない方である。その上に両親を早く亡くして、身近で親身に服装の世話をしてくれる人はいなかったので、身繕いはいつもかまわなかった。

一方、玄武館は江戸随一の人気道場であり、隣には老中首座の阿部正弘に諸般の助言をした、儒学者東条一堂の学問塾もあった上に、千葉と東条は親しかったので、塾生の多くは両方に通って文武両道の修行をするものが多く、必然的に良家の子弟が多く入門していた。

また、優れた剣客も多く、例えば、水戸藩に高禄で抱えられた高弟海保帆平、新撰組の藤堂平助や山南敬助、東条一堂学問塾の秀才の誉れ高かった清河八郎等がいて、鉄太郎の修行には好都合であったが、何せ身繕いをかまわないので、いつもボロ姿であり「ボロ鉄」と綽名される一方、剣道はめっぽう強く、修行態度も純粋真剣であったので、畏敬の念を持って「鬼鉄」とも言われていた。

この「鬼鉄」と称される逸話が残っている。講武所の稽古が形式的で生ぬるいのに憤慨した鉄舟は、あるとき木剣を構え講武所道場の一寸ばかりの欅羽目板めがけ「えいっ」と、得意の諸手突きを入れた。すると、木剣は一寸欅板を突き抜けるというすごい話が伝えられている。正に「鬼鉄」と言われる手並みを示す逸話である。

鉄舟は剣の道に関して、明治十三年四月に認めた「剣法と禅理」、これは同年三月三十日払暁に、剣の極意を大悟して無刀流を創始したのちに書かれたものであるが、その中で次のように書いている。

「余、少壮の頃より武芸を学び、心を禅理に潜むること久矣(ひさし)。感ずる所は必らず形に試み、以て今日に至る。年九歳の頃、初めて剣法を久須美閑適斎に学び、続ゐて井上清虎、千葉周作、或は斉藤、桃井等に受け、其他諸流の壮士と共に試合する事、其数幾千万なるを知らず」
 
其数幾千万という表現、余りにも過大な表現でないかとも思われるかもしれないが、狂気ともいえる剣の修業について述べたものと理解したい。

それは、厠の中でも、寝床の中でも、相手との剣術稽古気勢を持つと、飛び出し、飛び起き、木剣を持ち工夫をする。道を歩いていても、竹刀の音がすると、飛び込んでいき稽古を受けることが常だった、という姿を表しているのである。

そのような鉄舟の性格を証明するのが、鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹の著書「『おれの師匠』島津書房」である。鉄舟の性格について次のように書かれている。

「師匠は子供の時からひどく負け嫌ひで、どんなことでもやり出したら吃とやり徹してしまはぬと気が済まなかった。この気象が『鬼鉄』の綽名を受けた原因で、事の大小に拘わず、面と向かつたが最後、死んでもあとへは退かぬことときめて居た。『悪いと気がついても、乗りかゝつたらぐつと目をつむつて辛抱するんだ。その中にひとりでに片づいて来る』といふのが山岡の筆法だ。けれども普通の人はこの辛抱が出来ないから、中途で逃げ出したり、泣言いつたりするようになる。こんなことを今時の人が聞いたら、馬鹿だと一笑に附してしまふが、それだけ今の人は腰がないからいざといふ時、間に合ふ力が乏しい。何も修業だ」

これを単なる勇猛心と捉えてはいけないと思う。後に修行により到達した鉄舟の人間力にオーバーラップさせて考えれば、現在、我々が失った、反省させられるべき、気づき多き人間の底流・原点を述べているものである。


投稿者 Master : 10:43 | コメント (0)

2008年02月02日

1月例会記録(1) 

■高田東士生氏
「海外で経験したあんなこと・こんなこと」

1.自己紹介
2年前の4月に12チャンネルのアド街ック天国を見てぬりえ美術館を知って、鉄舟会にご縁が出来、参加させていただくことになりました。
中国に出張して、品物を買って国内のお客様に売っている。中国に一人で行く機会が多いので、日本では経験しない失敗談が多いもので、行かれるようなことがあれば、あの人があのようなことを言っていたと思い出し、危険を避けていただければと思いましてお話しさせていだきます。


2.中国編
91年だったと思いますが、中国の広州でトラブルに巻き込まれました。1年に2回中国商品の輸出会があって、91年当時は香港経由で入っていました。今のように飛行機は直行便がありませんでした。
天安門広場を想像していただければ良いんですが、そこまで広くはないですが、沢山人間がいるんですね。広場を抜けるのに15分くらい歩かないと抜けられない。広場を外国人がカートを引いて歩いていると、みすぼらしい、小さな子どもがお金をくださいと取り囲んでくる。当時は可哀想だなという気持ちがあって小銭や小さな15円から20円くらいのお札を上げると、逃げられないくらい人が寄ってきて、パスポートも危ないくらいの状態になる。2000円くらい放り投げて、人がそちらに行ったときに逃げられたという経験がある。
可哀想だと思って自分にピンチになって跳ね返ってくる。可哀想と思っても、公の機関を経由して恵んであげられたら宜しいんじゃないでしょうか。

広州に行くときに香港から列車で近くまで行って、香港から出国して中国に入国するときに並んでいないとならない。ものすごい人が入国管理に並ぶ。縦に10列くらい並んでいるが、横を突っ切ってくる人がいる。おかしいわけです。
お客様から頼まれて、初めて中国に来た方と一緒だった。20人くらい並んでいて横を突っ込んでくる。横から来たときに肩でブロックして跳ね飛ばした。一緒に居た人がナイフでバッグを切られてお財布を取られた。2秒か3秒の間に財布だけ取られた。香港の警察にお願いしたら、香港を出国しているので中国の警察だといわれて、中国入国して中国の警察に行ったら、中国に入国していないから知らないと言われた。
今はそういう入国の仕方じゃなくなったんで、前よりはリスクは緩和されたと思います。横から人間が来たら、どうやっても狙われた。責任者という形でお連れしたので、ご迷惑を掛けた。
今はタバコを吸わなくなったけれど非常にヘビースモーカーだった。9年くらい前に、上海は古い空港だったんですが、上海の空港について入国管理が終わって、出たところでタバコに火をつけたら後ろから肩を叩かれた。前は禁煙じゃなかったが、たまたま禁煙になった。禁煙のところなら、吸う前に禁煙ですよと言ってくれれば吸わないのに、タバコに火を点けるのを待っている。変なアルバイトが横行して、空港内でタバコを吸うと罰金50円と書いてある。
経済が発展してきて、昔社会主義は平等で良いことがあるんだなと思った部分が押さえられて、上海や広州はお金がないとだめだ、お金を稼ぐには、法律ぎりぎり、もしくは見つからなければやらなくてもいい、そういうことが横行していることを感じられた。かなり注意しないと、安易な気持ちで居ると、考えないようなレベルで知恵を使って巻き込んでくる。

2000年に北京に行きまして、別のお客さんと一緒で、日本に駐在している中国人、かなりエキスパートな人と一緒で、3人で夜遊びに行こうと食事が終わった後、日本でいうカラオケスナックみたいなところに行こうとなった。知らないところに行くのは良くないとタクシーの運転手さんに聞いて教えてもらったところに行った。
昔泊まったことのある三ツ星の、外国人が泊まるホテルの2Fのスナックみたいな店で飲み始めた。帰ろうかというときに日本駐在の中国人が家でご馳走してくれるというので出ようとすると、会計が18万以上。ぼったくりバー、暗いところに小さく金額を表示している。XOと書いてあるブランデー、暗くて金額もよく見えない。女の子が何倍飲んだか計算している。領収書も出せないし、一緒にいた中国人が警察に顔があるから、三ツ星のホテルだから、警察に行こうと言い出した。向こうも俺たちだって警察にパイプがあるとか微妙なせめぎあいになって、半分くらい払い、あと残りはうちの会社の交際費でやろうということで、中国のやくざと絡めてトラブルになってもいけないと妥協した。
三ツ星ホテルで外国人も入れて、地域の警察の幹部を知っている方がいてもそれくらいやるということは、表面には分からない危険な部分があるんだなと思いました。タクシーの運転手さんの紹介だったんですけど。運転手さんとは縁もゆかりもなかったんですけどね。
今でも、場合によっては危険なこともある。知っている人もいて、安全なところ以外は行かないほうがいい。日本人はお金で解決するからお金が取りやすい人種と見られやすいですね。

3.イギリス編
93年に仕事でイギリスとフィンランドに行くことがあった。成田からイギリス・ロンドンへ行き、翌日ヘルシンキに行く予定だった。
そこそこ良いイギリスの有名なホテルに泊まり、朝食を採りにいった。部屋にセーフティボックスなかったんですよね。会社で借り金していた30万円を朝ごはん食べてくるだからいいだろうと、ドアにドントディスターブDo Not Disturb(起こさないでください)の札を掛け、30分くらい食事して戻ってきて、念のためお金を数えてみたら、どう考えても10万円しかない。朝食を採るときホテルの人間に部屋番号を言う、そこのコミュニケーションでやられたのじゃないか。ホテルに言って警察に報告しましたが結局なしのつぶてで終わり。パスポートにしろ、現金にしろ、面倒臭がらないで。
会社は本当にありがたいことに、正直に言ったらその20万円は会社で補填してくれた。それは会社に非常に感謝しております。

日本ですが、9年くらい前ゴールデンウィークの前、4月28日土曜日1時くらいに電話が掛かってきて、クレジットカードを使って名古屋で30何万のパソコンを買っていませんか?という。番号のカードは持っていたので、どっかでスキミングされたのかもしれないと思った。カードは種類を決めて使っているので、スキミングされた記憶があるのはサウナか、新橋の焼鳥屋か。サウナで貴重品を預けたところで抜かれてスキミングをやられたのだろう。クレジットカードを2日後に無効して、新しいものを作ってもらったことがあります。

中国で両替するとき、今はお札を数えるカウンターの機械がある。鄧小平の給料が12,13年前は500元、日本円で7000円くらいと聞いていた。
中国に行くと10万円両替する。10万円両替すると6000~7000元で、一番大きい金額の札が100元だから結構な厚さになる。両替されたものを日本人は数えないでポケットに入れる。一人でやると泥棒になるので、少なく出して、指摘されると計算を間違えましたと出す。ホテルで働く両替係りのあぶく銭。
今はマナーとかモラルとかオリンピックに向けてやっているので、大丈夫だと思いますが、カウンターはどこのホテルにも設けているし、中国の人民元でも偽札を判別できることもある。もしカウンター機械がないところで両替するときは目の前でもう一回数えることが良いのではないか。

4.海外でのめずらしい罠
ホテルの中にあるぼったくりバーに入っちゃったこと。今はそのホテルに行ってもない可能性の方が高い。十分学習させていただきました。


【事務局の感想】
日本は本当に安全で安心できる社会です。そのためにその気分で海外にでかけると
高田さんのようなことを体験するようなことも起こるのでしょう。幸いに私はこのような事件には巻き込まれたことはありませんが、引き続き注意をしたいと気を引き締めました。次回は、高田さんのご趣味の分野でまた発表をお願いしたいと思います。
以上

投稿者 staff : 15:48 | コメント (0)

2008年02月01日

2月の例会のご案内

2月は2月20日(水)に開催いたします。

■日時:2008年2月20日(水)午後6時30分~8時
■会場:東京文化会館 中会議室1
■講師:井上喬博氏、山本紀久雄氏 
井上さんには、「井上流アンチエイジング実践法」を、山本さんには、鉄舟研究を発表していただきます。

寒さが一段と厳しい時期ですので、風邪などにご留意ください。
2月20日(水)開催の例会へのご参加をお待ち申し上げております。

投稿者 Master : 15:06 | コメント (0)