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2006年06月22日
6月例会の感想
鉄舟の子ども時代
入梅のジメッとした季節ですが、鉄舟例会はカラッと盛大に行われました。
このところ、鉄舟サロンに初参加の方が多くいらっしゃるようになりました。5月は1名、そして6月はなんと4名。皆さんこのホームページをご覧になって参加されたそうです。いや嬉しい。
これをご覧になられているあなたも一度鉄舟サロンにいらしてみませんか?驚くほどアカデミックで、かつ柔らかいという、とても奥の深い会ですので。
さて、今回の発表は矢澤氏の「日本の西洋美術談義」と、山本氏の「鉄舟の子ども時代から考える」でした。
まずは矢澤氏の発表。近世以降、洋画がどのように日本に輸入されてきたのかから、明治期に入っての洋画の創始者の登場、そして、日本美術の素晴らしさを「発見」したのは外国人であったことなどを解説していただきました。
矢澤氏の発表は、10ページ+表3枚に及ぶ資料で、詳細な解説文と図版による絵画紹介、そして矢澤氏の豊かな知識に圧倒されました。
その中で、特に、日本美術の優秀性を発見し、日本の伝統美術復興に大きく寄与したフェノロサについて多くの時間を割いて解説いただきました。フェノロサは来日したとき「日本人が日本美術を大切にしていない」とに大きなショックを受けたといいます。そして、彼は日本美術の復興に邁進したのです。
芸術にしろ科学技術にしろ、世界で高い評価を受けるものや人は、海外に出ないとその価値が認められないような傾向が、現在でもあるのではないかと思います。私たちがこの国の伝統や芸術の価値を正しく理解し、伝えていく必要があるのは今も同じことだと思います。
続いては山本氏の発表でした。今回は鉄舟の子ども時代についてのお話でした。鉄舟の子ども時代、母親から受けた影響についてエピソードを交えながら解説していただきました。
人の価値判断の基準は、自己の原体験に基づきます。原体験とは、親の教育であり、育った環境です。生まれてから今までの体験が、その人の判断基準を創っているということです。
自閉症が初めてアメリカで発表されたとき、ちょうどテレビが登場して10数年が経過していたのと合致しており、テレビの普及との関連が言われているそうです。テレビは一方通行、つまりインプット一辺倒の情報入力をするものです。子どもの頃からこれに慣れていると、社会的に共通の判断基準に比重が偏ってしまい、一人ひとりそれぞれの親や環境に基づく基準が薄れているため、実際の社会で個別の問題にぶちあたったとき、それに対処できなくなっているのではないかと、山本氏はおっしゃいます。
その昔、昭和30年代生まれの若者は、無気力、無関心、無責任の「三無主義」の世代といわれました。その後の世代は「新人類」、そのまた後の世代、つまり今の若者は「ニート」と呼ばれる、働かない世代です。そして、彼らニート世代の親の世代が「三無主義」の世代の人々と合致します。
鉄舟の偉大な人間像を形作った、子ども時代の母親や周りの環境から受けた影響=原体験を学びながら、今の若者世代の原体験とはどんなものなのかを考えることも大事なことなのではないかと感じた例会でした。
(田中達也)
投稿者 lefthand : 13:14 | コメント (0)
2006年06月15日
6月例会は、6月21日開催
6月の例会は、6月21日に開催いたします。
*会議室が中会議室2になりますので、ご注意願います。
講師は、矢澤さんと山本さんです。
矢澤さんには、『日本の西洋美術談義 PARTⅡ』
副題:フェノロサ&岡倉天心&ボストン美術館を発表いただきます。
②06年度計画を発表いたします。
尚、7月の例会は、会場の都合で7月12日(水)開催ですので、ご注意願います。
ご参加お待ちしています。
2006年06月12日
江戸無血開城其の二 鉄舟の武士道
江戸無血開城其の二 鉄舟の武士道
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
JR静岡駅北口から歩いて五分、紺屋町の料亭浮月楼門口に「徳川慶喜公屋敷跡」と表示した石塔が立っている。
慶応4年(1868)2月、上野寛永寺に謹慎・蟄居した慶喜は、江戸総攻撃回避から一ヵ月後の同年4月、水戸・弘道館に移ったが、当時の水戸藩は尊皇攘夷過激派の天狗党残党と、反天狗党である諸生派との内紛、更に当主徳川慶篤(慶喜の兄)の急死等で騒然としていた。それらの事態が関与してくることを恐れた慶喜は、駿府に移りたいと希望した。駿府を希望した理由は、明治新政府が徳川宗家を御三卿・田安家当主亀之助をもって、石高70万石とし、駿府にて相続させると決定していたからであった。
同年7月、慶喜は陸路と船、銚子港からは榎本武揚指揮下の蟠龍丸で清水港に上陸、直ちに駿府の宝台院に入り謹慎・蟄居を続けた。だが、鳥羽伏見の戦い以来幕府側についた諸藩主の謹慎・蟄居が明治2年(1869)9月に赦免され、それと共に慶喜も許されたので、現在の料亭浮月楼である元代官屋敷に、同年10月に住居を移転した。それから20年間、慶喜はここで「毎日が日曜日」という趣味三昧の日々に耽った。
因みに、榎本武揚は慶喜を清水港に護衛搬送した翌月、官軍に引き渡すことになっていた幕府軍艦八隻をもって、陸奥に向かって脱走した。これは、榎本が主家の成行きを見届けるまで脱走を待っていたというべきであろう。
紺屋町の料亭浮月楼「徳川慶喜公屋敷跡」から、東に五六分歩いた伝馬町に「西郷・山岡会見の史跡」石碑がある。当然、慶喜は会見の場となった当時の松崎屋源兵衛宅を知っていたであろうが、現在の石碑が個人所有物であることを知る人は少ない。
明治維新大業への一歩を示した重要なる会見場所、ここが史跡と認定され、石碑が建立された背景には、親子二代23年にわたる奔走物語があった。
戦後の昭和20年、松崎屋源兵衛宅跡で鮮魚業を営み始めた原田鐡雄氏が、この地の重要性を知り、史跡とすべく活動し始めたが、志半ばで病に倒れ、その意志を継いだ娘婿の原田勇氏の熱誠・執念によって、明治維新から百年を記念する昭和43年(1968)に、「西郷・山岡会見の史跡」石碑が建立されたのである。
さて、静岡に移り住んだ慶喜には何も仕事がなかった。何も仕事しない33歳の元将軍の日常は、「徳川慶喜家家扶日記」で行動が明らかとなっている。近村での鷹狩り、清水港での投網、写真に夢中になり、油絵も描くなど多彩な趣味に没頭した。慶喜が<とりわきていふべきふしはあらねども、たゞおもしろくけふもくらしつ>と詠ったように、今日一日が面白ければ、それでいいじゃないか、という達観した自然体の悟りの生きかたでもあった。
このように、慶喜が静岡で安定した趣味三昧の日々を過ごせたのは、西郷・山岡会見で江戸無血開城が事実上決定し、明治維新が最小限の混乱で成立したからであったが、何ゆえにそのような偉大な功業を、一介の幕臣にすぎなかった鉄舟が成し遂げ得たのか。
今回はその解明を、上野寛永寺大慈院一室から解きほぐしてみたい。
鉄舟が書き残した「西郷氏と応接之記」に、慶喜の謹慎・蟄居に対して、鉄舟が次のように疑念を呈したと記している。
「余、旧主に述ぶるに、今日切迫の時勢、恭順の趣旨は如何なる考に出候哉と問ふ。
旧主示すに、予は朝廷に対し公正無二の赤心を以て謹慎すと雖も、朝敵の命下りし上は迚も予が生命を全する事はなるまじ。斯迄衆人に悪まれ、遂に其志を果さずと思えば返々も歎かはしき事と落涙せられたり。
余、旧主に述ぶるに、何を弱きツマラヌ事を仰せらるゝや。謹慎とあるは詐りにても有んか、何か外にたくまれし事にてもあらざるか」と。
何と驚くべきことに、身分低き一幕臣鉄舟が、初の将軍御目見えである上野寛永寺大慈院一室にて、慶喜に向かって厳しく謹慎・蟄居の真意を問い質しているのである。封建時代の当時では考えられないことであったが、これが正に鉄舟の武士道精神で発露であった。
ここで武士道の思想と行動を考えてみたい。武士道研究家の第一人者である笠谷和比古教授(国際日本文化研究センター)は、著書(武士道その名誉と掟)で武士道の二つの側面を述べている。
「武士道の一つの側面は『忠義』の観念で、それは『主君-家臣』というタテの関係である。もう一つの側面は『名誉』の観念で、これは個々の武士の『武士としての自我意識・矜持』としてのヨコの関係として存在する」と。
この二つの側面を今の時代に当てはめ、会社組織に例えていえば「忠義」は社長・上司との関係、会社の組織一員として働く立場からは「名誉」を「人間としての規範・矜持」、言葉を替えて言えば、自らが持つ「志・大義・理念・良心」に当たる。
この時代、将軍からの命令・指示に対して、諸大名や旗本は畏まって受け入れるのが、武士道「忠義」の観念から当たり前であった。
しかし、鉄舟は異なった。将軍慶喜からの直接指示に対して畏まらず、返って謹慎・蟄居の姿勢に対する疑義を唱え、問い質し、以下の回答を引き出したのであった。
「旧主曰く、予は別心なし。如何なる事にても朝命に背かざる無二赤心なりと。
余曰く、真の誠意を以て謹慎の事なれば、臣之を朝廷に貫徹し、御疑念氷解は勿論なり。鉄太郎に於て其辺は屹と引受、必ず赤心徹底可致様尽力可仕。鉄太郎眼の黒き内は決して御配慮有之間敷と断言す」
鉄舟が慶喜に対して疑義を呈し、問い詰めたのは理由があった。慶喜は家康の再来といわれたほど評判の高き俊才であったが、第二次対長州戦争の突如中止や、鳥羽伏見の戦いで示した優柔不断な命令と、敗色濃くなるといち早く大坂湾から船で江戸に逃げ帰った行動、それらにみられる慶喜の行動は「二心殿」と陰口されるほど、気持ちが揺れ動き、腹が据わっていない。
だから、今回の官軍による江戸城攻撃に対しても、状況がちょっと変化すれば、すぐに慶喜の謹慎・蟄居姿勢もまた変わるのではないか、そのところを鉄舟は厳しく慶喜に問い質したのである。だが、この鉄舟の言動は、当時の武士道忠義の観念からみて、非常識極まるものであった。
この時、幕府の対官軍交渉は手詰っていた。静寛院宮(14代家茂夫人)、天璋院(13代家定夫人)、輪王寺宮公現法親王による打開工作も通ぜず、官軍先鋒は品川まで迫っていた。最後の奇策としての鉄舟投入であり、鉄舟はその重大な意味を理解し、十分承知していた。鉄舟が失敗すれば、江戸城総攻撃となり、江戸市中は戦火の坩堝となる。
だが、しかし、今までの交渉者に比し、あまりにも身分・格が低き鉄舟。ただ持ち得るのは剣・禅修行で鍛えぬいたこの身しかない。
鉄舟は自分の中に「決死の覚悟」を植えつけるしかなかった。自分で自分の「人間としての規範・矜持」に火をつけ、自らを追い込むことしかなかった。
そのためには、敢えて忠義の観念に逆らう対応を行い、慶喜から「予は別心なし」の意志再確認を引き出し、我が身を「責任は死より重し」という覚悟にし、「必ず赤心徹底可致様尽力可仕」の状態に追い込む必要があった。
西郷との会見・交渉でみせた「決死の気合と鋭い論鋒」は、このように生れたのであり、その背景には、武士道もう一つの側面、名誉の観念の発露があったのである。
話は変わるが、4月25日に発生したJR西日本福知山線脱線事故の当日、天王寺車掌区の43人がボウリング大会を開催した。その際、複数の若手社員が「まずい」と思ったという。「人間としての規範・矜持・良心」がこの若手社員に存在したのであり、仮に、その中の一人が中止を諫言・進言し、上司が受け入れてボウリング大会を取り止めていたら、事故後のJR西日本に対する風当たりは、少しは異なっていたであろう。残念である。
2006年06月11日
二見さんのお祝いの会(6月9日)
二見さんの春風創刊満20周年記念祝賀会兼定年退職感謝の集い
6月9日、パレスホテルにおいて、サロンのメンバーで、現在「武士道」の発表をお願いしてます二見さんの「春風創刊満20周年記念祝賀会兼定年退職感謝の集い」が開催されました。
定年後はさらに自由に活動を広げることができ、時間がたりないくらいに過ごされるのではないでしょうか。ますますのご活躍が期待されます。
サロン関係者は、山本さん、矢澤さん、北川さん、圓佛さん、岡崎さん、金子が参加しました。
会場では、内モンゴル歌舞劇院ソリスト歌手のオドバルさんがお祝いの歌を歌い、二見さんのお祝いの会を盛り上げました。
2006年06月09日
5月例会記録(2)
5月例会記録
■山本紀久雄 氏の発表
「鉄舟が旅で学んだ最先端思想」
栗原さんのお話を聞いていると自然体ですよね。
今日の午前中は修善寺の曹洞宗の寺に行ってきた。還暦得度された方が修行にこられる寺。定年になった方がお坊さんになるための修行所。
寺は山の中になり、寺を守る尼僧に何を食べているか聞いたところ”その辺りにあるものを食べている”と。
我々の「その辺」だと冷蔵庫だけれど、尼僧の「その辺」というのは草花。すごい自然な生活をしているからでしょう、目が澄んでいる。
その前の日は、伊豆長岡の三養荘という旅館~4万2000坪の敷地、1泊7万円以上~に招待されまして、着物の美女80名いるところで大宴会していた。
昨日、今日で極の経験をした。
三養荘では、温泉の今後迎えるであろう問題について話してきた。温泉の専門家として認められつつあるようなので、ご必要があれば世界の温泉について詳しくお話する。
午後は神田の古本屋街を回っていた。
「剪画」の「剪」に「紙」をと描くと「剪紙=きりがみ」といい、免許証のことを指す。鉄舟15歳のときに、久須美閑適斎から新陰流の免許皆伝の剪紙をうけた、というが免許のことですね。
山岡鉄舟はいろんな方が研究しており、8代目坂東三津五郎もその一人。三津五郎さんは、芸風が良く、エッセイストクラブ賞も受賞しており、歌舞伎界の生字引といわれた方。歌舞伎に「慶喜命乞い」という演目があり、山岡鉄舟を研究したらしく、三津五郎さんが大森曹玄先生と対談して鉄舟について語っているので、どんなことを語っているかご紹介する。
昭和20年8月15日は日本が敗戦した日。日本は混乱に陥った。138年前は幕末の明治維新で、江戸市民も同じように大混乱に陥った。当時江戸市民にとって一番偉い人は将軍で、京都にいる天子様は関係なかった。将軍様が大阪から帰った途端、上野の山に隠れてしまった。天子様からの命令で官軍という薩長の輩が攻めてくる。攻めてきたら江戸は焼けてしまうだろうと大混乱に陥った。鉄舟が駿府で話しをつけてきたけれども、戦いたいと彰義隊が来るなど多忙であった。江戸幕府は戦う気持ちであり、戦うのをとめたのは鉄舟・海舟、あと数人だけ。流れに反抗した鉄舟は多忙な中、出入りの植木屋、畳屋の職人や役者に会って、自分の仕事を昨日と同じようにやるだけだ、ということを一人一人に説得した。来るかこないかわからないことに右往左往して、混乱するよりも、混乱のときこそルーチンの生活を守ることがおまえの仕事であろう、生き方であると語り、江戸っ子は納得した、と8代目三津五郎が大森先生との対談で語っている。
昭和20年8月15日に誰一人として、鉄舟のように日本国民に向かって、戦争に負けたけれども今までのように仕事をしてくれ、といった人がいない。鉄舟が居たら言ってくれたろう。
戦争に負けたから切り替えて明日からのために生きたらどうか、と言った人が日本中にたくさんではないが居たと思う。ただ、鉄舟のように影響力のある人、世の中を一言で黙らせてしまうような人が昭和20年8月15日いなかった。
8代目三津五郎さんは、そのように言いたかったのではないか。明治天皇があれだけ立派な天皇になられたのは鉄舟がいたから。鉄舟は研究すればするほど、敵わないと思わせられる人物ですね。
鉄舟も、生まれたときから大人物であったのではない。人には自分自身を作りかえたターニングポイントがある。鉄舟のターニングポイントは沢山あるが、一番は15歳のとき、兄と一緒の伊勢参りの旅。長旅に出た理由はわかっておらず、父親の代参という説もあるが、元服の記念に行ったのではないかと考えている。当時の武士のたしなみは剣と禅であり、常識として身につけるものだった。鉄舟は剣と書はやっていたが、禅をやる機会がなかった。20歳になって禅をはじめたときは命がけですさまじい修行の後、悟った。
あるところで、“悟ることは簡単なこと”というお坊さんの話をきいた。天気だな、ごみ捨ての日、と気づくのも悟る。大きく考えなくても、簡単にいえば日々納得することが悟るである。
では鉄舟はなぜ簡単に悟らなかったのだろう。20歳から修行に入って、明治13年にやっと悟った。鉄舟の悟りの修行と、「ごみを捨てる」悟りとは雲泥の差がある。お坊さんのいうことも一理あるでしょうが、私たちは鉄舟を研究しているのだから、鉄舟の悟りの深さ、勉強のすさまじさを見習いたい。
鉄舟は生き方の型をみつけるために悟ったのではないか。生きる型を知らないままに生きると上達しない。定石を知らず囲碁や将棋を打つようなもの。
先日の温泉旅館では、存在価値を文化的に伝えていく型についてお話した。
旅館の経っている土地、過ごした歴史、現在、今後の希望がミックスされたものが、時代の流れと適合しているか、していないなら、どうするか、と。
同じように我々も自分の生きる型を持たなかったら、時代に翻弄されてしまうのではないか。自分に納得させる時間が必要。それが鉄舟にとっては15歳のときの旅だった。
誕生日に"1日1日熟成した人生を送りたい“とおっしゃった方がいた。
”熟成”をどうやって判断しますか?年齢は時間軸で決まる。しかし内面的
な「熟成度」は、自分自身で測るしかない。
日本人はどういう人間かというと過去の行動をみれば、思い込んだら命がけのところがある、ということがわかる。第2次世界大戦では、中国と泥沼の戦争をして、なぜ超大国のアメリカに挑んだのか?日本の軍事力は2分すれば弱くなるのだから中国との戦争をやめて、アメリカ一本にすればいいのに。戦争が終わり、経済成長になり、バブルになって、バブルが崩壊という過去を見れば、集団的一方方向に行きやすい国民である。バブルのときも戦後も鉄舟みたいな人間がいて、止めたら止まったかもしれない。
我々は、冷静な判断に欠け、情緒的に、一方方向に行きやすい面がある。
熟成という言葉よりも他人からの"立派だな"という評価の方がいいと思った。
鉄舟の話しに戻るが、江戸時代の旅のイメージは、追剥ぎがいる、女性の一人旅はできない、飢饉があちこちであって野垂れ死にしているという悲惨なものでしょうか。
お伊勢参りは最盛期に年間60万人が行っていた。当時人口3000万以下なので、相当な人数。伊勢参りにはお金がかかるので、地域で講つくり、お金を出し合い、積み立てられたお金で、伊勢参りに行っていた。講は全国で439万軒あり、2200万人にお伊勢講に参加した。人口の85%がお伊勢講に参加できる、旅籠や休憩所、道など旅に必要なインフラができていた。15歳の少年はもちろん、15歳よりも小さい子も行っていた。江戸時代は、水も病院も提供できる豊かな基盤があったことを証明している。
今の温泉利用の仕方は、だいたい1泊で温泉入ってあがったらビール一杯。温泉をそういう場所にしていませんか?
お伊勢参りは、願掛けが終わったあとの精進落としが楽しみで参加している人がいた。寺社詣と温泉はセットになった成長産業だった。我々の今の温泉利用方法は江戸時代から身についてしまっている。外国からみたら、日本の温泉は温泉と認められていない。日本は温泉大国と思っているが、利用の仕方がヨーロッパからみると温泉利用になっていない。
鉄舟は旅先で出会った方から先端思想(リーディングエッジ)を知った。
私もリーディングエッジを求める旅をしていて、その結果を雑誌『ベルダ』に書いている。世界を見ていると日本の未来に来るであろうことを噛み砕いて書いている。旅は非日常空間に身を置くことで、新しいことを受け入れ、感覚が新しくなる。旅行に行ったなら新しいことを見つけていないとだめ。
鉄舟は、旅で2人の人物にあった。藤本鉄石(鉄舟と因縁になる清河八郎に教えた人物で天誅組に参加した倒幕人物)から『海国兵談』という当時発禁本を借り、写した。林子平が書いた本で、日本の海岸線の防備を警告する内容だったが、幕府は危険思想だと発禁処分にした。
もうひとりは父親が伊勢の神官であった足代弘訓から国学の話を聞いた。
~彼と話したかどうかは確実ではないが、その後の鉄舟の行動を見ると、話をしたと思われる。~国の中心に天皇がいるということを知っていたから、国を一つにしなければと考えられた。そうでなければ、官軍に抵抗する側にまわったと思う。
そういうことの理解するためには構造問題を知らなければならない。
心理学者の斎藤氏から聞いたお話を紹介する。雨が降ったら、傘さしますね、雨=原因、傘を差す=結果。しかし傘を差したら、雨が振るとは限らない。
この例なら誰でもわかるが、実際には同じことと理解してしまう。
人間の思い込み、構造の違い、自分にわからないことがあることを、初めて知った。今までの考え方をここで知り、その修行に入ったのではないか。
江戸幕府は続いていたから考えなくても生きていけた。ペリーが来たり、外国の船が日本中の周りに来ているのは知っていたが、考えることと真剣になるのは違う。日本は中国(清)を見習ってやってきた。その見習うべき超大国がイギリスに負け、ここで初めて、日本という国を意識したと思う。
日本という国のアイデンティティ、どういう存在なのか、日本らしさとは何か、ということを日本人が初めて考えた。そこで生まれたのは国学思想です。
「日本」を「自分」に切り替えて考える。自分というものはどういう存在なのか、自分のアイデンティティは何か、自分らしさとは何か、そういうこと。
鉄舟を研究するということは鉄舟を通じて、自分は何か、自分とはどういう存在なのかを追求する旅をしようと思っているのではないかと思っている。
そういう意味で鉄舟という歴史を勉強するときに、~鉄舟は○月○日に何をしたかと事実を争う研究もそれはそれで立派なことだが~なぜ鉄舟はそういう行動を取ったかを考える。
無血開城ができたのは、慶喜の命令を受けたから駿府行ったためでしょうが、当時一番の有力者西郷隆盛を説得したのはほとばしる人間力によってでしょう。
鉄舟には、何のためにいくのか、行く以上は自分らしさとは何か、アイデンティティを考えて発した迫力があったから会談が成功した。
真実は何かという行動解明のための歴史の勉強が大事。鉄舟を通じて、時代は違うけれど、鉄舟を取り上げることで、時代の構造問題を究明していくことが鉄舟研究会の役目ではないか、と最近はそう思っている。
先月はPHPの『本当の時代』の読者の会で話をしてきました。
最近あちこちで話すことが多い。これからも研究をしてまいります。
【事務局の感想】
山本さんのお蔭で、自分は鉄舟研究をしていないのですが、鉄舟に関することを様々な角度から知ることができます。同時に鉄舟を今の時代において考えたときにどう生かせるか、どうなるのかなどを学ぶことができます。しかもリーディングエッジという最先端の事柄を山本さんの傾向を知ることができる。このような勉強会は、鉄舟サロンのほかにはないのではないかと思います。昔を未来に生かす鉄舟研究を、次回も楽しみにしています。
5月例会記録(1)
5月例会記録
栗原一氏
「この10年で考えていること~出逢に感動、今を大切に生きる」
自己紹介並びに現在行っていることとして聞いていただければ有難く思う。
ここ数年、先祖から引き継いだ土地で有機栽培・無農薬栽培をしている。
野菜と出会って、作った野菜をお届けして、感動に感動を与えたという話しをする。
埼玉県の熊谷の西別府に住んでいる。熊谷というと、壇ノ浦合戦に出陣した熊谷次郎直実がいた。隣の深谷市には日本経済を支えた渋沢栄一がいた。
農業が主でその土地にあった作物を作って生活を立てているところ。
日本全国絹織物が盛んになった時代、養蚕が盛んな土地だったが、産業が変わり養蚕もなくなり今は米、小麦、野菜作りが重点。
農家の長男として生まれて、家で食べる分プラス肥料代くらいになるように野菜を作付けしている。
私は、ある人と出会ってから、皆さんとめぐり合う機会を得た。
昭和60年に仲間内の研修会があって、富士山のほうへ精神的に修行に行った。そこで体験をしたことから鉄舟会に参加し、皆様の前でお話する場に出られるようになったのではないかと解釈している。
どのように野菜をつくるかは、肌で感じたことや両親がやって見せてくれたことをそのままにやっている。作物というのは、その土地にあった作物を作っていれば問題ない。
通常は、運搬・倉庫業・引越しをやっている熊谷通運というところで働いていて、運送会社の倉庫で荷役作業をしている。一日中フォークリフトに乗って働いている。
出会いに感動して、皆様とお会いして、自分が好きでやっているのが有機栽培。
有機栽培を会社組織でやっているところもあるが、資金がないので、大きくやることは中々できない。以前は、米、小麦、養蚕、酪農もやっていて、野菜はそんなに作っていなかった。20年前くらいに酪農を止めて、野菜にした。土が肥えているのでまぁまぁの野菜が出来て、皆様に喜ばれている。
家族構成ですが、母、女房、子ども三人。長男家族に孫がおり、恵まれた生活している。何も逆らわず、自然体で生きているから、恵まれているかなとおもう。感じたら動くようにしている。頭で考えるのは嫌いだから。
畑で土を耕していると、鉄舟会を思い出す。皆さんの顔を浮かべながら、作物と対面して、土を耕耘し、汗を流している。鉄舟先生の教えに従いながら、自分にがんばろうと意識付けている。
数年前から「書」も書いている。書も単に書きたくなったから書いていて、誰に言われたわけではない。自由きままに栗原一の字として書いている。まだまだ書ける字は少ないですが。
(栗原さんのかかれた「動」「感動」「情」が展示されています)人間の原点というものは動くことから始まるのではないかと思う。だから動くことは大好き。老いも若きも動かないと始まらなくて、情や感謝を込めて行動すれば相手にも伝わって、自分の人生が楽しくなるのではないかと思う。
書も数年前に始めて、友人にどこかに出したら?といわれて、そんなときに新聞をみていたら、三重県・伊勢神宮の奉納書道展というのがあると知った。そこに一年を通じて、どんな文字を書こうかと考え、どんなことをやろうかと考え、出品したのが「動」という文字。2年目に出したのが「感謝」。私生活の中で「ありがとう」を言っていると円満に過ごせて、良い方に向いてくる。
3年目に出品したのが「情」愛情・友情、情にはいろんな情がある。真心という意味をこめて「情」という文字を書いてみた。自分が書く書は、褒められる・上手になるのではなくて、自分の気持ちに意思をつけるために書に託している。上を見たらキリがない、自分は底辺を歩んで、道端の雑草・石のごとく踏んだりけられたりしながら生きている。
自分で書に点をつけるなら、作品に申し訳ないが25~30点くらいだと思う。上を見ると文部大臣賞、総理大臣賞・伊勢神宮宮司賞、教育委員長賞とかあるが、下から3段目の賞・金賞をとった書。この書をみて何か感じたら行動に移していただければありがたい、と思う。
昨年、女房の母親を亡くして、自分の親を亡くしたときよりもがっくりきているときに、筆を持った。人間原点に返って、無になれば良いのではないかと思い「無」という文字をかいた。
宮澤賢治の「雨ニモマケズ」という有名な詩がある。自分にあった詩がある。みんなにボンクラ(詩では「デクノボウ」)と呼ばれ、「慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラツテイル」いくらか自分に似ている詩だと思っている。そういうものに私はなりたい。
ひとつ作物を例にとってお話ししたい。春の野菜は暖かくなりかけたころ、3月のお彼岸を目途に種を蒔けばいいといわれている。長期予報やデータを取って教科書のようにやっていると、自然は怖いもので、なかなかうまくいかない。私は彼岸の中日3月20日を目途に耕して、きれいにして、大地に一粒一粒、種から育てる。次第に地温も上がって、発芽して、ポツリと芽が出たときの感動は、本当にやってみた人じゃないとわからない。それから雑草や虫との闘いが始まる。ほとんど消毒する手間や肥料をやる手間がない。やればいいものができるが、その手間がないので自然に無農薬になっている。虫も生き物なので殺さないでつまんでいる。自然の法則で、野鳥が食べてくれるから。
夏、炎天下の中で泥寄せする。人間でいうと、夏に土をかけるのは、人間とすると布団被って寝ることだと聞いている。葱は泥を嫌う。いくらか寒くなってきた10月ごろに畝を作って、白い葱ができるように泥を寄せていく。
冬の野菜小松菜・ほうれん草・白菜だとか、いろんな種を蒔いて、その年に出会った人に、食べさせてあげたいと思っている。汗をかいてつくったものを本当に気のあった人、出逢った人に食べさせてあげるというのが生きがい。
大事なものとか良いものは人にはあげたくない、と思うが、作っていると次第に食べさせてあげたいと思う。そのあげたいと思う気持ちの発端は、お袋・女房です。恩師に作った野菜を贈っていて、今は自分がそれを引き継いでいて恩師に送っている。
野菜を送ると感動して礼状をいただく。あげたくてあげて、食べてもらいたくてあげて、それで本当に感動したと、電話や礼状もらうと、感動が感動や感謝、ありがとう、動いてよかった、心をこめてつくってよかったと思う。そういう気持ちになっておれば、子どもたち・親たち、みんな見ていると思う。
孫たちも自分の姿を見ていれば、伝わってくると思う。
今を大切に生きている。自分も自然な生き方になっている。
本当は話の流れや資料を作らなければならないが、肌で感じた実話を話したいのであえて何も用意しなかった。日垣さんから話しを聞かせてくれ、と言われた。こういう席にきて、なるようになる状態になってしまった。
資料も準備も何もないので、書を持ってきた。
栗原一の字で、1月27日埼玉県熊谷市に降った初雪を溶かしてすった文字。
雨や雪を嫌う人がいるが、雨や雪が降らないと困る人がいる。自然の恵みを何かに残したくて、文字は初雪を残しておいて、溶かして使っている。
芋の葉が私の丈くらいあって、朝もやの中、朝起きて、瓶をもって芋の雫を取りにいくのが本当に楽しい。昔の人も朝露で文字を書いた人がいたらしいが、真似ではなくて、自分もやりたいと思った。
そのように文字を書いて…書くというか、自分では描く(えがく)といっているが、書道はじめて丸10年。師匠である行徳哲男の教えを受けたのが21、22年前。研修を受けていなければ、底辺を歩んでいる道端の石ころのような自分が、皆さんと出会うきっかけはなかった。鉄舟会の皆さんと出会えて自分は本当に幸せ者だと思っている。農作業していたら出会うきっかけはなかった。鉄舟会のおかげで、本当に私は楽しい人生を送っている。
野菜をあげる、ということは、お袋と女房が走り。人にあげるといっても兄弟や近所の人にあげて、だんだん輪を広げて遠くの方にもあげるようになった。今は、北は北海道・札幌、南は九州、沖縄の人たちにも食べてもらっている。作っていると本当に楽しくて、遊び心があって、疲れがなくて、ストレスってどういうものかわからない。頭で考えない。朝起きて鳥に餌をあげて、畑が心配だったら、畑に行く。鳥も20羽くらいいる。烏骨鶏(うこっけい)、アローカナ(青い卵を産む)に餌をあげて、 一日が始まり、土日を利用して畑に行っている。畑の広さは坪数にすると300坪のところで、友人が畑に来てこんなに沢山の量を家で食べるの?と聞かれて、人にあげていると教えている。どんな土か見たいと幸手から人が来て、土をみて、たまげて帰った光景もあった。
熊谷は地形が良くて、背には赤城・日光、右には妙義・浅間、前には秩父連山がある、そんな地形で農作業して、疲れたら梅の木の下や紅葉の木の下で一息ついて、無農薬栽培をしている。
世界を極めた元WBCの世界チャンピオンのガッツ石松さんに2年前、30周年記念パーティに招待されて、女房・倅夫婦と一緒に行った。奥様からいつも新鮮な野菜をありがとうございました、といわれたときも感動した。ガッツさんにも私の野菜を食べてもらっている。きりがないけれど、感動が感動を呼んで、底辺の自分でも損得考えないで野菜作っていて、本当に良かった。
今日は本当にこのような席で、諸先輩方の前で、失礼なこともあったと思いますが、この場に免じて、お許しいただければありがたいと思います。とにかく皆さん動いて、感謝して、情をこめて、ありがとうと言って動きましょう。ご列席ご一同様、また欠席の皆様も、いると思いますが、出会いに感動しております。最後になりましたけれども、もしも・・・もしも機会がありましたら今度は「花」をテーマに語りたいと思う。ご清聴ありがとうございます。(合掌)
【事務局の感想】
栗原さんの話を聞いているとレジメより大事なことがあると感じさせられます。内容が一番。それも生の体験、経験を自分の実感で話しているので、私たちに直接伝わってきます。栗原さんからいただく野菜はもちろん美味しい元気な野菜ですが、梱包の手間もいとわず、又自分の実家から送ってきたように至れり尽くせりなのです。その背景が今回わかりました。
発表にしていただきまして、感謝!多謝!