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2008年10月19日

「鯛屋旅館」に鉄舟書を訪ねる

静岡県富士市吉原商店街通りの「鯛屋旅館」に鉄舟書を訪ねる

山岡鉄舟研究家
山本紀久雄

東海道線吉原駅に降り立つと、ホームから富士山が見える。さすがに静岡県と納得する。吉原駅からは岳南鉄道に乗り換えた。
岳南鉄道は開業が昭和23年(1948)、正に団塊の世代の生まれで、今年は60周年の還暦を迎えている。

運行する列車車両はたったの一両で赤色。吉原駅のどこかに岳南鉄道と書いた看板表示物があれば写真を撮ろうと、切符売りしている係員に尋ねたが「そうですね・・・見当たりませんね・・・」というつれない返事。のどかなものである。全線で駅が10ヶ所しかなく、地域地元の足となって熟知されているので、看板などは必要ないのだろう。
ただし、さすがに車両の先頭運転席上部には岳南鉄道と表示されている。


さて、車両が吉原駅を出発すると、すぐに田子の浦埠頭の船が見え、倉庫が並んでいる地帯が続き、次に住宅が見え始めたかと思うと、もう二駅目の「吉原本町」。ここまでの所要時間は五分。

駅を出て、踏切を渡って、結構立派なお店が並んでいる旧東海道五十三次吉原宿、その商店街を歩いて五分、道路上空中に「つけナポリタンの吉原商店街へようこそ」の横断幕がある。これは何だろうと思いつつ、商店街の真ん中の「鯛屋旅館・吉原本宿」と書かれた看板の前に立つと、この横断幕の案内チラシがおいてある。テレビで報道された達人チャンピオン料理らしい。町おこしが盛んに行われている気配を感じる。

さて、「鯛屋旅館」の玄関に入ると、フロント脇に吉原街おこしのパンフレットがたくさん並んでいて、その向こうに「鯛屋與三郎」と板木に豪快に大書した鉄舟による看板が悠然と掲げられている。いつもながら鉄舟の書はすばらしい。看板の左には坂本竜馬の写真、右には「身延山 妙法講定宿」と書かれた板木が掲示されている。
「鯛屋與三郎」の板木説明書きには、鉄舟が宿泊代の代わりに書いたとある。これがちょっと気になる。鉄舟はこの旅館が気に入ったので、書いてあげたのだろうと推測する。

「鯛屋旅館」は天和二年(1682)創業で、今年で325年になり、店主は18代目であるから徳川幕府より長い。ここは鉄舟や次郎長の定宿であったとご主人の佐野大三郎さんが語ってくれる。
佐野さんは清水の「静岡鉄舟会」のメンバーであり、昨年の中央大学会館で開催された、山岡鉄舟全国フォーラムにも参加され、今年11月29日の明治神宮で開催されるフォーラムにも参加するという熱心な鉄舟ファンです。

さて、鯛屋旅館は最近、玄関から食堂までの一階を改装し「吉原宿歴史処」をつくり、フロント回りにも吉原の歴史をパネルで語るようにした。
その「吉原宿歴史処」の一角には、鉄舟が西郷隆盛との駿府会談に向う途中の危機を救った望嶽亭の本と、鉄舟会事務局長の若杉さんの著書も置かれている。また、食堂では「吉原本宿 歴史講座」が開催されている。熱心である。

ところでフロントの女性が「ここは東海道でめずらしい左富士ですよ」などと、ずいぶん吉原の歴史に詳しく説明してくれる。ご主人の佐野さんに「大変詳しい女性ですね」と伝えると「あの女性は町内会から派遣されているのです」との答えにびっくりする。吉原通りを活性化させようと町内会が熱心に進めていることが、このフロントの女性派遣体制に顕れている。すばらしい。

東海道五十三次の宿場で創業当時から同じ場所で経営されている「鯛屋旅館」。確か東海道筋で創業から同じ場所で継続している宿は二軒しかないはず。その長い歴史のお宿に泊まってみると一段と趣を感じる。

夕食では佐野さんと地酒の「鉄舟」と「次郎長」を傾け、鉄舟について語り合ったことをご報告し、「鯛屋旅館」の鉄舟の書を訪ねる報告としたい。

投稿者 Master : 15:13 | コメント (0)

2008年10月17日

2008年10月例会の記録

2008年10月15日
時代の変化が京都で現出化した
山本紀久雄

1.ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)で「山岡鉄舟書展」開催

日本コーナーに25福の書が並んでいます。見事なものです。写真撮影自由ですので、撮影してきました。この書はすべて二松学舎大学の寺山旦中先生の持ち物です。
2001年にもこの博物館で寺山先生が書を書くプロモーションをされました。

2.筆禅道・・・故寺山旦中先生が主唱された筆で禅を行ずる意味

由来は鉄舟が大悟され「余、剣・禅の二道に感ずる処ありしより、諸法皆揆一なるを以て書も亦其の筆意を変ずるに至れり」と覚他されたこと、つまり、剣と禅で自覚するところがあって書の筆勢が変わったことから。

山岡鉄舟も国際化されているということですね。鉄舟の書は宇宙ですから、文字は我々にも読めません。でも力強さはイギリス人でも他の国の人でもわかります。常に前向きな勢いのある生き方が書からわかります。

山岡鉄舟のホームページに「山岡鉄舟の書を訪ねる」というページを作成しました。最初に自宅から近いさいたま市常泉寺に行きました。

明日から広島と大阪に出張し、帰りに静岡県の富士市「鯛屋旅館」に行きます。鉄舟と次郎長がしょっちゅうきて泊まって酒飲んだ旅館だそうです。
12月にお話したいと思います。

世の中変わりましたね。時代は現実状況として出てきます。新聞の報道にあるように1,000円も株価が上がって、その前は下がって、ようやく止まりました。これが世界中で起きています。
この代表例として、アイスランドのお話をいたします。
アイスランドは、人口が30万人です。20年くらい前は25万人でした。GDPが1兆2千億円で、日本の1/400です(日本のGDPは500兆円)。アイスランドでは主要な銀行が国のGDPの6倍もの資産を持っており、他の銀行の資産もあわせると10倍くらいになります。
ところが、このアメリカのサブプライム問題で、銀行のお金が回らなくなりました。アイスランド政府は、国のGDPの10倍も資産がある企業の面倒を見られません。面倒を見ようと思ったらお金を借りなくてはなりません。アイスランドの首相はあちこちに交渉し資金注入を行おうとしています。今はロシアと交渉しています。

このアイスランドの問題を世界に置き換えてみましょう。
世界全体のGDPがあり、その中で実体経済が行われています。例えばリンゴ1個を100円で買う、といったことです。
実はこれの6倍も7倍もお金の世界が広がっています。実体経済とお金の世界がイコールなら問題ありません。昔はこれらはイコールでしたが、実体経済の市場とお金の市場のバランスが崩れました。これが、サブプライムをはじめとする今の問題です。
どうしてそうなったのか。
それを説明するのは大変です。例えば、パソコンの中にどうしてメールが入ってくるか。どうしたらキーボードで「A」と打つと画面に「A」が表示されるのか、これが説明しきれないように、そういうものだと理解してください。
金融が大きくなりすぎて、金融の信用収縮が起き、世界中に問題が起きて、今のようになっています。

時代はいつか具体的になっていきます。一番分かりやすい例がアイスランドで説明できます。その点において、日本は蚊帳の外です。日本は全体のGDPよりも金融の世界の合計金額が少ないのでリカバリーすることができたのです。

余談ですが、ローンというものをどう考えていらっしゃるでしょうか。
この中にもローンがある方もいらっしゃいますよね。ローンを払えないと家を差し押さられるでしょう。家を出て、差し押さえられた家を売っても返済額に届かなければ、残った返済額を一生持って歩くでしょう。
実は、このシステムは、日本の常識、世界の非常識なのです。
ところが、アメリカで家を買うと、いくらでもお金を貸してくれます。ローンが払えなくなったら家を出て行けば良く、ローンは自分には付いて来ません。ローンは全部銀行の責任で、銀行は証券会社に売り、証券会社はサブプライムローンとしてあちこちにばらまいたのです。モラルハザードですね。家を買ってお金を払わない人がどんどん出てきた、というのがサブプライムローン問題です。時代の状況は必ず具体的な問題として表出するのです。

今からお話する清河八郎が活躍した時代、文久二年はすごい時代に始まりました。

3.清河八郎献策の浪士組が京都に向かったわけ  ※5へ

4.当時の京都の政治社会状況

(1)文久二年(1862)七月初旬、長州藩が従来路線の「航海遠略策」から大きく一転させ、「破約攘夷」という攘夷実行路線に藩是を決定した。

文久2年6月に薩摩の島津久光が1,000人の兵隊を引き連れて京都に上がってきました。
朝廷に幕府の改革を申し出るためでしたが、それを誤解して清河は、久光は幕府を倒すために京都に来たと尊攘志士に檄を飛ばし、日本中から尊攘志士を集めました。
しかし、実際は違いました。
久光が立たないならと自分たちがやろうと、尊攘志士たちは寺田屋に集まって相談していたら、それを察知した久光が腕の立つものを寺田屋に送り、薩摩藩同士で戦いが起きました。それが寺田屋事件です。

その後、久光は江戸に行き話しをつけました。薩摩藩の力が京都で、日本全体で力をつけてきました。薩摩が力をつけると困る藩が出ます。民主党が力つけると自民党が困るみたいなものです。長州藩が京都を牛耳っていましたが、薩摩藩によって力を落としました。
「航海遠略策」も長州藩が出していました。井伊大老が外国と条約を締結し、締約の翌年に横浜は開港しています。住んでいる外国人を追い払い鎖国するのは国際条約上出来ないでしょう。できないなら、認めておいて徐々に力をつけて、力を付けたら外国人に出てもらいましょうという順序立てた攘夷をしよう。長州の長井雅楽はそう考え、「航海遠略策」を出しました。穏やかな策だから、それに幕府も孝明天皇も乗ったわけです。
乗った結果、即攘夷できなくなってしまったので、幕府を「早く攘夷しろ」と追い詰められません。ですから長州藩は「航海遠略策」を一転させ、修好条約を破棄し、攘夷一本で行くと、藩主出席のもとに藩の方針を決めなおしました。航海遠略策は素晴らしいと認めていたのに長井雅楽は責任を取って切腹させられました。

(2)この頃から京都では尊攘過激派による天誅という暗殺、脅迫が発生。

(3)天誅の第一弾は同年七月、幕府派の九条関白家家臣、島田左近。

島田左近は孝明天皇の妹・和宮を家茂に降嫁させた人物で、暗殺されました。
岩倉実相院で、事務係が260年間書いていた日記が平成10年に見つかりました。
その『京都岩倉実相院日記』には島田左近の殺され方が書かれてあります。その無惨さは、京都所司代が誰の死体か分からないほどでした。

(4)公武合体運動を進めた岩倉具視、千種有文、富小路敬直、久我建道と、女官の今城重子と堀河紀子は「四奸二嬪」とされ、一部廷臣や尊攘過激派に脅迫され、ついに官を辞し、頭を丸めて京都郊外に住む身となった。岩倉邸には幕府派浪士の片腕が投げ込まれるほどだった。九条関白も辞職し、同じく頭を丸めて謹慎した。

文久二年の当時の岩倉は謹慎しないと殺されてしまう、そのくらいでした。

(5)当時の脅迫者について中山忠能は次のように述べている。「かれらは長薩藩士でなく、浮浪烏合の者で、勤王問屋といわれている。まったく勤王を名として、今日を暮らし、その説が追い追いに伝染している」(開国と攘夷 小西四郎)

中山忠能は明治天皇のお祖父さんです。
「勤皇」と言えばなびくくらい力をつけたので、縦横無尽に動いていると書いています。

(6)ところが、近年、明らかになったのは、「四奸二嬪」に対する排撃と天誅は、驚くべきことに摂家の近衛家から薩摩藩への依頼によってなされていたのである。だが、近衛家も、九条家の動向には疑心暗鬼、九条家側の配下による暴力におびえきっていて、公卿政争は、幕府側(前関白九条ら)と薩摩派(関白近衛ら)の陰惨きわまる暗闘にも発展していたのである。(幕末・維新 井上勝生)

(7)次の天誅標的は同年八月の目明し文吉であった。安政の大獄の際、志士の逮捕に当たった者であり、屍は三条河原にさらしものにされた。

目明しを殺されては、部下の岡っ引きも同僚の目明しも恐ろしくて動けなくなります。そうなると町中盗賊が捕まえられなくなります。

(8)同じ八月に、外国貿易を行っていて、以前から天誅を加えると脅迫されていた、葭屋町大和屋庄兵衛の店を浪士が襲い放火した。

火が出ても怖くて所司代も来ません。他に火が回らないようにするだけです。

(9)さらに十一月、井伊大老の謀臣長野主善の妾たかが、隠れ家を襲われ捕われ、三条大橋の柱に縛り付けられ、生き晒しにされた。捨て札に「この女、長野主善妾として、戊午(安政五)年以来、主善の奸計あい働き、まれなる大胆不敵の所業をすすめた」とあった。

(10)天誅は京都町奉行所の与力、同心、その手先や関係者にも及んだ。結果として奉行所全体が士気沮喪し、治安機能が喪失していった。

このとき、治安を司る政府はどうするでしょうか。
守りを固めるしかないですね。
ところが、町奉行はダメ、目明しは殺されてしまい閉じこもってしまっています。
こんなとき、誰を連れてくるでしょうか。
それは、力が強いものを連れてくるでしょう。それが、会津藩です。ここで、戊辰戦争の際に会津が徹底的にやられる原因が出てきます。会津は昔から武の藩です。松平容保を連れてきて京都所司代にします。親藩ではないが、力が強いので、その力を借りました。

(11)翌文久三年(1863)二月には、平田国学(平田篤胤の主張した尊王国学)の有力門人が中心となって、等持院の足利三代木像を梟首するという事件が発生した。岩倉実相院日記に「足利氏のように朝廷を軽んじて、自分のしたい放題のものは、たとえ今の将軍であっても、このように梟首するのだ」と斬奸状が記録されているように、これは幕府を侮辱したものであるから、京都守護職が犯人を逮捕しようとしたが、町奉行永井尚志や与力等は、在京の諸藩・浪士を逆に激昂させるだけだと、反対するほど消極的であった。だが、何とか逮捕した結果は、長州藩はじめとして外様諸藩が猛然と抗議を広げ、在京の浪士も同調するなど無政府的状態となっていた。幕府の権威は地に落ちていた。

5.京都に向かった浪士組の実質リーダーは鉄舟。問題は芹沢鴨だった

清河八郎はそういう時代の流れを掴んでおり、諸藩の状況も、京都のことも知っていました。
自分の罪が消えるとわかったときに、市中にいる浪士を集めて警備隊を作る提案を幕府にしました。幕府としても、困っていたときに解決案が提示され、タイミングがピタリと合いました。
どんなに良いことをしても、会社で良い案を作っても、タイミングが合わないとダメです。タイミングを見すぎると遅すぎます。

ものを見るときには、時代の流れを見ます。
私は時流研究家を専門にしております。いつもは時流研究家として、時流の話をしています。努力しなくてもうまくいく場合がありますが、努力を越えた時流が来ることもあります。そのために、力は蓄えておかなければなりません。

清河八郎はお金をもらって浪士組を作りました。家茂将軍が上京する際に、治安の悪い京都に行き、護衛してほしいと頼まれました。
清河は浪士組を提案したときに、幕府から旗本にならないかと言われたのを断ったので、幕府から疑いを持たれ浪士組から外されました。浪士組を提案したのは清河ですが、実際は山岡鉄舟がリーダーとして、京都に向かったわけです。

一番の問題は芹沢鴨でした。芹沢は天狗党の出身で、300匁(1.1キロくらい)の鉄扇を持っていました。鹿島神宮の太鼓の音がうるさいと太鼓を破ったり、自分の部下でも気に入らないと首を切ってしまうし、捕まったら牢屋で、小指を切ってその血で「俺はおかしくない」と書いたといいます。

浪士組は中仙道(中仙道:蕨・浦和・大宮・上尾・桶川・鴻巣・熊谷)から京都に向かいました。本庄宿で宿割りの池田徳太郎と近藤勇(翌年には新撰組の組長になっていたが、このとき宿屋の配置係だった)が、芹沢鴨の部屋割を忘れていました。謝罪しましたが、芹沢は夕方になったら材木を集めて道路の真ん中で火を焚き出し、池田徳太郎と近藤勇が三拝九拝して火を止めたという話が残っています。(『新撰組始末記』子母澤寛)

このような芹沢鴨に、鉄舟もさすがに頭に来て、京都に入る前に「浪士組を脱退して江戸に帰る!」と言いました。浪士組の実際の中心は鉄舟で、鉄舟が帰ってしまったら浪士組がばらばらになってしまい、自分と幕府の関係が悪くなる。そうなれば自分の将来はないと思い、芹沢は謝りました。そういうことなどあり、浪士組はようやく京都に入りました。
浪士組から新撰組が分かれ、新しい展開がありますが、これは次回話します。


ロンドンで行われた鉄舟の書の展示会は、大変格式があるところで行われました。
鉄舟の書が文化として受け入れられ、高く評価されたと感じました。

日本は、150年経って世界に評価されています。では、150年前の日本はどういう国だったのでしょうか?
現在、漫画・アニメーション・歌舞伎など、日本の文化が認められています。パリでは源氏物語をモダンに描いた今西さんの絵画がユネスコ本部に展示されています。

日本文化が世界に認められているのは、明治維新をうまく繰り抜けたからです。明治維新のときに国内大騒乱になっていたら150周年なんて祝えないわけです。

現在、アメリカもイギリスもフランスもスイスも大変です。フランスではルノーのゴーン社長が4,000人の退職者を募集しました。日本は現在、そういうことはないでしょう。素晴らしい国です。危機的状況だ、と騒ぎ立てるメディアもありますが、世界は危機でも日本はそんなことはありません。

また、日本は昔と比べて物騒になったといいますが、世界中が物騒になっています。昔と比較したら今は悪いかもしれませんが、世界と比較したら比較優位です。過去の日本と比較し、世界と比較し、総合判断すればいいのです。ですから、日本は素晴らしいと申し上げているのです。

150年前、日本人のある一部が大論争をした結果、時代の転換期に必要な世界観を説いた人がいました。
しかし、それに対して、徳川家譜代として260年間生きてきた人がいます。鳥羽伏見の戦いで、ちょっと争っただけで負けたけど、まだまだ軍事力は残っているのに、一度も戦争もしないで江戸城を無血開城しても良いのかという筋論があります。志道です。
侍の道を大事にする人から見れば、一度も戦わないで負けてしまうなんてとんでもない話です。
戦うべきではないか。
相手は16歳の少年天皇を冠にしているにすぎないではないか。
海軍では、無傷の新しい軍艦をたくさん持っていて、戦争できるのに・・・と。

薩摩藩には薩摩の志道があり、薩摩の殿様の言うことを聞きます。長州藩も志道があります。徳川の志道もあります。
しかし、いざというときにやるのが武士ではないか、という考えを捨てさせた人がいます。
その人は、一体どうやって捨てさせたのでしょうか。

こういうことです。
日本国内ならおっしゃる通りだが、それは日本国内の話であり、ペリーが来てからは外国との関係になっているのではないか。枠組みに諸外国が入り世界観が変わっているのだ。日本が成長するためには、思想を変えないと成長が立ち止まってしまう、と説いたのです。
それを行ったのは、勝海舟でした。

勝海舟は、江戸城を無血開城して、日本全体として、日本の中の争いを捨てて、日本を大きくしませんかと、新しい枠組みの世界観を説いたのです。
改革は少数であり、前例がありません。新しいことは未来だから問題点がいっぱいあります。古いことは問題がなくなっています。勝海舟の世界観は問題だらけですが、世界がどういう方向に向かっているのかを知っています。改革を成功させるには、いろんな手を使い説き伏せることが必要です。改革するために、条件を整えることが行動の基準です。

改革には、勝海舟のように世界観を変えようと提案するプランナーと、実行してくれる人が必要です。
そこに突如として出たのが山岡鉄舟です。
世界観はないけれど、理解することはできます。宇宙から世界を考えていました。鉄舟の持っている行動力・意志力が必要とされたわけです。慶喜から指示されて、海舟を経て西郷に会い、西郷隆盛に話をつけてきました。鉄舟と西郷隆盛との交渉は、正式なものではありませんでした。しかし、西郷隆盛と鉄舟の交渉がなければ、江戸無血開城はありえませんでした。
勝海舟は思想を提示しました。鉄舟はそれに従ってぶれることなく行動したのです。鉄舟は明治天皇の侍従になったときも生き方はぶれていません。
そこがキーポイントです。
思想家と行動リーダーと、二人のリーダーが必要なのです。

世界も同じです。今、アメリカは大統領選挙です。新しい大統領がどちらになるにしても、混乱しているアメリカ経済のシステムを新しい世界観で、ハッと思わせるものを出せるかどうかです。これが出来ないとアメリカの未来はありません。
日本は、それを出せない首相が過去に2人いました。残念です。

鉄舟を学ぶということは、今の時代と通じることは何か、ということを学ばないと意味がありません。


【事務局の感想】
鉄舟の生きざまを現代に生きる私たちがどう活かしていくか。そのヒントとして、山本氏は「ぶれない」ということを示されました。
ぶれない生き方とはどのようなことなのか。
それは、時流をつかみ、おのおのの生き方の指針にとりいれていくことのように思います。
このことは、『鉄舟全国フォーラム』にてさらに明らかにされることでしょう。
鉄舟全国フォーラムをお楽しみに。

以上

投稿者 lefthand : 09:01 | コメント (0)

2008年10月16日

10月例会の感想

秋も深まってまいりました。とてもよい季節です。
そんな上機嫌のある秋の日、鉄舟会・例会が行われました。

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今回も初参加の方がお見えになりました。
鉄舟に並々ならぬ情熱を燃やしておいでのご様子。
いろいろお話をお聞きできそうで、とても楽しみです。
末永いお付き合いを、是非お願い申し上げます。

今月は、童謡合唱の面倒を見ていただいている高橋育郎先生の、音楽事始第3回でした。

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西洋音楽は、学校唱歌として明治期に導入されました。
しかし、最初はなかなか日本人に馴染まず、試行錯誤があったといいます。
最初の唱歌は、賛美歌であったそうです。しかし、賛美歌であることを表には出せず、日本に馴染む歌詞をつけてカモフラージュしつつ、普及を図ったのだそうです。
物事の黎明期には、私たちの想像を絶する苦労と努力があったことが窺われたお話でした。


続いて、山本紀久雄氏の鉄舟研究です。

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今回、山本氏はイギリスで開催されている「山岡鉄舟展」を取材されました。その様子は『ロンドンで鉄舟に出会う』エントリーにありますので、是非ご覧ください。

●エントリー『ロンドンで鉄舟に出会う』

さて、清河八郎です。
清河は、浪士組結成の建白を幕府に提案しました。これは、とても絶妙なタイミングで行われたのです。機を見て策を練り上げる清河の時代編集能力は素晴らしいものでした。

改革には、それを導く指導者が必要です。
それも、改革を思想的に導く「提案者」、そして、改革を実行に導く「実行者」の2つの要素を強力に推進するリーダーが、それぞれに必要であるのです。
それが、浪士組においては清河であり、鉄舟であったのです。
時代はその場面場面で人材を要求し、それに適う振る舞いをした人物が登場したとき、歴史の歯車は大きく動くことを、この時代の偉人たちのエピソードから実感することができます。


幕府は清河の提案を容れて浪士組を結成しました。
浪士組の最初の任務は、京都に向かうことでした。
その浪士組の実質的なリーダーが、鉄舟だったのです。
京都での浪士組の顛末は、次回をお楽しみに。

(田中達也・記)

投稿者 lefthand : 22:58 | コメント (0)

2008年10月12日

ロンドンで鉄舟に出会う

ロンドンで鉄舟に出会う
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

今年は、安政五年(1858)に徳川幕府と米英仏蘭露の五カ国が修好通商条約を結んで150年に当たる。
それを記念して各国で様々なイベントが開催され、そのひとつとしてロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)で「山岡鉄舟書展」が開催されているが、こちらは鉄舟没後120年も併せてであり、期間は九月三日から十二月十四日まで。鉄舟も国際的に認識されつつある。




9月27日土曜日にV&Aを訪ねてみた。
同館はロンドンのサウスケンジントン駅から歩いて10分。
世界中から蒐集された膨大なコレクションが所蔵展示されている。


 正面玄関を入り、ホールを右手に行くとJAPN展示室があり、そこを入って右側壁面全部に鉄舟書が展示されている。真ん中あたりに展示されている「龍虎」大書が眼に飛び込んでくる。鉄舟の書はロンドンでも異彩を放つ迫力である。

 鉄舟のほかに海舟と泥舟の書もあり、最後に故寺山旦中先生の書も展示されていることから分かるように、二松学舎大学教授であられた寺山先生所蔵書によっての開催である。

 寺山先生は筆禅道、これは筆で禅を行ずる意味であるが、その由来は鉄舟が大悟され「余、剣・禅の二道に感ずる処ありしより、諸法皆揆一なるを以て書も亦其の筆意を変ずるに至れり」と覚他されたこと、つまり、剣と禅で自覚するところがあったら、書の筆勢が変わったということであるが、この後継者が寺山先生で、二〇〇一年にもV&Aで寺山先生所蔵の書展を開催していたことから、今回も展示されたのである。

それにしても鉄舟の書をロンドンでも著名な博物館で堪能した楽しいひと時であった。

投稿者 Master : 13:43 | コメント (0)

貧乏生活其の二

貧乏生活其の二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

山岡鉄舟の貧乏は世間の常識を超えていた。

しかし、山岡家に養子として入るまでは貧乏とは縁がなかった。六百石の旗本小野家子息であり、その後飛騨高山代官という恵まれた経済環境の下で子ども時代を過ごし、両親の死去により江戸に戻ってからも、遺産相続のお金があったため、貧乏とは関係ない生活をしていた。

だが、山岡静山の剣に感服し、人格に心服した結果、静山の長女英子の懇望もあって山岡家に養子に入って生活環境は一変した。

当時の山岡家の経済状況は弟子の小倉鉄樹が「山岡家はその当時は没落してたしか二人扶持金一両という足軽身分である」(『おれの師匠』島津書房)と語ったように、もともと貧乏家庭であり、娘に習字手習いをさせていなかったほど、山岡静山の家計は相当厳しかったのである。 

その事実を小倉鉄樹が次のように述べている。

「英子は貧乏生活のため、読書にいそしむことがないまま鉄舟と結婚したが、その後は読書、習字を一心不乱に学び、晩年はなかなか上手くなって、手紙等をみると師匠と間違えるほどであった。絵も上手になった。

明治21年12月3日の大阪毎日新聞の記事に『山岡紅谷女史は故鉄舟居士の未亡人なるが頗る写生画に巧みにして来春を期し当地に来り揮毫せんと、即今其の支度中の由に聞く』とあるが、これは偽者で当時鉄舟の名声が高かったので、こういう偽者が各所に出没したのである」(『おれの師匠』島津書房)

このように英子は貧乏であったから、鉄舟と結婚してからから文字を習ったのである。
 
このような貧乏山岡家に、生来衣食住に関心がない性格の鉄舟が入ったのであるから、さらに大変であった。一般の人であれば、貧乏ならば何かで働くということで、収入の道を探すことが普通であるが、鉄舟の関心事は剣・禅の修行のみで、他のことには一切興味がなかったから、結果はますます貧乏になっていった。

しかし、鉄舟自身は貧乏なことには一切執着しない心の修練を積んでいたので、周りからみれば貧乏生活で大変だと思っても、鉄舟にとってはなんということなき毎日であった。

 その貧乏の程度であるが、ご飯などは三度々々食べられることは、一ヶ月のうちに何回もなかったという。大抵は一度か二度で、全く食べるものがなく水を飲んで過ごすことの多々あったらしく、その状況を次のように鉄舟自ら述懐している。

「何も食わぬ日が月に七日位あるのは、まぁいい方で、ことによると何にも食えぬ日がひと月のうちに半分位あることもあった。なぁに人間はそんなことで死ぬものじゃねえ。これはおれの実験だ。一心に押して行けば、生きて行けるものだ。おまへ等もやって見るがい、死にはせんよ」(『おれの師匠』島津書房)

これを聞いた小倉鉄樹が「大燈国師(妙超・南北朝時代の禅宗の僧)の遺戒にも『道を修る者、衣食の為にする勿れ』と戒めているのと思い合わせて、山岡などの心の用い方が常人と違っていることがしみじみ感じられる」と述べているが、これに対して現代の我々はどのように考えたらよいのであろうか。

確かに、太平洋戦争敗戦時に、国民は飢えに苦しんだ過去がある。だが、これは日本人全員に降りかかってきた災難であり、そこから脱皮すべく努力した結果が今日の繁栄をもたらし、今では、飽食が問題でメタボリックシンドロームなど肥満が多い生活環境下になって、空腹ということを経験したことがない人が殆どである。

 また、貧しくて食えなければ、そこから脱皮するために何かをする、お金を稼ぐために何かをする、それが時には悪事に走ってまでお金に執着することが当たり前になるほどの世相であるが、鉄舟の場合、その当たり前のことをした気配がない。

これをどのように理解したらよいのか。普通人の考え方では理解不可能である。

 鉄舟の貧乏話を続ければキリがない。

 食うものがなく幾日も過ぎ、とうとう知人のところに行って、米を貰ってこようと出かけようとしたが、山岡家には外出するために履く下駄がなかった。下駄はあるにはあったが、履き古して薄っぺらとなり、片方は割れてしまっていたのである。

 そこで鉄舟は、雑巾を懐中にしまい、裸足で知人の屋敷に出かけたのである。知人の屋敷玄関に着き、懐から取り出した雑巾で足を拭き、玄関から客室に上がり、そこで申し訳ないが米を貸してもらえないかと無心したことがあった。

 知人は「今は当家の米も少ないので、これを持っていって米に換えてください」と若干のお金を差し出して、ところで、久し振りだから一杯やりましょうと酒が出された。

 酒宴が終わり、鉄舟は懐にお金を入れ、お礼を述べて帰ろうとしたので「山岡さんのお帰りだ!」と知人が大きな声を出し、女中が急いで玄関に行って下駄を取り揃えようとしたが、鉄舟の下駄がないのでうろうろしている。

 そこに鉄舟が玄関に現れ、奥さんと女中が「おかしい」とまごつき下駄を探している中、「御免」と一声、脱兎の如く裸足で玄関を飛び出し去った。

 翌日、知人が新しい下駄を使いに持たせてくれたという。

 次は、鉄舟が子爵に叙せられた時のことである。 

鉄舟が亡くなる少し前、明治二十年五月のこと、子爵内命を受けた時に詠ったのが
 「食ふて寝て働きもせぬ御褒美に 蚊族(華族)となりて又も血を吸ふ」であった。
また、当時勝海舟にも子爵に叙すべき内命があって、海舟は次のように気持ちを詠んだ。
 「いままでは人並の身と思ひしが 五尺に足らぬ四尺(子爵)なりとは」
と一首を吟じて辞爵し、その結果、ついに伯爵を得たといわれている。

この経緯をもって、二人の人格を表していると論評し、海舟を貶す人が時折いる。

 さらに、海舟も若い時は鉄舟に負けないほどの貧乏で、座敷の裏板を剥がして薪物に代えたほどであったが、亡くなる時は蓄財があったので、そのことも鉄舟との比較で「海舟は死して金を残し、鉄舟は徳を積んで無一物であって、そこに二人の人間としての差がある」とも述べる人もいる。

 しかし、これは海舟がかわいそうである。幕末から江戸にかけての海舟の業績は誰もが認めるものであり、海舟が持ちえた広い世界観があったからこそ、江戸から明治へ大波乱なく時代が動いたのである。

また、若い時の貧乏時代の苦しみを忘れず、二度とそのような事態に陥らないよう、生活設計を講じていく生き方は普通のことであり、死ぬ時に財産を残したといって非難されるのは心外であろう。海舟の場合、一大混乱期を一生懸命国のために働き、生き抜いた結果の証明として、財産が残ったと考えたいし、多くの人が子どもや子孫のために、相続財産を残して逝く実態を批判されるなら、財産相続を否定することになりかねないし、そのような生き方をしている方へ冒瀆ともなりかねない。

 だが、ここで考えてみたいのは、鉄舟の生き方を海舟と比較することである。鉄舟は世にも稀な人間であり、普通人ではない。

 第一回の連載(2005年6月)で司馬遼太郎の鉄舟評価をお伝えした。

「山岡鉄舟はミスター幕臣といってよい存在でした。非常に立派な人で、侍の鑑というような感じだった。自分を完全にコントロールできた精神の人です」と述べているように、極めて高い人間力の人物で、一般常識では判断できないほどのすごさなのですから、鉄舟を誉めることはよいとしても、鉄舟と海舟と比較評価し、海舟を陥れるような論評はしない方がよいと思う。それだけ鉄舟は偉大な存在である。

さて、鉄舟は講武所世話役として入所したが、講武所の稽古が形式的で生ぬるいのに憤慨し、木剣を構え講武所道場の一寸ばかりの欅羽目板めがけ、得意の諸手突きを入れ一寸欅板を突き破ったという逸話を前号でお伝えした。

では、どうして講武所の稽古が形式的で生ぬるい状態であったのか。

このことを説明するには教授頭の男谷精一郎について触れなければならない。男谷は積極的に他流試合を行ったが、その試合ぶりが変っていた。

最初の一本は必ず自分がとる。次の一本は相手にゆずり、三本目はまた必ず自分がとるのである。どれほど強い相手でも、どれほど弱い相手でも同じであった。何とかしてもう一本とろうとして向かっていっても、誰も同じ試合の結果となってしまう。一体、どこまで強いのか底が知れない、というのが男谷精一郎であった。

性格は柔和で、妻や召使を叱ったことはなく、朝は自ら座敷を掃除し、射場で弓を試み、静かに朝餉をいただく。さらに、武芸以外に文学に深く、静斎と称して書画をよくした。男谷家も下級旗本であったが、次第に出世し、文久二年(1862)には従五位以下に叙し下総守に任じている。海舟と男谷が従兄弟同士であることは前号で触れた。

この男谷精一郎に鉄舟は師として尊敬したのは当然であろう。だが、日が経つにつれて男谷の持つ柔らかな強さと、鉄舟が持つ容赦しない若さの強さの間、そこに何か違和感を鉄舟は感じてきた。剣技のおける資質の違いともいえよう。

十年後の鉄舟であるなら、男谷の境地を理解し、自分自身を反省させ、自らに男谷の絶妙の剣技を取り入れたであろう。

男谷は鉄舟に対し、しばしば忠告した。

「お主の剣は鋭すぎる」と。また、「酒に溺れてはいかぬ」と。さらに、「女に溺れてはいかぬ」ともいう。
鉄舟にとってはそのとおりの指摘で、反論する余地はないが、何となく敬遠するようになっていった。男谷を尊敬しながらも、避けるようになっていったのである。当然、講武所の稽古に出向くことが少なくなる。

もう一つ、鉄舟が講武所を避けた理由は、講武所風という異様な風俗に問題を感じたからであった。

この当時の講武所へ通う侍は、第一に、帯をゆるく締めていたことであった。これは長い刀を帯していたので、それを抜こうとして居合腰になる都合上、わざと帯をゆるくしめたのであった。

第二は、髷のゆるいことであった。これは面を被る時に、あまり堅く締まっていない方がよいということからであった。

ここに月代を狭くし、冬は鼠色木綿、夏は生平の割羽織、真岡木綿の揃いの袴に黒緒の下駄、白柄朱鞘の大小に、撃剣道具を肩に担いで大道を闊歩し、喧嘩は吹っかけるし、乱暴も働いた。

さらに、この頃、いしたたき張という煙管が流行り始めていた。いしたたき張というのはいしたたき(石敲き。槌で鉱石を打ち砕く意味で、たえず尾を上下に動かす習性からセキレイの別称)の尻尾のように吸口の方が細くなっているものであり、講武所に通う者たちが、面をつけたままで、ヒゴ(面の鉄籠)から煙管を吸うために、こういうものをつくりあげて、世の中に広めていった。

当時流行った「ちょぼくれ」、これは小さい木魚二個を叩きながら、阿呆陀羅経などに節をつけて口早に謡う一種の俗謡であって、それを謡いながら米銭を乞い歩いた乞食僧であるが、江戸時代の幕政批判をこめていたといわれている。頭に「ちょぼくれ、ちょぼくれ」の囃子詞を入れていたものであるが、このちょぼくれで講武所が批判された。

「講武所始めたところが、稽古にゃなるまい。剣術教授大馬鹿たわけが、何を知らずに、勝手は充分、初心につけ込み、道具のはずれを、打ったり突いたり、足柄かけては、ずどんと転ばせ、怪我をさせても平気な面付、本所のじいさん(男谷精一郎)師範なんぞはよしてもくんねえ、高禄いただき、のぞんでいるのがお役じゃあるめえ、門弟中には、たわけをつくすを、叱らざなるめえ・・・」

男谷の余りにも温和な性格が、「ちょぼくれ」で批判されていたことが分かる。

幕府も、この風儀の頽廃に対して、以下の様に掟書を出して諫めた。

一、武を講ずるは肝要なり、弓剣槍の芸も学び、礼儀廉直を基として、武道専ら研究致すべき候こと。

二、生質不器用にて弓剣槍は能く致さず共、五倫の道に叶ひ、行状正しく候へば、恥辱とすべからざること。
上の条々一統大切に心得、油断なく相励むべく候・・・面々心得違いなく勉励致すべきものなり。

鉄舟は、このような講武所風という異様な風俗に嫌気がさしていた。

勿論、鉄舟の激しい試合振りも、粗暴という点から指摘されるべきところがあり、ちょぼくれの批判に該当したかもしれないが、鉄舟は何よりも武芸を怠ること、見栄体裁優先の外形的な講武所から去り、再び玄武館の方に熱心に通い出した。

この頃、山岡家の貧困はその極に達していた。次回も貧乏物語をお伝えする。

投稿者 Master : 13:03 | コメント (0)