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2007年11月25日

11月例会の感想

11月21日、鉄舟例会が執り行われましたので、その様子をお知らせいたします。
前月は全国フォーラムということで、何だか久方ぶりの例会のような感じでした。

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今回は内容盛りだくさんでした。
矢澤さんには明治神宮「秋の大祭」に参加されてのご感想をいただきました。
そして、いつものように童謡・唱歌で緊張をほぐし、いざ発表へ。

今月は、「エコライフ・コンサルタント」中瀬勝義さんに『エコライフへの目覚め』をご発表いただきました。

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中瀬さんは、ご専門を活かされてエコ、つまり資源、エネルギーなど多角的な面から環境問題を考え、「中瀬流」のエコライフを提唱し、自らそれを実践されています。
その中で、「日本列島総自転車論」はなかなか面白かったです。
自転車のエコロジー度に着目し、日本の交通をすべて自転車にすれば、二酸化炭素排出などの問題が解決するばかりでなく、健康にも寄与する、さらにはゆっくり時間をかけて旅行ができる・・・という、中瀬さんの壮大な夢には、可能・不可能を論じるなどという小さな枠に収まらない情熱を感じました。
ちなみに、自転車の利用率というのは世界中で日本がダントツトップなのだそうです。いわゆる「ママチャリ」というのは日本にしかなく、世界的に見れば自転車は「スポーツ」であって通勤・買い物の足ではないのだそうです。これは驚きました。
先日、芝公園を歩いておりましたら「自転車タクシー」なるものが街を走り回っておりました。中瀬さんの夢もあながち荒唐無稽なものではないかもしれません。

続きまして、山本紀久雄さんのご発表。

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今月も「鉄舟が貧乏生活をした本質にせまる」シリーズをお話しいただきました。
世の中がこれまでとまったく違うものに変わろうという「異常事態」の中で、何が異常で、何が正常なのか。
後世において高く評価されている明治維新という一大事業は、当時「異常」な世の中において、一般に「正常」な判断と考えられていたのか。
その中で、鉄舟は何を見つめていたのか。
そこに、鉄舟の貧乏生活の意味と意義が隠されている・・・。
詳しくは講演記録をどうぞ。

(田中達也・記)

投稿者 lefthand : 21:22 | コメント (1)

2007年11月08日

無私の精神

無私の精神
   山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

山岡鉄舟が明治天皇の侍従に選任された経緯について、江藤淳氏が次のように解説している。

「天皇というのは元来、お公家さんの総帥ですね。明治天皇だって、後に軍服をお召しになって、けいけいたる眼光を光らせておられる写真をみれば、どっちかというとプロシャ的な君主の感じがしますけれども、践祚されたころはおはぐろをつけて薄化粧しておられたんです。・・・中略・・・

京都の朝廷のほうはどうかというと、古典的な教養はもちろんあります。有識故実とか、敷島の道、その他いろいろあるでしょう。しかし、武張ったことの下地はぜんぜんない。平安朝以来そういうことは北面の武士にやらせて、自分ではやらないたてまえですから。
そこで明治になってから、明治新政府をになった薩長中心の下級武士たちがはたと気がついたことは、天皇をこのままにしておいちゃいかん、天皇がみやびやかな、なよやかなものであってはならない。天皇にはもっと武士的になっていただかなければいけないということだったにちがいない。そこで山岡鉄舟が扶育係になります」(勝海舟全集11巻 講談社)

江藤淳氏は勝海舟評論の「海舟余波」という名著もあり、幕末から明治にかけての史実に大変詳しい文筆家である。その江藤氏が鉄舟を明治天皇の侍従とは表現せずに扶育係と述べている。「扶育」という意味は「世話をして育てること」(広辞苑)であるので、それをそのまま適用し理解すると鉄舟が明治天皇を育成したことになる。

慶応四年(千八百六十八)一月十五日に、明治天皇は元服の儀を執り行われた。十五歳であられた。この十五歳という年齢から勘案すれば、維新ならびにそれら続く多くの重大な改革・変革時に、天皇自らの御発意で治世上重要な貢献をなしたとは考えにくい。

しかし、明治天皇はその治世時から後世に至るまで、その御存在が改革・変革期における日本人の心の拠り所であった、ということは疑うべくもない事実である。

つまり、明治天皇は自らの研鑽努力により、その類稀なる資質を見事に開花させたのである。しかし、その開花の初期揺籃期に、鉄舟が御傍近くで日常深く接していたということが大きく、そのことについて江藤氏が「扶育係」と述べた理由と解釈したい。

しかしながら、扶育係の目的を「もっと武士的になっていただかなければいけない」と述べていることには異論がある。

明治天皇の日常生活と行動を記録している宮内庁編「明治天皇紀」(吉川弘文館刊)、これを基にしてロナルド・キーン氏が明治時代史「明治天皇」上下二巻(新潮社)を出版している。つまり、明治天皇の伝記を著しているのであるが、この中で鉄舟が登場するのはただ一ヶ所だが、その部分は重要な意味合いを持っている。

「天皇の酒の強さについては、近臣たちの数々の思い出話が残っている。例えば、侍従高島鞆之助は次のように語っている。『御酒量も強く、時々御気に入りの侍臣等を集めて御酒宴を開かせられしが、自分は酒量甚だ浅く畏れ多き事ながら何時も逃げ隠れる様にして居た。所が彼の山岡鉄舟や中山大納言(忠能)の如きは却々の酒豪で、斗酒猶辞せずと云ふ豪傑であったから聖上には何時も酒宴を開かせ給ふ毎に、此等の面々を御召し寄せになっては、御機嫌殊に麗はしく、勇壮な御物語を御肴として玉杯の数を重ねさせ給ふを此上なき御楽しみとせられた。而も聖上の当時用ゐさせ給ひし玉盃は普通の小さいのではなくて下々の水飲茶碗を見るが如き大きなる玉盃に、並みゝと受けさせられては満を引かせ給ふが常であった』」

このように鉄舟は明治天皇が御酒宴を開くときの格好の相手であり、その御酒宴では「勇壮な御物語を御肴として玉杯の数を重ね」とあるように、話に花が咲いて明治天皇にとってもっとも楽しいひと時であったことが容易に推察できる。

鉄舟の酒量は並でなく、晩年は胃を悪くして酒量を制限したが、それでも晩酌は一升ずつであったと、鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹が(『おれの師匠』島津書房)で述べているほどの酒豪であったから、若い頃から酒の上での逸話は事欠かない。いずれ詳しく述べたいが、酒豪の鉄舟は明治天皇の御酒宴を開くときの常連メンバーであった。

酒飲みならばお分かりと思うが、気の合わない人と酒を飲んでもつまらない。酒は気心許した人と飲むのが一番である。ということは明治天皇の御酒宴に付き合う人は、明治天皇が気を許した人物ということになり、その人物、つまり、御気に入りの侍臣等を相手に多くのお話をすることになって、そこでは当然ながら明治天皇からの御発問と、それに対する侍臣等からの御応えが会話となって、時によっては談論風発、明治天皇の心身に大きな影響を与えたことは容易に予測がつく。

さらに、明治天皇が京都の朝廷育ちであるから、世情、民情、下情、つまり世相に対しても詳しくない上に、御酒宴に付き合う鉄舟は極端な貧乏暮らしを嘗め、その上江戸無血開城から始まる多くの修羅場を踏んで来ているのであるから、明治天皇にとっては世間、巷間、俗間という世上を知る格好の相手であったろう。

つまり、明治天皇の一般社会に対する理解の基本を、鉄舟が御酒宴を付き合うことによって御奏上したことになったはずである。全く生きた世界が違う同士であったが故に、鉄舟の御奏上が明治天皇の心身に入っていったと思う。このことを江藤淳氏が「扶育係」と表現した真の意義と考えたい。単に「武士的になっていただかなければいけない」という意味ではないと考える。

だがしかし、いくら鉄舟が明治天皇にとって、世間、巷間、俗間という世上を知る格好の相手であったとしても、それだけでは偉大で賢明であられた明治天皇は納得しなかったであろう。京都の朝廷内で古典的な教養、有識故実とか、敷島の道、その他いろいろと学んでおられたのであるから、単なる下世話的な会話のみでは好まない。そこには天皇として、為政者として、何かあるべき姿への参考となり、得るべきものが存在していなければ、いくら酒豪であっても御酒宴のお相手は続かなかったであろう。

その明治天皇がお持ちになれず、鉄舟が持ち得ていたもの。それは何か・・・。

前号でお伝えしたように、鉄舟が二十三歳のときに一人で創りあげた「宇宙と人間」、それは「民主主義ともいえる概念」であって、今の時代に生きている人間には当たり前で何ら不思議はない。

だが、ただの一度も外国に行っておらず、勝海舟が咸臨丸でアメリカ・サンフランシスコに向かった万延元年(1860)より二年前の安政五年(1858)五月、これは安政の大獄は九月であるからその四ヶ月前に、独りで「宇宙と人間」図を創りあげていること、それは、鉄舟という人間が只者でないこと証明している。

その只者でない鉄舟が持ち得ていた「民主主義ともいえる概念」を基盤に発する鉄舟との御酒宴内容は、明治天皇にとってはこれからの時代を見通す新しい思想を感じられる場であり、驚きであり、新鮮な感覚であったと推察される。それらが重なって鉄舟が明治天皇に評価され、受け入れられたのではないかと考えたい。

さらに、鉄舟が「宇宙と人間」として図表化できたのは、物事を整理する力量があることを示している。しかし、注意したいのは、ここで言う整理する力とは、一般的な意味での整理力ではない。社会から発する物事の基礎的な分野から、組み立てていけるという意味での整理力である。

社会は矛盾だらけである。矛盾を呑み込まなければ生きていけない。だから、多くの人は矛盾を呑み込むことをよしとする世界に行く。

ところが、鉄舟という人間は違った。社会の矛盾をとことんまで突き詰めること、矛盾を乗り越えるというよりは、矛盾の中へ忍び込み、矛盾の向こうに突き抜けてしまうということを鉄舟はしたに違いない。

黙って矛盾という大海原の中に身を投げ出し、その海底から這いずり上がる過程で、「宇宙と人間」という思想体系を創りだし、加えて、鉄舟が持つ本来の稚気とも独特の義勇ともいえる人間的魅力をも引き出したこと、それを整理力と表現したいのであるが、その結果として、明治天皇からもっとも親しい人物として受け入れられたのだと考えたい。

さて今回は、どうしてそのような只者でない思想を明瞭に体系化でき、どうしてそのような独特とも考えられる魅力的な人間力になれたのか。その解明をしたいと思って検討しているのであるが、その解明にはもう少し鉄舟の子ども時代を検討しないと難しい。

鉄舟が十五歳の正月、次のように修身二十則を認めた。

(修身二十則)
1. うそはいふ可からず候
2. 君の御恩は忘る可からず候
3. 父母の御恩は忘る可からず候
4. 師の御恩は忘る可からず候
5. 人の御恩は忘る可からず候
6. 神仏並に長者を粗末にす可からず候
7. 幼者をあなどる可からず候
8. 己れに心よかざることは、他人に求む可からず候
9. 腹を立つるは、道にあらず候
10. 何事も不幸を喜ぶ可からず候
11. 力の及ぶ限りは、善き方につくす可く候
12. 他をかへりみずして、自分の好き事ばかりす可からず候
13. 食するたびに、かしょくのかんなんを思ふ可し、すべて草木土石にても、粗末にす可からず候
14. 殊更に着物をかざり、或はうはべをつくらふものは、心ににごりあるものと心得可く候
15. 礼儀を乱る可からず候
16. 何時何人に接するも、客人に接する様に心得可く候
17. 己の知らざる事は、何人にてもならふ可く候
18. 名利の為に、学問技芸す可からず候
19. 人にはすべて能不能あり、いちがいに人をすて、或はわらふ可からず候
20. 己の善行をほこりがほに人に知らしむ可からず、すべて我が心に恥ぢざるに務む可く候

 嘉永三年庚戌正月 行年十五歳の春謹記
                        小野鉄太郎

この修身二十則を認めた嘉永三年(千八百五十)十五歳の年は、鉄舟にとっていろいろと記念すべき年であった。

まず、正月に今の成人式に当たる元服を迎え、この年に書の師匠である岩佐一定から弘法大使入木道五十二世を伝承され、さらに父の小野朝右衛門高幅の代理として伊勢神宮参拝し、この旅で二人のすぐれた人物、藤本鉄石からは林子平(1738-93)の「海国兵談」の写本を借り読み写し、当時の先端的国際情勢をつかみ、もう一人は伊勢神宮神主の子であって、歌学、律令、有職故実に通じ、特に古典の考証にすぐれ多数の著述を残している足代弘訓から、国学思想を学んだ。

このように十五歳という嘉永三年は、その後の鉄舟に大きな影響を与える特記的事項が続いた。しかし、弘法大使入木道五十二世を伝承しようとも、藤本鉄石や足代弘訓から学ぼうとも、それを受け入れる体制が鉄舟に備わっていなければ、焼け石に水であり、猫に小判である。いくら型が与えられても、また、教えられても、受け入れる側の対応力が不十分であれば糠に釘である。

だが、鉄舟は違った。この十五歳の正月に認めた修身二十則をじっくり読んでいただきたい。何ら奇抜なことはなく、平凡ともいえる内容であるが、平凡であるがゆえに全く異常ともいえる並外れたものである。

利得や享楽を求める現代人の多くの人たちにとっては、信じられない項目ばかりである。一つひとつを解説する必要はないと思う。一読すれば理解できる内容である。しかしながら、このような心得とも戒律ともいえるものを定める人はいると思うが、それを実行している人が存在しているかどうか。実行することはかなり難しい。しかし、鉄舟はこれを自ら認めると同時に実践したのである。

また、十五歳の少年が元服という記念の日に認めたということ、それはそれ以前から思想としてこのような精神と道徳感を持ち合わせていて、それを純粋に自らが行動する規範原則として整理できる能力を所有していたことを示している。

中でも、己の知らざるは何人からも学べと言い、名利のために学問技芸すべからずと諌め、人にはすべて能不能あるので差別するなと説き、わが善行を誇らず、わが心に恥じざるよう務めろとあるが、これは既に立派な大人であって、賢者ともいえるレベルの精神状態に達していて、とても十五歳の少年が書き示したものとは思えない。

人間の出来がもともと違うのだ、といってしまえば終わりである。何ら鉄舟から学ぶことができない結果になる。鉄舟ほどにはなれないけれども、鉄舟がどうしてこのような精神の高貴さを持ちえたのか。その本質的なところを解明しなければならないと思う。

そのヒントに考えられるのは「無私」の精神ではないかと思う。鉄舟は「無私」を自己研鑽の最高の徳目にしていたのではないかと考えたい。

その「無私」の精神を支えるには条件があるだろう。

その一つの条件は「真実を判断する力」ではないだろうか。様々な情報が目の前を通っていくのであるが、知的に自由な曇りなき目を持った柔軟な精神でないと真実は見ることができないはずである。歪んだ立場からの判断は真実を見つけられないのである。

もう一つは「徹底的に強靭な思想」を持つことではないだろうか。いかなる困難に出会い、その困難がどれだけ長く続いても、絶対に絶望しないで戦い抜くという意志を思想として持つこと。この強靭な思想を持っていないと、問題が発生するとすぐに逃げる道に向っていくことになってしまう。

この「真実を判断する力」と「徹底的に強靭な思想」を両立させることは、相当に難しいことである。並みの人間にはできないことであろう。

逆に言えば、この二つの条件を達成させようとするためには、その人の根本に「無私」の精神が存在していないとできないはずだろう。

そのことを鉄舟は十五歳までの人生体験から整理したのである。

しかしながら、この検討で鉄舟の並外れた人間力を解明したことには到底なり得ない。

次回も鉄舟のすごさについて、さらに思想面から検討を深めていきたい。

投稿者 Master : 11:10 | コメント (0)

2007年11月04日

第4回全国フォーラム 高田先生講演の墨蹟紹介

「第4回鉄舟全国フォーラム」高田明和氏の講演でご紹介いただきました、高田氏所有の鉄舟の書を掲載いたします。

※クリックすると拡大表示します。

投稿者 lefthand : 08:22 | コメント (0)

2007年11月03日

「人の出会い~次郎長と鉄舟の幕末と明治維新~」1/4 第4回全国フォーラム記録

2007年10月6日 第4回 山岡鉄舟全国フォーラム2007 
会場 中央大学 駿河台記念館

 「人の出会い~次郎長と鉄舟の幕末と明治維新~」
浜松医科大学名誉教授 高田明和氏

皆さんこんにちは。こんな立派な会にお呼びいただいて本当にありがたく思っております。山岡鉄舟に関しては、微にいり、細をうがちて、知っておられるかと思いました。いまさら本で読んだことを付け加えても、なんらの意味もないと思いまして、ご紹介に預かりましたように鉄舟の人生の中でもかなり重要な役割を担った清水次郎長とその養子である天田愚庵を介して、山岡鉄舟はどういう人物で、明治維新にどのような役割をしたか、私の考えを述べさせていただきたいと思います。

2年くらい前までは、清水次郎長に関係があるということは全く誰にもいいませんでした。私のいとこの子供に諸田玲子という作家がおり、読売新聞の夕刊に連載しており、その前は日経新聞の夕刊に『奸婦にあらず』という小説を連載して、新田次郎賞をもらっています。彼女がメインのテーマにしているのが清水次郎長の子分の大政や森の石松、お蝶さんらです。ところが我々関係しているものから見ると、よくもまぁこんなでたらめなことがいえるというくらいいい加減なことが書いてあります。何とかしないとこの話が歴史になってしまうというので、ついに2年くらい前にそのことを話しました。
たまたまNHKが深夜便で2回に渡って話しました。大変好評で、春秋社から『人生に定年はない』を出版させていただきました。

もう一つこのことを書こうと思ったのは、明治維新における人間関係の緊密さですね。医者ですからカウンセリングもするのですが、50歳くらいの兄弟はどこの家でも若貴に代表されるように兄弟の仲が悪い。だいたい、どっちかが偉くなっているから揉め事が起きます。あるとき浜松に居たときに大学の教授で、弟さんが地元で大きい事業を継いで大成功したという方がおり、一緒に酒を飲みに行くと、いじめられたときにオレが救ってやったのに、とはいて捨てるようにいうわけです。弟さんも兄貴にも世話になったと思うが、そこに「いつまで昔のことを言っているんですか」とお嫁さんが入ってくると、だいたい若貴の関係になってしまう。

山岡鉄舟は、明治になってからオーバーにいうと新政府側についた。当時の幕臣は惨憺たる人生を送っていたわけですね。鉄舟はそれを非常に気にかけて、旧幕臣が立ち上がって上野に彰義隊を作って立てこもったときに、もはや趨勢は決まったのだから反旗を翻してもだめだと収めようとした。
5月に西郷隆盛が勝海舟に、「勝さん上野で進軍します。山岡さんが夜も寝ずに是を収めようとしたこと思うと、気の毒でならない」といって、勝海舟が書いたところによると、西郷隆盛はほろりと涙をこぼした、とあるんですね。

明治になって、上野の山に西郷隆盛の銅像を作ることになりその除幕式に勝海舟は呼ばれた。年を取っていて出席することはできなかったが、代わりに和歌を送った。
「君あらば語らむ事のおおかまし南無阿弥陀仏我も老いたり」
(君が生きていれば、あのことも話したい、このことも話したい。話したいことはいっぱいあるんだ)この歌ほど人間関係の本質を示した歌はない。

旧藩士が西南戦争を起こして、大久保利通は収めるために軍を送って、ついに西郷隆盛を追い詰めて城山で自刃させた。弟の西郷従道が「兄貴の西郷隆盛が捕まったりしたら大変ことになる、兄貴は死ぬだろうな」と何度も念を押したという。
西郷隆盛は自刃したわけですが、薩摩藩士はこれを恨んで、大久保利通が出勤するときに紀尾井坂、今のニューオータニを通っているところに切りかかって暗殺した。
明治維新になって新政府ができたとき、大久保や木戸孝允や福沢諭吉は外国視察に行った。その間、西郷隆盛が留守番しており何枚もその当時の東京の状況を、大久保に手紙で送っている。襲われたときに大久保が読んでいたのが、西郷隆盛が大久保外遊中に送った手紙だったわけですね。海音寺潮五郎がこのことを書いている。明治が隆盛だったわけである。

実は昨日も静岡県の御前崎で静岡県仏教婦人の会で講演していました。
妙心寺、曹洞宗などいろんなお坊さんの会に呼ばれるようになった。あるとき四国のお坊さんの会に呼ばれましたら、そのあと檀家の悩みにどう答えるか、という会がありまして、それにコメントを頼まれ出席しました。
あるお坊さんは、自分の檀家には癌の末期で苦しんでいる人がいる。自分の子供が少しでも自立できるまで何とか生きたいといっている。この方に般若心境を唱えようと言っているとおっしゃった。
また別のお坊さんは、自分の檀家の息子さんは東京に出たがお母さんが年取ってきたので息子さんはお母さんを引き取った。しかしうまくいかない。いつも電話で愚痴を言っている。自分は般若心境を唱えようと言っている。

今の時代、般若心経を聞いて悩みがなくなるような方はおられないのではないか。
2500年前にお釈迦さんが亡くなったときに、こういうことをおっしゃった、このように指導されたということをお弟子さんが検討されて仏典ができ、多くの口伝ができた。

7世紀に玄奘三蔵がインドから中国に運んで、漢文に訳し『大般若経』600巻という膨大な教典ができた。ご存知のすべての経はこの中に含まれている。こんなたくさんの経をみんな読むことはできないだろうということで、そのエッセンスをまとめて262文字にしたものが般若心経です。
湯川秀樹先生は、現在の物理学的からみても全く間違いがない、つまりお釈迦さんがいかに宇宙の本質を見抜いておられたかががわかるという。
 経の終わりの1/4が呪文を唱えましょうという内容。「是大神呪」は偉大なる神秘的な呪文を、「是大明呪」たえなる偉大なる呪文、「是大上呪」比類なき呪文、その次にこの呪文はよくすべての苦を除くという言葉があって、「羯帝羯帝」という呪文が始まる。真言の神秘性を失わないために訳さないことになっているが、無理に訳すと「我々はみな釈尊と同じ永遠に続く心の持ち主だ」と山田無文老師は言っている。
般若心経がすべての苦しみを除く呪文だと思って唱えるのと、何が何だか解らない経と思って唱えるのでは雲泥の差があるのではないか、と思い本を書いた。

もうひとつ同じような経に観音経があって、観音経は、火にあたっても焼けず、水に放り出されても溺れず、悪人が刀を振り上げても、その刀がばらばらになってしまうとある。白隠禅師はこれを心から信じて、1週間夜も寝ずに「南無観世音菩薩」と唱え、ちょうど1週間目に焼火箸を腿に当てた。しかし見るも無残に焼け爛れた。修行が足りないと修行に出たけれども、途中でいろんなことがあって、あんなものは嘘だ、禅をやって心を磨かなければダメだ、と禅に入られた。
晩年に『観音経霊験記』を書かれた。中には京都の○○町に住む○○さんは、病気で死にそうになって意識がなくなってしまったが、みんなで一生懸命観音経唱えたら、意識が戻ってきてぴんぴんして今は生きている。奈良の○○町の○○さんは商売で破産して一文なしになったが、観音経唱えたらみんなで助けてくれてすっかり商売がうまくいった、などと嘘みたいなことが書かれている。
当時白隠禅師がおられた沼津・原のではお百姓さんは、字も書けず、読めない。そういう人に、座禅をしろ、釈尊の教えはなんだ、といっても解らない。そういうときに「南無観世音」と唱えればお前の病気は必ず直る、と言ったその言葉の中に白隠禅師の限りない慈悲を感じて、『念ずれば夢かなう』という本を書かせていただいた。

今日は、次郎長と山岡鉄舟の話をさせていただきます。

投稿者 staff : 13:36 | コメント (0)

「人の出会い~次郎長と鉄舟の幕末と明治維新~」2/4 第4回全国フォーラム記録

清水次郎長と高田家


次郎長・高田家家系図(クリックして拡大)

高田元吉は侍で、剣道をやっていたがそれだけでは食べて行けないと畳屋をやっていた。清水町の回送問屋高木三右衛門の次男に長五郎(次郎長)が生まれた。長女のとりが山本次郎右衛門と結婚して、そこへ次郎長が養子になっていった。長男佐十郎の娘・まつが、辻村の畳屋高田元吉と結婚して、次郎長の養子になった。
この元吉とまつの子供の次男・虎次郎の長男が高田璋一で、璋一の長男が私・明和です。璋一のお姉さんが静岡のお菓子屋にお嫁にいって、そこの孫が先ほどの諸田玲子です。祖母は昭和34年まで生きた。晩年は次郎長のことを私に伝えるのが唯一の使命と、いろんなことを伝えてくれて、私は今日ここに来ております。

清水次郎長と山岡鉄舟
鉄舟と次郎長はどこであったのか?望嶽亭の事件と言われるものはあったのか?鉄舟と次郎長が会った咸臨丸事件はどうして起こったのか?鉄舟は幕臣で旗本なのに、なんで侠客の親分である次郎長にあんなに肩入れしたのか?新門辰五郎など江戸には数限りなく立派な親分衆がいるのに、オーバーに言うと駿河の田舎にいる清水次郎長にあれほど肩入れしたのはなぜか。
鉄舟は、明治政府に入ってから静岡県の県令、茨城県の県知事、明治5年から15年まで明治天皇の侍従になった。新政府方につきました。それをよからぬと思った人はいたわけですね。鉄舟も幕臣の苦労を非常に気にしていた。


清水次郎長(左)/山岡鉄舟(右)(クリックして拡大)

当時いかに幕臣が苦労したか。上野に閉じこもった彰義隊が皆殺しにされるようなありさまだった。上野で360人くらいが死んだが怖がって片付ける人がいない。それで火をつけて焼いたが、焼けないので穴を掘って生めた。上野に閉じこもった彰義隊の連中が皆殺しになるところを、根岸のところだけ空けておいた。そこから逃れ、奥州道、中仙道へと向かい、ばらばらになって出てきたところを、待ち構えて皆殺しにしてしまった。実に悲惨な運命になったと子母沢寛が書いている。生き残った多くの幕臣は生活に困り何とかして生きるために太鼓持ちになったり、寄席の呼び込みをやったり、乞食をやったり、女子供はみんな遊郭に売られてしまった。
天田愚庵は、戊辰の戦で生き別れになった妹が遊郭に売られているのではないかと日本国中探して歩いた。妹を探すために顔が広い次郎長の養子になった。
あるところから藤沢の遊郭に品があり、おまえに非常によく似ている女がいる。どうやら身辺いやしからぬ侍の娘らしい、と連絡を受けて愚庵は会いにいった。彼女を訪ねると、彼女の父も兄も彰義隊の一員で、生活に困り娘を売ったのであった。二人はお互いの境遇を語り合い、悲運を思って共に抱き合って泣いたと天田五郎は大岡育造への手紙に書いている。
あの純情な鉄舟が、この話を知って平然としていられると思えない。それと同時に一種の嫉妬にも似たような非難を受けている。鉄舟があそこまで、剣と禅に打ち込んだ中には自分のみ恵まれてという慙愧の気持ちを振り払おうと思ったのではないか。


維新後の次郎長
次郎長は咸臨丸の事件で清水港に浮いている榎本の幕府の兵士を丁重に葬った。咸臨丸に乗っている連中が三保神社に逃げ込もうとしたが当時の神主が追い出した。それを恨んだ旧幕臣は、焼き討ちをかけようと三保神社を襲って大田神主は殺されます。このとき次郎長は身を挺して守った。それを恨んだ駿府に居た旧幕臣が次郎長を殺してしまえと、ある日次郎長の家に斬り込みに行ったときに、二代目お蝶が殺されてしまった。次郎長には新政府も旧幕臣も当てにならないという状態があった。
当時、侠客は力を持っていたので、侠客を中心に暴動が起こるのではないかと新政府は気にしていた。黒川辰三も官軍の味方をして東北まで進軍して東京に戻ってきた。お褒めの言葉を貰おうと思っていたが逮捕、処刑されてしまった。岐阜の弥太郎も、岐阜までに行く間「年貢半減」と言ったものだから殺された。次郎長も勢力が大きかったので、政府は常に身辺を探っていた。このような危険な時期に鉄舟のような政府側の大物の存在が次郎長にとって唯一頼りになる存在だった。

もともと江戸時代、刑法はしっかりしていたが、民法は甚だいい加減だった。敷地、遺産相続は長男が決めて、決まらなければ顔役が出てきて、それでも決まらなければ侠客が出てくる。明治に入り刑法・民法が出来ると実質的に侠客の力が不要になった。鉄舟は咸臨丸の事件で次郎長にあったときに、今までのような時代ではない、社会に貢献することが必要である、とくに心を磨けと禅にいそしむことを教えて、誠拙周樗(せいせつしゅうちょ)という高僧の話をした。
周樗は江戸中期、円覚寺の山門建立を祈願して、寄付を募ったところ当時の豪商・白木屋が、100両寄進しましょうといった。ところが周樗は「あぁそうか」と言っただけで礼も言わないので、白木屋もさすがにムッと来て「100両は我々にも大金でございます。少しはお礼を言ってくださっても良いのではないでしょうか」と述べると周樗は怪訝な顔をして「おまえが功徳を積んで、家の商売が代々繁盛して、病人が出ないようになるのに、何でわしが礼を言わなきゃならないのだ」と答えた。
次郎長は「一生の間にこれほど自分にとって大きい影響を与えた言葉はない」といっていたそうです。鉄舟は、この世の中に人のためなんかないのだ、すべては結果自分に戻ってくるんだということを口癖のように言っていたと小倉鉄樹が書いている。

徳川慶喜が寛永寺にきて、そのときの警護隊長高橋泥舟の妹と結婚していた鉄舟が推挙され、将軍の元に呼ばれる。
慶喜の頼みに、「鉄太郎がお引き受けしたからには、私の眼の黒いうちは決してご心配には及びません」と。
頭山満は「幕末三舟伝」の中で、「何でも話に聞くと、鉄舟はこの時、死ぬか生きるかわからぬ、一寸先は闇だというのに、家に帰って旅支度もそこそこ、サラサラと茶漬けをかっこんで出かけたそうだ。なあに、品川沖へ釣りにでもゆくような気軽さだったと見える」と書いている。
品川を越えると官軍の先鋒隊がいたわけでしょう。たくさんの官軍の中を突き進むのに、ピストルひとつ持っていても何の意味もないと思う。剣の達人であった鉄舟がピストルを必要と考え、携帯したとは考えられないと思っております。


望嶽亭に伝わるピストル(クリックして拡大)

望嶽亭事件
鉄舟が慶応4年3月7、8日にどこにいたかは不明である。7日に怪我して由比の倉沢の望嶽亭にいて、その夜に舟で次郎長宅に行き、8日は静養、9日に久能街道を通って駿府に入ったとされる。
次郎長が、政治に関与するようになり街道の秩序の維持を浜松藩の伏谷如水から依頼されたのは明治元年4月のことで、望嶽亭の事件は3月である。当時次郎長は由比では知られていたが、舟で鉄舟を迎え入れ、道案内するほど政治に関与していなかった。鉄舟の手記「両雄会心録」にはこのことは書いてない。あれほど几帳面で義理堅い鉄舟がこれだけの恩を受けて、全く記載をしないのは考えられない。次郎長は明治になり初めて鉄舟に会ったと祖母は常に言っていた。
鉄舟は剣を一生懸命にやった。裸になって御用聞きに「どこからでも掛かって来い」と竹刀を渡す。御用聞きが掛かっていって鉄舟が受け損なうと、もう一回と何度もやらせ、いつまで経っても終わらないものだから、段々御用聞きも来なくなったという。
これを次郎長が聞いて、鉄舟という人はちょっと違うお侍さんだと私の祖父の虎次郎に言っている。当時侠客は必ず用心棒として、免許皆伝なんて人をたくさん雇った。ところが両方が戦い出すと、剣豪と称する人は、手もなくやくざにやられる。竹刀の剣道なんて役に立たないという鉄舟の話を聞いて、このお侍さんは少し違うと思ったのが、次郎長が鉄舟に興味を持った最初だ、と祖母が繰り返し語っておりました。

榎本武揚が8艘くらい軍艦を集めて、函館に新しい政府を作ろうと向かった。途中松島沖で台風にあい、咸臨丸だけが流されて清水港に入った。政府軍は咸臨丸に切り込みをかけて乗組員を全員惨殺した。死体が港に浮かんだが誰も触れなかったのを、次郎長が手下を集めて丁重に葬った。当時慶喜が駿府に来て、鉄舟も海舟も何かの役割で駿府にいてその話をきいた。せっかく世の中が収まりそうなときに幕府の連中の死体を葬ったりするようなことをして新政府軍から恨まれたら困る。静岡の地方判事で松岡万という鉄舟のお弟子さんは、鉄舟に次郎長に会うことを薦め、次郎長にあった。
次郎長が、“死んだらみな仏さんだ敵味方はない”と言い、鉄舟はそれに感激して、次郎長はお咎めなしになったという有名な話がある。


咸臨丸(クリックして拡大)

大森曹玄は日本の武道の最後の剣道家は、山岡鉄舟と榊原鍵吉だと言う。榊原鍵吉は男谷精一郎の一番弟子で、道場を持っていて、剣道一筋で有名だった。榊原鍵吉の一番弟子が榎本武揚、二番弟子大塚霍之丞。有名な千葉周作は何回も男谷と試合したが敵わなかった。あれだけ剣を使うには粉骨砕身努力しただろうという言葉が伝わるくらい男谷は名人だった。
榎本が函館に行って負けて、自刃しようと思って、短刀を抜いた時に止めようとして、大塚霍之丞が刃を掴んだ。無理やりに榎本が刀を引いたから、指が三本切れて鮮血が流れ、榎本がハッとしたところを取り押さえ、刀を取って、榎本の自刃を止めた。
怪我をした者は病院に入り、榎本は、自分は後から行くからと全員に花と毒薬を送ったが、結局死なず、明治41年榎本は73歳まで生き、壮士の墓に葬られた。
鉄舟が次郎長に「生無一日歓 死有万生」 (生きて一日の歓びなく、死して万世の名あり)名をとどめることが大事と詠んでいる。


壮士の墓(クリックして拡大)

鉄舟は次郎長に社会事業のようなことをやらせる。一番有名なのは、富士山の開墾。元々幕臣は牧の原にお茶畑を作り成功した。次郎長は、富士山麓にお茶畑をつくろうとしたが、気候が悪くて大失敗だった。
静岡県になってからの最初の県令、大迫貞清は鉄舟と親しかったので、佐田清が報告のために「皇国の為にと開け駿河なる 富士の荒野のあらぬかぎりは」という歌も詠んでいる。
次郎長町という町名や、駅も出来、バス停もある。明治29年開墾記念碑を作った。英語学校はあまり長くは続かなかったが卓見だったと言われている。

   

明治26年、次郎長48歳のときに鉄舟寺をつくる。建立のために募金を集めた。なぜ鉄舟寺作ろうと思ったかが面白い。私の卒業した高校の卒業生で鉄舟寺の隣に住んでいるものがおり、私にそのことがわかる鉄舟の書をくれた。
弘法大師が西安に留学し、帰りがけに自分の持っている数珠を放り投げて、落ちたところにお寺を作ろうと祈願された。日本に戻られて四国を歩いていたら木の上に数珠が掛かった。そこにお寺を作った。四国八十八ヶ所のひとつになっている。   
それと同じように寺を作った。各村に仏教の雲を生んでくれることを願う、ということです。なかなか良い字だと思う。非常に立体的ですね。立体的なところが現れている点では良い字ではないかと思います。


鉄舟の書(クリックして拡大)

次郎長が清水に末広という旅館を始めたことをきっかけに当時の海軍軍人が
次郎長を訪ねるようになった。広瀬武夫は次郎長を訪ねいろいろ話をしているうちに非常に次郎長を尊敬するようになった。士官学校の同級生で、後に中将になった小笠原長生に次郎長を紹介した。小笠原は後に次郎長の伝記「大豪清水次郎長」を著した。広瀬はロシア大使館の武官で、旅順港閉鎖のときに行方不明になった杉野兵士曹長を捜し歩いたが、ついにボートで脱出するときに爆撃を受けて戦死。少佐が中佐になった。日本最初の軍神だった。


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「人の出会い~次郎長と鉄舟の幕末と明治維新~」3/4 第4回全国フォーラム記録

山岡鉄舟と次郎長、禅とのかかわり・剣
浅利又七郎義明と戦って、木刀で戦いあうと手も足も出ない。明治13年3月25日、昼間やった剣の構えのことを考えているうちに無心の境地に入り、29日に目を覚ましてみると、木刀を構えると雲のような浅利の姿が見えた。無敵の境地を得たということで、弟子の籠手田安定と剣を併せると、立っていられないという。無敵の境地を得たかと浅利を呼んで剣を合わせたところ境地を得られたと免許皆伝された。


免許皆伝書(クリックして拡大)

鉄舟が禅の印可を与えられたとき、滴水は江川鉄心にビールを出すように言った。一ダースを飲んで、次の半ダースも飲んだので、胃が少し悪いからやめなさいと言ったら帰った。滴水はその威風堂々たる鉄舟の様子を見て、あのくらいの悟りを開きたいと考えたと有名な言葉も今も残している。

小倉鉄樹さんが、師匠が稽古場に出てくると口も利かずに座っているだけだが、居る人はすばらしく元気になってしまう。頭が空虚になり、颯爽とし、英気にあふれるばかりである。あまり気分が良くて帰らず、はなはだしいのは夜中の2時3時までいる。師匠と話していると苦も何もすっかり忘れてしまうので帰るのも忘れてしまうと書いている。
無学祖元、中国に行ったときに賊に刀で首を切られそうになったとき詩を詠んだところ斬られなかった。その詩の中にある「春風を切る」というところから、春風館というのが出たんですね。
鉄舟の傍にいると身動きができなくなってしまうという。ものすごく強く行こうとすると相手も強くなる、こちらがゆったりすると相手が動く。
私も尊敬する人がいますが、大体において優れた人はゆったりしている。鉄舟は鋭くいかなくて、ゆるやかに行くと相手の気を覆うから不思議だと言っている。
鉄舟も次郎長の剣は奥義に通じている、剣もたいしたものだと言っている。次郎長が剣の抜き方で相手が上だとわかったら逃げる。だから負けたことがないというと、鉄舟は截相のときに相手を見抜く度胸が偉いといたく感嘆した。
気合は命がけだから、互いに構えて、こっちがじっと待っていると相手が斬ってくるから、それを斬る。

天田愚庵


天田愚庵(クリックして拡大)

次郎長の養子の天田愚庵は、次郎長のことを日本国中に残した。天田愚庵は、安政元年(1854年)福島県磐前(いわさき)郡今新田村に生まれた。官軍が攻めてくるときに磐城は奥州路の入り口だったために官軍をここで食い止めようと、多くの奥州同盟の列藩は兵を平城に送った。五郎も若かったが戦争に参加、しかし、平城は落城、会津も落ちたので仙台に逃げた。国に帰ると家はあったが両親も妹もいない。血の跡もない、周囲の人に聞いても知らないという、しばらく逃げたか、親戚の家か、と一生懸命探したが見つからない。妹は官軍に売られて遊郭にいるんじゃないかと考えた。
明治二年に藩校が改められ、中学になったので入学、同僚が東京に出たので東京に行く。父母、妹を何とか探し出したいとし、神学校に進んだが、政府の大書記であった小池詳敬の家に寄宿、そこで落合直亮と山岡鉄舟に会う。
落合は官軍の先鋒体の赤報隊に参加した。その隊長はやはり国学者の相良総三であった。相良は西郷と仲が良く、薩摩藩の藩邸を焼き討ちし、幕府を戦争に巻き込むことに成功した。慶応4年鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜を追うために、東海道、東山道、北陸道の3ルートで江戸に向かう軍が編成された。
相良らは1月12日に京都で、錦の御旗を使うことと年貢半減の建白をして認められた。岐阜に着くと、朝廷は年貢半減の撤回を相良に伝えたが、命令を無視、1月29日に中仙道を通って江戸に向かう。下諏訪宿に着き、年貢の問題などの論議のために大垣に向かう。総督府は相良を抹殺することを決断。下諏訪宿に呼び出され、即刻逮捕、田んぼで打ち首になった。年貢半減なんて嘘だった。
落合直亮はその後伊那知事になったりしたが、冤罪で失脚、不遇な晩年を送った。鉄舟も幕臣の多く、とくに彰義隊の参加者が迫害され、妻子を遊女にしたり、本人は寄席の木戸銭取りに落魄しているのに、鉄舟のみが政府の一員として高給を取り、しかも天皇の侍従もやっていることに悩んでいた。そのような時に、戊辰の戦争の生き別れになった両親、妹を探すために、日本国中を歩き回っていた五郎の純情さは心打たれるものであった。

直亮も政府側の味方をするつもりが裏切られた。そういうことを考えずにあくまでもそのときの幕臣側について、妹と両親を探すために日本国中を歩いた。
明治10年に小池祥敬が死去、家族を京都に送る時に清水に泊まり次郎長に会う。鉄舟は五郎を一箇所に留めるために次郎長に託そうとする。明治11年明治天皇の関西行幸の帰りに静岡の旅館で次郎長と五郎を会わせ、清水に住まわせる。天田五郎には次郎長と一緒に住むうちは見たことも聞いたこともないような集団だった。これを水滸伝のような小説にしようと、次郎長から話を聞いて小説を作った。
次郎長は離れられないと言ったが、負けず嫌いな五郎はこっそり家を出て安倍川を越えた。すると人が現れて「五郎さん、次郎長親分がお宅で待っていらっしゃいますからお帰りください」と連れて帰られた。次郎長は、黙って家を出て安倍川と富士川を越えることができたらおれは親分を辞めるよ、といった。五郎は夜中に黙って出かけたのに何で解ったのかと不思議だったが、次郎長は、五郎が家を出ることを予め察知していて、もし五郎が家を出て行った場合は、行き先をつけるように言っていた。その後、五郎は次郎長の許可を得ずして、清水を出ることはなかった。

富士開墾に終始し、健康を害す。明治14年3月、両親と妹を探したいといって、次郎長の養子になる。ところが、自由民権運動が侠客と結びついて始まった。侠客は唯一弾薬・武器を持っている。次郎長が暴動を起こしたら大変だと、17年2月「賭博犯処分規則」で次郎長逮捕。当時は牢に入れられると病気だったと、裁判も何もなく闇夜に葬られるということがあった。鉄舟はそれを心配していた。
このころ五郎は有栖川宮への就職が進んでいた。侠客の息子ということで、ダメになるかもしれないから離脱したかった。鉄舟は一度といえども父親になったのに新しい職を選ぶために親子だったのに籍抜くことがあるかと五郎を何度も諌めた。五郎は鉄舟のことを「四谷の山の字」と呼んでいた。

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「人の出会い~次郎長と鉄舟の幕末と明治維新~」4/4 第4回全国フォーラム記録

東海遊侠伝
次郎長をなんとかするためのキッカケになったのが、明治12年に出た東海遊侠伝の元になる『次郎長一代記』という本。これを鉄舟に見せると、評判になり、多くの人が借りて読んだ。これを出版しようと大岡育造に頼んだが出版する会社は見つからなかったので、彼の手文庫に眠っていた。
次郎長の釈放のために鉄舟はこの本の出版を考えた。出版して政府や剣の出来る人に配って、次郎長はそんな変人ではないことを知ってもらおうとした。立派な人間でること、大岡が序文を書き、成島柳北(朝野新聞の局長で、彼も家茂の教育を担当、その後野に下った。次郎の生き方に同情を禁じえなかった)に校閲を頼み、自分と海舟が挿絵の一部を描いて、輿論社(大岡が社長)から出版。次郎長は有名になり、釈放された。


東海遊侠伝(クリックして拡大)

最後
天田愚庵は結核でなくなり、鉄舟は坐脱をしている。
次郎長の辞世の歌を内村鑑三が高く評価している。「私は近ごろ東海道の侠客、次郎長の辞世の歌が目に触れました。博徒の長の作ったものでありますから、歌人の目から見ましたならば何の価値もないものでありましょうが、しかし、もしワーズワースのような大詩人にこれを見せましたならば、実に天真ありのままの歌である、と言って大いに賞賛するであろうと思います。
「六(ろく)でなき四五(しご)とも今はあきはてて さきだつさい(妻)に逢うぞうれしき」
多くの貴顕方の辞世の歌でも、文字こそ立派であれ、その希望にあふれたる思想に至っては、とてもこの博徒の述懐に及ばないと思います。彼、次郎長は侠客の名に恥じません。彼はこの世にありて多少の善事をなした報いとして、死に臨んで、このうるわしき死後の希望をいだくことができたと見えます」と記載している。

明治の作家、樋口一葉が書いた日記『一葉日記』は、文学的価値の高いと評価されており、その「一葉日記」には、次郎長の葬儀の日のことが書かれている。
「侠客駿河の次郎長死去。本日葬儀。会するもの千余名。上武甲の三州より博徒の頭だちたるもの会する五百人と聞こえたり」と書き残している。時の文芸評論家は、樋口一葉は次郎長に「畏敬の念をもっていた」と記している。

鉄舟、近世の禅僧の墨蹟

(墨蹟観賞)
※墨蹟は下記エントリーにてご紹介します。
→第4回全国フォーラム 高田先生講演の墨蹟紹介

鉄舟は、非常に努力の人で個人的に現在鉄舟の書は、書としては泥舟とか海舟よりも劣るといわれているが、書は心を表しているから、これが鉄舟の書であるということに非常に意味がある。鉄舟の書を大切にしております。
良寛が嫌いなものとして、書家の書、歌詠みの詩という。
上手い字は意味がないと思う。鉄舟については、技巧の良し悪しを超えた優れたところがあるのではないかと思います。
頭山満も指摘しているが、鉄舟の情・愛情の深さ、同じ幕臣が食うや食わずのため、随分お金を上げている。鉄舟はそういうなかで、剣・禅・書に本当に命をかけたのは、その思いの中の葛藤ではないか。明治20年咸臨丸の死んだ人たちの記念碑が出来、その裏側に榎本武揚が文章を書いている。職のあるものは、その職に死す。一度誰かに仕えて、職を得た人は、そのことを一生忘れてはいけない、と書いている。福沢諭吉はそれをみて怒ったという。勝海舟と榎本武揚のことを言っている。
鉄舟も明治天皇の侍従になったことが嫌だと思ったわけではないですが、多くの旧幕臣が食うや食わずの中で日々を送っている中で非常に苦しい思いをしていたんではないかと思います。
天田愚庵が自分の妹ではないかと思う人と会ったときのことを書いている。次郎長の協力を得て東海道中は思いのままに探し回った。日本全国歩きまわり本当に苦労している。

今日、いろんな問題起こっているけれども、お互い人間関係を大切にするという気持ちを大切にしないと社会問題は解決できないことを考えないと、幕末から明治に到る人たちの勝ち負けを越えた関係をもう一度見直す必要があるのではないか。

ご清聴どうもありがとうございました。

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「鉄舟を世に躍らせた運と縁」1/2 第4回全国フォーラム記録

2007年10月6日 第4回 山岡鉄舟全国フォーラム2007 
会場 中央大学 駿河台記念館

「鉄舟を世に躍らせた運と縁」
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏

 今の世の中というものは、大変な時代でございます。8月に突如出たアメリカのサブプライムローンの問題。融資受けられない人が受けられた融資が、アメリカからヨーロッパに波及し、日本の株が下がった。
これを経済学者・経済アナリストが事前に予測していたか?知る限り予測はできなかった。二人いらっしゃいまして大和証券の野間口さんは、サブプライムローンの残高が1割くらいだからたいしたことないと言っていた。日本総研の湯元さんも同じようなことをいっている。この湯元さんは今度の福田内閣で内閣府の審議官・政策担当に就任、日本に優秀とされているアナリストです。信用できませんね。
経済の予測は信用できない。天気予報は3日狂うと気象庁にクレームの電話が来るが、経済予測は間違っても絶対訴えられません。

天気予報は過去の気象情報を蓄積することにより、かなりの精度で当たる。経済予測がどうして狂うかというと人間が関与しているからです。気まぐれな人間の集大成が経済になるわけですから、当たりっこないです。たまに当たっても偶然です。でも偶然の気まぐれが世中を動かしていく。正体不明の巨大「ぬえ」が世の中です。
しかし我々はその中で生きていかなくてはならない。そこにターニングポイントがあります。経済が、社会がどうなろうと、一人一人が生きていかなくてはならない。そこに我々の生き方の研究課題がある。サブプライムローンが発生しても自分はしっかりしなければならない。そのためには勉強しなくてはならない。
鉄舟は激動の時代に、行動した原点がぶれなかった人物。自分がぶれないために今この時代に指針として、鉄舟の行動を探りながら、鉄舟から学ぶ。武士道精神の奥にある、ぶれないものを解明していきたいと毎月鉄舟研究会を開催している。

1.山岡鉄舟とは  
 天保7年 (1836)生れる 父は旗本六百石 小野朝右衛門
 天保は享保・天明と並ぶ三大飢饉の一つ。お蔵奉行の家に生まれる。役職手当がついて八百石の家柄の良い旗本。10歳の時に父親が飛騨高山の代官に赴任した。当時全国63箇所の郡代があり、その中でも飛騨高山は大きいほうだった。1万石以上が大名だったので11万4000石の飛騨高山を任されたのですから、それは立派な侍だった。朝右衛門の代官就任は72歳。江戸時代は定年制がなく、実力主義、生涯現役です。79歳で亡くなるまで働いた。
  安政2年 (1855)20歳 山岡静山逝去 山岡英子と結婚山岡姓へ
当時でも20歳で結婚するのは早いと思う。町方の男性は自分で稼げるようになってから結婚するため結婚の平均的な年齢は20代半ば過ぎだった。のれん分けをして商売を始める人は30歳・40歳だった。武家の場合は跡継ぎなどもあるので平均年齢は出ない。
鉄舟は当時剣の修行で燃えていたし、遺産でお金も十分持っていたので好きなことに徹底できた。この時期結婚する気はなかったと思う。なぜ結婚したかは英子さんに惚れられたからです。
鉄舟は山岡静山に槍で負け、私淑していた。しかし1年も経たないうちに山岡静山が亡くなった。英子さんは養子婿をもらうとき鉄舟を望んだ。これが鉄舟の縁です。

  明治元年 (1868)33歳 西郷との会談にて江戸無血開城を決める
  明治5年 (1872)37歳 明治天皇の侍従となる
明治天皇は16歳で即位された。それまでは京都御所で女官に育てられた。明治時代になって諸外国の一流国は帝国主義。その君主と伍していかなければならない。西郷隆盛は明治天皇20歳のときに鉄舟に人間としての教育を託した。
何の教育をしたかは書かれていない。『明治天皇記』によると明治天皇が鉄舟と酒を飲んだ話が書いてある。明治天皇は大酒飲みだった。鉄舟とは気が合うから酒を一緒に飲んだのでしょう。鉄舟が人間教育をし、明治天皇はすばらしい君主になられた。

駿府会談の石碑が静岡市にあります。地元の原田さんという方が声を掛けて作られた。石碑には「ここは慶応4年3月9日東征軍参謀西郷隆盛と幕臣山岡鐡太郎の会見した松崎屋源兵衛宅跡でこれによって江戸が無血開城されたので明治維新史上最も重要な史跡であります」と記されている。
なぜ鉄舟は駿府に行かなければならなかったか。慶応4年の正月に薩長軍と幕府軍がぶつかった。薩長軍が勝ち、慶喜は江戸に逃げ帰ります。江戸城での大評定で小栗上野介は主戦論を唱える。慶喜は一旦主戦論をのみますが、その後、攻めてくる薩長軍に恭順の意を表して戦うべからずと恭順論を取ります。
慶喜は品川まで来ている薩長軍に恭順の意を伝えるため交渉人を送ります。交渉するときに知っている人か縁のある人に頼む。孝明天皇の妹・和宮である静寛院宮、島津家と関係のある天璋院篤姫(13代将軍家定の奥さん)、上野の輪王寺宮公現親王に頼むが交渉はうまくいかない。誰かいないかと考えて、護衛頭の高橋泥舟に相談する。高橋泥舟は山岡静山の弟、鉄舟の妻・英子さんのお兄さん。泥舟に交渉をと考えるが、しかし彼が慶喜の傍を離れては、抑える人がいない。そこで泥舟は義理の弟・鉄舟を推薦した。「縁」だった。     
 鉄舟は駿府に行って、話がついて江戸の無血開城がなされた。これは鉄舟のいくつかの業績の中のひとつです。

2.日本が海から迎えた国家危機
当時日本はどうだったか、世界史的に明治維新を考えたい。
今は空から危機が来るが、当時危機は海からでした。

①モンゴル襲来 文永の役(1274) 弘安の役(1281)
モンゴルは世界を制した。残されたのが日本。高麗軍を徴集して攻めてきた。どちらも風が吹いて助かった。海からの日本の国難1回目です。

②大航海時代  天文12年(1543)ポルトガル種子島
           天文18年(1549)ザビエル鹿児島
           天正15年(1587)秀吉バテレン追放
15~17世紀の大航海時代。コロンブスがインド洋の大陸に着いて、スペインとポルトガルが世界はたくさんあることに気づいてから争って船で世界に出始めた。しかし超大国はスペインとポルトガルは行く先々でつばぜり合いを始める。ローマ皇帝が調停に入り、協定を結んだ。地球を2つにして、大西洋の中央の子午線で線を引いて、片方はスペイン領でもう片方はポルトガル領とした。人が住んでいるのに勝手に決めた。これが大航海時代。トリデシャス条約です。
ポルトガル人が種子島に来た。日本では鉄砲伝来ですが、向こうからだと日本発見となる。
ザビエルはスペイン人です。キリスト教伝来に来たが、キリスト教と同時に来た南蛮渡来の文明品に目がくらむ。外国からの品を手に入れれば他の大名との戦いに勝てるのではないかと大名は考えた。大名からキリスト教にしていこうという戦略が採られた。大名がキリスト教になれば、その藩はキリスト教になる。キリスト教は広がっていきザビエルが来てから50年でキリスト教の人口は75万人になった。日本の人口1500万人のうちの3%です。脅威です。
キリスト教はどんなことをしたかというと、キリシタンに入ることを強制、神仏・お寺をどかしなさいと言い、多くの日本人を買い入れて奴隷として外国に連れて行った。50万人くらい連れていかれた。拉致です。豊臣秀吉はすぐに戻しなさいといったが返さないからバテレン禁止令を出した。キリスト教禁止令、バテレン追放令が鎖国に結びついた。

③明治維新   嘉永6年 (1853)ペリー来航
           安政1年 (1854)ペリー再来航
           慶応4年 (1868)鳥羽・伏見の戦い
ペリー来航よりも前に外国船は来航していたが、ペリーは追い返されないような策を持ってきた。ペリー来航15年間で日本は明治になった。この15年という期間を長いと考えるか。それとも短いと考えるか。
バブル後の修復は、1991年バブル崩壊から15年かかった。崩壊後の経済政策が誤りです。ベルリンの壁が壊れ共産主義がなくなり、安い労働力が世界に入り、バブルが崩壊。どこの国もバブルが崩壊した。どんどんお金を使えば良いという対策で日本は財政投入した。
明治維新は卵が割れた(ペリーが来航した)、撹拌された(国内政治の混乱)、そして固まった(幕府が鳥羽伏見の戦いで破れて、国内の中がひとつになった)。鎖国・開国・江戸幕府崩壊・新政府をたった15年でできたのは凄いこと。封建制度、鎖国の国がたった15年で変わった。
バブル崩壊後その修復に15年掛かっている。その傷をまだ負っている。今の政治は、我々も含めて問題です。

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「鉄舟を世に躍らせた運と縁」2/2 第4回全国フォーラム記録

3.南アフリカ・インドに見る海からの植民地化
  ① トリデシリャス条約 大西洋の真ん中を通る子午線で地球を二分
  ② インドのイギリス支配
  ③ 南アフリカのイギリス支配
薩長軍にイギリス、幕府軍にフランスがついた。フランス軍は幕府軍を教育して、函館まで行った。
明治4年、岩倉具視を団長として50名で外国を回った。プロシャでビスマルクに会った。強国・弱国がしのぎあい、相手の隙をうかがう状態で万国公法(世界の法律)、
欧州諸国との交わりは信用できるものではないということを知る。
慶喜がいち早く恭順の意思を示さなかったら日本は植民地か植民地の歴史を持った国になっていた。

3500年の歴史を持っているインドはイギリスから独立してたった60年です。ムガール帝国は大国だったが、国内だけみて政治をしており、海から侵略者が来ることを想像していなかった。インドは国が一つになっていなかった。上陸して民族同士、仲が悪いところに入り込み、武器を渡して内部対立させていくことが侵略の常套手段だった。

インドは独立するためにイギリス軍に抵抗する。日本は英米と戦争した。日本は、インドをイギリスの支配から救ってくれる存在じゃないかと、独立運動家のチャンドラ・ボースは日本を頼り、亡命してきた。
昨年の4月にカルカッタ(現在のコルカタ)に記念館チャンドラ・ボースの記念館が出来、“貴国はインド独立のために貢献してくれたことを感謝している”と日本に賞状が届いた。宛先は誰か。何と東条英機首相当てです。驚きますね。戦後62年、インドは日本に感謝しているのです。親日国です。
インドに行って、国立図書館にアポイントを取ったところ、館長にお会いでき、2時間くらい館長自ら館内を案内してくれた。日本の国会図書館に行って館長にアポイントを簡単に取れないでしょう。そのくらいインドは親日派です。

南アフリカにも行きました。アフリカもずっと長く欧米に占領されている。アフリカは暗黒の大陸と言い、文化文明がなかったようなことをいう。しかし人間の誕生はアフリカからです。アフリカには大変な文明がいっぱいありました。占領した人が消していって歴史を作った。
アフリカ・ジンバブエにビクトリアフォールズという名の滝がある。ナイアガラの滝、イグアスの滝と並ぶ三大瀑布です。ビクトリア女王の時代にリヴィングストンが発見したからビクトリアフォールズという名前がつけられた。そこには昔から人が住んでいて、滝は「雷鳴の轟く水煙」という意味の「モシ・オア・トウンヤ」という名前がもともとある。見にいくとその名の通り水煙の立ち上る滝である。
このように昔からある名前を消してイギリスの名前をつけている。部族同士の争いに乗じて入り込んで歴史を変えている。
いかに明治維新がうまくいったか、このことは高く評価しなければならない。

4.鉄舟の思想体系
優先順位を決めた宇宙と人間(安政5年・1858 23歳)

無名の下級武士だった鉄舟が、官軍の事実上の司令官であった西郷隆盛をなぜ説得できたのか、またなぜ鉄舟が交渉役に選ばれたのかを考えなくてはならない。
他にも剣の強い人は沢山居た。男谷精一郎、榊原鍵吉、千葉周作。
高橋泥舟が鉄舟を選んだのは、鉄舟の思想的な何かがあった。一国を救うための政治交渉に行ったのは、鉄舟の持っている何かです。

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「宇宙と人間」の図は、鉄舟23歳のときに書いたもので、ペリー来航5年後、明治維新の10年前に書いている。鉄舟は外国に行っていない。勝海舟が咸臨丸でアメリカに行ったのは、この「宇宙と人間」の図が書かれた何年も後のこと。
書かれた当時は江戸幕府が日本を支配していた。鉄舟は旗本だから江戸幕府の部下である。それなのにこの図では江戸幕府を消している。民主主義です。
これをなぜ23歳の若者が書けたのか。鉄舟は肝心要のところで鋭いところを残している。鉄舟は書いた経緯や理由を記録に残していないから、私はこれを研究して皆さんに納得してもらうように説明しなければならない。

武士道という言葉があります。新渡戸稲造が1900年(明治33年)に『武士道』(BUSHIDO THE SOUL OF JAPAN)を出版。これから「武士道」が始まったという人がいるが、「武士道」は山岡鉄舟が言った。
1860年鉄舟25歳のときに『武士道』を残している。
「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎(鉄舟)これを名付けて武士道と云ふ」
武・書、その裏に常に物を考える習慣を鉄舟は作っていた。

鉄舟は何も食べない日が月の半分あるくらい貧乏だった。下駄は片方しかない。着るものはボロボロだった。最初に生まれた子は栄養不良で亡くなってしまった。100俵二人扶持で1年間食べられない。泥舟も静山も江戸城に上がっていたから、役職禄米があったが鉄舟にはない。
そこで、鉄舟家族は何を食べていたかというと、家の周りを家庭菜園していた。絵図を見ると高橋家より1.5倍くらい敷地面積が広い。高橋家は140坪らしい。それの1.5台だと210坪。近くに住む与力の図面は250~320坪、禄高からいうと妥当な石高。
家庭菜園して作って食べたが足りないから周囲の草花を取り尽くした。鉄舟の家の近くに伝明寺、別名藤寺があった。家光が鷹狩りの帰り。藤があったので藤寺と言った。鉄舟の家は小石川5丁目で地下鉄茗荷谷駅からすぐ、名前の通り茗荷畑だった。豊かな自然が残っており、採り立てを食べていた。今私たちは採れたれ、焼きたて、無農薬を求めている。江戸時代は冷蔵庫がなかった。健康食品も使わない。豊かな食生活だった。

鉄舟は貧乏の中で、「宇宙と人間」を書いた。鉄舟は書家であり剣も立つ、書道教室、剣を教えることもできたはず、なのになぜ働かなかったのか。
「宇宙と人間」の図を見ると、天皇に仕えることを本気で考え、そのために行動しなければならない、自分自身を徹底的に磨かなくてはならない、と考えていたと思われる。貧乏だけれどアルバイト的なことはできない。普通ではなかった。優先順位が違った。

5.人間は才能と努力と運

人間は、縁だと思います。仮に英子さんが鉄舟に惚れなかったらどうなったでしょう。鉄舟が山岡家に入らなければ、600石の家柄・小野を捨てて100俵二人扶持の山岡家に入らなければ高橋泥舟と兄弟にならなかった。山岡家に入らなければ剣道家として名を残したかもしれない。しかし山岡家に入ったから高橋泥舟が慶喜に推薦し、鉄舟は駿府に行った。最初の縁は英子さんが鉄舟に惚れたからです。運です。
いくら才能のある人間でも、才能を磨いても、努力しても、報われるような運に出会わなければ認められません。しかし今度いつ運が来るか判らない。しかし運が来る、来たときに繋がるために磨かなくてはならない。
鉄舟は貧乏になっても思想や態度を見つめていた。結果、日本は植民地化されなかった。世界史的に見てもすごいこと。
これからも現代との関係において山岡鉄舟を研究していきたいと思っております。
以上

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