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2012年04月08日

「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の五

「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の五
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

前号に続く福沢諭吉による榎本武揚批判に入りたい。
静岡市清水区興津の清見寺境内にある「咸臨丸殉難諸氏記念碑」に、榎本が〈食人之食者死人之事〉と揮毫、読みは〈人の食(禄)を食(は*む者は人の事に死す〉であり「幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない」という意味となる碑を福沢諭吉が見て、幕府の重臣でありながら新政府に仕え、高官に上った榎本がよくもしゃあしゃあと書けたものだ、という怒りを爆発させたことは既にふれた。

では、何故にこのような常人感覚では書けない揮毫をしたのか。その解明の前に、この記念碑の設立経緯を紹介したい。

明治三年(1870)咸臨丸惨劇事件三周忌に建立された静岡市清水区巴河畔の「壮士之墓」で、清水次郎長は度々法要を営んでいた。
 
このあたりは江戸時代は罪人の処刑場で民家がなかったが、清水港の発展と共に人家が建ち始め、町となってきて、このままでは区画整理で墓が消滅する危険性もあるので、どこかに永久に保存できる記念碑をつくろうという案が出てきた。

 その土地探しを、当時の静岡県内務部長である永峰弥吉に委嘱したところ、明治十八年に場所を清見寺に選定したと連絡があり、榎本武揚や小林一知(文次郎・咸臨丸艦長)等が建碑願いを関係官庁に提出し許可を得た。

 碑石は根府川石(神奈川県小田原市根府川に産する輝石安山岩の石材名)で、高さ2.7m、幅1.8m余、厚さ0.18m。碑石の隣りに立つ春日形御影石の灯篭も準備できたので、明治二十年に清水港に運び、次郎長一家が総出で清見寺に運び込んだ。

 さて、問題の揮毫は、最初は当然のごとく榎本に依頼したが、当時、榎本は清国全権公使として北京に駐在中であったので、大島圭介(元陸軍奉行)に頼み〈骨枯松秀〉の篆(てん)額(がく)*題字を書いてもらった。

ところが、記念碑の工事が終る頃になって、榎本が帰国したので、再び揮毫を願うと、問題の文言が示されたのである。結果として、表面は榎本の揮毫による〈食人之食者死人之事〉、裏面が篆額大鳥の〈骨枯松秀〉となった。大島の文言は、壮士の墓建設の際の山岡鉄舟の詩である

砂濶孤松秀 空留壮士名
 水禽何所恨 飛向夕陽鳴

に因むものであった。

 では榎本の揮毫文の出典は何か。それは史記にある「淮(わい)陰(いん)侯(こう)列伝」からであり、淮陰侯とは韓(かん)信(しん)のこと。中国秦末から前漢初期にかけての武将で、劉(りゅう)邦(ほう)の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付け、張(ちょう)良(りょう)・蕭(しょう)何(か)と共に劉邦配下の三傑の一人で、世界軍事史上の名将としても知られるが、「韓信の股くぐり」でも知られている。
それは、ある日のこと、韓信は町の少年に「お前は背が高く、いつも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。出来ないならば俺の股をくぐれ」と挑発された。韓信は黙って少年の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑ったという。大いに笑われた韓信であったが、「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちになってしまうだけだ」と冷静に判断していた。この出来事は「韓信の股くぐり」として知られることになる
 
この韓信に対して項羽が説客(ぜいかく)(弁論が得意で諸侯にその意見をといてまわる役割人物)の蒯(かい)通(つう)を遣わし、漢王を裏切るよう説得したときに、次のように答えた。

「漢王(劉邦)は私を非常に優遇してくださる。漢王は私を自分の車に乗せ、自分の衣服を着せ、自分の食事を勧めてくだされた。
『乘人之車者載人之患、衣人之衣者懷人之憂、食人之食者死人之事』
(人の車に乗った者は、その人の心配を背負い、人の衣服を着た者は、その人の悩みをともに抱き、人の食事を食べた者は、その人の為に死ぬ)
という言葉を先生も知っておられよう。私は、利に転び、義に背を向けることはできない。」
 
この韓信の言葉を榎本は敢えて選んだのである。だから福沢は怒ったのであるが、榎本が自ら求め書いたのであり、何かの背景があると思量するのが至当と思うが、肝心の榎本は福沢からの手紙に対して「事実相違の廉(かど)ならびに小生の所見もあらば云々との御意、拝承いたし候。昨今別して多忙につきいずれそのうち愚見申し述ぶべく候」とだけで、その後何も言わずに人生を終えている。

 しかし、ここは大事なところであるので、榎本に代わって分析してみる必要があるだろう。そこで、もう一度榎本の一生を概略振り返ってみたい。

 御家人の子として江戸に生まれ育った榎本は、昌平坂学問所を卒業したのち、幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入る。その後、オランダ留学で知識に加えて西欧の考え方もマスターし戻った。帰国後、戊辰戦争の最後の戦いになった函館戦争で五稜郭に籠り、降伏、幽閉を経て出獄、請われて北海道開拓使として明治政府に入り、初代駐露公使とし、樺太・千島交換条約の締結に尽力。

 伊藤博文内閣では逓信大臣、以降、文部、外務、農商務大臣等の要職を歴任。日本化学会、電気学会、気象学会、家禽(かきん)*協会等の設立に関わり、初代の会長として、日本の殖産興業を支える役回りを積極的に引き受けている。

 さらに、既に紹介したように辰之口牢獄での技術分野に対する高い関心と実験等、これらは榎本が実証主義者であることを証明している。その事例として挙げられるのは、駐露公使から帰任する際にシベリアを四十五日間かけて横断し、軍事、経済、民族等の情報を記録した「西比利亜(シベリア)日記」を残しているが、このような外交官が現在いるのであろうか。

 また、明治天皇は榎本に対して、頻繁に意見を求めたと言われ、明治二十四年(1891)に発生したロシア皇太子が警備の警官に斬りつけられた「大津事件」の処理をめぐっては、急遽外務大臣に任命され、ロシアとの折衝に乗り出している。若き時代の西洋留学体験と駐露公使、その体験を実証的に発揮せしめたのである。

このように明治時代の日本近代化に高く貢献した人物である。仮に、福沢が「痩せ我慢の説」で述べた「この種の人は遁世出家して死者の菩提を弔うの例あれども、今の世の風潮にて出家落飾も不似合いとならば、ただその身を社会の暗所に隠して、その生活を質素にし、いっさい万事控え目にして、世間の耳目に触れざるの覚悟こそ本意なれ」というような生き方を送ったとしたら、日本は大きなマイナスを受けたであろうことは容易に推測がつく。

実は、福沢もこの事を分かっていた節が強い。それは福沢が書いた「明治十年丁(てい)丑(ちゅう)公論(こうろん)」に榎本についてふれている個所がある。だが、その前に、この丁丑公論の立場を明らかにしたい。

これが書かれたのは丁丑(ひのとうし)の年、干支の組み合わせ十四番目で、明治十年(1877)にあたる。ということは西南戦争(明治十年)の直後であるのに、公表されたのは明治三十四年(1901)二月の時事新報紙上であった。

何と、西南戦争から二十四年経過したタイミングと、福沢が亡くなった二月という時機であり、そこに何か政治的なものがあったと推測される。

その通りで、丁丑公論は「反政府(大久保利通)であり、親西郷隆盛」で書かれた論文なのである。明治34年(1901)5月に『瘠我慢の説』と一緒に一冊の本に合本されて時事新報社から出版された。
なお、時事新報主筆の石河幹明が序文を記し、掲載の経緯を述べている。

「丁丑公論の一書は福沢先生が明治十年西南戦争の鎭定後、直に筆を執て著述せられたるものなれども、当時世間に憚かる所あるを以て秘して人に示さず、爾來二十余年の久しき先生も自から此著あるを忘却せられたるが如し。余前年先生の家に寄食の日、竊(ひそか)に其稿本を一見したることあり、本年一月先生の旧稿瘠我慢の説を時事新報に掲ぐるや、次で此書をも公にせんことを請ひしに、先生始めて思ひ出され、最早や世に出すも差支なかる可しとて其請を許されぬ。依て二月一日より時事新報に掲載することとせしに、掲載未だ半ならず先生宿痾(しゅくあ)再発して遂に起たず、今回更らに此書を刊行するに際し一言、事の次第を記すと云ふ
明治三十四年四月  時事新報社に於て  石河幹明」

 この丁丑公論は激しい大久保批判で、執筆完了の明治十年十月二十四日に、直ちに発表していたならば、福沢は国賊として陥れられ、西郷の同調者であり、味方であると断定され、死刑となっていたかも知れない。そのような事態となっていれば、当然のことながら慶応大学は廃止され現在の姿はなかったであろう。

 それほどの内容であるので、その一部を紹介したい。まず、最初の緒言である。
「政府の專制咎(とが)む可らずと雖も、之を放頓(ほうとん)すれば際限あることなし。又これを防がざる可らず。今これを防ぐの術は、唯これに抵抗するの一法あるのみ。世界に專制の行はるる間は、之に対するに抵抗の精神を要す。其趣は天地の間に火のあらん限りは水の入用なるが如し。

近来日本の景况を察するに、文明の虚説に欺かれて抵抗の精神は次第に衰頽するが如し。苟も憂國の士は之を救ふの術を求めざる可らず。抵抗の法一樣ならず、或は文を以てし、或は武を以てし、又或は金を以てする者あり、今、西郷氏は政府に抗するに武力を用ひたる者にて、余輩の考とは少しく趣を殊にする所あれども、結局其精神に至ては間然すべきものなし」

 「明治七年内閣の分裂以來、政府の権は益々堅固を致し、政権の集合は無論、府県の治法、些末の事に至るまでも一切これを官の手に握て私に許すものなし。人民は唯官令を聞くに忙はしくして之を奉ずるに遑(いとま)あらず」
 「佐賀の乱の時には断じて江藤を殺して之を疑はず、加之この犯罪の巨魁を捕へて更に公然たる裁判もなく其場所に於て刑に処したるは之を刑と云ふ可らず、其の実は戦場に討取たるものの如し。鄭重なる政府の体裁に於て大なる欠典(点)と云ふ可し」

 如何でしょうか。明らかに正面きっての政府批判であり、大久保利通への批判なのです。大久保は明治六年(1873年)に内務省を設置し、自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握り、明治六年秋から明治十一年五月大久保暗殺までは、一般に「大久保政権」と呼ばれ、当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判されていた。

「有司」とは政府官僚を指し、議会政治によらず彼らの合議だけで国家の方針を決めている現状を指摘したものだが、現在に至るまでの日本の官僚機構(霞ヶ関官界)の基礎は、内務省を設置した大久保によって築かれたともいわれているほどである。

 いずれ西郷と鉄舟の関係、特に西南戦争前、明治天皇から西郷を東京に連れ戻すようにと、鉄舟が命を受けたと一般的に言われ、実際に鹿児島に赴いているが、そこで西郷と実際に会ったかどうか。その点は今後の研究課題であるが、明治天皇紀の明治七年(1874)三月二十八日に「鉄太郎、四月二日を以て鹿児島に着し、三日、久光の邸に至りて勅命ならびに恩賜の菓子を伝う」とある。

この時期、島津久光は内閣顧問であった。かつて廃藩置県を久光に相談なく実施、激怒し、西郷は勿論それまで久光の側近であった大久保に対しても憎悪の対象であっが、いつの間にか久光を内閣に入れていた経緯、そこに今日の官僚制度の根源問題にまでつながっていると思われる節もあるので、これについてもふれたいが、今回はこのあたりで福沢の丁丑公論分析を終えたい。
 
しかし、どうしても不可思議なことがある。榎本に対する福沢の記載個所文言である。丁丑公論の中に榎本に対する評価ともいえる文言が、以下のように記されているのである。

「猶維新の際に榎本の輩を放免して今日に害なく却て益する所大なるが如し」

 この丁丑公論が書かれた明治十年までの榎本は、明治五年一月に辰之口牢獄から出獄、三月には北海道開拓四等出仕に任官される。四等出仕とは県知事クラスである、人力車付という身分である。明治七年には海軍中将の肩書で、特命全権公使としてペテルブルグ赴任、明治八年には国境画定交渉をまとめ、樺太・千島交換条約に調印する役割をこなした。熾烈な外交交渉の結果であり、榎本のもつ海外留学経験が大いに発揮されたのであって、この事実を福沢は知っていて、丁丑公論の文言となったと思われる。つまり、この時点では榎本を高く評価していたのであって、痩せ我慢の説の評価とは大きく異なっている。

 更に問題なのは〈食人之食者死人之事〉である。福沢はこの言葉を丁丑公論で以下のように使っている。
 「近く其実証を挙れば、徳川の末年に諸藩士の脱藩したるは君臣の名分を破りたる者に非ずや、其藩士が甞て藩主の恩禄を食ひながら廃藩の議を発し或は其議を助けたるは、其食を食(はん)で其事に死するの大義に背くものにあらずや。
然り而して世論この脱藩士族を評して賤丈夫と云はざるのみならず、当初其藩を脱すること愈過激にして名分を破ること愈果斷なりし者は、今日に在て名望を收むること愈盛なるが如し」

久光の廃藩反対の意向を知りながら、断行した廃藩置県、西郷と大久保は〈人の食(禄)を食(は)む者は人の事に死す〉には当らないと言っているのである。とするならば、幕府から家禄をもらっていた榎本であっても、新政府に仕え、国家貢献に立派な業績をのこせば問題がないのではと、丁丑公論からは読み取れるのである。

ここで榎本の心情を推察してみたい。自分は何故にオランダに留学させられたのか、それは日本の近代化を進めるためであったはず。当時は幕臣という身分ではあったが、新しく明治時代になって近代化が急務の時、自分の本来目的に戻ることが、国家への貢献であると認識し直したのではないか。幕府には函館戦争で最後まで戦ったことで義理は果たした。

これからはこの時代の日本人に欠けていた合理精神、技術者としてプラグマティブ思考で生きること。一度対決した明治政府であっても、ほかに日本の近代化を託すべき主体がない以上、その新政府のもとで近代化に向けて働くこと、そこに榎本は矛盾を感じていなかったと思う。

 では、どうして福沢は明治二十四年に敢えて「痩せ我慢の説」を書き、名指して海舟、榎本を批判したのであろうか。

 これは福沢の心理を考えてみないといけないだろう。福沢の使命は何であったのか。日本を文明国に導くことであったろう。国民の意識改革を、教育に力を入れ、民間の力を重視し、実学を奨励する等を通じ、いわば「啓蒙」活動に邁進してきたことは、その一連の著作から明らかである。

つまり、福沢は和魂(わこん)洋才(ようさい)を狙ったのではないか。しかし、それは明治二十四年ごろになってみると、日本古来の精神世界が忘れられつつあり、代わりに西洋の技術と精神をより受け入れる方向に向かっている。両者を調和させ発展させていくということが難しい。欧化主義が行き過ぎているのではないか。その警句を世間に伝えようとして、強いて「痩せ我慢の説」を書き、その対象として旧知の海舟と榎本を取り上げたのだと思われてならない。

 しかし、取り上げられた海舟と榎本は、いずれも修羅場をくぐりぬけてきた人物である。

 「自分の行動は当事者でないと分かるものでない。たとえ説明したとて理解されずに、弁解と取られる。自分は信念で行動したのであり、恥じることは何もしていない。自分の行動のみが自分自身である」と海舟と榎本は言いたかったのだろうと思う。

 最後に、「痩せ我慢の説」について多くの識者が解説している。だが、おかしいことに多くの資料を集めて見て分かったことは「丁丑公論」にふれていないことである。すべての資料を検討したわけでないので断言できないが、「丁丑公論」との関係が検討されていない。それは何故だか分からない。何かあるのだとしたら、今後の研究課題として行きたい。

 次号は、「痩せ我慢の説」で何故に鉄舟が批判されなかったのか、その理由を解明する。

投稿者 Master : 14:52 | コメント (0)

「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の四

「痩せ我慢の説」と鉄舟・・・其の四
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

江戸無血開城以後、恭順一筋で押し通した徳川藩は、慶応四年(1868)五月二十四日に駿府藩として禄高七十万石と新政府から通告され、藩主家達も八月十五日に駿府に到着、何とか安泰となって一応ホッとしたタイミングに大事件が発生した。

それは、藩の命令を無視し脱走した榎本武揚艦隊の咸臨丸が、損傷激しく満身創痍で航行不可能となり、駿府に近い清水港に九月二日たどりついたことである。

咸臨丸艦長の小林文次郎から、駿府藩に「脱走の途次、清水港へ漂流」の旨届けがあり、器材が陸揚げされ、咸臨丸は港内に停泊し、乗員は三保の民家などに宿泊した。

これは困ったことだと思案に暮れているところに、さらに、清水港を血染めにする大惨劇が勃発した。
九月十八日、新政府が追捕のため派遣した軍艦富士山・飛竜丸・武蔵丸の三隻が、柳川藩士他数十名乗せて、午後二時ごろ清水港に入ってきたのである。

この日、艦長の小林は駿府藩に出向き留守、咸臨丸には副長の春山弁蔵と弟の鉱平、長谷川徳蔵ら少人数が留まっていた。

新政府追捕隊は咸臨丸を確認すると、10間(18メートル)の至近距離から各艦5~6発撃ちはなった。咸臨丸は駿府藩からの命もあって、戦うつもりはなく、降伏のしるしに白旗を上げた。それを見た追捕隊士達は、小艇に乗り移り小銃を撃ちながら漕ぎよせ、抜刀し咸臨丸に上ると、まず、長谷川徳蔵を血祭りに上げ、春山兄弟に銃を向けた。

「待たれい。駿府藩からこの咸臨丸を大総督府に献上するよう厳命を受けております」
副長の春山弁蔵は穏やかに対応しようとしたが、
「何を申す。この大泥棒め!!。朝廷の軍艦を盗むとは不埒千万、罰は万死に値する」
と猛り立つ追捕隊士の暴言に怒った弟の鉱平が抜刀、乱戦となって春山兄弟が斬られる。
それを見た原秀郎は艦を爆沈させ追捕隊士達を道連れにしようと、同様に考えた加藤常次郎と一緒に火薬艙へ降り向かった。だが、火薬艙の鍵は艦長の小林が持っていて、仕方なく二人は散らばっている火薬を集め、扉の下隙へ入れて点火したが失敗。中の火薬まで火が届かない。
火薬庫が爆発することを怖れて、いったんは本船に逃げた追捕隊士が、火が出ないことを見て、また戻って咸臨丸の甲板に上がった。

そこに駿府で用事を終えた艦長の小林が、何事かと小舟で咸臨丸まで来て名乗ると、甲板に引き上げ、両手を縛って殴る蹴る踏みつける乱暴狼藉。小林は倒れ気絶し、十数人とともに捕らわれ追捕軍艦に運ばれた。

だが、春山弁蔵は首を打ち落され、他の死骸と一緒に海に投げ捨てられ、新政府追捕軍艦飛竜丸が咸臨丸を曳き清水港を出ていったのが午後五時であった。

この惨劇については海舟も「幕末日記」の九月二十一日に記している。
「駿州より早追にて御目付来る。咸臨丸を取巻たる官兵、肥前、土佐、柳川藩士、甚手荒く、風聞にては、春山弁蔵刃傷に及び、切害に逢ふ。経雄殿(中老服部綾雄であろう)、目付等、散々罵られ、既に害に逢はむとするの勢也と。是、去月己来(いらい)、脱艦御届も遅々、亦修覆に取掛等、其他種々不都合を御咎めこれ有という。嗚呼、諸役因循(いんじゅん)、身を致さずして私営に苦しむ。我輩百方之を言うといえども、内破かくの如し。また如何せむ」

新政府追捕隊による一方的な惨劇の一部始終を、清水の人々は陸からみていたが、終った海には血潮と死屍が漂う凄惨な状態で、船の出入りも途絶え、漁に出るものもない。

また、賊兵の死体を埋めることは慰霊したことになり、賊の片われとみなされる。だから後難を恐れて誰も始末をしない。

しかし、侠客の清水次郎長は次のように述べた。
「人の世に処る賊となり敵となる悪む所、唯其生前の事のみ若し、其れ一たび死せば復た罪するに足らんや」と。

要するに、死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍もあるものか、国のために死んだ屍を見棄ておくのは、次郎長の任侠が許さず、港の機能が止まっていることも放置できず、子分を動員して浮屍を引き上げたのであった。

屍は七体。春山弁蔵、春山鉱平、加藤常次郎、長谷川徳蔵、長谷川清四郎、今井幾之助、他一名。これを巴川のほとり古松の下に懇ろに埋葬した。

この経緯はたちまちのうちに駿府城内に伝わり、城中の物議となった。そこに登場するのが鉄舟で、小倉鉄樹は「おれの師匠」で次のように述べている。

「藩政に参與していた師匠(鉄舟)は役目柄次郎長を呼んで糾問した。
『仮初にも朝廷に対して賊名を負うた者の死骸をどういう料簡で始末したのだ』
もとより覚悟の次郎長は悪びれた景色もなく、
『賊軍か官軍か知りませんけれども、それは生きている間の事で、死んでしまえば同じ仏じゃございませんか、仏に敵味方はござりますまい。第一死骸で港を塞がれては港の奴らが稼業に困ります。港の為と思ってやった仕事ですが、若しいけないとおっしゃるなら、どうともお咎めを受けましよう』
ときっぱり言い放った。

『そうか、よく葬ってやった奇特な志しだ』
あまり簡単に賞められてしまったので、次郎長もいささか拍子抜けだ。
『それならお咎めはございませんか』
『咎めどころか、仏に敵味方はないという其の一言が気に入った』
『有難うございます。そう承れば私も安心、仏もさぞ浮かばれましょう』
喜んで帰った次郎長は、更に港の有志を説いて自分が施主となり盛大な法要を催した。師匠は求められるままに墓標をも認めてやった。大丈夫も及ばぬ次郎長の侠骨に喜んだとは言え此の際の処置として到底小人輩の出来る芸ではない。

現在清水市の中央を貫流する巴河畔に祀られてある「壮士之墓」は即ち之である」

この「おれの師匠」記述には補足が必要である。写真で分かるように「壮士墓」は石造り、建立は次郎長である。この墓碑が咸臨丸惨劇事件の屍埋葬後直ぐに建立されるはずがない。

その通りで、鉄舟から誉められ感謝された次郎長は、港の有志を説いて自分が施主となり盛大な法要を催したが、その時は次郎長の菩提寺である不二見村の梅蔭寺、現在、この寺には次郎長の墓をはじめ、妻のお蝶、子分の大政、小政の墓や遺品があり、また、侠客としては全国で唯一人、次郎長の銅像が建てられている。この梅蔭寺住職に頼んで法要を開いたのであって「壮士墓」が建立されたのは明治三年(1870)三周忌の際で、墓標は鉄舟が書いたといわれている。

なお、鉄舟と次郎長との出会いは、この咸臨丸惨劇事件がキッカケといわれ、その後の次郎長は鉄舟の影響を受け、人間的に脱皮し明治時代の社会事業家として名を残すことになるが、全国の一般大衆にまで知られるようになったのは「東海遊侠伝」からである。

「東海遊侠伝」とは、天田愚案によって明治十二年(1879)に「次朗長一代記」が書き残され、それが鉄舟宅に預けられていたが、明治十七年(1884)に「東海遊侠伝」として題画は鉄舟自身が描き、題字は勝海舟が担当するという豪華さで公刊され、後に神田伯山によって講釈(講談)化となり、伯山の車引きをしていた広沢虎造によって浪曲となって、昭和初期に「旅ゆけば~」で爆発的な人気を誇ったのは二代目広沢虎造で、当時は寄席のオーナーが虎造をひと月呼ぶことができれば別荘を持てたという。

それほど次郎長は有名になったわけであるが、そのブームを起こした「東海遊侠伝」と鉄舟の関係については後日詳しく触れたい。

さて、鉄舟と次郎長の最初の出会い、一般的に認識されているのはこの咸臨丸惨劇事件であるが、もう一つの説がある。

それは、静岡県庵原郡由比町西倉沢「藤屋・望嶽亭」に代々口承伝承されているもので、現在の口承伝承者は望嶽亭・松永家23代当主、故松永宝蔵氏の夫人である松永さだよさん、その内容が「危機を救った藤屋・望嶽亭」(若杉昌敬編)で明確にされている。

また、この説を紹介している歴史学者に高橋敏氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)がおられる。「鉄舟は勝海舟と相談のうえ、勝が江戸焼打事件の際、捕らえ助命した薩摩藩士の益満休之助を同道し、急遽駿府に派遣した。東海道を西下途中益満が腰痛のため三島で脱落、単身駿府を前に難所の薩埵峠まで来たところで官軍の銃撃を受け、間宿倉沢の茶屋望嶽亭の松永氏に隠れた。駿府潜入した鉄舟を助けて道案内したのが清水次郎長であった」(『清水次郎長と幕末維新』岩波書店)とあり、西郷と鉄舟による駿府会談に纏わる時が、次郎長との出会いであったという。(参照 本誌2006年1月号)

この説に立ち、鉄舟と次郎長との関係を深読みすれば、咸臨丸惨劇の浮屍を引き上げたのは、鉄舟の指示によるものではないかと思われる。

旧幕臣であり、かつては同志であった屍を海に放置しておくことは、鉄舟の真情として許せない。しかし、鉄舟が表だって動けない。駿府藩の立場がある。そこで考えついたのが望嶽亭で世話になった侠客次郎長である。次郎長に万事やらせ、そのあと詰問するという体を装って駿府藩の面目を保ち、自らの気持ちの整理をする。

このように鉄舟の立場から推測してみたが、ここで疑問を持つのは次郎長の立場である。いくら強気をくじき、弱気を助ける侠客であっても、一介のアウトローであるのだから、何も権力背景もなく、時の新政府に逆らうことになりかねない屍を引き上げる作業をするであろうか。次郎長が侠気を超える、何かの権力を保持していないと取り組まないだろう。また、それがなければ鉄舟とて旧知の間柄であっても、指示し難いだろうと思う。

そこで次郎長の権力との結びつきを調べてみると、驚くべきことが分かった。次郎長は時の警察署長の職に任命されていたのであって、その経緯は次のとおりである。

慶応四年三月はじめに官軍が駿府に陣をおき、西郷が東征軍参謀として滞在した。これに先立ち二月に官軍の先鋒隊として浜松藩家老の伏谷如(ふせやじょ)水(すい)が駿府町差配役、今でいう民政長官に任命されていた。

浜松藩は元々格式高い譜代藩で、天保の改革を行った老中・水野忠邦は浜松藩主。水野は元々九州唐津藩の藩主であったが、唐津藩では老中になれないので、実封二十五万三千石の唐津から実封十五万三千石の浜松藩への転封を、自ら願い出て実現させ老中になったほどである。

この水野忠邦が失脚し出羽山形藩へ転封、浜松藩は井上家に代わって、幕末には井上正直が藩主で、この時の家老が伏谷如水であった。

その如水が駿府一帯の治安を司るために白羽の矢を立てたのが次郎長。如水は次郎長を登用するにあたって、事前に十分調査したらしく、この男なら大丈夫と指名、断る次郎長に対し超法規的処置により、過去の罪科はすべて帳消し、帯刀を許したのである。

これで次郎長は駿府一帯の治安を預かる警察署長になったわけで、この状態が徳川家の駿府藩なっても同様職務を務めていた。

という意味は、次郎長が警察署長であるならば、事件の処理を担当するため、鉄舟から機密費を受取り、それで清水港内の屍を拾い上げ埋葬するのは当然の業務となる。しかし、これが表面に出ては、新政府に対して申し開きが立たないので、鉄舟と次郎長とで芝居を打ったというのが本当のところではないだろうか。

また、鉄舟の駿府掛けで、望嶽亭主人が官兵から鉄舟を救い、次郎長に連絡取って、西郷への会談へ結びつけたという説も、次郎長が駿府一帯の警護役としての警察権を掌握しているという前提で考えれば頷けられる。

ところで、鉄舟は巴河畔の「壮士墓」墓碑を次郎長に書いたが、その際に次の詩も与えている。
砂濶(ひろ)くして孤松秀(ひい)ず
空しくとどむ壮士の名
水禽(みずとり)何をか恨むところぞ
飛んで夕陽に向かって鳴く
また、別に唐紙に髑髏(どくろ)を描き、「生無一日歓、死有万世名(生きて一日の歓びなく、死して万世の名有り)」と賛し贈った。

さて、この咸臨丸惨殺事件から二十年、巴川の「壮士墓」建立から十七年後の明治二十年(1887)、清見寺(せいけんじ)(静岡市清水区興津)に榎本武揚が揮毫した「咸臨丸殉難諸氏記念碑」が建てられたことは既にふれた。

また、この〈人の食(禄)を食(は)む者は人の事に死す〉という意味の揮毫、これを福沢諭吉が見たことから「痩せ我慢の説」を書くキッカケになったのではということもふれた。

では何故に、榎本は「幕府から家禄をもらっていた者は幕府のためなら死をも辞さない」という意味になる文言を揮毫したのか。榎本も幕臣であった。常人感覚なら書けないし、書かないであろう。福沢が怒るのが当たり前である。この解明は次号へ。

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