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2006年02月23日

2月例会記録(2) 「鉄舟の表現力」

2月例会記録
山本紀久雄氏 「鉄舟の表現力」

先週日曜日に文楽をみてきたが、すごく色が鮮やかできれい。
日本文化は色鮮やかですね。

1.鉄舟を表現する言葉
 ① 幕末三舟
 ② 剣・禅・書の人
 ③ 智の人・海舟、情の人・鉄舟、意の人・泥舟・・・頭山満・・高士
    高士・・・人格の高潔な人。山野に隠れ住む有徳のひと。
 ④ 命もいらず名もいらず、官位も金もいらぬ人はしまつに困るものなり。 このしまつに困る人ならでは艱難をともにし、国家の大業はなし得られぬなり・・・西郷隆盛『南洲翁遺訓』

①幕末三舟とは、海舟、鉄舟、泥舟のこと。
年齢順だと、海舟、泥舟、鉄舟、亡くなった順からだと鉄舟が一番先。

③頭山満は鉄舟を高士と言っている。高士(こうし)とは、人格の高潔な人。
戦争中に遠山満によって、鉄舟が高士を代表する人物として使われたが、戦後、使われなくなった。
頭山満は戦争推進の思想をもって、国全体をリードしていった人物であったから彼の考えは遠ざけられ、鉄舟の研究も止まってしまった。
『幕末三舟伝』・・・頭山満が語ったものを本にしたもの。

④西郷隆盛の言葉が、鉄舟を的確に表現している。

2.司馬遼太郎がみた文章表現力に優れた幕末志士・・・坂本竜馬、西郷隆盛

西郷隆盛が語った言葉はその時代に必要であり、表現力がすごい。しかし西郷隆盛は表現力が豊かということを認めなければ、鉄舟に関する表現も評価に値しない。
司馬遼太郎は西郷隆盛をどう言っていたか?幕末に志士が出た。志士に共通しているのは言葉が不自由であり、すぐに激高すること。詩文は得意だが、口語体の説得力には欠けている。坂本竜馬は表現できる人物。お姉さんへの手紙は非常にわかりやすい。では西郷隆盛は、というと、司馬遼太郎は西郷隆盛を一流の報道家であるとベタ褒めをしている。西郷という人が生きていれば、どの職業につけなくても新聞記者が務まる。それも相当な記者になれる。抜群の出来栄えであると褒めている。その司馬遼太郎が認めた西郷が山岡鉄舟を表現している内容は認められるのではないか。西郷隆盛の功績は鉄舟を表現することもある。

3.鉄舟の表現力・・・口述内容から判断する
鉄舟は著書を残していないが、鉄舟はしゃべったので、口述内容が残っている。人に伝えることは大事なこと。その場に応じて妥当に表現する感覚が豊かな人であったろう。

4.鉄舟の豊かな表現力に影響を与えた飛騨高山時代と両親
   父 小野朝右衛門高幅・・・郡代としての業績
   母 磯・・・寺子屋へ鉄太郎を通わせる

鉄舟の豊かな表現力は、父朝右衛門が郡代として派遣されていた高山時代に磨かれたのだと思う。高山は秋葉神社があって、水が豊かである。
10万人以下の行ってみたい町の1位=高山、2位=長野県小布施。鉄舟は10歳から7年間高山で過ごした。資料の天領の分布図の合計石高は420万3000石。徳川慶喜が大政奉還して、徳川が一大名になった。天皇に征夷大将軍をお返しされたが、天皇家は石高が少ない。薩長が、徳川幕府420万石のうち半分の200万石を天皇に寄進させよう画策したことも徳川方を戦いに向けた一因であった。ここから、幕末の天領図の石高合計が420万3000石というのは辻褄があう。ちなみに元禄時代は800万石あったという。資料の分布図から、郡代が収めていたのは、高山、江戸、日田(九州)、笠松(美濃)の4箇所だけであり、他は代官が収めていた。郡代と代官の違いは給料。代官は150俵、現代の金額にするとおよそ年収666万円、一方郡代は400俵で、年収1800万円。

山岡鉄舟のお父さんはたいしたことないという風評が各本に書いてあるが、天領のうち4つしかない郡代に指名されて、年収を1800万円もらっていたというのはすごいこと。
1万石から大名と呼ばれるが、高山の郡代となると、10万石の大名クラスである。
そして、当時は、代官に土地の自治を任せている10割自治だった。法務関係だけは江戸で処理したが、一般的な行政は代官・郡代に任されていた。
代官や郡代の腕によって町は栄えた。4つしかない郡代に派遣されたということは朝右衛門は大変な力があったと思われる。小野朝右衛門は第21代高山郡代。
能力が仇となった。陣立て(狼煙を上げて太鼓を叩く)を何回も行い、幕府から朝右衛門は反乱するのでは?と疑われて実は自刃させられたという話しもあるが、鉄舟は脳溢血で倒れたと言っている。とにかく鉄舟のお父さんは立派な人だった。

お母さんの磯さんは鹿島神宮出身の人で、鉄舟を寺子屋に行かせたことが偉い。
10万石の大名の息子を寺子屋に行かせますか?大名だったら、家庭教師を派遣して勉強させられる。
寺子屋で町の子供と一緒に学ぶことが、時代の感覚を身につけさせた。寺子屋は日本基礎教育の場所であり、寺子屋は江戸だけで900くらいあった。明治時代急速に近代化ができたのは教育のおかげである。鉄舟も子供時代に寺子屋で経験したからこそ、後に豊かな人間になった。このような意味で磯さんは偉いと思う。

磯さんは早死にした。後を追うようにお父さんの朝右衛門も亡くなった。遺産、建物は無い、残すのはお金。現金為替で3500両残した。1両=10万円とした現在3億5000万円。鉄舟は5人の弟に各々500両(合計2500両)持参金として持たせて養子に行かせた。900両は腹違いの兄に渡した。鉄舟は残り100両を持って山岡家に行った。

5.GDPだけで国の豊かさ判断はできない
江戸時代のGDPはどの程度であったか。それをアメリカの経済学者、サイモン・クズネッツが推計している。それによると幕末の慶応元年(1865)における一人当たりGDPは54ドルになっている。当時の西ヨーロッパ諸国、日本よりいち早く工業化をスターとさせていて、低い国でも200ドルに達していたから、日本のGDP水準はいかにも低い。江戸時代の経済的実態は貧弱であったという見解は、この推計が根拠になる。しかし、第二次世界大戦後のアジア諸国、例えば今は経済成長著しい韓国、その一人当たりGDPのスタートは87ドルであったことを考えると、一概に数字だけを持ってその国の豊かさを判定できない。物質文化、ライフスタイル、健康状態、寿命の実態、それらの質問題を勘案しないといけないという見解も生ずる。確かに、幕末に未知の国日本を訪れた欧米人が記録したものを見ると、日本の生活文化が豊かなことに驚いていることが書かれている。

日本が鎖国を解いて、いろんな人がきたが、日本をみて豊かで驚いている。
ペリーの艦隊が来たときに、子供のおもちゃが非常に豊か、遥かに進んだ物語が戯画として残っていると驚いている。

「泥舟」はどういう意味でつけたのか?高橋泥舟は、明治16年まで号を忍歳といっており、泥舟というのは晩年の名前。所以は、明治政府に出仕しないか?と声を掛けられたときに世に出る意なし、と断った台詞からである。
「漕ぎいださぬがカチカチの山」とカチカチ山に登場する狸の泥舟の話を持ち出し、自分が世に出ないのは天命であって、それは泥の舟に乗っているからと辞退したことによる。

海舟は佐久間象山の弟子だった。佐久間象山の「海舟書屋」という言葉から海舟という号をもらって、「勝海舟」になった。

「鉄舟」は誰がつけたか?素直な疑問だが、どこにも書かれていない。
また検討課題ですね。


【事務局の感想】
事務局の感想
鉄舟は自分で記録を残していませんので、鉄舟に関する研究書は少ないのですが、山本さんの研究図書が日を追うごとに増えています。本をとり、パッと開いたところに鉄舟が書かれていたとお聞きしました。
さらに鉄舟についての新しい発見をお聞きすることを楽しみしています。

投稿者 staff : 15:35 | コメント (0)

2月例会記録(1) 「神道とは何だらう?(その二)」

2月例会記録

上米良恭臣氏 「神道とは何だらう?(その二)」

●三大神勅と宮中のお祭り 
●伊勢の神宮 
●埼玉県の大宮氷川神社
今日はこの3つを中心にお話し、神道の何たるかを漠然とでも知ってもらいたい。

■鉄舟先生と神道
1.鉄舟の生母磯も、鹿島神宮の神主の娘だった。
2.鉄舟が少年多感の時代過ごした、高山(この会で研修旅行した)も多数の秋葉社があった。高山は火消用の水が町中いたるところにあり、そばに秋葉社を奉って、水を大切に、悪戯がないようにしている。 ※秋葉神社=火防(ひぶせ)の神様といわれる。
3.鉄舟は参宮(伊勢神宮に参る)したこともあり、有名な祠官とも交流があった。その折、天誅組に加担した藤本鉄石とも語らいを持っている、という話を山本さんがすでに述べておられる。
4.西郷隆盛は実は菊池家の一族。南北朝時代の北朝方の有名な武将菊池武光。ここが西郷の出身らしい。西郷が奄美大島に流されときの仮の名を「菊池源吾」と名乗っている。菊池家の一族だということは間違いないと推測している。同じ九州で、菊池一族が米良の山に逃げ込んだ時の別れだ。
菊池は負け戦の神様で、当時の菊池一族も戦に負けて山に逃げ込んだが子孫は残った。江戸時代の間は幕府の寄合衆で無禄ではあったが江戸城につめて生き延びた。維新後に米良氏が生き延びて菊池を復興させた。
負け戦の神様ともいう菊池の一族である西郷隆盛と鉄舟が会談をしているのは何かの因縁ではないか。鉄舟は日本人として、日常の生活が神道に溶け込んでいて、禅の修業と矛盾しない生活であったろうと推測している。

■三代神勅
三大神勅とは、古事記・日本書紀に掲載されている、天照大神の言葉として伝えられている言葉。この三大神勅が宮中祭祀、神社本庁、全国神社の根幹となっているので、掲載した。読もう。
天(てん)壌(じょう)無(む)窮(きゅう)の神勅
豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、(とよあしはらのちいほあきのみずほのくには)
是れ吾が子孫の王たるべき地なり。(これあがうみのこのきみたるべきくになり)
宜しく爾皇孫就きて治せ。(よろしくいましすめみまゆきてしらせ)
行矣、宝祚の隆えまさむこと(さきくませ、 あまつひつぎのさかへまさむこと)
まさに天壌と窮無かるべし。(まさにあめつちときはまりなかるべし。)
(行矣:行かんかな。を、さきくませと読ませる日本文化の素晴らしさ!)
資料にある「皇祚無窮」は亡き父が書いた書。昭和天皇の後を追うように平成元年に卒去した。その1年前の元旦に書初めとして私に送って寄こした。
意味は、天壌無窮の神勅と同意で、皇室が永遠に続いていく、ということ。父は皇室をどのように絶えさせないで、隆昌させていくかを考えたのか。この書を私に委託した真意は?今、居間に掲げ、日夜悩み、考え、真意を追求しようとしている。

宝(ほう)鏡(きょう)奉(ほう)斎(さい)の神勅
吾が児、この宝鏡を視まさむこと、
(あがみこ、このたからのかがみをみまさんこと)
まさに吾を視るがごとくすべし。(まさにあれをみるがごとくすべし)
ともに床を同じくし、殿を共にして、
(ともにみゆかをおなじくし、みあらかをひとつにして、)
斎鏡と為すべし。(いはひのかがみとすべし。)
八咫の鏡は元は宮中に祀られ、約2000年ほど前に倭姫命が現在の伊勢の神宮にご奉斎されたという。また宮中三殿の賢所に同等の鏡が奉斎され、ご神体である。

斎(ゆ)庭(にわ)の稲穂の神勅
吾が高天原に所御す(あがたかまがはらにきこしめす)
斎庭の穂を以て、(ゆにはのいなほをもて、)
また吾が児に御せまつるべし。(またあがみこにまかせまつるべし。)
天皇は農業の中心である稲作を実践していらしゃる。同様に皇后は蚕を飼い、糸をつむぎ、布にして、神々に奉納されている。今では皇室の伝統になっているという。三大神勅を時代の変転に拘らず、忠実に実践されているのが皇室だ。

昭和天皇のご結婚の際、久邇宮家のどなたかに色盲の気があり、婚姻に大反対した岩倉具視に対して久邇宮良子女王を援護したのが杉浦重剛。皇室が言い出され、決められた婚約は実行しなければならない。変えるようであっては日本の中心は無い、として闘い、無事良子さまが昭和天皇の皇后になられた。(宮中某重大事件)
彼は東宮御学問所の御用係で倫理を担当しており、倫理を伝えるときに使った「貞操は冰雪よりも勵し」とは、権力に従わなかった男が土牢に入れられ、冰雪の厳しい環境の中でも節操を曲げず死んでしまう。「気高い貞操・節操を曲げないことは死ぬことより大切」だという教育を若き昭和天皇や香淳皇后にしたという。

天皇(本邦至高の祭主)さまの祭り(宮中祭祀)
■『天皇さまのお祭り』及び『伊勢の神宮』(冊子実費販売)
神社本庁では、日本の伝統に即したものを案内、販売している。国民精神研修財団には神道に関する本・資料を揃えてある。天皇さまのおまつりで、一等大事なのは、ご即位の後の、大嘗祭。これがないと天皇様は本当の天皇様といえない。


○大嘗祭と新嘗祭
剣璽御動座、天皇と一緒に動くのが剣璽の定め。先帝が崩御なさると即刻「剣璽の間」から次期天皇のところに剣璽が移される。
ご即位後におこなわれる大嘗祭は由紀殿・主基殿という白木の社を臨時に造って、相嘗といい、天照大御神や先帝と一緒に夜を徹して、お祈りとお食事をなさる。大変な神事であって、昨日までの皇太子も、この祭りを済まして出てこられると威厳を増した天皇陛下の御顔になられるという。

宮内庁の式部職の中に掌典部・楽部というのがある。
宮中の祭祀を行うのが掌典部、それを支えるのが楽部。楽部は雅楽を伝えるが国賓の接待のため洋楽もこなす。産経新聞に連載された主席楽長の岩波さんの記事(資料)を紹介するが、この内容の印象に残ることとして、大嘗祭の夜の儀式を終えて、「神秘性を感じました」という部分。常日頃宮中にいる方も天皇のお姿をみて、神秘性を感じたという、ここを特に紹介したい。


清子さまも最後に宮中三殿を参拝してから出られた。宮中三殿は賢所=天照大神(御鏡)、皇霊殿=累代皇祖の御霊、神殿=全国のお社の御霊をおまつりしている。をいう。新嘉殿は、神様がお祀りされていないもようで、幣物を捧げる場所ではないかと思う。また綾綺殿は天皇が親祭の装束に着替えられる所、俗界から神界に入るための結界でもあろうか?

皇室のまつりを普通の神社でも倣っているが、宮中のおまつりで、独特なのが四方拝と節折(よをり)。共に陛下が神嘉殿庭上に降り立って、おまつりになるという。元旦の四方拝では、神嘉殿の前庭に畳を敷き、屏風を囲って行われる。四方八方の天神地祇を遥拝されるという。節折は6月30日と12月31日の年2回、神社では半年間の人々の穢れを祓って川に流す、という日本古来の祭式(大祓式)があるが、天皇のためだけにやるのが節折。

■神宮の祭り
西行法師は伊勢にお参りして、歌を残している。
『何ごとの 在しますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる』
芭蕉も、彼(かの)西行のかたじけなさにとよみけん、涙の跡もなつかしければ
『何の木の 花とは知らず 匂ひ哉』と詠んでいる。 

■唯一神明つくりの美と「心の御柱」(忌柱)の不思議
○ブルーノ・タウトとC・W・ニコル
この会のために高崎市の達磨寺まで行った。境内の「洗心亭」の床の間にブルーノ・タウトの「私は日本のカルチャー、精神文化風土をこよなく愛す」(ドイツ語)が掛け軸にして掲げられていた。このドイツ語が知りたくて行った。(レジメに記す)
ドイツの世界的建築家のブルーノ・タウトは、ナチスの迫害を逃れて来日、高崎の達磨寺の洗心亭に住んでいた。彼は神宮を「構造はこの上なく透明清澄、明白単純。・・おそらくこの建物は天から降ったのだろう」といった。
さらに神宮のことを讃える外国人、C・W・ニコル氏(野尻湖在住)は「何処の国であろうと宗教がなんだろうと、聖なる地・聖なる森において、目に見えない存在を疑うほど私は未熟ではない」と言っている。
この精神に行き着かないと日本人じゃないと思う。
気をつけて見ないと分からないが、神宮の古殿地には不思議な囲いが中央にある。「心の御柱」(忌柱)だ。(写真)さまざまな理由があるという。

単に神宮という伊勢神宮を神社本庁では本宗として仰いでいる。本来はご皇室のお社。一般の者が私幣を奉納することはできないので、神楽殿がある。皇室の持ち物である神宮と国民祈願の神楽殿とに分けられている。神宮とは内宮・外宮・別宮・摂社・末社・所管社計125社の総称である。125社のまつりとは大変で、最下位の神宮神職である出仕などは定められた祭祀を全うするために、装束を柳行李に担いで年中旅回りだともいう。
元寇で鎌倉武士たちが戦ったとき、皇室も懸命に神宮にお祈りをした。台風が吹いて元寇を追い払ったので、小さなお社を別宮に昇格、奉った。風宮、風日祈宮などだ。神宮参拝コースに加えると他者とは違った趣深い参拝ともなろう。

神宮正殿の欄干には擬宝朱(ぎぼし)が、萱で葺いた上の並んだ鰹木の端にも金の飾りがついているでしょう。白木のお社ながら、私には黄金の世界に見えます。

時間の都合上、大宮氷川神社の話は割愛させていただく。


【事務局の感想】
今回も、上米良さんの発表にメモをとるのも忘れて、聞きほれてしまいました。
それは、体験からくる迫力に魅了されたからです。
懇親会の場で、遷宮にかかる費用は国の税金でなく、自前でするのであり、その半端でない金額に驚かされたのですが、まだ知らない神道の話を沢山お持ちのようですので、今年の後半にまた続編をお願いしたいと思います。

投稿者 staff : 15:31 | コメント (0)

2006年02月16日

3月例会の案内 -必殺の剣の数学-を北川さんから発表

3月の例会は、3月15日(水)の開催です。
発表者は、北川さんと山本さんです。
北川さんには、「必殺の剣法は在りうるか-『必殺』剣の数学-」という演題で発表いただきます。
必殺、剣法、数学???
摩訶不思議そうなお話
乞うご期待願います。!!

今後の予定
4月初旬 鉄舟サロン春のイベントとして、剪画ギャラリー見学とお花見(水元公園近辺)
4月例会は、4月19日開催 発表者は、田中さん、下村さんです。
*尚、4月の東京文化会館の会議室は、中会議室の2になります。
5月例会は、5月17日開催 発表者は 栗原さん、山本さんの予定です。
ご予定をお願いいたします。

投稿者 Master : 22:39 | コメント (0)

2006年02月05日

1月例会記録(2) 「現代に生きる武士道 5」

1月例会記録

■ 二見健吉氏 「現代に生きる武士道 5」

第5章 日本の心と魂をもって実践された先人
 「武士道」の徳目を、具体的な施政にて実践された日本の誇る先人の指導者を4人挙げてみたい。恩田木工 伊庭貞剛 菅実秀 山田方谷。

新渡戸稲造の武士道を実践されている人物を紹介し、実践に生かせるようにしたい。
The soul of Japan武士道を持っているかたの内、今回は、恩田木工と伊庭貞剛の2人をご紹介したい。

第1 日暮硯の恩田木工  (1717-1761)
二見が、二十才の時、終生の恩師となった品川義介先生にお会いした時、頂いたのが、先生著作の「日暮硯の恩田木工」(ひぐらしすずり)で三十回読みなさいと諭された。
 第二次世界大戦中、アメリカのある機関は、日本の政治や指導者を研究するために「日暮硯」を取り寄せて徹底的に研究したと言われる。私は、「日暮硯」は日本人的経営哲学についてのテキストであると思う。

1717年生まれて、松代藩の財形の債権の筆頭になったのが恩田木工(おんだもく)。
恩師にすすめられた「日暮硯の恩田木工」は中学生でも読める本だが、先生からは30回は読みなさい、と言われた本。苦しくなると、そうかそうかと読んでいる。
西郷・鉄舟とは違った形で武士道を生かしている人。
アメリカ人が日本の指導者を研究した一人として上げられたのが恩田木工。

人の心をつかむ一番の方法は「誠」。
誠=言ったことを絶対守る=嘘をつかない
言い訳する政治家には読んでほしい。

日暮硯の著者は、松代藩士馬場杉雨と伝えられている。宝暦十一年(一七六一)冬に記されている。恩田木工は享保二年(一七一七)に生まれ、宝暦十二年(十七六一)正月六日に四四才で逝去している。二宮尊徳(一七八七?一八五六)が常に座右において、人にも勧めたという説もある。
木工は一九才の時に父を失い、二三才の時城代になり、三〇才にして家老職になった。藩主に抜擢されて宝暦七年(一七五七)に家老職勝手係、今でいえば総理大臣兼大蔵大臣についた。時に四一才。

川中島の近郊に松代城がある。この城は真田幸村の弟、信之を藩祖として明治維新まで、250年間続いた十万石大名で、実に信州第一の雄藩であった。しかし、大洪水、家老の悪政や濫費が祟り、藩はどん底に落ちていた。五代藩主信安が三十九才で逝去し、幸弘公十三才が家督をついた。若き幸弘公が、恩田木工を抜擢した。
 抜擢された時、先ず家老、次に親戚、妻子、使用人、役人、庄屋百姓などとの約束、いまでいえばコミットメントを取り交わした。
   第一 江戸表での家老職との誓約  第二 国許松代親戚縁者に対し
   第三 家の使用人に対し誓約    第四 親類一同  
   第五 家老職と諸役人に対し    第六 百姓と庄屋に対し 信義を約束した
   第七 悪役人に対し

松代藩の財政が苦しかったときに、木工は30歳で家老に抜擢されて、40歳で総理大臣についた。財政再建のために人の心をつかんだやり方は圧巻。
13歳という若い藩主が松代藩を継いだときに恩田を抜擢。財政再建を任命されたときのコミットメントのやりかたを紹介する。

最初に恩田の言ったことに違反しないという誓約をした。

2番目に恩田は国に帰って親戚、奥さん、使用人たちと誓約。
恩田は国に帰り、親戚、妻子、使用人をうちによんで、親子の縁を切り、離縁して、使用人には暇を出すと言い出した。理由は、嘘をつかないことを守るため。
恩田自身は必死で松代藩の財政を立て直すことに専念する、だが、奥さん、子供たちが嘘をついたら、それで恩田自身の信用はなくなる。また、恩田は、自分は今後一切ご飯と味噌汁以外は口にしない。着る物も木綿以外は用いない。それを実施しないと藩の財政は建て直しできない。しかし、自分がやっても家族が贅沢していては、恩田の家族ができていないのに・・・と信用を失う。
奥さんも子供も使用人もみんな、嘘をつかない、贅沢もしないことを守る。
恩田は使用人には給金は今までとおりにちゃんと支払うと約束した。
こうしてまず自分の身内を固めた。

次に城代に行き、百姓と庄屋を呼んで、約束を取り交わした。"嘘はつかない言ったことは変更しない"ご祝儀に対して"金品を受け取らない"これは賄賂を防ぐため。"年貢の督促に足軽を行かせない""藩の勤労奉仕は一切させない"そして借金を帳消しにした。その代わり年貢は、未納者がないように必ず納めてくれ。
藩の御用金は無利子にしてくれ、と。恩田は全部計算してから約束を取り交わした。

また役人がやっている悪いことを全部持ってきてくれと伝えた。

悪行は殿に見せるからと言われ、悪いことをしていた役人はびくびくしていた。しかし、悪いことをやっている人を首にしなかった。藩主は、それだけ優秀なのだから、恩田の顧問になりなさい、と相談役に登用された。

木工は在職五年を待たずして、改革半ばで病んで逝去した。木工の改革がただちに藩財政を好転させたとはいいがたいが、木工の後継者たちにより、死後五年程たって頃から改善の兆しがみえてきた。一九世紀に入ると松代藩は裕福な藩へと変わっていた。

また、学問を奨励、武芸を仕込み、神仏を拝みきっちりやった。
その後4、5年ほど経ち、恩田は45歳で亡くなる。藩の財政は急には好転しなかったが、だんだんよくなり、50年後の二宮尊徳も恩田を鏡として、二宮尊徳も村を救うひとつのお手本とした。

結論は、武士道の徳目である。武士に二言はない。嘘はつかない。木工は、武士道の徳目「誠」(誠とは武士に二言はない)の模範。

第2住友の神様伊庭貞剛  (1847-1926)

2番目に住友の神様といわれた伊庭貞剛(いばさだたけ)を紹介する。

二十六才頃、円覚寺の法友で、海軍大将山本五十六の部下だった故佐波次郎海軍少将に、「幽翁」(伊庭貞剛の伝記)をお貸しし、大層喜ばれたことが懐かしい。
資本主義の勃興期、明治、大正期における経営者は当然のごとく、日本の心、則ち 武士道精神を備えていた。徳の人、言葉を変えて言えば、武士道を備えた経営者はどういうことかを知る最高のモデルとして伊庭貞剛を紹介したい。
 伊庭の真骨頂を三点上げると次ぎである。
 一 労働争議を謡曲と散歩で解決した。
 二 人の仕事のうちで一番大切なことは
   後継者を得ることといつ引き継ぐかである
 三 別子銅山への植林事業

伊庭さんは経営の神様だと思っている。伊庭さんの真骨頂は、労働産業を謡曲と散歩で解決したこと。普通なら労働争議は首を切ることがほとんどだが、それをやらなかった。また後継者についても速やかに引き継ぎ、環境問題では当時トップの考え方を持った人だった。学校卒業後司法省に勤めるが、32歳で裁判所をやめて、住友家に入り、別子銅山労働争議を解決するために48歳のときに死ぬ覚悟で謡曲、臨済録を持って向かった。
偉い人が来ると労働者が首を切られるのは常だった。彼らはいつ首を切られるのかとびくびくしていた。伊庭は飄々としており、最後は労働者たちの心をつかんだ。
大きな解雇なく大争議は収まった。伊庭は誠と仁を貫いた生きた事例である。

伊庭は弘化四年(一八四七年)一月五日 近江国蒲生町西宿(現在の滋賀県近江八幡市)に生まれ、大正十五年(一九二六年)十月二十三日、七十九才 琵琶湖畔の石山の別荘で永眠した。四十四才 明治二十三年。推されて衆議院議員に当選する。しかし主家の難局(先代、当代相次いで死去)に当たりほどなく全ての公職を辞す。

 明治二十七年二月 四十八才。労働争議を解決するため謡曲師のみを同行し死ぬ覚悟で出発した。
新居浜では、かなり質素な家だった。そこから毎日 山を登ったり降りたりしただけであった。帰って謡曲をうなるだけであった。根本の問題は、人心の離散にあるとした。
全山の大動揺がしだいに収まったのは、貞剛の至誠のもつ力であった。これは、武士道で説いている勇、誠、仁の正に生きた事例である。
「翁は、大西郷のような人物であると思う。自分は直接に大西郷その人を知らない。しかし、翁に親炙し、その行動をみると、大西郷もまたこういう人物であったと思わざるをえない」という経済評論家もいる。翁は、生前大西郷から揮毫を請い受けたという。別子に足掛け六年在勤した。
翁は晩年に回顧して、本当の事業は、「別子の植林事業」だといっていた。
明治三十七年二月「実業の日本」誌上に、「少壮と老成」という感想録が発表された。

西郷や鉄舟を経済においたら、伊庭さんだと思っている。
経営のトップにいると長くその地位に居たくなるが、伊庭は4年間トップについた後には退く覚悟だった。そして実際に次の後継者を見つけて、退いた。

● 貞剛は、武士道の徳目「忠義」(国家のために住友はやる)と徳の模範。

伊庭さんは武士道の徳目のひとつである忠義の人である。

伊庭さんの言葉を紹介する。
頼みごとがあるときは、雨か風か大雪で歩けないときに頼むのが大吉。
天気が良い日は凶だ。
盲判を押せないようだったら仕事じゃない。
この人は!と思った人の仕事には盲判を押すのが人物だ、といった。

伊庭さんは、武士ではないが、武士道を体言している人である。

山岡鉄舟や西郷隆盛と比較して、良さがわかると思う。


【事務局の感想】

1月の武士道は、実践された人、体現された人を取り上げての発表でした。まさに二見さんこそ、実践されている方です。もうすこし武士道の発表は続きますが、最後に「二見さんの武士道」をお話していただきたいと思っております。

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1月例会記録(1) 「鉄舟が生まれた時代」

1月例会記録
山本紀久雄氏 「鉄舟が生まれた時代」

今日は鉄舟が生まれた時代について紹介したい。

テレビ朝日2月5日(日)14時から放映される「遥かなるオイスターロードの旅」という番組をお手伝いした。昨年テレビ朝日の製作ディレクターが私の著書をみつけて、会いにきたことがきっかけ。番組には森公美子、きたろう、料理研究家岸朝子、金子昇が出演する。岸さんは本を高く評価してくれて、料理研究家辻先生にも紹介してくれた。
4年前に書いた本で、売るためではなく専門書である。インターネットなどで何でも調べられる時代だが、専門書は必要な人には必要である。

翌年には温泉の本を書いた。あの本は今年で3年目になるが、あの本で最近忙しくなった。温泉の本を出版して以来「水・温泉」に詳しいと思われている。
今は、温泉業界ではリーダー的な旅館の若社長が鳴子温泉にいるが、その旅館へ田中さんとコンサルタントに行っている。若社長は温泉旅館の講演をしている人。旅館経営の話ではなく、いろんなことを話し合ってくるが、水・温泉に詳しいという前提で話が進む。水に興味がある会社から、ミネラルウォーターを売りたいので、マーケティング計画でアドバイスをしてもらいたい、という相談も来ている。
忙しくなったときにちょうど田中さんという強力な助っ人が来た。これも運である。

1、鉄舟の生まれた場所
鉄舟は、江戸、隅田川のほとりで生まれた。鉄舟の生まれた場所はお蔵奉行役宅で、
右側に隅田川が流れている。現在は川の向こうが国技館で手前側は台東区。京都・大阪・江戸に蔵があって、蔵には直轄地から米が送られてくる。ここで武士に米を配布する。武士は米をもらっても仕方ないから、札差という商売人が間に入り、米を売ったお金を武士に渡していた。札差が今の銀行である。資料では一番掘から八番堀まであり、黒い部分は米の倉庫。お蔵奉行は常時3~7人いた。
お蔵奉行役宅は複数あるが、鉄舟はこの役宅の中のどこかで生まれた。お蔵奉行は権力を持った勘定奉行の下にあった。

鉄舟の生まれた場所を先日撮影に行ってきた。隅田川のほとり、蔵前橋のところに、浅草お蔵跡という碑が立っている。なんともいえない景観の悪いところ。明治時代以降、我々は景観の悪化を進めてしまっている。昨年度、日本を訪れる外国人観光客が673万人になったが、韓国よりも低い。中国は4000万人世界中から訪ねている。GDPは世界第2位であり、国連の運営費の19%出している日本に観光客が673万人。それでも2005年は愛知万博があったから9%伸びた。2006年は何もない。現在観光客を増やそうとビジットキャンペーンをやっている。
しかし、景観の悪い日本には観光客は来ない。今の日本橋は高速道路が通っていて、寒々としている。江戸時代の景観は、まったく思い起こせない。明治時代はきれいだった。夕方になると、ガス灯が灯った。ガス灯に火を入れるお兄さんはかっこ良く、人気があった。明治時代以前は日本橋からも富士山が見えた。しかし近代化という名の下の破壊が進み、江戸時代・明治時代の美しい日本の景観は失われてしまった。江戸にはシンボルがない。
小泉さんが日本橋を復活させよう!という提案をした。検討した結果迂回案が出された。復活させる費用に6000億円が掛かる。誰が出しますか?1人1万円集めても6億人集めないとだめ、人口超えてしまう。

2、鉄舟の性格をつくった幼少時代の背景

鉄舟は大川端のお蔵奉行役宅で生まれた。当時大川は非常に豊かな川であった。鉄舟はお蔵奉行役宅に10歳までいた。高山時代からは鉄太郎について書かれた記録があるのでわかるが、10歳までの幼年時代は、9歳のときに剣道を習ったことしかわからない。

山岡鉄舟の2006年1月号の『ベルダ』に望嶽亭の松永さだよさんの写真を掲載した。松永さんには3回くらい会ったが話しが瑞々しいことに驚く。昔のことであり、代々伝わった話しなのに、昨日鉄舟に会ったかのように話す。なぜ瑞々しいのかと考え、それがヒントになった。鉄舟に直接会っている女将かくさんは、さだよさんから数えると4代前だが、話しが伝わる間に、そのさん1人しか入っていない。時間としては長いけれど、記憶が短い。だから話しが瑞々しいのです。

今年は大雪で被害が出ている。雪下ろしをしても、雪はどんどん積もり、雪を捨てるところがないので埋まってしまう。しかし何メートルも雪が積もる県で一人も死亡者が出ていない県がある。石川県だけは昔から地面に雪を溶かす装置を備えていたので、死亡者が出ない。

二見さんのお話の中で松代藩の藩主は自分の藩を良くしようと恩田木工を登用した。名君と言われる人には名参謀がいる。参謀の作戦がうまくいくと名君になる。名君には名参謀が必要。有能な人が必要なのです。

雪の話しに戻ると、再構築とはしくみを変えることである。雪が悪いようなことを言っているが、雪は降ってしまうのだから、溶けるようにする。道路を何年もかけて整備した結果、石川県は雪の被害が少ない。石川県は森総理、新潟県は田中角栄の出身。開発型と環境整備型の差が出ている。事件の裏については新聞記者は知っている。我々は政治家を選ばなければならない。時代の先端を示すことは我々の前に出てくる。

国の運営をつかさどる立場になった時、どういう心構えで政治家になればいいかという題目で、自民党より日経新聞の田勢康弘氏に、講演依頼があった。田勢氏はここで、「命もいらず名もいらず、官位も金もいらぬ人はしまつに困るものなり。このしまつに困る人ならでは艱難をともにし、国家の大業はなし得られぬなり」と話した。これは西郷隆盛が鉄舟の生き様から悟ったもので、『西郷南州翁』にかいてある。人は、生き方・死に方も変わらない。鉄舟は明治維新後出世して、お金が入ってきた。お金が入ってきても、貧乏しても鉄舟の人となりは変わらない。お金や地位によって変化しない人物が山岡鉄舟である。西郷は理屈ではなく、一瞬で鉄舟のそれを見抜いた。

山岡鉄舟を勉強しないと政治家になれない。4年前から勉強しているのはこのことがわかっているからである。世の中の流れを先取りしている。牡蠣の本も4年前に大事だと思ったから書いた。
鉄舟・21・サロンは、時代の最先端の精神を勉強する会であり、そのうちに大会場に3000人くらい集まるように、なってくるだろう。

1954年にゴジラは誕生した。今や世界のゴジラになっている。29年前にゴジラが世界に浸透すると思ってつくったかどうか。きっと予想して作たから今日浸透した。このように最先端の考え方の人がいる。

同じ景色を見ながら、先端と考える人と、捨ててしまう人がいる。みたものに対して、つかんで・編集して・ボールを投げる役目がある。田勢氏は、新しい考え方だよ、とボールを投げてくれた人。山岡鉄舟も世界に出していかないとならない。

最先端をリーディングエッジという、最先端の景色はヴューエッジ。ヴューエッジ見て、最先端だと判断するかできるかどうかが大事。『ベルダ』の編集長から旅先でヴューエッジを見つけて、コラムをやりましょうと言われている。
コラムのタイトルは「地球はフラット」にする。今、世界は階層がない、みんな平等である。感じたことを時代の先を示している最先端のリーディングエッジをつかんで書きたいと思っている。

鉄舟を研究するといろんなことに波及してくるということをお話したい。鉄舟の
幼年時代の背景について考える。鉄舟が生まれたのは、天候不順で飢饉もあり一揆があり、社会が混乱した、天保の時代。社会の混乱期に豊かな感性の人間が生まれるわけがない。いろんな本を調べていたら、鉄舟のような素晴らしい人間を育む、素晴らしい時代だったと、違った江戸時代像が浮かんできている。

鉄舟は豊かな時代に育ったとは、誰も書いていない。今後鉄舟の生きた時代の新しい姿を研究しようと思う。

3、小泉政権が進める三位一体改革

小泉政権が進める三位一体改革について説明する。
歳入・歳出=収入・支出のこと。歳出が91.3兆円、歳入が32.7兆円で、支出は収入の2.8倍の支出。

収入の対比をみると、国の歳入が52.7兆円、歳入総額は88.2兆円。国は6割、地方は4割で、歳入の差は「17.2兆円」これを地方に移す。これが三位一体改革。
地方が国より収入が多い。三位一体改革は単純に言うと、県民が代議士のところに陳情に来なくなるから押しとどめられている。

4、江戸時代の藩政治と幕府との関係
鉄舟が生きた江戸時代は幕府があり、270の藩があった。幕府は400万石だが、全国でみたら僅かな石高しか押さえていない。各藩は、今の日本みたいに、幕府(国)からお金を貰っていなかった。幕府は藩に一銭も出さない上に、藩政のチェックに入る。江戸時代は藩が財政の悪化など問題を起こすと、不行き届きといって、藩をつぶし、領地を幕府のものにした。参勤交代は忠誠心の証で、出張手当ても出ない。
そういう体制が江戸時代だった。各藩は自分の才覚でリストラを進める。
松代藩が恩田を登用したのは、各藩は100%自分のお金で生活しなければならないから。今は国からお金がもらえるから無駄遣いする。

鉄舟の本には、鉄舟が生きた時代背景のことが書かれていない。私はそこに時代を入れようと思った。時代を入れていくと、一人一人の言葉に意味が出てくる。
鉄舟が豊かな感性の持ち主だったということは、江戸時代が豊かだったということ。

無血開城の交渉がおわって、愛宕山の頂上で西郷が海舟に話した。

西郷:さすがは徳川公だけあって、えらい宝をお持ちだ
海舟:どうした
西郷:山岡さんのことです
海舟:どんな宝か
西郷:いやあのひとはどうのこうのと言葉尽くせぬが、なにぶんにも、ふのぬけた人でござる

西郷にとって鉄舟は、西郷が知る人物リストにはない人間。鉄舟は鋭い人であり、西郷自身が彼の説明に納得させられてしまった。西郷は、徳川慶喜の家来はすごい、その奥に控えている江戸幕府、徳川家は人材が豊富であり、奥行きのある人材ができる仕組みになっているのでは、と西郷は思ったのではないか。
いろんな学者の本を読んでいたら、江戸時代ほど豊かな時代はなかった、と北海道大学の井上氏がおっしゃっていた。今度お話しを伺う予定である。

来月からは鉄舟が生きた江戸時代をお話しします。


【事務局の感想】
今回「リーディングエッジ」という新しい言葉をお聞きしましたが、今までの鉄舟研究についても、時代の最先端の話と鉄舟を結びつけ発表していただいていました。鉄舟を研究することは、古くない。鉄舟を勉強し始めたことこそ、最先端の景色だったのではないかと思います。これからも、新しい感覚を勉強させていただきましょう。

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