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2005年11月05日

山岡鉄舟の武士道 

10月の例会の記録(1) 二見さんの発表


前回まで、新渡戸稲造の「武士道」を紹介してきました。剣道の修行から入り禅で大悟徹底した、武士道の鑑ともいうべき、山岡鉄舟が死ぬ二年前に講話した「武士道」を次にご紹介したい。
明治二十年(一八八七) 鉄舟五十二歳。門人 籠手田安定(こてだやすさだ 前滋賀県県知事)らの求めに応じて、武士道の講話をしたものを書き留めておいたものが、「山岡先生武士道講話記録」である。明治三十一年 この「記録」について勝海舟が評論し、嗣子山岡直記の序文と高橋泥舟の題字をつけて、安部正人が編集し、発行したのが明治三十五年(一九〇二)一月である。
新渡戸稲造の「武士道」は、明治三十二年(一八九九) アメリカで刊行され、翌年日本でも英語版が出版された。日本語訳は明治四十一年(一九〇八)に桜井鴎村によってされている。
鉄舟二十八歳の時、一刀流十二代を継いだ浅利又七郎と試合をしてから十七年目の明治十三年(一八八〇)三月三十日 鉄舟四十五歳の時、大悟徹底した。この時の心境が
電光影裏斬春風 となる。

剣道場「春風館」はこれが由来であり、私の合気道グループ名「春風会」は、鉄舟の春風館を目指して付けたものである。
鉄舟の武士道は、学者によっては荒唐無稽と言われているが、新渡戸稲造の武士道と同じく、倫理道徳の礎を担っている。
拙者の武士道は、仏教の理より及んだことである。
忠・仁・義・礼・知・信とか あるいは剛勇・廉潔・慈悲・節操・礼譲とかこれらの道を実践窮行する人を、武士道を守る人という。
日本の武士道ということは、日本人の実行すべき道である。「無我の実現」である。武士道の要素は、四恩である。

鉄舟の武士道について書かれている本を教本にしながら鉄舟の考えていた武士道について考えていく。1860年25歳のときに鉄舟が書いた武士道がある。実践することが武士道と言っている。1858年23歳のときに武士道を学んでいるのは、いろんな人に信頼されたいから学んでいるといっている。剣道を学んでいるのは君子と行動をともにしたいから。鉄舟は大器晩成。51歳のときに武士道をまとめた。

新渡戸の武士道は、仏教徒新党・儒教。
鉄舟は仏教が基本としている。儒教の論理に繋がっていると解釈します。

第一 四恩
1 父母の恩 
わが身体とわが心身は、父母の遺物であり心身と思うべきである。だから父母への孝養を尽くすことが大事である。我が心身は、父母の心身と覚悟することが武士道の発現である。
両親は当然のこと、いきとしいけるもの、植物も犬もすべて両親を持っている。
広い意味で鉄舟は言っているのではないか。

2 衆生の恩 
社会は、助け合いによって構成されている。生けるもの全て、父母だと思い、慈悲報恩の思いを忘れてはならない。
六道(天人道・人間道・畜生道・阿修羅道・餓鬼道・地獄道)の衆生は、みなわが父母であると思わねばならぬ。父母の子となって善果福祉を持つことができたのは、一切衆生のお陰である。だから報恩利済の義をつとめなければならない。
衆生の恩は助け合いによって構成されている。
衆生=生きとし生けるもの。この中に6道があります。

3 国王の恩 
いっさいの衆生は「国王」をもって根本となす。日本においては、皇祖は、日本民族の始祖であり、日本武士道の淵源である。ぜひとも帝王を尊敬して報恩の誠意を尽くさねばならぬ。ここで国王を国と置換して考えたい。
明治五年(一八七二)鉄舟は、西郷隆盛の依頼で宮内省に奉仕し、明治天皇の侍従になった。
現代では理解しにくい。明治天皇の教育係をやった影響もあると思うが、武士道の源である。
誠意をつくしてやる。つきつめると恩に報いる。

4 三宝(仏・法・僧)の恩
三宝とは、一に仏 二に法  三に僧。
武士道の発現は、法=真理である。法はいいかえると、天道、真如ともいい、法性、心性、仏性ともいう。 私は、仏心、神様、仏さま、グレートサムシングといい、この宇宙を動かしている大きな力をさしていると思う。

第二 現代社会の混迷と武士道
現今は、私利私欲に走り、汚職収賄を平気でやり、人倫が乱れている。この原因は、
一つには、科学進歩であり、道徳について考える余裕がなくなった証拠である。
二つには、法律は形式的であり、人類霊性の道義まで及ぶことができない。ここを補うのが武士道の活用である。

第三 武士道の起こりとその発達
1 上古の武士道 開国の当初、みな臣たるの分をつくして、開国に尽くされた。農をもって国の基としたので、臣民は ひたすら主君のために至誠をもって仕えた。
2 兵の農分離後の武士
兵農分離して、武士ができたから、武士が盗賊・反乱を鎮定するので信用を得る一方 恐怖心も出てきた。勤倹・尚武で道義も進んできた。
   
3 武士道の要素
神儒仏一貫の大道により忠孝・勇武・廉恥が成り立ってきた。武士道は、神、儒、仏 三道一貫の大道が、日本人天性の元気に補助的感化を与えたものである。
4 真の武士道は信仰と勤倹尚武
南北朝より室町時代では、楠、新田の精忠を上げた。小笠原流の弓馬礼法が成立した。

5 徳川家康公の功業
徳川家康の功業を讃え、真の武士道だといった。
武門盛衰の実体は、至誠とその反対である名利/邪欲の消長に帰するのである。

6 幕末
幕末志士に共通なものは、誠である。我が国においては、君と国とは一体である。維新の鴻業は、薩長といっているが、幕府の政策が産母であったことを知って欲しい。一例として、勝鱗太郎を長崎に行かせ海軍術を学ばせたり、オランダに留学生を派遣したり、講武所を開いて武道を奨励したり、海軍操練所を開いたりした。

第四 明治の武士道
志士達の、勤王憂国の誠意から明治の御代になったのである。真の文明とは、道義霊性の文明及び物質的の文明の合わさったところにある。
一家団欒として相い和し、父母祖先に感謝すること。これからの日本人は、
「・・・要するところ、武士道の精神をもって科学的外形の手足を使用していかねばならぬ。知徳両立することが武士道である。」

第五 武士道の精華
応神天皇(おうじんてんのう)の宮殿を大分県の宇佐八幡宮に祀った。その後、石清水八幡宮にも祀られた。八幡大菩薩と称えるのは、仏教の八正道(はっしょうどう)を示しているとのこと。正見、正念、正志、正精進、正語、正業、正命、正定を名付けて八つの正しい道という。
もののふというものは、出処進退を明らかにし、確乎として自己の意志を決した以上は、至誠をもって一貫するのが、真の武士でもありまた武士道でもある。
和気清磨(わけのきよまろ)、菅原道真(すがわらみちざね)、源義家(みなもとよしいえ)、楠木正成(くすのきまさしげ)、楠木正行(まさつら)、赤穂四十七士、会津白
虎隊、の事跡を紹介している。

第六 武士道を広義に解す
一身を捨てさえすればそれで道を全うしたのだと思うやもはかり難し。しかし、もっともある場合には、身を捨ててかかればまずよいものだが、しかしその心事は、いかなる地盤より発し、さらにいかなる活用をするやの点こそ武士道の奥義である。
一国を治めるものは、先ず手近く自身からしなければならない。 武士道を言葉をかえていえばいろいろある。忠孝、仁義、勇武、廉恥 質素、名誉、慈悲になる。教育の大道は、宗教心が第一である。 
教育、学校・企業などにも教育がある。
宗教というと拒絶するが、生き方の道だと思う。持っている道を貫けば武士道になる。

第七 おんな武士道
武士道は人間である以上、男女の区別はない。男子がいかに賢人であるとて、胤をあずかる女性が不完全であったならば、その間に生じる母の気風に感化されてしまうのでごく注意してもらいたい。
武士道は男性だけではない。武士道に男女は関係ない。

▼山岡鉄舟の武士道のまとめ
山岡鉄舟の「武士道」は、禅を中心とする仏教と剣の道と明治天皇の側近におられたときの皇室観という3つの要素により形成された。明治二十三年に発布された教育勅語にも影響を及ぼしたと思われる。
武士道とは、善たると知ったらば実行することが大事。陽明学の言葉でいえば「知行合一」である。鉄舟が武士道を講述した時点での言葉で云えば、「無我の実現」にある。
教育勅語の第一次草案を作成した中 村 正 直が鉄舟の講話を聞いていた。
中村はキリスト教、鉄舟は仏教が根底にあるけれど。
武士道は、トップに立つ方が率先して実行する。
無我とは、宇宙は自分にあると思って実践する。陽明学の基本。
頭でっかちではなく、実践することにより、現代に生きる智恵がでてくる。

事務局の感想
武士道も佳境にはいり、山岡鉄舟の武士道になりました。男女の区別なく女武士道も書いていた鉄舟の先見の明に感服いたします。
次回もよろしくお願いいたします。

投稿者 Master : 2005年11月05日 12:45

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