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2005年08月04日

「鉄舟の臨機応変」を山本さんが語る 7月例会(2)

3.山本さん発表 7月の鉄舟研究「臨機応変」

望嶽亭の松永さだよさんと先代の年齢の関係を語る山本さん

山崎さんの講演を拝聴し、シャンソンを通して生涯学習として、自己実現をしているのが素晴らしいと思った。自己実現とは、生きている限り、人の役に立つか、自分の役に立つか、ということである。

今日は、内閣府主宰の「高齢社会研究セミナー」でパネリストとして参加した。
参加したのはNPO法人でリーダーたちが多い。基調講演は自己実現のお話しをされている、生涯学習の専門家である一橋大学名誉教授の江見康一さんで、81歳で東京から赤穂まで自転車で完走した事例で感動した。
私は日本を外国人がどう見ているか、という「日本を見る目」ということをお話をした 世界中の家で、ほとんどの家に日本製品がある。外国人は、日本製品を使っている・日本のアニメを知っている・日本の車「トヨタ」の性能が良いことを知っている・日本食レストランを知っている。日本の実績を評価している。
マンガ、アニメ、絵本を「Cool Japan」と言って日本のクール(かっこいい)文化だと外人は言っている。
しかし、何故に日本がそのような素晴らしい評価を受けているか、その日本の思想的背景は新渡戸稲造の「武士道」で理解しようとしているのが現実である。新渡戸稲造の「武士道」は、日本人の道徳観念を言葉にしたもの、と理解している。
実際の武士道を体現しているのは山岡鉄舟である。ですから、この実態を世界に知らせることが私の自己実現と思っている。

1)海舟と西郷の江戸無血開城会見の場所
3月5日に慶喜から指示を受け、海舟と会った鉄舟は6日に江戸を出発した。しかし、駿府に到着するまでの7・8日は空白の2日間と言われている。9日は駿府で西郷と会っている。望嶽亭の言い伝えでは、7日夜半に薩?峠(さったとうげ)という険しい峠で、官軍に追われて望嶽亭に助けを求めて入ったと言われている。

望嶽亭第23代当主夫人の松永さだよ氏にお会いしてお話しを伺った。
鉄舟が望嶽亭に入ったのはさだよさんの曽祖父に当たる3代前のこと。3代前女将の「かく」さんが鉄舟に直接会い、官軍との対応を現場で行っている。そのとき「かく」さんは33歳で、75歳でご逝去されたが、孫嫁に当たる22代孝一の嫁である「その」さんがお嫁に来たのは、「かく」さんが73歳のとき、つまり、「その」さんは鉄舟と直接会い、官軍と対応した「かく」さんからダイレクトに経緯を聞いているのである。
そのダイレクトに経緯を聞いた「その」さんの息子の宝蔵さんの嫁が「さだよ」さんで、「その」さんから直接話を聞いているのであるから、随分昔のことであるようだが、実際は「かく」さんの話を一人入っただけで現在の「さだよ」さんに伝わっているのである。

女将かく(73歳)— その(55歳)— さだよ(19歳)

「さだよ」さんが19歳で嫁した際に、義母の「その」さんから聞いた話であるから、遠い昔の話ではなく、ほんの少し前のことであるのに聞いてみて驚いた。
話を整理してみて、これは本物と思った次第である。

3月14日に江戸無血開城が決まった石碑がJR田町駅近くにある。その前日の3月
13日に下交渉したが、それがどこの薩摩屋敷であるか諸説あり、よくわかっていない。
南條範夫  山岡鉄舟   高輪南町 薩摩中屋敷(現在の品川ホテルパシフィック)
子母沢寛  勝海舟    高輪南町 薩摩下屋敷
佐藤 寛  山岡鉄舟   高輪   薩摩屋敷
大森曹玄  山岡鉄舟   高輪   薩摩下屋敷
松浦 玲  勝海舟    高輪南町 薩摩下屋敷
             三田   薩摩上屋敷・・・二説あり
             (現在のセレスティンホテル)
石井 孝  勝海舟    高輪   薩摩藩邸
神渡良平  春風を斬る  高輪   薩摩屋敷

2)会見が終わって愛宕山に上ったという説を採ると、
愛宕山の近くであれば上屋敷になる

3)海舟と西郷の二人は愛宕山に上って何を語り合ったか推測しなければならない。
このときは立場が逆転した。以前、大坂で薩摩の西郷は第一次長州征伐の際に、幕府の中枢の人間である海舟に時の情勢分析について教えを仰ぐために海舟の宿泊先を訪問したのである。その際、海舟は「攻めても仕方ない。日本は未曾有の局面に対応している。幕府は将軍職を天皇に返上し、一大名になるべきだ」と言った。これに西郷はビックリして圧倒された。幕府内の人間がこのような考えを持っていることを始めて知り「海舟は素晴らしい人物」と大久保利通に手紙を書いていて、深く海舟に時流を学んだのである。
海舟が世界観の違いを見せたからだ。しかし今度は、海舟が薩摩屋敷まで訪れた。

4)愛宕山から見下ろした江戸景観と現代の東京景観
現代の和歌山市の事例
和歌山市は87メートルの高層ビルを、今年の春に和歌山城のすぐ近くに建て、景観を壊している。今でもこのようなゼネコン主導の開発があることに驚いている。
江戸の景観については、イギリス人写真家フェリックス・ベアトは当時の建物を記録している。(レンズを開けっ放し・・・人物が動いたら写らないので、建物しか写っていない・・・ が、良く見ると5人が写って同じ方向を見ている。なぜか。)この件については、9月11日の全国フォーラムで小川さんより解説がある。

愛宕山は海抜26メートル。愛宕山・飛鳥山の2つが高かった。北と南の名所であった。今は乱脈な景観になっている。
(参考)『持続可能な都市—欧米の試みから何を学ぶか—』福川裕一・矢作弘・岡部明子著 岩波書店

5)上野寛永寺大慈院の一室で慶喜から指示を受けた鉄舟はどのような行動を採ったか・・・常識的な行動と非常識的な回答
常識的な行動とは、海舟は当時の首相に当たる人であり、訪ねて見解を請うのは当たり前である。鉄舟はそれまで政治面は全くタッチしていなかったので。
しかし、海舟が「どうやって駿府まで行くのか」という問いに対して、鉄舟の「臨機応変にやるは胸中にあり」というのは並の人では言えなく、これは非常識な回答である。

6)後日、海舟が鉄舟を評した内容
鉄舟の臨機応変について「これが本当、他人がしたならチャンと前から計画する。そんなことなら鳥の網にはいるようなもの。計画なくして、計画ができている、真に臨機応変」
これは、先は分からない=計画は立たない、すべて予測できない時は計画できない。
ここで現代のトヨタと尊徳を比較して話す人が多く、私もそのようにしているが、両者に共通しているのはデータの蓄積を大事にして、それから計画をつくることである。
鉄舟の場合は違う。データがないままに駿府に向かったのである。すべて予測することは不可能 予測(計画)と現実との乖離が魅力であり、これを乗り超えていくことをロマンというが、そのためには日常の修行が必要であるので、一般的には常識的にデータを取り揃えて行動することである。しかし、データなきままに直感的に行動しうまく行かない理由を後で整理する人が殆どである。
鉄舟の行動は並大抵の人にはできないという事実、だから、普通の我々は一般セオリーに基づくデータ重視を心がけたい。

●事務局の感想
無血開城は、まさに鉄舟の「臨機応変」がなければ成り立たなかった。これは鉄舟が並みの人ではなかったということです。
毎回現場からの報告は、臨場感があり、新しい発見があります。9月11日の全国大会での発表が期待されます。

投稿者 Master : 2005年08月04日 17:23

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