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2006年03月25日

3月例会記録(2)

3月例会記録
山本紀久雄氏 「鉄舟の生きた時代への判断基準」

北川先生から難しいお話を聞いたのではないか。
 ベストセラー『国家の品格』を読むと著者の藤原氏は数学の出来不出来によって、現在の国家の状態を表すと書いておられる。ニュートンと宮本武蔵はオンリーワンで柳生は共存・共生。アインシュタインは「地球は共存・共生」ということを切り開いた人。

 数学というとアイルランドがすごい。文学もすごい。先日アイルランドへ行って、グレシャムホテルに泊まった。あの経済学の法則の一つ「グレシャムの法則」(悪貨は良貨を駆逐する)から名づけているのです。昔アイルランドは貧しい国だったが、現在は世界で中国並みに成長している。ヨーロッパで一番IT、産業が進んでいる。
 金子さんが先ほど昨日の夕刊にぬりえのことが出たとおっしゃった。掲載した日経新聞では、ぬりえを「塗るもの」ではなく「型」として、違った見方でぬりえを紹介した。塗られるほうからみるぬりえと塗るほうからみるぬりえで本が書けるのではないか。ものの見方は沢山ある。

型は大事。囲碁も定石を、ゴルフもスキーも型を覚えないと成長しない。北川さんは数学を勉強されているから日本経済もわかる。悪い型・習慣が悪いと病気になる。先日お会いした石原先生という方は非常に人気で、今から予約しても診察してもらえるのが2年半も先。講演も月に50本あり、本もベストセラー。30年前より患者より医者が増えたのに死ぬ人が増えるのは、生活習慣病だと先生はおっしゃる。
 鉄舟も時代の影響を受けている。人間の生きた時代を知らずして研究しても駄目だと気がついた。鉄舟の研究本を読んでも、鉄舟が生まれて何をしたかしか書かれておらず、鉄舟の生きた社会についてほとんど書かれていない。なぜ、あんな立派な業績を残したのかがわからない。研究は深めないとならない。穴を深く掘るには幅広く穴を開けないと深く掘れない。深めることは研究になる。だから鉄舟サロンでは、毎回いろんな方にいろんな話しをしてもらっている。北川さんの話で感心したのは、時間を内在させているというのは、禅の思想。起きた事件について世界をみて、そこから対話していく。鉄舟が社会現象をどのように捉えたかについては、今はまだ研究途中である。


1.鉄舟の揮毫数のすごさ
「明治十九年五月、健康が勝れぬ為、医者の勧告で『絶筆』といって七月三十一日迄に三萬枚を書き以後一切外部からの揮毫を謝絶することが発表された。すると我も我もと詰めかける依頼者が門前市をなして前後もわからぬので、朝一番に来たものから順次に番号札を渡した云ふことだ。(明治十九年六月三日東京日日新聞)其後は唯だ全生庵から申し込んだ分だけを例外としてゐたが、其の例外が八ヶ月間に十萬千三百八十枚(この書は全生庵執事から師匠に出す受取書によって知る)と云ふから驚く。或る人が『今まで御揮毫の墨蹟の数は大変なものでせうね』と云ふと、『なあに未だ三千五百萬人に一枚づつは行き渡るまいね』と師匠が笑われた。三千五百萬と云へば、其の頃の日本の人口なのだ。何と云っても、桁はづれの大物は、ケチな常人の了見では、尺度に合わぬものだ」
 小倉鉄樹の著書「おれの師匠」(島津書房)

 鉄舟の揮毫数のすごさを調べた。上記抜粋文の「師匠」は鉄舟のこと。書は塗るものだ!と、鉄舟は書いていないと言っている。書いていたら疲れてしまう。

2.物事の判断方程式 (現状・事実)÷(基準)=判断結果

 パリでお会いした日本人の女性は、自分が今までどんなプロセスで生きてきたか、辛かったことを話し、パリに来て良くなったと話した。フランスに来た当初は劣等感を持っており、劣等感の中でフランス人と付き合い始めた。フランス人と話し、質問されているうちに、日本が評価されていることがわかった。日本の文化が説明できなくて恥ずかしかった。しかし日本人であることの劣等感が解消され、今はフランス人の男性と結婚している。
 劣等感を持ったことも克服できたこともすべて自分の中の基準。自分が問題を起こし、自分が解決した。事実や現実に対し、良い・悪いの判断基準があり、それが判断結果になる。"結果が悪いのは相手が悪いから"と思ったらどうしようもない。自分の中の基準を変えないと結果は良くならない。


3.欧米人の幕末維新時代における日本判断基準

 日本は鎖国しており、外国人と付き合ったことがないので外国人に対して劣等感を持つことはなかった。日本人が一番優れていると思っており、外国人を紅毛僻人と呼んでいた。日本人の劣等感は、ペリーが来て今までの基準が変えられたときから始まった。
 白人の鼻が高いのは寒いから、冷たい空気を鼻の中で温めるため、顔が細いのは風除け、胴が短いのは腸が短いからで、肉を食べるからである。ペリーは日本にお土産として、ライフル銃、ウイスキー、シャンパンなどを持ってきた。日本人が一番興味を持ったのが、電信機と蒸気機関車の模型。日本人は相撲取りを見せた。アメリカ文化の日本経験としては、それは野蛮な力自慢としか感じなかった。アメリカ人は日本を部分的にしか啓蒙されていない人であり、アメリカの行為を科学と冒険がもたらした成功と言った。
 ペリーが日本の街を歩いていて、びっくりしたことのとして、銭湯が混浴だったことと女の人が裸で家にいること。ペリーは"遅れている"と思い、日本はペリーの日本遠征記で半分開かれた国として紹介されている。日本から見れば、混浴という意識ではなく、お風呂を"共同で使っている"という考えであり、相手をじろじろみない、他人の家を除かない、というルールが前提にある。アメリカ人はその前提を無視している。

 アメリカで白色人種が優れていることを学者が発表した。コーカサス人種は脳の容量が大きく、モンゴル人種は器用で模倣がうまいと人種を分けて人種論を展開した。ドイツの森に住んだアングロサクソンがローマ帝国を倒した、だから白人が一番優れているという理論。
 自分たちは天照大神を天岩戸から出したスサノオだとアメリカ人は思っている。暗かった世界に天照大神を出して明るくしたと。アメリカはニュートン方式でオンリーワンだから、どんどん発言していく。聞いたほうは、そんな気がして思い込みはじめる。日本は近代的にいうと機関車もないし、と受け入れていったのではないか。

 パリには高校1年生の女の子も一緒だった。彼女は食事でオペラ座前まで行ったとき、ごみが沢山落ちていて汚い、欧米に対して持っているイメージが違うと驚いていた。
 ボルドーで4つ星ホテルに泊まったとき、ワインは何?と聞いたら「ボルドー」とスタッフが答えた。ボルドーの何の地区か聞いたのに「ボルドー」と。もし地区がわからなかったら「ただ今確認してまいります」と他の人に聞くでしょう。サービス精神も落ちる。そんな欧米になぜ劣等感を持つのかわからない。
 ボルドーが世界遺産を申請している。2004年につくったトラムに乗るための切符売り場で紙幣が使えない。日本の方が進んでいる。基準を切り崩さないといけない。
 鉄舟が生きた時代はどうだったか。あちこちで百姓一揆が起きた時代だった。


4.鉄舟の生きた時代の気象状況
 江戸時代において通常とまではいわないまでも、異常気象は日常的であったという指摘があり、その異常気象を例示したのが以下である。
(江戸の生活と経済 宮林義信著『三一書房』)
①天正19年(1591)~寛永12年(1635)44年間多雨期
(このうち江戸時代は35年間)
②寛永13年(1636)~天和3年(1683) 47年間多雨期
③貞享1年(1684)~元禄13年(1700) 16年間干ばつ期
④元禄14年(1701)~明和2年(1765) 64年間多雨期
⑤明和3年(1766)~安永3年(1774)  8年間干ばつ期
⑥安永4年(1775)~寛政3年(1791)  16年間多雨期
⑦寛政四年(1792)~文化11年(1814) 22年間干ばつ期
⑧文政7年(1824)~安政2年(1855)  31年間干・冷期
⑨安政3年(1856)~明治五年(1872)  16年間多雨期
(このうち江戸時代は12年間)


5.一揆の発生要因
 上の中で江戸時代に該当する年数を合計してみると二百五十一年間になる。何と江戸時代が二百六十八年間続いたうちの94%に該当する年度が異常気象になり、これはいかにも多すぎる。しかし、このデータが事実とすれば、飢饉のリスクは当たり前の日常的であったと推測され、百姓一揆は多発したと予測される。鉄舟が生まれたのは天保七年(1836)であるから上記の⑧にあたり、一揆が多発した時代であり、その環境下で少年時代を過ごした。

 今年も大雪、昨年の夏は暑かった。普通の年は考えられない。部分的には、毎年異常気象だった。一千八百万石、農民が米の生産に励んだ。耕作するためには平和・安全がなければ耕作できない。領主がきちんと備蓄する国には一揆は発生しなかった。


6.一揆の事実 
 作り上げられた「義民伝説」と「竹鎗蓆旗」(ちくそうせつき・竹やりとむしろ旗)

 佐倉義民伝(佐倉惣五郎または宗五郎)
暴力的な百姓一揆を身を挺してとどめ、一身を犠牲にして越訴する義民物語
四代将軍家綱の時代 承応二年(1653)の佐倉騒動
その後口承伝承され198年後の嘉永四年(1851)に「東山桜荘子」として芝居となった。活版として本になったのは234年後の明治20年、荒川藤兵衛刊「佐倉義民伝」が最初である。自由民権運動で民衆の歴史を表に出した。

 竹鎗蓆旗(ちくそうせつき・竹やりとむしろ旗)
これは全くの嘘、事実ではないというのが最近の研究結果
江戸時代一揆史上3200件の中で文政年間(1820年頃)の二例だけが竹やりを持って殺害した事例・・・1818年大和の国と1823年紀伊国一揆には「一揆の作法」が在村世界の社会通念として成熟していた・・・群集の行動作法様式と江戸には「かご訴」を含む訴訟(公事)世話する「公事宿の紀伊国屋」が存在した。    

 この話しは歌舞伎にもある。江戸が始まってすぐの1653年に起きた事件が200年後に芝居になった。時代設定を足利時代に変えて、235年後の明治20年に本になった。本にした理由があった。この時代はこうであったと伝えたい。
竹やりとむしろ旗は事実ではない。一揆には作法があった。江戸幕府に対して申し出ている。それについては詳しく調べてお伝えしたい。

 また、全国大会では北海道大学の井上先生をお呼びして、江戸時代の時代背景についてご講演いただくことを検討している。

【事務局の感想】
 研究を深めるとはどういうことか。穴を深く掘るには、幅広く、穴を開けないと深く掘れるものではない。鉄舟のことだけをするのではなく、その周りも含めて幅広くすることが、研究であるという山本さんの解説を、有り難いアドバイスとして、私もぬりえについて深めて行きたいと思います。

投稿者 staff : 2006年03月25日 12:28

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