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2006年02月23日

2月例会記録(2) 「鉄舟の表現力」

2月例会記録
山本紀久雄氏 「鉄舟の表現力」

先週日曜日に文楽をみてきたが、すごく色が鮮やかできれい。
日本文化は色鮮やかですね。

1.鉄舟を表現する言葉
 ① 幕末三舟
 ② 剣・禅・書の人
 ③ 智の人・海舟、情の人・鉄舟、意の人・泥舟・・・頭山満・・高士
    高士・・・人格の高潔な人。山野に隠れ住む有徳のひと。
 ④ 命もいらず名もいらず、官位も金もいらぬ人はしまつに困るものなり。 このしまつに困る人ならでは艱難をともにし、国家の大業はなし得られぬなり・・・西郷隆盛『南洲翁遺訓』

①幕末三舟とは、海舟、鉄舟、泥舟のこと。
年齢順だと、海舟、泥舟、鉄舟、亡くなった順からだと鉄舟が一番先。

③頭山満は鉄舟を高士と言っている。高士(こうし)とは、人格の高潔な人。
戦争中に遠山満によって、鉄舟が高士を代表する人物として使われたが、戦後、使われなくなった。
頭山満は戦争推進の思想をもって、国全体をリードしていった人物であったから彼の考えは遠ざけられ、鉄舟の研究も止まってしまった。
『幕末三舟伝』・・・頭山満が語ったものを本にしたもの。

④西郷隆盛の言葉が、鉄舟を的確に表現している。

2.司馬遼太郎がみた文章表現力に優れた幕末志士・・・坂本竜馬、西郷隆盛

西郷隆盛が語った言葉はその時代に必要であり、表現力がすごい。しかし西郷隆盛は表現力が豊かということを認めなければ、鉄舟に関する表現も評価に値しない。
司馬遼太郎は西郷隆盛をどう言っていたか?幕末に志士が出た。志士に共通しているのは言葉が不自由であり、すぐに激高すること。詩文は得意だが、口語体の説得力には欠けている。坂本竜馬は表現できる人物。お姉さんへの手紙は非常にわかりやすい。では西郷隆盛は、というと、司馬遼太郎は西郷隆盛を一流の報道家であるとベタ褒めをしている。西郷という人が生きていれば、どの職業につけなくても新聞記者が務まる。それも相当な記者になれる。抜群の出来栄えであると褒めている。その司馬遼太郎が認めた西郷が山岡鉄舟を表現している内容は認められるのではないか。西郷隆盛の功績は鉄舟を表現することもある。

3.鉄舟の表現力・・・口述内容から判断する
鉄舟は著書を残していないが、鉄舟はしゃべったので、口述内容が残っている。人に伝えることは大事なこと。その場に応じて妥当に表現する感覚が豊かな人であったろう。

4.鉄舟の豊かな表現力に影響を与えた飛騨高山時代と両親
   父 小野朝右衛門高幅・・・郡代としての業績
   母 磯・・・寺子屋へ鉄太郎を通わせる

鉄舟の豊かな表現力は、父朝右衛門が郡代として派遣されていた高山時代に磨かれたのだと思う。高山は秋葉神社があって、水が豊かである。
10万人以下の行ってみたい町の1位=高山、2位=長野県小布施。鉄舟は10歳から7年間高山で過ごした。資料の天領の分布図の合計石高は420万3000石。徳川慶喜が大政奉還して、徳川が一大名になった。天皇に征夷大将軍をお返しされたが、天皇家は石高が少ない。薩長が、徳川幕府420万石のうち半分の200万石を天皇に寄進させよう画策したことも徳川方を戦いに向けた一因であった。ここから、幕末の天領図の石高合計が420万3000石というのは辻褄があう。ちなみに元禄時代は800万石あったという。資料の分布図から、郡代が収めていたのは、高山、江戸、日田(九州)、笠松(美濃)の4箇所だけであり、他は代官が収めていた。郡代と代官の違いは給料。代官は150俵、現代の金額にするとおよそ年収666万円、一方郡代は400俵で、年収1800万円。

山岡鉄舟のお父さんはたいしたことないという風評が各本に書いてあるが、天領のうち4つしかない郡代に指名されて、年収を1800万円もらっていたというのはすごいこと。
1万石から大名と呼ばれるが、高山の郡代となると、10万石の大名クラスである。
そして、当時は、代官に土地の自治を任せている10割自治だった。法務関係だけは江戸で処理したが、一般的な行政は代官・郡代に任されていた。
代官や郡代の腕によって町は栄えた。4つしかない郡代に派遣されたということは朝右衛門は大変な力があったと思われる。小野朝右衛門は第21代高山郡代。
能力が仇となった。陣立て(狼煙を上げて太鼓を叩く)を何回も行い、幕府から朝右衛門は反乱するのでは?と疑われて実は自刃させられたという話しもあるが、鉄舟は脳溢血で倒れたと言っている。とにかく鉄舟のお父さんは立派な人だった。

お母さんの磯さんは鹿島神宮出身の人で、鉄舟を寺子屋に行かせたことが偉い。
10万石の大名の息子を寺子屋に行かせますか?大名だったら、家庭教師を派遣して勉強させられる。
寺子屋で町の子供と一緒に学ぶことが、時代の感覚を身につけさせた。寺子屋は日本基礎教育の場所であり、寺子屋は江戸だけで900くらいあった。明治時代急速に近代化ができたのは教育のおかげである。鉄舟も子供時代に寺子屋で経験したからこそ、後に豊かな人間になった。このような意味で磯さんは偉いと思う。

磯さんは早死にした。後を追うようにお父さんの朝右衛門も亡くなった。遺産、建物は無い、残すのはお金。現金為替で3500両残した。1両=10万円とした現在3億5000万円。鉄舟は5人の弟に各々500両(合計2500両)持参金として持たせて養子に行かせた。900両は腹違いの兄に渡した。鉄舟は残り100両を持って山岡家に行った。

5.GDPだけで国の豊かさ判断はできない
江戸時代のGDPはどの程度であったか。それをアメリカの経済学者、サイモン・クズネッツが推計している。それによると幕末の慶応元年(1865)における一人当たりGDPは54ドルになっている。当時の西ヨーロッパ諸国、日本よりいち早く工業化をスターとさせていて、低い国でも200ドルに達していたから、日本のGDP水準はいかにも低い。江戸時代の経済的実態は貧弱であったという見解は、この推計が根拠になる。しかし、第二次世界大戦後のアジア諸国、例えば今は経済成長著しい韓国、その一人当たりGDPのスタートは87ドルであったことを考えると、一概に数字だけを持ってその国の豊かさを判定できない。物質文化、ライフスタイル、健康状態、寿命の実態、それらの質問題を勘案しないといけないという見解も生ずる。確かに、幕末に未知の国日本を訪れた欧米人が記録したものを見ると、日本の生活文化が豊かなことに驚いていることが書かれている。

日本が鎖国を解いて、いろんな人がきたが、日本をみて豊かで驚いている。
ペリーの艦隊が来たときに、子供のおもちゃが非常に豊か、遥かに進んだ物語が戯画として残っていると驚いている。

「泥舟」はどういう意味でつけたのか?高橋泥舟は、明治16年まで号を忍歳といっており、泥舟というのは晩年の名前。所以は、明治政府に出仕しないか?と声を掛けられたときに世に出る意なし、と断った台詞からである。
「漕ぎいださぬがカチカチの山」とカチカチ山に登場する狸の泥舟の話を持ち出し、自分が世に出ないのは天命であって、それは泥の舟に乗っているからと辞退したことによる。

海舟は佐久間象山の弟子だった。佐久間象山の「海舟書屋」という言葉から海舟という号をもらって、「勝海舟」になった。

「鉄舟」は誰がつけたか?素直な疑問だが、どこにも書かれていない。
また検討課題ですね。


【事務局の感想】
事務局の感想
鉄舟は自分で記録を残していませんので、鉄舟に関する研究書は少ないのですが、山本さんの研究図書が日を追うごとに増えています。本をとり、パッと開いたところに鉄舟が書かれていたとお聞きしました。
さらに鉄舟についての新しい発見をお聞きすることを楽しみしています。

投稿者 staff : 2006年02月23日 15:35

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