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2008年09月23日

9月例会記録(2) 2/2

「時代環境を取り入れ、逆境をのがれた清河八郎」
山本紀久雄氏

4.伏見寺田屋事件に清河がいなかったわけ
島津久光は斉彬の弟ですね。息子が藩主になって、その父親で、身分も位もない久光が藩兵を連れて京に来ると聞いて、久光が尊王攘夷を進めるためであろうと清河は日本全国に檄を飛ばしました。
久光は幕府に幕府の政治改革をするために朝廷に指示してもらって、自分も一緒に江戸に行く予定でした。安政の大獄でつかまった人を解放してほしい、そういう話でした。

過激派は久光が武力によって幕府を倒すと、日本中の尊攘派が300人くらい集まったが、久光が京に来てみたら違ったということがわかりました。尊攘派たちは、やり場がなくなって、伏見の寺田屋に集まって、自分たちで決行しようということで、相談をしていました。それを知った久光は、薩摩の過激派と親しい腕の立つ藩士を送り込み、攘夷討ちしても良いといいました。
その中にいた田中河内介は、明治天皇を育てた乳母係です。後年、田中河内介はどうなっているか、一角の人物だから今頃は立派な男だろうと問われたとき、「伏見寺田屋事件で、薩摩から舟で大阪に行く途中に惨殺され、遺体は小豆島に流れ込みました。そのときの責任者は大久保利通です。」と告げられ、大久保は顔を上げられなかったところまで前回お話しました。

田中河内介は、公家中山家に仕えていた人物で、伏見寺田には居たけれど、肝心要の世の中に激を飛ばして煽り立てた清河はいませんでした。なぜ居なかったのかお話します。
本間精一郎という越後出身の豪商の息子がいました。当時は浪人とは言わないで「浪士」と言いました。浪人は元武士だった人ですが、幕末ですから、お金がある人は勝手に刀をさして浪士と言いました。江戸で清河と勉強仲間だった本間は清河にしばらくぶりに会って川下りに誘いました。藤本鉄石を誘って、芸者さんを連れて、川くだりして酒を飲みました。川から大海に出るところに船番所があり、名前を書くように言われますが本間は酔っ払っている、世の中を変えてやろうと気合も入っているから、いい加減な名前を書きました。幕府の役人が怒りましたが、本間は口が立つので、やり込めて帰ってきました。しかし幕府の役人はカチンときており、本間がどこに住んでいるから探って、捕まえようとしました。本間は慌てて清河の居た薩摩屋敷に匿ってほしいと転がり込みましたが、幕府から薩摩屋敷に問い合わせが正式にくる、薩摩屋敷にいる清河は薩摩役人との間に入って板挟みになる、そんなつまらないことで、失ってはいかんと薩摩屋敷を出て、他の屋敷に移りました。その、清河が知らない間に伏見寺田屋事件が起き、清河はつまらない理由で、その場にいませんでした。清河は何かそこで、大きなことをしでかすようだけど、何か弱点があることを暗示していることなんですね。

5.清河が長い逃亡生活から逃れるためにうった時代条件活用の謀策
伏見寺田屋から生き残って江戸に来たわけですが、幕府から岡っ引き殺害事件で、追われていました。
島津久光は上京し、安政の大獄で捕まった人を許してあげなさい、と幕府に改革を申し出ました。その一環で大赦の動きが出てきました。清河は鉄舟にいわれて、自分の罪を許してほしいと幕府に申し出て、結果的には許されました。

清河八郎の流れを見ていると、ひとつの生き方のルールがあるんじゃないかと気がつきました。我々にしても現代の時代に生きています。今、経済が大変な状況ですね。株は下がり、石油は上がり、金も下がり、お金はどこに行ってしまったのでしょうか。時代の変換期があり、幕末もそうでした。時代の変化を見つけて、変化をどう取り組むか、変化という条件を活用することが大事なことです。
脳力開発の専門家として昔から学んで参りましたが、条件とは使うもの、目の前にある変化を自分にどう取り込むか、変化を自分に有利に取り込めるか不利になるかは本人の実力次第です。
時代を勉強しながら変化を自分の中にどう取り込むかというのが生き方で、変化を自分に取り込まないとその人は博物館に行ってしまいます。時代に生きるのはそういうことです。

清河八郎はそこが優れていました。清河の過去を振り返ると、山形から出てきて、頭が良いから学者になろうと思って勉強しました。革命家になろうとしたのは、井伊大老が暗殺された桜田門外の変がきっかけです。殺した人物が名もなき、禄高も少ない、自分と大して変わらない浪士だったということを知ったときからで、清河は学者を辞めて、改革に走りました。
虎尾の会をつぶそうとした岡っ引きを殺し、逃亡生活に入りましたが、逃亡生活をチャンスとしました。幕府は孝明天皇を辞めさせる、そういう噂を用意して、餌として全国回って歩き、自分を日本中売り歩きました。これが条件活用です。
大赦を幕府は受け入れる余地があるとわかった瞬間、時代が変わった、許されなかったものが許されるようになった、とわかったとき、清河は、幕府が困っていて、幕府が喜べること、それで自分が幕府を取り込めることを考えました。
浪士が溢れ、悪いことをする、天誅と言って人を殺す、外国人を殺す、幕府は手を焼いていました。幕府が集めて、浪士隊にして、幕府の中に入れるという案を考えました。鉄舟も賛成して参加しました。清河は条件活用に優れていました。

話は変わりますけれども、将軍家茂と福田首相と似ているんじゃないかな。
家茂は和宮の旦那さん。攘夷決行で家茂は上洛したが、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四国艦隊が兵庫沖から大阪湾に入って、港を開かないなら武力で開かせると示威行動をしました。天皇陛下は兵庫開港はやだと言っていました。幕府で兵庫開港を決めたときに慶喜が出てきて、もう一度朝廷に持っていきました。それを見た家茂将軍は征夷大将軍を辞めた、後任は慶喜で良いではないかと言ったそうです。

山本レターで申し上げたんですが、四国艦隊から持ち去られた長州砲のいきさつを調べたときに、本を読んでもアンバリッドにあると書いてありましたが、インターネットで調べると下関市立長府博物館にあるとわかりました。情報としてわかっても皆さんに話すことがありません。現場に行って、結果がわかります。
インターネットをヒントにして突き詰め、考える行動に入ります。インターネットが普及して、すべてわかるかのようになっています。「クローズアップ現代」ではインターネットは早いしデータがそろっているので考えなくなっていると言っていました。インターネットは新聞とか、井上先生の和宮さんの論は載っていません。インターネットも重要ですが、あくまでも入り口ですから、自分自身の考え、研究してやっていかないと事実・真実は出てきません。
山岡鉄舟についても書かれていますが、しかしあの説明で鉄舟がわかるでしょうか。不十分だからこういう会をしています。山岡鉄舟という人間がどう必要になっているのか、今の時代と結びつけて研究しなければなりません。

脳が疲労するとうつ病か痴呆になります。脳が疲労するというのは何も考えないことです。頭を使うと脳疲労が起きないので、山岡鉄舟会で脳疲労の病気対策になりますからぜひがんばっていただきたいと思います。

【事務局の感想】
清河八郎の生き方を追いながら、孝明天皇に関する新説やフランスと戦った長州藩の大砲の追求の話やなぜ寺田屋事件に清河がいなかったのかなど、今月も山本鉄舟研究ならではの発表していただきました。時代の変化を自分の中にどう取り込んで生きていくかという問題では、これからも山岡鉄舟研究会は皆様のお役にたつものと思います。


以上

投稿者 staff : 2008年09月23日 11:00

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