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2005年05月10日

「現代に生きる武士道 2」

二見さん発表4月(2)
●結婚 
明治二十四年(一八九一)元旦 二十九歳の稲造は 三年越しの恋が実りメアリーパターソンエルキントン二十四歳と結婚した。彼女は敬虔なるクエーカー教徒でフィラデルフィアの実業家の一人娘であった。
●明治二十四年(一八九一)新妻と二人で日本に向かった。六年四ヶ月ぶりの帰国だった。東京から札幌に戻り、札幌農学校教授となった。就任当時の農学校の教員は九人であった。稲造は、最初の年、一週間に政治経済学三時間、農政学三時間、ドイツ語六時間、英作文一時間、倫理学一時間を受け持った。
稲造は、倫理学を最優先として扱った。
●三四才のメアリーは明治二五年(一八九二)、男児を難産の末出産したが一週間で逝去。彼女は数カ月病に伏した後、打撃を受けた心身の療養にフィラデルフィアに里帰りをした。
●稲造の活躍をあげるといつ休むのかと思うほどである。農学校では、規程の授業だけでなく、図書館主任、舎監、衛生委員長、入試委員長などをつとめる傍ら北海道庁顧問、札幌内外の約二〇の組織に関わり、赤十字社、刑務所改善、教育機関の支援、自宅での聖書の研究と英語のクラス、夜は遠友夜学校と。
明治三〇年(一八九七) 三五才 さまざまな仕事を引き受け、精神的葛藤にも耐え切れず、とうとう病に倒れた。   
●彼の願いはあまりに多岐であった。こういうなかで稲造は神経衰弱になってしまった。札幌農学校に休暇届けをし、湘南、鎌倉、沼津と転地しながら静養した。しかし完治しないので医師の勧めにより、カリフォルニアで療養するため、明治三一年(一八九八)道庁と農学校に辞表提出し、その年の七月にアメリカに渡った。

●「武士道」の執筆
サンフランシスコから九〇マイル南のカリフォルニア州のモントレー半島、そしてサンタ・クララ郡のカレッジパークと移り静養を続けた。ここで有名な「武士道」(Bushido, The Soul of Japan)を書き始めた。時に一八九九年春から秋にかけてであった。稲造は三十七才になろうとしていた。書くに当たってパシフィク大学の図書館を利用したようであった。
稲造は「武士道」を最初から書こうとしていたのではなかった。「何か専門的な知識を生かして書いてみたい」と願っており、静養していて落ちつきを取り戻し時間ができたので書き上げたものであった。
●「武士道」のまえがきに、「武士道」を執筆に到った動機が記されている。
十年前に、ベルギーの法学者のお宅にお伺いした時、老法学者、ド、ラヴレー氏から稲造は質問を受けた。
「お国の学校では宗教教育などしないのですか」 
「そうなのです」
「宗教なし! ではどうやって道徳教育を授けるのですか」
西欧では、キリスト教が教育に先行し、学校教育の母体であった。だから道徳を教えない学校教育などはなきにひとしいとさえ考えられていた。
この質問に、稲造はとっさに答えることが出来なかった。そう日本では、道徳の教えは学校では教えられなかった。これら道徳を教えてくれたのは武士道なのだと気がついた。            
●明治三二年(一八九九)一二月 37才 「武士道」の出版を友人に依頼し、フィラデルフィアにある小さな出版社が選ばれた。翌年(一九〇〇)年一月初旬には第一版が米国の書店に並んだ。
●「武士道」の評価
日露戦争によって引き起こされた日本への関心の高まりの中で、予想を越えて国際的に評価されていった。一九〇五年に二割程頁を増やし、別の出版社から一九〇五年六月に「武士道」が発行された。ポーツマスで日露戦争の和平交渉が始められたタイミングであった。「武士道」は、日本人の特質である武勇の原因を明らかにして、日本軍の勝利に説明を加えることになった。

投稿者 Master : 2005年05月10日 23:55

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