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2009年05月31日

2009年6月 特別例会のご案内

2009年6月は、特別例会を行います。
靖国神社にて正式参拝を行い、研究会開催の後、付近の史跡散策を行います。

■山岡鉄舟研究会特別例会
 『靖国神社正式参拝と史跡見学研究会』
 開催概要
【日時】2009年(平成21年)6月14日(日)
    13:00〜17:30
【場所】靖国神社 参集殿 千代田区九段北3-1-1
【参加費】正式参拝(初穂料)1,000円
     研究会参加費   1,500円  合計2,500円
    ※懇親会費別途  4,000円程度を予定しています

★集  合 12:30      靖国神社 参集殿
★正式参拝 13:00〜13:30 靖国神社正式参拝
★特別例会
その1 13:45〜14:30 三井権宮司ご講演(45分)
            (休憩)
その2 14:35〜15:45 山本紀久雄研究発表(70分)

★史跡見学 16:00〜17:30 靖国神社周辺史跡見学
【予定見学コース】
1.「東京のお伊勢さま」と称される「東京大神宮」
  (最近は、縁結びの神さまとして、訪ねる若者が多い)
2.例会で、山本会長が講演した清河八郎が創った浪士隊のうち、
  江戸に帰った者で組織された新徴組が此処を屯所として置い
  た「新徴組屯所跡」
3.函館戦争で敗れた榎本武揚が維新後、旧幕臣の子弟たちに
  酪農を学ばせるために造った牧場の跡地「北辰牧場跡」
  (榎本武揚屋敷地)
★懇親会  17:30〜19:00
  飯田橋駅近辺にて懇親会開催予定


皆さまのご参加をお待ちしております。
初めてのご参加も大歓迎です。

>>>参加お申し込みはコチラ!

>>>チラシを見る

投稿者 lefthand : 10:58 | コメント (0)

2009年5月例会報告

山岡鉄舟研究会 例会報告
2009年5月21日(水)
「鉄舟は新たなる環境下へ」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家・山本紀久雄氏

5月の例会が行われましたので報告します。

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前回(3月例会)にて、山本氏は清河が暗殺された本質を解き明かしました。
清河の暗殺は不意であったのか。
清河は、覚悟の上で金子与三郎宅に向かい、佐々木只三郎らに斬られたのではないか。山本氏の研究は、清河の聡明さを新たに掘り起こすものであったように思います。

清河暗殺の翌日、幕府当局は関係者の処分を行いました。
主な処分者の内容は次の通りでした。
・泥舟、鉄舟、松岡…御役御免の上蟄居
・窪田冶部右衛門……御役御免の上差控…二カ月後、小普請入り(出世)

窪田に対する処分は、実質無罪と同じでした。

この謹慎蟄居に関して、泥舟が異なる見解を示しています。
それは、『泥舟遺稿』に記されています。
「泥舟遺稿によれば、泥舟は様々な局面で幕府に建言し続け、いずれも用いられず辞職したが、逆臣の疑いありとして無期限の幽門を命じられた」
(山本氏資料より)
しかし、小倉鉄樹の『おれの師匠』にはこう書かれています。
幕府から英国大使館を守れと旗本に指示が出たにもかかわらず、英国人を守る気はしないと拒否したのだが、拒否するなら切腹を申し付けると言われ、ひとり去りふたり去っていき、最後に鉄舟だけが残り、沙汰を待っていたのだが、その潔さに切腹を免ぜられ、謹慎となったとあります。
しかし、暗殺の当日清河は鉄舟(または泥舟)の家にいたのです。『おれの師匠』によれば、門前を青竹で囲まれ、すでに謹慎の身となっていた鉄舟の家に、暗殺されようと狙われている浪人が出入りしているのは不自然のように思います。従って、『おれの師匠』の見解は信憑性が薄いと考えられます。この説をとる研究家はいません。

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いずれにせよ、鉄舟は謹慎蟄居を命ぜられ、行動が著しく制限されることになりました。
このような逆境に置かれたとき、人はどのような態度をあらわすでしょうか。
【1】何も感じない
これは論外です。
【2】嘆き悲しむ
このように感じる方は多いのではないでしょうか。
例えば、会社で異動になってしまったとき。いわば左遷です。
なんであんなところに飛ばされなければならないのだ、悪いのはそれを指示した上司だ!と怒り嘆くというようなことです。
【3】転機と思い気持ちを切り替える
このような境遇になったのは、自分が何かを求め、時がそれを与えてくれたからだ、これはチャンスだ!と考えることをいいます。

さて、どの考えがよいと思われますでしょうか。
【3】がよいと考えるのは自然でしょう。できるかできないかは別としてです。

鉄舟はまさに上記の境遇に立たされました。
このとき、鉄舟はどのように振る舞ったのでしょう。

このことを考えるにあたって、鉄舟が行ってきた行動について振り返ってみましょう。
●鉄舟が認めたもの
・嘉永3年(1850)15歳 修身二十則
・安政5年(1858)23歳 心胆錬磨之事
・同年          宇宙と人間
・同年          修身要領
・安政6年(1859)24歳 生死何れが重きか
・万延元年(1860)25歳 武士道
★文久3年(1863)28歳 清河暗殺される
・元治元年(1864)29歳 某人傑と問答始末
・同年          父母の教訓と剣と禅とに志せし事
・明治2年(1869)34歳 戊辰の変余が報告の端緒

上の表を見ますと万延元年から元治元年までの約4年間、鉄舟は何も著していません。ちょうどこのときが、鉄舟が清河と行動を共にしていた期間と重なるのです。尊王攘夷党結成〜清河暗殺までの時期です。そして、清河暗殺後、謹慎蟄居となり、思惟の時間を持ったことにより、4年のブランクを経て『某人傑と問答始末』を認めたのです。「某人傑」とは清河のことで、名前を伏せながら清河暗殺に関する総決算的な心情を述べたのです。

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人は、新たな環境下に置かれたとき、どうするでしょうか。
今、世界の経済は百年に一度といわれる不況下にあります。企業は軒並み売り上げを落とし、消費は冷え込みを増しています。
その中で、私たちはどう生きていくべきでしょうか。

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山本氏はその戦略として、次のことを挙げられました。
(1) 縮小した経済を受け入れ、現状の経済規模こそが正常な状態なのだと認識し生きていく。
(2) 精神的な幸せを追求する生き方を選ぶ。他人のためにお金を使うこと。
(3) 限られたパイの中で、競争に勝つための工夫をする。「同一化競争」ではなく「誰も気がつかないが、気がつけば当たり前のことを見つける」こと。
(4) 積み上げ型の技術ではなく、革新的な発想の事業を考えること。

皆さんならどの方法で現状を乗り切りますか。

鉄舟は己に訪れた新たな環境に対し、どのように処したのでしょうか。
鉄舟は、上記の4つの項目にない方法を選んだのです。
どんなことでしょうか。
それは、次回の楽しみということで…。

次回は、靖国神社正式参拝と旧跡散策の特別例会です。
たくさんのご参加、お待ちしています。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 10:33 | コメント (0)

2009年05月19日

高山に行ってまいりました

高山に行ってまいりました。
今回の目的は、来たる7月19日(日)に開催する「鉄舟法要と追悼記念講演」の当日の段取りの打ち合わせと事前の準備確認をするためです。

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高山の古い町並

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特急「スーパービューひだ」にて高山を目指します。
飛騨は新緑の季節です。木々の様々な緑の濃淡のコントラストが美しく、いきいきとしています。また、風景も渓谷や田園など、さまざまに姿をかえ私たちの目を楽しませてくれます。
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特急「ひだ」からの風景

高山駅に到着。
さっそく、会場である宗猷寺に向かいます。
宗猷寺では、庫裡の建設が進んでいました。とても立派な庫裡です。
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建設中の庫裡

庫裡は木造です。細かな部分に飛騨匠の技術と情熱を感じます。
飛騨にはまだ宮大工の技術が継承されていて、各地の寺社建設などに駆り出されることも多いそうです。
竣工は6月中旬頃だそうです。7月の法要研究会は、この新しい庫裡をお借りすることになります。楽しみです。
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宗猷寺本堂(左)、鉄舟ご両親の墓(右)

鉄舟のご両親に手を合わせ、本堂にて今城住職様と打ち合わせ。当日の段取りを確認しました。

宗猷寺のある東山一帯は、高山の町を見渡せる山の高台に位置します。
この界隈を歩いていて驚くのが、あたりを散策しているのが外国人ばかりということです。ヨーロッパ系のバックパッカーの方々があちこちにいらっしゃいます。住職のお話では、日本人観光客でここまでのぼってくる人たちはほとんどおられないそうです。日本人は、街中の「古い町並」をうろつき、お土産の物色に余念がないのです。日本人と外国人の観光スタイルに大きな差があることに興味を覚えました。
高山は、「ミシュラングリーンガイドジャポン」で★★★に選ばれています。それを見て年間17万人の外国人が高山を訪れます。しかしそれは、飛騨牛が美味しいとか、古い町並の景観が美しいことばかりでなく、外国人が憧れを抱く何かが存在しているように思うのです。宗猷寺の境内は、その何かがあるのだと感じたのでした。
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(右写真)宗猷寺・今城住職様(左)と山本会長

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宗猷寺を後にした私たちは、高山陣屋のある町屋通に足を運びました。
高山ご出身の当会メンバー、北村様のご実家を訪ねるためです。
ご実家にはお母様が住んでいらっしゃいます。
2月の例会で、北村様に高山についてお話いただいたとき、高山には江戸時代からの町屋造りが今も残されていることを伺いましたが、北村様のご実家はまさにそんな江戸時代そのままのお屋敷でした。何と、築130年だそうです。

2月例会へのリンク

道から見える部分はとにかく低く造られているように見えます。平屋のように見えます。低い玄関をくぐり、中へお邪魔すると、奥へ行くほど広くなっています。驚きです。
二階の座敷にお邪魔すると、その荘厳さに驚きました。屏風に御簾、掛軸と造作にも歴史の重みを感じます。聞けば、北村様のお母様が通常の家の何倍も手をかけて手入れされておられるとのこと。例えば、柱は油をつけて磨き、その後ほこりがつかないように何度も何度も水拭き、乾拭きなどされるとのこと。そこに住んでおられる方々のひとつひとつのご苦労が合わさって、高山の素晴らしい歴史文化を今に伝えているのだと思うと、感慨ひとしおでした。外国人の心を揺さぶる「日本」は、このようなところに滲み出てくるのではないでしょうか。

お母様のご差配で、地元の方々をお呼びくださっておられました。
今回、法要講演会でご挨拶いただく高山市郷土資料館の田中彰氏、市議会議員で元英語の先生の水口氏、元校長先生の藤沢氏と、地元の名士の方々にわざわざお越しいただき、恐縮至極でした。
当日の段取りと事前の準備、その役割分担を確認し、地元での広報と当日の懇親の手配などをお願いすることができました。
打ち合わせが終わると、お母様が手料理を振る舞ってくださいました。恐縮している内に郷土伝統のお料理がズラッと、あっという間に並びました。その多さに驚愕しきり。そして、美味しいこと!山菜の天ぷら、豆腐を煮染めた郷土料理、おいも、などなど、どれも美味しかったです。独身の私には涙が出るほど嬉しい「お袋の味」でした。

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北村氏のお母様(左)、座敷にて話が弾む面々(右)

美味しいお料理に囲まれて、話もはずみました。
郷土資料館の田中氏は、高山のことは何でもご存じです。これには感服いたしました。
高山市郷土資料館は、今から1〜2年を目処に大改装されるそうです。郷土館隣のお店があった空き地を買い取り、今の数倍の広さの資料館に生まれ変わるそうです。早ければ今年の末には着工とのこと。今回の高山での鉄舟法要のイベントを機に、鉄舟関連のコーナーも是非つくっていただきたいと、強くお願いしてまいりました。

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鉄舟を学ぶこと。
それは、鉄舟の生き方を通じ、私たちの人生の指針とすること。
これが山岡鉄舟研究会の主旨ですが、鉄舟という150余年も前に没したひとりの人間を通じて、本来なら出会うこともなかったのではないかという方々との出会いがあることは、とても素晴らしいことであり、鉄舟という人物の偉大さであるなあと感じた、今回の出張でした。

今回の出張にお手配りをくださいました、北村様、お母様、今城住職様、田中彰様、水口様、藤沢様、感謝申し上げます。ありがとうございました。

7月19日にお会いできますのを楽しみにしております。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 00:05 | コメント (0)

2009年05月10日

尊王攘夷・・清河八郎編その二

尊王攘夷・・清河八郎編その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

幕末維新の時代は、日本の歴史の中で、戦国中期以後の時代とならび、英雄時代といってよい時期で、さまざまな型の英雄が雲のごとく出た。

その中で特によく知られているのは維新の三傑としての西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允である。幕府側にも幕末三舟の鉄舟、海舟、泥舟が存在し、また、異色ではあるが、清河八郎も同様であり、その他にも多くの英雄といえる人材が輩出したからこそ、あのような偉大な改革が遂行されたのである。

その山形・清川村の酒造業の息子の清河が、江戸で儒学者を目指していたのに倒幕思想へ転換し、「回天の一番乗り」目指し、薩摩藩大坂屋敷に逗留するほどの人物になり、伏見寺田屋事件や幕府の浪士組から新撰組の登場にまで絡んでいき、最後は幕府によって暗殺されるのであるが、今号は何故に学者から倒幕思想へ人生目的を戦略転換させたか、その過程で鉄舟とどう関わっていたのか、それを検討してみたい。

清河は学問を志し、江戸神田三河町に「経学、文章指南、清河八郎」塾を安政元年(1854)十一月に開いたが、その年末に火事で消滅したことは前号で述べた。

そこで、次の塾として薬研堀の家屋を購入したが、これも安政二年(1855)十月の大地震によって壊れ、塾開設をあきらめざるを得なくなって、この前は火事で、今度は地震、自分の将来へ一抹の不安を暗示しているのではないかと、一瞬脳裏に宿ったが、それを打ち消すかのように郷里で猛烈な著述活動を開始した。

清河の多くの著述の大半はこの時期になされた。
「古文集義 二巻一冊」(兵機に関する古文の集録)
「兵鑑 三十巻五冊」(兵学に関する集録)
「芻蕘(すうじょう)論学庸篇」(大学贅言(ぜいげん)と中庸贅言の二著を併せたもので、芻蕘とは草刈りや木こりなどの賤しい者を意味し、自分を卑下した言葉で、この本の道徳の本義を明らかにし、後に大学・中庸を学ぶ者に新説を示したもの)
 「論語贅言 二十巻六冊」(論語について諸儒の議論をあげ、独特の説を示したもの)
 「芻蕘論文道篇 二巻一冊」(尚書・書経を読み、百二篇の議論をあげ、独特の説を示したもの)
 「芻蕘武道篇」(兵法の真髄を説いたもの)

その他に論文もあり、これらの著述でわかるように、清河の勉学修行は並ではない。だが、この猛烈なる漢学の勉学が生涯の運命を決めた、と述べるのは牛山栄治氏である。

「清河は漢学によって名分論(道徳上、身分に伴って必ず守るべき本分)から結局は維新の泥沼にまきこまれて短命に終わり、勝海舟などは蘭学の道にすすんだために時代の波に乗っている。人の運命の分れ道とはふしぎなものである」(牛山栄治著 定本 山岡鉄舟)
 
 清河の薬研堀塾を諦めさせた安政の大地震は、攘夷運動にも大きな影響をもたらしている。既に検討したように、日本の攘夷論の大本山は水戸藩であり、その藩主は徳川斉昭(烈公)であって、この当時の斉昭は幕府の海防参与に任じられて、猛烈に過激な攘夷論を主張していて、それを強力に支えていたブレーンは藤田東湖であった。

 ともすれば暴走しがちな斉昭を操って適当にブレーキをかけ、どうにかこうにハンドルを切らせていたのであるが、この東湖が安政大地震で倒壊した家屋の下敷きになって圧死したのである。東湖を失って、斉昭の言動はバランスを欠いたところが目立ち始め、これが幕末政治の混乱に拍車をかけたともいわれている。

 また、東湖の死が、東湖を攘夷運動の先達と仰いでいた志士達に与えた影響も大きかった。例えば西郷隆盛は江戸から鹿児島に送った手紙で
「さて去る(十月)二日の大地震には、誠に天下の大変にて、水戸の両田(藤田・戸田)もゆい打ち(揺り打ち?)に逢われ、何とも申し訳なき次第に御座候。とんとこの限りにて何も申す口は御座なく候」(野口武彦著 幕末の毒舌家 中央公論新社)
と悲嘆したほど、東湖の死はその後の歴史に影響を与えたが、ここで不思議なことは水戸藩だけが地震による死者が多いことである。

 ご存知のように水戸藩は徳川御三家である。尾張六十万石、紀伊五十五万石、これに対し水戸藩は二十五万石と禄高に差があり、将軍の身辺を守る役目という意味から「定府の制」という藩主の江戸在住が義務付けられていて、これが一般に「天下の副将軍」といわれている所以であるが、その代わりに将軍の後継ぎは出せないという差別化が、屋敷の立地条件でも表れていた。
 
尾張藩上屋敷は市ヶ谷(現在、防衛省)であり、紀伊藩上屋敷は赤坂(現在、迎賓館)であったように、いずれも台地のしっかりした岩盤の上に位置する地形である。それに対し水戸藩上屋敷は本郷台地と小日向台地に挟まれた谷間地(現在、水道橋の後楽園)で地盤は軟弱である。この地形の差が安政大地震に表れたのである。

 幕府への被害状況届出を見ると、尾張・紀伊藩邸の被害は建物の大破程度、比べて水戸藩邸の被害を「水戸藩資料」から見れば、「邸内の即死四十六人、負傷八十四人に及べり」とあり、塀と下級武士の住居をかねていた表長屋が一面に倒壊し原型をとどめず、江戸在住の重臣たちが住む内長屋も潰れ死傷者が出て、その一人が東湖で、梁の下敷きになったのである。(幕末の毒舌家)
 
後に将軍継嗣問題で争うことになった、井伊大老の彦根藩上屋敷は外桜田にあった。現在の憲政記念館あたりで、後楽園とは江戸城を挟んで対峙する地形であるが、彦根藩は堅固な地形で、届出も「怪我いたし候と申すほどの義はこれなく候」と全く被害軽微であった。いずれにしても当時の攘夷論をリードしていた水戸藩は大きな打撃を受け、その後の藩内混乱に走っていくのである。

 さて、清河は大地震の余波が収まった安政四年(1857)四月に、妻お蓮と弟の熊三郎をつれて学者になるべく再び江戸に出た。お蓮は元々遊女であったため、素封家の斉藤家長男に嫁として迎えることは大反対を受け、ひとかたならぬ悶着があったが、ようやく結婚でき、熊三郎は千葉道場に入門するためであった。

 江戸でこの年の八月、清河は駿河台淡路坂に塾を開いた。しかし、塾には思ったほど門人は集まらなかった。最初に開いた三河町塾は大勢の門人に囲まれ繁盛したのに、今回は少ない。その変化に遭遇し、その中に何か時代の流れ、それは、世の中が険しくなってきている、じっくり学問をする雰囲気が少なくなっている、日本全体が殺気立っている。

このような感覚を清河は持ったが、この時点ではあまりそれらを気にせず、学問と千葉道場での剣に励んだのであるが、ここで鉄舟との出会いがあったのである。

 清河と鉄舟は、会った瞬間から気が通じ合い、お互いを理解し、その後の同志としてのつき合いが始まったのである。

その要因としては、まず、清河の学問研鑽力と、日本諸国を重ねて旅し、それを記録し、実態を把握し、それらを相手に伝える能力、それらが鉄舟に大きな魅力として、清河に惹きつけられたに違いない。何故なら、鉄舟は幕臣として行動が制約されていたからであるが、だが、もう一つ本質的な一致があったと思う。出会った瞬間に、互いが同一の性格・性向を持つ人間であると理解し合えたのである。

鉄舟は既に検討してきたように、飛騨高山の少年時代、宗猷寺の鐘を和尚が冗談に「欲しければあげるから持っていきなされ」と言ったことから徹底的に頑張る性情、また、江戸から成田まで足駄の歯がめちゃゝに踏み減って、全身泥の飛沫にまみれ一日で往復するという、酒席で某人と約束したことの実行など、一度言い出したらきかない強い性格である。

清河も同じで、前号でふれた「ど不適」な性格と、江戸で学問を学ぶためには家出してしまうという強さ、この似通った性格の二人が出会いの瞬間に、お互いを認め合い、通じ合えたのではないかと思う。

さらに、清河の塾は変事をくり返した。折角開いた淡路坂の塾が、二年後の安政六年(1859)、隣家からのもらい火で焼けてしまうのである。清河は迷信などを信じない強い性格であるが、一度ならず二度までも塾が焼失し、もう一度は大地震で壊れたことを思うと、清河が目指している文武二道指南の道を何かが妨げているような気がしてならなかった。

しかし、何事によらず始めたことは徹底するのが清河の性癖である。その年の六月に、今度はお玉が池近くに移転した。その家には土蔵があった。この土蔵がこれからの清河の変化に大きく影響を与えていくとは知る由もなく、土蔵で著述活動に励んだが、ふと、筆をとめるたびに世間での大騒ぎ、それは「安政の大獄」であるが、橋本左内や吉田松陰の死刑など、井伊大老の強行政治の行く末はどうなるのか、それを考えることが多くなっていった。

井伊大老は結局、翌安政七年(1860)三月三日雪の日、桜田門外の変で倒れるのであるが、井伊大老を刺殺し首をあげたのは、関鉄之助以下の水戸浪士に、薩摩藩士の有村冶左衛門を加えた十八人の壮士であった。

この事件は世間に一大衝撃を与えた。天下の大老が登城途中に首を奪われたのである。そのころの落書に次のものがある。(青山忠正著 幕末維新奔流の時代)

「去る三日、外桜田にて大切の首、あい見え申さず候間、御心あたりの御方これあり候はば、御知らせ下さるべく候。
   三月十四日     彦根家中」

それまでであったならば、こういう落書を張り出しただけで、御政道誹謗の罪に問われるのであるが、幕府も動転しており取り締まりもなく、加えて、このような落書・狂歌が多く出回り出したことは、幕府政治の行き詰まりを示すものであった。

幕府は大老が変死するという大変事が起ったのは不祥だと、三月十七日に万延元年と改元したが、清河にも強い衝撃を与え、桜田門外の変の記録を土蔵で書き始めた。

それは「霞ヶ関一条」と名づけた美濃紙二十枚にも及ぶ、水戸浪士の井伊襲撃のあらましであり、これを故郷に送る綴りであったが、清河自身が精力的に現場に出向き、知人を訪ね、事件の風聞を聞き集め、関係する資料を分析し、事件の全体をまとめたものである。

その綴りをつくる作業中、清河は新鮮な驚きともいえる感慨に、何度も筆をとめざるをえなかった。

それは、水戸浪士の禄高一覧表であり、胸に迫ってくるものがあった。幕府の最高権力者として、安政の大獄を指導し、世の中を恐怖に震え上がらせた井伊大老を倒し、その座から引きずり下ろしたのは、雄藩諸侯でなく、歴とした士分の者でない。二百石が最高の禄高で、多くは軽輩か部屋住み、士分外の者たちであり、祠官、手代、鉄砲師もいたのである。一生うだつの上がらない、日陰の暮らしを余儀なくされるであろう名もなき人たちであったこと、それが清河の心底深く、楔として打ち込まれたのであった。

時代は変わっている。名も身分もなき者、自分と同じような出自の者、それが天下を動かし、変えることが出来る時代になっているのだ。

今までは、学問に励み、剣を磨き、江戸で文武二道の塾を開き、名をあげることが清河の戦略目標だった。世の中が攘夷だ、尊王だと騒いでいる時勢については十分に知っていたが、その動きと接することは、自らの戦略目標達成に差しさわりがあるので、つとめてその動きの外に立とうとしていた。

しかし、水戸浪士の禄高一覧表から目をあげた清河の心は、もはや塾で人を教える時代ではないかもしれない。そういえば看板を掲げても人が集まらなくなっていた。これが時代の証明なのか。動乱の世になったのだ。新しい世の中の仕組みが求められているのか。

清河の志が変わった瞬間であった。

次号は清河が薩摩藩大坂屋敷に逗留するほどの人物となり、伏見寺田屋事件に関わっていく経過について検討したい。

投稿者 Master : 16:07 | コメント (1)