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2009年03月30日

ジョン万次郎講演会開催のお知らせ

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詳細はこちら

投稿者 lefthand : 02:38 | コメント (0)

2009年03月29日

「幕末の志士 山岡鉄舟2」講演会

淑徳大学にて、昨年行われた山岡鉄舟講演会が再び行われます。
ご参考にお知らせします。

幕末の志士 山岡鉄舟2

■日 程:平成21年5月16日(土)
     ~7月18日(土) 15:30~17:00
■会 場:淑徳大学サテライトキャンパス(JR池袋駅西武口より徒歩2分)

■講 師:松本検・竹田博志・近藤勝之・亘悦啓・阿部一好
■定 員:50名(全5回)
■受講料:10,000円
■公開講座番号 A-001

[ポイント]
江戸幕府の徳川慶喜に仕えた山岡鉄舟は、勝海舟とともに、幕末の江戸城無血開城の立役者です。また、剣・禅・書の達人ともいわれた山岡鉄舟は、明治天皇の教育係りを10年つとめています。その足跡は、日本の近代化に大きな影響を与えましたが、一部の熱烈なファンによってしか、多く語られていません。
そこで、この講座は、昨年に引き続き、山岡鉄舟を取り上げ、転換期を生きた山岡鉄舟のその剣・禅・書を中心として、その人となりや行動、弟子や社会への影響など、その全貌に近づきたいと思います。

[講座内容]
1)5月16日(土) 午後3時30分~5時00分
  『鉄舟と次郎長』静岡山岡鉄舟会会長 松本 検
2)6月 6日(土) 午後3時30分~5時00分
  『鉄舟と天田愚庵』日本経済新聞社文化部編集委員 竹田 博志
3)6月20日(土) 午後3時30分~5時00分
  『鉄舟と書(収集家からみた)』 合気道「大東流」本部長 近藤 勝之
   ※鉄舟の書の収集では第一人者 全生庵に書を寄贈している
4)7月11日(土) 午後3時30分~5時00分
  『鉄舟と刀について』刀剣研究家 亘 悦啓(わたり よしひろ)
5)7月18日(土) 午後3時30分~5時00分
  『鉄舟と伊豆の長八』山岡鉄舟研究家 阿部一好

*** お問い合わせは下記まで***
〒171-0022 東京都豊島区南池袋1-26-9
MYT第2ビル7F「淑徳大学エクステンションセンター」
TEL 03-5979-7061
FAX 03-3988-7470
E-mail ext@ccb.shukutoku.ac.jp

投稿者 lefthand : 12:20 | コメント (0)

2009年03月28日

2009年3月例会報告 その2

山岡鉄舟研究会 例会報告 その二
2009年3月18日(水)
「清河の本質」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家・山本紀久雄氏

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日本経済新聞に、客員コラムニストの田勢康弘氏が、西郷隆盛の一節を例に出し、こう述べています。

「(今の政治に携わる人材を嘆き)『命もいらず名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは艱難をともにして、国家の大業は成し得られぬなり』。西郷没して百三十年のいまも、この言葉は輝いている」(2009.3.9 日本経済新聞)
ご承知の通り、これは、西郷が江戸無血開城への会談後、愛宕山で勝に、鉄舟を指して語った言葉として知られています。田勢氏は2005年、小泉チルドレンを大量輩出した総選挙後、党員教育のセミナーでこの例を挙げたことがありました。
田勢氏は今の政治に求められる人材を、西郷をして言わしめた鉄舟の姿に準えて発言したのです。このことは、鉄舟のような人材が、今の時代に求められていることを意味しているのではないでしょうか。
山本氏はさらに語ります。
鉄舟は決して古い人間ではない。今の時代が求める最先端の人物なのだということを認識してほしい。そして、私たちはそんな鉄舟の生き方を学ぶことによって、今の自分たちの人生を見つめているのだ。
この研究会は、まさにこのことを目的とした会なのです。

**********

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さて、清河八郎です。
今回は、清河研究の最終回と位置づけ、清河暗殺の本質に迫る研究が行われました。
清河の暗殺場面については様々な作家がその瞬間を描き出しています。
その中でも、表現が秀逸なのは司馬遼太郎であると、山本氏は絶賛しています。
参考:『奇妙なり八郎』(『幕末』収録、司馬遼太郎・文春文庫)

清河の暗殺は、横浜焼き討ち計画(4/15)の2日前、4月13日という絶妙のタイミングで行われました。
ところで、この計画実行日を、幕府はどうやって事前に知り得たのでしょうか。
2009年1月例会での山本氏の発表にありましたように、このことは幕臣・窪田治部右衛門により知らされました。
では、窪田はどうしてこの計画を知り得たのでしょうか。
横浜焼き討ちの計画については、極秘であったことが予測されます。それは、この計画が非常に実現困難な計画であったからです。当時、外国との貿易は始まっており、横浜はすでに外国人が多数居留する地域になっていました。また、横浜は関所を設け厳しい監視体制にありました。ここを焼き討ちするということは大変な困難が予想されます。
また、この計画を遂行するには、事前の準備が必要です。特に土地勘のない場所であれば、下見が必要でしょう。しかし、現地の監視体制は、下見も容易にできないほどの厳重さでした。

ここに、ひとりの人物が登場します。
窪田千太郎という人物です。
彼は、清河暗殺の首謀者、窪田治部右衛門の息子で、しかもこのとき、横浜奉行所の組頭だったのです。
この数奇な縁が、清河ら幹部の横浜視察を可能にしたのです。
おそらく、窪田治部右衛門を通じて息子の千太郎に働きかけ、関所の通過と現地の案内を行わせたのではないでしょうか。

視察は、清河暗殺の3日前、4月10日に行われました。
視察には、清河や鉄舟ら4名が同行しました。
そこで、鉄舟はある事件を起こしています。
ここが、清河暗殺のキーポイントとなるのです。

ひととおり視察を終えた一行は、窪田千太郎のもとに集まりました。
そこで千太郎は、西洋の珍しいものを出しもてなしました。
すると、鉄舟が突如怒りだし、テーブルをひっくり返したのです。

この鉄舟の行動は如何なる意味があるのか。
これには、鉄舟の立場を考えないといけません。
鉄舟は幕臣であり、徳川幕府代々の旗本の家柄であるのです。
清河とは、「攘夷」の思想のもとに行動とともにしていましたが、この頃から清河が攘夷を名目にした倒幕を画策し、あまつさえ自分は将軍にとって代わろうという構想まで抱いていることを察するに及び、自分は行動をともにすることが困難であると考えていたようです。
藤沢周平氏は、『回天の門』の中で、鉄舟と清河にこの会話をさせています。

「『長いつき合いに免じて、もう一度おれがやることに目をつぶってくれんか』
『やはり、横浜焼打ちは攘夷ではなく倒幕挙兵なのですな?』
『そう、倒幕だ』
 …(中略)…
『だとすると、おれは今度のくわだてには加われません』
『むろんだ』
 …(中略)…
『君と松岡君は脱けてくれ。いずれ、そう言うつもりだったのだ。このあと君は、われわれのやることを見とどけてくれるだけでよい』
(『回天の門』藤沢周平・文春文庫)

ともかく、鉄舟はこの時点で横浜焼き討ちの計画に、賛成の表明をしがたい心境に達していると見る方が自然ではないでしょうか。
そこで鉄舟は、テーブルの事件をわざと起こしたのではないかと、山本氏は語ります。
これは、鉄舟のサインではないだろうか。
直接、横浜焼き討ちをするから気をつけろよ、と言うことは、当然できません。何か相手が察し得る事件を起こして相手の注意を促すこと、これによって窪田千太郎は横浜を襲撃することを察し、父・治部右衛門に伝えたのではないだろうか…。
これが、清河暗殺の間接的なきっかけとなったのではないでしょうか。

かくして清河の画策による横浜焼き討ち計画は、幕府の周到な清河暗殺によって事なきを得たのでした。
しかし、まだ疑問が残ります。
それは、清河の暗殺当日の行動です。
上山藩・金子与三郎からの誘いの手紙で単身上山藩邸に行き、帰宅途中の麻布一の橋で暗殺されました。
彼はなぜ単身で金子の誘いに応じて外出をしたのでしょうか。
この日、清河には外出すべきでないありとあらゆる条件が揃っていました。
・清河は風邪を引いて寝込んでいた
・周りから金子に会うことを強く反対されていた
・鉄舟や泥舟からは家を一歩も出るなと厳命されていた
つまり、罠だとありありとわかっていたのです。
それなのに、なぜ彼は金子に会いに行ったのでしょうか。
また、清河の当日の行動も実に不可解です。
・風邪を引いているにもかかわらず、朝風呂に入った
・辞世ともいえる句を認めた
・あえて護衛をつけず出かけた
これでは、あえて斬られるために出かけたようなものです。

この部分はもはや想像するしかないのですが、山本氏は自分が清河の立場だったらと前置きをした上で、次のように語りました。

清河はとても聡明な男であった。攘夷がもはや遂行不可能でありことは自明の理であった。外国とはすでに国交を開いて通商が始まっている。外国人は日本に居留し、商取引が盛んに行われている。しかし、一方で自分が計画した攘夷のシナリオも、もはや取り消すことなどできない抜き差しならない状況にまで来てしまっている。浪士組の連中も納得すまい。
両者に折り合いをつける手段は、ひとつしかない。
それは、自らの存在を消すことである…。

幕府の策略にあえて乗ることにより、自らの命を絶つことにより始末をつける。そう決心した清河は、朝風呂に入り身を清め、句を認め上山藩邸に向かったのでした。
「魁(さき)がけて またさきがけん 死出の山 迷ひはせまじ すめろぎの道」
清河が詠んだ句です。(『回天の門』より)

**********

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今回で清河八郎に関する研究は終了です。
次回からの山本氏の研究は、あらたな展開になることでしょう。
次回もお楽しみに。

なお、4月は特別例会『ジョン万次郎講演会』のため、山本氏の研究発表はお休みです。ジョン万次郎のご子孫による講演もお楽しみに。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 23:27 | コメント (0)

2009年3月例会報告 その1

山岡鉄舟研究会 例会報告 その一
2009年3月18日(水)
「宮本氏の先祖・川井文蔵研究」宮本英勝氏

今月は、当会参加者、宮本英勝氏に、ご自身のご先祖である「川井文蔵」について、これまで調査されてこられたことをご発表いただきました。

宮本氏は、ご先祖・川井文蔵について、鉄舟との関係から何か情報が得られないだろうか、ということで当会の門をたたかれました。川井文蔵について何かご存じのことあらば教えてほしい、と願っていらっしゃるのです。
その経緯についてご紹介しましょう。

**********

川井文蔵は、宮本氏の母方の曾祖父にあたられるそうです。
宮本家の言い伝えによれば、川井文蔵は鉄舟の弟子で、全生庵の創建にも関わる人物と伝わっており、以前より興味を抱いておられたのだそうです。

きっかけ

宮本氏がご自身の先祖、川井文蔵に興味を持たれたのは、ある資料がきっかけだったといいます。
それは、「福田会(ふくでんかい)」という会に関する資料でした。
福田会とは、児童養護施設を運営する仏教系の社会福祉法人で、現在も渋谷区広尾で施設を運営されております。
→「福田会」http://www.fukudenkai.or.jp/
福田会の資料によると、会の主旨はこう記されています。

「本会の創立及び沿革概要
 明治9年3月6日、今川貞山、杉浦譲、伊達自得の三氏創めて、仏教上、慈悲の旨趣に基づき、汎く貧困無告の児女を収養すべき社団を建設せんことを発議す…」
(福田会ホームページより)

この福田会の資料の中に、会の発起者として、山岡鐵太郎とともに川井文蔵の名前が挙がっているのを発見されたのです。

「当時創業の際、本会の発起者として幹旋せられし人、固より少なからずと雖も、中に就き最も力を致し、本会今日の基礎を定めしは、…(中略)…。
在家に於ては山岡鐵太郎、高橋精一、川井文蔵、島田蕃根、山内瑞圓、渋沢栄一、福地源一郎、益田孝、三野村利助、渋沢喜作、大倉喜八郎、三遊亭円朝等の諸氏なり」
(福田会ホームページより)

宮本氏は、これほどそうそうたるメンバーの中に名を連ねている我がご先祖は、一体どういう人だったのだろうという興味に駆られ、研究を始められたというわけです。

調査

(1)戸籍
まず宮本氏は、川井文蔵を戸籍から辿ってみようと思い、江東区で戸籍の調査をされました。しかし、時の流れが宮本氏に立ちはだかります。
戸籍というのは、本人の死後80年が経過すると保管義務がなくなるのだそうです。川井文蔵の戸籍は破棄されていました。
(2)各種書物
次に宮本氏は、国会図書館で、書物によって川井文蔵の足跡を辿りました。
川井文蔵は深川で商売をしていたらしいことを聞き知っておられたので、『日本紳士録』第一版(明治22)に名前の掲載がないか調べました。
そこには
「川井文蔵 雑業 深川区西六間堀」
とありました。
また、『諸問屋名前帳』という資料を見つけられました。これは当時の商人の名前が列挙されている史料なのですが、この膨大な名前の羅列の中から、
「地廻米穀問屋 四十七番組 和泉屋文蔵 深川六間堀町 家主」
という記述を見つけました。
どうやら「和泉屋文蔵」という名前で米の問屋を営んでいたらいいことが出てきたのです。
しかし、「和泉屋文蔵=川井文蔵」であることを確認しなければなりません。
(3)都立多摩霊園
ここに川井家のお墓があるそうです。
ここの墓石に、こう記してありました。
「明治二年 深川南六間堀町 俗名和泉屋文蔵」
これで、「和泉屋文蔵=川井文蔵」であることが確認できました。
(4)東京都公文書館
宮本氏は公文書館に何か資料がないかと足を運ばれました。
そこには、川井文蔵の名前が記載されている書類がいくつか存在していました。
公文書ですので、例えば下水工事で寄付をしたので賞状を出します、という稟議書のようなものや、借地一覧に借主で名前が出ていたりといったものがありました。

が、川井文蔵が直接出てくる史料はここまでで、これ以上は行き詰まってしまったのです。

伝聞

ここで、宮本氏が代々伝え聞いておられる伝聞を整理してみましょう。

(1)鉄舟の弟子であった
鉄舟の弟子であり、全生庵の創設にも関わっていたらしい。
(2)三遊亭円朝と友達であった
『三遊亭円朝子の伝』(明治24年刊)に川井文蔵の名前が出てきます。
(3)千葉立造と兄弟以上の仲であった
墓石を半分にして、それぞれの墓を建てたとの伝聞が残っているそうです。
(4)深川六間堀に借地・借家を所有していた
このあたりの土地の差配は「川名文具店」で、このお店は今も森下町交差点の角で営業されているそうです。宮本氏が訪ねて行かれたそうですが、昔のことは分からないそうした。
また、深川は震災と空襲で書類が全部燃えてしまっており、この地に関する史料がほとんど残されていないのが現状なのだそうです。

糸口

ここまでが、宮本氏がいままでに調査された川井文蔵の足取りです。
しかし、これまでの史料では、川井文蔵がどんな人物であったのか判然としません。
そこで、山岡鉄舟研究会らしく、鉄舟と川井文蔵の接点を少し考えてみることにしましょう。

冒頭に登場しました、宮本氏が川井文蔵を研究するきっかけとなった「福田会」の資料を今一度見てみます。
宮本氏が入手された資料には、福田会発起人として3名の名前が挙げられています。ところが、すぐに、それらの人物に代わり、4名の人物が登場します。

「明治9年丙子3月6日、今川貞山・杉浦譲・伊達自得の三名同盟して本院創設の議を起こす。
10年丁丑5月9日、山岡鉄太郎・高橋精一・今川貞山・川井文蔵四名同盟す」
(宮本氏資料『渋沢栄一伝記資料 第24巻』より)

当初3名で福田会を興したが、翌年すぐに4名にとって代わっているのです。
そこに、鉄舟、泥舟とともに川井文蔵の名前が登場するのです。
これには理由があります。
発起人のうち、杉浦譲、伊達自得の両名は、明治10年に亡くなっているのです。そのため、残る今川貞山に、鉄舟、泥舟、川井文蔵を加えた4名で会合を開いたのです。
このあたりに、鉄舟と川井文蔵の接点があるように思えます。

ここで、福田会の発起人に名を連ねる「伊達自得」について見てみましょう。
伊達自得は、陸奥宗光の父親で、深川に住んでいたそうです。
明治9年6月ごろから「和歌禅堂」という私塾のような集まりを催し、そこに三遊亭円朝、高橋泥舟らが出入りしていたのだそうです。泥舟は陸奥宗光との縁でここに関係するようになったようです。
同じ深川に住む川井文蔵とは、この会がきっかけで、泥舟と、さらには鉄舟と交流が始まったのではないか、と宮本氏は推測されています。
となると、鉄舟と川井文蔵との交流が始まったのは明治9年あたりということになります。
明治9年、鉄舟は41歳、明治天皇の扶育係(宮内大丞)でした。
ちなみに、全生庵創建は明治16年、鉄舟48歳の時です。

明治9年ごろ、鉄舟と川井文蔵は出会い、文蔵はその後、鉄舟を師と仰いだということになるのでしょうか。
渋沢栄一、陸奥宗光、三遊亭円朝、高橋泥舟、そして、鉄舟の他の弟子たちあたりが、鉄舟と川井文蔵を繋ぐヒントを持っているようにも思えます。

**********

山本会長の弁に、ものごとは間接的に繋がることがある、直接、川井文蔵のことを調べては浮かんでこないことが、他の事を調べているうちにパッと繋がることもあるのだそうです。そして、それが、調べることの喜びなのです。

皆さん、よいお知恵、情報がございましたら、事務局までご連絡ください。
お礼はできませんが(笑)、パッと繋がる喜びを、皆さんで分かちあいたいと願っています。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 21:27 | コメント (0)

2009年03月09日

日経新聞「核心・田勢康弘」氏のコラムから

お知らせ・・・日経新聞「核心・田勢康弘」氏のコラムから

日本経済新聞客員コラムニスト「田勢康弘」氏が、2009年3月9日(月)の「核心」で再び「南洲翁遺訓」に触れました。

「いろいろな指導者論が存在するが、結局は西郷隆盛の言葉につきると思う。『命もいらず名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは艱難をともにして、国家の大業は成し得らぬなり』西郷没して百三十年のいまも、この言葉は輝いている」と。

田勢氏は2005年12月5日の同「核心」でも、同年9月11日の衆議院総選挙で多く当選した新人議員、いわゆる小泉チルドレンと総称される八十三人に対し「政治家の心構え」として、西郷隆盛の「南洲翁遺訓」を手渡し、次のように語ったと記しています。

「この『南洲翁遺訓』に『国のリーダーとしての生き方がすべて書いてある。ぜひ読んでほしい』。また、要点は一つだと読み上げたのが『命もいらず名もいらず、官位も金もいらぬ人はしまつに困るものなり。このしまつに困る人ならでは艱難をともにし、国家の大業はなし得られぬなり』であった」と。

西郷隆盛はこのくだり、誰をイメージして遺訓に書き残したのでしょうか。

それは山岡鉄舟です。駿府における江戸無血開城交渉・談判において「すべてを捨て去り迫ってくる鉄舟の人間力」に感動した西郷は、勝海舟との江戸薩摩屋敷における正式会談後、江戸市中を見渡せる愛宕山に登り、鉄舟を評して語った言葉が「南洲翁遺訓」に記されたのです。

つまり、今の世の中、鉄舟のような人材が最も求められていると、田勢氏が語っているのです。

山岡鉄舟研究会の目的は、鉄舟の生き方を研究し、今の時代生きる我々に活かしていこうというものです。

鉄舟を研究し共に学ぶこと、それが今の時代の最先端なことを、日本経済新聞の田勢氏が認めてくれました。

投稿者 Master : 12:11 | コメント (0)

神は細部に宿る・・・鉄舟研究会三月発表について

山本紀久雄です。

二月末に8日間、ウォン安の釜山・ソウルを回ってきました。
いろいろ感じるところ多く、特に韓国人と日本人の違い、それは「神は細部に宿る」ではないかと思いました。

この言葉は20世紀近代建築の三大巨匠である「ミース・ファン・デル・ローエ」(1886年ドイツ・アーヘン生 1969年アメリカ・シカゴ没)といわれておりますが、この言葉の通りを韓国の街中で、海辺で、そして訪問した家庭内で感じました。

この「神は細部に宿る」は、鉄舟と清河の関係にも通じる生き方へのセオリーともいえます。四月は「ジョン万次郎講演会」ですから、三月に四月分も含めて清河八郎に絡む内容をお話しし、三月で清河との関係は最後にいたします。

鉄舟と清河は攘夷ということで虎尾の会を結成しましたが、清河が暗殺される直前、鉄舟と清河は心情的に解しあい、分かりあいながら、しかし、互いの立場の違いから行動見解を異にし、その結果が清河の死につながっていく過程をお話ししたいと思っています。

今までの通説とは異なった新解釈で、今までの専門家の見解に挑戦したいとも思っていますが、その過程に今の韓国事情がどのように関わっていくか。

そのところは三月十八日当日にならないと自分でも分かりませんが、時代は変わり、時流も移り、結果として生き方を変える必要がありながら、しかし、昔も今も変えてはいけない生き方セオリーが厳然とあります。

そこの指針につなげたいと思っていますので、ご期待願います。

投稿者 Master : 11:28 | コメント (0)

2009年03月07日

尊王攘夷・・・その二

尊王攘夷・・・その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

前月では、鉄舟に影響を与えた人物である清河八郎を取上げ、何故に山形・清川村の酒造業の息子である清河が、尊王攘夷の著名急進派志士と称され、雄藩の大坂薩摩藩邸に滞留するほどの人物となったのか。この検討のため当時の政治状況を振り返ってみた。

今月は、清河はじめ著名な人物が争って唱え行動した尊王攘夷運動とは何か、つまり、尊王という意味、攘夷とはどういう内容か、この理解なくしては当時の政治状況を理解できないので、改めて考察してみたい。

まず、尊王ではなく、一般的に尊皇と書く事例が多い。

これは昭和初期ごろから、本来は尊王であるものを、尊皇に変わったと指摘されている。(小西四郎著 開国と攘夷 中公文庫)その通りで、これは徳富蘇峰が「元来尊王と云うが、記者は故ら尊皇と改めた」と昭和八年に述べたことからである。(徳富蘇峰著 近世日本国民史49巻 民友社)

本論では尊王を採り、以下、小西・徳富著を参考に検討をつづけたい。

尊王攘夷というのは、癸丑(みずのとうし)・甲寅(きのえとら)から丁卯(ひのとう)・戊辰(つちのえたつ)、つまり、嘉永六年(1853)・安政元年(1854)ごろから慶応三年(1867)・明治元年(1868)までの、志士間における、通り言葉であった。

つまり、米使ペリーが、艦隊を率いて浦賀に来航した嘉永六年から、明治維新までの十五年間が尊王攘夷の嵐が吹き荒れ、複雑化・混沌化した期間で、この尊王攘夷を風靡させた始まりは、水戸烈公(斉昭)の弘道館記にある「王を尊び、夷を攘ひ、允(まこと)に武に、允に文に」の一句からである。

また、この尊王攘夷という文言の淵源を遡ると、中国・東周(紀元前770~前221年)末となり、当時、諸侯が跋扈(ばっこ)して周王を無視したので、特に、尊王の大義を掲げたことからである。

この尊王論が日本で強力に主張されるようになったのは、ペリー来航によって外国との交渉が始まったあたりからで、それまでは、表面的に幕府は朝廷を尊敬したが、実際は完全な統制化においていて、一般の尊王認識は薄い実態だった。幕末時の外交問題を通じて天皇の存在が改めて認識され、ここに尊王論が浮かび上がってきたのである。

ペリーが持参した米大統領の手紙の宛名は「日本皇帝陛下」と記していたが、その後、将軍はあくまで天皇の臣下であることが一般にわかってきて、対外的に皇帝と称するわけにいかなく、そこで考えられたのが「大君(たいくーん)」(Tycon)であり、これは既に朝鮮との間で「日本国大君殿下」と使われていたので、これが一般的となって、天皇は「帝」と称されるようになった。

尊王論は水戸藩の学者によって主導された。

藤田幽谷は「将軍が天皇を尊ぶならば、大名もまた将軍をあがめ、大名が将軍をあがめるならば、藩士もまた大名をうやまうであろう。こうして、上下関係は緊密にたもたれ、国内は一致協力態勢がとれる」と主張し、その子藤田東湖は「すべて人々はその直属の主君に対して忠誠を尽くすことが必要であり、将軍が天皇を尊ぶべきであって、この階層をのりこえて、例えば大名や藩士が直接朝廷に忠義を尽くすような行動をとることは行ってはならない」と述べている。

このような尊王論は、封建的な上下関係を強固にするための主張であって、現在の秩序を維持するための論拠であった。

この尊王論が攘夷論と結びついて尊王攘夷論となり、やがて次第に反幕的色彩を持っていくのであるが、その検討に入る前に攘夷という文言の淵源をみてみたい。

攘夷も周時代である。周時代は、夷狄(いてき)との交渉が頻繁であって、「詩経」魯頌(ろしょう)に「戎狄(じゅうてき)是れ膺(う)ち、荊舒(けいじょ)是れ懲らす」、即ち「西北の蛮族を討ち、南の荊族・舒(楚のこと)をこらしめる」とあるように、これが「攘夷の已む可からざる所以」を語った始まりである。

しかし、この攘夷という語源と異なった活用を日本人は行っていくのであるが、これについては後述するとして、まず、日本人が持っていた攘夷思想について考えてみたい。

元々日本人はその本質からして決して攘夷傾向でなく、日本人の開放的感覚は、世界でも少ないのではないかと思われる。外国人を排斥する傾向は、日本人より中国人や欧米人の方が強く、日本人は攘夷なぞというより、外国人を優待し、海外品を受け入れる傾向が強いのではないか。

 この感覚は、日本上古の歴史を見ても明らかである。当時、中国・韓国その他地域から移民を受け入れたばかりでなく、これを奨励し歓迎する傾向にあった。上古時代は中国・韓国・インド、いずれも日本より文化的に先進国であった。

したがって、自然にその先進国と先進国民を崇敬した。これがあまりに甚だしくなったので、それを矯正するために、聖徳太子はことさらに国民的自覚を促したほどである。さらに、近世史の始まりである信長・秀吉・家康の如きも、決して攘夷傾向でなく、鎖国傾向でもなかった。

 では、何故に、徳川幕府が鎖国制度を採ったか。それにはキリスト教布教活動の活発化が、種々の問題を引き起こすなどの理由があったほかに、外国との通商が、自国内に混乱を起すと判断していたからであった。

ペリーの第二回目来航時、交渉に当たった幕府全権代表の林大学頭復斎が、ペリーが交易によって「国々富強にもあいなり」と通商を要求したことに対し「外国の品がなくとも日本は十分」と述べ拒否している。これは隣国の清国がアヘン戦争によって貿易港を増やされ、その結果清国の輸入が増加し、その支払いの銀が増え、結果的に銀貨の値が高くなり、清国人の暮らしを厳しくしている事例を承知していたのである。

つまり、外国との交易が行われれば、日本から輸出する物品、茶や生糸が国内から出て行き、その分、国内で品薄となり、値上がりを招くことになり、釣られて他の物品も値上がりすることになって、人々の暮らしは苦しくなったのであるが、このことを幕府は既に理解していたし、事実その通りの状況となった。

その上、通商を求める外国の態度にも脅威を抱いた。それはロシアの北方からの侵入であり、ペリーが許可無く浦賀から品川まで入って来たという、日本の主権を脅かし、恫喝・威嚇する態度での交渉、これらが攘夷思想を強化させたことにつながった。
 
既に述べたように、この当時、日本の攘夷論の大本山は水戸藩であり、その藩主は徳川斉昭(烈公)であった。この斉昭という人物、文政十二年(1829)八代藩主斎(なり)脩(のぶ)が逝去し、その跡継ぎとして斎脩の弟の敬三郎が九代目藩主斉昭として就いた。斉昭が藩主になるに当たっては、すんなりと収まったわけでなく藩内で跡継ぎ抗争があり、それがその後の水戸藩の混乱を助長させ、斉昭が四十五歳(弘化元年1844)のとき隠居謹慎となり、慶篤が十三歳で家督相続し、斉昭の謹慎が解けるのは嘉永二年(1849)で、五年が経っていた。

この間、斉昭を支えた人物は会沢正志斎、藤田幽谷とその子藤田東湖などであったが、いずれも攘夷論者として著名であって、その影響を受けて斉昭は強固な攘夷論を唱導して、攘夷論者から巨頭として仰がれる存在なっていた。

この時点での尊王論は天皇・朝廷を尊ぶことであるから、尊王イコール倒幕になっていなく「尊王であり、敬幕であった」というのが安政の大獄までの実態で、桜田門外の変で井伊大老を襲撃した水戸の尊攘志士もそうであったし、西郷隆盛が倒幕という意志を固めたのは、慶応元年(1865)あたりであって、その前年の長州征伐に当たって西郷は幕府側につき、実質の司令官的な役目を果している。

尊攘志士が倒幕に変わっていくのは、時代の変化からである。

まず、その変化の第一は、安政の大獄で志士達が弾圧された後、踏みつけられた雑草がますます強くなるように頭を持ち上げてきたこと。

第二は、井伊大老による日米修好通商条約の調印、これは天皇の勅許を得ない、つまり、違勅調印である。

第三は、その結果によって開始された貿易によって起きた、国内経済の混乱、第四は、外国人=夷狄の国内横行であった。

夷狄に屈服して、神国をその蹂躙にまかせる幕府は、もはやたのむに足らない。違勅調印を攻撃すれば、幕府は弾圧を加えてくる。このような幕府の政策を変更させ、なんとか天皇の意志を奉じて、攘夷をしなければ、日本は滅亡するのではないか。この危機感が多くの人々に浸透していった。

これらの時局変移を通じて、極めて少数だった尊攘志士は拡大し、底辺が広がり、大きな政治勢力になっていき、幕府をたのむに足らない、という考えは、幕府の構造改革を目指す方向と、もっと進めて幕府の存在を否定する倒幕に向う方向に大きく分かれていった。

その幕府の構造改革を狙う意図で、攘夷思想を主導したのが水戸藩主斉昭であることを、その子である徳川慶喜が語り、それを受けて倒幕派が攘夷思想をどのように展開していったかを解説しているのが徳富蘇峰であるので、この両者論を以下に紹介したい。

まず、当時の攘夷という内容がどのようなものであったか。それを渋沢栄一編の「昔夢会筆記・徳川慶喜公回想談」から拾ってみたい。

これは明治も終わりに近い頃、かつて一橋家の家臣であった渋沢栄一が中心になって、まだ元気だった慶喜を囲んで、幕末当時の事情を聞くための座談会を開いて、それをまとめたもので、第一回の明治四十年に慶喜が次のように述懐している。

「烈公(斉昭)の攘夷論は、必ずしも本志にあらず。烈公いまだ部屋住たりし時より、しばしば戸田銀次郎等を引見して、水戸藩政の改革せざるべかざることども論議し給い、哀公(水戸斎脩卿)の後を受けて水戸家を相続し給いてよりは、いよいよ日頃思うところを実際に施さんとて鋭意し給いしが、非常の改革を行うには、何等かの名目なかるべからざるをもつて、一時の権宜として、改革は武備充実のためなり、武備の充実は、近頃頻々近海に出没する異船を打攘わんがためなりと称せられたるなり。

すなわち、攘夷の主張は全く藩政改革の口実たるに過ぎざりしが、後に至りては名目が目的となり行きて、形のごとき攘夷論者となり給いぬ。されば烈公は、異船来ると見ば有無をいわせず直ちに打攘わんというがごとき、無謀の攘夷論者にはあらず。もとより我が砲術の拙さを知り給えば、新たに西洋の砲術を学びて神発流と名づけ、胡服(注 中国北方の民族の胡人の着る着物・・広辞苑)は一切用い給わざりしも、つとに藩士をして、甲冑を廃して筒袖・陣羽織に古風の烏帽子を戴かしめ、自ら師範者となりて藩士を訓練せられたり」

つまり、攘夷論の強硬論者である斉昭は、十分に外国勢力の実態を承知していたゆえに、攘夷論を主導したというのである。

 この慶喜の述べたことについて、徳富蘇峰は次のように解説しているので紹介したい。(近世日本国民史)

 「以上は烈公の愛子徳川慶喜の自ら語る所、父を知るは子に若(し)くは無し。我等は之によりて烈公の本意が、必ずしも攘夷で無かったことを知るを得た。烈公尚然り、況や其他をやだ」

さらに続けて
 「文久(1861)以前はいざ知らず、文久・元治(1864)の攘夷論に至りては、其の理由や其の事情は同一ならざるも、何れも対外的よりも、対内的であったことは、断じて疑を容れない。或る場合は、他藩との対抗上から、或る場合は、勅命遵奉上から、或る場合は、自藩の冤を雪(すす)ぎ、其の地歩を保持せんとする上から、其他種々あるも、其の尤も重なる一は、攘夷を名として倒幕の實を挙げんとしたる一事だ。即ち倒幕の目的を達せんが為めに、攘夷の手段を假りたる一事だ。されば一たび倒幕の目的を達し来れば、其の手段の必要は直ちに消散し去る可きは必然にして、攘夷論は何処ともなく其影を戢(おさ)め去った。而して何人も其の行衛を尋ねんとする者は無かった。

 偶(たまた)ま真面目に攘夷論を主張たる者は、今更ら仲間の為に一杯喰わされたるを悔恨して、或は憤死し、或は絶望死した。偶ま最後まで之を行はんとしたる者は、空しく時代後れの蟷螂(とうろう)の斧に止った」

 如何でしょうか。嘉永六年から明治維新までの十五年間の尊皇攘夷論、それを理解することは一筋縄で行かぬもので、まだまだ検討不十分である。

しかし、このあたりで切り上げ、本論に戻り、複雑化・混沌化した政情の中、清河八郎はどのような役割を果たし、その同士と称された鉄舟は、心中に何を持ち時代に対応していたのか。次月以下で究明したい。

投稿者 Master : 08:47 | コメント (0)