2007年07月14日

6月明治神宮 至誠館 館長 稲葉稔氏 講演記録 5

一之太刀の「一」とは何か。
鹿島神流武術は螺旋の動きを原理とする太刀です。今の剣道の動きは上下運動に見えますが、鹿島神流は、右回りの螺旋運動が左へ変化して行くこともありますし、その逆もあります。一点になったところは、左右の螺旋運動が一点に集中した所です。それが突きという考え方です。

神道での、力の作用を、いつの力、いづの力と表現することがあります。いつ=いづ、稜威とか巌という字で書きますが、神武天皇の東征のときに出てきます。 いつの力は攻撃の力、いづの力は防衛の力といわれています。攻撃的なのは、男の攻撃的な力でいつ。いづの力は女の防衛的な力のことを言います。
戦いというのは、いつといづの力を両方組み合わせていくことになり、それを修練する。修練していく上で、まず必要なのは防衛の力をつけること、身を守ることです。次に防衛が身について来たら、攻撃力をつけて行きます。
男と女の性格からいうと、女は内に防衛力を集めて、男は外に出て攻撃的な力を持ちます。しかし、修練していないと、男でも攻撃力はあっても、防衛に弱く、内から崩れます。また、女性が攻撃的になると、体質に合わないから、攻撃しようとすると、防衛的な力まで機能しなくなって自滅してしまうことになる。  攻撃と防衛はそういう関係があるから、両面を養いながら使い分けていく、それが武術であろうと思います。

らせんの動きはどこから出てくるか。人間のからだを例にとると、体があって、体の中心、お腹のまわり、お臍の下あたり、人間の重心の位置となっているのが丹田です。そこに力を集中することを腹に力を入れる、といいます。外に出る遠心力の中心は、この丹田です。腹(丹田)を鍛えるということは、中心力を養い、腕や手、指への遠心力を出すことになり、鍛錬の基本的考えからです。
相撲の四股を踏むのがこの腹の力を鍛える典型的なものです。

鉄舟の一刀というのは、この腹を修練しながら、気力を集めて、無限大の力を養って行く。それが相手にとらわれないという無敵の気概になったのだろうと思います。それが、刀に頼らないという無刀の心境に達したのではないかと思います。

鉄舟の辞世の句は、「腹はって苦しき中に明烏(あけがらす)」です。 最後の最後まで戦い続け、修練を怠らなかった気概が伝わってきて勇気付けられます。

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2003年05月20日

山岡鉄舟 年譜

■山岡鉄舟 年譜
天保七年 1836 一歳
六月十日、御蔵奉行小野朝右衛門高福の四男として生まれる。

弘化元年 1844 九歳
久須美閑適斎に就いて真影流を学ぶ。

弘化二年 1845 十歳
七月一日、父高福、飛騨郡代に転任、鉄舟父母に同行す。

嘉永三年 1850 十五歳
書道の師、岩佐一亭より入木道五十二世を譲られ、一楽斎と号す。

嘉永四年 1851 十六歳
九月二十五日、母磯、高山陣屋に病歿す。
十二月、父の招請により北辰一刀流井上清虎、高山に到着。

嘉永五年 1852 十七歳
二月二十七日 父高福、高山陣屋で病歿す。七月二十九日、五人の弟を連れて、江戸に帰着す。

安政元年 1854 十九歳
山岡静山に槍術を学ぶ

安政二年 1855 二十歳
静山急死のあと、山岡家の養子となり、静山の妹英子と結婚す。

安政三年 1856 二十一歳
講武所世話役となる。

安政六年 1859 二十四歳
天下の大勢を観望し、尊王攘夷党を起こし、清河八郎と結ぶ。

文久二年 1862 二十七歳
浪士取締役となる。

文久三年 1863 二十八歳
将軍家茂の先供として新徴組浪士を率いて上洛、間もなく江戸に帰る。浅利又七郎に剣を学ぶ

明治元年 1868 三十三歳
三月、慶喜の命を受け、東征大参謀西郷隆盛と静岡で会見、徳川家の安泰を約す。

明治四年 1871 三十六歳
十一月、茨城県参事に、十二月、伊万里県権令となる。

明治五年 1872 三十七歳
六月、明治天皇侍従となる。伊豆三島龍澤寺の星定和尚について参禅す。

明治六年 1873 三十八歳
五月、皇居炎上、淀橋の邸より駆けつける。宮内少丞に任ぜられる。

明治七年 1874 三十九歳
三月、西郷南州説得のため、内勅を奉じ九州に差遣。

明治八年 1875 四十歳
宮内大丞となる。

明治十一年 1878 四十三歳
八月、竹橋騒動に御座所を守護す。
明治天皇、北陸、東海地方御巡幸に供奉す。越中、国泰寺越叟と相識る。

明治十三年 1880 四十五歳
三月三十日、払暁大悟徹底。適水和尚の印可を受く。剣の道も無敵の極処に達し、無刀流を開く。

明治十五年 1882 四十七歳
三月、戊辰の際『西郷と応接の記』を書く。
六月、宮内省を辞任す、されど恩命により、宮内省御用掛となる。

明治十六年 1883 四十八歳
普門山全生庵を谷中に建立す。清水に久能寺(鉄舟寺)の建立を発願す。

明治十七年 1884 四十九歳
五月、白隠禅師の国師号宣下に尽力す。

明治二十年 1887 五十二歳
五月、華族に列せられ、子爵を授けらる。

明治二十一年 1888 五十三歳
七月十九日午前九時十五分、坐禅のまま大往生を遂ぐ。
七月二十二日、谷中全生庵に埋葬される

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