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2009年08月10日

尊王攘夷・・・清河八郎その五

尊王攘夷・・・清河八郎その五
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

2008年のNHK大河ドラマ「篤姫」は高い評価で終わりました。
天璋院篤姫は第13代将軍家定の御台として、家定死後は第14代将軍家茂に嫁いできた、孝明天皇の妹・和宮(静寛院宮)とともに、徳川家を守ろうと江戸無血開城を成功させるストーリーでしたが、史実とドラマのフィクションとを巧みに編集整理され展開されたことが、評判を高めた要因でしょう。

また、本土最南端の薩摩の地で、桜島の噴煙を見ながら、錦江湾で遊ぶ純朴で利発な一少女が、将軍家の正室となり、3000人もの大奥を束ねるという、ただならぬ人生の歩み、それが多くの視聴者に受け入れられてきた背景でもあります。

過去の歴史が今の時代に共感されるためには、現代人からの認識、理解、共鳴、同感が条件であるが、この点で「篤姫」は成功し、現代に篤姫を蘇えさせていると思う。

現代に歴史を蘇えさせているのは、ドラマだけでない。各地に造られている史跡もそのひとつである。読者から群馬県の草津温泉に、清河八郎の石塔があるとご連絡いただいた。

確かに、草津温泉の湯畑を囲む石の柵・石塔に清河八郎の名が刻まれている。草津が町制百年を記念して、草津を訪れた著名百人を選んだ中に清河が入ったのである。滞在したのは文久元年(1861)お盆の時期で、江戸を追われ全国各地を逃亡する途中、しばし草津の湯で疲れを癒したのであろう。

ここで清河の人相を、手配された人相書きから確認してみたい。
「酒井左衛門尉家来出羽荘内清河八郎歳三十位。中丈、江戸お玉ヶ池に住居。太り候方。顔角張。総髪。色白く鼻高く眼するどし」とあり、人相書きは荘内藩領内一円に布告とともに出され、清河の父は謹慎、実家の商売である酒販売が禁止された。

だが、すでに清河は京都で田中河内介と出会い、中山忠愛の親書と田中の周旋状を持ち、勇躍、下関から小倉、久留米を経て肥後に向っていた。

肥後での清河は「ど不適」という性格どおり、何者も恐れず、自らが認識している時代情報分析と方向性を強烈に展開していった。つまり、キーワードである「廃帝の噂」の強調と、もはや「尊王攘夷ではなく倒幕王政だ」という新しい主張であった。

この清河の過激とも思える論弁に対し、当然反発もあったが、平野次郎、宮部鼎三、河上彦(げん)斎(さい)、真木和泉など、九州各地の著名尊攘志士達に対し大きな影響を与えた。

さらに、薩摩藩の動向を掴むため、つまり、島津久光が一千余の藩兵をひきいて京都に乗りこむという噂の確認のため、京都から同行した虎尾の会同志で、薩摩出身の伊牟田尚平と、清河に共鳴した平野次郎を薩摩に潜入させた。

伊牟田と平野はそれぞれ別ルートで、苦労して間道から薩摩に入ったが、二人ともすぐに見つかって捕縛され、所持していた中山忠愛の親書と田中の周旋状などすべて取り上げられた。厳罰を覚悟したが、思いがけず御納戸役の大久保一蔵が出てきて、旅費として十両ずつ渡し、親書などの趣旨はよく検討する旨の発言を受け釈放された。

実は、これが久光を清河が認識する齟齬のはじまりだった。倒幕王政という思惑を持って、二人が薩摩入りしたにもかかわらず、処分を受けなかったことを、清河は自分に都合よく理解し、独り合点し、翌文久二年(1862)一月に京都の田中のもとに戻ったのである。

九州遊説の成果を聞いた田中が質問を発した。
「どのような思惑で、薩摩の島津久光は上京するのだろうか」
「それは朝廷に倒幕の勅諚を乞いに来るためでしょう」
「どうして、そのように断定できるか」
「それは平野と伊牟田の薩摩入り時の対応で分かります」
「うーむ。それはどういうことか」
「二人が倒幕王政の趣旨を述べたのに、処罰されず、かえって旅費を差し出されたことです」
「旅費程度のことでは断定できないだろう」
「旅費を渡したのが、久光の側近である大久保一蔵であったということが重要です。それと、藩内に二人を処分し難い何らかの理由、それは薩摩上層部が幕府に対して好意を持っていないと考えられることと、さらに、藩内の過激尊攘派が強い勢力を持っていると想定できるからです。倒幕の勅諚目的上京はまちがいないと思います」

このような会話をしているところに、肥後から宮部鼎三が訪ねてきた。清河が肥後を去った後、肥後人の間で清河が展開した背景について議論が続き、その根拠を確かめるべきだということになり、その確認のために宮部が上京してきたのであった。

そこで翌日、宮部を歓迎する名目で、中山忠愛、田中と清河が酒席をもった。その酒宴の最中に田中の家から使いが来て、坂下門外の変が知らされた。

それを聞いた田中が「廃帝の古例を調べさせたのが襲撃された原因だ」と叫んだ。

この叫びは、肥後で清河が強調したことが、事実だと立証する形となり、酒席はにわかに活気を帯び、宮部はすぐに肥後に戻って、同志にここで確認した状況を伝えるということになった。

さらに、突然、薩摩藩士の柴山愛次郎と橋口壮介も清河を訪ねてきた。いずれも薩摩過激尊攘派の中心人物である。用件は久光の上京が決定したことを知らせるものであった。

急き込んで上京目的を尋ねる清河に、二人は語った。
「故順聖公(斉彬)のご意志を継ぎ、勅命を頂いて幕府に改革を迫るためです」
「倒幕ではないのですか」
「もし順聖公が生きておられれば、今の情勢なら、そういうことも考えたかも知れんが、久光公では・・・」
「というと、やはり幕府改革ということなのか・・・」

清河はしばし黙したが、すぐに
「しかし、この機会を逃す手はない。絶好の好機だ」
「その意味は・・・」
「薩摩藩が出兵上京という噂、それが事実となったことが大事なのです。これで同志を日本国中から集められる理由がつきますから」
「分かった。我々もその深意に沿って動く」

清河と柴山、橋口の三人は、それ以上語らなくても、お互いにある意味を了解しあい、共通認識を持ち合ったのである。その共通認識とは、清河が「薩摩藩が出兵する」という火種を武器に、日本各地に檄をとばし、尊攘派を京都に集合させることであり、薩摩藩士の柴山、橋口はその動きを受けて、一気に藩内を反幕府体制に持っていくことであった。

早速、清河は田中と相談し、檄文つくりに取りかかった。清河はこれまでのすべてをこの檄文に没入させ、田中と連盟にし、遊説先の九州は勿論、尊王攘夷に心寄せる諸国のあらゆる知人に送ったのである。

清河はこの檄文に対して、勝算があった。時代は、公武合体という妙な政治停滞によって出口がふさがれ、変化を求めるエネルギーが、噴出しようとうねって何かを探している。そのうねりに、この檄文が火をつけ、発破となるであろうと。

結果はその通りであった。全国各地から続々と京都に集まった、三分類に分けられる志士達は、その数三百名にも及んだ。

一つは薩摩藩士たちである。柴山愛次郎と橋口壮介を中心とした薩摩過激尊攘派であり、屯ったのは中の島のはたご屋魚田である。

二つ目は長州藩士たちで、これは長州藩蔵屋敷に入っていた。長州は関が原の役で、西軍の主将に祭り上げられたが、実際には毛利輝元が大坂に居座って出兵しなかったのに、家康は毛利家を百二十万石から三分の一という三十六万石に削ったので、もともと幕府に対しうらみを持っている藩で、薩摩過激尊攘派と連絡をとり、貧乏な薩摩藩士に経済的援助を行うなどで反幕勢力と通じあっていて、久光上京を聞くと、藩をあげて動いてきた。

三つ目は大坂薩摩屋敷である。これは勿論、清河と田中の連名檄文によって上京した志士達であって、当初田中の屋敷に入っていたが、たちまち巣窟と化し、京都所司代の監視が厳しくなってきたので、清河と昌平黌書寮で顔見知りの薩摩藩士堀次郎の斡旋により、薩摩藩邸に移りたいと交渉・了解を受け、大坂薩摩屋敷の二十八番長屋に入ったのである。

さて、肝心の久光であるが、文久二年四月大坂に入ると、直ちに以下の訓令を下した。

1.諸藩士や浪人らへ私的に面会してはならない。
2.命によらずして、みだりに諸方へ奔走してはならない。
3.万一、異変が出来しても、敢て動揺せず、命令のないうちはその場に駆けつけてはならない。
4.酒色を相慎むべきこと。

この趣は以前からしばしば申し渡してきたことではあるが、これからも益々守るべし。もし違背する者は容赦なく罪科に処するであろう。

この訓令と同じ趣旨のものが、薩摩を出立する際にも出していたが、これらから考えても久光が倒幕など念頭にないことが明らかであり、実際に朝廷に差し出した建白書には、安政の大獄で処分された公卿や一橋(慶喜)、尾張(慶勝)、越前(慶永)などの謹慎を解くべきという、幕府改革に通じる内容のものであった。

この状況を受けて、総勢三百名にも及ぶ三分類の志士達は何回かの会合を持ち、最終的に久光を頼らず、決起する企てを決め、薩摩過激尊攘派と大坂薩摩屋敷の二十八番長屋の志士達は、ひそかにその決起集結地である伏見の寺田屋へ向った。その際、長州藩は伏見に向う淀川の船の費用などを協力し、事の勃発を今か今かと藩邸で待つ態勢でいた。

だが、しかし、この企みは久光の耳に入ることになってしまった。久光が知るまでには、様々な背景経緯があるが、いずれにしても久光はこの薩摩藩士が参加している計画を暴挙と断定し、非常な怒りをもち、特に長州藩がバックアップしていることに不快感をもったが、まず自藩士のことであると思い直し指示を下した。

「首謀者をここに連れてまいれ。わしが自ら説諭するであろう」
「もし、おとなしく命を奉じることなく、拒みましたら、いかがいたしましようか」
「その時はいたし方なし。臨機の処置をとれ」

この臨機の処置とは「上意討ち」にせよという意味になるわけで、その使者として九名の武技に優れた者を選び寺田屋に向かい、結果は説得できず戦いとなった。これが世に名高い「文久二年四月二十三日の伏見寺田屋事件」である。

この事件で討手一人と寺田屋にいた薩摩藩士六名が死亡、二人が負傷し、生き残った薩摩藩士と、田中河内介や真木和泉などは京都の薩摩藩邸に収容され、以下の処置となった。

「薩摩藩士で暴発に加担した者は国許に送り返す。他に藩籍ある者はそれぞれの藩に引き渡す。田中河内介その他の浪人などは、薩摩で預かって、国許送還の薩摩藩士とともに薩摩に連れて行く」
だが、田中河内介は薩摩行きの船の上で殺害され、死体は海中に遺棄され、後日、小豆島に流れ着いたといわれている。

後日談であるが、田中は権大納言中山忠能に仕えた諸大夫であり、明治天皇の生母は忠能の娘中山慶子であったため、田中は幼少時の祐宮のお守役をつとめたことから、天皇は田中のことを記憶にあり「河内介爺はどうしただろうか」と案じていたので、側近が「田中はしかじかのことで、薩摩藩によって殺されました。その際の当局者は内務卿大久保利通でございます」と言上したが、大久保は下を向いたままだったという。

しかし、ここでおかしいのは、伏見寺田屋にいるはずの清河八郎がいなかったことである。寺田屋にいたならば田中と同じ運命になったであろう。しかし、清河は悪運というか、幸運というか、つまらない事件で大坂薩摩屋敷を出る羽目になり、結果として伏見寺田屋事件に関与しなかったのである。

次回は、その経緯と、伏見寺田屋事件後江戸に戻り、急転、幕府から大赦を受け、鉄舟とともに再び京都に赴くことになることをお伝えしたい。

投稿者 Master : 14:44 | コメント (0)