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2008年01月31日

日本経済新聞に「ぬりえを旅する」が紹介されました。

山岡鉄舟研究家の山本紀久雄氏と共著で12月21日(金)に 発行しました「ぬりえを旅する」が、 1月27日(日)の日本経済新聞の読書面に 紹介されましたので、ご案内させていただきます。

ぬりえに関する記事が2006年以降目につくようになりましたが、 それは大人がぬりえをするという「大人のぬりえ」の人気の状況を伝える 記事であり、書物というよりは名画であるとか浮世絵であるなど、
ぬりえ本の絵の内容をを紹介する記事でした。
しかし、それらは、書評欄で紹介されるものではなく、情報としての記事として 取り上げられたものでした。
しかし、この度は、海外のぬりえの事情を表した本として、 書評欄に取り上げられました。

「ぬりえを旅する」は3冊目になります。
2005年にぬりえの専門書である「ぬりえ文化」を、2006年には、ぬりえに関わる人々のそれぞれの立場から考察したエッセー集「ぬりえの心理」を出版いたしましたが、いずれも日経新聞のようには取り上げられませんでした。

今回、取り上げられた背景は何か。それを考えてみたいと思います。

時代は変わって行きます。特に昨年はサブプライムローンから発し、アメリカの住宅ローンが、まさか世界中の経済問題なるとは、予想もしてない事態で、いまでも問題は続いております。加えて、原油の高騰が一般生活に影響するように、海外要因で日本社会が大きく変動する時代になっている、つまり、グローバル化が必然の顕著となったのが昨年です。

そのタイミングに、「ぬりえを旅する」が出版されました。

ぬりえという存在を、日本人は日本独自のものであると、誤解している人が多い中、世界には様々なぬりえがあり、その活用方法も多様であるという実態報告内容に、日経新聞が時代の動きと重なり合うと感じ評価し、多くの新刊書の中から選んでいただいたと思います。

時代は、日本から世界を見るのでなく、世界から日本を見る目を養うことが重要視されつつあると思います。

世界の動きで日本人の生活が変化させられます。そのところをぬりえを通じてお伝えし、ぬりえを文化にし、社会に貢献していきたいと念願している者として、今回の日経新聞読書面への掲載に感謝しつつ、これからも続けて多くの国の実態を提供していく所存です。

その意味で、「ぬりえを旅する」を一度手にお取りいただければ幸甚でございます。

(日本経済新聞の紹介文)
「ぬりえを旅する 金子マサ・山本紀久雄
東京にある「ぬりえ美術館」の館長らが、米国・チリ・ロシア・イタリア・ベトナムの塗り絵の実態を調査してまとめた。幼稚園や出版社、教育関連施設への訪問取材と、子供を持つ親へのインタビューやアンケート調査を実施。この五ケ国では、塗り絵には子供の色彩感覚や集中力を養う効果があるとされ、幼稚園や学校プログラムに取り入れられているという。遊びの要素が強い日本との違いがわかって興味深い。(小学館スクウェア・1143円)」

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2008年01月27日

1月例会記録(2) 1/2

■山本紀久雄氏

「回天一番乗り」1/2


大森曹源先生の弟子である寺山旦中先生が70歳でお亡くなりになったと話しがありました。剣で鍛えていらっしゃった。鉄舟全国大会に今年くらいにお願いしたいと思っていたらお亡くなりになったと聞いてビックリしました。
健康には十分注意していただきたいと思います。早期発見ですね。
新聞の折込で政府からC型肝炎の方への案内が入っていましたね。今日聞いた話では補償額全部使えきれないだろうという。C型肝炎のうちインターフェロンで治るのは30%くらいで、他は治らない。それ以外の治療はない。


前回までは鉄舟の貧乏話を続けておりましたが終わりまして、一番難しいところに入っていきます。鉄舟が影響を受けた人物はたくさんいますが、若い頃思想的に影響を受けたのは清河八郎です。

1.鉄舟に影響を与えた人物に清河八郎がいる。
清河八郎とは、天保元年(1830)出羽(山形)庄内・清川村の酒造業の長男として出生、十八歳で故郷を出て、幕末、尊王攘夷運動の一翼をにない「回天の一番乗り」を目指した人物である。「回天」とは「天下の情勢を変えること」を意味している。鉄舟より六歳上である。
 
天下を変えるということは、構造改革をしようとした人です。その人物を鉄舟とどう結びつけるか。鉄舟は若い時代に構造改革をしようとしたか?

京王デパートで「全国駅弁大会」をやっています。43年続いた日本で一番大きな駅弁大会です。人がいっぱいで並んで買いました。駅弁は人気があると同時に、全国2000種類くらいあります。日本の誇るべき文化になるのではないか。
 駅弁を買って帰り家族と食べました。喜ばれましたね。故郷や旅行先の思い出の駅弁で話が盛り上がる。幸せな時間を駅弁が与えてくれる。

司馬遼太郎氏が、勝海舟と坂本竜馬について語っています。勝海舟はアメリカに行きました。そのときの経験を坂本竜馬が聞きます。
「アメリカを興したのは誰ですか」と坂本竜馬は勝海舟に訊く。「ワシントンだよ」と勝。ワシントンといえば国家を創業の人で、日本だと徳川家康に当たると思ったから、「ワシントンの子孫は今どうなっていますか」と当然のごとく訊いた。将軍とか大名とかになっているのだと思ったのでしょう。勝は、ワシントンの子孫がどうなっているか、そんなことは知らない。子孫は絶えているらしいぞ、と言います。その一言で坂本竜馬は理解してしまった。
日本人は一言で分本質を見抜く力がある。
歌会始めがある、芭蕉の句がある。短い言葉で宇宙の無限の広がりを表現する、それを分かる。我々日本人には本質を見抜く力・洞察力がある。
アメリカの制度を聞いて、家康に相当するワシントンの子孫がどうなっているかもわからないという一言で、坂本はいっぺんに新しい国家を作らなければならないと考えた。勝海舟のワシントンから新しい日本が出来た。
菊池神社の菊池家憲が五箇条のご誓文のひとつに繋がっているんですね。
日本は海に囲まれた狭い孤島であるがゆえに世界を知らなくても、日本人はいっぺんに分かることを得意としている。国を開かなければならない、外国から知識を吸収しなければならない、それで日本を変えなければならないと坂本竜馬は思いついた。外国から知識吸収をすべきだという考えが生まれたのは勝海舟と坂本竜馬の会話からであったことを理解してもらいたい。

日本の株、下がりました。日本の株を外国人が買わなくなった。日本に変化してほしいと思っていて、変化しないから、外国人投資家は金を引き揚げる。
明治維新は変化したわけです。今日もう一度変化しなければならないということを株の下落は教えてくれる。
清河八郎は幕府をつぶすことで回天しようとした。我々はどう変化すればいいか、それが大事なことです。

駅弁の話しに戻ると、駅弁があまりにも人気があるので驚きました。外国に駅弁はありますか?日本の駅弁はレベルが高く三ツ星レストランで食べるような弁当で、これが魅力です。新幹線で行っても楽だし安全で日本は素晴らしい。
日本には良いものっていっぱいあるはずなんですね。日本はバブル崩壊以後、急速に人気が出てきている。日本人が世界で一番人気があるんです。私自身が外国のお宅を伺い、実感している。日本に行ってみたいという人がいっぱい居る。日本のマンガは、日本の世界が描かれている。日本の生活を英語やフランス語にしてアニメになっている。
中国は躍進していますが、中国が好きだという人はあまりいません。欧米人から見るとアジア人は中国人も日本人も判りませんが、日本人といった途端に相手の反応が変わる。我々の生活している文化が世界の人から受け入れられている。マンガに表現されている日本の生活が評価されている。そういうものの中にぬりえもある。
今年の正月は初詣いかれましたか?大宮氷川神社に行き、その翌日は川崎大師に行きました。川崎大師に行ってお参りするのに1時間くらい掛かる。山門のところに行って、柱を見てびっくりした。「ぬりえ」「一部100円」と書いてある。川崎大師でぬりえ、他の神社はやっていない。これは時流です。そうやって広がっていく。
同じように駅弁を海外に持っていったら、すごいと思います。カールスルーエからパリまでTGVの一等車に乗った。ボーイが3枚重ねになった何かを持ってきて、風呂敷みたいなものを開けたら、パン、サラダ、チーズ、ハム、水、ワインだった。車内食です。スーパーに行くと、サンドイッチと寿司は弁当形式で並んで置いてあります。
NYで地元の人と電車に乗るときに、お昼食べていないので失礼しますと寿司を買ってきて食べていました。駅弁の可能性が高い。
今までは外国から日本は吸収するような形だったが、日本の良いものを外国に持っていくという変化をしたらどうだ。情勢を変えること。ほぼ140年間日本は外国から取り入れて変化してきたがこれからは日本の良さを外国に広めて、そういうことによって日本を変えていくのはどうだろうかと考えています。

投稿者 staff : 16:24 | コメント (0)

1月例会記録(2) 2/2

■山本紀久雄氏

「回天一番乗り」2/2

2.清河については、明治・大正初期に活躍した山路愛山が次のように評している。
「(八郎)かつて書を同志山岡鉄太郎に与えていわく、予は回天の一番をなさんとするものなりと。その剣客たる風概もって想うべきにあらざるや」


清河八郎というのは、剣を学んで免許皆伝になった。清河八郎記念館があり、清河神社もある。靖国神社にも祀られている。そこに行くと「剣は意のごとし」と書いてある。剣は意のままに動くと理解している。清河八郎は傲慢だと言われており、最終的に暗殺されました。人気がない、生意気だ、そういう人間です。明か暗かで言うと、暗ですね。
小沢一郎と小泉純一郎の両方に仕えた小池百合子さんが『文芸春秋』に小泉さんは「明」、小沢さんは「暗」と書いている。小沢一郎は現代のマルクスだと評している。若いときはマルクスに、共産主義に被れる。小沢さんは国会で飛行機の時間だからと5分前に退出して非難を浴びた。鳩山幹事長がお詫びしたら、お詫びなんてけしからんと言っている。

 健康クラブの顧問の塩小路光孚氏は菅原道真38代目の直系子孫で、京都に住み御所の鬼門に書を書いている。日本と天皇家のご安永を祈るのがお仕事。天皇家と繋がっている。
孝明天皇が居たおかげで明治維新が遅れたといわれている。孝明天皇が攘夷と言い過ぎて暗殺されるという噂もあるくらいです。
塩小路氏に孝明天皇について聞いた。塩小路氏の大叔母が孝明天皇の女官で、戻ってきてから話した記録が残っている。孝明天皇は素晴らしく頭が良い人。もっと頭が良かったのは大正天皇で、書を書かせたら上手い。頭が良いが故に馬鹿に見えてしまう。
孝明天皇の話から小沢一郎の話になった。小沢一郎と一緒なんですよ。頭が良いという人はいちいち説明しないで行動してしまう。小沢一郎が言うには国会で賛成多数で決まるものを、どうして最後まで居なければならないのかと。
小池百合子さんが小沢さんを暗いという、清川八郎も暗い。素晴らしい能力があっても、この暗さが暗殺された原因ではないか。

3.清河が、同志山岡鉄太郎に与えたという手紙は以下の通り。
「先程より度々芳意(注:親切に対する尊敬語)を得候通り、最早各邦の義士参会、則ち近日中、義旗飜えし、回天の一番乗仕るべく心底に御座候。折角御周旋甲士(注:甲州の土橋鉞四郎)に早々御手配成さるべく候、塚田には内々国元に遣わし候もの、頼み遣わし候間、彼も義気あるもの故必らずうけがいくれ申すべく存じられ候。千万御苦心仰奉り候 頓首  
      初夏 十一日                正明
山岡高歩君
        薩の和泉殿(久光)明日当邸に着也
 
正明というのは清河の號です。山岡高歩というのは鉄舟の本名。文久2年(1862年)、初夏(4月)の手紙。
薩摩の島津久光が京・大阪に来る。それを機会に幕府を倒す旗を上げると清河は鉄舟に言っている。鉄舟は幕府を倒すための仲間だったのか?ここのところが疑問です。これを解明しなければならない。時間が掛かるので今日は解明できません。研究は続きます。

NHKの大河ドラマ「篤姫」見ましたか?薩摩は贋小判を作ったんだね。薩摩は前の藩主が使い込んで、財政破綻。江戸から遠いことをいいことにして、調所が緊縮政策と同時に贋小判を作り、そのことを篤姫が知っている。
薩摩藩は金持ちです。薩摩藩は幕府と対抗できるくらいの軍事力を持っている。沖縄との密貿易もやっている。幕府から見たら悪いことをやっているが、先見の明がある。島津久光は藩主のお父さんで、肩書きのない無位無官です。藩主の後見役であるその人が、1000人の侍を連れて京都に上がってくる。考えられますか?幕府体制の中で地方の一大名が1000人もの兵隊に武器・弾薬を持たせて街道を上がってくる。参勤交代するのは藩主で、久光は藩主の父親です。  
このように状況が変わったのは、万延元(1860)年3月3日に桜田門外で井伊大老が暗殺されてからです。たった2年で幕府の統制がそんなにも利かなくなったということです。この2年で清川八郎は回天の一番乗りができると思ったと同時にそのような思考の急進派が居た。

4.薩の和泉殿(久光)と伏見寺田屋事件までの系譜
 
幕府転覆を図る過激派が大阪に集まった。清河も過激派です。久光が1000人連れて上がってくる。これは幕府を倒す旗揚げだと思った。みんな大阪の薩摩藩の中に滞留していた。
ところが久光は幕府を倒す気はなかった。井伊大老が安政の大獄でみんな捕まえた。井伊大老が死んだあともその罪が正式に解かれておらず慶喜はまだ謹慎中です。それを全部辞めさせてくれと、京都に行って天皇陛下の許可を得て、
天皇からの命令で解除してほしいと動きに来た。その動きを急進派は全く察知できずに、久光は幕府転覆だと思った。
ひとつの物事の見たときに全く違う2つの考えがあった。ひとつの事件を見ただけでも全然違う。1000人連れて京都に行くというのはひとつの事実。
京都から江戸に回って処分を解いてもらって、その帰りに生麦事件が起きて、そこから薩英戦争が起きた。どうして倒幕だと思い込んだかがすごく大事。

5.尊王攘夷急進派志士である清河八郎の同志が山岡鉄太郎である。何故か。
過激派の中に清河八郎がいて、清河八郎の同士が鉄舟です。鉄舟研究会として、これを解明しなくてはなりません。

6.尊王とは。
7.攘夷とは。
攘夷は外国人を排斥することです。孝明天皇は「攘夷」を薦めた。
150年前(1858年)5月に日本はアメリカと修好通商条約で貿易しましょうと手を結び、その後ロシア・オランダ・イギリス・フランスとも結び開国した。外国人が日本に住んでいた。開国しているのに、ペリーが来たときから開国しているのに、なぜ孝明天皇は攘夷をしなさいと言うのか。
「攘夷」は、幕府を倒すためのスローガンです。開国のまま進んだ。外国から物を入れようとしたのが明治維新。坂本竜馬が一瞬にして本質理解したのは開国です。孝明天皇から攘夷しろといわれて、幕府は文久3(1863)年開国しているのに攘夷宣言して、諸外国に通達した。矛盾していませんか。外国人が日本にいっぱいいるのに、外国人は日本国外に出て行けと通達するのは矛盾していますよね。
アメリカの商船に「攘夷だ」と鉄砲撃った、そのあとに来たフランスの軍隊、オランダにも撃った。それで仕返しされて、下関に上陸されてめちゃめちゃにやられて、外国に敵わないと思って武器弾薬を購入した。
イギリス艦隊、フランス艦隊、オランダ艦隊、アメリカ軍が長州藩の軍事施設を破壊した。そのときに砲台60門を接収され、そのうちの2門がパリにある。
パリを訪れる外国人が、毛利候の紋章を高貴に見て眺めている。山口県は返還を求めているが、フランス政府はナポレオン一世以来、戦利品を対戦国に帰したことはないと言っている。
尊王攘夷はグランドデザインです。ここのあたりが一番ややこしい話ですから、じっくり皆さんにお話しします。
グランドデザインというと、大阪府知事の候補者が5名出ていますね。なぜ大阪が東京・名古屋に比較して落ち込んでいるんですか?大阪って何かあるんですか?観光がある。観光は24時間営業です。羽田・成田は24時間営業ではないが、大阪はできる。環状線がある。電車も24時間やる。世界中から来てもらうコンベンション施設をつくる。そういうグランドデザインを府知事候補は市民に出したらどうだ。グランドデザインがない。
尊王攘夷はグランドデザインです。急進派の清河八郎が鉄舟とどう絡んできたのか。これから研究の佳境に入っていきます。

【事務局の感想】
今年から、鉄舟研究のテーマが新たになりました。回天=天下の情勢を変えること。
鉄舟を研究していますと、実に今の世の中に似ている、繋がる、参考になることが多々あります。今、日本、否世界が変わろうとしています。そのときに、回天とはタイミングが良すぎる感じがいたしますが、今が変化の時期と理解していただいて、皆様の生活にもお役に立つことがあると思いますので、次月も山本さんの鉄舟研究をお聞きしていただきたいと思います。

投稿者 staff : 16:20 | コメント (0)

2008年01月25日

「寺山旦中遺芳展」

銀座の松屋で開催されています「寺山旦中遺芳展」を24日に見学をしてきました。
松屋のなかなか広い会場に作品が展示されています。
日本的な竹を生垣や花いれにして、会場が飾られ、会場の日本的な雰囲気作りにも気をつかっていることが感じられました。
鉄舟の書に似ているような印象を受けました。凛とした、迷いのない心、豪胆な強さ、そして見た後に、心が爽やかになったような気持ちになりました。

受付で鉄舟研究録をお渡ししてご挨拶をしますと、今年9月にロンドンのヴィクトリアン・アンド・アルバート美術館で、寺山旦中氏所蔵の鉄舟の書が3ヶ月に渡り展示されると伺いました。
イギリスでも禅が人気なのだそうですが、この美術館の東洋部門でもが禅研究されているそうで、その禅からのご縁で、鉄舟の書が展示をされることになったとお聞きしました。書はすべて寺山旦中氏が所蔵しているものだそうです。大変素晴らしいことだと自分のことのように嬉しく思いました。

今回海外にも広く鉄舟の名が書道を通じて、広がっていくことを期待したいと思います。

「寺山旦中遺芳展」
銀座松屋 1月23日~29日まで
http://www.matsuya.com/ginza/art/080129e_terayama/index.html

追記
会場でいただいた「筆禅」第29号にイギリスでの展覧会の情報がありましたので一部掲載いたします。
「国際筆禅道」茂登 生良氏
2008年9月3日より12月14日まで、山岡鉄舟没後120周年を記念した「山岡鉄舟禅画および書」展が開催されます。ヴィクトリアン・アンド・アルバート美術館極東部門の主任学芸員のルパート・フォークナー氏の日本文化に対する深い理解があったからlこそでした。
現在世界の美術館では日本文化に対する観客の関心が変わりつつあることを経験しています。とくに漫画やアニメの領域は若い読者が増え大変人気があります。この鉄舟の書の展覧会を通して、彼の剣術や禅の片鱗でも理解され、さまざまな年齢層、さまざまな出身の人々が、現代ときわめて関係ある「無心」という鉄舟の重要なメッセージをきちんと理解できるようになればよいと願っております。


投稿者 Master : 19:18 | コメント (0)

2008年01月17日

1月例会の感想

寒くなりました。冬本番です。
2008年最初の例会が行われましたので、ご報告いたします。

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今回の発表は、高田東士生氏。
高田氏の豊富な海外渡航経験から、海外事情や海外旅行での注意点などをお話しくださいました。

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海外での失敗談をオモシロおかしく聞かせていただき、同時に私たちが旅行する際の注意点として活かせる楽しいお話でした。


続いて、山本紀久雄氏の鉄舟研究です。

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若き日の鉄舟が同志として行動を共にしていた清河八郎は、自ら世の中を「回天」させると公言し、鉄舟にもその旨の手紙を送っていました。文久2年(1862)、鉄舟27歳のときのことです。
しかし、さかのぼること4年前の安政5年(1858)、日本は各国と修好通商条約を結び、国家体制としては開国へとすでに向かっていたのです。
一方、清河から手紙が鉄舟に送られた翌年(文久3・1863)、幕府は「攘夷宣言」をし、外国人の打ち払いを始めるという、大変矛盾した政策を執り始めました。
混迷する政局、幕府権威の失墜、「攘夷」と「開国」で激しく揺れる世の中…。その中で鉄舟は何を考え、いかに生き抜いたのか…。山本氏の研究は新たな展開を迎えます。今後の研究に期待が高まります。

最後に、山本氏からひとこと。
「来月からの鉄舟サロンは欠席できませんよ!」

(田中達也・記)

投稿者 lefthand : 23:07 | コメント (1)

2008年01月07日

泥舟と鉄舟武士道

泥舟と鉄舟武士道
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 世上、「幕末三舟」と称されるのは勝海舟、山岡鉄舟、それと高橋泥舟である。

 頭山満はその著「幕末三舟伝」(島津書房)の中で「幕臣中に、三舟あり。官軍中に南洲のごとき大器あり。相俟ってはじめて時局を収拾し、外侮をふせぐことが出来たので、もし凡人庸才が、この活舞台に登場したとすれば、維新の終局は、あれほど円満な解決をつげずして、いっそう混乱したかもしれない」と述べ、続けて「主家の安全を期し庶民の困苦を救い、すすんで尊王の至誠を披瀝しようとしても、周囲の守旧派がこれをさえぎっている。この際、一死を賭して、白刃の間を往来した態度は、尋常人の企て及ぶべきところでない」と、三舟によって明治維新の偉業が成り立ったことを高く評価している。

 この「幕末三舟」の一人、高橋泥舟について、この連載で触れることが少なかった。今回は泥舟について触れ、鉄舟との意味合いを考えてみたい。

 ところで、「幕末三舟」と称されるようになったのは、いつごろからであろうか。三舟が実際に活躍した幕末維新の変革・動乱時には「幕末三舟」と称されていなかった。もっとずっと時代が過ぎた頃と思われるが、その時期を松本健一氏はつぎのように推測している。

 「明治体制が憲法の発布や帝国議会の開設を終えて、いちおうの安定をむかえたあとで、さてそれでは、このように変革・動乱の時代をうまく乗り切れたのはだれのおかげか、と回顧的な眼差しを社会がもったときのことではないか、と推測される」(「高級な日本人」の生き方『新潮選書』)

 この推測の通りと思う。日清・日露戦争に勝利し、明治時代の体制が固まった頃に、改めてペリー来航から混乱時代を振り返ってみて、日本が躍進出来た最大の要因は、幕末・維新時に江戸無血開城という偉業を成し遂げたことだ、という共通の歴史観、それが定着したからこそ、維新の功績者として「幕末三舟」が再認識されたのだと思う。

 さらに付け加えれば、鉄舟が世を去り(明治二十一年)、一番年長の海舟が亡くなり(明治三十二年)、追うように泥舟が終えて(明治三十六年)、棺を蓋いて事定まる例えの通り、三人の働きを称え、幕末三舟と称されるようになったものと思われる。

 また、昭和三年(1928)、この年は明治維新から六十年にあたり、当時の東京日日新聞が「戊辰物語」の連載を始めたが、この時には「幕末三舟」の名声は既に知れ渡っていて、冒頭の頭山満著「幕末三舟伝」が出版された昭和五年(1930)あたりで、さらにしっかりと日本中に確立したと思われる。

 「幕末三舟」の一人泥舟は、幕末維新でどのような功業を挙げたのか。それを一言でいえば、将軍慶喜に対し、駿府の西郷への使者として鉄舟を推薦したことである。泥舟の推薦がなければ、歴史に鉄舟の登場はなく、鉄舟の駿府駆けがなければ、官軍と幕軍は戦火を交えて日本は混乱の極に達し、国が二分され、外国に占領されたかも知れない。

 つまり、泥舟の鉄舟に対する目利き力が、江戸無血開城の偉業を成し遂げた背景に存在していたのである。

 しかし、鉄舟の駿府掛けを海舟が鉄舟に命じたという説もある。その根拠は時の軍事総裁として、徳川側の実権を一手に握っていたことと、海舟が西郷に宛てた手紙を鉄舟が持参したということからである。

 だが、この海舟説には問題がある。その理由は、駿府駆け直前の海舟日記(慶応四年3月5日)に「旗本山岡鉄太郎に逢う。一見その人となりに感ず」とあるように、海舟は鉄舟とそれまで一面識もなかったわけで、突然に鉄舟を選ぶということには無理がある。また、鉄舟も自らの評判を「安房(海舟)は余が粗暴の聞えあるを以て少しく不信の色あり」(西郷氏と応接之記)と自ら記しているのであるから、時代を分ける重要な使者に、よく知らない鉄舟を海舟が指名することは難しいであろう。

 そこで、慶喜に鉄舟を推薦したのは泥舟であるという説になり、その根拠は慶喜と泥舟との信頼関係である。当時、泥舟は上野寛永寺大慈院に恭順・蟄居した慶喜の護衛頭として任命されていたように、当時の慶喜は泥舟の武道と忠誠心を高く評価し信頼していた。その上、ひたすら一室で恭順姿勢を示している孤独の立場であるから、この慶喜と会い接する人物は限られるわけで、当然、隣の部屋に護衛として詰めている泥舟との関係密度がさらに深まり濃くなっていく。このような状況下で泥舟が鉄舟を駿府駆け使者として慶喜に推薦し、信頼している泥舟からであったゆえに、鉄舟が選ばれたと考える。

 次に、泥舟が何故に慶喜から信頼され、護衛頭となったのかついて検討してみたい。実は泥舟は当時の幕府内で「異例の速さの出世」を遂げた人物だった。その要因の一つは人格識見が際立って優れていたことと、二つ目は講武所槍術師範役として天下無双名人であったということからであった。
泥舟は天保六年(1835)に小石川鷹匠町の山岡家に生れた。幼名山岡謙三郎、長じて忍斎と号し、泥舟と称したのはずっと後のことである。山岡家は禄高百俵二人扶持、この隣家の高橋家も禄高四十俵二人扶持、お互い下級旗本であった。高橋家は刃心流の槍術道場を兼ねていて、そこへ十七歳で養子に入って、安政二年(1855)二十歳で高橋家を継ぎ、勘定方に就いた。

 なお、鉄舟は泥舟の兄、山岡家当主靜山の死去により、小野家から婿養子に入って、泥舟の妹英子と結婚したので、泥舟と鉄舟は義兄弟となる。

 その泥舟は二十一歳の時、講武所が発足した際に槍術教授方となり、同年に新御番、二十二歳で御書院番として足高三百俵、二十五歳で講武所槍術師範役、二十六歳で御書院番と御小姓番の両御番の上席となり足高は千石。この地位は従来上流旗本の子弟に限られていた役職で、高橋家の家柄を考えると抜群の出世であった。さらに、講武所上席槍術師範役となり、二十七歳の時に奥詰之者取締御心得、これは桜田門外の変の時に増やした江戸城泊り武芸者の取締役であるが、この時に十四代将軍家茂の後見職一橋慶喜の警護頭にもなった。この時点で忠誠を励む泥舟との信頼関係が出来たと思われるが、さらに留守居役から徒頭上席へ進み将軍家茂の警護役となり、とうとう「従五位下伊勢守」という勅許を受け作事奉行上席に昇ったわけである。禄高四十俵二人扶持貧乏微禄旗本が、槍一筋で「従五位下伊勢守」である。戦国時代とは異なる封建階級体制下では、とても考えられないほどの出世であるが、これは泥舟の人格と槍とがいかに高く評価されていたかを示すものである。

 このように泥舟は破格の出世を遂げたのであるが、清河八郎が暗殺される事件があり、清河と親交深かった鉄舟の黒幕に泥舟がいたはずだと疑われ、二人は蟄居・閉門となった。だが、江戸城二の丸炎上時における火消し活動の働きによって本来の忠誠心が認められ、再び遊撃隊副頭として復帰したのであった。このあたりの経緯は、大変込み入っているので後日詳しく別号で展開したい。

 その後、将軍慶喜は大政奉還、鳥羽伏見の戦いの敗戦を経て、上野寛永寺大慈院に恭順することになり、選ばれて泥舟は慶喜の警護頭となり、結果として、鉄舟を官軍西郷への使者に推薦したわけであった。

 泥舟が破格の出世を遂げる一方、鉄舟は出世とは全く無縁であった。剣の道では「鬼鉄」と恐れられる武道修行、私生活では放蕩とも誤解される色道修行、対外的には清河八郎等の浪士との交わり、その上、出世と無縁のため収入は増えず極端な貧乏生活、これが泥舟の義弟で隣に住む鉄舟の実態であった。

 ところが、このような生活状態でありながら、既に見たように基礎的な人間修行のための考察をし続けていた。即ち、十五歳の時の「修身二十則」に始まり、二十三歳の時に「心胆練磨之事」「宇宙と人間」「修心要領」、続いて二十四歳の時に「武士道」を認め記しているのであって、ここが一般人とは人間の出来が違うところである。

 鉄舟は晩年、亡くなる一年前の明治二十年(1887)、門人らの求めに応じて武士道に関する講義をし、それが「山岡先生武士道講話記録」となり、明治三十五年(1902)に「故山岡鉄舟口述、故勝海舟評論、安部正人編纂、武士道」として出版された。これは現在「山岡鉄舟の武士道」(勝部真長編 角川ソフィア文庫)として見ることが出来るもので、一般に「山岡鉄舟の武士道」という場合は、この口述版を意味している。

 一方、武士道に関する書籍としては新渡戸稲造の「武士道」があまりにも有名である。この本は原題を「Busi-do,Soul of Japan」と言い、1900年(明治三十三年)にアメリカにおいて英文で出版された。その後日本語版が出版され、今日では世界中で読まれ学ばれている状況であって、日本の「武士道」と言えばこれを指し示すほどである。

 だが、この新渡戸稲造の「武士道」より十三年前に、鉄舟の武士道が口述されていることを見逃してはいけない。出版は確かに明治三十五年であるので、新渡戸稲造より遅いが、武士道を述べたのは鉄舟の方が早いのである。

 では、何故に明治二十年に講義したものが、十五年後に改めて出版されたのか。この疑問については、後日、新渡戸稲造の「武士道」との比較で詳しくその共通点と相違点について論じたいが、簡単に言えば新渡戸稲造が日本的道徳観を中心に述べているのに対し、鉄舟武士道は「エートスとしての日本武士道」を論じていること、つまり、武士ではない新渡戸稲造に対し、本物のサムライが語った「武士道」としての対比、それを意図した出版であったと推測する。また、その背景には明治時代の体制がほぼ固まり、「幕末三舟」のイメージも定着したタイミングであったことも影響していたと思う。

 しかしながら、もっとすごいことは、既に鉄舟は二十四歳の時に「武士道」を認め記していたという事実である。それは、晩年に講話した内容に遡ること二十七年前の万延元年(1860)であるから、新渡戸稲造の「武士道」が出版された時より四十年前にあたる。

 その上、「武士道」という文言表現を始めて名付けたのは鉄舟である、と自ら述べていることである。武士道ということは鉄舟が言い始めたのである。原文が読みづらいので口語体で以下ご紹介する。

 「わが国の人びとのあいだには、一種微妙な道の思想がある。それは神道や儒教でなく、また仏教でもなく、その三道が融和してできた思想であって、中古の時代から主として武士の階層においていちじるしく発達してきたのである。わたしはこの思想を武士道と呼ぶ。しかし、この思想が文書としてまとめられたり体系化されて伝えられているものは、これまで一度も見たことがなかった。要するに、人の世の移り変わりや、いろいろの歴史的経験によって、われわれの物の考えのなかにつくられた道徳の一種であるといえばよいだろう」(山岡鉄舟 剣禅話 『徳間書店』)

 全文は長いのですべてを紹介できないので、ご関心ある方は同書を御覧いただきたい。

 鉄舟は「修身二十則」から、この「武士道」に到達するまでの一連の基礎的努力と、その後の命を削るような修行によって明治十三年(1880)に開眼し、悟りの境地に達することによって、武士道精神を完成させ、その考察結果を講義したのであるが、正に鉄舟の一生は修行であった。

 鉄舟は、明治十三年に開眼し悟りの境地に達した際、このことを泥舟へ報告した。

 「それはお目出度い」と泥舟は膝を打った後

 「しかし、禅に引っかかってだいぶお手間をとられましたな」と言った。

 既に、泥舟は若き時代の必死なる槍術修行によって、はっきりと禅の道を究めていたという自負が、この泥舟発言背景であり、この会話に泥舟と鉄舟の人物像が示されている。

 泥舟は年若くして完成された人物であり、鉄舟は一生を通じて完成した人物であった。

 なお、泥舟は明治維新を機に一切の官職を断って、世間に埋もれてその後を生き、鉄舟は江戸無血開城を機に世に出、明治天皇の師父とも謳われるようになった。二人は明治維新を境に対比的な生き方をしたのであった。

 今、泥舟は谷中の長昌山・大雄寺の樹齢二百年の大くすのきの根本に眠っている。

投稿者 Master : 09:55 | コメント (3)