2013年09月25日

2013年9月開催結果

2013年9月例会は、以下のように報告・発表がなされました。

①高橋育郎氏から著書「実録新制中学『我等の木崎』」が産経新聞「芸術と地球」コーナーで推薦図書として紹介されたとの報告がなされました。

②永冨明郎氏から著書「遥かなり三宅島・吉田松陰『留魂録』外伝」が第16回日本自費出版文化賞の小説の部「部門賞」に選ばれたとの報告がなされました。

③山本紀久雄より「東海遊侠伝」その二を発表いたしました。
1.清水次郎長の評判は北原白秋作詞の「ちやっきりぶし」で「唄はちやっきりぶし、 男は次郎長」と謳われているように高い。

2.広沢虎造の浪曲「石松三十石船」の「寿司を食いねえ」「馬鹿は死ななきゃなおらない」などのフレーズで次郎長ブームがつくられた。

3.しかし実際は諸田玲子氏による日経新聞朝刊連載「波止場浪漫2013.8.27」に「次郎長は若いころ家をすてて渡世人になった。無宿者から堅気にもどり、清水へ落ちついたのはご維新の直前。明治19年に『東海遊侠伝』が世に出てからは子分の人気も高まった」と書かれているように、明治中期になってから人気が出た。

4.次郎長一家の江戸時代は、旅から旅への武闘派博徒集団で、最大の庇護者は三河寺津の間之助親分。今回、寺津を訪ね、間之助から四代目の
藤村真之介氏の自宅に伺い、いろいろお話を聞いた。前後五回次郎長は寺津に来ており、間之助親分の自宅裏の開墾地に隠れ部屋あったほど。

5.江戸時代の博徒は、幕府直轄・大名・旗本・寺社領などが入り組み取り締まりが緩い地域で自在に活動していた。

6.取り締まり網が一貫していた江戸には博徒の大親分は発生していない。火消しの新門辰五郎がいたのではないかという見解もあるが、新門辰五郎は「親方」と呼ばれ、博徒の「親分」とは異なる。

7.次郎長が鉄舟によって堅気となり「男は次郎長」と称されるほどに変身したのであるが、では何故に鉄舟は次郎長にそれほど肩入れしたのか。その解明がこれからのテーマとなる。

投稿者 Master : 06:52 | コメント (0)

2013年08月26日

2013年7月開催結果

2013年7月例会は、以下のように発表がなされました。

①永島豪郎氏 「鉄舟は王羲之の書からいかに学んだか?」

鉄舟の書法は「書法に就て」(鉄舟随感録)で自ら述べているように、
●十一歳時に高山で岩佐一亭から学び
●江戸に戻って王羲之を真似ること凡十余年
●護国寺で弘法大師の書に接し、以後大師の手蹟から学び
●結果として「書か画か判然すべからず」という鉄舟流を確立した
では、この鉄舟流とは、どのような書法から影響を受けているのか。?

それを永島氏は、具体的に鉄舟書「北別極延覧閑吟暢幽情」(ほくべつえんらんをきわみ かんぎんゆうじょうをのぶ)を事例に緻密に分析・紐解かれ、その結果、以下の如く一字一字が異なる書家の書体からそれぞれ影響を受けていると判断されました。

 
この永島氏の鉄舟書に対する検討・分析アプローチ方法、従来の鉄舟書研究分野では見られなかった新鮮なもので、鉄舟研究に大きな一石を投じるものであります。永島氏のご努力に深謝し、ご賢察に感謝申し上げます。

①木下雄次郎氏

木下氏からは、上記鉄舟書「北別極延覧閑吟暢幽情」一幅をご持参いただき、解読され、書かれた意図を次のように解説されました。

「北へ別れ行くを遥かまで見送りながら、静かに詩吟を口ずさめば心の奥深く沁み込んでくる。ポイントは延です。身をひく、引き下がるの意味があります。覧は古覧と書いて、往時を偲ぶといいます。往時を偲んで身を引くを、遥か彼方まで、静かな気持ちで送りだしたのは、誰か。江戸から見て北。水戸へ慶喜候を送ったように推測します。

なお、北には別の意味があるとのご意見もありましたので、調べてみますと、逃げる、背くの意味がありますので、当初、榎本武揚、もしくは幕府の落武者を送ったと思ったのですが、混乱の中、静かに送れないので、静かに心にしみるから、やはり慶喜候の送りのような気がします。

最期の最期まで、忠義をつくす気持ちがあらわれています。ここまでの忠義をつくした家臣はみあたりません。そんな鉄舟の心の奥底を示す書です。

藤原印がありますので、明治天皇侍従となった以降に書いたとすれば、誰かに裏切り者と言われた人へ、自分の忠義を語るために書いたようにも思われ、反論することなく、一筆で応えた鉄舟らしい書と眺め感じ入っています」

このように今回も見事な解説で、いつもながら感服するばかりでした。

②山本紀久雄

「東海遊侠伝」に描かれた幕末時の清水次郎長、道楽で身をもちくずし、喧嘩の果てに博徒家業になり、斬った張ったの無宿者、子分も少なく、縄張りも僅かで、インチキ博打を打つ、当然ながら世間からの評判はよくなかった。

また、時は幕末、ペリー来航もあって幕府崩壊へ向かう政情混乱期、支配秩序の隙間を縫って無宿者の博徒が堂々と世に躍り出た時代、次郎長と並び称されるか、次郎長を超えていた実力派の博徒が多く輩出した。

飯岡助五郎、笹川繁蔵、国定忠治、津向文吉、竹居安五郎、勢力富五郎、黒駒勝蔵等であるが、これら有力実力派の大親分博徒を抑え、次郎長が明治維新以後「海道一の親分」と称されるまでに大変化したわけです。

その大変化要因は、一にも二にも鉄舟の知遇を得たことであるが、明治天皇侍従で、当代一流の人物である鉄舟が、何故にこのように次郎長を贔屓にしたのか。

その第一回目の分析を時代背景と絡めて発表いたしました。

投稿者 Master : 09:45 | コメント (0)

2013年05月25日

2013年5月開催結果

 2013年5月例会は永冨明郎氏から「吉田松陰」をご発表いただきました。

長州藩士、思想家、教育者、兵学者、地域研究家、明治維新の精神的指導者・理論者として知られている吉田松陰の実像というテーマは重要ですので、5月は前半という位置づけでお願いし、6月に後半をご発表いただくことにいたしました。

なお、永冨氏は吉田松陰について以下の著書二冊を出版されておられます。
  『武蔵野留魂記=吉田松陰を紀行する』(平成21年)
  『遥かなり三宅島=吉田松陰「留魂録」外伝』(平成23年)

5月のご発表は、まず、吉田松陰を論ずるにあたっては、「幕末という時代」について、もう一度整理し分析する必要があるとの見解から、以下の二項目について、一般的に理解されている常識的見解とは異なる指摘を展開されました。

 1)徳川幕藩体制の限界
         内政面           外交面
      コメ本位制の限界        鎖国制度の限界
     幕・藩・家・財政破綻       国家存亡の危機感
    「改革」=下層の発言力アップ   通商開設によるインフレ拡大
          → 現体制への不満・危機感 ←

 2)明治維新はイデオロギーで考えると混乱する
   ・「尊皇攘夷論」は当時の文化人共通の「常識」
   ・幕藩体制への危機感 → 幕府に代わる政権・政体の樹立志向
  ・不満・危機感の藩ごとの温度差 → 戊辰戦争
   ・明治になって「尊皇政権」の脚色(勝者の歴史観)
 
この永冨氏の見解について、活発なディスカッションがなされ、充実した例会でした。引き続いて6月も「吉田松陰」という人物の本質についてご発表されます。永冨氏の鋭い指摘に期待し、皆さんとディスカッションしたいと思います。

投稿者 Master : 11:21 | コメント (0)

2013年04月26日

2013年4月開催結果

2013年4月開催結果

4月例会開催は「鉄舟・海舟所縁のお江戸史跡巡り」を4月20日(土)に開催しました。あいにくの冷たい小雨の天候でしたが、30名のご参加をいただき、皆さん元気に本所・両国界隈の史跡を歩き終えました。

矢澤昌敏氏の緻密な事前調査と詳細な資料と地図にもとづく解説、併せて、元墨田区立緑図書館職員の松島茂氏から補足説明を賜り、5月15日例会でご発表される永冨明郎氏からも補説をいただき、さらに、講談師田辺一乃さんによる吉良邸での一席など、史跡多き墨田区の魅力をじっくり、存分に堪能いたしました。
また、寒い中、歩いた後は「相撲茶屋 ちゃんこ 江戸沢」で懇親会を楽しみました。
ご参加の皆様にお礼申し上げますと共に、次回の矢澤氏による江戸史跡巡り企画をお楽しみにお待ち願います。

              国技館前にて
歩いたコース
●伊藤左千夫牧舎兼旧居跡(小説「野菊の墓」の作者)⇒ (京葉道路) ⇒ 新燧社(シンスイシャ)跡(国産マッチ発祥の地) ⇒ 【入江町】勝海舟旧居跡(勝海舟揺籃(ヨウラン)の地?) ⇒ 山岡鉄舟旧居跡 ? ⇒ (三ッ目通り) ⇒ 【三笠町】新徴組屋敷跡 ⇒ (蔵前橋通り・区役所通り) ⇒ 【吉岡町】栗本鋤雲(ジョウン)旧居跡 ⇒ 三遊亭圓朝旧居跡 ⇒ (南割下水:北斎通り) ⇒ 葛飾北斎生誕の地 ⇒ 野見宿禰(ノミノスクネ)神社 ⇒ 津軽家上屋敷跡 ⇒ 江川太郎左衛門屋敷跡(英龍終焉の地) ⇒ 岡内重俊旧居跡 ⇒(北斎通り・清澄通りを南下し、京葉道路を横切り)⇒ 【亀沢町】勝海舟生誕の地 ⇒ 尺新八(セキシンパチ)の共立学舎跡 ⇒ 【松坂町】吉良邸跡・本所松坂町公園(吉良邸正門跡・鏡師:中島伊勢住居跡・吉良邸裏門跡) ⇒ 回向院 ⇒ 【元町】与兵衛鮨発祥の地⇒ 旧両国橋・広小路跡 ⇒ (一の橋通り)⇒【横網町】百本杭の跡 ⇒ 御蔵橋跡 ⇒ 舟橋聖一生誕の地 ⇒ 本所:御米蔵跡(御竹蔵跡)⇒ JR総武線:両国駅西口●




 
 なお、最大の史跡巡り関心事である「山岡鉄太郎生誕地」はどこか? 「俺の師匠」(小倉鉄樹)によれば
 「師匠の生まれたのは天保七年六月十日、本所大川端四軒屋敷の官邸である」
とあります。それを古地図で見ますと四軒屋敷は以下となります。
 
上の古地図は「復元 江戸情報地図」(朝日新聞社)です。この上に⇒したところが「御蔵奉行」であり、古地図の下地に現代の地図が描かれていて、それを見ることでおおよその位置が分かるようになっています。コピーでは鮮明に分かりませんが「国技館北」と「新藤写真製版」とあるあたりとなり、ここが鉄太郎の生まれた四軒屋敷跡と判断できます。

投稿者 Master : 06:10 | コメント (1)

2013年03月25日

2013年3月開催結果

2013年3月開催結果
 
3月は山本紀久雄が担当いたしました。

①歌舞伎「将軍江戸を去る」DVD映写
俳優・香川照之が九代目「市川中車」を昨年襲名し、その襲名披露歌舞伎興行として昨年7月新橋演舞場において、演目「将軍江戸を去る」(真山青果作)が上演されました。その舞台で市川中車は鉄舟を演じ、中でも「上野寛永寺大慈院で将軍慶喜と鉄舟との激論」、それは「勤皇論」と「尊王論」を巡る応酬ですが、これが圧巻見もので参考になりますので、皆様にDVDでご紹介いたしました。

なお、2013年5月3日から27日まで明治座「五月花形歌舞伎」における夜の部で、再び「将軍江戸を去る」が上演されます。鉄舟役は「中村勘九郎」です。

②明治天皇と鉄舟の関係

この関係については、一般的に相撲を取ったなどという逸 話で語られることが多いのが実態です。
この一年間、鉄舟が明治天皇に及ぼした影響について、毎月お伝えしてきましたが、ようやく真相と考えられる内容が解明出来ましたので、最後のまとめを行いました。

まず、明治天皇が好きだった三人の武人、西郷、鉄舟、乃木について、その検討順序を西郷⇒鉄舟⇒乃木ではなく、乃木⇒鉄舟⇒西郷の順で行って、解明への手かがりを「しみじみ日本・乃木大将」(井上ひさし作品・蜷川幸男演出)の舞台、そこで交わされた「乃木将軍は明治大帝とのお約束をお守りになって、武人の型の完成のために、自決を決心なさっております」という言葉からヒントを得ました。

次に、西郷と鉄舟と乃木は家来⇒主君・主家に仕える者、古くは家礼・家頼、鎌倉武士たちが連れて歩いた郎党・郎従、家ノ子といわれる存在にちかいものと推考・判断し三人の明治天皇に与えた影響は
 西郷・・・元帥としての心構えを伝えた
 鉄舟・・・人間の骨格(こつがら)を伝えた
 乃木・・・西郷と鉄舟亡き後の古格武士規範を示した

という結論で明治天皇と鉄舟の関係を締めくくりました。

投稿者 Master : 11:14 | コメント (1)

2013年02月26日

2013年2月開催結果

2013年2月開催結果

木下雄次郎氏からご発表いただき、新鮮な驚きの時間を過ごしました。
まずは、次の鉄舟書による「漢詩屏風」写真をご覧ください。

屏風には、韋應物(735?-790?) の五言詩「擬古詩十二首」の(一)と(九)が書されています。

(一)辭君遠行邁,飲此長恨端。已謂道里遠,如何中險艱。
流水赴大壑,孤雲還暮山。無情尚有歸,行子何獨難。
驅車背鄉園,朔風卷行迹。嚴冬霜斷肌,日入不遑息。
憂歡容髮變,寒暑人事易。中心君詎知,冰玉徒貞白。

(九)春至林木變,洞房夕含清。單居誰能裁,好鳥對我鳴。
良人久燕趙,新愛移平生。別時雙鴛綺,留此千恨情。
碧草生舊迹,綠琴歇芳聲。思將魂夢歡,反側寐不成。
攬衣迷所次,起望空前庭。孤影中自惻,不知雙涕零。

韋應物とは中国、中唐の詩人。蘇州刺史となり善政を行なったので韋蘇州 と呼ばれる。五言詩を得意とし、その詩風は陶淵明に似る。王維・孟浩然・柳宗元と並び称された。(三省堂 大辞林)

以前から、木下氏が寝室に屏風を立て、その間で寝ていると、時に鉄舟からの信号が届くというお話はお伺いしていましたが、2月例会に自宅から実物をご持参賜り、会場に展示いただいたわけです。

この鉄舟書「漢詩屏風」一双は、全長8メートルに及ぶ壮大なものでして、実際に目の前で拝見し、その得も言われぬ見事さを鑑賞しつつ、木下氏の文字読み解き解説をお聞きしていると、これは大変な方だと、改めて感じ入った次第です。

今まで長いこと鉄舟研究しておりますので、多くの書家に会っていますが、ここまで鉄舟書について読み解け、その背景まで語られる人物には出会っておりません。

とにかくビックリで、さすがというのが、2月例会の報告であり感想です。

1月例会でも、木下氏には日清戦争と西南戦争のまき絵二巻、それぞれ全長10メートル以上もある貴重な古美術品をご持参賜り拝観しまししたが、又と無い素晴らしい機会を二カ月続けていただき、木下氏に深く感謝申し上げます。

投稿者 Master : 11:11 | コメント (0)

2013年01月25日

2013年1月例会開催結果

2013年1月開催結果

末松正二氏と木下雄次郎氏からご発表いただきました。

最初に末松氏から日清戦争の歴史解説を、資料と地図を以て分かりやすく的確に展開いただきました。この前提理解のもとに木下氏にご持参賜りました日清戦争と西南戦争のまき絵二巻、それぞれ全長10メートル以上もある貴重な古美術品を拝観しますと、その魅力が一段と増し、描かれた状況がよくわかり、又と無い素晴らしい機会でした。

お二人に深く感謝申し上げます。

投稿者 Master : 05:25 | コメント (0)

2013年1月例会開催結果

2013年1月開催結果

末松正二氏と木下雄次郎氏からご発表いただきました。

最初に末松氏から日清戦争の歴史解説を、資料と地図を以て分かりやすく的確に展開いただきました。
この前提理解のもとに木下氏にご持参賜りました日清戦争と西南戦争のまき絵二巻、それぞれ全長10メートル以上もある貴重な古美術品を拝観しますと、その魅力が一段と増し、描かれた状況がよくわかり、又と無い素晴らしい機会でした。

お二人に深く感謝申し上げます。

投稿者 Master : 05:22 | コメント (0)

2012年12月25日

2012年12月開催結果

2012年12月開催結果

12月は北村豊洋氏と近藤勝之氏にご発表いただきました。
①北村豊洋氏

前月に続く漢字ついての考察で、今月は「日本の書の流れと特質2」をご発表いただきました。この中で特に興味深かったのは「日本書道の中心的書風として御家流と呼ばれた和様が、明治維新後、唐様にがらりと変化」したという歴史的背景分析でした。
書がそれぞれ時代を表現していることを、改めて認識させられた鋭い内容に納得いたしました。

②近藤勝之氏

鉄舟につきまして長く研究されておられる近藤氏から、今まで一般に公表されていない資料を公開していただきました。
 
● 明治21年7月の鉄舟先生手術の下書き紙
 ● 備忘録・明治21年2月11日より(全生庵蔵)
 ● 伊助療治記録(全生庵蔵)
 ● 無刀流発明の経緯書(明治13年6月)
 ● 一刀正傳無刀流門人証
 ● 剣術稽古出席簿(全生庵蔵)
 ● 署名入り(11歳時)千字文(和綴じ)
 ● 山岡鐵太郎名刺
 ● 三河住人小野浅衛門(小野家元祖注文名入り)刀
    慶長18年(1613)12月21日平安城安廣作
    刀身に家康、家光3代に 仕えた国学者林道春(林羅山)
の筆彫で命者依義軽と彫有 (命は義より軽い)

鉄舟は文章を書くに当って全て下書きをしましたが、そのひとつの下書きである明治21年7月の日付のもの、絶筆では無いが最後のものと考えられるものから驚くべき事実、それは胸部の手術を受けていたということの判明には驚きました。

今までの鉄舟関係資料では触れられていないもので、近藤氏がこの下書きを入手された経緯を含めご発表いただきましたが、誠に興味深いもので、実際に鉄舟が書いた現物からの考察に感じ入った次第です。

また、その他下書き・鉄舟書を含め多くの現物資料を入手され、ご苦労され解明された重要な内容について分かりやすく解説いただきました。

我々に最も不足している鉄舟に関する現物資料の数々、やはり物事は現物確認が一番であると、反省し、再認識いたした次第で、近藤氏に深く感謝申し上げます。

投稿者 Master : 08:10 | コメント (0)

2012年12月開催結果

2012年12月開催結果
12月は北村豊洋氏と近藤勝之氏にご発表いただきました。

①北村豊洋氏
前月に続く漢字ついての考察で、今月は「日本の書の流れと特質2」をご発表いただきました。この中で特に興味深かったのは「日本書道の中心的書風として御家流と呼ばれた和様が、明治維新後、唐様にがらりと変化」したという歴史的背景分析でした。
書がそれぞれ時代を表現していることを、改めて認識させられた鋭い内容に納得いたしました。


②近藤勝之氏
鉄舟につきまして長く研究されておられる近藤氏から、今まで一般に公表されていない資料を公開していただきました。

 ● 明治21年7月の鉄舟先生手術の下書き紙
 ● 備忘録・明治21年2月11日より(全生庵蔵)
 ● 伊助療治記録(全生庵蔵)
 ● 無刀流発明の経緯書(明治13年6月)
 ● 一刀正傳無刀流門人証
 ● 剣術稽古出席簿(全生庵蔵)
 ● 署名入り(11歳時)千字文(和綴じ)
 ● 山岡鐵太郎名刺
 ● 三河住人小野浅衛門(小野家元祖注文名入り)刀
    慶長18年(1613)12月21日平安城安廣作
    刀身に家康、家光3代に 仕えた国学者林道春(林羅山)
の筆彫で命者依義軽と彫有 (命は義より軽い)

鉄舟は文章を書くに当って全て下書きをしましたが、そのひとつの下書きである明治21年7月の日付のもの、絶筆では無いが最後のものと考えられるものから驚くべき事実、それは胸部の手術を受けていたということの判明には驚きました。

今までの鉄舟関係資料では触れられていないもので、近藤氏がこの下書きを入手された経緯を含めご発表いただきましたが、誠に興味深いもので、実際に鉄舟が書いた現物からの考察に感じ入った次第です。

また、その他下書き・鉄舟書を含め多くの現物資料を入手され、ご苦労され解明された重要な内容について分かりやすく解説いただきました。

我々に最も不足している鉄舟に関する現物資料の数々、やはり物事は現物確認が一番であると、反省し、再認識いたした次第で、近藤氏に深く感謝申し上げます。

投稿者 Master : 08:06 | コメント (0)

2012年11月17日

2012年11月開催結果

2012年11月開催結果についてご案内申し上げます。
    
11月は多彩なご発表が続きました。
① 北村豊洋氏
漢字ついての考察を「漢字起源」「日本における書の流れ・特質」「近代日本の漢字政策」に分類され、分かりやすい内容にまとめていただきました。日ごろ何気なく書き読みしている漢字を、改めて考えさせられた貴重な機会でした。

② 末松正二氏
世にいう「征韓論」、当時の韓国は「李氏朝鮮」「朝鮮李王朝」でありましたから、本来ならば「李氏朝鮮へ西郷大将を全権大使として派遣する問題」というべきものとの疑問を9月例会で問いました。

その疑問ついて末松氏が「神功皇后の三韓征伐」「幕末の国学思想」「尊王攘夷思想」との関連、それと西郷の「大アジア主義」から「満州事変の石原莞爾」にまで検討され、「征韓論」と称される根拠を整理していだき、成程と認識いたしました。

③ 木下雄次郎氏
勝海舟書の掛け軸と東郷平八郎書、それと海舟の書コピー二軸をご持参いただき、それぞれ想像心をかきたてられる説きおこしに加え、時代背景をとりいれた指摘を的確にされ、さすがに偉人の書は違う、格式と奥行きがあるものだと、認識を新たにいたしました。

中でも、東郷平八郎書は明治天皇御製を「座右の銘として深く尊び」明治38年日露開戦バルチック艦隊撃破後に書したものと推察され、木下氏が日ごろから心懸けられている「心の位取り」が見事に顕れている書である、との指摘に唸りました。

「雲の上に立ち、さかえたる山松の、たかきにならへ、人のこころも」

木下氏の掛け軸への姿勢、それはこの書は「我々に何を伝えようとしているのか」という問いから発し、その背景を推考し、当時の歴史事実を追及する「掛軸とのコミュニケーションストーリー」に基づき展開されますが、9月に続いて再び感服させられました。

なお、新たな企画として、来年はご所有の「西南戦争絵巻」「日清戦争絵巻2巻」「憲法発布図の錦絵」について順次解説と背景についてご検討いただきたく考えておりますので、皆様ご期待願います。

④ 山本紀久雄
引き続いて検討している「明治天皇と鉄舟について」以下の項目で解説いたしました。

 ●明治天皇すり替え説
 ●西郷辞任から明治十年当時の日本の状況
 ●明治天皇が引きこもり・ ウツ状態となり

そこからどのように脱皮したかの三説、「ドナルド・キーン氏見解」「伊藤之雄氏見解」「飛鳥井雅道氏見解」を述べ、これ等とは異なる「鉄舟の影響を受けて脱皮」という山本紀久雄の見解を展開いたしました。

司馬遼太郎等の識者がいう「鉄舟の明治天皇への影響」についての背景と要因については、ほぼ解明できたと考えており、今後はその深みと明治天皇を支えた精神的支柱としての西郷、鉄舟、乃木希典という系譜について考察して参ります。

投稿者 Master : 18:02 | コメント (0)

2012年10月30日

2012年10月開催結果

10月27日(土)に「鉄舟・泥舟・静山所縁のお江戸史跡巡り」を開催し、東京メトロ丸ノ内線の茗荷谷駅13:30に30名の方、石川、新潟、静岡からもご参加いただきました。

早速に播磨坂・小石川鷹匠町の鉄舟・泥舟旧居跡に向かいます。


 
矢澤昌敏氏が事前に作成された緻密な解説資料と、山岡家・高橋家の系図、それと江戸時代の古地図に基づき、的確な説明が現場でなされ、ご参加の皆さんから「素晴らしい、参考になる」という称賛の言葉です。
さらに、天候にも恵まれ、歩いた文京区の史跡は、都心でありながら、静かで緑豊かな環境が続き、さすがに「文の京」なのかと納得しました。

(傳通院での記念撮影と、歩いたお江戸史跡巡りコース)


【播磨坂】 桜並木 ⇒ 【小石川鷹匠町】 高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡 ⇒ 極楽水 ⇒ 宗慶寺 【吹上坂】⇒ 【小石川金杉水道町】 小野鉄太郎旧居跡 ⇒ 手塚良仙旧居跡 【三百坂】 ⇒ 浪士隊結成の地「処静院の跡」 ⇒ 傳通院(処静院跡の石柱、清河八郎の墓:貞女阿蓮の墓、祥道琳瑞和上の墓など) ⇒【善光寺坂】 幸田  露伴宅跡・沢蔵司稲荷 ⇒ 【白山通り~蓮華寺坂】 ⇒ 【小石川指ヶ谷町】蓮華寺(山岡鉄舟建立山岡家累代の墓:静山)
以上のコースにおまけとして、傳通院では「千姫の墓」、眠狂四郎・円月殺法の「柴田錬三郎の墓」、丸山福山町の「樋口一葉終焉の地」もご案内いただき、皆さん大満足の歴史散策のひと時でした。
 
     傳通院・千姫の墓               
傳通院・柴田錬三郎の墓
なお、ご希望の方での懇親会も和気あいあい、史跡巡りの話題で楽しく過ごしました。
今回の史跡巡りを企画され、周到な事前準備をしていただきました矢澤氏に深謝申し上げ、併せて、ご参加の皆様のご協力に感謝いたします。

投稿者 Master : 10:04 | コメント (1)

2012年09月23日

2012年9月開催結果

2012年9月開催結果

① 矢澤昌敏氏   

10月27日開催例会の「鉄舟・泥舟・静山所縁のお江戸史跡巡り」を、ご案内いただきました。今まで知らなかった史跡を含め、楽しみな内容になっております。これにつきましては別途ご案内しておりますので、ご出席をご予定される方はFAX連絡にてお願いいたします。

② 木下雄次郎氏
   
寛政の改革・松平定信書の掛け軸二軸ご持参願い、解説していただきました。一軸は「老中就任時のもの」、もう一軸は「失脚時に詠んだもの」。木下氏は掛け軸と向かい合う場合、この書は「我々に何を伝えようとしているのか」という問いから発し、その背景を推考し、当時の歴史事実を追及することで、掛軸とコミュニケーションをとることが、大事で必要な要件であると、鋭く、分かりやすく、納得感のある解説を展開され、その内容に大変感服いたしました。

11月例会時にも、新たな掛け軸をご持参いただき、同様の解説をいただきますので、ご期待願います。

 ③ 山本紀久雄

明治天皇の心の深化に鉄舟が如何に影響を与えたのかについて、以下の項目について解説し、併せて「七月大歌舞伎に鉄舟が登場」と「最近の政治状況から推察できること」について少々補足説明いたしました。

  1.韓国は「国書・親書を返す国」
  2.征韓論で西郷隆盛下野
  3.岩倉使節団欧米視察で岩倉、大久保、木戸の国造り構想が異なった
  4.留守を預かった西郷政権が明治天皇に与えた影響
  5.西郷と鉄舟の天皇に対する対応の違い

投稿者 Master : 08:53 | コメント (1)

2012年08月25日

2012年7月開催結果


2012年7月開催結果

Ⅰ.末松正二氏のご発表

7月例会は、最初に末松正二氏から
「明治38年(1905)ポーツマス条約(日ロ講和条約)の背景と意義、その後現代にまで与えた影響」
についてご発表いただきました。いつものように末松氏のご発表は、十分な調査に基づく貴重な内容で感服いたしましたが、特に印象に残った項目は次の三点でした。

①明治37年(1904)2月4日の御前会議で対露開戦が決定され、明治天皇の開戦反対、早期講和の意向を熟知している元老伊藤博文は、金子堅太郎を当日招き、渡米して、アメリカの世論工作と金子のハーバード大学の同窓生で親しいルーズベルトに秘密裏に講和斡旋を依頼して欲しいと命じた。明治38年(1905)6月1日時点で、日本は戦争継続限度と判断し、講和をルーズベルト大統領に申し入れ、同大統領は駐露大使ジョ―ジ・マイヤーにロシア皇帝への説得を伝え、6月9日に日露両国に対し、講和交渉開催を提案した事から調印に至ったが、このような高度な外交政策を展開した伊藤博文以下と、太平洋戦争当時の政治家を比較すると、残念ながらその差が歴然としている事を再確認できる。

②明治38年(1905)9月5日に講和条約調印となったが、講和内容に国民が激怒し、全国的な反対運動が盛り上がり、特に日比谷焼き討ち事件が有名で、戒厳令まで出された。このポーツマス講和条約は日本の国力からみて、絶好のタイミングで締結された大成功の条約締結でしたが、政府側は極めて大きな将来に禍根を残すミスを犯した。一つは、日露戦争は大勝利だったと国民を熱狂させたままで、実は戦争継続の余力が全く無くなっていることを説明しなかった事です。加えて日露戦史編纂で「軍の内情機密、勤務上機密、捕虜虐待、旅順の戦いの記載禁止など」で、正確な情報を伝える事をしなく、この当時から情報隠蔽が行われていた事がわかりました。

③日露戦争の戦費は外債発行と、ユダヤ系金融業者クーン・ロープ商会の支配人シフの「日本を好きで貸したのではない。同胞を苦しめるロシア帝政を懲らしめ、大変革を望むので日本に貸したのだ」という背景で調達できましたが、この件について友人のユダヤ系アメリカ人から、祖父母がロシアから逃れた経緯を聞いていましたので、末松氏のご発表に頷くところ大でした。
末松氏の鋭い的確なご発表に感謝いたします。

Ⅱ.矢澤昌敏氏のご発表   

矢澤氏から10月27日開催「鉄舟・泥舟・静山所縁のお江戸史跡巡り」ご案内をいただきました。今まで知らなかった史跡を含め、楽しみな内容になっております。これにつきましては以下の通りでございますので、ご出席をご予定される方はFAX連絡にてお願いいたします。


「鉄舟・泥舟・静山所縁のお江戸史跡巡り」

1.今回は、小野鉄太郎(後の山岡鉄舟)が、裕福なる
少年時代を過ごした飛騨高山から、一転 貧乏旗本と
して、約20年間(嘉永5年:1852年 ~ 明治5年:
1872年)江戸:小石川で暮らした所縁の地を訪ね、
当時の江戸の面影を探る機会になればと企画しました。
 その歴史的背景や混迷の時代を生きた幕末の鉄舟・
泥舟・静山、そして 清河八郎などを偲びたいと思いま
す。 見どころ多く、お楽しみになれます。

2 開 催 日    平成24年10月27日(土)13:30~16:30

3.集合場所    東京メトロ丸ノ内線「茗荷谷駅」改札口 13:30
      
4.コ ― ス    今般、距離的には約4.5kmですが、坂の多い処だけ
          に足元の準備をしっかりとお願いします。

【播磨坂】 桜並木 ⇒ 【小石川鷹匠町】 高橋泥舟・
山岡鉄舟旧居跡 ⇒ 極楽水 ⇒ 宗慶寺 【吹上坂】
⇒ 【小石川金杉水道町】 小野鉄太郎旧居跡 ⇒ 
手塚良仙旧居跡 【三百坂】 ⇒ 浪士隊結成の地
「処静院の跡」 ⇒ 傳通院(処静院跡の石柱、清河
八郎の墓:貞女阿蓮の墓、祥道琳瑞和上の墓など) ⇒
【善光寺坂】 幸田露伴宅跡・沢蔵司稲荷 ⇒ 
【白山通り~蓮華寺坂】 ⇒ 【小石川指ヶ谷町】
蓮華寺(山岡鉄舟建立山岡家累代の墓:静山)
:此処で、一応 解散しますが、最寄りの駅は都営
三田線「白山」駅(A1出口)まで約3分です。

*** 皆様、お疲れ様でした ***

♠ ♠ ♠ 此処からは、希望者のみでの懇親会 ♠ ♠ ♠

5.懇 親 会     17:00開催予定で約2時間、会場は都営三田線:
             白山駅近くの「居酒屋」を予定しています。
            会費的には、4,000円程度
            会場の場所などは、後日 決定次第 ご案内を申し
            上げます。

6.お申込み・お問合せ
         下記の参加申込書にご記入の上、FAXにて送信し
てください。
担当:矢澤昌敏  TEL:090-6021-1519
E-mail:info@tessyuu.jp

                                    
参加申込書      
鉄舟・泥舟・静山所縁のお江戸史跡巡り(平成24年10月27日開催)に出席します
お  名  前
緊急のご連絡先(携帯電話など)
懇親会へのご参加 参加します    参加しません
申込締切:10月18日(木) FAX送信先:0480-58-5732(矢澤)


Ⅲ.山本紀久雄の発表

明治天皇の心の深化に鉄舟が如何に影響を与えたのかについて、以下のご項目について、系図・図を使用してご説明しました。

①悠(ひさ)仁(ひと)親王はご誕生時において皇位継承第三位となられている

②天皇家系図を説明し、万世一系を守るための孝明天皇の祖父である光格天皇即位の状況

③明治天皇は祐宮(さちのみや)としてご誕生、睦(むつ)仁(ひと)親王になられたのは九歳

④明治天皇は子供に不運だった

⑤維新の三傑の相次ぐ死も明治天皇に大きな打撃を与え、いよいよ鉄舟の精神家として力量が明治天皇に影響していくタイミングになった
木戸孝允・・・明治十年1887年五月病没
西郷隆盛・・・明治十年九月西南戦争で戦死
大久保利通・・明治十一年五月暗殺死

投稿者 Master : 05:53 | コメント (0)

2012年06月26日

2012年6月開催結果

2012年6月開催結果

6月は山本紀久雄から「明治天皇と鉄舟」について、以下の内容で発表いたしました。

①はじめに、明治天皇が巻き込まれ明治24年のロシア・ニコライ皇太子大津事件、実はニコライ皇太子の来日目的が刺青であり、また、明治14年の英国皇太子来日も刺青であり、それと現在の大阪市職員の入れ墨問題とつながっている背景経緯について解説いたしました。世の中は思わぬところで関わりがあるという因縁話です。

②次に、明治天皇は我々と異なる別次元の天皇としての必須条件を深化させて、ついに「明治大帝」と言われるまでになられましたが、その背景には、我々と異なる別次元に存在するお立場、つまり、「万世一系」と「王政復古の前提条件の整備」について解説いたしました。

③この別次元という存在である明治天皇については、その内容をさらに考察しないと、鉄舟との関係を明らかに出来ませんので、来月も継続して検討することにいたしました。

投稿者 Master : 06:41 | コメント (0)

2012年05月27日

2012年5月例会開催結果

5月は高橋育郎氏と山本紀久雄が発表いたしました

高橋氏は童謡作詞家で「心のふるさとを歌う会」主催者であり、今年の8月26日にドイツ・カールスルーエ独日協会合唱団「フリーゲル」との合同合唱会を、日本橋社会教育会館で開催いたします。

また、この機会に併せて8月25日には千葉県館山市南総文化ホールにて、「フリーゲル」の合唱団の公演が開催されるにいたった経緯と、その背景に存在する生涯現役理念についてご発表いただきました。
我々は「生涯現役」を目指す仲間でもあり、ご参加の多くの方が高い関心を示されました。
以下に高橋氏のご発表の内容を掲載しておりますのでご参考に願います。
http://www.tessyuu.jp/archives/2012/05/post_359.html#more
 

山本紀久雄からは、以下の内容について発表いたしました。
● 「フェリーチェ・ベアトの東洋」展で展示された「窪田泉太郎」の写真について東京都写真美術館からの回答内容
● 信仰的攘夷思想と自覚的攘夷思想の区別とその事例
● 自覚的攘夷思想者はどのような時にその思想を変えるか。その事例として井上聞多(馨)と伊藤俊輔(博文)と佐久間象山を分析
● では明治天皇はその思想を変えたか、これは次回になりました

投稿者 Master : 12:14 | コメント (1)

2012年05月01日

2012年4月開催結果

4月開催結果と2012年5月開催についてご案内申し上げます。
    
1.2012年4月開催結果
 最初に現在、東京都写真美術館で開催されている「フェリーチェ・ベアトの東洋」展の紹介と、この会場に清河八郎暗殺犯の一人「窪田泉太郎」の写真が展示されていますので、窪田と鉄舟の因縁関係について解説いたしました。

 上の写真は長崎大学付属図書館の収蔵写真ですが、タイトルは「「甲冑を着けた武士」となっています。ところが、今回のベアト展では「窪田泉太郎」と個人名で表示・明確化しました。

「窪田泉太郎」となれば鉄舟と関係があります。泉太郎の父は窪田冶部右衛門であって、清河・鉄舟の「虎尾の会」の盟約者。その息子の泉太郎は清河が横浜焼き打ち計画をつくり、横浜へ下見に行った時の神奈川奉行所組頭。

そこで、清河は冶部右衛門を通じ泉太郎に紹介状を書いてもらい、鉄舟と斎藤熊三郎(清河の弟)、西恭介の四人で横浜に出かけております。

しかし、何故にこの泉太郎が清河暗殺団の一員に加わったのか、それについては山岡鉄舟会ホームページ2010年4月「鉄舟研究・清河暗殺・・・其の三」をご覧いただきたいと思います。

http://www.tessyuu.jp/archives/2010/04/post_297.html

なお、写真タイトルの変更経緯につきまして、東京都写真美術館に詳しい内容をお聞きしましたので、5月例会でお伝えいたします。

次に、3月特別合宿例会で、川上貞雄氏から紹介された佐久間象山の直筆長文書翰、これは吉田松陰の海外渡航事件と、ジョン万次郎にも関わる考察を入れて、安政元年(1854)に幕府要人に差し出したものですが、この書翰は思想家としての象山が辿った思索の足跡を示す重要なものです。

つまり「象山があるときは鎖国を主張し、あるときは和親に転じ、あるときは開国に転じたように、情勢の急激な展開にともなって、さまざまな思想変化を示す切っ掛けとなった」もので、ドナルド・キーン氏が「晩年の明治天皇が示した態度を分析すると、幕末時代に佐久間象山が唱えた『東洋の道徳と西洋の科学の結合』が特徴づけられる」と判じていることへつながっている経緯についても解説いたしました。

投稿者 Master : 11:29 | コメント (0)

2012年03月24日

2012年3月例会開催結果

3月例会開催結果についてご案内申し上げます。
    
3月17日(土)18日(日)二日間の特別合宿例会は、16名のご参加で、新潟県阿賀野市出湯(でゆ)温泉の川上貞雄氏邸にて開催いたしました。

17日14時30分新潟駅に集合。川上貞雄氏のお出迎えを頂き、小雨の中、宿泊する清廣館のバスにて瓢湖に向かいました。瓢湖は寛永年間につくられた用水池で、周囲わずか千二百三十メートルの小さな池ですが、昭和二十五年一月突然シベリヤより白鳥が渡来し始め、その後毎年最盛期には五千余羽がここで冬を越します。この日は白鳥737羽で、他に鴨がたくさんいました。

 
出湯温泉に近づきますと正面に華報寺(けほうじ)が見え、その道端にはこの地で出土された石仏が此処彼処に何気なくおかれて、この出湯温泉の歴史の古さを示しています。

 さて、いよいよ川上貞雄氏邸宅の前に立ち、石門柱から向こうを見ると、

12町歩に及ぶ山麓邸宅と、山肌から清水が湧き噴き出て、邸内の池に流れ込んでいる様子、それと宿泊する「日本秘湯を守る会の清廣館」の源泉も川上邸から湧出しているように、素晴らしい自然景観に恵まれた環境下に位置していることが分かります。
さらに、川上邸の庭に面した広い座敷に入った途端、ご参加の方々から一様に「ほー」というどよめきと、「すごい」という声でいっぱいになりました。
それもそのはずで、中心に鉄舟・海舟・西郷書があり、さらに伊藤博文・山県有朋・前原一誠・土方歳三など、名前を挙げればキリがありませんが、かつて温泉名主旅籠であった同家で温泉療養した際に、書き残したものと言われております書が、骨董美術小物と調和をもって見事に美しく配置され、展示されていたからです。

 
中でも圧巻は、佐久間象山の直筆長文書翰でした。吉田松陰の海外渡航事件について象山が安政元年(1854)に細書したもので、川上氏から解説を頂きました。



佐久間象山とは、ドナルド・キーン氏が「晩年の明治天皇が示した態度を分析すると、幕末時代に佐久間象山が唱えた『東洋の道徳と西洋の科学の結合』が特徴づけられる」と判じているように、侍読の元田永孚(えいふ)(注 ながざねともいう)によって明治天皇に象山思想が深く関わっていますので、この点について4月例会で解説申し上げたいと思っています。
遠く寒い新潟県山間部での開催でしたが、地元の方もご参加あり、大変盛況で活発な特別例会であったことをご報告いたします。
川上貞雄様のご協力なくして開催できなかった例会でして、川上様に厚くお礼申し上げます。また、ご参加の方々、雨と寒い中、ご参加ありがとうございました。

投稿者 Master : 11:44 | コメント (0)

2012年02月24日

2012年2月開催結果

2012年2月開催結果

鉄舟は明治天皇に何を教育したか・・・その一」につきまして山本紀久雄が発表いたしました。
まず、2月1日の NHKテレビ番組について皆さんとディスカッションいたしました。

次に、明治天皇を人格面、文化的素養面、軍隊統率者面の三方向から検討し、いずれにも優れた天皇であられた背景要因として、二つの改革 ①廃藩置県 ② 宮廷改革について分析し、鉄舟に対する三人の評価、東京大学・山内昌之教授、司馬遼太郎、高島鞆之助(陸軍大臣)を述べました。

なお今回、鉄舟が明治天皇にどのような影響を与えたのかを研究をしてみましたが、今までの研究が逸話中心で、山内教授の「明治天皇の統治や統帥、知性や教養の全体を覆うバックボーンは、山岡鉄舟の存在に負うところが多い」という指摘の背景分析が十分に成されていないことに改めて気づきました。

その意味で、当会の鉄舟研究は新しい分野に入ったと認識しておりますが、大事なところですので4月例会に渡って発表することにいたします。

投稿者 Master : 09:28 | コメント (0)

2012年01月26日

2012年1月開催結果

1月開催結果についてご案内申し上げます。
    
1.2012年1月開催結果

①岡村紀男氏の発表

ご自宅で展開されている子育て支援活動「ほっとスペースじいちゃんち」について、発想の経緯と実際の活動内容についてご発表いただきました。

サラリーマン時代、朝6時半に家を出て、夜9時ごろ帰宅する生活で、地域社会とは無縁、当然ながら、利用する私鉄駅までの間ですれ違う人との挨拶もなく、家には寝るだけに帰る人生だった。

サラリーマンを終え、生きる環境が変わって、自らの立ち位置を再構築しようとして考えたのは
  ●人は一人では生きられない
  ●人と人の関わり会いの中で生きている
という人として当たり前の指針であるが、それを今まで無縁だった地域社会の中で見出そうとしてことであった。

今では、近所の若いお母さんから声をかけられるようになって、地域社会での立ち位置を見出すことができたと思っている。

幼児教育と保育は、今の社会の大きな課題のひとつで、政府が重点政策として改革しようとしていますが、岡村氏は、在職中から幼児期の家庭環境が社会に出て大きな影響を持つことを感じておられ、自らの「生き方環境変化」をチャンスとしてとらえ、自らが出来る環境下で実践されました。

今後、同様の「生き方環境変化」をされる多くの人達に重要なヒントを与えていただいたわけで、その証明が、岡村氏へ多数のメディアからの取材です。

1月23日(月)テレビ東京Mプラスに岡村氏が登場しました。この番組は仕事をはじめ普段の買い物や食事、趣味などあらゆる面で「経済」と関わっているとの視点からの報道番組で、ここで放映された背景は、岡村氏の生き方が時代の大きな時流のひとつと見ているからです。

我々は「人それぞれに合う生き方をつくりあげる」ことにつなげるために、鉄舟の生き方を研究しておりますが、岡村氏の実践活動から学ぶこと多き1月例会でした。

②山本紀久雄の発表

今月は「当たり負け」というテーマで発表いたしました。

プロ野球の西部・中島裕之内野手の米大リーグ・ヤンキース入りが成立しませんでしたが、その背景には昨年移籍したツインズの西岡剛内野手の不成績があります。

西岡剛内野手はロッテから期待されツインズへ、オープン戦は絶好調でしたが、本番では大リーグの激しい二塁滑り込みで左足腓骨の骨折、その後もわき腹痛めなどで不本意なシーズンで終りました。

これが、日本人内野手は「当り負け」するという評価につながり、中島裕之内野手のヤンキース入りが実現しなかった本当の理由と判断します。

外国人と接するには何事にも「当り負け」しないことが重要で、これは明治維新時でも同様でした。
明治維新改革を成し遂げ、周りを見れば列強帝国主義国ばかりでした。

 英・・ヴィトリア女王・ディズレーリ内閣で大英帝国最盛期
 仏・・ナポレオン三世
 独・・プロイセン・ヴィルヘルム一世初代ドイツ帝国皇帝
    鉄血宰相ビスマルク
 露・・アレクサンドル二世・ロマノフ王朝12代皇帝
 米・・リンカーン(共)ジョンソン(民)グランド(共)大統領

これら列強帝国諸国に「当り負けしない」体制構築が緊急課題で、そのためには政治家・官僚の強化としての欧米視察があり、若き明治天皇の教育が急務でした。ここに登場したのが鉄舟です。

しかし、天皇教育とは我々が受けるものとは全く異なります。治世者として必要な教育で、この検討のためには明治時代の天皇という立場分析が必要ですが、これは2月の発表になります。

投稿者 Master : 05:20 | コメント (0)

2011年12月30日

2011年12月開催結果

2011年12月開催結果をご案内します

①末松正二氏の発表

11月に続く終戦工作を資料に基づき発表がありました。
昭和20年8月14日10:00皇居防空豪で御前会議が開かれ、そこで昭和天皇が次の発言をされ、戦争終結の聖断が下されました。

「外に意見が無ければ私の考えを述べる。反対論の意見はそれぞれ聞いたが、私の考えは前に申したことに変わりは無い。私は世界の現状と国内の事情とを充分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える。

国体についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文意を通じて先方は相当な好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があるというのも一応は最もだが私はそう疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際、先方の申し入れを受託してよろしいと考える。

どうか皆もそう考えて貰いたい。(中略)この上戦争を続けては結局我が邦が全く焦土となり万民にこれ以上苦悩を嘗めさせることは私としては実に忍びがたい。

祖宗の霊にお応え出来ない。素より先方の遣り方に全幅の信頼を置き難いのは当然であるが、日本が全く無くなるという結果に比べて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる。

私は明治大帝が涙をのんで思い切られたる三国干渉当時の御苦衷を忍び、この際耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、一致協力して将来の回復に立ち直りたいと思う」(以下続くが省略)

この内容をお聞きし、改めて日本は天皇中心国家であると確認し、その後の歴史が昭和天皇ご聖断は妥当であったとことを証明しています。

また、日本は天皇判断で国体の戦略決定がなされているという最適例であり、世界で稀なる天皇制の日本は恵まれていると感じた次第です。
 末松氏のご発表から学ぶ点が多き12月例会で、末松氏に感謝申し上げます。

②山本紀久雄の発表

「鉄舟が明治天皇侍従となる前提を理解したい」というテーマで発表いたしました。

鉄舟は、明治天皇侍従として、天皇が二十歳から三十歳になられるまでの、人間形成時期として最も大事な年齢時に仕えました。

しかし、当時の状況を考えると武士階級出身の一般民間人が、簡単に侍従として仕えられたのかという疑問が浮かびます。

その事例として、明治天皇即位時の各国公使謁見に対する宮廷内の反対事件を取り上げ、公家以外の一般人が侍従という立場にはなれることなどありえなかった慣習の塊、これを破壊しなければ鉄舟の登場もなかったことに触れました。

なお、改革推進には必ず賛成と反対があって、それは両者の外国との接し方の痛み度合いによるものだということを、明治維新改革と現在二派に分かれて論議されているTPP問題を事例として取り上げ解説いたしました。

加えて、アメリカのNYとSFの武道家と11月に出会い、外国の武道家が武道指導する際に、新渡戸稲造以外の英文武士道本を求めている実態についても報告いたしました。

投稿者 Master : 05:56 | コメント (0)

2011年11月25日

2011年11月開催結果

11月例会は末松正二氏と山本紀久雄が発表いたしました。
    

① 末松正二氏
「終戦工作」を11月・12月二カ月ご発表頂く、その第一回目でした。
終戦工作は、岡田啓介を中心とする重臣グループ(総理経験者)、高松宮、近衛文麿、木戸内大臣等を中心とする宮中グループがその有力なグループで、他にも多数の工作がありました。

また、終戦は政府が閣議で決定し、枢密院の同意を得、天皇の決定により成立します。
よって終戦を実現するには、政府の各閣僚の賛成を得、閣議で審議されるようにもってゆくことが必要です。

当時の総理大臣は東條英機で、開戦時の総理でもあり、陸軍大臣、参謀総長も兼ねていて、陸軍の全ての決定権を持っていました。

東條は戦争継続、徹底抗戦を主張しており、従って、終戦工作は東條内閣を倒閣させることから始まるのです。

このように末松氏は終戦工作について、事実に基づき時系列に整理され解説されましたが、我々はその事実を正確につかんでいなかった、というのが正直な感想で反省でした。
今の社会体制は全て終戦からつながっています。その事を末松氏からのご発表で改めて振り返るよい機会でした。

末松氏から学ぶことは多く、12月のご発表も期待できます。

② 山本紀久雄

山岡鉄舟という偉大な人物について研究していくと、いつも新鮮な感覚になります。

11月はドイツで一般人・企業経営者・大学教授・武道家等、多くの人達と接し、ドイツ人は「しっかりしている」と改めて感じ、いつの間にか戦後66年を経てユーロ圏は「ドイツが盟主」になっていて、各国首脳が「メルケル首相詣で」をしている実態に、新鮮な驚きを感じています。

ドイツ人がしっかりしている事例として「武道家が武士道を一人で理解した経緯」と、ハンブルグのMiniatur Wunderland ミニチュア・ワンダーランドでの新鮮な驚きと集客力について解説いたしましたが、これらと鉄舟の茨城県・伊万里県での行動は

① 想像する県知事と異なる発想の人物⇒新鮮
② 行動がダイナミック⇒面白い
③ 定めた目標を達成したら直ちに辞任する⇒驚き

という三項目と類似している内容を解説申し上げました。

何事にも成功する背景には共通する「セオリー」があり、それは時代を超えたものであるともお伝えしました。

投稿者 Master : 06:33 | コメント (0)

2011年10月26日

山岡鉄舟研究会2011年10月開催報告

山岡鉄舟研究会2011年10月開催結果を案内申し上げます。
    
1.2011年10月開催結果
① 北川宏廸氏・・・ 2006年3月の例会で北川氏が「必勝の剣法はある・・・剣の『理』と『技』をめぐる数理」に続くご発表でした。

「活人剣(かつにんけん)」と「殺人刀(せつにんとう)」
――「必勝の剣法」はある、それが≪武士道≫だ――

この内容、大変参考になり、興味深く、鉄舟剣法を新たなる視点から分析し、加えて、数式と図表を持って解説しておりますので、その全文を北川氏のご了解を受けまして、以下に掲載いたしましたので、是非、ご一読されます事をお薦めいたします。
    http://www.tessyuu.jp/archives/2011/10/post_349.html#more

②末松正二氏・・・繆斌(みょうひん)工作について
  末松氏には、今年1月に「盧溝橋事件」、4月に「朝日テレビドラマ『遺恨あり~明治13年最後の仇討』についての解説」を頂き、今回は、殆どの人が知らない「繆斌工作」についてご発表を特にお願いいたしました。
繆斌工作とは、1945年3月の戦況悪化著しい時、繆斌が以下の和平条件を持って来日した事実です。
●日本の中国本土からの撤退、
●満州国、台湾は現状維持、
●蒋介石が米国との和平を仲介する
これを当時の小磯首相が最高戦争指導会議に提案しましたが、結局、昭和天皇の反対もあり受け入れなかったのですが、平成3年5月21日に繆斌の慰霊碑を中央区鉄砲稲荷神社に建立したように、顕彰行動をしている人達もいるわけで、その状況を含め当時の生々しい実態を解説頂きました。
11月と12月は末松氏から「終戦工作」についてご発表頂きます。昭和時代を過ごした我々が知るべき「昭和史」を学ぶ機会を大事にしたいと思います。

③山本紀久雄・・・山岡鉄舟という偉大な人物を改めて考察いたしました。
鉄舟はご存じのように、西郷隆盛の「南州翁遺訓」に「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人」と評された人物です。
この評価を現代人の眼から判断すると大きな誤りで、当時の武士階級の常識から判断すべきで、改めて、当時の常識から検討しても鉄舟はけた外れの人物であった背景を解説いたしました。
また、大久保利通が鉄舟を茨城県知事に強く推した背景について、水戸藩と長州藩を財政・産業・人口面から分析し、尊皇攘夷思想を同じく持ちながら、水戸藩は幕末低迷の上人材払底、長州藩は新時代を切り開く人材を多数輩出した、その差と要因について解説いたしました。

投稿者 Master : 11:44 | コメント (0)

2011年09月20日

2011年7月開催結果

2011年7月開催結果

①佃為成氏のご発表
地震学者・研究家である佃氏から新著「東北地方太平洋沖地震は“予知”できなかったのか?」(サイエンス・アイ新書)に基づきご発表頂きました。とても参考とすべき内容で、皆様も一読されますことお勧めいたします。

なお、同書160ページに佃氏が長年検証されている水温と伝導度の実験結果が掲載されていますので、以下ご紹介します。

001.jpg


この出湯温泉の川上貞雄様邸に先日お伺いしてきました。12町歩の山麓邸宅で、家の中は書で埋まっていますが、その中心に鉄舟、海舟、西郷掛け軸があり、伊藤博文、山県有朋、土方歳三はじめ名前を挙げればキリがありませんが、温泉旅籠であった同家に温泉療養して、書き残したものだと言われています。加えて、佐久間象山の長文書簡、内容は吉田松陰と海外渡航するための考察で、この直筆があります。
来年3月17日(土)18日(日)に川上邸で書を拝見し検討、出湯温泉日本の秘湯「清廣館」に一泊合宿例会をしたいと思っています。この週は春分の日ですがこの地は雪が多いので、この日程を考えました。後日、改めて正式ご案内をいたしますので、皆様、楽しみにお待ち願います。

② 原島早智子氏のご発表
墨田区で文化財調査を担当されていた原島さんが、日本で最初の女医から助産婦として活躍した「村松志保子」研究冊子を発刊され、この研究内容についてご発表いただきました。調査過程での原島さんのご苦労は並大抵ではありませんでしたが「村松志保子」が時代のヒーローだったことが原島さんのご努力で判明しました。その証明が以下です。
002.jpg

投稿者 Master : 05:25 | コメント (0)

2011年06月27日

2011年6月例会開催結果

2011年6月例会開催結果

①まず、水野靖夫氏のご発表は「戦後の漢字制限政策」でした。
   戦前からの漢字制限の経緯と、戦後GHQから漢字廃止の見解が出され、そのGHQの考え方は
   ●戦争に敗れたのは文化レベルが劣っているから。
   ●日本の伝統・文化や実情無視。欧米人の考え方の押しつけ。
   ●漢字を覚えることは、生徒に過重な負担。他の数学・自然科学・人間社会などを学ぶ時間がなく    なる。
 等から漢字は完全に廃止されるべきだとの、強硬な主張がなされたのです。

また、その結論に導くために、驚くべき事に無作為に選ばれた15歳から64歳までの1.8万人に対し「日本人の読み書き能力調査」という漢字テストが昭和23年8月に行われました。

結果は平均点が78点という高得点のため、GHQは主張を取り下げたのですが、漢字廃止に迎合した日本人もいたという事実に再び驚きました。

漢字制限の経緯を知る事は、日本国の基本であるべき言葉と漢字の重要さを確認することであり、また、漢字を捨ててもよいという日本人がいたという驚愕の歴史事実確認でもあります。
水野氏のお話を伺って、更に、鉄舟の生き方を通じて日本精神を多くの人に伝えなければという想いを強くもちました。

毎日読み書きしている漢字について、知らないことが多くあるという事実をご教示頂いた、漢字博士の水野氏に深く感謝申し上げます。

② 山本紀久雄からは、武士道を知らない日本人が多い事実と、反対に外国人は映画「ラスト・サムライ」から武士道をある程度知っている事実、それをアメリカ・サンフランシスコとブラジル・サンパウロでディスカッションしてきた結果からお伝えしました。

日本人が武士道を理解し得ない背景には、江戸時代の文字を読めないという実態に陥っている事が関連している、つまり、江戸期の優れた精神文化体系中心ともいえる武士道資料が、翻訳でしか読めないという事が影響しているのではないか、という考察を行いましたが、これについては今後とも研究して参ります。

投稿者 Master : 09:50 | コメント (0)

2011年06月05日

5月開催結果

5月18日は、まず矢澤昌敏氏から「幕末三舟の墓所と江戸の風景」について、先般、現場を視察された矢澤氏ならではの、大変興味深い考察をご発表いただきました。幕末三舟というネーミング・ブランド誕生の背景から、現在の旧跡写真と文献など、矢澤氏ならではの緻密な分析による展開で、深く感謝いたします。

山本紀久雄からは、山岡鉄舟と西郷隆盛の二人、全く異なる修行プロセスを経て、両者ともに大人物として評価される境地に達した経緯と、現代日本人作家として世界で最も人気がある村上春樹が、その著書1Q84で展開する「あの世と現世」の展開、それは村上春樹が「生死のあわい」を特殊な訓練によって体得したからであり、鉄舟、西郷と共通するものがあるという研究結果を発表したしました。

投稿者 Master : 05:28 | コメント (0)

2011年05月02日

2011年4月例会の報告

4月開催結果をご案内申し上げます。
まず、開催に先立ちまして、今回の東日本大震災で不幸にもご逝去された方々に全員で黙祷を捧げました。
また、今後、当分の間、皆様のご参加費を義援金に充てさせる事をご案内いたしました。

2011年4月開催結果
4月20日は以下の三名の方からご発表頂きました。

① 最初は末松正二氏から2月26日に放映された「朝日テレビドラマ『遺恨あり~明治13年最後の仇討』についての解説」と、当時、鉄舟が如何に仇討に関与していたかについても分析され、さらに、アメリカの仇討映画「トゥリー・グリッド」についても触れられ、日米の仇討という目的は同じでも、そのプロセスが異なる事についても解説頂きました。末松氏のいつもながらの鋭い指摘に感謝申し上げます。

② 次は高橋育郎氏から「鉄舟の詩・心錦の山岡鉄舟」のご発表と、高橋氏が作曲頂いた曲で全員にて合唱致しました。なお、この歌詞はホームページの「心錦の山岡鉄舟」カテゴリーに掲載しております。

③ 山本紀久雄からは「東日本大震災と武士道の義を負った日本」というテーマでお伝えいたしました。鉄舟ならば東日本大震災というシステム大崩壊に対して国民に何を諭したか。政府・東電・原子力関係者を含めた国民全員が緊張状態にある中で、どのような対処が必要なのか。
さらに、世界から受ける援助額が世界一となる日本。武士道では「愛・同情」を「仁」と位置付け、この「仁」を受けた日本は、世界中に「義理」を負ったわけで、「義理」に対する「お返し」をするのが「道理であり、条理であり、人間の行うべき道」であり、我々はどうやってこの「お返し」すべきなのかについて考察申し上げました。

投稿者 Master : 10:09 | コメント (0)

2011年02月19日

2011年2月開催結果寺

2011年2月開催結果の内容

① 高橋育郎氏から「鉄舟の童謡詩」のご発表

高橋育郎氏から「鉄舟の童謡詩」のご発表をいただきました。皆さん大変な驚きで、これで山岡鉄舟がよくわかるという評価とともに、さすがに「全国童謡歌唱コンクール」グランプリ曲となった「大きな木はいいな」の作詞家と感心いたしました。

②池田高志氏から2010年9月に発表いただいた「幕末の水戸藩」の後半部分のご発表。
 
徳川慶喜の生家である水戸家について詳しくお話を受けました。幕末時に水戸藩は二つの派閥の対立で、血で血を洗う凄惨な状況。
 ●保守門閥派・・・諸生党・・・親幕
 ●改革派・・・天狗党・・・尊皇敬幕・・・桜田門外の変
人名索引まで作成し詳しくご説明いただきましたが、池田氏の博学蘊蓄には参会者全員が驚嘆した次第です。池田氏に感謝申し上げます。

③ 山本紀久雄の発表

今月は「武士道考察」を行いました。武士道について、
●広辞苑、ウイキペディアの日本とフランス版での解釈
●新渡戸稲造武士道の今日的理解
●ザッケローニ監督と武士道
●武士道発揮の代表的事例としての江戸無血開城駿府会談
●武士道発揮には武道の達人境地が前提ではないこと
●武士道に定義としての型・形はない
等につき見解を発表いたしました。これからも鉄舟武士道について考察を深めていくつもりです。

 なお、浜松市北区方広寺で「山岡鉄舟と奥山方広寺展」が3月6日(日)~21日(月・祝)に開催されます。詳しくは以下をご参照願います。
http://www.houkouji.or.jp/

投稿者 Master : 11:29 | コメント (0)

2011年01月23日

2011年1月開催結果

2011年1月開催結果

①末松正二氏のご発表

末松氏から「盧溝橋事件」の後半「盧溝橋事件和平交渉経緯」についてご発表いただきました。
末松氏のご発表は現場から常に説き起こします。今回も要を得て簡でありながら、当時の日中対決が全面戦争につながるまでの激しい交渉過程、加えて昭和天皇と軍部が絡み合った姿を、在り在りと浮かび上がらせる迫力あるご説明にさすがと感じました。

末松氏が強調した指摘、「盧溝橋事件当時に、鉄舟が昭和天皇の傍らにいたら和平が整ったのではなかろうか」、という解説に正にその通りだと頷かせられたご発表でした。

時期を改めて「盧溝橋事件」後の昭和史についても、続いてご発表いただきたいと思っています。

②今月初参加の方からの資料

曾祖父が鉄舟宅におつとめだったという縁で、鉄舟研究をされておられ、その研究過程で、当会を知り初参加されました。
この方から勝海舟が鉄舟葬儀で読みあげた「山岡鉄舟弔文」の内容をいただきましたので、ご参考までに最後のところだけご紹介します。

「塵世ヲ横行シ磅礴タリ精気 
残月弦ノ如ク光芒地ヲ照ス」
「在天の霊それ亭よ活し 勝 安芳」

(現代語訳)
「俗世をほしいままに行き道をふさいでしまうような精気があった。
 残月は弦のようだがきらきらと地を照らしている」
「天にある霊よこれを受けてくれ 勝 安芳」
 
③山本紀久雄の発表

山本からは山岡鉄舟を研究するという意味は、最終的に日本人全員に内在しているであろう「武士道精神」の究明につながること。

また現在、世界の人々が武士道に関心持っているのは「新渡戸稲造の武士道」であるが、真のサムライとしての「武士道を実践貫いた鉄舟」を世界に発信するタイミングにそろそろ来ているのではないかと思い、それをまとめてフランスの大学教授にアプローチしてみた結果、双方の文化理解の面で、しっくりこないところが多く、その内容について、まずお伝えいたしました。

次に、村上春樹の小説、本人は意識していないかもしれませんが、何か「武士道と共通する」ものがあるように感じています。

村上春樹は、日本の大きな変化の節目は1995年(地下鉄サリン事件が発生した年)だったと以下のように語っています。

「日本人はいま、自分たちのアィデンティティを模索しているのだと思います。戦後、日本は徐々に豊かになり、1995年まではほぼ右肩上がりの良い時代を生きました。それまではおおむね経済的繁栄が私たちを幸福にし、心を満たしてくれると考えられていました。
でも日本は大変豊かになったけれど、我々は幸せにはなれなかった。そしていま、我々は改めて問い直しています。我々は何をすべきなのか。幸せへの道は何なのか。いまも我々はそれを探っているのです」
(COURRiER Japon 2009年7月号 )

同様に日本経済も95年が分岐点であったこと、それは日本の生産年齢人口(15歳から64歳)の過去最高が95年で、それ以後減り始めていることからですが、これについてYAMAMOTOレターで触れていますので、ご参考までにご紹介します。
http://www.keiei-semi.jp/blog/archives/2011/01/post_318.html#more

我々はそれぞれ異なった人生を歩んでいます。ですから、一人ひとりが違った価値観で人生を送っています。これは日本人でも外国人でも同じです。

しかし、村上春樹が世界中から受け入れられている事実から考えますと、村上小説には世界中の人々が納得する「ある共通した価値観」が随所にちりばめられ、それが「世界の人への生き方アドバイス」になっているのではないかと推察していますが、これは鉄舟の生き方哲学にも通じるものではないかと思っています。

しかし、その共通性を持つであろう鉄舟哲学を世界に伝えるためには、村上春樹のような文体が具わらないと難しい、ということをフランス大学教授とのやりとりから思ったわけで、今後の大きな課題として受けとめています。

投稿者 Master : 05:29 | コメント (0)

2010年12月25日

2010年12月開催結果

12月12日(日)は史跡巡りと忘年会で、まず、「健康ハイキングの会」企画の「江戸ウォーキング・・・坂本龍馬と岩崎弥太郎」に参加いたしました。

上野公園→旧岩崎邸庭園→品川駅構内で昼食→山内容堂墓→土佐藩下屋敷跡→浜川砲台跡→坂本龍馬像→品川駅というコースでした。天候にも恵まれ、ハイキングの会の安田守会長による巧みな歴史解説で歩きました。

山内容堂墓.jpg

坂本龍馬像.jpg


その後、忘年会を「地鶏や」品川西口駅前ウィング高輪一階で楽しく過ごしました。
ご参加の皆さんに感謝いたします。

投稿者 Master : 10:00 | コメント (0)

2010年11月20日

2010年11月開催結果

11月の発表は、まず、末松正二氏から日中戦争勃発の「盧溝橋事件」から始まりました。
自ら手書きされた「盧溝橋現場地図」、世界遺産のマルコポーロ橋を撮影した盧溝橋の素晴らしい姿の写真、当時の状況について書かれた多くの記録、これらを開陳いただきながら当時の日本軍と中国軍の緊張した状況についてつぶさにご説明いただきました。

今回は前半でして、後半は来年一月例会で発表いただきます。後半も楽しみです。知らない多くの事を末松氏が教えてくれます。

次の発表は高橋育郎氏です。11月3日の文化の日に、高橋氏作詞の「大きな木はいいな」が「全国童謡歌唱コンクール」で、東海北陸代表の宮内麻里さんが歌って、見事グランプリ曲となりました。
グランプリ曲作詞の背景について発表いただきましたが、更に高橋氏の音楽活動が最近一段と弾みがついている状況についても触れられ、さすがに「生涯現役」体現者と感じた次第です。

山本紀久雄からは「鉄舟から現代を観れば」というテーマで発表しました。今の政治混乱は全て外国絡みです。では、幕末時は外国勢力との関係はなかったのか。殆どの幕末研究資料は外国との関連を薄く取り上げていますが、明治時代の近代国家像を創り上げるためには、欧米先進国のノウハウが必要であって、そのためには外国人の能力が多いに必要であり、幕末時の事件の背景にも外国勢力が多いに絡んでいた。

例えば、鳥羽伏見の戦いで敗れ、慶喜は江戸に戻った船、何故に最初大坂湾の米国艦イロクォイ号に乗船したのか。何故に平山敬忠外国奉行が前夜半に米国公使の宿舎に走ったのか。
当時も今も外国との関連を抜きにして時代分析は出来ないという事実をご案内しまして、そういう時代だからこそ、鉄舟一刀正伝無刀流による日本人が持つ、独特の本質である「一瞬の斬れ味」によって日本を救ったのだということをお伝えしました。

投稿者 Master : 06:30 | コメント (0)

2010年10月16日

10月開催内容概要

10月13日(水)に開催いたしました。

まず、高橋育郎氏から「何故に童謡はグローバル化がなされないのか」というテーマで縷々お話が展開されました。

結論としては、今後「童謡を世界へ」ということを望むならば、「誰か一人」が動き出さないといけないのではないかということでした。
柔道は嘉納治五郎が国際化に努力し、今や世界のジュードーでオリンピック種目になっています。他の日本文化分野も同様です。童謡業界も是非、誰かが一歩を踏み出すことが必要でしょう。
同様に鉄舟を世界に知らしめるためには、当研究会が努力をしないといけないと思っており、その方向に動いて行く所存です。

 山本紀久雄からは、「賓師」(客分として待遇される師匠・広辞苑)で、高度な知識と見識を持ち、ある分野から圧倒的な識見を持つ存在の人物のことですが、これを鉄舟にすべきという見解をお伝えしました。
鉄舟の魅力は「剣のスペシャリストとしての修行から、禅を通じてゼネラリストしての精神修養により『人間の完成』に到達し得た」ところにあります。
この人間完成した鉄舟を基準として見れば、「尖閣諸島問題」や「政治と金問題」はどのように理解できるかについて分析し解説いたしました。
今後も同様の検討を進めてまいります。

投稿者 Master : 13:02 | コメント (0)

2010年09月24日

9月例会開催結果報告

9月15日の例会は、まず、池田高志氏から「幕末の水戸藩」について発表いただきました。

「明治維新を支えた『尊王攘夷』のイデオロギーは、徳川光圀から続く大日本史編纂の過程で生まれた水戸学に端を発します。尊王攘夷の旗印を掲げて幕末動乱の先駆けを務めたにもかかわらず、明治維新を迎えた時点ではすっかり疲弊して、有為な人材を失っていたという水戸藩。その水戸藩の開藩から幕末動乱までの歴史をたどりつつ、現代にいたるまで脈々と水戸(そして日本)の底流に流れる狂信的なイデオロギーを通して、歴史の皮肉に思いを馳せてみたいと考えています」

と展開いただきましたが、水戸藩の複雑な実態解説は一回だけでは無理で、時間切れとなり、次回(来年2月16日)へ持ち越しとなりました。

 鉄舟が県知事として赴任した水戸藩です。引き続き次回を大いに期待したいと思います。

山本紀久雄からは静岡方面での調査結果、海舟と鉄舟は慶応四年以前に知りあっていた記録、それは「関口隆吉の生涯・八木繁樹著」ですが、世に定説となっている事への疑問点を指摘しました。

また、徳川藩の静岡移転に伴い、徳川家臣は第一に脱走して反政府活動に走った者、第二は朝廷・新政府に仕える者、第三は暇乞いして農工商になる者、第四は藩臣として無禄でも徳川家に残る者。
この身の振り方から指摘できるのは藩側からの「リストラ」が行われなかったことで、現在の日本、企業経営が厳しくなると社員の首切りリストラが、まず、最初に行われることが多くなっている。しかし、徳川藩は70万石に合わせるような家臣の首切りは行わなかった。駿府に来る者は全員受け入れている。

これは関ヶ原の合戦後、西軍だった上杉家が会津から米沢への四分の一に減封され、その際「リストラ」は一切しなかったこと、それが平成22年のNHK大河ドラマ「天地人」主人公直江兼続によって語られたことは記憶に新しいが、これより過酷な実質四百万石から七十万石へと八割以上の減封であった徳川藩が、家臣の「リストラ」を実施しなかったことを高く評価したい。

徳川藩は武士道経営を貫いたと理解し、このような政策を決定し実行した藩経営に鉄舟が参画していたことを再認識したい。鉄舟は慶応四年・明治元年に幹事役として海舟と二人で名前を並べ、同年九月には権大参事の藩政補翼となり、徳川から静岡藩となった政治に重要な役割を負う立場に栄進している。
このような解説をいたしました。

投稿者 Master : 14:32 | コメント (0)

2010年07月11日

彰義隊本拠地の上野公園と徳川慶喜墓所探索

2010年7月4日の例会は、彰義隊本拠地の上野公園と徳川慶喜墓所探索を行いました。
この日は旧暦の慶応四年五月15日にあたり、豪雨の中早朝から激しい戦いが行われました。

まず、上野公園の紹介です。   
ここは江戸時代、東叡山寛永寺の境内地で、明治維新後官有地となり、大正13年宮内省を経て東京市に下賜され、明治6年の太政官布達によって、芝、浅草、深川、飛鳥山と共に日本で初めて公園に指定されました。
当初は寛永寺社殿と霊廟、東照宮それに境内のサクラを中心にした公園でしたが、その後、博物館や動物園、美術館などが建てられ、文化の香り高い公園へと衣替しました。

1. 西郷隆盛像
002.jpg
西郷像は高村光雲の作、傍らの犬は後藤貞行作。除幕式は西郷の死後21年を経た明治31年12月18日に行われた。身長:370.1cm、胸囲:256.7cm、足:55.1cm。西郷には信頼性のある写真が一枚も残っておらず、光雲は肖像画や弟の西郷従道の風貌を参考にした。公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の言葉(薩摩弁)を漏らし周囲の人に窘められたという。上野の西郷像は糸子が批評しているような散歩している姿ではなく、愛犬をつれ、腰に藁の兎罠をはさんで兎狩りに出かける姿である。西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兎狩りをした飾りの無い本来の姿にこそあるとして発想したもの。連れているのはお気に入りの薩摩犬であった雌犬の「ツン」である。
高村 光雲(たかむら こううん、嘉永5年2月18日(1852年3月8日) - 1934年(昭和9年)10月10日)は仏師、彫刻家。幼名は光蔵。高村光太郎息子。
後藤 貞行(ごとう さだゆき、嘉永2年12月23日(1850年2月4日) - 明治36年(1903年)8月30日)は、彫刻家。馬の彫刻で知られ皇居前広場の楠木正成像の馬像が代表作。

2. 彰義隊の墓
002 (2).jpg

彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。正面の小墓石は、明治2年(1869)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋葬したものだが、後に掘り出された。大墓石は、明治
14年(1881)12月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣
山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。

3. 清水観音堂(きよみずかんのんどう)
007.jpg

日蓮宗、正東山。寛永寺を開創した天海が京都の清水寺を模して寛永8年(1631)に創建した。当初、現在地より100メートル程北の擂鉢山山上にあったが、元禄七年この地へ移築し現在に至っている。本尊は千手観音座像で京都清水寺より奉安したもの。毎年二月の初午の日だけ開扉され、多くの参詣者が訪れる。不忍池に面する正面の舞台造りは江戸時代より浮世絵に描かれるなど著名な景観である。
堂内に掲げてある絵馬や掲額も寛政、天明期の古いもので、平家物語にちなんだ「盛久危難の図」「千手観音」などがある。本尊千手観音の縁起を現わした寿香亭守一の寛政十二年(1800)奉納したという「盛久危難の図」は、『江戸名所園会』に、平家滅亡後、主馬盛久は逃れて京都の清水寺に千日祈願をするが、源氏の追跡で捕えられ、由比ケ浜で打首となる寸前、首を斬ろうとする刀杖が段々に折れて、清水観音の加護により命を助けられた話として伝えられている。それらから信仰に寄せて、庶民は、そのご利益、ご加護を授かろうとしたであろう。今なお清水観音堂には千羽鶴がところせましと奉納されて、祈願の跡は絶えないでいる。
   明治期の画家五姓田芳柳の描いた「上野戦争図」と、隣りにある砲弾は四斤砲の砲弾でリベットドライブ方式の尖頭形砲弾(椎実型の砲弾)である。

4. 不忍池弁天堂
008.jpg
009.jpg

弁天堂は天海僧正が不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島辯才天を寛永初年に勧請して建てたお堂。本尊は八臂の辯才天で、特に芸能や福徳にご利益があるとされています。毎月初巳日(最初の巳の日)に縁日法要を営み、特に毎年九月の巳成金の大祭法要には多くの人で賑わいます。

5. カナリアの碑
010.jpg

「うたをわすれたかなりやは ざうげのふねにぎんのかい つきよのうみにうか
べれば わすれたうたをおもいだす」と彫られている。西条八十さんの歌碑。
昭和35年(1960)に、サトウ・ハチローさんらによる西条八十会によって建
立されたもの。

6. 五條神社、花園神社、穴稲荷、
011.jpg

五條神社は薬祖神としての信仰をあつめた神社で、室町時代中期に上野山に鎮座していることが明らかな古社である。
主神に大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)二柱の薬祖神を、相殿に菅原道真をお祀りする。
縁起によると、今から1890年ほど前の第12代景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐のため、上野忍が岡を通られた際、薬祖神二柱の大神に御加護を頂いたことを感謝されて、この地に両神をお祀りしたのが創祀だという。
菅原道真公が天神といわれる訳は、かつて怨霊として「雷神」と恐れられた過去を持つ、雲の上から、自分を左遷させた政敵に雷を落として暴れ回ったので天神様とよばれるようになったわけです。
五條天神社のすぐ横の花園稲荷神社は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)を祭神としていますが、もとは弥左衛門狐を祀った「お穴さま=穴稲荷」がメインだったと思われ、忍岡(しのぶがおか)稲荷が正式名称で、今でも旧社殿に石窟が残っています。
これは上野山に寛永寺が建てられるとき、ここに棲む狐たちの住処が無くなるのを憐れみ、社を建てて祀ったのが始まりといわれています。

7. 時の鐘
012.jpg

時の鐘は江戸時代、時を知らせるものであった。当時江戸市中には日本橋石町、浅草、上野、本所、横川町、市ヶ谷八幡、目黒不動、赤坂田町、四谷天竜寺など9カ所の時鐘があった。中でも浅草、上野の鐘は芭蕉の句 「花の雲 鐘は上野か 浅草か」で有名である。
現在韻松亭敷地内にある「時の鐘」は寛永6年(1666)、鐘の製作に当っては寛永寺の鐘撞人であった柏木大助が願主になって、鋳物師の藤原政次が鋳造。その後数回改鋳され、天明7年(1787)に谷中感応寺で鋳直されたものが現在に至っている。
韻松亭は明治8年に「時の鐘」の隣に茶屋と貸席をかねて創業し、不忍池を一望できるロケーションとして明治の文化人たちに愛されてきた。代が替わり、ここを気に入っていた横山大観がオーナーになるが、直ぐに手放してしまう。それ以降山本家が引き継いでいる。日本画家の山本道香氏(昭和47年死去)は、上野の時の鐘を守り続けて二十数年、現在は娘の山本直子氏によって守り継がれている。明け六つ(明け方)、正午、暮れ六つ(夕方)の三回撞かれ、不忍池に江戸の音風景を甦らせている。

江戸時代の時刻制度は現在のものよりはるかに複雑。夜明け前と夕暮れ時を基準にして、昼を6等分、夜を6等分します。この6等分されたものを「一つ(一とき)」といいます。夜明けや日暮れは季節によって変わります。現在は一時間は六十分で、正確に一定の時間ですが、江戸時代では、例えば夏の昼の「一つ(一とき)」は長く、夜は短く、冬は昼は短く、夜は長くなります。そのため、1年間を二十四節気にあわせて二十四分割し、時刻を変えていたのです。自然に合わせた生活だったわけです。これを不定時法といいます。このような時刻制度は現在の時計のある生活では奇妙に映りますが、時計のない昔の生活では、「明るい時は昼、暗い時は夜」というわかりやすい発想として受け入れられていたようです。

8. 上野大仏
017.jpg

上野公園にある仏塔パゴダ(ミャンマー、ビルマ形式の仏塔)がある丘が大仏山 と呼ばれるのは、かつてこの場所に大仏があったから。
寛永8年(1631年)にできた粘土製の初代大仏は、正保4年(1647年)の地震で倒壊 してし、 その後、万治年間(1660頃)に青銅製の二代目大仏が建立され、元禄年間(1690 頃)には大仏を覆う立派な大仏殿も完成しました。
その後も地震や火事のたびに修復を繰り返して来ましたが、関東大震災でも 被災し頚部が崩れ、お身体からご尊頭が落ちてしまいました。 修復費用が思う様に集まらず、ご尊顔だけが長く寛永寺に保存されていました。残ったお身体は、戦時中に軍隊に供出されて、武器の原料になった。
ご尊顔が元の大仏山に戻ったのは、関東大震災50回忌となる昭和47年(1972年) の事。お身体のあった所にパゴダが建てられ、戻ったご尊顔は記念塔としてパゴダの隣に保存されています。何時の日に元の大仏様にお戻りになるのか・・・。

9.上野東照宮
013.jpg
上野東照宮は、徳川家康を祀る神社で、寛永4年(1627)、伊賀上野藩主藤堂高虎がみずからの屋敷地に建立するが、家康を崇拝していた3代将軍家光の命により慶安4年に大改築、江戸の象徴、金色殿として現在に残っている。が、とうの家光はその完成の祝事のさなか、この神社を見ること無くこの世を去った。 この東照宮の建物はもちろんのこと、門や柱、塀、果ては灯篭にいたるまで、すべてが国の文化財に指定されている。表参道の大鳥居は1633年に現在の前橋城主が寄贈してもので、関東大震災の時ですら微動もせず建築界の脅威の的になったと言われており、その参道の左右を埋め尽くす280基の灯篭は全国の諸大名の寄贈で、名前を見ると錚々たる顔ぶれです。 社殿には家康の遺品も展示されている。日光の東照宮は見るからに素晴しく、威圧感さえありますが、この上野の東照宮はひっそりと歴史を感じさせてくれる。

10.上野動物園・寛永寺五重塔

014.jpg
この塔が建てられたのは、寛永16年(1639)7月である。下総国(千葉県)佐倉城主土井利勝が東照宮造営にあたり寄進したものである。実はこの塔は土井利勝にとっては2度目の寄進で、最初のものは上野東照宮が大造営してから4年ほどたった寛永8年(1631)に建てている。しかしこのときの塔は同6年3月に火災によって焼失してしまったので、当時、幕府の大老職にあった土井利勝は即刻再建したのであった。高さは地上から宝珠(一番上の珠)まで、36.36m。一層の中央、心柱をかこんで、東西南北に四方四仏を安置している。薬師・阿弥陀・弥勒・釈迦の四仏。上野の五重塔と一般にはいわれているが、東照宮→寛永寺→東京都に寄付され、今では動物園内の施設として保存されている。重要文化財に指定。これを見るためには入園料を払って動物園に入る必要がある。

11.大噴水は根本中堂、国立博物館は本堂
018.jpg
江戸時代、現在の上野公園には、寛永寺の堂塔伽藍が、整然と配置されていた。現在の噴水池周辺(竹の台)に、本尊薬師如来を奉安する根本中堂、その後方(現、東京国立博物館敷地内)に、本坊があり、寛永寺の場合、輪王寺宮法親王が居住していた。寛永寺本坊の規模は壮大なものであった。この大噴水のところは竹の台といい、両側に竹の台(うてな)があったことに由来。ここには、常行堂、法華堂などの主要な堂宇がありましたが、戊辰戦争で灰燼として消えた。本堂跡へ博物館が建設され、その前庭としての修景で緑と噴水が計画された。

12.旧寛永寺本坊表門(輪王殿)、両大師堂(慈(じ)眼(げん)大師・慈恵(じえ)大師)
019.jpg
021.jpg
022.jpg
慶応4年(1866)5月、上野戦争のため、ことごとく焼失し、寛永寺本坊表門のみ戦火を免れた。
これがその焼け残った表門である。門には皇室の菊の御紋が印されている。明治11年、帝国博物館(現、東京国立博物館)が開館すると、表門として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するにともない、現在地に移建した。“慈眼大師"は天海その人で、 “慈恵大師"は比叡山延暦寺の中興の祖とされる良源。

13.寛永寺
024.jpg

元和8年(1622)2代将軍徳川秀忠は上野忍ヶ岡の地を喜多院(現埼玉県川越市)の住持天海の願いにより寺地として与えた。これにより天海は往古最澄が平安京の鬼門である北東の比叡山延暦寺を創建したことにならい、江戸城北東の方角に同城と国家を鎮護する目的で一寺を創建。寛永2年に本坊円頓院が落成した。これが東叡山寛永寺の創始で、喜多院から移された山号東叡山は東の比叡山を意味する。また慶安年間(1642-52)には創建時の年号を取り寛永寺の勅号を与えられた。本坊の落成に引き続き寛永4年には常行堂・法華堂・輪蔵・東照宮・仁王門、同8年には五重塔・鐘楼・清水観音堂などが造営された。元禄10年には徳川綱吉の命により円頓院の南面竹の台に本堂(根本中堂)を建設する工事が着手され、翌11年8月竣工。9月6日には東山天皇の筆になる「瑠璃殿」の額が掲げられた。さらに宝永年中までには36の子院と直轄寺2院が建立されている。宝永6年まで寺域は拡大し、約30万坪となった。

14.徳川慶喜の墓
025.jpg026.jpg
//www.tessyuu.jp/archives/025-thumb.jpg" width="200" height="150" />

徳川家の菩提寺は 日光東照宮 寛永寺 増上寺の三つがあり 15代将軍・慶喜を除く全ての将軍がいずれかに葬られています。 徳川慶喜のみ谷中霊園に葬られているのは 遺言により葬儀が神式で行われたことによる。
ここにたどり着いたとき ハプニングがあった。勝海舟と書かれた野球帽を被った中年男性が「説明しましょうか」と申し出られ、その方から慶喜の墓について解説がありました。この解説が見事で、今までの知っていて事を覆させられました。神式の墓の理由についても詳しく解説され、一同揃ってなるほどという最後の場面でした。改めて感じたのは現場、現地、現任の大事さです。
ご参加の方々に感謝申し上げます。             以上

投稿者 Master : 11:06 | コメント (0)

2010年06月17日

6月例会が開催されました

2010年6月の例会が16日開催されました。

今月は鉄舟の彰義隊解散説得も聞かず、徹底抗戦方針を打ち出した彰義隊理論的指導者(司馬遼太郎見解・・花神より)と称された上野寛永寺覚王院の立場と、攻撃側の大村益次郎のリーダーシップの違いについてまず解説しました。

次に、大村が展開した彰義隊攻撃に当たっての作戦の内容、つぶさに検討すればするほど、その内容が際立っており、細部にわたって漏れがないことを述べました。

一般的に、5月15日の戦いは、午前中は彰義隊優勢、午後になって官軍側の勝利となった最後の決定打として、加賀藩邸から不忍池越えして発射されたアームストロング砲の威力の前に敗戦を迎えた、まるで第二次世界大戦時の広島・長崎への原爆投下と同じ扱いで解説されている事が多いわけです。

しかし、アームストロング砲そのものが薩英戦争でイギリス軍が使用し、不発や事故が多った事から考えると、この砲だけで勝敗の帰趨を決したと断定するには疑問があり、それを伝えるのが「真説上野彰義隊 加来耕三著 中公文庫」で、その内容は「覆面部隊」の登場、つまり、長州兵を会津兵と偽り、上野の山に援軍と称してもぐりこませ、アームストロング砲の発射を合図に覆面をとり、黒門口の彰義隊の背面から襲いかかったことで、彰義隊は崩れ敗走した、というのが真相ではなかったか、という主張があります。。

大村という人間を分析すれば、勝つことに緻密な作戦を立てるわけで、不安があるアームストロング砲のみに最後の勝負を掛けるわけがなく、次の手、又次の手を打ち続けるはずで、覆面部隊は当然に彰義隊の情報管理の甘さをつく作戦として当初から組み込まれていたと考えるのが妥当です。

覆面部隊を卑怯な手だという批判があるが、戦争なのだから「勝つことが最終目的」であるから、卑怯というのは負けた側の見解であり、勝った側から見れば、勝利するための作戦が有効に機能したと考えるだけである。

このような分析解説を加え展開しましたが、ここで今の日本との関係にも触れました。

菅首相は「奇兵隊内閣」だと自ら称しましたが、奇兵隊をつくり展開した高杉晋作は、倒幕の狼煙を上げた革命家です。だが、今の日本は昨年10月の衆議員総選挙で自民党政権が倒れたのですから、倒幕は終り、今はその後に山積する問題点の解決をするのが菅内閣の仕事です。

ということは、問題解決への作戦を緻密かつ大胆に作り上げ、それを実行解決するのが菅内閣の使命であるわけで、その意味から今は大村益次郎的な進め方が求められています。

我々も大村益次郎の冷静で緻密な計画能力を見習うことが必要ではないか。大村が戊辰戦争の指揮をとったことで、明治維新が完成されたという事実を再認識したいと思います。


投稿者 Master : 11:31 | コメント (0)

2010年05月01日

2010年4月例会報告

山岡鉄舟研究会 例会の感想
2010年4月21日(水)
「『予知』のこと〜危険予知から地震予知、さらに〜」
佃 為成氏

tessyuu_reikai100421_01.JPG
今月の山岡鉄舟研究会は、佃為成氏をお迎えして、「予知」とは何かについて、ご専門の地震学、地震予知論の分野を中心に、人生論としての「予知」についてお話しいただきました。

**********

tessyuu_reikai100421_02.JPG tessyuu_reikai100421_03.JPG
 左・佃 為成氏 / 発表風景

「予知」という言葉について、誤解があるのではないかと佃氏は語ります。
例えば、地震の分野において予知するというと、ナマズが暴れたとか犬が吠えたとか、何かカンとか超常現象的なことなどと混同して扱われているようです。
予知とはそういうものではなく、ある事象において、何らかの「サイン」が発せられているのをキャッチし、そこに「考える」ことを加えて成り立つのが「予知」なのです。地震でいえば、地下から発する地震の前兆現象、すなわち地下からのサインをキャッチし、それを過去のデータや経験と照合し、これから起こることを前もって知ること、これが予知なのです。

予知は、これから起こりうる危険を回避するために必要なことです。そして、これは何も地震や事故などの危険回避ばかりでなく、人生を成功に導くためにも必要なことであるのです。このことを、佃氏は教えてくださいました。
このことの説明として、佃氏は「ウサギとカメ」の物語を例にとり解説されました。
1)世間ではのろまを馬鹿にすることが多い
2)馬鹿にされても、それにも負けずに少しずつ着実に物事をやる人はいる
3)馬鹿にした人は、自分は簡単に物事を行うことができると過信している
4)結局、のろまに見えた人が物事を成就する
5)以上のことを「予知」すれば、たとえ人に馬鹿にされようとも、一歩一歩着実に歩んでいく道を選ぶことができる

鉄舟は、まさにこのことを貫いた人物だったのではないでしょうか。のろまと馬鹿にされてはいなかったでしょうが、ひとつのことを突き詰めてやり抜くという点において、鉄舟はそれを実践した人物であり、その結果が、鉄舟の功績にあらわれているように思います。
「人生の予知」とは、目標に向かって一歩一歩着実に行うこと、そのために日々のサインを拾い集め、過去の経験などと比較分析しながら、適切な方向に進んでいくことと学びました。

**********

今月をもちまして田中達也は事務局を辞任いたします。在任中はひとかたならぬご厚誼を賜り、誠にありがとうございました。今後は自分の目指す目標に向かって専心していきたいと思います。今後ともご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。
山岡鉄舟研究会はこれからも続いていきます。会の益々の繁栄をお祈りし、同時にこれからも変わらぬご協力をお願い申し上げます。

5月は19日(水)18:30〜東京文化会館 中会議室1です。
皆様のご参加をお待ち申し上げます。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 11:35 | コメント (0)

2010年03月28日

2010年3月例会報告

山岡鉄舟研究会 例会の感想
2010年3月17日(水)
「鉄舟の生き方をブランド化する・・・彰義隊その三」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏

今月の山本会長の発表は、鉄舟の生き方をブランド化すると題し、ブランド化とは何か、また、彰義隊誕生への原動力となった出来事についてお話しいただきました。
tessyuu_reikai100317_01.JPG

**********

今回のテーマは、鉄舟の生き方のブランド化でした。
人の生きざまをブランド化することについて、その好例は現在、NHK大河ドラマで放映されている坂本龍馬がその好例と思います。
龍馬をブランド化したのは、言うまでもなく司馬遼太郎氏です。司馬氏の著書『竜馬がゆく』によって、坂本龍馬は後の世になって多くの人を魅了する人物に書き換えられ、幕末維新を代表する偉人として確固たる地位を築いた感があります。
一方、鉄舟はその生前、明治期は大変な有名人でした。子どもの手まり歌に歌われ、鉄舟が逝去し葬儀が行われた際には、数百人の人がその参列に加わり別れを惜しみました。しかし、その後龍馬のように時を越えブランドとして名を馳せるには、残念ながら至っていません。この違いはどのようなことなのでしょうか。

**********

鉄舟の活躍により官軍との和議が内定したと時を同じくして、上野寛永寺・輪王寺宮が覚王院以下僧侶たちを随行し、駿府に向かいました。東征大総督・有栖川宮に慶喜の助命と東征中止の嘆願を直訴するためでした。
輪王寺宮一行は、大変な苦難の末、3月7日駿府城にたどり着き、有栖川宮と合うことができました。しかし、その苦労は功を奏すことなく有栖川宮に一蹴されました。
5日後の3月12日、あらためて有栖川宮は輪王寺宮に、ただ一通の謝罪書だけを提出して罪を許してほしいとは言語道断だと言い残し、その後の決定事項は参謀の宇和島藩士・林玖十郎に伝えさせて座を辞しました。
輪王寺宮はその無礼な対応に憤りながらも、これは直接天皇にお願いするしかないと決意し、有栖川宮に再度かけあいました。有栖川宮は断固として拒否し、江戸に戻られよと命じました。輪王寺宮は度重なる無礼と本懐を果たせぬ屈辱を抱き、江戸に戻りました。
このことで、随行した覚王院らは激怒しました。このときの怒りが、後に彰義隊をバックアップするエネルギーとして燃え上がっていくのです。

**********

あるものをブランド化するには、ストーリーが必要です。
坂本龍馬は司馬遼太郎氏によってその生き方がストーリー化され、その魅力が創り出されたことによってブランド化を果たしました。もちろん、それは龍馬がブランド化されるに足る魅力を備えた人物であったことは言うまでもありません。
鉄舟も、その生きざまが私たちに素晴らしい示唆を与えてくれる偉大な人物です。ブランド化されるに足る魅力を備えた人物であると確信します。山岡鉄舟研究会は、その鉄舟の示唆に富んだ魅力溢れる生きざまを描き出す場であるのです。山本会長は鉄舟の生き方の研究を通じて、鉄舟のブランド化に務めておられるといえるのではないでしょうか。
鉄舟の生きざまが広く国民の心を捉え、魅力溢れる人物として創り出されることが、これからの研究の楽しみのひとつとなりました。
来月の山岡鉄舟研究会も、ご期待ください。

**********

4月は21日(水)18:30〜東京文化会館 中会議室1です。
皆様のご参加をお待ち申し上げます。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 10:02 | コメント (0)

2010年02月26日

2010年2月 高山での例会の感想

山岡鉄舟研究会 高山での例会の感想
2010年2月19日(金)
「鉄舟大悟す」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏

高山で当会の例会を執り行いましたので、ご報告いたします。
tessyuu_takayama100219_01.JPG

**********

当日は約30名あまりの熱心な地元の皆様が駆けつけてくださいました。
今回の高山例会は、東京での直近半年分のエッセンスを凝縮したポイントを、山本会長が発表いたしました。
今回のテーマは、鉄舟が大悟に至る道のりです。
鉄舟の大悟への苦悩の道のりは、「想魂錬磨」という言葉に表現されると、山本会長は語りました。
想魂錬磨とは、虚空蔵の中に一人ひとり異なる美点があって、蔵から出ることを切望しているから、自分の蔵に何があるかという探索をする、それは自分の想い・魂を尋ねることで、引き出したらその想魂を必死に練り磨き続けることです。
剣の立ち会いで浅利又七郎に敗れた鉄舟は、何が勝てぬ原因なのかを悩み抜きました。そしてある日、突然大悟したのです。
その大悟のきっかけは、千葉道場の弟子であった平沼専蔵との何気ない会話からでした。
ひとつのことをひたすらに考え続けること。そうしているとそのヒントが向こうからあらわれてくる。それは、普段聞いていると何でもないことなのだが、考え続け、求めていると体中が敏感なセンサーになり、気づくことができるのです。
大悟など我々にはそう簡単にできるものではありませんが、心に決めたひとつのことをおこない続けることが大切だ、そして、それが大悟に繋がるのだということを、鉄舟が教えてくれているのではないでしょうか。
tessyuu_takayama100219_02.JPG

高山では今後、年2回の例会を行っていきたいと思います。
次回は、鉄舟の命日である7月19日(祝)、命日法要と研究会を行います。
今回ご参加の皆様、ありがとうございました。
7月の法要研究会もご期待ください。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 17:56 | コメント (0)

高山・丹生川での講演会の感想

高山市丹生川地区社会教育運営委員会主催講演の感想
2010年2月19日(金)13:00〜14:30
「山岡鉄舟の生き方から学ぶ」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏

岐阜県高山市丹生川(にゅうかわ)地区社会教育運営委員会様からの依頼で、山岡鉄舟の講演を、山本紀久雄会長が行いました。
tessyuu_nyuukawa100219_01.JPG

**********

当日は80名あまりの参加者においでいただきました。
鉄舟は10歳から17歳までを、高山で過ごしました。高山は青春期の鉄舟がその人間力の基礎を育んだ地であり、現代においてはミシュランガイドで日本の観光地として三つ星を獲得した、文化の香り高き地でもあります。
その地で育った地元の皆様に、鉄舟のお話をさせていただくことは大変意義深いものがあります。
講演は、鉄舟の生き方を現代の我々の生き方に結びつけその指針とする内容で、高山の皆様にとっては単なる歴史上の偉人の紹介だけに留まらない、示唆に富んだ刺激的なものであったと確信します。

高山をはじめ、日本は外国から高い評価を受けています。それは、鉄舟のような優れた人物のDNAが我々の身体に宿り、日本人らしさのようなものを醸成しているからではないでしょうか。その日本人らしさを再確認するために、歴史を学び、鉄舟という人物に触れることは大変大きな意義があるのです。
今の時代にも通じる鉄舟の精神、それは世界が注目する日本のスピリットともいうべきものではないでしょうか。それを、世界に発信していきたい。これが山本会長の願いであることを結びとし、講演を終了いたしました。
ご静聴くださいました皆様、ありがとうございました。
tessyuu_nyuukawa100219_02.JPG

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 17:47 | コメント (0)

2010年02月25日

2010年2月例会報告

山岡鉄舟研究会 例会の感想
2010年2月17日(水)
「戦略的思考 彰義隊・・・その二」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏

今月の山本会長の発表は、勝海舟の戦略的思考と、それに基づく役割を見事に果たした豪傑たちの歴史的瞬間をお話しいただきました。
tessyuu_reikai100217_01.JPG

**********

標題にあります、戦略的思考とは、立場を分析することと、山本会長は語ります。
立場を分析するとは、それに関係する人間の視点から多面的に考えることではないかと思います。
勝海舟の戦略的思考は、自分や西郷、それを取り巻く状況を分析し、手を打ったことにあらわれています。官軍との和平交渉において海舟は、入念に保険をかけたと、山本会長は表現されました。
官軍へ恭順を示し、和議を結ぶにあたり、鉄舟が西郷との直談判に臨みました。海舟は鉄舟に一目会って、その「人となりに感」じ、会談成功の可能性に賭けたわけですが、成功を確実なものにするため、海舟は「保険」をかけたのでした。
海舟はアーネスト・サトウと英国公使パークスと3月9日夜に赤坂の海舟邸で会談を行いました。海舟はサトウ・パークスを通じて英国ルートからの和平工作を図ったのです。その後3月13日、パークスと官軍参謀・木梨精一郎が横浜にて会談を行いました。パークスは海舟との会談結果とその後の情勢から、木梨の江戸城攻撃に強く反対し、江戸城への攻撃を実行すれば、外国とも戦争状態になりかねないと圧力をかけたのです。結果、歴史は江戸無血開城へと向かっていったのです。
海舟のかけた「保険」は、官軍との和議を決定的なものにしました。しかし、最も重要なのは、鉄舟が慶喜の命を帯び、駿府にて西郷と会談し、見事和議に成功した。という事実があったからこそ海舟の「保険」が効いたのです。英国を動かした背景に、鉄舟が誰もが成し遂げられなかった駿府行き、命を賭した切落し行動があったという事を、理解することが大事なのです。
鉄舟の人間力が、江戸無血開城を実現しました。その裏には、海舟の卓越した戦略的思考のもと周到な下交渉が行われていたのです。これは本当に凄いことだと感嘆するほかにありません。

このことは、私たちに、立場に立脚した視点からの多面的な考察が、事を成し遂げるに必要なことであることを教えてくれます。
歴史は、私たちに今の生き方、戦略的思考を教えてくれるのです。

山本会長の研究は続きます。
来月の山岡鉄舟研究会も、ご期待ください。

**********

3月は2010年3月17日(水)18:30〜東京文化会館 中会議室1です。
皆様のご参加をお待ち申し上げます。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 07:45 | コメント (0)

2010年01月26日

2010年1月例会報告

山岡鉄舟研究会 例会の感想
2010年1月20日(水)
「気数に関すと対仏断行の決断」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏

山本会長の発表は、「気数に関すと対仏断行の決断」と題し、一刀正伝無刀流の極意である「切落し」から、勝海舟が行った政治的決断をお話しいただきました。

tessyuu_reikai100120_01.JPG

**********

前回、山本会長から、鉄舟がまとめた「一刀正伝無刀流極意」について解説いただきました。その中の「切落之事(きりおとしのこと)」について、前回の感想でこのように記しました。

切落しが教えてくれること。
それは、逃げない、ということ。
人生の中で壁にぶち当たったとき、そこから逃げるのではなく、真正面から自分の力で立ち向かうことだ。

切落しはまさに人生訓であり、ピンチを捉えそれを成功へと導く勝利への方程式であるのです。
しかし、むやみやたらに使ってよいものではないと、山本会長は語ります。
それは、勝海舟が陸軍総裁に抜擢されたときの政治活動にあらわれているのです。

気数に関す

これは、海舟が言った言葉です。
海舟は、鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸に逃げ戻ってきた慶喜の任命で陸軍総裁に就任しました。就任直後の幕閣会議で、主戦論が主流を占める陸軍の閣僚たちを前に、こう言ったそうです。
「およそ興廃存亡は、気数に関す。また人力の能くすべき所にあらず、今もし戦に決せば、上下一死を期すのみ」
このとき幕府の軍勢は官軍を上回っており、数の上では優勢でした。しかし、幕府の存亡は、時の趨勢が味方をしないだろう、ここで戦を起こせば全滅するだろう、ということを述べたのです。ここに、時代の流れを掴んだ海舟の鋭い洞察力があります。

対仏断行の決断

陸軍総裁就任3日後、フランス軍事顧問団のひとりが海舟に会いに来ました。主戦論を主張するためです。しかし、海舟は逆に、ロッシュの所に出向き、フランス軍事顧問団の解雇を申し渡しました。これは、海舟がフランスに対し行った事実上の離縁通達でした。これによってイギリスはフランスと対抗し日本への利権を奪い合う必要がなくなり、海舟にとってはイギリスを幕・官の仲介者としての役回りに変化させ、講話の道へと前進せしめたのです。
後にその実行役として鉄舟が駿府駆けをするに至る、その舞台を用意したのです。

海舟の判断ポイントは、時流を機敏に読み、流れに沿った「切落し」行動を起こしたこと。いくら切落しが重要でも、時代に逆らう切落しは有効とならない。時流を掴むことが重要で、時流を掴みその流れに乗った切落しでなければならない。海舟はそのことを教えてくれるのです。そして、海舟のこの行動は、後に来る「政権交代」への布石となったのです。

現代もまた、時代が大きく変化する流れの渦中にあります。その中で、昨年政権が交代したということは、抗えない時代の流れがそこにあったように思います。そのことを、鉄舟が生きた百数十年前を通じて学び、私たちの生き方を考えることは、大変意義のあることです。
明治維新と同じように政権交代を果たした日本は、今後どのように進んでいくのでしょうか。そのことを、鉄舟を通じて学びたいと思います。

山本会長の研究は続きます。
来月の山岡鉄舟研究会も、是非ともご期待ください。

**********

2月は2010年2月17日(水)18:30〜東京文化会館 中会議室2です。
皆様のご参加をお待ち申し上げます。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 11:57 | コメント (0)

2009年12月24日

2009年12月例会ご報告 その2

山岡鉄舟研究会 例会報告
2009年12月16日(水)
「切落し」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏


山本会長の発表は、「切落し」と題し、剣の極意から学ぶべきことをお話しいただきました。
tessyuu_reikai091216_01.jpg

**********

今回の発表タイトル「切落し」とは、鉄舟が遺した「一刀流兵法箇条目録」の12箇条の目録のうちのひとつです。
山本会長は、そのうちの冒頭の二つについて解説し、これは人生指針であると語られました。

■一刀流兵法箇条目録
一、二之目付之事(にのめつけのこと)
二、切落之事(きりおとしのこと)
三、遠近之事(えんきんのこと)
四、横竪上下之事(よこたてじょうげのこと)
五、色付之事(いろつきのこと)
六、目心之事(もくしんのこと)
七、狐疑心之事(きつねぎしんのこと)
八松風之事(まつかぜのこと)
九、地形之事(ちけいのこと)
十、無他心通之事(むたしんつうのこと)
十一、間之事(まのこと)
十二、残心之事(ざんしんのこと)
        以上十二箇条

■二之目付之事(にのめつけのこと)
二の目付とは、敵に二(ふたつ)の目付ありと云ふ事なり。先づ敵を一体に見る中に、目の付け所二つあり、切先(きっさき)に目をつけ、拳に目を付く、是れ二つなり。故に拳うごかねばうつことかなわず、切先うごかねばうつことかなわず。是れ二目をつくる所以なり。敵にのみ目をつけ、手前を忘れてはならぬ故、己をも知り彼をも知る必要あるを以て旁々(かたがた)之を二の目付と云ふなり。

これを山本会長は『伊藤一刀斎』(廣済堂創立60周年記念出版)著者の好村兼一氏に解説を請うたそうです。
好村氏によれば、これは剣道の世界では「観見強く、剣の目弱く」ということだそうです。このことを山本会長は、全体から個を見、かつ個を見て全体を見よ、ということと解説されました。

■切落之事(きりおとしのこと)
切落(きりおとし)とは、敵の太刀を切落して然る後に勝つと云ふにはあらず。石火の位(くらい)とも、間に髪を容れずとも云ふ処なり、金石(きんせき)打合せて陰中陽を発する自然により、火を生ずるの理なり。火何れよりか生ず、間に髪を不容(いれず)の処なり。切落すとは、共に何時の間にやら敵にあたる一拍子なり。陰極って落葉を見よ、陰中に陽あつて、落つると共に何時の間にやら新萌を生じてある。切落すと共に敵にあたりて勝あるの理なり。

好村氏によれば、切落しとは相手が斬り込んできたら、間髪入れずにこちらも斬り下げることなのだそうです。そうすれば相手の剣を飛ばすだけでなく、相手に斬り込むことができるという、剣道で最も重要な極意なのだそうです。


山本会長は、このことは重要な人生訓である、と語ります。
切落しが教えてくれること。
それは、逃げない、ということ。
人生の中で壁にぶち当たったとき、そこから逃げるのではなく、真正面から自分の力で立ち向かうことだ。
剣の極意を生き方の指針として捉えていくこと、そして、もっと重要なのは、それを日常訓練していくこと、そうでなければ「切落し」は到底実現できないのです。

tessyuu_reikai091216_02.jpg

鉄舟が私たちに教えてくださることは沢山あります。今回の目録のように、鉄舟が遺した文章ひとつをとっても、鉄舟の生き様、哲学が息づいています。
例会終了後の「望年会」で、参加者がこんなことをおっしゃったそうです。
「鉄舟さんがまるで我々に自分を研究しろと言っているようだ」
鉄舟の生き方を学ぶことは、時代がそれを要求しているのだと理解したいと思います。激動の世の中を生きた鉄舟のブレない生き様は、時代は変わりその内容も変われど激動の現代を生きる私たちに、確かな道標を示してくださっているように思います。そして、それを分かりやすく解説し導びいてくださる山本会長の鉄舟研究は、私たちの生き方の指針になると確信いたします。

研究は続きます。
来年の山岡鉄舟研究会も、是非ともご期待ください。

**********

例会終了後、忘年会ならぬ「望年会」を行い、来年に希望を託しつつ楽しいひとときを過ごしました。
ご参加くださいました皆様、ならびに本ホームページをご愛読の皆様、誠にありがとうございました。
新年は2010年1月20日(水)18:30〜東京文化会館 中会議室1です。
来年も皆様のご参加をお待ち申し上げます。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 08:35 | コメント (0)

2009年12月例会ご報告 その1

山岡鉄舟研究会 例会報告 その1
2009年12月16日(水)
「鉄舟遺墨辞典の進捗状況」
事務局・田中達也

今年も残すところ半月となり、師走の慌ただしさが街に漂う雰囲気のする晴天の日、12月の例会を行いました。
今回は、事務局・田中より、「鉄舟遺墨辞典」の制作進捗についてお話しさせていただきました。

**********

「鉄舟遺墨辞典」とは、難解なことで知られる鉄舟の書を何とか読むことができないかという願いから生まれたプロジェクトです。
鉄舟の書を集め、その読み方のパターンをコンピュータにデータベース化すると、類例から読み方の推測ができるのではないかと考えたのが発端です。

コンピュータに登録する書は基本的に、その読み方が分かっているもの、かつ、所有者から使用許可を得ているものとなります。現状、まだまだ数が少なく、辞書として機能するにはほど遠い状態ですが、今後も書のデータ収録と、読み方を検索する工夫を考えることを続けていきます。2年後にはある程度機能する辞典ができ、3年後には皆様にご披露できるのではないかと期待しています。

鉄舟の書が読めるようになりたい。
こう考えましたのには、第一義には純粋に鉄舟の難解な書が読めればこれほど嬉しいことはないとの素朴な願いからですが、本会は「鉄舟から生き方を学ぶ会」ですので、その趣旨に沿ったものでなければならないと考えています。

「鉄舟遺墨辞典」制作の意義
「鉄舟の書を読み、その意味を知ることは、それを書いたときの時代の潮流や鉄舟の行動などと重ね合わせることによって、鉄舟の思いに触れることができると考える。そのことが、鉄舟の生き方を知り、我々の生き方を学ぶヒントになると信じる」

鉄舟の書を読む本質は、鉄舟の書から滲み出る鉄舟の生き様を学びたい、ということに尽きます。
これにITの技術を借り誰もが鉄舟の書を読めるようになることは、まさに現代でなければ実現できなかったことです。鉄舟が書いた書をその読み方と結びつけコンピュータに登録し、それを検索すれば、一文字読めるだけで一幅全体の読み方が判明する。これがIT時代の「鉄舟遺墨辞典」です。
鉄舟とIT。何だかミスマッチのようにも感じますが、さにあらず。
鉄舟を学ぶことは、時代を学ぶこと、つまり、新しいことを学ぶことと考えます。
鉄舟の書が最先端の技術によって蘇り、我々に何かを指し示してくれる。
これが、私の考える「鉄舟遺墨辞書」へのロマンです。

辞典制作の経過は定期的にお知らせしようと思います。
道のりはまだまだ長いですが、おつきあいください。
完成する日をお楽しみに。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 08:27 | コメント (0)

2009年11月18日

2009年11月例会ご報告

2009年11月14日(土)
『生麦事件歴史散策研究会』報告

11月特別例会が行われましたのでご報告します。

reikai091114_01.JPG reikai091114_02.JPG

前日からの雨模様にやきもきしながら迎えた当日、どんより曇り空ながら雨は落ちていないことに安堵しつつ、集合場所であるJR鶴見線「国道」駅に向かいました。

*****

国道駅は鉄道の高架下につくられた古めかしい駅です。
参加者のおひとりが、社会人駆け出しのン十年前、よくこの路線を使っておられたそうですが、その頃と少しも変わらないと感慨にふけっておられました。それもそのはず、国道駅はもともと大正15年(1926)に貨物線として開業した鶴見臨港鉄道に、昭和5年(1930)旅客営業開始とともにつくられ、以後そのままの姿を残しているのだそうです。ちょっと薄暗くて恐ろしげですが、レトロな佇まいに最新のSuica精算機が鎮座している姿は、時を超えどなお現役であり続ける健気さを物語っているようでした。
reikai091114_03.JPG reikai091114_04.JPG

全員集合し、さっそく生麦界隈の散策に出発しました。
駅の高架下を抜けると、生麦の商店街「魚河岸通り」に出ます。ここは旧東海道の街道筋です。ここに今でもわずかに残る魚屋さんの軒を覗きながら闊歩しました。
生麦事件が起こった幕末期、生麦村の街道筋はほとんどが漁師の家で、道の両側には魚屋が軒を連ねて並んでいたそうです。現在は「魚河岸通り」という通りの名が往時を偲ばせていますが、今ここを歩いてみますと、何でもない地方の商店街に魚屋が通常よりもたくさん並んでいる、といった印象です。漁業で賑わう町、例えば新潟県・寺泊などは「近海で獲れた新鮮な魚を持ってきて売っている」イメージがありますが、生麦の通りはそのような感慨は湧きません。
江戸時代、東海道の生麦近辺は海沿いに通っていました。江戸の絵地図や錦絵などを見ても、通りのすぐ南側は海になっています。当時は江戸前の魚介類が生麦村のすぐ脇の鶴見川の河口から水揚げされていたのです。
生麦の海側一帯は現在、埋め立てられています。鶴見川を挟んで対岸は京浜工業地帯です。また、生麦の南側一帯はキリンビールの大きな工場が横たわっています。この光景が、生麦は海辺の漁師町であることをすっかりかき消しているのです。
reikai091114_05.JPG reikai091114_06.JPG

魚河岸通りを抜け、旧東海道に沿って横浜方面に歩きます。やがて「生麦事件発生現場」に到着。
発生現場は、民家の軒先にちょこんと掛けられている看板で知ることができます。うっかりすると見落とします。
ここから今回の主見学地「生麦事件の碑」までは、街道沿いに700mあまり先にあります。実は生麦事件の碑が建てられているのは、イギリス人リチャードソンが絶命した場所なのです。リチャードソンは発生現場で斬りつけられ、馬で700mあまり逃走の後、落馬して絶命したのです。馬ならあっという間だったのでしょうが、歩くと結構な距離がありました。
その逃走距離をゆっくり散策しながら、「生麦事件の碑」に到着しました。
生麦事件の碑は、旧東海道と国道15号線が合流する地点にひっそりと建っています。小高くなった敷地の上に小さな社が建ち、碑が奉られています。どなたかが手入れをされているのでしょうか、きれいに保たれています。
reikai091114_07.JPG reikai091114_08.JPG

*****

旧東海道を散策した一行は、「生麦事件参考館」へと向かいました。
館長の淺海武生様がお出迎えくださり、さっそく中へ。
館内は生麦事件関連の史料に始まり、事件に関係した薩摩の史料や当時横浜の外人居留地内で発行されていた新聞など、とても貴重なものばかりです。展示されていないものも含めますと1,000点を超す史料があるそうで、生麦事件の全容を解明するためのご努力にはただただ感服するばかりでした。
淺海館長の、この並々ならぬ情熱の背景にはどんな思いが込められているのでしょうか。
reikai091114_09.JPG reikai091114_10.JPG

淺海館長は、もともと地元で代々酒屋を営んでおられます。
酒屋をきりもりされていた当時は館長ご自身も、生麦事件については教科書に載っている有名な事件という認識しかなかったそうです。しかし、この生麦事件こそ、日本が近代国家樹立に向けて開国へと舵を切った重要なきっかけになる事件であったことを知り、なぜそのような重大な出来事を語る場所も人もいないのかと行政などに問いかけたところ、この事件は当時秘匿されるべき性質のものであったため、史料がほとんど残っていない、また、生麦はあくまで事件現場であって当事者は薩摩とイギリスであるのでなおさら史料に乏しい、資料館など作るなら民間で行ってほしいとの素気ない回答だったそうです。これに一念発起した淺海館長は、自ら私財をなげうって史料の収集を始められたのです。
生麦事件を研究するにあたって館長は、幕末〜近代史の流れをあらためて勉強する必要があると考え、60代にして大学に入学し、近代史を学び直されたそうです。そして、薩摩など各地に散在する史料を尋ね歩き、海外にまで史料を求めるなど並々ならぬ努力を重ねられました。一方、地元の名主さんや代々の家に残る史料なども丹念に調査し、生麦事件の全容解明に尽力されたのでした。
吉村昭氏が『生麦事件』(1998・新潮社)を著しておられますが、原稿執筆の際、吉村氏は参考館に何度も通い詰め教えを請うたそうです。生麦事件に関しては、淺海館長は第一人者といえるでしょう。2000年には、生麦事件に関する知識の啓発普及に努めたとして中曽根文部大臣(当時)より感謝状を受けておられます。
現在、淺海館長は講演活動を行い、参考館の維持に努めておられます。参考館は無料で開放されています。講演は、全国の学校や民間から依頼が殺到し、一年後までスケジュールがいっぱいだそうです。

淺海館長から学ばねばならないこと。
それは、現在淺海館長があちこちから講演の依頼が引く手あまたであることの結果から考えねばならないと思います。
淺海館長は地元・生麦の人間として、歴史上大変重要なこの事件を解明することをご自身の目標とし、調査と研究を一つひとつ着実に実行してこられました。その結果として、有名作家が館長の教えを請うため訪れるなど、生麦事件について館長の右に出るものはいないほどの評価を得ることになったのです。その結果が、各地から講演依頼が殺到するという事実だと考えます。
このことは、人生目標を定め、ぶれることなく行動した鉄舟の生き方に相通じるものがあるように思います。淺海館長の生き方は、鉄舟が自身の生き方を通して教えてくれている指針を体現されているのではないでしょうか。そしてそれは、時を超えど変わらないセオリーがあることを証明しているのです。
淺海館長の成された偉業に、あらためて敬意を表します。

淺海館長、お忙しいところご無理を言って押しかけたにもかかわらず、懇切なるご対応を賜り、誠にありがとうございました。深謝申し上げます。

*****

reikai091114_11.JPG reikai091114_12.JPG
reikai091114_13.JPG reikai091114_14.JPG

生麦事件参考館を後にした一行は、キリンビール横浜ビアビレッジへ移動しました。
ここで、ビール工場の見学と懇親会を行いました。
懇親会はビアビレッジ内のレストラン「スプリングバレー」にて行いました。ここではビール工場ならではのできたての地ビールを堪能しました。美味しかった。
ほろ酔いの一行は、散策と勉強、工場見学と懇親というハードスケジュールをこなし、帰途についたのでした。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 19:05 | コメント (0)

2009年10月30日

2009年10月例会ご報告 その2

山岡鉄舟研究会 例会報告
2009年10月21日(水)
「求めていると目的へのきっかけが現れる」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏

山本氏の発表は、「求めていると目的へのきっかけが現れる」と題し、人がそれぞれ求める目的を実現するためのきっかけについてのお話でした。
reikai091021_03.JPG

**********

鉄舟は浅利又七郎に敗れ、その影に打ち勝つにはどうすればよいのかを考え続けました。その答えにたどり着いたとき、大悟したわけですが、それまでの道のりはとても長いものでした。

鉄舟の禅修行は、その過程で多くの師に師事しています
安政二〜六年
文久元〜三年
元治元年
慶応元〜四年
 →願翁(埼玉・長徳寺)
明治元〜三年 →滴水(京都・天龍寺)
明治五〜七年 →星定(三島・龍沢寺)
明治十〜十二年 →滴水
明治十三年 【大悟】
この他にも相国寺・独園和尚、円覚寺・洪川和尚など、多くの和尚さんについて禅の修行をしました。
ここで山本氏はひとつの疑問を呈します。
修行をするのであれば、たくさんの師につくよりも一人の師からじっくりと学ぶ方がよいとうに思えるが、どうであろうか。
これについて、神渡良平氏はその著書『春風を斬る』で、鉄舟にこう語らせています。

「人間は生まれ育つ過程では大変両親のお世話になる。しかし、ものごころ付いて、人生の意味を問い始め、私はこの人生で何をしたらいいのかと思い悩むようになったとき、もはや両親では満足できなくなる。“肉体の親”を超えて、“魂の親”を渇仰(かつぎょう)し始めたといえる。
 人間は自分の疑問に答えてくれる人を訪ねて、何千里でも旅をする。…(中略)…
 魂の師は一人ではない。参禅しているうちに、ああ、わしはこの老師から学ぶことは終わったなということを感じ、自然に卒業の時がやってくる。そして次に師と仰ぐべき人は誰かと捜し求めていると、ピーンと閃くものがある。わしにとって、二番目の星定老師との出会いがそうであった。そして卒業のときがやって来て、次の師匠が現れる。それが滴水老師だった。…」
(『春風を斬る』神渡良平著)

すなわち、己が求め続けていれば、自然とそれに応えてくれる師を捜し、また、その師は現れてくれるということなのではないでしょうか。
このことは、剣の修行と何ら変わるものではありません。剣も、己が強くなればさらに強い相手を求めていくものでしょう。その意味で、鉄舟にとっては剣禅は一体となった修行の場であったのではないでしょうか。

勝海舟が鉄舟を評してこう述べています。

「鉄舟の武士道は、鉄舟の言うとおり、仏教すなわち禅理から得たのである。…山岡も滴水、洪川、独園等の諸師について仏理を研究し、かえってそれら諸師よりも以上の禅理を悟り得たものである…」
(『山岡鉄舟の武士道』勝部真長編)

reikai091021_04.JPG

鉄舟は浅利又七郎に出会ってから17年間、自分にのしかかっている浅利の影をどうしたらはねのけられるのかについて、ずっと考え続けました。このことが鉄舟をして剣禅の激しい修行をせしめたのです。さらにいえば、このことが17年後、鉄舟が大悟するに至る大きな心のよりどころでもあったのではないでしょうか。

修行するということは、考え続けるということだ。
山本氏は、そう語ります。
考え続けるということは、求め続けるということであり、求めていれば、それを解く「きっかけ」が必ず現れるのです。
鉄舟にとっての「きっかけ」とは、かつて千葉道場での弟子だった平沼専蔵という実業家でした。
平沼専蔵は現在の横浜銀行の創設者で、商才に長け一代で財をなした人物でした。
平沼は鉄舟に揮毫を所望するためにやってきました。久方ぶりの再会に、鉄舟は平沼にどうしてそのように財をなすことができたのかを尋ねました。平沼はそれまでの失敗と成功の足跡を語り、その心境をこう述べました。

「…そこで自分はかくのごときことに心配をなすは、とても大事業をなすことあたわずと思い、その後何事を企つとも、まず我が心の明らかなる時にしかと思い極めおき、それから仕事に着手せば、決して是非に執着せず、ズン〃〃やることに致せり。その後は大略損得にかかわらず、本当の商人になりて、今日に至れり云々…」
(『鉄舟随感録』山岡鉄舟筆記、安部正人編。一部意訳)

この言葉に、鉄舟はピンときたのです。ともすれば気がつかず聞き流してしまうような何でもない会話の中に、鉄舟が大悟するヒントが隠されていて、瞬間、鉄舟に飛び込んできたのです。

「翌日より之を剣法に試み、夜はまた沈思精考すること約5日、従前のごとく専念呼吸をこらし、釈然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを見ゆ」
(『鉄舟随感録』山岡鉄舟筆記、安部正人編。一部意訳)

鉄舟はついに大悟したのです。

考え続けること。
そうすれば、きっかけが向こうから現れてくれる。それは、なんでもないこと、さりげないひとことなのだが、それが大きなヒントとなるのです。
考え続け、求めること。
求めることで、身体中が敏感なセンサーになり、向こうからやってきた「きっかけ」に気づくことができるのです。
そのことを学んだ、今回の例会でした。

**********

次回は、歴史散策研究会です。
11月14日(土)10:00〜「生麦事件歴史散策研究会」を行います。
たくさんのご参加、お待ちしています。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 16:00 | コメント (0)

2009年10月29日

2009年10月例会ご報告 その1

山岡鉄舟研究会 例会報告 その1
2009年9月16日(水)
「人の使命について考える」
岡村紀男氏

10月の例会が行われましたので報告します。
今回は、メンバーの岡村紀男氏に、「人の使命について考える」と題し、幕末から明治維新にかけて活躍した人物の使命についてお話しいただきました。

reikai091021_01.JPG

**********

reikai091021_02.JPG
岡村紀男氏

岡村氏の資料は、次のような書き出しで始まっています。
「清河八郎の死から、人に与えられた使命について考えた。聖書に登場する預言者の多くは託された使命のために命を失うことを恐れず、使命を遂行した。征韓論で敗れた西郷隆盛は『だれが戦を好くものか』と言い、本来は非戦論者であった。しかし、一方では『道義(使命)を守るためには一国が滅んでも戦う』と言い、自らの命を投げ出した。以下の人物から使命の処し方・生き方について考察した」
自らの死を賭けて使命を全うするとはどんなことなのでしょう。それを岡村氏は、次の人物たちの生き様から考察されました。

1.吉田松陰「死の覚悟を超えて」
   〜自らの死によって草莽崛起の呼び水になった
2.高杉晋作「幕末長州のエネルギー」
   〜高杉は明治維新のベースを作って死んでいった
3.木戸孝允・西郷隆盛「尊王攘夷から討幕へ」
   〜明治維新実現を期に表舞台から去る
4.勝海舟「幕臣隋一の才人」
   〜幕末から彼の死まで日本にとって不可欠な存在
5.山岡鉄舟「江戸城無血開城の先駆者」
   〜今も我々に生き方を示し続ける人物
6.清河八郎「将軍を警護しつつ攘夷の魁に」
   〜浪士組組織後の2ヶ月が八郎の人生の秋

この中で印象深かったのが、高杉晋作の生き様でした。
岡村氏は山口県のご出身です。そのご関係から、彼の生き様の語り口は熱の入ったものでした。
高杉晋作は、吉田松陰の一番弟子といってもよい存在で、松下村塾のリーダーでした。
高杉の使命とはどんなものでしょう。このことを考えるにおいて、岡村氏はひとつの資料を提供してくださいました。それは、幕府による第二次長州征伐です。
第二次長州征伐は各地の防長二州の境にて行われました。幕府軍は手始めに岡村氏の出身地、大島を攻めます。幕府軍約2,000人に対して長州軍約500人。長州軍は一時大島を占領されるが、高杉の活躍で奪還を果たします。この戦勝を契機として長州軍は連戦連勝します。この戦争に投入された軍勢は、長州軍約3,500人に対して幕府軍は約122,000人でした。その差なんと約35倍。人数差が圧倒的に不利な戦争に、長州軍は勝利したのです。
この奇跡的な勝利に貢献した高杉の使命は、身分の垣根を解いた混合軍隊「奇兵隊」を創設し、全国から招集された各藩の正規軍を破ったことではないでしょうか。さらに、このことは、明治以後芽生える日本人の「国民」という思想の原型をなすもののように思います。
司馬遼太郎氏は小説『坂の上の雲』の中で、日清・日露の両戦争が、日本人をして「国民」という思想を定着せしめたと語っておられます。高杉は、その数十年前に、日本人が「国民」という意識を歴史上初めて持つ、その芽を植えた一人であると感じました。

岡村氏は、先に挙げた人物ひとりひとりの使命を端的に解説してくださいました。人は使命を持って生きていて、その使命を果たすときは突然やってくるのではないでしょうか。その使命を全うする機におよんで、紛うことなく成し遂げる準備を、日頃からしておくこと。鉄舟は、このことを私たちに教えてくれているように感じました。
岡村紀男さん、ありがとうございました。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 12:39 | コメント (0)

2009年09月20日

2009年9月例会ご報告 その2

山岡鉄舟研究会 例会報告 その2
2009年9月16日(水)
「本格的な参禅へ」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏

山本氏の発表は、「本格的な参禅へ」と題し、鉄舟が剣の修行に加え、禅を本格的に学び始めたことについての発表でした。

reikai090916_04.JPG

**********

鉄舟は浅利又七郎との立ち会いに敗れ、精神面を鍛えることの重要性を痛感しました。
鉄舟の参禅はそこから始まるわけですが、このことが、後の江戸城無血開城を成し遂げた鉄舟の人間力醸成へとつながったのです。

しかし、山本氏はひとつの疑問をここで呈します。
人間力だけで、一介の下級旗本であった鉄舟が、突如として蟄居謹慎している将軍慶喜に謁見し、西郷との談判を一任されるものでしょうか。
この点について、山本氏はかねてより疑問を抱いていたそうです。しかし、解決へのヒントとなる史料が出てこなかったため、今後の課題としておいたのです。
が、ここへきてその解決の糸口となるかもしれない史料を発見されたのです。
それを今回、私たちに紹介されました。
その史料とは、仙台藩士・小野清の『徳川制度史料』です。

reikai090916_05.JPG reikai090916_06.JPG
山本紀久雄氏(左)/発表風景

従来、将軍慶喜が上野寛永寺にて蟄居謹慎し朝廷に恭順の意を示していたが容れられず、万策果てたところへ突如として山岡鉄舟がその交渉人として抜擢されたようになっています。しかし、ここの部分がどうにも不自然で腑に落ちなかったと、山本氏は語ります。高橋泥舟が鉄舟を推薦したとき、慶喜は鉄舟をすでに知っており、あの男なら任せてもよいと判断したと考える方が自然です。
慶喜と鉄舟は事前に接点がなかったのでしょうか。

仙台藩士・小野清著『徳川制度史料』から引用します。
「…正月十二日巳の刻頃、八代洲河岸林大学頭の楊溝塾を出て、芝口仙台藩邸に行く。幸橋門に至れば、武家六騎門内に入り来る。
 近寄りて見れば、その先駆者は知り合いの山岡鉄太郎なり。これに継ぐところの五騎は、いずれも裏金陣笠、錦の筒袖、小袴の服装なり。とりわけ、その第二騎の金梨子地鞘(きんなしじざや)、金紋拵(きんもんこしらえ)の太刀を佩(は)きたる風貌、目送これを久しうす。
 後に知る。これ、徳川慶喜公。六日夜大坂天保山沖にて開陽艦に乗じて東帰し、遠州灘にて台風にあい、黒潮付近まで航して今暁浜館に上陸し、今、鉄太郎に迎えられて江戸城に還入するものなるを。
 しかしてその六騎なる者、曰く、先駆・出迎者山岡鉄太郎、これに継ぐところの五騎の第一、前京都守護職会津藩主松平肥後守容保。第二、前大将軍徳川内大臣慶喜公。第三、前所司代桑名藩主松平越中守定敬。第四、老中松山藩主板倉伊賀守勝静。第五、老中唐津藩主小笠原壱岐守長行なり。勝安房守義邦は、鉄太郎浜館に先発せしのち、西丸大手門外下乗橋に出て、ここに公一行を迎うという…」

将軍慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れ、早々に江戸に引き揚げてきたとき、鉄舟が先頭となって護衛を務めたというのです。これが事実だとすれば、慶喜は鉄舟と事前に会っていたということになります。

もうひとつ、資料をご紹介します。
東京日日新聞が、戊辰戦争から60年経った昭和3年に『戊申物語』と題した連載を掲載しました。これは明治維新の動乱を経験した高村光雲たちからの聞き書きをもとに、当時の庶民感情などを紹介したものです。

東京日日新聞編『戊申物語』から引用します。
「…海上遠州灘でひどい暴風に遭って苦しみつつ、十一日開陽丸は浦賀へ入った。翌日将軍は金子二百両を出して小舟を雇い、これで浜御殿へ入り、ここで一先ず休憩。その日は青空ではあったがひどく寒い。将軍家は直ちに馬上江戸城へ向かった。勝安房守が御殿まで、次いで山岡鉄太郎が馬を飛ばして出迎えた。丁度巳の刻頃、つまり今の午前十時、立派な武士が六騎肥馬をつらねて芝口近く幸橋門へかかった。劈頭(へきとう)、駒の轡をしめて眼光炯々四辺をにらめ廻しつつ来るのが山岡鉄太郎。ついで第二騎、少しおくれて第三騎、錦の筒袖に、たっつけの袴、裏金の陣笠をかむり金梨地鞘に金紋拵えの太刀をはき、風貌おだやかな武家、また少しおくれて第四騎、第五騎、六騎とも実に立派なる武士ばかりであった。
…いずれも京都を落ち、淋しく江戸入りの人々であった。勝安房守はこの時はじめて伏見鳥羽の戦報を聞いた。なお詳細の説明を願ったが、すべて顔色土の如く、ただわずかに板倉伊賀守のみが、ぽつりぽつりとそれを語り得るにすぎなかった(目撃者、旧仙台藩士小野清翁)」

出所は同じ仙台藩士・小野清ですが、新聞連載の記事だけに当時は割と有名な出来事であったのではないかと思われます。

『徳川制度史料』の中で、小野清は、鉄舟と知り合いであったと書かれています。
これについても、『戊申物語』に記述があります。

その部分を引用します。
「…あさり河岸の桃井(もものい)道場士学館の先生は、春蔵直一の長男で、家芸の鏡新明知流(きょうしんめいちりゅう)よりは小野派の一刀流をよく使った(小野翁談)。左右八郎直雄(そうはちろうただお)、三十そこそこで丈六尺二寸の壮漢、講武所にも師範して元気のはち切れそうな剣客だった。この門人の上田右馬之允(うえだうまのすけ)というものがこの松田(注:料理屋)へ、よその子供をつれてある時御飯をたべに行った。何しろ一ぱいのお客、子供がうっかりして四人づれの武士の刀をちょっと蹴りつけた。飯を食って戻ろうとした四人づれが右馬之允の羽織の襟をつかんで「真剣勝負をしろ」といってきかない。先ほどからわび抜いていたところなので、右馬之允は相手にもせず、子供の手を引いて笑いながら大きなはしご段を下りて一足かけると「ヤッ!」といって四人一斉に鋭く斬り下ろした。ところが、右馬之允はよほど出来ていたと見えて、「ウム!」といって足を段にかけたまま斜めに振り返ると真先の一人を居合で払った。その武士は深胴をやられて梯子段をころがり落ちて死に、上田は血しぶきで真紅になった。
 残る三人は、子供をかばいながらまたたく間に斬り伏せてしまったが、息一つはずませてはいなかったということで、この人の帰る時は、松田の前は山のような人だかりであった。この斬り合いの様子をきいて、山岡鉄太郎なども門人を集めて、からだを斜めにして不利な立場にあり、斬り下ろされる瞬間にこれを払う型を教えたりして感心した(鉄舟長女、山岡松子刀自談)。同じく左右八郎の門弟だった小野清翁はこの「上田」を「細川」と記憶しているといっている」

つまり、小野清は鉄舟と同じく、小野派一刀流の門人だったということです。同じ道場に通っていた剣の仲間だったということでしょう。

これらのことから、慶喜は鉄舟とすでに面識があり、西郷との談判に鉄舟が推薦されたとき、慶喜の頭の中に鉄舟が具体的に思い描かれたため、素直に受け容れたのではないでしょうか。
史料の裏付けも含め、山本氏の今後の研究が楽しみです。

*****

次回は、10月21日(水)18:00〜 東京文化会館・中会議室1にて行います。
たくさんのご参加、お待ちしています。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 15:22 | コメント (0)

2009年9月例会ご報告 その1

山岡鉄舟研究会 例会報告 その1
2009年9月16日(水)
「おもしろ漢字講座」
水野靖夫氏

9月の例会が行われましたのでご報告します。
今回は、メンバーの水野靖夫氏に、「おもしろ漢字講座」と題し、漢字の成り立ちについてご発表いただきました。

reikai090916_01.JPG

**********

日本語は、漢字から成り立っています。
私たちが現在使う、ひらがなやカタカナも漢字を起源としています。
その漢字の成り立ちについて、いろいろ教えていただきました。

reikai090916_02.JPG reikai090916_03.JPG
水野靖夫氏(左)/発表風景

例えば、「羊羹(ようかん)」という漢字があります。
難しい字です。読めるけど書けない漢字の代表といえるでしょう。
これを、漢字の成り立ちから理解していくと、書けるようになるかもしれませんね。
羊羹というのは、現代の私たちは和菓子を思い浮かべますが、もともとの意味は「ひつじのスープ」という意味で、モンゴル地方を語源とすることばなのだそうです。
羊羹の「羊」は文字通りひつじですが、「羹」を分解してみると、「羔」と「美」に分けることができます。
この「羔」はこひつじの意で、「美」はおおきなひつじの意味になるそうです。その昔、モンゴルでは宗教的儀式の際、ひつじを生け贄に捧げていたそうです。そのとき、やせ細った老羊では神様のお怒りに触れるでしょうから、まるまる太った若い羊を生け贄に差し出しました。ですから、「羊」に「大」と書くと、「美」=うつくしいという意味になったのだそうです。そして、ちいさなひつじもおおきなひつじもスープにして食べることから、「羊羹」という漢字は、大小さまざまな羊が集まってできているということになるのだそうです。なるほど。
ちなみに、漢字の一部に「羊」が使われている漢字は、「美」「善」など、よい意味に使われるものばかりなのだそうです。
私事で恐縮ですが、私の名前の一字「達」にも羊が入っています。発達するなど、よい意味に使われているというわけです。名前に縁起のいい字が入っていると、ちょっと嬉しくなりますね。

他にもいろいろな漢字の成り立ちや、漢字の部品からなるバリエーションを教えていただきました。
このようにして漢字を覚えると、とても覚えやすいのではないかと思いました。
そして、このような指導の仕方が、今日の学校教育に必要なのではないか、水野氏はそう語りました。まさにその通りと思います。学校で習う漢字は、画数などによる難易度で習う学年が決まっているのだそうです。そして、何より問題は、漢字の成り立ちを教えず、丸暗記させていることです。しかし、水野氏から教えていただいたように、漢字の成り立ちから理解していくと、少々難しい漢字でも、成り立ちが同じ漢字はいっぺんに覚えられるような気がしますが、いかがでしょうかね。

漢字は、一文字でいろいろな意味や読みを表現できる世界でもユニークな文字だと思います。漢字のおかげで、日本語はとても豊かな文章表現ができるのではないでしょうか。日本人に生まれてよかったなぁと感じた、水野氏のお話でした。
水野靖夫さん、ありがとうございました。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 15:18 | コメント (0)

2009年07月26日

飛騨高山・鉄舟法要と追悼記念講演会ご報告

鉄舟法要と追悼記念講演 ご報告
2009年7月19日(日)
岐阜県高山市・宗猷寺

鉄舟が少年期を過ごした飛騨高山・宗猷寺にて、鉄舟の命日法要と講演会を行いましたので、報告いたします。

takayama090719_01.JPG

*****

前日に高山に乗り込んだ鉄舟会メンバー。
東京方面からは8名が参加しました。
高山では、今回の法要研究会を現地で取りまとめてくださった水口(みなぐち)武彦先生(元校長先生)、田中彰様(高山市郷土資料館学芸員)のご尽力で、チラシの配布や新聞等への紹介をいただき、多くの地元の皆様の関心を集めることができました。また、鉄舟会メンバーの北村様のお母様(以前訪問したときも手料理の歓迎をいただきました)や宗猷寺お向かいの銭湯・鷹の湯の清水様、そして岩佐一亭のご子孫、岩佐清様ほか多くの方々のご協力で、会の準備が万端整いました。

前日の打ち合わせを終えた東京からのメンバーは、ホテル近くの居酒屋で士気を高め、ホテルの展望スパで汗を流し、明日に備えました。

*****

前日からのあいにくの雨模様にやきもきしながら、当日の朝を迎えました。
当日はどんより曇り空でしたが、雨が降っていないことでよしとし、朝食をとって宗猷寺に向かいました。
当日は50名を超えるご参加をいただきました。昨年まではこの宗猷寺ではご住職がおひとりで法要を行っておられたとのこと。鉄舟居士も、そしてご両親も喜んでくださったのではないかと感慨ひとしおでした。

7月19日9時15分。鉄舟臨終の時刻です。
参加者は鉄舟のご両親の墓前に集まり、ご住職親子の読経とともに塔参諷経(とうさんふぎん)が始まりました。
takayama090719_02.JPG takayama090719_03.JPG
塔参諷経を終え、本堂に入り、鉄舟居士の法要(毎歳忌)に移ります。
参加者は順に焼香し、鉄舟居士の霊を弔いました。
takayama090719_04.JPG takayama090719_05.JPG
法要が終わり、ご住職から法話を頂戴しました。
takayama090719_06.JPG takayama090719_07.JPG

*****

続いて、高山市を代表して、高山市郷土資料館・田中彰様からご挨拶を頂戴しました。
takayama090719_08.JPG takayama090719_09.JPG
現在、高山市郷土資料館は館の増築を行っておられます。完成すれば現在の倍の広さの資料館となる予定だそうです。そして、そこには鉄舟のコーナーも設け、資料館で収集されている鉄舟ゆかりの品などを展示されるそうです。楽しみです。着工は今年の末だそうです。

*****

休憩の後、山本紀久雄会長の講演を行いました。
takayama090719_10.JPG takayama090719_11.JPG

私たち山岡鉄舟研究会は、山岡鉄舟の生き方を通じて、現代に生きる私たち自分自身の生き方の指針とすべく研究を重ねています。その目的で鉄舟という人物像を探求していけばいくほど、そのブレない生き方は大いに学ばねばならないと感じさせられます。そして、そのブレない生き方を実践した「人間力」は、鉄舟が少年時代を過ごした、この高山の地に依るところが大きいのではないでしょうか。
takayama090719_12.JPG takayama090719_13.JPG

私は、今回の高山法要に先駆けての打ち合わせ等で初めて高山の地を訪れました。豊かで、緑深き山々に囲まれた大自然の中に、小京都と謳われる瀟酒な街並が碁盤の目のように広がり、その間を人が行き交い活気に溢れています。さすがミシュランが三ツ星をつけた街と納得しました。講演の最中にも、欧米人の観光客が数組、本堂を覗き込んでいきました。
しかし、何よりも感激したのは、高山の方々のお人柄です。現地での広報や、懇親会の仕出しの手配など、とても熱心にお手伝いくださいました。本当に感謝申し上げます。
takayama090719_14.JPG takayama090719_15.JPG

鉄舟は代官の子としてこの地に赴き、今でいうと小学校高学年〜高校生ぐらいまでの時期を過ごしました。その間、寺子屋で地元の子どもたちと一緒に学び、岩佐先生に書の手ほどきを受け、井上清虎から剣を学びました。山本会長の講演を聴きながら、少年鉄太郎もこうやってこの地でいろんなことを学んで成長していったのだなあと思うと、感慨ひとしおでした。そして、鉄舟の人間力を醸成した高山の地で、このような盛大な研究会を行えたことに、あらためて感謝の意を強くしました。

*****

山本会長の講演の後は、参加者の親睦を深めるべく懇親の席を設けました。
takayama090719_16.JPG

鉄舟のために多くの人が集まり、席を同じくするご縁ができたことを本当に嬉しく思います。ご参加くださいました皆様、ありがとうございました。また、この日のために現地で大変なお骨折りをくださったお世話役の皆様、そして、宗猷寺ご住職の今城様、本当にありがとうございました。

今後は、この毎歳忌を、山岡鉄舟研究会の全国大会と位置づけ行っていこうと考えています。
来年の7月19日も、皆様と高山でお会いできることを楽しみにしております。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 19:17 | コメント (2)

2009年06月23日

2009年6月例会報告 その2

山岡鉄舟研究会 例会報告 その二
2009年6月14日(日)
靖国神社正式参拝と史跡散策研究会

史跡見学散策を写真でご報告

研究会終了後、靖国神社〜飯田橋界隈の史跡を散策しました。
案内役は矢澤昌敏氏。
昨年に引き続き、詳細な資料とともに私たちを歴史の旅へと誘ってくださいました。

**********

集合時間より大分早めに靖国神社に到着。
目的は、遊就館内にあるレストランの「海軍カレー」です。
昔のままの味だそうです。具だくさんで美味しかったです。
皆さんも一度ご賞味あれ。
reikai090614_22.JPG reikai090614_21.JPG
海軍カレー(左)と、現代の味・横濱カレー(右)

研究会終了後、散策に出発。
靖国神社の長い参道を通り抜け、一つ目の目的地「小野家邸跡地」へ。
千代田区の「町名由来板」の古地図に、小野家の屋敷があったことが記されています。
reikai090614_23.JPG reikai090614_24.JPG

次なる目的地は、「東京大神宮」。
明治13年創建で、格式のある東京五社(明治神宮、靖国神社、日枝神社、大國魂神社、東京大神宮)のひとつです。
東京大神宮は「縁結びの神様」として有名です。現在広く行われている神前結婚式は、東京大神宮の創始によるものだそうですよ。縁結びをせっせと祈りました。
reikai090614_25.JPG reikai090614_26.JPG

続いて訪れたのが、「北辰社牧場跡」。
飯田橋界隈に牧場があったとは、今では想像すらできません。
ここは、榎本武揚が、自分の屋敷内に旧幕臣の失業対策も兼ね、明治6年に牧場を開いたのだそうです。
reikai090614_27.JPG reikai090614_28.JPG

最後は「新徴組屯所跡」。
清河八郎の建白によって結成された「浪士組」は、清河の暗殺によってその目的を失いました。幕府は、清河暗殺のわずか二日後に、浪士組を「新徴組」と改名し、江戸市中の警備の任に就きました。ここはその屯所であったところです。鉄舟もたまには顔を出したかもしれませんね。
reikai090614_29.JPG reikai090614_30.JPG

散策を終えた一行は、のどの渇きを潤すべく、懇親会場に移動しました。
「カンパイ!」「お疲れさまでした!」
乾杯の一杯で元気復活。四方山話に花が咲きました。
reikai090614_31.JPG reikai090614_32.JPG
懇親会場・アイガーデンテラスにある「ダイニング彩」
reikai090614_33.JPG reikai090614_34.JPG
皆さんでカンパイ!(左)/話が止まらない一行

**********
史跡散策資料のダウンロード >>>こちら
(A3版のため、A4用紙で印刷すると文字が小さくなってしまいます。ご了承ください)
**********


天気予報は雨模様を伝えていましたが、幸い雨が落ちることもなく無事に散策を終えることができました。お天道様に感謝しつつ、無事の成功を喜んだ今回の例会でした。

来月は高山にて鉄舟の法要研究会です。
遠路ですが、たくさんの皆様のお越しをお待ちしております。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 14:50 | コメント (0)

2009年6月例会報告

山岡鉄舟研究会 例会報告
2009年6月14日(日)
靖国神社正式参拝と史跡散策研究会

「真理は内在する」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家・山本紀久雄氏

今月は特別例会として、靖国神社に正式参拝し、周辺の史跡散策を行いました。

reikai090614_01.JPG

**********

参集殿に集合した我々鉄舟会一同は、早速本殿に昇殿参拝をさせていただきました。
本殿内はピンと張りつめた空気が流れているような心持ちがして、自然と厳粛な気分になります。背筋を正し、回廊を踏みしめながら昇殿しました。玉串を捧げ、二礼一拍を皆で行い、靖国の英霊に祈りを捧げました。

参拝を終えると、参集殿の二階に移動し、研究会を行いました。

**********

今回は、昨年来鉄舟会の靖国神社参拝にご尽力を賜りました三井勝夫権宮司様が、この秋を持ってご退職なさるということで、無理を申し上げご講演を賜る幸運に恵まれました。

reikai090614_02.JPG reikai090614_03.JPG
三井勝生権宮司(左)/ご講演の様子(右)

三井権宮司は、背広を着ておられました。今までお会いしたときは袴姿でしたので、とても新鮮でしたが、これには深い意味がおありであったのだと、後になって知りました。
ご講演の冒頭、「本日は私人としてここに立たせていただいております」とご挨拶をされました。三井様は、靖国神社の権宮司としてではなく、三井勝夫様として私たちに語りかけてくださったのです。権宮司のお立場ではお話しいただけないことを話してくださるお覚悟で、この場に臨んでくださったのです。不覚にもその意味を後から察し、とても感動しました。
そのような経緯がございますので、三井様のお話は記録として残すことは控えさせていただきます。ご了承くださいませ。
三井様は、靖国神社が巷間いろいろと言われていることに対する三井様の見解や、靖国神社のこれからのことなど、決して聴くことができないであろうお話を賜りました。その幸運に感謝申し上げます。

**********

続きまして、当会会長・山本氏の研究発表です。
今回は、清河八郎暗殺後、蟄居謹慎の身になった鉄舟の心の底を考察する、大変難しいテーマの発表でした。
八カ月の謹慎は、鉄舟の心に何をもたらしたのでしょうか。

reikai090614_04.JPG reikai090614_05.JPG
山本紀久雄会長(左)/発表の様子(右)

文久3年(1863)4月14日、鉄舟は幕府より蟄居謹慎を申し付けられ、謹慎生活に入りました。
その八カ月の間にも、世の中は目まぐるしく動いていくのでした。

・文久3年5月10日の攘夷日限をもって、長州藩は攘夷を断行した。
・長州藩、外国船を砲撃 → 米国商船、仏通信船、蘭軍艦を相次いで砲撃
・だが、長州藩の優勢は、これが最後であった。6月1日、横浜から下関に向かった米海軍が、下関海峡で長州藩の軍艦二隻を撃沈させ、四日後の5日には、仏軍艦が陸戦隊を上陸させ、砲台を占拠し破壊させた。
・7月2日には、英艦隊が鹿児島湾で薩摩藩と戦った、いわゆる薩英戦争が勃発した。鹿児島市街が焼失被害を受け、イギリス側も多数の死傷者が出て、二日後に鹿児島湾を去って行った。
・京都では薩摩と長州の主導権争いが深刻化、薩摩が会津と組んで長州を京都から追い出した。→8月18日の政変
・朝廷内では公武合体派が再び勢力を握り、公家の急進派の一部は大和で天誅組として挙兵したが失敗。
・さらに、新撰組隊長の芹沢鴨が暗殺され、近藤勇が隊長になったことも、鉄舟と関係があっただけに感慨深き事件であった。

鉄舟が謹慎を解かれるのは、八カ月後の文久3年12月25日でした。
謹慎を解かれる直前、江戸城で火事騒ぎが起きました。
この騒ぎを、高橋泥舟が書き残しています。

* * * * *
(以下『泥舟遺稿』、山本氏のレジュメより抜粋)
謹慎後七か月経過した文久3年11月15日の夕刻、突然、火の見櫓の警鐘が乱打された。泥舟と鉄舟は二人揃って、高橋宅の二階に上がって見ると、江戸城の方向が真っ赤に燃えている。これは大変だ。お城が火事だ。二人は眼を合わせた。どうするか。お互い謹慎の身で、屋敷から一歩も外に出られない身である。だが、二人が同時に叫んだ。
「駆けつけるぞ」
この夜の装束は、下に白無垢を重ね、上には黒羽二重の小袖、黒羅紗の火事羽織を被り、黄緞子の古袴で、栗毛の馬にまたがった。
鉄舟は、三尺の大刀を佩び、槍を持ち、馬の左に。松岡は長巻をたずさえ、馬の右に。いずれも幽閉のため、あごひげと髪の毛が茫々で鐘馗のようだ。
一行はまず、寄合肝煎の禄高五千石の佐藤兵庫邸に行き、兵庫に面会するや言い放った。
「我らは今日、お城の炎上只事ならず、君上の大事にも及ぶべしと心得、幽閉の禁を犯して君上を警衛せんと欲して、あえて出馬つかまった。しかれどもわれ、ほしいままにこれをなさば、肝煎の役柄に対してお咎めあらんかと存じまして、一応、お断りに来るなり。しかしてわれは今日、禁を犯せる上は、直ちに割腹の命あるものと心得、その仕度も調えてきたり。我が禁を犯せし義は、もとより肝煎の落ち度でなく、まったくのわれの所為なれば、よろしくこの意を言上あられたし」
これに対し、兵庫はしばし黙然としてわれの顔を見ていたが、ハラハラと涙を流して言った。
「今に始めぬ貴下の誠忠、まことに感ずるに余りある。さりながら貴下の身、もし大事におよばば君上も股肱の忠臣を失わることになる。貴下、今日のことはこれを思い止まりて、邸内に帰り謹慎せられよ。忠を尽くすは今日に限らぬであろう。予は、不肖ながら貴下の御為悪しくは取り計らいもうさぬぞ」
われ(泥舟)は応じた。
「もっともの事なり。君上に尽くすは今日にも限るまじ。未来無限の日月あるべし。さりながら老少不定の世のならい、又という日は期すべからず。いわんやわれ既に心を決し来たれり。今生きて還るの心なし。後日の事を論ずるに暇あらんや」
と突き放し、門外に出るや、馬に乗ってお城を目指した。
お城の周りを何回も見回った。その異風の装束を見て、その場にいた人々が驚愕した。
火の手は午後10時になってようやく収まった。
ホッとして大手前の酒井雅楽頭の番所に暫時休憩を申し出たが、この番所は江戸市中で最も厳しき所だが、われらの威勢を恐れて何も言わなかった。
鎮火し夜も明けたころ、われらは引き上げた。
帰途、一橋門に差しかかると、講武所奉行の沢左近将監の一隊に出会った。
左近はわれらを見て、馬を進めてきた。われらも馬を進め、双方が止まり、左近は大音声をあげ
「勢州(伊勢守)、貴殿、いまお城を警衛して帰邸せらるると覚ゆるぞ。よくこそ禁を犯してこの挙におよばれた。われ、これを知らずして曩に貴下を罵ったのが悔しいぞ。幽閉の身であるのに、かかる火災時に、君上を警衛するとは、さすがに忠臣と聞こえたる勢州じゃ」
と、大いに讃嘆された。
われ(泥舟)は答えた。
「われ君上のためには、すでに身を犠牲に供したり。今日は殊に幽閉の禁を犯し、この挙に及びたれば、何時、割腹を命ぜられんも期しがたしと心得、予めその仕度して出馬せしなり。しかるに未だその命に接せざれば、かく帰邸の道につきしなり。後刻にいたらば定めし御処分もあるべければ、貴君との面会ももはや只今限りと覚ゆるぞ。わが亡き後は、貴君らよろしく君上を保護したまわれ」
と粛然と述べた。
左近はこれを聞き、感激のため、馬上にうつ伏して頭を上げられなく、声を呑んでむせび泣いた。
われは一礼して別れ、自邸に戻ってひたすら御沙汰を待った。

馬上で頷いた左近は、その足で閣老・参政に対して「高橋こと、閉門謹慎の制禁を犯しましたが、ひとえに誠忠奉公の心からであり、何とぞ御寛大なご処置を」と訴えたという。
そのためか、泥舟と鉄舟にはお咎めの上使は、結局、やってこなかった。不問に付されたのである。
* * * * *

このときの鉄舟と泥舟の振る舞いたるや、身がうち震えるような感動を覚えるではありませんか。
謹慎の身でありながら、主君のためなら我が身を顧みず馳せ参じ、そのために受けるであろう咎をも覚悟し、割腹の準備までして江戸城に駆けつけた鉄舟たちの、忠君と言い留めるには不十分なほどの胆力を感じずにはいられません。
鉄舟のこの肚の据わり方は、後の西郷との談判のときに見事役目を全うしたことにも通じるような気がします。

人は何か問題にぶちあたったとき、どのような振る舞いをするでしょうか。
問題という壁を、乗り越えようとするのか、それとも壁を回避するのか、または壁を乗り越えることが出来ず、呆然と立ちつくす(挫折する)のか…。
鉄舟はそれらのどのタイプでもないのではなかろうか、と山本氏は語ります。
鉄舟は、壁を壁と思わなかったのではないか…、山本氏はそう推察します。そして、鉄舟をそう成らしめたのが、八カ月の謹慎だったのではないのではないか、と言うのです。

鉄舟は、これまでの人生でも、『修身二十則』『心胆錬磨之事』『宇宙と人間』などを認めたように、思考することに時間を割いてきましたが、それはあくまでも剣の修行という第一義の合間に取り入れたものではなかったでしょうか。しかし、謹慎中は剣の修行ができないため、おのずから自分の内面を見つめることに多くの時間を費やしたことでしょう。このことが、鉄舟の修行の仕方とその後の行動に影響を与えたとしても、不思議な事ではありません。
すなわち、自分とは果たして何者なのか、自分の奥底には何が存在しているのかを問うことが修行ではないか、鉄舟はこのことを見つけたのではないでしょうか。
謹慎中のあり余る時間の中で、自分という存在を極めるために自分とは何者かを問い続けることによって、ひとつの真理を見出したのです。
「世の中の真理は外部にあるのではなく、自分の中に内在する」
世の中の真理は自分の中に内在しており、それを深く探っていくことが、すなわち修行である。これが、鉄舟が謹慎中に見つけたものではなかったろうか。
そう考えねば、鉄舟のこのあと数々の偉業を成し遂げた胆力の説明がつかないように思います。

reikai090614_06.JPG reikai090614_07.JPG

文久3年12月10日、高橋泥舟に謹慎宥免の沙汰があり、続いて12月25日、鉄舟、松岡などにも謹慎宥免の沙汰が下りました。

謹慎が解けてからの鉄舟については、次回の発表をお楽しみに。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 14:43 | コメント (0)

2009年05月31日

2009年5月例会報告

山岡鉄舟研究会 例会報告
2009年5月21日(水)
「鉄舟は新たなる環境下へ」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家・山本紀久雄氏

5月の例会が行われましたので報告します。

reikai090521_01.JPG

**********

前回(3月例会)にて、山本氏は清河が暗殺された本質を解き明かしました。
清河の暗殺は不意であったのか。
清河は、覚悟の上で金子与三郎宅に向かい、佐々木只三郎らに斬られたのではないか。山本氏の研究は、清河の聡明さを新たに掘り起こすものであったように思います。

清河暗殺の翌日、幕府当局は関係者の処分を行いました。
主な処分者の内容は次の通りでした。
・泥舟、鉄舟、松岡…御役御免の上蟄居
・窪田冶部右衛門……御役御免の上差控…二カ月後、小普請入り(出世)

窪田に対する処分は、実質無罪と同じでした。

この謹慎蟄居に関して、泥舟が異なる見解を示しています。
それは、『泥舟遺稿』に記されています。
「泥舟遺稿によれば、泥舟は様々な局面で幕府に建言し続け、いずれも用いられず辞職したが、逆臣の疑いありとして無期限の幽門を命じられた」
(山本氏資料より)
しかし、小倉鉄樹の『おれの師匠』にはこう書かれています。
幕府から英国大使館を守れと旗本に指示が出たにもかかわらず、英国人を守る気はしないと拒否したのだが、拒否するなら切腹を申し付けると言われ、ひとり去りふたり去っていき、最後に鉄舟だけが残り、沙汰を待っていたのだが、その潔さに切腹を免ぜられ、謹慎となったとあります。
しかし、暗殺の当日清河は鉄舟(または泥舟)の家にいたのです。『おれの師匠』によれば、門前を青竹で囲まれ、すでに謹慎の身となっていた鉄舟の家に、暗殺されようと狙われている浪人が出入りしているのは不自然のように思います。従って、『おれの師匠』の見解は信憑性が薄いと考えられます。この説をとる研究家はいません。

reikai090521_02.JPG reikai090521_03.JPG

いずれにせよ、鉄舟は謹慎蟄居を命ぜられ、行動が著しく制限されることになりました。
このような逆境に置かれたとき、人はどのような態度をあらわすでしょうか。
【1】何も感じない
これは論外です。
【2】嘆き悲しむ
このように感じる方は多いのではないでしょうか。
例えば、会社で異動になってしまったとき。いわば左遷です。
なんであんなところに飛ばされなければならないのだ、悪いのはそれを指示した上司だ!と怒り嘆くというようなことです。
【3】転機と思い気持ちを切り替える
このような境遇になったのは、自分が何かを求め、時がそれを与えてくれたからだ、これはチャンスだ!と考えることをいいます。

さて、どの考えがよいと思われますでしょうか。
【3】がよいと考えるのは自然でしょう。できるかできないかは別としてです。

鉄舟はまさに上記の境遇に立たされました。
このとき、鉄舟はどのように振る舞ったのでしょう。

このことを考えるにあたって、鉄舟が行ってきた行動について振り返ってみましょう。
●鉄舟が認めたもの
・嘉永3年(1850)15歳 修身二十則
・安政5年(1858)23歳 心胆錬磨之事
・同年          宇宙と人間
・同年          修身要領
・安政6年(1859)24歳 生死何れが重きか
・万延元年(1860)25歳 武士道
★文久3年(1863)28歳 清河暗殺される
・元治元年(1864)29歳 某人傑と問答始末
・同年          父母の教訓と剣と禅とに志せし事
・明治2年(1869)34歳 戊辰の変余が報告の端緒

上の表を見ますと万延元年から元治元年までの約4年間、鉄舟は何も著していません。ちょうどこのときが、鉄舟が清河と行動を共にしていた期間と重なるのです。尊王攘夷党結成〜清河暗殺までの時期です。そして、清河暗殺後、謹慎蟄居となり、思惟の時間を持ったことにより、4年のブランクを経て『某人傑と問答始末』を認めたのです。「某人傑」とは清河のことで、名前を伏せながら清河暗殺に関する総決算的な心情を述べたのです。

**********

人は、新たな環境下に置かれたとき、どうするでしょうか。
今、世界の経済は百年に一度といわれる不況下にあります。企業は軒並み売り上げを落とし、消費は冷え込みを増しています。
その中で、私たちはどう生きていくべきでしょうか。

reikai090521_04.JPG reikai090521_05.JPG

山本氏はその戦略として、次のことを挙げられました。
(1) 縮小した経済を受け入れ、現状の経済規模こそが正常な状態なのだと認識し生きていく。
(2) 精神的な幸せを追求する生き方を選ぶ。他人のためにお金を使うこと。
(3) 限られたパイの中で、競争に勝つための工夫をする。「同一化競争」ではなく「誰も気がつかないが、気がつけば当たり前のことを見つける」こと。
(4) 積み上げ型の技術ではなく、革新的な発想の事業を考えること。

皆さんならどの方法で現状を乗り切りますか。

鉄舟は己に訪れた新たな環境に対し、どのように処したのでしょうか。
鉄舟は、上記の4つの項目にない方法を選んだのです。
どんなことでしょうか。
それは、次回の楽しみということで…。

次回は、靖国神社正式参拝と旧跡散策の特別例会です。
たくさんのご参加、お待ちしています。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 10:33 | コメント (0)

2009年04月27日

2009年4月例会の感想

山岡鉄舟研究会 例会報告
2009年4月15日(水)
特別例会「ジョン万次郎講演会」
講師:中濱武彦氏

reikai090415_01.JPG

今回は特別例会として、『ジョン万次郎講演会』を行いました。
講師はジョン万次郎の直径の曾孫でいらっしゃいます、中濱武彦氏です。
山岡鉄舟と同時代に生き、維新に大きな影響を与えたジョン万次郎について、中濱氏からお身内ならではのエピソードも交え、その人間像に迫っていただきました。

**********

reikai090415_03.JPG reikai090415_04.JPG
講師の中濱武彦氏

当日は大変多くの皆様がご参加くださいました。ありがとうございました。
中濱氏は、万次郎の漂流から帰国、そして、欧米列強との外交交渉において万次郎が果たした重要な役割についてお話しくださいました。


万次郎は幼少期、とても活発な男の子だったそうです。
もう少し正確に申しますと、創意工夫を凝らす利発な子どもだったのですが、まわりの大人からはやんちゃと誤解されることがあったようです。
その万次郎が、日本の変革期を支える大人物に成長するのです。このあたりは鉄舟に通じるものを感じます。では、なにゆえに万次郎はそのように成長し得たのでしょうか。
このことを、中濱氏は、メジャーリーグの松坂大輔氏のエピソードを交えて語られました。
松坂投手に記者が、アメリカに渡って何が一番変わりましたか?という質問をしたとき、松坂投手は「自分が日本人であることを知った」と答えたそうです。
自分の一挙手一投足が、すべて日本の代表として見られている。否応なくそれを認識させられた松坂投手は、自然と背筋がピンと張り、自分は日本の代表として振る舞うようになったのだそうです。
期せずして日本から世界の荒波に飛び出した万次郎は、そこで自分が日本人であるということを初めて認識したのではないでしょうか。万次郎がアメリカで過ごした数年間は、日本国の代表として見られ、そして自らも行動したことでしょう。それが、彼を大人物へと成長させた大きな原動力ではなかろうか、中濱氏はそう分析しておられます。

鉄舟も、境遇はまるで違いますが、私心を捨て自分自身を「公人」として、始終振る舞っていました。それは、『宇宙と人間』や他に遺した訓戒などからも読み取ることができます。

reikai090415_05.JPG reikai090415_06.JPG

幕末維新という大きな檜舞台の上で、己は何を演じるのか。時代が用意したシナリオに相応しい振る舞いができた人物が、傑人として名を残すことができるのではないでしょうか。その意味で、私たちは彼らから大いに学ばねばならないと強く感じた講演会でした。
中濱様、貴重なお話を賜り、誠にありがとうございました。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 11:08 | コメント (0)

2009年03月28日

2009年3月例会報告 その2

山岡鉄舟研究会 例会報告 その二
2009年3月18日(水)
「清河の本質」
山岡鉄舟研究会会長/山岡鉄舟研究家・山本紀久雄氏

reikai090318_01.JPG

日本経済新聞に、客員コラムニストの田勢康弘氏が、西郷隆盛の一節を例に出し、こう述べています。

「(今の政治に携わる人材を嘆き)『命もいらず名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは艱難をともにして、国家の大業は成し得られぬなり』。西郷没して百三十年のいまも、この言葉は輝いている」(2009.3.9 日本経済新聞)
ご承知の通り、これは、西郷が江戸無血開城への会談後、愛宕山で勝に、鉄舟を指して語った言葉として知られています。田勢氏は2005年、小泉チルドレンを大量輩出した総選挙後、党員教育のセミナーでこの例を挙げたことがありました。
田勢氏は今の政治に求められる人材を、西郷をして言わしめた鉄舟の姿に準えて発言したのです。このことは、鉄舟のような人材が、今の時代に求められていることを意味しているのではないでしょうか。
山本氏はさらに語ります。
鉄舟は決して古い人間ではない。今の時代が求める最先端の人物なのだということを認識してほしい。そして、私たちはそんな鉄舟の生き方を学ぶことによって、今の自分たちの人生を見つめているのだ。
この研究会は、まさにこのことを目的とした会なのです。

**********

reikai090318_02.JPG

さて、清河八郎です。
今回は、清河研究の最終回と位置づけ、清河暗殺の本質に迫る研究が行われました。
清河の暗殺場面については様々な作家がその瞬間を描き出しています。
その中でも、表現が秀逸なのは司馬遼太郎であると、山本氏は絶賛しています。
参考:『奇妙なり八郎』(『幕末』収録、司馬遼太郎・文春文庫)

清河の暗殺は、横浜焼き討ち計画(4/15)の2日前、4月13日という絶妙のタイミングで行われました。
ところで、この計画実行日を、幕府はどうやって事前に知り得たのでしょうか。
2009年1月例会での山本氏の発表にありましたように、このことは幕臣・窪田治部右衛門により知らされました。
では、窪田はどうしてこの計画を知り得たのでしょうか。
横浜焼き討ちの計画については、極秘であったことが予測されます。それは、この計画が非常に実現困難な計画であったからです。当時、外国との貿易は始まっており、横浜はすでに外国人が多数居留する地域になっていました。また、横浜は関所を設け厳しい監視体制にありました。ここを焼き討ちするということは大変な困難が予想されます。
また、この計画を遂行するには、事前の準備が必要です。特に土地勘のない場所であれば、下見が必要でしょう。しかし、現地の監視体制は、下見も容易にできないほどの厳重さでした。

ここに、ひとりの人物が登場します。
窪田千太郎という人物です。
彼は、清河暗殺の首謀者、窪田治部右衛門の息子で、しかもこのとき、横浜奉行所の組頭だったのです。
この数奇な縁が、清河ら幹部の横浜視察を可能にしたのです。
おそらく、窪田治部右衛門を通じて息子の千太郎に働きかけ、関所の通過と現地の案内を行わせたのではないでしょうか。

視察は、清河暗殺の3日前、4月10日に行われました。
視察には、清河や鉄舟ら4名が同行しました。
そこで、鉄舟はある事件を起こしています。
ここが、清河暗殺のキーポイントとなるのです。

ひととおり視察を終えた一行は、窪田千太郎のもとに集まりました。
そこで千太郎は、西洋の珍しいものを出しもてなしました。
すると、鉄舟が突如怒りだし、テーブルをひっくり返したのです。

この鉄舟の行動は如何なる意味があるのか。
これには、鉄舟の立場を考えないといけません。
鉄舟は幕臣であり、徳川幕府代々の旗本の家柄であるのです。
清河とは、「攘夷」の思想のもとに行動とともにしていましたが、この頃から清河が攘夷を名目にした倒幕を画策し、あまつさえ自分は将軍にとって代わろうという構想まで抱いていることを察するに及び、自分は行動をともにすることが困難であると考えていたようです。
藤沢周平氏は、『回天の門』の中で、鉄舟と清河にこの会話をさせています。

「『長いつき合いに免じて、もう一度おれがやることに目をつぶってくれんか』
『やはり、横浜焼打ちは攘夷ではなく倒幕挙兵なのですな?』
『そう、倒幕だ』
 …(中略)…
『だとすると、おれは今度のくわだてには加われません』
『むろんだ』
 …(中略)…
『君と松岡君は脱けてくれ。いずれ、そう言うつもりだったのだ。このあと君は、われわれのやることを見とどけてくれるだけでよい』
(『回天の門』藤沢周平・文春文庫)

ともかく、鉄舟はこの時点で横浜焼き討ちの計画に、賛成の表明をしがたい心境に達していると見る方が自然ではないでしょうか。
そこで鉄舟は、テーブルの事件をわざと起こしたのではないかと、山本氏は語ります。
これは、鉄舟のサインではないだろうか。
直接、横浜焼き討ちをするから気をつけろよ、と言うことは、当然できません。何か相手が察し得る事件を起こして相手の注意を促すこと、これによって窪田千太郎は横浜を襲撃することを察し、父・治部右衛門に伝えたのではないだろうか…。
これが、清河暗殺の間接的なきっかけとなったのではないでしょうか。

かくして清河の画策による横浜焼き討ち計画は、幕府の周到な清河暗殺によって事なきを得たのでした。
しかし、まだ疑問が残ります。
それは、清河の暗殺当日の行動です。
上山藩・金子与三郎からの誘いの手紙で単身上山藩邸に行き、帰宅途中の麻布一の橋で暗殺されました。
彼はなぜ単身で金子の誘いに応じて外出をしたのでしょうか。
この日、清河には外出すべきでないありとあらゆる条件が揃っていました。
・清河は風邪を引いて寝込んでいた
・周りから金子に会うことを強く反対されていた
・鉄舟や泥舟からは家を一歩も出るなと厳命されていた
つまり、罠だとありありとわかっていたのです。
それなのに、なぜ彼は金子に会いに行ったのでしょうか。
また、清河の当日の行動も実に不可解です。
・風邪を引いているにもかかわらず、朝風呂に入った
・辞世ともいえる句を認めた
・あえて護衛をつけず出かけた
これでは、あえて斬られるために出かけたようなものです。

この部分はもはや想像するしかないのですが、山本氏は自分が清河の立場だったらと前置きをした上で、次のように語りました。

清河はとても聡明な男であった。攘夷がもはや遂行不可能でありことは自明の理であった。外国とはすでに国交を開いて通商が始まっている。外国人は日本に居留し、商取引が盛んに行われている。しかし、一方で自分が計画した攘夷のシナリオも、もはや取り消すことなどできない抜き差しならない状況にまで来てしまっている。浪士組の連中も納得すまい。
両者に折り合いをつける手段は、ひとつしかない。
それは、自らの存在を消すことである…。

幕府の策略にあえて乗ることにより、自らの命を絶つことにより始末をつける。そう決心した清河は、朝風呂に入り身を清め、句を認め上山藩邸に向かったのでした。
「魁(さき)がけて またさきがけん 死出の山 迷ひはせまじ すめろぎの道」
清河が詠んだ句です。(『回天の門』より)

**********

reikai090318_03.JPG

今回で清河八郎に関する研究は終了です。
次回からの山本氏の研究は、あらたな展開になることでしょう。
次回もお楽しみに。

なお、4月は特別例会『ジョン万次郎講演会』のため、山本氏の研究発表はお休みです。ジョン万次郎のご子孫による講演もお楽しみに。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 23:27 | コメント (0)

2009年3月例会報告 その1

山岡鉄舟研究会 例会報告 その一
2009年3月18日(水)
「宮本氏の先祖・川井文蔵研究」宮本英勝氏

今月は、当会参加者、宮本英勝氏に、ご自身のご先祖である「川井文蔵」について、これまで調査されてこられたことをご発表いただきました。

宮本氏は、ご先祖・川井文蔵について、鉄舟との関係から何か情報が得られないだろうか、ということで当会の門をたたかれました。川井文蔵について何かご存じのことあらば教えてほしい、と願っていらっしゃるのです。
その経緯についてご紹介しましょう。

**********

川井文蔵は、宮本氏の母方の曾祖父にあたられるそうです。
宮本家の言い伝えによれば、川井文蔵は鉄舟の弟子で、全生庵の創建にも関わる人物と伝わっており、以前より興味を抱いておられたのだそうです。

きっかけ

宮本氏がご自身の先祖、川井文蔵に興味を持たれたのは、ある資料がきっかけだったといいます。
それは、「福田会(ふくでんかい)」という会に関する資料でした。
福田会とは、児童養護施設を運営する仏教系の社会福祉法人で、現在も渋谷区広尾で施設を運営されております。
→「福田会」http://www.fukudenkai.or.jp/
福田会の資料によると、会の主旨はこう記されています。

「本会の創立及び沿革概要
 明治9年3月6日、今川貞山、杉浦譲、伊達自得の三氏創めて、仏教上、慈悲の旨趣に基づき、汎く貧困無告の児女を収養すべき社団を建設せんことを発議す…」
(福田会ホームページより)

この福田会の資料の中に、会の発起者として、山岡鐵太郎とともに川井文蔵の名前が挙がっているのを発見されたのです。

「当時創業の際、本会の発起者として幹旋せられし人、固より少なからずと雖も、中に就き最も力を致し、本会今日の基礎を定めしは、…(中略)…。
在家に於ては山岡鐵太郎、高橋精一、川井文蔵、島田蕃根、山内瑞圓、渋沢栄一、福地源一郎、益田孝、三野村利助、渋沢喜作、大倉喜八郎、三遊亭円朝等の諸氏なり」
(福田会ホームページより)

宮本氏は、これほどそうそうたるメンバーの中に名を連ねている我がご先祖は、一体どういう人だったのだろうという興味に駆られ、研究を始められたというわけです。

調査

(1)戸籍
まず宮本氏は、川井文蔵を戸籍から辿ってみようと思い、江東区で戸籍の調査をされました。しかし、時の流れが宮本氏に立ちはだかります。
戸籍というのは、本人の死後80年が経過すると保管義務がなくなるのだそうです。川井文蔵の戸籍は破棄されていました。
(2)各種書物
次に宮本氏は、国会図書館で、書物によって川井文蔵の足跡を辿りました。
川井文蔵は深川で商売をしていたらしいことを聞き知っておられたので、『日本紳士録』第一版(明治22)に名前の掲載がないか調べました。
そこには
「川井文蔵 雑業 深川区西六間堀」
とありました。
また、『諸問屋名前帳』という資料を見つけられました。これは当時の商人の名前が列挙されている史料なのですが、この膨大な名前の羅列の中から、
「地廻米穀問屋 四十七番組 和泉屋文蔵 深川六間堀町 家主」
という記述を見つけました。
どうやら「和泉屋文蔵」という名前で米の問屋を営んでいたらいいことが出てきたのです。
しかし、「和泉屋文蔵=川井文蔵」であることを確認しなければなりません。
(3)都立多摩霊園
ここに川井家のお墓があるそうです。
ここの墓石に、こう記してありました。
「明治二年 深川南六間堀町 俗名和泉屋文蔵」
これで、「和泉屋文蔵=川井文蔵」であることが確認できました。
(4)東京都公文書館
宮本氏は公文書館に何か資料がないかと足を運ばれました。
そこには、川井文蔵の名前が記載されている書類がいくつか存在していました。
公文書ですので、例えば下水工事で寄付をしたので賞状を出します、という稟議書のようなものや、借地一覧に借主で名前が出ていたりといったものがありました。

が、川井文蔵が直接出てくる史料はここまでで、これ以上は行き詰まってしまったのです。

伝聞

ここで、宮本氏が代々伝え聞いておられる伝聞を整理してみましょう。

(1)鉄舟の弟子であった
鉄舟の弟子であり、全生庵の創設にも関わっていたらしい。
(2)三遊亭円朝と友達であった
『三遊亭円朝子の伝』(明治24年刊)に川井文蔵の名前が出てきます。
(3)千葉立造と兄弟以上の仲であった
墓石を半分にして、それぞれの墓を建てたとの伝聞が残っているそうです。
(4)深川六間堀に借地・借家を所有していた
このあたりの土地の差配は「川名文具店」で、このお店は今も森下町交差点の角で営業されているそうです。宮本氏が訪ねて行かれたそうですが、昔のことは分からないそうした。
また、深川は震災と空襲で書類が全部燃えてしまっており、この地に関する史料がほとんど残されていないのが現状なのだそうです。

糸口

ここまでが、宮本氏がいままでに調査された川井文蔵の足取りです。
しかし、これまでの史料では、川井文蔵がどんな人物であったのか判然としません。
そこで、山岡鉄舟研究会らしく、鉄舟と川井文蔵の接点を少し考えてみることにしましょう。

冒頭に登場しました、宮本氏が川井文蔵を研究するきっかけとなった「福田会」の資料を今一度見てみます。
宮本氏が入手された資料には、福田会発起人として3名の名前が挙げられています。ところが、すぐに、それらの人物に代わり、4名の人物が登場します。

「明治9年丙子3月6日、今川貞山・杉浦譲・伊達自得の三名同盟して本院創設の議を起こす。
10年丁丑5月9日、山岡鉄太郎・高橋精一・今川貞山・川井文蔵四名同盟す」
(宮本氏資料『渋沢栄一伝記資料 第24巻』より)

当初3名で福田会を興したが、翌年すぐに4名にとって代わっているのです。
そこに、鉄舟、泥舟とともに川井文蔵の名前が登場するのです。
これには理由があります。
発起人のうち、杉浦譲、伊達自得の両名は、明治10年に亡くなっているのです。そのため、残る今川貞山に、鉄舟、泥舟、川井文蔵を加えた4名で会合を開いたのです。
このあたりに、鉄舟と川井文蔵の接点があるように思えます。

ここで、福田会の発起人に名を連ねる「伊達自得」について見てみましょう。
伊達自得は、陸奥宗光の父親で、深川に住んでいたそうです。
明治9年6月ごろから「和歌禅堂」という私塾のような集まりを催し、そこに三遊亭円朝、高橋泥舟らが出入りしていたのだそうです。泥舟は陸奥宗光との縁でここに関係するようになったようです。
同じ深川に住む川井文蔵とは、この会がきっかけで、泥舟と、さらには鉄舟と交流が始まったのではないか、と宮本氏は推測されています。
となると、鉄舟と川井文蔵との交流が始まったのは明治9年あたりということになります。
明治9年、鉄舟は41歳、明治天皇の扶育係(宮内大丞)でした。
ちなみに、全生庵創建は明治16年、鉄舟48歳の時です。

明治9年ごろ、鉄舟と川井文蔵は出会い、文蔵はその後、鉄舟を師と仰いだということになるのでしょうか。
渋沢栄一、陸奥宗光、三遊亭円朝、高橋泥舟、そして、鉄舟の他の弟子たちあたりが、鉄舟と川井文蔵を繋ぐヒントを持っているようにも思えます。

**********

山本会長の弁に、ものごとは間接的に繋がることがある、直接、川井文蔵のことを調べては浮かんでこないことが、他の事を調べているうちにパッと繋がることもあるのだそうです。そして、それが、調べることの喜びなのです。

皆さん、よいお知恵、情報がございましたら、事務局までご連絡ください。
お礼はできませんが(笑)、パッと繋がる喜びを、皆さんで分かちあいたいと願っています。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 21:27 | コメント (0)

2009年02月24日

2009年2月例会報告 その2

山岡鉄舟研究会
2009年2月例会報告

山本紀久雄会長の研究発表です。
今回は、清河八郎暗殺の真相に迫ります。

reikai090218_11.JPG
山本紀久雄会長

清河八郎はなぜ殺されねばならなかったのか。
その裏側には、必然とも言うべき情勢と、周到な計画があったのです。

**********

今回の発表報告は、山本会長の配付資料をもとに構成しています。
■印は山本会長の資料から抜粋したものです。

清河暗殺の周到な下準備

重要なのは、清河暗殺は、幕府が周到な下準備をしていたということでした。

■清河八郎は、文久三年(1863)4月13日の午後3時ごろ、江戸麻布の出羽三万石上山藩の上屋敷を退出し、一の橋を渡りきったところで暗殺された。佐々木只三郎以下の暗殺チームによってである。幕府はその翌朝には、残された浪士組の宿舎を取り囲むため、荘内、小田原等六藩の兵2,000名を動員した。この時を待つように周到な準備をしていた。

何故に京都から江戸に戻る中山道筋で斬れなかったのか

この部分は、従来の鉄舟関連の書籍ではほとんど語られていません。山本会長はいくつかの文献を紐解き、次の理由を挙げられました。

■理由その1
道中で清河を斬った場合、一緒に江戸まで戻りつつある清河を頭と仰ぐ仲間たちが、おとなしく帰順し、捕縛され、そのまま江戸に戻るとは考えられず、凄絶な死闘が繰り広げられることになり、幕府側もかなり傷を負うことになる。

■理由その2
清河を斬った後、残りの浪士組メンバーがどのような行動にでるか、それが向背不明であって、反乱ということも予想される。確実に相手を抑えつけ、反攻の戦意を失わせ、混乱を起こさないためには、通常相手の3倍から5倍の人数を要するだろう。

■理由その3
当時の諸藩における兵の動員力は、10万石大名でもせいぜい1,000人であった。家康から家光の戦国気分がさめやらぬ時代では、10万石大名で2,000名の兵を優に動員できたが、250年も続いた天下泰平の結果、各藩動員兵力は半減してしまっている。

■理由その4
浪士組に対応する兵力の動員には、一藩では無理で、数藩に依頼することになり、実際に兵士が動員されるまでには時間を要するであろうから、その間、騒乱は続き、かえって幕府の権威を落とすことにつながる。

reikai090218_12.JPG reikai090218_13.JPG

清河の暗殺を急いだ新たな背景

清河の暗殺は、一刻を争う火急の事態でした。それは、生麦事件で外国と大変微妙な交渉関係にあったこの時期に、火に油を注ぐ如き計画を、清河は立てていたからです。
これ以上外国との摩擦を生ずることは何としても避けなければならない。幕府にとっては緊急事態であったのでした。

■清河の狙う実行内容は「大挙して横浜に押し出し、市中に火をつけて、そのごたごたに乗じて、外国人を片っ端から斬りまくり、黒船は石油をかけて焼き払い、すぐに神奈川の本営を攻めて、軍資を奪い、厚木街道から、甲府城に入って、ここで、攘夷、しかも勤王の義軍を起こそうというのである」であった。

■これが実行されていたらどうなったか。結果を最小限に見積もっても、生麦事件の解決は賠償金支払いというレベルを超える。

横浜の外国人の対応(アーネスト・サトウ著「一外交官の見た明治維新」)

■「イギリスとフランスの代表から、攘夷派の横浜襲撃に対する防御策を講ずることを申し入れて、日本側の承諾を得た」と記されている。

■「この時分は、浪人という日本人の一種不可思議な階級がいだいている目的と意図について、よほど警戒すべきものがあった。この浪人というのは、大名へ仕官をせずに、当時の政治的な撹乱運動へととびこんできた両刀階級の者たちで、これらは二重の目的を有していた。その第一は、天皇を往古の地位に復帰させること、否むしろ、大君を大諸侯と同列まで引き下げること。第二は、神聖な日本の国土から『夷狄』を追い払うことであった。彼らは、主として日本の西南部の出身者であったが、東部の水戸からも輩出していたし、その他のあらゆる藩からも多少は出ていた。5月の末には、浪人が神奈川襲撃をたくらんでいるという風説があったので、神奈川にまだ居残っていたアメリカ人も何がしかの『騒動に対する補償金』をもらって、余儀なく住居を横浜に移さなければならなくなった」

■「6月の初めに、六人の浪人どもがこの土地に潜伏しているという情報があったので、別手組(江戸の公使館に護衛兵を出す団体)が、訓練された若干の部隊とともに横浜へやってきて、野毛山の下に新築された建物内に駐屯した。その時から1868年の革命(注:明治維新)のずっと後まで、われわれは断えず日本の兵士の厄介になっていた」

reikai090218_14.JPG

幕府は清河の行動を熟知していた

■アーネスト・サトウがいう「5月の末」を、5月31日と考えれば、旧暦4月14日(庚寅)となり、同じく「6月の初め」を、6月1日と考えれば、旧暦4月15日(辛卯)となる。清河が横浜襲撃と予定したのは4月15日である。幕府は清河を危険人物として十分に監視していたからこそ、その動向について詳しく把握していたのである。

清河を正式に逮捕・勾留できず暗殺しなければならない理由

■それは朝廷からの達文である。
「イギリスからの三カ条の儀申し立て、いずれも聞き届け難き筋につき、そのむね応接におよび候間、すみやかに戦争に相成るべきことに候。よって、その方引き連れ候浪士ども、早々帰府いたし、江戸表において差図を受け、尽忠粉骨相勤め候よう致さるべく候」

■清河八郎という一介の素浪人は、この当時、幕府にとって国の行方を左右するほどの国際関係問題上の重要人物になっていた。

ゆえに、幕府にとっては、清河を暗殺せしむる以外には方法がなかったのです。
清河の暗殺は、必然性と周到な計画に裏打ちされた、避けられない事態であったのです。

清河の暗殺は、日本の政治情勢が攘夷から開国へと大きく舵を取っていく分岐点になったのではないでしょうか。

次回もお楽しみに。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 22:26 | コメント (0)

2009年2月例会報告 その1

2月の例会は、北村豊洋氏に、飛騨高山と鉄舟の思い出についてお話しいただきました。

reikai090218_01.JPG
北村豊洋氏

来たる7月19日、鉄舟の法要会を高山で行うことが決まりましたので、高山とはどんなところか、また、高山で鉄舟はどのように想われているのだろうということを、高山で生まれ育たれた北村氏にお聞きしたいと思い、急遽お願いしたのでした。

**********

北村氏は飛騨高山に生まれ育たれました。そのため、小さい頃から鉄舟のことはご存じだったそうです。鉄舟のブレない生き方をご自身の仕事や生き方に活かしたいと願い、研鑽を重ね、鉄舟会にも参加されていらっしゃいます。

江戸時代、高山は天領でした。
その前の豊臣時代には、金森氏がこの地を治めていました。元禄5年(1692)出羽国上ノ山に転封となり、それ以後天領となります。天領ですから、江戸から代々、代官がやってきて治めることになり、その第21代代官が小野朝右衛門、すなわち鉄舟のお父さんだったわけです。
高山の人びとは、この江戸から来る代官にあまり馴染みを感じていなかったようです。今でも高山の人びとは金森氏を神様のように敬っているのだそうです。
高山は天領という、一種独特の統治形態であったため、街の有力商人である「旦那衆」が自治の実権を握っていたそうです。高山市郷土館には、旦那衆の様々な資料が展示されていました。

reikai090218_02.JPG
高山市郷土館

高山の人びとにとって、江戸は「遠いところ」という印象なのだそうです。
高山はどちらかというと、京都の文化圏だそうで、方言も京都の言葉がまじっているのだそうです。高山は小京都と呼ばれ、街並も碁盤の目のように縦横に通っています。

reikai090218_03.JPG
高山市の街並

江戸期、高山は貧しい地域であったといいます。米の収穫量が低く、庶民はかわりに京都や奈良の寺社建築に携わる、いわゆる労働奉仕をしていたのだそうです。これが、飛騨の匠となり、代々継承されてきたのだそうです。春(4月)と秋(10月)の高山祭には、絢爛豪華な山車が街を練り歩くそうですが、この山車も飛騨の匠の技の結晶であるのです。何でもうわさによると1台数億円はするそうです…。

飛騨の匠は家屋にも工夫を凝らしたそうです。
高山には江戸から代官がやってきてこの地を治めたのですが、言ってみればよそ者が土地を治めているのですから、なるべく表向きは質素な生活をしている風を装う伝統が息づいているようです。高山の町屋は、「前貧乏、後ろ豪華」の造りになっていて、通りに面した前側は軒も低く地味な造詣ですが、二階の奥座敷は一段高くなっており、豪華な造りになっているのだそうです。そういえば先日高山を訪問したとき、岩佐先生邸にお邪魔したのですが、中にはいるととても高い天井で、奥へ行くほど広くなっていました。

このように、高山天領における代官はよそ者的存在で、北村氏によれば代官自身も赴任期間を義務的に努めたのではなかろうか、と分析していらっしゃいます。
そんな中、幕末の弘化2年(1845)第21代代官の小野朝右衛門が、その家族を伴ってやってきたのです。

reikai090218_04.JPG reikai090218_05.JPG
高山陣屋の御座之間(左)。代官が執務した部屋
鉄舟の父母、小野朝右衛門と磯の墓(右)。宗猷寺境内

鉄舟の父である小野代官は、代々の代官の中でもかなり慕われたと、北村氏は語ります。そして、父に伴ってやってきた鉄太郎少年は、頭もよく、腕もたち、飛騨の自然豊かな風土でのびのびと育ったようです。飛騨の衆の気骨で一途なところにお互い感化され、引かれていったようです。これらのことは、地元の作家、江馬 修さんの『若き日の山岡鐵舟』(田中宗榮堂・1943)や、岩崎 栄さんの『山岡鉄舟 代官の児』(広池学園出版部・1968)などに描かれています。

reikai090218_06.JPG
若き日の鉄太郎像(高山陣屋前)

『……高峻で、壮大で、しかも景色は柔いうるほひを缺(か)いではゐない。かゝる大いなる自然の美しさが、少年鐵太郎の純な、透明な魂に多くの力づよい影響を與(あた)へたらうことは容易に想像される。例へば國境に立ちつらなる崇高な飛騨山脈が彼の高潔な心情(こころ)と何ら觸(ふ)れるところがなかつたとは到底考へられない。彼は維新の風雲児となるべき荒々しい時代の子ではあつたが、少くとも年少で飛騨で暮らしてゐた頃には、また自然の子でもあつたらう。美しい飛騨よ、お前はこの清らかな、英雄的な魂を育てあげるのに役立つたことを誇つて良い!……』(『若き日の山岡鐵舟』江馬修・1943より)

reikai090218_07.JPG reikai090218_08.JPG

若き鉄舟が駆け回った飛騨高山の地は、鉄舟に清らかで雄大な心を育んでくれたことでしょう。
そんな高山で、7月19日、法要を行います。
北村氏にも地元へのお声掛けをお願いしております。
ご発表、ありがとうございました。
そして、法要へのお手伝い、よろしくお願いします。
読者の皆さんも、高山での法要会にご期待ください。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 22:16 | コメント (1)

2009年01月17日

2009年1月例会報告

山岡鉄舟研究会
2009年1月14日例会報告

2009年最初の例会が行われましたのでご報告いたします。

reikai_090114_01.JPG

本年も山本紀久雄氏の鉄舟研究は続きます。
今月は、清河八郎暗殺に関する衝撃の発見がありました。

*****

清河は、幕府が差し向けた刺客の手により暗殺されました。
文久3年4月13日、佐々木只三郎によって麻布・一ノ橋で殺されたといわれています。

この暗殺劇の裏に、鉄舟や高橋泥舟が関与しているのではないかと思わせる記述があります。
『山岡鉄舟』(小島英煕著・日本経済新聞社・2002/11)
この本には、「一つ疑惑の史料がある」との書き出しで、野口武彦・元神戸大学教授からの引用が紹介されています。
要約すると、清河暗殺は、その周りのリーダー格の人物のうち、清河を恐れない人物に秘密裏に命じることになり、その人物の門人から5人を選抜して実行した、ということが、慶喜の小姓役であった村山久五郎の『村摂記』に書いてあるというのです。
小島氏の考察は以下に続きます。
『さらに「左の人名は本文に掲ぐべからず」と特記して、老中は小笠原壱岐守、頭は高橋精一(泥舟)、山岡鉄太郎(鉄舟)だったという。にわかには信じがたい話で、真実は闇の中だが、もし関与したとすれば、高橋だろうか』
清河暗殺を命じられた頭目のひとりに、鉄舟も入っていたということなのです。

本当か?

この点に山本氏は疑問を持たれました。
清河に心酔していた鉄舟が暗殺計画のメンバーに入っていたというのはおかしいのではないか…。
山本氏の飽くなき探求心は、野口教授が言及したとされる原典にあたるところから始まります。

山本氏は、小島氏が引用した野口氏の著作『幕末パノラマ館』(野口武彦・新人物往来社 ・2000/03)の出版元である新人物往来社に問い合わせするなどを経て、『村摂記』を手に入れられました。

それによると、問題の文章は途中を抜き出して転記してあることが判明したのです。

少々長いですが、その部分を抜き出します。

『…これを頭に命令して所置することは出来ぬ、なぜなら頭が先生と尊称してゐる位の人だからつまり清川の門人の手下の如くだから、時の御老中もなんとも手のつけかたがないから、頭のうちに清川にも恐れず、可なり議論もある者一人に秘密に命じて、清川を打果せしむることになつた、其頭の門人に剣術体術ともにすぐれた人を五人選抜して、清川八郎の有馬の藩邸へ行くところを、麻布一の橋の前で切殺した、五人のうち手を下したのは、佐々木只三郎と云ふ元会津藩であつた人だ、「戊辰の役、淀にて討死」其外の四名の人の名も知つてゐるし、頭の名も知つてゐるが用のなきことだからはなしません、
 左の名は本文に掲ぐべからず、
  御老中は、小笠原壱岐守、当時図書守と云ふ、
  頭は、 松平上野介、前主税之助と云ふ、
      高橋伊予守、精一郎と云ふ、
      山岡鉄太郎、
  内命を受けたる頭は、窪田治部右衛門、
  刺客は、佐々木只三郎、永峰良三郎(後ち弥吉)
  高久佐次馬等にてあと二人は記憶せず、
…』
『村摂記』のコピー資料ダウンロード

すなわち、野口氏が『村摂記』から引用したのは、「山岡鉄太郎」までの部分なのです。
重要なのはその後の行で、「内命を受けたる頭=窪田治部右衛門」とハッキリ書いてあるのです。すなわち、泥舟や鉄舟などは、引用の冒頭にある「先生と尊称している頭」たちだったのです。清河の暗殺メンバーどころか、命令しても言うことを聞かないだろうと目された者たちだったのです。
それが、引用部分の切り具合によって暗殺メンバーと誤解させるような表現を用いてしまっていることは、大いなる問題ではないでしょうか。

reikai_090114_02.JPG reikai_090114_03.JPG

ともあれ、清河暗殺の実行手配者は、窪田治部右衛門という人物でした。

*****

清河の暗殺後、浪士組幹部は以下の処分を受けました。
・高橋泥舟…御役御免の上蟄居
・山岡鉄舟…御役御免の上蟄居
・窪田治部右衛門…御役御免の上差控
窪田だけが破格に軽い処分でした。
この後、窪田はわずか2カ月後に函館奉行に任命されるなど出世していき、鉄舟と泥舟はこの後3〜4年間、歴史の舞台から姿を消すのでした。

*****

清河の暗殺に際して、窪田治部右衛門の息子、泉太郎と鉄舟が何やら関係していたようです。
どんなことか?
それは次回のお楽しみで…。

(田中達也・記)

投稿者 lefthand : 22:18 | コメント (0)