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2007年12月25日
経営ゼミナール08年2月例会へのお誘い
観光立国の鍵は海から!~保田漁港で新しいバカンスの可能性を探る~
*写真:ハンブルグヨットハーバーにて07年11月撮影
政府は、外国人客1000万人の観光立国を目指して、「観光庁」の新設を決めました。
これは、海外における日本人気のすごさ、従来から認められている茶道や能・歌舞伎などの日本文化に、和食、マンガ、アニメ、武道、温泉、建築などの人気が加わって、海外において日本ブームが展開されていることに着眼した結果です。
海外から多くのお客様を迎えるための新しい開発資源があります。日本に昔から存在しながら、いまだ手付かず、未開拓の観光資源、すなわち海の活用です。日本は海に囲まれています。それなのに海岸は漁港としてしか活用されていません。
しかし、眼をヨーロッパに転じれば、海岸は漁港とヨットマリーナの両者で活用しあっています。海からの産物としての魚介類産業と、スポーツとバカンスを兼ねたマリン産業が発達し、定着し、港から港を巡って旅をつづけています。
現在、日本には3000ヶ所もの港があります。その日本全国の港を、ヨットやボートで移動し、停泊し、気に入ったところで上陸し、その地の名所を訪ねまわるというヨーロッパ形の観光スタイルが定着することになると、外国人客1000万人というレベルではなくなります。
フランスのように自国の人口を超える観光客でにぎわうことになり、その結果、日本は新しい観光立国、付加価値国家として生まれ変わることができるのです。
しかし、この実現には多くの理解者が必要です。
経営ゼミナールでは、この「欧米型港活用ヨットハーバー」の実現に向けて研究会を開催いたします。
その夢の実現モデルケースは、千葉県鋸南町の保田漁港です。保田漁港にはゲストも使用できるゲストバースがあるため、多くのヨットやボートがクルージングで訪れ賑わい、漁協が運営するレストランも賑わう成功モデルであります。
講師は、「海洋観光立国のすすめ」(共著)を昨年出版し、この新しい日本の魅力を実現しようと奮闘している若き女性の明戸真弓美さんです。
経歴:1970年生まれ。大阪市、青森県十和田湖育ち。岩手大学人文社会学部人文社会科学科卒業、東京大学大学院綜合文化研究科修士課程言語情報科学専攻終了。國學院大學大学院経済学研究科博士課程後期経済学専攻2007年3月満期終了。NPO法人地域交流センターにて「日本ぐるっと一周・海交流」など事務局担当。
新しい日本の魅力・価値をつくりあげようとする、明戸さんの夢提案を保田の海で聞き、その実現に皆様の知恵をお借りしたいのです。
加えて、保田漁業協同組合からも、保田漁港の未来構築について熱い想いを発表していただきます。
2008年の経営ゼミナールは、現地、現場、現認をモットーとし、保田漁港へのバス
ツアーを開催いたします。
2月18日(月)の開催の新しい日本の夢づくり研究ゼミナールに、是非ご参加されますことを期待しております。
開催要領
開催日時:平成20年2月18日(月)9:00~17:00
参加費: 10,000円(全行程バス利用で、バス代・昼食代込み)
コース:
東京駅 ~ アクアライン・館山道~保田港~保田にて例会
11:00~11:30 保田漁協発表 11:30~13:00 明戸氏発表と質疑応答
13:00~14:30 昼食・休憩
~館山道・アクアライン ~ 海ほたるにて休憩 ~東京駅
会 場: 鋸南町の保田漁業協同組合会議室
千葉県安房郡鋸南町吉浜99-5 電話:0470-55-0528
昼 食: 保田漁協直営のレストラン「ばんや」にて、新鮮な地魚を使った漁師料理をたっぷり味わいます。あまりの新鮮さ、量の多さに驚かないようにしてください。
「ばんや」電話:0470-55-4844
URL:http://www.awa.or.jp/home/hota-gk/menu.htm
お申し込み:平成20年2月12日(火)まで
経営ゼミナール事務局宛て、下記参加申込書又は経営ゼミナールの例会参加申し込みページからお申し込み願います。
定員30名を予定しておりますので、お早めにお申し込みいただきますよう願いいたします。
1月例会のご案内
1月は1月17日(木)に中会議室1にて開催いたします。
*第三の木曜日になりますので、お間違えのないように願います。
■日時:2008年1月17日(木)午後6時30分~8時
■会場:東京文化会館 中会議室1
■講師:高田東士生氏、山本紀久雄氏
山本さんには、鉄舟研究を発表していただきます。
1月17日(木)開催の例会へのご参加をお待ち申し上げております。
2007年12月24日
12月例会記録(2) 1/2
■山本紀久雄氏
「尊王攘夷と鉄舟貧乏」1/2
今回も鉄舟の貧乏話をします。いろいろな本を読むが、鉄舟の貧乏話を面白おかしく書いている人がほとんどです。鉄舟は、子どもや奥さんを食べさせることは二の次である。普通は奥さんや生まれてきた子どもを飢えさせないようにする、というのが当たり前のことである。自分の子どもを食べさせられない人が社会の中で役立つ人間になるのか、そういう考え方が多いと思います。鉄舟は違った。自分の子どもが死んでも、家のことは二の次で、もっと違うことがあるという考えだった。
鉄舟の貧乏を分析して、なぜそういう気持ちになったのか、そこまでなったのか、下級武士であるのに。その背景を考えて、伝えてきている。今回は貧乏のもっと奥にある、精神のもっと奥にあるものについて触れたいと思います。
時代が必ず影響していますから、今の時代と鉄舟の時代とを比較したい。今日の日経新聞の社説を読みますと、時代は今変わりつつある、景気に翳りがさしてきた、ということを日経新聞は書いています。政府が月例報告で、微妙に言葉を変えたことです。ブッシュもアメリカは住宅バブルだ、という表現をしている。慎重に言葉を選んできた人がバブルの崩壊と言っている。
サブプライムローンが突如問題になってきた。サブプライムローンは日本にはありません。アメリカでお金がない人が、家を買えないくらいの収入の人がお金を借りて家を買った。
日本では銀行でお金を貸してくれない人はどこに行きますか?日本ならサラ金ですね。サラ金に行ってお金を借りるが、アメリカにはサラ金はない。消費者金融でお金を借りる人たちがお金を借りるとイメージすると、それじゃ当然払えないと思いますよね。
アメリカにハリケーンのカトリーナが来ましたね。日本でも新潟地震が来ましたね。地震で家が壊れて仮設住宅を作った。アメリカはハリケーン被害で仮設住宅をつくりましたか?聞いていません。アメリカはお金、融資です。
国によって制度が違うから一言では説明しにくいですが、サブプライムローンでお金を借りた人がお金を返せないようになったことが、今年の8月くらいからはっきりしてきた。返せなくなったら家を売ればいいが、家の値段が下がってきた。
貸したお金は、日本の銀行だと残高として残っている。アメリカは例えば100億円あれば、それを細かくして、証券化して、売り込む。銀行には融資残高が残っていない。世界中にばら撒かれてどこに行っているかわからない。サブプライムローンと優良な証券をミックスさせて、手を変え品を変え世界に売り込んでいる。その中のどれだけが問題かがわからない。
例えば、りんごが入った箱がある、腐っているりんごの数が2個なのか、3個なのか10個なのか100個なのか分からないまま、サブプライムローンが問題だといっている。損が発生するだろうという予測だけです。仮に損害がハッキリしたらその引当額が大きいのかどうなのかが分かるが今は分からない。不安心理で世界中が動いている。サブプライムローンによって損害が発生したら危ないな、そういう気持ちが世界中に蔓延し世界の株が下がった。毎日のようにサブプライムローンが話題になっている。さすがにサブプライムローンを知らない人がいない。
今日スポーツクラブに行ったら「ガソリンの値段が上がったので、“今までは満タン”と言っていたが、何リットルと指定したほうがいいな」と話している人がいた。こういうことで景気が下がる。景気先行指標でも数値が人の気持ちで下がってきている。
姉歯事件の影響もある。建築基準法が改正されて厳しく審査されて住宅着工が遅れている。12月は“お正月になったら新しい家に住みたい”と考える人がいるので書き入れ時ですが建設が遅れている。そのように全部が影響している。だから景気が前より悪い。
我々は分かっているようだけど、外国人のほうがもっと分かっている。OECDが毎月世界の景気を発表しており、月例報告では日本は今年の6月から景気先行指標がずっとマイナス。6月マイナス0.6%、7月マイナス1.5%、8月マイナス3.3%、9月マイナス4.5%、10月マイナス0.6%、とOECDが発表している。ヘッジファンド、投資家は、日本は景気が悪いと思うわけです。今日は1万5200円です。1万8000円まで行ったのに。
建築基準法の影響で、113万戸ほどあった建築戸数が、今は80万から70万くらいに落ちています。しかし来年になると今落ちている分がカバーされるから、今落ちた分をベースに来年は高くなり、景気がよくなる。なので、あまり批判的に考えないほうがいい。
サブプライムローンも片付けようと思って世界が動いている。住宅融資の中のウエイトが低いから傷が浅い。毎日毎日新聞に沢山出るから、自分の気持ちをマイナスの方向に向かっていくと景気が下がる。来年の下期には姉歯の影響はなくなります。サブプライムローンも建築の問題も例外事項だと思っています。例外事項は普通に戻るはずだと思っています。景気は戻るので心配することはない。
金子さんがドイツに一ヶ月住むというので、普通のことではない、例外事項だ、例外的なことを探ってきてもらいたいねと言ったら「難しい」というので、町屋とカールスルーエと比較したらどうか、駅を降りたら、カールスルーエは動物園、町屋は交番、ずいぶん違う。なぜ交番でなぜ動物園なのか、その比較をやればいい。このように世の中を見ていくと新鮮に映る。
幕末はもっと例外事項でした。ペリーが来て、明治維新までちょうど15年。この15年間に日本人は何をしたのでしょうか。封建社会を壊し近代社会をスタートさせました。
バブル崩壊から小泉改革によって4大銀行の不良債権回収まで15年かかってしまった。
明治維新の凄さの中に、封建体制を変えただけではない、もっと問題がありました。ペリーが来たのが嘉永6(1853)年、1854年には11月に4日間で、3つの大地震がきた。マグニチュード8.4、7.4、6.9の地震がきた。それから翌年には6.9の江戸大地震が来ている。その翌年は大嵐と津波が江戸に来た。その翌年には江戸にコレラ、次に麻疹が流行し、江戸に火事、大阪に大火、こういう災害が15年の間続いた。
最近凶悪事件が多いなと思っている人もいるでしょうが、統計的には減っている。平成14年をピークにして15年から刑法犯は年々減っている。情報が発達しているから昨日も今日も明日も事件があるように感じるだけで、事件は減っている。減っているからTVでしつこく繰り返し流れる。
日本は世界で一番人気がある。危ない国が人気あるわけがないじゃないですか。日本は世界中で恋されています。日本の寿司が好き。日本の生活はマンガになって世界に紹介され、日本の生活にあこがれています。
TVは、そのときの話題を見つけてしつこくやる。社説に載っているようなことを言わない。分析をしていけば、データの使い方だと分かり、もう少しで回復すると分かれば安心する。
江戸時代は大変でした。米の値段がすごい。ペリーがきたとき米100俵の平均価格が江戸で49両でしたが15年後の慶応元年は7倍以上の350両になった。今の原油どころじゃない。主食が米の時代に7倍も上がったら庶民の生活はどうしますか。
そういう中で明治維新をした。今と全然違う。我々の先輩は偉かった。その上に幕末は江戸城では徹底抗戦派と恭順派とに別れ、やりあった。勝海舟は恭順派、抗戦派は小栗上野之介。
小栗は横須賀の海軍工廠、製鉄所を作った。28歳のフランス人技師ヴェルニーが来日して作った。今は米軍基地になり、キティーホークが来ている日本で一番大きい港です。フランスの軍港ツーロンを真似てつくった。今のお金でいうと300億円というお金を借りましたが、全部使わないでどこかに埋めたらしいという話から徳川埋蔵金事件として群馬県を掘っている。群馬県が小栗の領地だった。
横須賀150周年、浦賀と横須賀は知らないといけない。下田のほうが有名になっていますが、ペリーが来たのは横須賀です。日本の夜明けの原点で、ここから丁々発止政治交渉が始まった。井上先生が昨年の鉄舟全国大会で、梨ひとつから明治維新を解明していましたね。
小栗が海軍工廠を作らなかったら、日本の海軍は成長しなかった。横須賀に日露開戦の戦艦三笠があり、行ってみてビックリです。日露開戦で日本は偶然に幸運で勝ったかと思ったら、緻密な計算をし尽くして勝っている。そういう事実をみんな知らない
司馬遼太郎さんが江田島の防衛大学で講演したら、「史実と違います」と指摘があった。司馬さんは「私は小説家です」と。坂本竜馬も小説です。あれを事実と思ってしまう。この鉄舟サロンは事実からものを見る、そういう勉強会です。
幕末から明治維新は例外非日常状態だった。普通の人は今まで通り江戸時代が続けばよいと思うわけです。そのとき少数の人たちが変えようとした。例外事項から外れたことをしようとしたとき馬鹿者扱いをされた。その戦いをしていた。鉄舟が忽然と出てきて幕府を潰す側のことをした。これが貧乏と結びつく。例外的な人間がいたから明治維新がきた。変わった人間が必要なんです。世の中を見ているか、時代がその人を味方したら、世の中変わっていく。世の中は方向性で、方向性が間違っていたら悪い方向に行ってしまう。今の時代と合致してないことをやろうとしてもだめ。時代の方向性を把握できるほど、世の中を見ているかどうかです。
こういう勉強会は、歴史から方向性を学ぶことです。明治維新とは、我々の先人が例外的なことをしたことなのです。その中に鉄舟が居たのです。
12月例会記録(2) 2/2
■山本紀久雄氏
「尊王攘夷と鉄舟貧乏」2/2
1.貧乏話の最後
鉄舟の弟子小倉鉄樹が次のように語っている。(『おれの師匠』島津書房)
「武田耕雲斎が常陸に事を起して、山岡へ訣別に来た。帰りしなに耕雲斎が奥さんに、『お英さん、これで一生の別れだ。かたみに何か置いて行かう。』と、自分の體を見廻したが、締めていた兵子帯を解いて奥さんに置いて行った。それは新調のみづみづしい濱縮緬であった。貧乏で絹ものなど、手にしたことがなかった時、この餞別は奥さんには非常に嬉しいものであった。早速仕立てて腰巻にこしらへ上げた。ちやうどそれが仕立てあがった時、どうしても金のいることが起って、まだ一度も身に着けない腰巻を、質に入れなくちゃならぬことになってしまった。其後質から出したい出したいと思ってゐたが、とうとう出せずに流してしまった。それを考へると今でも惜しいと思ふと奥さんはよく語られた」
2.武田耕雲斎
当時の尊王攘夷運動のリーダーの一人である。その人物が天狗党の首領となるに当たって、鉄舟に挨拶に来たのである。ということは、耕雲斎が挨拶に来た元治元年時点で、鉄舟は29歳、攘夷運動では知られた人物になっていたことが分かる。
天狗等の首領から挨拶を受けるということは、貧乏だったけれど、攘夷の思想の中では、そのときそれなりの地位にいたのでしょう。
耕雲斎は、天狗党は800人を連れて、京都にいる徳川慶喜を頼って行った。「尊王攘夷」の身分だから、幕府から追討受ける立場ではないと進軍していったが福井県で幕府に投降した。食料の問題などもあったが、一番は頼りにしていた慶喜がけしからんと追討をはじめたので、やる気がなくなってしまった。そのときに354名が首を切られた。首を斬るのは嫌でしょう。福井県の侍は嫌だ。しかし喜んで斬った藩がある。井伊大老を斬ったのも水戸藩です。
吉田松陰が殺された安政の大獄で死罪になったのは8名。天狗党は354名です。党首の孫や子まで全部殺された。武田耕雲斎は尊王攘夷の徹底した人物だった。
3.渋沢栄一編の「昔夢会筆記・徳川慶喜公回想談」
この中の第七回の会、開催日は明治四十二年十二月八日、渋沢の兜町事務所で開かれたが、そこで攘夷のことが話題になった。参加していた旧桑名藩士の江間政発(えままさあき)が、三日前に東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)に会って聞いたという話を披露している。東久世通禧とは、文久三年の八月十八日の政変「七鄕落ち」の一人、つまり、当時の朝廷内強行攘夷論者である。
「あの当時攘夷ということが流行しましたが、攘夷は夷を攘うということで、何でも眼色の変わった奴は、片端から斬殺してしまうというのが攘夷の原則で、攘夷を大別しますと、水戸の攘夷、長州の攘夷、それから天子様の御攘夷と、こう三つと見まして、水戸の攘夷などというものは、私ども(江間)考えると本当の攘夷ではない、ためにするところあっての攘夷、あなた(東久世)はどうお考えなさるかと申し試みましたところが、長州の攘夷もそうだよ、何も攘夷をしたいというわけでない・・・。してみると攘夷ということは、今日から忌憚なく申すと、反対党を叩き潰す看板である、そう言ってもよろしい」
明治維新になってから、慶喜を囲んで当時の幕府関係者が想い出を語る会を渋沢栄一の事務所で開いている。「攘夷」は燃え上がったが、反対を潰すためのものだった。攘夷に命を懸けた人、脱藩して京都に行った人がいる。
4.尊王論
尊王思想を最初に唱えたのが水戸藩。その内容は天皇-幕府-藩主-藩士という封建的ヒエラルキーが設定され、武士は直接の君主に忠誠を尽くす、それが尊王思想であると意味された。この思想では、武士の尊王行為は幕藩体制を補強するものであっても、敵対化するものにはなり得ない。
しかしながら、こうしたいわば佐幕的尊王思想を、体制破壊の尊王思想に変えた一人が、吉田松陰。吉田松陰の尊王思想特色は、天皇への個人的・主体的忠誠を重視するところにあった。松陰は、全国の日本人は、階級・身分にかかわらず、天皇に忠誠を尽くすものであるという「一君万民論」を説いたのである。
このような尊王思想が、「国事」に深い関心を持ちながら、身分が低いゆえに活動を制限されていた下級武士に勇気を与えた。松陰の主催する「松下村塾」には、こうした下級武士が多く学んだが、それは松陰の思想が集めたのであった。
当時江戸時代の人は、京都に天子様がおられ、その代理である征夷大将軍が江戸にいると知っている。尊皇攘夷か尊王開国だけで、そのうち「攘夷」がおかしくなり、攘夷消えたときに明治維新になっている。横須賀の海軍工廠、製鉄所をつくることも開国しなければ技術提供ができない。幕府を潰そうと考えたときに、幕府は開国だから、攘夷の反対をやればいいと言っている。最後に慶喜は一言「攘夷にもいろいろある」と言ったとその本に書いてある。
記録は大事ですね。我々の仕事も昨日おとといと仕事を積み重ねて今日がある。記録があるからこのような意見が話せる。
攘夷論に侍が燃えたのは普遍的な理由がある。映画「武士の一分」で木村拓哉は毎日何をしていましたか?毒見のために毎日同じ時間に城へ行って味見して帰ってくる。武士は本来戦うためにできた存在。その戦いが無くなってしまった。剣の達人がお椀ひとつ食べたら終わりで帰ってくる。これが「武士の一分」で描かれている。退屈な人生だったなと思いますよね。退屈な人生を送っている人たちに対して、突如として「攘夷」と来たときどうなりますか?ペリー来た、外国人はけしからん、気概のある人間は戦おう、俺の出番が来たと盛り上がって脱藩します。坂本竜馬もです。盛り上がるために攘夷は必要だったわけです。京都で新撰組とやりあったりします。
攘夷論は最終的に消えて開国しました。ここで大事なのは鉄舟が攘夷だったということ。鉄舟はどういう人だったのですか?
5.「一君万民論」と「宇宙と人間」
「宇宙と人間」は鉄舟が23歳のときに書きました。天皇の下を、武士、公家、町民、僧侶と4つにわけていますが、幕府は入っていません。天子様の元に公平です。明治維新の10年前です。これは誰かの思想と似ていませんか?日本で一番有名な人と似ている。明治維新を作ろうと下級武士からいっぱいできてきたが、これは吉田松陰、萩の松下村塾から学んだ人から出てきました。松下村塾で何を教えましたか。今までの尊王論は、天皇家、その下に幕府、その下に諸大名、その下に侍、序列を崩さず、序列を大切にする縦系列の尊王論が普通だった。それが水戸家の尊王論だった。
ところが吉田松陰は、天子の下に全員平等であると言い出した。吉田松陰の言っている「一君万民論」と、鉄舟の「宇宙と人間」は一致した。吉田松陰はすごく有名ですから、漏れ聞いたかもしれない。その思想と鉄舟が自ら考えたものが一致しているとしたらどうなんですか。「攘夷」などではなく、吉田松陰も唱えていることが民主主義、鉄舟も民主主義です。鉄舟はそこに徹した。
6.何故貧乏を徹底したか
鉄舟は自らの生き様を「宇宙と人間」で書き示したように、天皇の臣民として生きる覚悟を定めていた。だから、鉄舟にとっては、妻子を養うのは私事であり二の次となり、その延長から志向する思考体系は「臣民」であって、一個の自由な「人間」ではなかったということになる。いわば鉄舟は、いつも「臣民」としてのみ思考し行動していたのである。
恐ろしいまでの徹した「尽忠」理念であって、これを貫く先に、当然に貧乏生活となる。
鉄舟は民主主義の考えに徹した。天皇の下に臣民で、上司は天皇しかいない。やる気十分です。家族のことは二の次、西郷隆盛との交渉も天皇の臣民ですから行きます。鉄舟はそういう意味の尊王攘夷だった。武田耕雲斎の攘夷とは違う。武田耕雲斎は倒れたが、鉄舟は生き残り日本のために尽くした。
こういうことまで考えて鉄舟の貧乏話をしているのか。鉄舟に「個」という考えはない。そこまで徹した。それがあったゆえに貧乏だったが、鉄舟にとっては貧乏なんて関係ないことだった。
中国は北京オリンピックの準備で警備員をそろえた。田舎から連れてくるから警備員同士喧嘩をするらしい。中国では政策で子どもを一人しか生んではいけないと抑制した。人口で中国がインドに負けるでしょう。子ども一人しか生まないことを考えると、女の子は将来嫁に出て行くので跡継ぎになる男の子を生みました。その結果、女子100に対して男子117、内陸部では女100に対して男122です。性犯罪に走る、悪い人がいっぱいいて大きな問題だと考える。ソ連は人口の65%が女性です。男性はアルコール過剰摂取により早死にで、平均寿命は女性73歳、男性59歳です。女性が多く男性が少ない、その結果女性が結婚できませんね。ロシアではカルチャークラブが大流行で、ロシアの女性は男性に優しく美しくなりたいと思っています。逆に中国の女性は何もしません。代わりがいっぱいますからね。
【事務局の感想】
なぜ鉄舟が貧乏であったか、他の作家は貧乏であったという事実だけをとらえて鉄舟面白おかしく書いていた点を、山本さんは「何故だ」考え続けて、吉田松陰に繋がる今回の発表になりました。いつも深く考える、考え続けるということを山本さんから教えていただいていますが、自分の実行となると難しいものです。しかし、この研究会を代表している者ですから、なんとか学んでいきたいと思っています。
皆様も平成20年もご一緒に鉄舟を深めて参りましょう。よろしくお願いいたします。
以上
2007年12月23日
12月例会の感想
2007年最後の例会が行われました。
その様子を写真でお知らせいたします。
今回は、ドイツでのぬりえ展を無事終えられた金子さんより、そのご報告を聞かせていただきました。
続いては山本さんの鉄舟研究。鉄舟の貧乏生活の意義を問うシリーズも佳境に入ってまいりました。
今回は、2007年最後の例会でしたので、終了後に「望年会」を催しました。
一年の労をねぎらい来年に望みを託す。
皆さんにとりまして今年はどんな年でしたでしょうか。
来年もご一緒に研鑽させていただくことができればこの上ない幸せです。
来年もよろしくお願い申し上げます。
(田中達也・記)
投稿者 lefthand : 18:18 | コメント (0)
2007年12月16日
11月例会記録(2) 1/2
■山本紀久雄氏
「貧乏生活も戦略的行動の一貫」 1/2
中瀬さんからお話を聞きまして、楽しい人生ですね。好きなことをしようとしている。好きだから継続できる。継続できるから、上達する。その見本ですね。自分を訪ねる、自分の中味を深めるための一直線の行動です。
鉄舟もそうですね。鉄舟は最終的に世の中のために役立ちましたが、役立つために小さいときから一本道を歩いている。
途中で凄く貧乏しているんですね。貧乏で養育費、食費がなければ、ほとんどの人なら収入を補うためにアルバイトをするが鉄舟は一切しなかった。それが魅力的であり、その貧乏話しを面白おかしく書く人もいる。鉄舟はなぜ貧乏をし続けたかを解明したいと思っている。今日はその触りの部分をお話したい。
来週パリの水道局に行きます。東京、NY、パリ3都市の水道を調べて研究をしております。先ほど通訳の方と打ち合わせしました。
彼女は日本を行き来しており、フランスは日本と比較して認知症の人が少ないと言っています。フランスで言われているのは、パリの水道水にはカルシウム分が多いからで、そう言っている学者もいるそうです。
来年2008年は日仏交流150周年記念です。文化交流150年祭が盛大に開かれます。上米良さんからご紹介受けた明治神宮の稲葉館長もパリで演武を行います。通訳の彼女は、外務省や文化庁との間でコーディネイトする仕事もやっています。彼女が担当したのは、鹿沼のさつきを船でパリ持っていくことだが、赤道直下を通ると花が咲いてしまう。何ヶ月か前に計算して5月に一番花が咲くように持っていくそうです。そういう話を彼女から聞きました。
ミシュランガイドが発売になりましたね。東京が世界で一番星付きレストランが多く7箇所3つ星になりました。寿司が2箇所、日本料理2箇所、フランス料理3箇所あります。
その中に銀座のロオジエがあります。30年ほど前、資生堂の企画部に居たときに資生堂100周年事業として何かしようとなりました。そこで資生堂パーラーの中にフランスに負けないフランス料理の店を作り見事に成功しました。資生堂は文化事業をしようとしたときレストランを作った。食は文化です。30年経って文化企業として認められました。
ミシュランの星7つの店の中で日本食が5つ入っている。日本食がこれだけ3つ星を取ったということは世界で日本食は主流ということです。
先月ブラジルに行きました。ブラジルから日本まで飛行機で24時間掛かります。ブラジルを発つ際に空港で食事しようとすると空港内に寿司バーがありました。空港でロビーにいると、以前はメインロビーにはイタリアンが多かったが今は日本食です。空港のメインレストランが日本食であるということから日本食が世界を制しているということがわかります。
ブラジルの空港で飛行機が出発するまで6時間待ちました。ろくな説明もない。日本だと怒り狂って乗客が押し寄せるでしょう。100何人乗るのに3人くらいしか押し寄せない。その3人は病院に手術の器具を持っていくからです。ブラジル国民は大人しいと判断しました。ブラジルはアマゾンのイメージがないですか。アマゾンはありますがブラジルは大都市です。ブラジル人が大人しいのは国民性だという人もいるかもしれませんが、その国民性も何かがあってそうなったわけです。日本人も日本人の国民性があります。日本人はどう見られているでしょうか。
今日また株価が下がった。さんざんですね。1万5000円切るくらいです。株が上がって1万8000円行ったのは小泉さんが首相のときですね。安倍さんが選挙して負けて、サブプライム問題も重なって株価は下がっています。
日本の株を買うのは日本人が3割~4割、残り6割は外国人投資家が買っています。外国人が日本人を見て信用が置けるなら株を買います。株価が下がっているということは、今は売られているということです。外国人投資家は日本人を、日本人の国民性を見ています。
ブラジルで6時間静かに飛行機を待つブラジル人をみて、ブラジル人は大人しい、と見たのと同じように、外国人は日本人を見て株を売り買いしています。6割の外国人投資家が株を買わないと日本の株価は上がりません。外国と絡まないとならない。中瀬さんもおっしゃっておりましたが、日本に観光客が来ないとならない。そのためには日本のイメージが大事です。そのイメージは誰が作っているか、私を含めて国民がイメージを作っています。
小泉さんが首相のとき郵政民営化を掲げ、郵便局は民営化されました。東京駅前に東京の本局郵便局がありますよね。周りは高層ビル化されましたが、あの場所は低層です。ドイツの郵便局は建物を建て替えテナント貸しをしている。民営化はそういうことです。小泉さんはそれをしようとした。それを見て外国人が、日本は改革して変わると株を買いました。
参議院議員の選挙で、安倍さんは戦後レジームからの脱却だと言いました。そんなことより年金の問題だと、5000万件のデータが紛失し国民は怒り狂った。それはそれで宜しい。
ここからは私の意見です。外国人がこの日本人の行動をどう見ているか。日本人は一人一人の年金に一番関心がある、これからもらう金額、月2~3万円の変化に対して熱心で、生まれてくる子どもたちがどう日本を作っていくかに関心がなかったんじゃないか。日本人は自分のことしか考えないと評価した。証券会社は外国人投資家に日本株を買ってくださいと外国各地に行きます。目先の自分のエゴしか見えない国民の株を買うかと言われます。これが日本の株が上がらない真の理由だと聞きました。
選挙というのは大きな考えで行動しないとならない。個人的なものだとしっぺ返しが来る。サブプライムローンで外国も株価が下がっているが、日本も下がってくる。外国と関連しているということを忘れてはいけない。常に時代の中で判断しなければならない。
明治維新のときに鉄舟が西郷隆盛と話しをつけ、無血開城ができたのはどういう意味か。幕末に慶喜が上野・寛永寺に蟄居したのは普通のことですか?例外的事件が発生したわけです。例外的事件ということは異常事態で、その対応をしなければならない。今まで通りの日常生活をしたい、江戸幕府の時代に戻したいと思っていたら、明治維新はなく今の日本はなかった。非日常のとき異常な判断力が必要になる。その異常が後からみると正常な判断である。幕府を残していたら日本は民主化された国になっていなかった。
みんなの意見でやってしまった結果、外国人は株を買わなくなった。明治維新のとき、異常な状態の中で異常だと思われることを正常だと思われるような判断をする人が少数居た。鉄舟もこの中の一人でした。結果、無血開城となった。レトリックな話ですが、異常事態の中では異常なことが正常になる。
11月例会記録(2) 2/2
■山本紀久雄氏
「貧乏生活も戦略的行動の一貫」 2/2
1.鉄舟は自ら大悟し自得した無刀流を、明治十八年に次のように説明した。
「無刀とは心の外に刀なしと云事にして、三界唯一心也。一心は内外本来無一物なるが故に、敵に対する時、前に敵なく、後ろに我なく、妙法無方、朕迹を留めず。是、余が無刀流と称する訳なり」(山岡鉄舟剣禅話 徳間書店)
人間は裸で生まれ、死ぬときも裸であるから、すべてにこだわってはいけない。刀に頼ってはいけない。頼らないところから自分の術が生まれる。
2.このような境地に達したのは、明治十三年三月三十日払暁に
「釈然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを覚ゆ」
という大悟に到ったからである。
大悟するというのは、自分の中の細胞が一瞬にして変わるのではないか。そういう人が53歳で亡くなるのは早すぎる、という質問を受けた。一般論からしたらそうでしょう。立派な思想を持った方は80歳90歳と長生きするではないですか。しかし寿命があります。年齢ではない。凝縮された中味です。大悟にいたったから無刀流を作り上げた。
3.ここまでの道程で何を修行してきたか・・・「修身二十則」
第一則は「うそはいふ可からず候」で始まり、その後に続く中で、「己の知らざるは何人からも学べ」と言い、「名利のために学問技芸すべからず」と諌め、「人にはすべて能不能あるので差別するな」と説き、「わが善行を誇らず、わが心に恥じざるよう務めろ」とある。この時点で本来無一物の思想、つまり「無私」の精神が顕れており、これを自己研鑽の最高の徳目に、少年時代から自己研鑽を続けていた。
鉄舟15歳、今なら中学3年生、のときに鉄舟が書いたものです。金儲けのために学問してはいけない。人の能力には差があるからマイナス面を言ってはいけない。全部自分というものを失う、捨てる「無私」で統一されています。
一晩で書いたのではない、ずっと前から考えていたから、書けるわけです。物心ついたときから自分というものを「無」に置く気持ちがあった。
年を取れば取るほど豊かな人生になるはずです。年齢が高ければ経験を積んで今日以降生きていくのだから。しかし経験を積んだ人が、いろんなところでとちって国会で証人喚問とか受けています。過去の生き方を参考にしていないのではないですか。人のこと、他人のことを見ていたら、自分がやっていることが悪いことだと気づくでしょう。毎日起きていること、過去の経験知を生かせば、どんどん生き方が上手になるはずです。うまくいかないとすれば、過去のことを分析して整理していないからです。これは勿体ない。
鉄舟はそれをした。勝海舟と比較したら鉄舟は残さなかった。勝海舟全書25冊ある。そのくらい勝海舟はしゃべった。勝海舟と比較すると鉄舟はしゃべらなかったが、ポイントで残している。「修身二十則」もそうです。15歳までの自分の経験知を文章化したということは生きる指針にしたということです。皆さんはノートの中に自分はこう生きるという戦略指針が書いてありますか?
自分の指針を作るべきです。世の中はどんどん変わっていくので、その指針は常に現在のことを見て直していく。世界はグローバルで繋がっています。日本のことだけを調べて株を買っても株価は上がりません。外国人投資家が6割ですから外国のことを考えないとなりません。法律を、エッセンスを自分の指針として、戦略的に行動する。鉄舟にはそれがあった。
幕末にペリーが来て15年間で明治維新が起きた。それは少数の人が作った。
橋本知事は16年間高知県で知事をした。橋本龍太郎の弟で高知県の知事に当選し、改革派の先駆けとして華々しく行動したが、今はひっそりした。官官接待やめましょう、情報公開しましょう、山を守りましょうといろいろ素晴らしいことをした。しかし県議会からは場当たり的なことしかしなかったと批判され、その後退職金を返せと言われ、それは議会で議決された。悪いことやっていないのに。経済が成長しなかった、全国の県の中でも最下位であり今も最下位に近い、16年間一貫した経済政策を打ち出せなかった。
日本はペリーが来て15年間で封建社会を捨てて近代社会を作り上げた。高知県は16年間で成長しなかった。今日一日を楽しく生きるのではなく、過去あったものから抽出して、それを指針にして貫くこと。それが戦略です。
それを貫いたから、鉄舟は自分が磨いた剣で金を取ることはしなかった。書だって弘法大師の再来といわれても、書を教えてお金を貰おうと思わなかった。百俵二人扶持のままです。私なら家族のために何かしますね。
4.貧乏物語二題・・・家財道具の売り払い、柏の木を伐る
鉄舟の庭に柏の木があり隣に住む菓子屋は鉄舟の家に来て柏餅用に葉を貰って、いくばくかのお礼を奥さんの英子さんに渡した。あの柏の木は切らないでくださいと伝えていた。これを聞いた鉄舟は柏の木を伐ってしまった。柏の木で金を作りたくないからと。
5.武士の内職は普通のこと・・・鉄舟はしなかった
「俗に三ピンといふ下役の武家家来あり。足軽・小者の輩ならん。一ヵ年金三両に一人扶持(ゆえに三一といふ)。二本差もあり。それのみにては自分だけをも支えるに足らぬゆゑ、種々の内職をする。大名の中下の邸にてはないしよの表向きとして許されありしなり。傘、提灯張り、扇、団扇、下駄の表、麻裏草履、摺物、その他数多くあり。本職よりかへつて収入多きなりしと」「江戸の夕栄(鹿島萬兵衛)中公文庫」
6.茨城大学磯田道史助教授・・・山岡にとっては、妻子を養うのは私事であり二の次
私事ではありますが、家族を持つことは公のこと。自分の子どもを育てること、奥さんにお金を渡すことは「私事」ですか?
鉄舟に取って公の仕事とは何ですか?鉄舟にとって個人生活はない。鉄舟はそういう人間なんです。
7.西郷が愛宕山で海舟に語った言葉・・・「普遍的な公」
「命もいらず、名もいらず、金もいらず、といった始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如きでしょう」
8.慶喜の恭順は「非日常事態」の発生、例外状態であり、今までの「日常状態」での判断基準は参考にならず、結果として多くの異論が噴出、争いが生ずる。この「非日常事態」の中で、「普遍的な公」としての江戸無血開城を採りえたことが、「明治維新」を成立させた。
9.人間はまず「考え方」があり、次に「やる気」があって、「争い」が生まれ、その先に「結果」が生じる。
すべてにおいて「考え方」が優先します。次ぎに考え方を実行しようとする「やる気」が必要です。やる気があるとやる気同士で「争い」ます。江戸幕府を守ろうと考え方、江戸幕府を潰しても日本を救おうという考え方があった。少数派が妥当な行動をした結果、今の日本がある。
「考え方」の違いで争いが起きる。考えをつきつめて実行しようとした結果、「やる気」のところで違った考え方と考え方で争いが起きる。その時、どちらの考えが今の時代、今後について妥当なのか?を考える。
選挙で言うならば、自分の年金の月1~3万円を大事にして選挙で投票するのか、改革して日本の国を違ったものにすべきだということを考えて投票するか、そうしていたら今のような結果にならなかったかもしれない。そういうことが鉄舟を勉強していけばわかります。
10.まだ不可解なことがある。それは何故に鉄舟が「幕府を潰す」という「普遍的な公」をとりえたのか。次回に続く。
江戸無血開城は幕府を潰すことです。鉄舟は旗本であり、旗本は幕府の直系でしょう。その旗本が幕府をつぶすことが「普遍的な公」であるという意思決定を思想として持ったか、これを解明しないと鉄舟の貧乏を解明できません。
【事務局の感想】
鉄舟が貧乏したことの本質を探る研究もいよいよ佳境に入ってまいりました。
鉄舟が貧乏したのは自らの戦略的行動の結果であって、貧乏したという事実は些細な「私事」にすぎないと、鉄舟は考えていたとすれば、その胆力たるや、壮絶なものだと感じました。
歴史はこのような「人生をうずめる」覚悟を持った人物によって創り出されるものなのではないでしょうか。
今後の研究が楽しみです。
以上
11月例会記録(1) 1/2
◆中瀬勝義氏
「エコライフから海洋観光立国」1/2
中瀬と申します。 レジメに沿っていきたいと思います。遊び呆けているだけなんですが、順番なので発表させてもらいます。
1.生まれと育ち
・東京都江東区亀戸
・40日目の20年3月10日の東京大空襲で、母に背負われ、荒川放水路で生き延びる。
当時は城東区というのですが、亀戸で生まれました。城東区は深川区と一緒になって江東区になりました。当時の人口は42万人ですが、終戦後は9万人。10何万人が死んで、それ以外の20万人くらいはどこかに行ってしまった。
つい3、4年前までは人口が伸びなくて、隅田川より向こう側の山の手の人は住みたくなかったみたいですが、最近江東区も住みたいところに変わりつつあります。
焼けてしまったので10歳くらいまでは神奈川県横浜市の鶴見区に住んでいました。その後戻って江東区深川に52、3年住んでいます。地元で小学校・中学校・高校を出ました。
・大学は松前総長の海洋資源開発論に憧れて、東海大学海洋学部に入学。
当時、海洋開発、宇宙開発、原子力開発は科学技術庁の政策で、正月の新聞の特集号に出ていました。それにつられて東海大学の海洋学部に入学した。
その前は、脳外科の医者になろうと考えていました。夏目漱石の『心』、武者小路実篤の『友情』などを読み、三角関係になり、人間関係が難しくなる。そこでなぜ三角関係なるのか考えていた。そこで記憶を消せたら解決できるのではないのかと、パーマネントような機械に頭を入れて、スイッチを押すと、過去の記憶が消えてしまうものを考えたいと思っていた。しかし、途中で嫌になり、海洋開発に憧れて入った。できたばかりで入学したときは何もなくて、校舎もあるとかないとかで、そんな感じで大学を出た。
・社会に出てからは、主に発電所環境調査に従事、原発で美味しく飯を食べ続ける。
地方の現場周りです。九州、四国、中国、北海道などを旅芸人みたいに点々と回っていました。原子力がブームになっていたので、原発で仕事をしていれば給料だけは確実にもらえた。公害ブームが過ぎて、環境調査は小さくなった。
・途中から、ヨーロッパの脱原発に感化され、環境や脱原発に関心高まる。
アメリカでスリーマイル事故、ロシアでチェルノブイリがあって、ヨーロッパも脱原発になり、イタリアは原発を国民投票で完全にやめた。ドイツやスウェーデンはやめると言いつつやめていない。隣のフランスは原発をやっている。脱原発を考え出して、段々と傾いていった。
・通信教育で法政大法学部10年、慶応大経済学部15年間学ぶも、後者は卒業できず。
環境は自然科学というよりは社会科学だ、と法政大学法学部通信部に入学し10年掛かって卒業した。その後慶応大学経済学部に入学したが、卒業できず。卒論は金子勝教授に指導を受け、ゼミと授業を5年間聞いて、卒論は6回書き直して、OKになった時には単位が不足で退学になった。この時に原発がなくても生活できるという提案がなければ嫌でしょといわれて、それで6回書き直した。その結論が海洋環境立国で、本を出すことになった。
2.山岡鉄舟との係り
・ 学生時代は清水で、当時アルバイトの家庭教師をしていたところが鉄舟
寺の隣で、何度か遊びにいった。東海大学の前身の航空専門学校が久能山
にあったことから、東海大学校歌には鉄舟寺が歌われている。
・会社の上司と意見対立・揉め始め、40才位から上智大学座禅会に参加。導
師は鉄舟の弟子の大森曹玄に免許を頂いた方。司祭では始めて座禅の免許皆伝を得ている。
上智大学の座禅会は10年くらい通った。師匠である門脇先生は、山岡鉄舟、大森曹玄を継いだ方です。先生は上智大学の司祭です。先生は、大森曹玄の前は朝比奈さんという有名な方の元に通っていたんですが、朝比奈さんとは、相性が合わなくて、大森曹玄のところにいって免許皆伝できたそうです。免許を一回だけ見せてもらったことがあります。
この先生は面白い方で、遠藤周作等から寄付金を集めて、パリとローマとブラッセルで「キリストの洗礼」という創作能をやりました。能は本人ではなく弟子がやったのですが、上智大学ともなると能楽師の子どもさんが学生で入っています。
・その後も時に 谷中の全生庵に座禅にいったことがある。
3.ボランティア他
・ 会社では非主流を歩いていたこともあり、母の介護を理由に早期退職し、
介護の合間に地元江東区のエコリーダー養成講座に通うことになり、「自転
車エコライフの会」を立ち上げ、また「屋上菜園エコライフ」で遊ぶよう
になった。
定年2年前に会社を辞めました。会社を辞めたくて仕方なくて、でも勝手には辞められなくて、母の介護の4年目に入って女房が危なくなってきたのを理由に辞めました。女房が9割やって、私は1割位やり、あとは遊んでいられたので、エコリーダーになりました。自転車エコライフの会を立ち上げて、毎月の通信を出し始め、屋上菜園エコライフということで、生ごみを処理して土を作り、野菜を作っている。はじめて5、6年経ちますが、プランターも100個くらいになった。
・その後、江東エコリーダーの会代表などを担当するも、環境では政治家も行政も動かないと感じるようになるとともに、「お江戸深川さくら祭り」、「水彩まつり」、地元の夏祭りなどを経験して行く中で、観光立国に関心が高まった。
・慶応大学の幻の卒論「原発誘致の経済的影響」を書く中で、原発のない日本が生きてゆくためのオルタナティブとして「海洋観光立国」を結論とした。
11月例会記録(1) 2/2
◆中瀬勝義氏
「エコライフから海洋観光立国」 2/2
4.自転車エコライフ
・ 製造するのに自動車に比較し材料資源は1/100~1/50と少ない。
自転車は、車1台つくる資源で自転車が50~100台作れる。
・運転するのにガソリン・石油が必要ない。大気汚染・騒音を出さない。
・身体の健康に大変良い。特に精神病になり難くなる。本能を磨ける。
・自動車活用に比較し、年間で100万円も節約できる。
自転車で一番良いと思うのは、ノイローゼにはなれないところ。今の子ども達はファミコンばかりで本能を磨いてない。自転車は右に曲がるときに当たり前に自分の直観力・本能で行っている。子ども達が切れないためには自分の本能を磨くことだと考えていまして、身近で一番は自転車だと考えています。
経済的には、1年間100万円くらい得することになる。15年くらい前、バブルのときに駐車場が2万から5万になるといわれて、一年間60万円は仲間とお酒飲んだほうが良いとやめました。
上智大学も自転車で1時間くらいかけて通っていた。
・日本は世界で唯一歩道を走れる国。このため子供老人に危険感を引き起こしている。
世界にないルールを日本はたくさん考え出す。
・駅前などの違法駐輪が大問題になっている。
自転車は人権がない。利権が取れないから政治家も興味がない。
つい最近フランスでレンタル自転車が出来た。2万5000台くらいを、パリ市内駐輪場1500箇所に配置し、一箇所18台をコンピュータ管理している。駐輪場から駐輪場まで300メートルくらいで、パリ中を走れる。現在建設中で今年中にはできるようです。パリは自慢しています。しかし、交通の手段として利用しているのは日本が圧倒的にすごい。ヨーロッパでは自転車を交通の手段にしている率は1%位で、自転車はスポーツとして使われている。日本はママチャリで子どもを幼稚園に送り迎えするだけで十何パーセント。自転車の交通利用率は世界の中で日本がトップということを知って、逆にビックリしている。
5.屋上菜園エコライフ
・自宅の生ゴミの活用方法として屋上やベランダでの野菜栽培が望ましい。
・生ゴミはゴミ処理機(電気式、生物式)で全て土や肥料に出来る。
・ゴミ処理のための運搬費と自動車公害がなくなる。
・生ゴミはゴミの3割以上で、自治体の財政削減対策に効果がある。
・雨水利用をすると水問題にも効果的。
・自動車を止めて、家庭菜園にすると環境問題と食料自給率に貢献できる。
私の家からは生ごみは一切出していません。5年以上になります。自治体のごみの3、4割は生ごみで、これを運搬するのにお金がかかり、処理費用の7割は自動車に掛かっている。ごみをこちらからこちらに移動するのにお金がかかる。自宅から生ごみを出さなくなれば、清掃車、大気汚染も3、4割削減できるので、自分なりに実践している。雨水も全部利用している。夏の7・8月は水道水ですが、あとは雨水だけです。家庭菜園で環境問題の半分は片付く。地球の温暖化にも最適です。
もったいない学会があって、スバル、東京電力、トヨタの方がお話しされて、学会のトップは東京大学の工学部の教授を25年間務め最後に国立環境研究所のトップになった方です。その方が、石油があと40年でなくなるからこれからは原発で電気を充電して、電気自動車だと言っていました。頭に来て、自動車をやめて自転車にすべき等といろいろ言ったら追放されそうでした。
6. 海洋観光立国のすすめ
・国民の食料の60%は、世界からの輸入に依存している。
・金属をはじめ木材やエネルギーなど資源の40%を海外に依存している。
・世界の資源埋蔵量は大変少なく、今後は世界的な資源の奪い合いが始まる。
・中国やインドや南アメリカの工業化が進み、日本の資源購入が難しくなる。
・この危機からの脱出は、持続可能社会・エコライフがキーワード。
・自給自足国家は、日本が江戸時代に世界に先駆けて完成した循環型経済。
・かつての大国は、今や観光立国となっている。イタリア、スペイン、イギリス・・
・21世紀は「平和の世紀」、「観光の世紀」で、観光客は急増する。
・フランスへの海外からの観光客は年間7000万人、日本の600万人の10倍。
・世界の著名リゾートは水辺に多い。
・日本の国土は領海を入れるとロシアや中国より大きな、世界6番目の大国である。
・今こそ、食糧自給の“海洋観光立国”を目指そう!
・バスコ・ダ・ガマ体験旅行や、マリンスポーツを楽しもう!
・人口減少はチャンス、観光には定年がない。
・国民の日常生活こそが観光資源。
・持続可能社会、平和な、こころ美しい日本再生!!
こんなことを夢見ていますが、一歩一歩地道に地元で活動して行けたらと考えています。
従来、日本が経済力に任せて世界の資源の15%も買っていたが、もう買えない。今は中国、インド、南米の経済力が発展していますから昔のようにはならない。欧米と日本の5億人が自動車を乗っている時代は何とかなったけれど、世界の60億の人が平等に自動車に乗ろうと考えたら日本国内では作れない。
中国の杭州に山手線内と同じくらいの面積の自動車タウンが出来ています。
トヨタ、日産、本田と韓国の会社で支えていまして、工業高校生を1万5000人も育てています。自動車製造のトップは、GMからトヨタに変わるのに100年掛かったけれど、トヨタから中国の会社に変わるのに10年掛からないだろうと勝手に考えています。
資源のない国で持続可能な社会をどうやって作り出すのか考えて、海洋観光立国を考えました。世界ではイタリア、スペイン、北欧などは観光立国みたいなもので、フランスは年間に外国人が7000万人、日本は600万人しか来ていない。中国・インドから1億人がバカンスで日本に来てもらう。10年くらいで日本の高速は自動車が減るので、自転車専用道路に変えてもらって、一ヶ月自転車で遊んでもらって、毎晩温泉入って、お寺を見て、美しい山をみて、時々ヨット乗って太平洋に行ってもらって、というようなことを考えています。
陸上だけでいうと日本は世界で60番目の国ですが、200海里までいれると世界で6番目、ロシアより中国より大きい国です。ここで遊んで貰えば日本人全員が観光業になれると考えています。そのためにはどうしたら良いかライフワークとして勉強していきたい。
参考に世界経済についての感想です。日本の国民と企業の貯金は1500兆円ですが、政府と自治体の借金が1500兆円を超えているといわれています。最近は、お金をかけて大工事をして、立派な駅に変えていますが、この原資は特別会計です。国家予算一般会計が80兆円ですが、特別会計が3倍近い200兆円。政府というか官庁が事業をやって、GNPが400兆というそんな国家財政でやっています。アメリカの国家予算に匹敵するくらいの額を日本でも使っている。特別会計200兆円は全く国会を通らなくてもいいお金なので、こういうものを使って、道路も68兆円かけて作ろうとしている。
アメリカの中東戦争費用は、1年間で50兆円と言われていますが、そのうち日本が40兆円支えている。どういうことかというと、アメリカの国債の高金利でしか、貯金、証券投資、年金、生命保険などがファイナンスできない。全国測量厚生年金基金の決算報告を見たら、年間4%くらいで回している。日本国内では回せない。アメリカの国債を買うような投資しかできない。そういう経済で日本は成り立っています。
ロシア・中国の外貨準備は、アメリカの国家予算に匹敵するくらい。アメリカの経済はロシアと中国が支えているというくらいのコメントもあります。
アメリカが消費して、それをみんなの国が製品を作って経済が成り立っている。アメリカは消費が自国だけでは足りないので、外国に行って沢山戦争やって壊して、消費を作り上げている感がある。世界の60億の人の本当の実質的な経済、消費によって成り立つ経済を作っていかないと思っています。それでなくては全くバーチャルな経済をこれからもやりつづけるのではないかと思います。
【事務局の感想】
中瀬さんは、お勤めを早期に退職され、「エコライフコンサルタント」として、日本を自給型の持続可能な社会と海洋観光立国にすることを提唱され、精力的な活動を続けておられます。日本という国のグランドデザインを描かれ、それにむかって無私の行動を実際に行っておられることは、鉄舟が示してくれた戦略
的行動に通じるものがあるのではと、感じ入りながらお話を伺いました。
今後のご活躍を期待いたします。
以上
2007年12月06日
人間の出来が違う
人間の出来が違う
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
鉄舟は晩年「世間は吾が有、衆生は吾が児」、即ち「世の中の出来事は一切自分の責任である、生きとし生けるものは、すべて自分の子供である」という境地に達した。宇宙界のすべての現象が我が身と直結しているという、空恐ろしいまでの心境である。
何故に鉄舟がこのように、計り知れない心境にまでなり得たのか。それを解明する糸口として、少年時代と青年時に認め記した「修身20則」と「宇宙と人間」について前号と前々号で検討した。
今回は、もう一つ鉄舟が若き時に書き残した「心胆練磨之事(しんたんれんまのこと)」について検討してみたいが、その前に鉄舟が扶育係として、二十歳から三十歳までの十年間携わった明治天皇への影響、それを明治天皇の「御真影」を基に考えてみたい。
江藤淳氏は明治天皇について次のように述べている。(『勝海舟全集11巻』講談社)
「ほんとうは明治天皇は和服がお好きだったそうです。自分一代は和服で通したいといっておられたそうです。ところがそうもいっておられなくなった。日清戦争のときには一日も軍服を脱がれなかったそうですが、あれ以後、公の場所では常に軍服でおいでになった。この逸話を拝見しても、明治天皇には非常に強い使命感があって、自己改造をなさったんだと思うのです。その自己改造の過程で、公家的なものに武士的なものが焼きつけられた」
と述べ、その自己改造結果の論拠として、明治天皇の「軍服をお召しになって、けいけいたる眼光を光らせておられる写真」を挙げている。
この「けいけいたる眼光」の写真、これは当時広く全国の学校に配布された「御真影」であった。この写真の前で幾世代もの子供たちが最敬礼したのであるが、実はこの写真は明治天皇の実物写真ではなかった。それは肖像画を写真に撮ったものであって、肖像画があまりにも真に迫っていたので、すべての人々は、それを写真と信じたのである。
明治天皇は終生の写真嫌いであったと言われている。明治天皇を撮影した最初の写真は、明治四年(1871)横須賀を訪れたときの記念写真で、このときは「小直衣(このうし)に切袴を着け、金巾子(きんこじ)の冠を被った」、まだ断髪されていない姿であった。この写真は記録として明治天皇紀にあるが公開されていない。天皇の断髪は明治六年(1873)三月であり、このときに始めて洋風に断髪され、同年十月、内田九一によって撮影されたものが、その後十五年間に渡って外国の君主に贈られた写真となった。二十一歳であった。
明治二十一年(1888)、三十六歳となられた明治天皇の肖像が、二十一歳のときのものでは相応しくないと考えたと推測するが、宮内大臣土方久元は外国皇族、貴賓に贈与するために、新しい最近の肖像写真が必要と判断し、印刷局雇のイタリア人画家エドアルド・キョッソーネに、天皇に相応しい肖像画を作成依頼した。最も手軽な方法は、天皇の写真を撮ることであった。
しかし、伊藤博文が宮内大臣時代、何度も肖像写真の撮影を奏請したが、その都度写真嫌いの天皇に断られていたので、土方はキョッソーネに密に天皇の顔を写生させることにし、その適切な機会を待った。
好機は一月十四日に訪れた。弥生社行幸で御陪食のときに、キョッソーネは襖の陰に隠れ、正面の位置から竜顔を仰ぎ、その姿勢、談笑の表情に到るまで細心の注意を払って写生した。このようにしてキョッソーネが描いた肖像画を気に入った土方は、それを丸木利陽に写真撮影させ、天皇に奉呈するにあたり、事前に許可を得なかったことをお詫びしたが、天皇はこの写真を見て、無言のまま良いとも悪いとも言わなかった。
このときちょうど、某国皇族から天皇の写真贈与の請願があり、土方は天皇にキョッソーネが描いた肖像画写真に署名を求めた。天皇は写真に親署した。これをもって天皇が気に入ったと判断し、それ以後はこの肖像画写真が使われるようになった。(参考 ドナルド・キーン著『明治天皇』新潮社)
この肖像画写真を江藤淳氏が「けいけいたる眼光を光らせておられる」と表現しているわけであるが、確かに鋭く光り輝く眼光が偉大なる明治天皇を現していると感じる。
明治天皇については様々な称賛の言葉が語られているが、身近で天皇を知る人々に共通しているのは「抜群の記憶力」である反面、明らかに「いわゆる知識人」ではなかったと言う。また、論語の「剛毅木訥仁に近し」、つまり、意志が強固で飾りけがなく、口数の少ない人物で、人として最高の徳である仁に近い人物であり、常に沈着冷静であったと言われている。
この人物評価から、これに近似した人物として誰を想起されるだろうか。それは、明らかに鉄舟である。鉄舟は悟りの境地へ辿りつくため、生涯、修行者だった。その鉄舟の生き様と明治天皇はイメージが重なり合う。
天皇が二十歳から三十歳までの最も重要な人間育成期に、鉄舟との御酒宴を「御機嫌殊に麗はしく、勇壮な御物語を御肴として玉杯の数を重ねさせ給ふを此上なき御楽しみとせられた」と語られた十年間、御傍近くに仕えたことで、天皇の治世精神に何らかの影響を与えたことは容易に考えられるし、その結果が「けいけいたる眼光」の「御真影」につながっているとも推測する。
なお、キョッソーネが日本滞在中に蒐集した美術品の数々は、現在、イタリア・ジェノヴァ「東洋美術館」で公開されている。それを実際にジェノヴァに行き見学してみたが、丁寧な展示と優れた保存状態であって、明治天皇の肖像画制作者としてのキョッソーネが持つ日本に対する気持ちが伝わってくる。皆さんも是非行かれると参考になると思う。因みに、キョッソーネは天皇から感謝のしるしと思われるが、晩餐に二度招待されている。
さて、鉄舟は二十三歳、安政五年(1858)三月に「心胆錬磨之事」、五月に「宇宙と人間」、七月に「修心要領」を、二年後の万延元年(1860)三月に「武士道」を認め記している。これらを併せ読み、考えてみると、この安政五年から万延元年までの二年間は、鉄舟の思惟基盤構築の年であったと感じる。
今回は「心胆錬磨之事」を紹介するが、長文であるので全文を紹介することは省きたい。ご興味のある方は「『山岡鉄舟・剣禅話』徳間書店」を参考にしていただきたい。
「心胆錬磨之事」の出だしを口語体に直し、紹介すると以下のとおりである。
「ひとたび思いをきめて事に当たれば、猛火の熱も厳氷の冷たさも、弾の雨も白刃も気にかからなくなってしまうものだ」とある。しかし、
「世間では、こういうような人間をさして気魂の豪気な者と思い、あれこれと称賛してやまない。だがわたしは、これをほんとうの豪気と思ったことは一度もない」と言い、
「ほんとうの豪気というものは、問題に当たるときに心を決め、それから大いに奮闘するというようなものではないのだ。『やるぞ!』と決意しないうちからすでに決意しているところがあるということ、
つまり、決意するとかどうとかをまったく考えていないのがほんとうの豪気なのである」と続けた後に、「ほんとうに胆が豪であるものは、時と事らに応じて縦横に変化することをいうのであり、人間にはその詳しい経過を知ることができないのである」と述べ、
「では、どのようにすれば胆を豪気なものにすることができるのか。まず第一に、思念を生と死のあいだに潜めてしまうことであり、生と死とは一つことに帰着するということを知覚するのである」と結論付けしている。だが、
最後に自省として
「わたしは小さいときから心胆錬磨のことをいろいろ工夫してきたのではあるが、いまになっても真理をつかむことができない。それは一つには、自分の熱意が足りないからであろう。これを書いたのは、自分で感じたところを楽書しておいたのである。修練の余暇には、ときどきこれを読んでみて自分を励まし、いっそう勤勉して心胆錬磨の源に到達しようとするものである」と終わっている。
上記の「思念を生と死のあいだに潜めてしまうこと」、この境地に達するために、生涯、鉄舟は禅修行に打ち込んだ。鉄舟の禅は実学であるから、禅の理は直ちに剣の道に試みられている。大森曹玄先生は、このことを「剣禅の道」と称するのが正しいと述べられている。(『山岡鉄舟』春秋社)
ところで、この「心胆錬磨之事」に対して勝海舟が評論しているのが「英傑 巨人を語る」(日本放送協会)である。これは昭和十七年の安部正人編で、初版の序は鉄舟長女の山岡松子が述べ、校閲は高橋泥舟という豪華さである。
この中で、海舟の評論が面白いので紹介したいが、この内容は江藤淳編「勝海舟全集」(講談社)には収められていないことを付言しておきたい。
まず、海舟は次のように述べている。
「全体、山岡という男は正直熱性なる方だから、何事でも子どもの頃より信じた事はむやみに熱中した形跡がみえる。こんな事は一方から見ると、馬鹿の骨頂だ。しかし馬鹿もあれくらいな馬鹿になると違う所があるよ。なに山岡だって、他人だって、別に異なることはないよ。このくらいなことは、少し考えのあるものは誰でも書けるよ。彼がその当時より、後日の山岡鉄舟に成るのだと予期していたわけでもあるまいよ。またそんな思いがあるようでは、とても本当にやれるものではない。何でもかでもやろうと決心したならば、名利に執着せず、吾我を忘れて、その事に忠実なるを要するのだ。しかる時はついにはその道の源に到着することが出来るものだ」
更に続けて
「何事に限らず、何業によらず、その一芸に長じたるものには、確かにある道筋を往来している人だ。ところがそこに精神上の極意が存在するのだ。それは外でもない。一芸に長じたとて、他芸は必ずしも出来るものではない。けれども各芸ともになすべき精神上の呼吸は同じだということが分からなければ駄目だ・・・(途中略)・・・真に一芸に長じ得たものならば、自ら他芸をなさずとも、他芸もまた必ず同一呼吸の存在するものだということは、承知せられるものだ。これは単に技芸の事ではないよ。人間処世の活道はここにあるのだ。おれが禅機は万機に応用出来るものだということは、ここいらの意味さ」
さすがに幕末維新を生き抜いた苦労人だけに、軽妙洒脱で言外に妙味がある。禅修業についても次のように述べている。
「山岡が禅学修行の為、江戸より箱根を越えて伊豆の竜沢寺まで往来し、また剣法修行のため、飲食を忘れて昼夜を徹したこともしばしばであったそうだ。おれらも、十七、八の頃より、馬鹿正直にも剣師島田虎之助の教えを守って、寒中に稽古着一枚で、王子権現の社に到って、徹夜木剣を素振りするやら、あるいは牛島の広徳寺に到って、坊主と共に禅堂に座ったり、このごとくして得たるところの精神上の利益は、なかなか大なるものである。しかしこれはただ一場の口演に述べつくさるものでない。決して口では言われないよ」
最後に次のように締めている。
「山岡でもこれを書いた当時は、五里霧中でありながら、一生懸命であったに違いない。和尚も小僧の成り上がりだからなあ。心身の養生法などは、理屈ばった法律ずくめや、憲法政治でゆくものではない」この最後のところ、これにホッとする。確かに「和尚も小僧の成り上がり」で、最初から大和尚はあり得ず、鉄舟も海舟も天性に加えて、命をかけた修行をしたから、あの偉大な功績を遺せたのだと思う。
しかしながら、鉄舟が二十三歳でこの「心胆錬磨之事」から「武士道」まで一連の思惟基盤をまとめ得たということは、やはり鉄舟は「人間の出来がもともと違う」と思わざるを得ない。