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2007年05月25日

5月例会記録(2)

■山本紀久雄氏

「鉄舟の結婚」

 大森曹玄さんの『山岡鉄舟』という本を読むと、大森さんは頭山満の長男である頭山立助さんを「今もって生きて会った人物中の第一人者と信じている」と言っている。その立助さんの親が頭山満である。中村天風の著書の中に出てくるが、外国からライオンが来て、その檻の前に人が行くと吼える。しかし、頭山満と中村天風が行くと猫のようにじゃれついてくる。そういうもの、人間として深い何かがある。人間の持っているものが違う。

 今、武士道が大流行。武士道を教育する会社ができた。幹部社員や店長に新渡戸稲造の武士道を教えている。悪くはないんですが、それについて東大の菅野教授が、裏を返せば今の日本人の主体性のなさを教えている。右に倣えで武士道を賛美することは、自らの信じる道を、武士道を築き上げた武士道の精神に反するという意見もある。藤原教授は、忘れ去られていた「恥」といった言葉に触れるだけでも前進、ということを読売新聞の一面に書いてある。

 5月1日にフランスでサルコジとロワイヤルが、大統領選のテレビ討論をした。話された内容は、失業率、外国人の移民の話、金持ちが外国に行ってしまう、治安問題、すべて国内問題に終始していた。
 グローバル化の時代にロワイヤルがその話題を出していた。当選したらサルコジがブッシュに電話して、「同盟国に恥をかかせるようなことはしない」と言った。イラク戦争の開始のときに、世界中の国の中で、フランスは「攻撃しない」と言った国の代表。アメリカに立ち向かった国。
 このとき日本もアメリカの追随じゃなくて、独自の外交政策を出すべきではないか、という質問が出た。安倍首相のブレーンである岡崎冬彦さんは「その気持ちはわかりますが、国益がまず大事。グローバル化しないと経済成長しない。」と言った。
 サルコジは当選したら、フランスは競争社会にしていくと言い、ロワイヤルの支持者が怒って暴動を起こしている。経済成長すれば税収が増える。

 トヨタの営業利益は2兆円で、日本国内の売り上げが落ちているので、外国で稼いで、日本に税金を納めてくれている。これがグローバル化でしょう。グローバル化が日本のフランスの経済成長のために必要なこと。世のため、人のため、にグローバル化するということ。
 国が成長しなくて、どうして一人一人の生活が豊かになるか、とサルコジは言っている。それに対してロワイヤルは国内問題に終始した。その違いです。
 ペリーが来て日米和親条約を結んで、その後佐倉藩の堀田正睦は、開国やむなしと日米通商条約を結んだ。日本が鎖国していては日本はやられてしまう、グローバル化しないといけない。堀田正睦は世界の情勢を知っていたのだ。

 日本の生きる道はグローバル化です。経済成長しないとだめ。今や日本はGDP一人当たり4位です。以前は二位だった。イギリスは「ゆりかごから墓場まで」という豊かな福祉政策を止め、競争社会に切り替えた。国全体を良くしたければ、経済成長です。そうすれば、若い人も年金を貰えます。日本全体が沈みこんだら、日本は消えていきます。

 健康倶楽部の例会があった。100名くらい来て立ち見席が出るくらいの盛況であった。美貌の哲学者池田晶子さんの話をした。池田さんは「人間は病気で死ぬのではありません。生まれたから死ぬのです」と言った。生まれたら死ぬに決まっている。だったら死ぬまでどう生きるかという人間の全体のはなし。そのためにどうするか。池田さんは考えることをしてほしい、といっている。上米良さんのお話にあった片岡鶴太郎さんが日々行ったことを話せるのは、片岡さんが考えているということ。

 スパゲティ・ボロネーゼ発祥の地、イタリアのボローニャに行きました。
通訳ができる人がたくさんいる町では、価格競争が始まる。ボローニャは通訳が一人しかいない。
 ボローニャはボローニャ国だった。世界最古の大学があって、旧市街はレンガ造り。歩道の上に全部屋根がついている。これを回廊という。1200年代から学生が住む家が少ないので歩道の上に柱を立てて、部屋をつくった。   
 全部の歩道40キロにわたってできている。90メートルとかの高さの塔がある。金持ちが作った塔で一時は200本のレンガの塔があった。戦争のときに、イタリアはアメリカ軍に攻撃を受けたが、街並みを復活させている。
 小さい機械会社がいっぱいある。日本は機械を輸入している。日本から、「輸入した機械が動かなくなった、壊れた」と連絡があり、ボローニャからメーカーの人がわざわざメンテナンスに行った。
 その会社に行って機械をみた瞬間「こいつら馬鹿か!」「こんな簡単なもの誰でもなおせる。日本人は考えないのか!」とボローニャの人が言ったという。日本人は考える力が落ちている。
 43年ぶりに全国一斉テストとして国語AB・算数ABをやった。Bテストは考える内容になっている。こんな授業はやっていないから生徒も先生も大変。A20分、B40分は記述式。文章にしなくてはならない。書くことは考えること。それが落ちているから文部省が始めた。

1.山岡静山の死

 静山さんはなぜなくなったか。心臓が悪かった。2つ説があり、徹底的に修行をしたためになくなったという説。知人が隅田川で水泳やる、その時にだまされて殺されそうだと聞き守るために行って、死んでしまったという説。
 いずれにしても心臓が持病だった。そこに無理した修行が命を縮めた。27歳という若い死だった。

2.蓮華寺の妖怪

 静山さんのお墓、蓮華寺に妖怪が出ると近所で言われて、夜中に鉄舟が行って確かめた。羽織・合羽(2説ある)を静山のお墓に掛けて、「鉄太郎が参りました、ご安心ください。」といった。静山は雷が嫌いだった。

3.鉄舟の山岡家相続・・・跡目相続、家督相続

 山岡家の家督相続をしないといけない。当時、誰でも鉄舟がいい、と思うでしょう。静山がもっとも敬愛していたのが、鉄舟。鉄舟も静山を敬愛していた。しかし、鉄舟が跡を継ぐのは難しい。
 家督相続と跡目相続の区別が必要。家督相続は主が存命中に相続すること。跡目相続とは主が死語に相続すること。従って鉄舟は家督相続。静山を継いだ信吉は跡目相続だった。信吉は口が利けなかったので、公務が出来ない。そこで信吉に代わる誰かが必要だった。

4.鉄舟が家督相続するための問題点
①家格の違い

 山岡家と小野家では家格の違いがある。鉄舟の小野家は600石の旗本。静山のところはお目見え以下、お目見え以上と以下の家は大きな違いがある。山岡家から、鉄舟に話を持っていけない。名門の小野家600石の跡取りを百俵2人扶持の家に来てくれとはいえない。来てもらいたくても武士ならそんなことはいえません。


②鉄舟の人柄
 鉄舟は気にしないから、頼んだとしたら引き受けてくれるから、それを知っているから、尚更いえない。武士の精神とはそういうもの。

5.問題点を打開した山岡英子の恋心
 この問題を打破したのは英子さんの恋心。あまた弟子のいる中で、英子さんは鉄舟を選んだ。16歳の一途な気持ちを言った。
 自分の家を自分の行動を自分で良くしていくということです。家格や鉄舟の人柄、家族の気持ちを考えていたら進まないわけです。英子さんは自分の思いをとげるために行動に移した。山岡家はこの人しかいない、という思い。それが見事に鉄舟を作り上げた。鉄舟が山岡家を継がなかったら、どうなったでしょうか。自分の環境は自分で作る。あきらめてはいけない。

 5月に泊まったパリのホテルは、部屋も小さいし、壁も薄い。旅行社にお願いしてお金を払ってしまった。このまま嫌な気持ちだと支払った2万6000円の価値が下がる。自分自身がもったいない。そこでドーフィンヌホテルはどんなホテルか調べた。
 パリ、シテ島の先端にドーフィンヌという広場があり、ポンヌフ橋がかかっている。アンリ四世の騎馬像がある。このドーフィンヌ広場の目の前のレストランの上に、かのイブ・モンタンが住んでいたことがわかった。
 パリで、大金持ちに取材しにいった。若い頃にドーフィンヌ広場に住んでいたという。イブ・モンタンも住んでいたんですよねと話すと、KENZOにも会った、と話が弾む。
 ホテルに戻りフロントに聞くと、インターネットは無線でできる。何時間やっても無料。ボローニャでインターネットをやったら1時間8ユーロ。パリは24時間無料。良いホテルだなぁと一瞬にしてドーフィンヌホテルは最高のホテルになった。

 自分で自分の付加価値を変える。有数の金持ち、ミッテランも住んでいたと聞き、良いところに泊まっているなぁ~なんて気分がよくなる。好意的に物事が目に映る。自分の工夫によって、価値観を変えていくことが大事。人生を楽しく生きる。
 今日も楽しい、明日も楽しい。楽しみは誰かが与えてくれていると思っていませんか?それはありません。何かあったら、環境は自分に与えられた条件、条件を整備するのは自分の内部にある。これは森田さんから教えてもらった
 情勢判断学の極意です。昨日はまずかった朝食も今朝は美味しい。

 問題を打開するのは自分。英子さんは本当に山岡家を残すためには適切な人に家督相続していく必要があるという気持ちで親に伝えた。

 サルコジと一緒で、フランスを良くしようと思ったら、アメリカと仲良くするしかない。いろいろ反対はありますが、グローバル化に踏み切った。
 日本大企業の3月好決算は、すべて外国で稼いでいる。そういう時代。その税金で生活している。グローバル化が当たり前。

6.家督相続するための前提条件・・・高山時代に江戸に戻っているか

 鉄舟の本をたくさん読むが、種本があるので、ほぼ同じことが書いてある。その中で疑問を持ちたい。
家督相続するには、鉄舟に何かなければだめ。誰でも侍同士結婚できるのか、というと幕府の法律で、義務教育がないとだめ。どこで義務教育するかというと、10歳くらいから家で儒教の勉強をして、11歳から手習い所に行った。
 関西は寺子屋、関東は手習い所、と言ったというのは、『半七捕物帳』を書いた岡本綺堂の本で知った。

 合格試験は昌平坂学問所で行われ、そこに13歳の武士の子は集められる。11月、朝4時から林図書頭の前で、一人ずつ「師のたまわく~」と試験を受け、合格した人は、聖堂に来なさいと連絡がある。落第した人は翌年も受けるが3回落第したら、武士ではない。養子の口にも掛からない。そのような制度があった。

 鉄舟の本を読むと高山に10歳で行って、17歳で江戸に戻って来た。7年間江戸に戻ってこなかったのか?義務教育を終了していないと養子にいけない。
 資料がないから、インターネットに書いてないから、わからないという人がいる。インターネットネットから移すのは簡単。その中の裏にあるものを探すのが研究です。鉄舟は江戸に剣の修行で戻った形跡がある、と書いてある本が1、2冊ある。記録がないから確証はない。家督相続の話をしたときに、幕府の教育制度を岡本綺堂の本を読んで思った。鉄舟は13歳で江戸に試験を受けに来ていると思う。誰も書いていないが、考えたら簡単なこと。鉄舟以外のことを調べればいいんです。江戸の旗本の教育はどうなっているか、13歳の11月に湯島の聖堂で試験がある。試験は高山では受けられない。それを考える。

 人間生まれたから死ぬんです。人生考えて生きましょう。そういうことを鉄舟から教えてもらっている。

 来月は明治神宮に行かせていただく。神道は仏教の前からあった。我々に染み付いている。それを明治神宮で感じることをしたほうがいいのではないかな。

【事務局の感想】
 「人間生まれたから死ぬんです。人生考えて生きましょう」
 鉄舟以外の勉強から、鉄舟を研究する。その結果が、今月は上記の言葉になりました。鉄舟の種本からとったほかの方々とは違う点が、山本さんの鉄舟研究も面白さであり、魅力であると思いますが、参加の皆様いかがでしょうか。

投稿者 staff : 15:34 | コメント (0)

5月例会記録(1)

■上米良 恭臣氏

明治神宮参拝資料
心得の事

1、正中を歩まぬ事 (特に正殿直線部)

2、手水の作法 (ハンカチ必携)

(柄杓一杯の水を左手、右手、左手に水を受けて口漱ぐ)

手水所役がいる場合は

(両手で手を洗い、左手に水を受け口漱ぎ、さらに両手を流す)

 3、修祓の作法

   無言。姿勢を正す。神職祝詞(祓詞)奏上時、ならびに幣祓時は低頭。

祓詞はお手元の神社本庁神拝詞の後ろから一頁目にあります。奉読します。

 4、夕御饌祭参列の作法

   無言。姿勢を正す。神職祝詞奏上時、起立低頭。

 5、正式参拝の作法 (玉串を奉りて拝礼)

   整列の後、代表者、玉串を受ける。(一同起立)

後取の差し出す玉串を、左手上向き、右手下向きにて、上、上と両手で執る。(片手取りは非礼)

玉串案前、1歩手前まで進む。一揖。

玉串を胸高に立て、両手で玉串の根元を執り、祈念する。

玉串の穂先を右へ回し、右手で中頃を下より受け、左手を添う。1歩を左足より進め右足を揃え、案上に玉串を奉る。

右足より1歩後退。二拝、二拍手、一拝。(一同これに合わせる)

代表者は右足より3歩ほど逆行。回転して正中をはずし、元の席に。一揖。

着席。(一同着席)

直会がある場合は代表者より順次、1拍手、盃を受く。退出。


かってないお願いをして、夕御饌祭に参列させてもらうことにしました。祝詞があげられますので、交手(さしゅ)15度の腰を折ることをしていただきたいと思います。


正式参拝の作法。

 玉串を奉りて拝礼、という作法がある。玉串は、榊に「紙垂(しで)」といいましてそれを結びます。白い紙です。和紙を折るんですね。刀で切れ目を入れまして折っていく。神主さんのお祭りで、紙垂を切ったりするのは重要なことであって、非常に手間もかかることなんですけれども。

 代表者1名がご神前まで進んで拝礼することになると思う。

(玉串の受け取り方を実演解説)

 玉串は、いただくほうが上上といただくようになります。


 神前に行きます。どちらの足から先でも結構です。神殿の1歩手前でお祈りをこめる。胸高=胸の高さ、これは重要な高さであって、清潔なものをいただくときは胸高、神饌を三宝で運ぶときは目通り=目の高さに合わせる。薦や案を用意するときは腰高に持って用意するとされています。

 胸高にいただく。両手で持って、玉串に祈りをこめる。

 神道は逆に回すことはない。時計まわりにまわして。

 (実演解説)

 一歩進んでお供えします。一歩下がって、お参りをする。何故1歩下がるかというと、机に頭があたっちゃうから。

 正中では進左退右(しんさたいゆう)という作法がある。足の問題。進むときには左足から、下がるときは右足から下がる。そういう決まりです。でも普通人では間違っても問題ないが、作法は知って欲しい。

 一歩ひいて、二拝(90度に腰を折る。手はひざの前に。頭を下げるのではありません。腰を90度に折ります)
 二拍手(拍手はまず両手を合わせる。右手を少し胸元に引き、両手を打つ。二拍手したら指先を揃える)
 拍手を参加者全員が合わせるのは難しいから「二拝、二拍手、一拝」のとき合わせやすいように、拍手のときに、代表者の人が肩幅よりも手を広くしてくれると非常に皆さんが合わせやすい。後ろからお参りしているので、見えるから。

 拍手の稽古もしてみてください。若干膨らませたほうが良い音が出ます。

 動作の始まりと終わりに「一揖(いちゆう)」5度くらいでいいので腰を折ってください。

 もし直会、お神酒をいただくときは、拍手を一拍してからいただく。これが本当の作法です。杯は胸高でいただく。

 真賢木(玉串)は根元を神様のほうに向けてお供えします。

 安倍総理が真賢木の鉢植えを靖国神社に奉納した。あれは故があることでして、『古事記』という書物の天岩戸の伝説のところに

天の香山の五百津真賢木を根許士爾許士て上枝に八尺の勾たまの五百津の御須麻流の玉を取り著け、中枝に八尺鏡を取り繋け、下枝に白丹寸手、青丹寸手を取り垂でて、此の種種の物は、布刀玉命、布刀御幣と取り持ちて

 真賢木にとりかけてお参りをしたという古来のはなしがある。「根許士爾許士て」根がついたままの榊をあげたのが始まり。その榊を手前に倒した形が神前の案上に乗せるときの作法になっております。

 「ねこじにこじて」これだけ覚えていただければありがたいですけれども。
ねこじにこじた榊を安倍さんは奉納したということは、その原点のところに帰っているのだということを感じていただければよろしいと思います。

 白丹寸手、青丹寸手(しろにぎて、あおにぎて)これは、綿布(めんふ)。白い色の綿布・青い色の綿布を榊に結び付けた。古事記の時代から、このようなお参りの方法はありました、ということです。これが紙垂の始まりです。

 お参りの方法はこのくらいにします。

 神社に生きる人々はこのように生きています。

敬神生活の綱領 (昭和31年5月23日:神社本庁設立十周年記念)

神道は天地悠久の大道であつて、崇高なる精神を培ひ、太平を開くの基である。神慮を畏み、祖訓をつぎ、いよいよ道の精華を発揮し、人類の福祉を増進するは、使命を達成する所以である。ここにこの綱領をかかげて、向ふところを明らかにし、実践につとめて、以て大道を宣揚することを期する。

一、神の恵みと祖先の恩とに感謝し、明き清きまことを以て祭祀にいそしむこと。

一、世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと。

一、大御心をいただきて、むつび和らぎ、国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること。

 「敬神生活の綱領」は、神主さんたちが集会のときには、みんなで唱和します。神社本庁ができたのが昭和21年で、10年後の昭和31年に神主さんたちもしっかりしようではないか、よって立つ考え方をつくろうじゃないかと、これができたわけです。

 ほとんど、解釈を入れなくてもわかっていただけることじゃないかと思います。私が一つひっかかったのは、「世のため人のため」という箇所。皆さんよく使いますよね。    

 前にTVをちょっと見ていましたら、この本(神社広報『まほろば』)の9ページに出ている片岡鶴太郎さんが親子でテレビに出ていて、子どもをぶん殴った時の話をしていました。
 片岡鶴太郎がなぜ子どもをぶん殴ったかは、使い終わったトイレットペーパーの芯をはずしてトイレに置きっぱなしだった。それが人のためにはならんと言ってぶん殴ったらしいですね。 
 後にも先にもそれ以外ぶん殴られた記憶はない、と子どもは言っています。

 片岡鶴太郎さんはマルチな才能を持っている。最後の行のところに「毎日、自分の中で魂との会話があって、一日を振り返ってのだめだしがあるんですよね。その反省を翌日につなげて、修正して、毎日この繰り返しが人生なんだとつくづく感じます」と書いている。

 先ほど言いました「世のため、人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと」の「つくり固め成す」は、『古事記』なんかみますと、修理固成といって、世の中は変わっていくわけですから、神道というのは世の中を作り変えていく原動力といっていいわけです。作り変えてより強固な地盤の強いものにしていくのが神道。

 片岡鶴太郎さんが言った「人のためにならん。」このような普通に流れるような言葉にはこだわってほしい。鉄舟さんも「忠孝」に拘った。具体的には一体何なのか?

 会社でトイレットペーパーの残り芯が放置されていることも多いが、これを片付けることが人のためになるんだと具体的に捉えて、実行、考えていくべきだろうと思う。

 「世のための」世は、世は代々継いで行く。現世ばかりでなく、もっと包括された先祖からわれわれから、子孫の子ども、孫、ひ孫たち、そういうところまで含めた世の中に奉仕していこうじゃないか、というのがこの神道の精神ですね。それが表明されていると思います。
 
 ボーイスカウトの創始者の一人であった後藤新平が、ボーイスカウトの憲章に述べているのは、「人の世話にならぬよう、人の世話をするように、そして報いを求めぬように」ということを謳っていますよね。

 神道に関りなくとも、我々は世のため人のために尽くすのが当然でしょうが。ネ。

 最後になりますが、「神拝詞」は神社本庁で売っています。頭のほうから、大祓詞。特に神主さんたちが禊をするときに唱えます。6月と12月の大祓えのときには、このことばが述べられます。

 あとで声に出して唱えていただければいいと思います。

あまつみやごともちて あまつかなぎを もとうちきり すえうちたちて

  ちくらのおきくらに おきたらわして あまつすがそを もとかりたち 

すえかりきりて  やはりにとりさきて あまつのりとの ふとのりとごとをのれ

 で一息入れる。一呼吸して続いていく。

  かくのらば あまつかみは あめのいわとを おしひらきて あめのやえぐもを いづのちわきにちわきて きこしめさん くにつかみは たかやまのすえ 

 そのことだけ覚えておいていただければと思います。振り仮名も振ってありますので、唱和しながら、般若心経みたいなものですね。

 もうひとつだけついでに言っておきますけど、伊勢神宮の前少宮司を勤められた幡掛先生、私は私淑しているのですが、神主さんに揮毫するときは、「底」という字を贈られるみたいですね。神主さんたちは社会の底で生きろ、底が大切なんだよ、という意味か。あるいは世界宗教の底という意味かもしれません。

 お亡くなりになりましたけれど、幡掛正浩先生。非常に豪傑で、筑前玄洋社、頭山満の流れを汲む方で、「底」ということが肝心なので、この話をさせていただきました。


【事務局の感想】

 上米良さんにお願いをして、明治神宮の正式参拝が叶うことになりました。

 そして、今月の「心得の事」を勉強させていただき、6月の参拝に備えることになりました。一番肝心なのは、代表ですので、しっかり覚えて参拝をさせていただこうと思っております。このように作法をする機会は、めったにありませんので、してみると非常に美しく、気持ちも凛としてくるように思いました。がんばります。

投稿者 staff : 15:04 | コメント (0)

2007年05月18日

6月は明治神宮に参拝します

6月16日(土)
特別企画 「明治神宮を訪ねる」


日程:6月16日(土)
   メイン時間は、12:30集合~16:30までとなります。
   オプション 「鎮守の杜」見学 10:30~
           懇親会    16:30~

12:30 明治神宮参拝者休憩所集合(地図はコチラ)
*昼 食(集合前に各自で済ませてください)
お弁当を各自持参、参拝者休憩所前フリースペースで食事していただくか、参拝者休憩所での軽食(蕎麦・うどん等)またはレストランよよぎで食事ができます。
*菖蒲の盛りで、混雑が予想され、レストランで食事をする場合にはお早めに!
◎尚、明治神宮に正式参拝をいたしますので、ネクタイ着用ならびに女性の方はそれに準ずる服装でお願いいたします。

12:30 菖蒲園入園(明治神宮のご好意で無料)
(当日頃は入園者多数、細道のため、小1時間ほど予定いたします)
 
13:45 手水を済ませ、拝殿前集合。修祓。
14:00 ※日供祭 夕御饌祭参列。
14:15 ※明治神宮参拝 代表者:玉串奉奠
15:00 講義(武道場至誠館)稲葉稔館長講演・質疑応答
16:30 講義終了(鉄舟関連武道研究書あり)

参加費:参拝料1000円

オプションスケジュールについて
*関心があります方は、ご参加願います。
10:30 代々木駅集合:「鎮守の杜」
神社関係図書が多数ございます。又出雲井晶氏の絵画を鑑賞できます。

17:00 懇親会 「土間土間代々木店」にて
      渋谷区代々木1-30-1 03-5304-8336
      参加費 3000円

多くの皆さんのご参加をお待ちしています。  →参加申込はコチラ

投稿者 lefthand : 07:59 | コメント (0)

2007年05月17日

6月のご案内

5月の例会では、上米良さんに、6月16日(土)に参拝する明治神宮に備えるため、「心得のこと」と題しまして参拝の心得を教えていただきました。
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山本さんは、鉄舟研究として「鉄舟の結婚」を発表されました。
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6月は16日(土)に明治神宮を参拝いたします。そのため、通常例会はお休みです。
尚、明治神宮参拝の際には、ネクタイ着用、ならびに女性はそれに準ずる服装でご参加をお願いいたします。
7月は18日(水)に開催いたします。発表者は、小林順子さんと山本さんです。

投稿者 Master : 22:03 | コメント (0)

2007年05月06日

飛騨高山の少年時代 その三

飛騨高山の少年時代 その三
  山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 
 鉄舟の揮毫数は想像を絶する。その事実を鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹が次のように述べている。

 「師匠(鉄舟)の揮毫数は實におびたゞしいものだ。一日に五百枚でも千枚でも忽ちに書いて仕舞ふと云ふことをきいて、當時の書家長三州が『そんなに書けるものではない』とどうしても本當にしなかったが、後に事實であるのを知って舌を巻いて驚いたと云ふことだ。師匠は此の事をきいて『そりや長さんは字を書くのだから骨が折れるが、おれのは墨を塗るのだからわけのない話だ。』と言ったさうであるが、晩年の病身で、一日五百とか千とかの墨蹟をのこすのは、やはり剣禪で鍛へた賜で、かうなると隱居藝ではない。
 師匠が揮毫に用ゐる墨は、奈良の鈴木梅仙が一手に供給してゐた。『梅仙墨』等と云ふのを作っておさめてゐたが、あまり需要が多いので一時墨すり機こしらへてやってゐたが、やっぱり手でする程うまくゆかないので、十五六の若い小僧を四五人、師匠専屬に朝から晩まで墨をすらせてゐた。
梅仙があまり墨の事で骨を折るので、師匠は『墨癲居士』と云ふ居士號をやったものだ。然し梅仙は師匠の爲に墨で儲けて身代をおこした。
 當時師匠の玄關には朝から晩まで、揮毫を頼みに来る人があとをたゝなかつた。何せ無料でやるのだから、いくら書いてもあとからあとから持ち込んで来る。しまひには蕎麥屋の看板まで書かされた程だ。然し師匠はちつともいやな顔はしなかつたね。そりや来たもんだよ」(『おれの師匠』島津書房)
 
鉄舟の書は本物

 当時の書家「長三州」とは、豊後日田生まれで、幕末維新時に長州の奇兵隊で活躍した志士であり、後に文部省学務局長や東宮侍書を努めた人物で、書家として著名である。この長三州が前述のように「そんなに書けるものでない」と言ったのであるが、鉄舟の書を初めて見たときに「これ程の達者とは思わなかった」と述べ「草書では三百年来の書き手であると感嘆」しのている。鉄舟の書は本物である。
その本物の鉄舟による蕎麦屋の看板が、全国各地に散在しているので、その書を拝見するためその蕎麦屋を時折訪れるのであるが、その際「当店の看板は鉄舟の書です」と胸張って自慢し、勿体ぶって解説をいただくことが多い。だが、この看板に書かれた書が、小倉鉄樹が述べたように無料で鉄舟が書いてあげたものかと思うと、信じられなく空恐ろしい気になってくる。

旅先で見つける

 筆者は世界の温泉研究もしていて、著書(『笑う温泉・泣く温泉』)もあり、今も各地の温泉を取材し研究しているが、先頃、東鳴子温泉で、『宮城県温泉小誌』という上下の二冊子を偶然手に取った。明治十五年に編纂された貴重な逸品資料であるので、大事にこの古びた小誌の表紙をめくると、すばらしい筆跡が現れた。「ああ、これは鉄舟だな」と感じ、中の綴じ込み部分に書かれた氏名を確認してみると「山岡公題字」とある。間違いなくやはり鉄舟である。

金ではない

 鉄舟が鳴子温泉に行ったという話は聞いたことがないので、宮城県の温泉関係者が鉄舟の自宅に持ち込み、揮毫を依頼したのだろう。当時の鉄舟は自慢ではないが酷い貧乏であったが、これも多分無料でしてあげたのだろう。
すべての行動は金のためだということで動き回る人が今も昔も多いのだが、鉄舟の行動を「特別の人間で桁が違うのだ」と言って別格の存在に奉り、その厚意を当たり前とすませてしまったとすればそれまでだが、今の感覚ではとうてい捉えることができない巨大で深い存在、それが鉄舟である。

墨を塗る

 そのうえに、「書」を「墨を塗る」と表現する感覚、ぬりえに色を塗っていくのとは意味と質が違うのであって、何もない白い空間にあのようなすばらしい墨蹟が、コンマ以下の秒速で塗られていく姿、それを想像するだけで鳥肌が立ってくる。人間とはそのようにまで自らの潜在力を開拓でき、人々に奉仕できる存在になれるものなのか。鉄舟を研究していくと人間の無限力というすごさに圧倒され、
鉄舟がこのように「墨を塗る」という感覚になれたのは、鉄舟が若い頃に定めた人生戦略・目的を達成するために、自らの命を削る修行を行ってきた結果である。鉄舟が最初からこのような桁違いな人物であったわけではない。

鉄舟は江戸っ子

 鉄舟は江戸に生まれた江戸っ子旗本である。一般的に江戸人の気質は、気が弱くて、根気がなくて、見栄坊で、いささかニヒルというのが定説である。礼儀正しく、粋でおしゃれなところ、向こう意気の強さ、これらは見栄を張るところから来ているのであるが、上は旗本から、下は裏長屋の住人まで、江戸っ子には共通するところがあった。
今の東京は地方から雑多人種が集まっているから、純粋の江戸っ子という人たちは目立たないが、江戸時代は人の移動が少なかったので、江戸の町には江戸っ子気質が溢れ鮮明だった。しかし、この江戸っ子気質の旗本でも「元禄(1688年~1703年)の少し前あたりと、幕末は大分毛色の違っている人物が輩出した」と作家の海音寺潮五郎が語っている。(『講座近代仏教』第二巻)
元禄以前は戦国の習気がまだ濃厚であった時代であり、まだ三河武士の一本気が残っていたのであろうし、幕末には仕える幕府の屋台骨が揺るぎ始めた不安から、自然に引き締まったのであろうと、海音寺潮五郎が解説しているがそのとおりと思う。また、中でも鉄舟は、幕末時に輩出した「江戸っ子気質ではない旗本」の典型例であった。

飛騨高山

 その江戸っ子らしくない毛色の違っている人物としての片鱗を、飛騨高山の少年時代から探ってみたい。
飛騨高山は、代官所より規模が大きく、全国でも四か所しかなかった郡代役所であった。その四か所とは九州日田十一万七千五百石、美濃笠松十万千五百石、関東江戸八十三万四千石。それに飛騨高山十一万四千石。一万石以上を大名と称したのであるから、十万石を超える飛騨高山天領は幕府にとって重要な拠点であり、そこの郡代として鉄太郎(鉄舟)の父小野朝右衛門高幅が赴任したのである。
高山の町は東方の山裾に寺社が数多く集まっていて、そこに宗猷寺という由緒正しい名刹がある。そこの和尚と父小野朝右衛門は親しく、よく行き来していた。因みに現在、この宗猷寺に鉄舟の父母のお墓がある。

宗猷寺

 父と和尚が仲良いものであるから、鉄太郎もよく宗猷寺に遊びに行っていた。この寺の山門をくぐると右側に大きな鐘楼がある。なかなか立派である。この鐘楼の鐘は、鉄太郎がここで遊んでいた時代と同じく、今も朝な夕な高山の町に響き渡る。
ある時、寺の鐘楼の前で、この大きな鐘をしみじみと鉄太郎が見上げていたことがあった。和尚はそれを見て、
「鉄さん、この鐘がほしいですかえ。ほしければあげますから、持っていきなされ」
と冗談を言った。どうせ子どもには持ち運べるものでないという考えがあったので、軽口をたたいてからかったのである。
「和尚さん、ほんとにくれる?」
「ああ、あげますわい」
「ありがとう」
子どもは軽口であっても素直に受けとめる。鉄太郎は大喜びで代官所に走りかえって、父小野朝右衛門に報告した。
「宗猷寺の鐘を和尚さんがくれると言いました。和尚さんから貰ってきたいと思います」
「ほう、それはそれはよかったな。それなら貰ってくるがよい」
勿論、父も鉄太郎をからかっての発言であり、和尚の冗談がどうなっていくか、その結果へのいたずら心もあったのだろう。
鉄太郎はこの父の言葉に元気一杯、代官所の家来人足を大勢つれて宗猷寺へ向かった。宗猷寺と代官所は歩いて二十分もかからない。家来人足も代官の息子の鉄太郎が言い張って頑張るので、冗談とは思っていたが仕方なしに形だけでもついて行こうと思ったに違いない。だが、鉄太郎はいたって真面目で真剣である。宗猷寺に着くと、鉄太郎は早速に指図して鐘楼に梯子をかけ、縄を鐘に巻き始めだした。それを見た和尚は驚いて飛び出してきた。

納得しない

 「鉄さん、鉄さん、あんた何しなさる。これは寺の大事な鐘ですよ。さっきの話は冗談に決まっているでしょ。ありゃ本気にしてはいけません」
と言ったが、こうなってくると鉄太郎はきかない。一本気であるから引き下がらない。
「ほんとにくれるかと念をおしたら、ほんとにくれると和尚さんは言ったじゃないですか。お坊さんは嘘をつかないでしょ。和尚さんは人を騙してはいけないといつも言っているではありませんか」
と口を尖らせて食ってかかる。和尚が反論できない立派な筋論である。
「冗談を言うて悪かった。あやまるから堪忍してくだされ」
しかし、鉄太郎は納得しない。
「鉄さん、あんた、鐘など運んでどうしなさる。鐘は寺にこそあって高山の人たちに役立つが、鉄さんが持っていっても、しょうがないでしょうに」
「しょうがあろうがなかろうが、あたしの勝手じゃ。あれほど念をおしてくれると言ったから、父上にもお許しをいただいてきた。この鐘は鉄太郎のものだ。もらっていく」
と、どうしても頑張る。
和尚は困り果て、代官所に走り、小野朝右衛門に詫びを入れて、一緒に朝右衛門に来てもらい、二人で鉄太郎を説得しようとした。
 鉄太郎は納得がいかなかったが、父まで出で来て和尚と同じことを言うので、やっとあきらめることにした。これが高山に残っている鉄舟の子ども時代の話である。
 
尋常でない

 子どもは正直で一本気なものであるが、ここまでねばるのは尋常でないと思う。この話は、鉄舟が持っている本来の気質を正確に表している。生来、正直一途で、一本気で剛直であり剛情であることを正しく証明している話で、気が弱くて、根気がなくて、見栄坊で、いささかニヒルという江戸っ子気質の旗本とは格段に異なる。
こういう子どもでなければ、江戸無血開城を成し遂げ「書を墨を塗る」と表現できる人物にはなれないと思う。
 
江戸時代は素晴らしかった

 しかし、このような話が残る子ども時代を過ごせたのも、父小野朝右衛門による飛騨高山代官政治が安定していたからであり、その背景には日本全体の安定があったからだと思う。
現在の日本が世界で評価されている背景には三つの要因があると、ハーバート大学ジョセフ・ナイ教授は言う。「第一は伝統文化であり、第二は世界の若者を惹きつけているポップカルチャーとしてのクール・ジャパン現象であり、第三は非軍事による対外協力である」(『日経新聞』06年4月3日付)。この伝統文化とは江戸時代に遡り、ポップカルチャーもその源流をたどって行けば江戸時代につながっていく。つまり、現在の日本が評価される源は江戸時代にあったのである。

「百姓一揆」

 ところが、徳川幕府の政治は上意を下に達するのみで強権的であり、民意を権力に届ける方法などはなかったと従来言われ教えられてきた。しかし、徳川政治の実際はそれは全く異なる、というのが最近の歴史学研究結果である。その代表例に「百姓一揆」がある。「竹やり」と「むしろ旗」をもった暴力的な蜂起、それが我々の持つ一揆イメージであるが、実はこれは近代になってつくられた「虚像」にすぎなく「虚像」を打ち壊して見れば、そこには新しい豊かな江戸時代像が浮かぶ。この一揆についてもう少し次回でふれたい。

投稿者 Master : 08:58 | コメント (0)