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2006年08月19日

臨機応変は胸中にある

臨機応変は胸中にある
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

上野寛永寺大慈院の一室で、徳川慶喜から「恭順の意を官軍に正確に伝えるべく」、駿府に向かうよう直接指示を受けた鉄舟は、軍事総裁・勝海舟のところに向かった。慶応4年(1868)3月5日のことであった。
その当時の勝海舟は徳川政権の実権を握っていた。何故に海舟が、そこまで実験を握るまでに到ったのか。まず、その経緯をかいつまんで説明したい。

慶応4年1月11日夜半、鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜は船で品川沖に到着し、翌12日払暁上陸した。海舟日記に「開陽艦、品海へ錨を投ず。使いありて、払暁、浜海軍所へ出張、御東帰の事」とあるように、海舟は出迎え、その日、慶喜は江戸城に入った。
江戸城へは、慶喜が15代将軍に宣下されたのは京都においてであったから、将軍なってから初めてであった。江戸城では直ちに大太鼓が打ち鳴らされて総登場が命ぜられ、この日夜半から大評定が始まった。
議論は当然紛糾し、何日も続いたが、主戦論を唱える勘定奉行・小栗上野介忠順、この小栗という人物は「幕府の経綸を以て己が任とし、その精励は実に常人の企及する所にあらざりけり。その人となり精悍敏捷にして多智多弁」(幕末政治家・福地桜痴著)とあるように、有能多弁な小栗が滔滔と主戦論を展開し、それに海軍副総裁榎本武揚、歩兵奉行大鳥圭介等が支持し、曖昧ではっきりしない慶喜の態度もあって、一度は官軍と戦をすることに決定したという。
そこで、小栗は自分の主張を通したことに快然として、一先ず駿河台の屋敷に帰って、とろとろと一睡して、再び登城したが、しかし、そのときはもう恭順論にひっくり返っていたのである。
小栗は、これに対し慶喜に直諫し、慶喜をやり込め、慶喜が言に窮して、座を立つのを、ぐいと、その裾を押さえて、睨みつけたという。さすがに慶喜は怒りを抑えきれずに、その場で小栗は慶喜から勘定奉行も何もかも罷免される事態となった。幕府の重要な役人が罷免される場合、将軍から老中に命が下り、老中から通達があるのが常例だが、小栗は慶喜から直接罷免を申し渡されるという異例さで、これが1月15日のことであった。
後日談であるが、官軍東征のとき、軍監を勤めた後の司法卿江藤新平がこれを聞いて「小栗はそういう間抜けだから首を斬られることになったのだ。(慶応4年4月5日知行地群馬県権田村で官軍によって刑死)議論が一決したからとて、危急存亡の際、自分の屋敷に帰るべら棒があるものか、その場で即刻部署を定め、誰々はなんの兵をもって、どこへ行くと、きっぱり発表し、できたら少数でも直ちに兵を動かしてしまうべきだ」(勝海舟・子母沢寛著)といったという。だが、江藤新平のいうとおり小栗上野介が行動していれば、江戸無血開城はなかったであろう。

いずれにしても、この小栗の罷免は慶喜を恭順論に傾かせ、方向づける重要な事件であったが、それまでの慶喜の心情は常に揺れ動き、定まらなく、恭順論に自らの心情を決定するまでには、まだいくつかの変遷があった。
というのも小栗の罷免から2日後の17日、慶喜が福井藩主・松平慶永と土佐藩主・山内豊信へ送った書簡がある。この書簡で慶喜は、鳥羽伏見の戦いは、自分とは関係のない先供のものが勝手にやったことであるのに、追討令を受けるにいたっては「甚だ以て心外の至り」であるとして、両人に朝廷へのとりなしを依頼している。この態度はとうてい「恭順」とはいえないであろう。当時の慶喜は「強気と弱気」の間を彷徨し、極めて複雑で解せない心情の繰り返しであった。
ところが、この同じ17日夜に、突如、海舟は海軍奉行並を命ぜられた。海舟は大久保一翁とならぶ「ハト派」の巨頭であり、それまで政治の中枢から疎外されていたが、小栗上野介の罷免を機にその「ハト派」の海舟が海軍奉行並に命ぜられたのである。
続いて23日に海舟は陸軍総裁、大久保一翁は会計総裁の重職に任命された。これは海舟・一翁連立の「ハト派」内閣の成立を意味し、異例の抜擢であった。この時点で慶喜は「恭順」方向にほぼ固まったといえ、徳川政権の方向性を海舟に預けたともいえる。

さて、17日に海軍奉行並を命ぜられた海舟の初仕事は、松平慶永に「嘆願書」を出し、この書状をもって海舟が上洛するということであった。仮に、海舟がこの時点で上洛したとするならば、単に松平慶永に「嘆願書」を提出するばかりでなく、旧知の西郷隆盛と会うことで、当時の誰よりも詳しかった得意の国際情勢分析を披瀝し、事態の収拾方向について話し合うことが可能で、その後の政局は異なった展開をみせたであろう。
 しかし、海舟が上洛する件は間もなく沙汰止みになった。もし海舟が上洛しそのまま抑留されたら、今後官軍と交渉できる人物がいなくなるという反対意見が出たからであった。確かにその通りで、海舟ほど官軍とのネットワークを裏表に作り上げている人物は幕府内にいなかった。
 その後官軍には、静寛院宮(14代家茂夫人)、天璋院(13代家定夫人)、輪王寺宮公現法親王による打開工作を行ったがいずれも通ぜず、すでに官軍征東軍先鋒は品川まで迫っていた。そのときに突如として山岡鉄舟が海舟の前に現れたのであった。

 この当時、海舟は赤坂・氷川神社裏に住んでいた。正確にいえば氷川神社裏で盛徳寺の隣を屋敷としていた。盛徳寺はすでに今はなく、海舟屋敷跡は現在マンションとなっていて、道路端に「勝海舟屋敷跡」木製標識がポツンと立っているが、海舟は赤坂で三度住居を移転している。最初は赤坂田町で、長崎海軍伝習を終えて江戸に戻った安政6年(1859)に氷川神社裏に転居し、明治5年(1872)に赤坂六丁目の旧氷川小学校跡に移転し、ここが終の棲家になった。
さて、赤坂・氷川神社は、8代将軍吉宗が造営した由緒ある神社で、今でも緑豊かな風情を残して、幕末三舟の書を所蔵している。三舟とは勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の三能筆家を称したものである。鉄舟の書の見事さについては後日詳述したい。
この氷川神社裏の対官軍交渉で手詰っていた海舟宅に、突如現れた鉄舟が「臨機応変は胸中にある」と述べ、その鉄舟の「相手のなすままに対応しようとする、清みきった心境」と、それに対する海舟の判断結果については前月号で述べたので、今回は海舟と鉄舟の間で何が取り決められたか、それを推測してみたい。
というのも鉄舟の役割は何であったかという本質的な疑問である。
確かに慶喜から「恭順の意を官軍に正確に伝えるべく」駿府に向かうよう指示を受けたが、それだけでは曖昧であって、その背後に存在する交渉の目的が明確になっていない。鉄舟が駿府において西郷隆盛に、恭順謹慎の実態を正しく妥当に伝えることができたとしても、その結果、何が慶喜と徳川方に見返りとして生じ、何を担保として持ち帰り得るのか。つまり、駿府において交渉するこちら側の条件、それは、これさえ得られれば目的にかなうという意味での戦略的な最終目的、その内容が鉄舟には明確になっていなかった。
ここで交渉とは何かについて考えてみたい。交渉というイメージから一般的には「駆け引き」と考え、相手に勝つことであると考える人が多いが、そうではなく「自分の利益を実現すること」が最大のポイントであり、そのためには「自らの利益は何か」を見極めることが、まずもっとも重要なことである。
一介の旗本に過ぎず、一度も政治的立場に立ったことがない鉄舟が、徳川政権存亡危機を救う外交交渉に向かうよう命を受けたのである。鉄舟は官軍と交渉するにあたって、その交渉する「徳川政権の利益」を明らかにしなければならなかったし、そのためには政治的立場の上層部に相談し指示を受ける必要があった。
その相談を行い、指示を受ける相手として、時の徳川政権の実権を握っている海舟のところに訪ねたのは当然の行動であった。

時の首相の任にあった海舟は何を考えていたか。
考えていたこと、それは、駿府にて西郷に対して鉄舟が強く反論し、主張した内容であった。西郷から示された五箇条の条件の一つ「慶喜を備前に預けること」、これに鉄舟が鋭く厳しく反論し、西郷から「再考する」旨を引き出したが、慶喜を敵方である備前藩に引き渡すこととは、徳川慶喜の生命の危険を冒すことにつながる。
つまり、海舟と鉄舟の最終的な戦略目標は「慶喜の生命の安全確保」であることをお互い確認しあい、これを最終交渉条件・目的とした、と考えることが順当であろう。

ところで、駿府までの東海道道筋には官軍が充満している中、単身鉄舟がどのように西郷との会見交渉に辿りつけたのか。その手段工作を偶然かそれとも図っていたのか、鉄舟の訪れを予期した如き一手を海舟が3日前に打っていた。それは、薩人・益満休之助の確保であった。この益満休之助と決死の東海道駿府行きについては次号でお伝えしたい。

投稿者 Master : 09:47 | コメント (0)