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2008年05月03日

4月例会記録(2) 1/2

■山本紀久雄氏

「清河八郎の戦略転換」 1/2

靖國神社の問題は、以前はありませんでした。中国から出された問題で、それに翻弄されています。中国に行って説明しますと靖國神社はお墓だと思っているんですよね。神社の存在から説明しないとわかりません。

今チベットの問題で、世界中が中国の対応について遺憾の意見を評していますね。特にフランスの発言で、中国はカルフールの不買運動をメールで起こしていますが、カルフールは中国に50店くらい出ています。北京のカルフールに行きましたが中国人は買っていました。ウオールマート、伊勢丹、カルフールにもお客さんは入っていました。実際には買っているけれど、不買運動をするのが国情だろうと思います。
ぜひ来月も上米良さんに伺い、靖國神社の知識・理解を深めたいと思います。

鉄舟研究会のホームページを見ていましたら、田中さんも金子代表も清河のことを誤解していた、新しい見方をしたというニュアンスのことを書いていました。現代でも同じで、我々もひとつの見解で人を見るということをしてしまいます。これは靖國神社のことにも通じます。
どういう人間か知らないままに世間一般の策士という評で清河イメージしてしまうという意味でも、現代に生きる鉄舟の研究を学ぶ意味があります。
幕末維新の時代、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允が三傑といわれましたが、そのほかにもたくさんいます。幕府側では、鉄舟、海舟、泥舟、清河八郎も異色だけれど幕末維新に貢献しています。どう貢献したかを話して行きます。

1.文武二道指南の道を目指す
清河八郎は学者になろうと山形から江戸に出てきました。酒屋の息子でしたが、勉強が好きだから、一流の学者になろうと江戸に出てきて塾も開いて、清河が初めて文武二道をやりました。

2.江戸神田三河町に「経学、文章指南、清河八郎」塾を安政元年(1854)十一月に開いたが、その年末に火事で消滅

3.次の塾として薬研堀の家屋を購入したが、これも安政二年(1855)十月の大地震によって壊れ、塾開設をあきらめ故郷に帰る
安政の大地震で被害に遭いました。普通だったら、一軒目が火事、二軒目が地震で、江戸で学者になろうと塾を開いて、やったけれども、二度続いてこういうことがおきると、今の日本人の多くは“俺はついていない。またあるんじゃないかな”と思う人がほとんどですよね。そうなったときに清河八郎は故郷で徹底的に勉強しました。
人間はあるとき徹底しなければなりません。没頭しない人間は哲学がありません。哲学を磨かないと維新の英雄になれません。名を残した人は徹底的に他を省みず自分の目的のために没頭した期間があります。

4.この前は火事で、今度は地震、自分の将来へ一抹の不安を暗示しているのではないかと、一瞬脳裏に宿ったが、それを打ち消すかのように郷里で猛烈な著述活動を開始した。清河の多くの著述の大半はこの時期になされた
「古文集義 二巻一冊」(兵機に関する古文の集録)
 昔からのいろいろな兵器を集めて説明する辞書です。
「兵鑑 三十巻五冊」(兵学に関する集録)
 兵学に関することを集めて書く。書いたら覚えますよ。頭を使う基本です。
整理して、分類して、書く。これが考える作業です。

「芻蕘論学庸篇」(大学贅言(ぜいげん)と中庸贅言の二著を併せたもので、芻蕘(すうじょう)とは草刈りや木こりなどの賤しい者を意味し、自分を卑下した言葉で、この本の道徳の本義を明らかにし、後に大学・中庸を学ぶ者に新説を示したもの)
贅言は無駄な言葉という意味ですが、無駄な言葉ではないです。清河は謙遜して言っています。いろんな塾で教えている以外の、独自の教科書を作りました。清河の持っている体系知識が違う、人と違ったものの見方ができました。違う見方ができるということは視点が広いということです。

「論語贅言 二十巻六冊」(論語について諸儒の議論をあげ、独特の説を示したもの)

 「芻蕘論文道篇 二巻一冊」(尚書・書経を読み、百二篇の議論をあげ、独特の説を示したもの)
 「芻蕘武道篇」(兵法の真髄を説いたもの)
その他に論文もあり、清河の勉学修行は並ではない。
日本人の観光ツアーに行って、右といわれた時に一人だけ左を見るということをする。これが大事。こういうことをしているから物事の見方が鋭くなるのです。これだけのものを書くということは凄いでしょう。書いたら頭に入り、頭に入るということは知識があるということです。その上江戸にいるときに旅をしています。四国から関西を回っていて、京都に勉強に行って、良い先生がいないから九州まわって、オランダ人とも会って帰ってきています。お母さんを連れて、関西から四国を歩いています。仙台や蝦夷地にまで行ったといっています。旅行が頻繁にできない時代です。

日本人は世界一電車に乗ります。一年間で平均3000キロ電車に乗ります。第2位はフランスで、1800キロですから、日本はダントツの鉄道利用国民なんですね。鉄道が普及しているということです。

要するに当時鉄道がなく、歩きです。歩きでたくさんの行動をしたら、お金も要るし、体力がなければだめです。頭が良くても体力がないとだめです。頭使い過ぎて死んだ人はいないが体力がなくして倒れる人はいます。

清河は22歳で剣道をはじめました。千葉道場でも必死に修業して、人より早く中目録をもらいました。清河八郎は策士といわれていますが、策がない人は策士とは言われません。人をリードできるのは、広い学識があるからです。日本では珍しく旅をしてまわっています。こんな人に会ったら引き込まれませんか。武士階級は出張できない。清河は横断して情報を整理して、本にしています。論理的だと思います。口がうまいでしょう。時代解説ができます。町村の様子を日記に書いているんです。これが清河八郎記念館にあります。

5.安政の大地震が攘夷運動に与えた影響

この清河八郎の薬研堀の家が地震で倒れたということは、安政の大地震は、
どの歴史書にも出ていますが、大変な被害を与えました。人が多く死んだこともありますが、当時の優秀なる時代のリーダーが死んでしまうわけです。
当時日本をリードしたのは水戸藩です。国学の中心になった水戸斉昭が江戸城にいて海防参与の役職につきました。斉昭が攘夷運動をリードして、斉昭の裏には藤田東湖という優秀なブレーンがいたが安政の大地震で亡くなってしまいました。一番たくさんの家臣が死んだのは水戸藩です。後楽園のところに水戸藩の屋敷がありました。表の塀が倒れて、住んでいた下級武士が死んでしまいました。裏長屋に住んでいた重臣も倒れました。即死46名、負傷84名と被害報告が提出されています。御三家の尾張藩は今の市ヶ谷防衛省、紀伊藩は赤坂で今の迎賓館があるところでどちらも高台・岩盤で江戸幕府に出した報告書によると被害は家が少し倒れただけでした。
この水戸斉昭と将軍継嗣問題で争ったのが井伊大老で、井伊家は外桜田に藩邸があり、ここは岩盤ですから、さしたる被害なしと報告しています。水戸藩だけが被害を受けてしまいました。藤田東湖が死んでしまったことによって、水戸斉昭の言動がぶれてしまいました。リーダーがぶれるとみんなぶれます。西郷隆盛も志士たちも、水戸藩の藤田東湖のリーダーの攘夷論に従いました。方向を一時失ったわけです。清河の塾も倒しましたが、大地震によってそういう影響を引き起こしました。

6.安政四年(1857)駿河台淡路坂に塾を開くが門人少ない
再び江戸に出てきました。ところが、知識があって日本中を回って立派な話をするわけですが、門人が少ない。最初の神田三河町のときはいっぱい来たのに今度は来ない、売り上げが上がらないのは、なぜでしょうか。時代が変わってしまったのです。
今、スーパーもデパートでも売り上げが前年を下回っています。江戸時代も今も同じです。黒船が来る、尊王攘夷でもめている、地震はくる、もっとほかにあるんじゃないか?塾で論語を勉強している場合ではないんじゃないかと不安心理が世の中に蔓延しました。清河はこれを体験しました。これは次の布石です。

投稿者 staff : 2008年05月03日 15:12

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