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2006年07月23日

7月例会記録

■ 山本紀久雄氏
「鉄舟の父にまつわるビックリ事項」

資料の古地図(切絵図という)に靖国神社があり、鉄舟が江戸に戻って住んだ
小野鶴次郎の家も載っている。

(資料の補足:印刷が切れた文字部分)
「17歳の鉄太郎が江戸に戻って住んだ異母兄小野鶴次郎屋敷、嘉永5年(1852年)」

当時切絵図が頻繁に販売されており、この資料(切絵図)の前の版では、小野鶴次郎の家が、お父さんの「小野朝右衛門」になっている。切絵図は江戸に来た人が買い求めて、これを持って江戸を見物して歩いた。先ほどの森田さんのお話では、会津藩と仙台藩が10回火事にあったといっていた。これはケインズ経済学で、景気が悪くなると火をつける。民間の長屋はまた燃えるからと簡単なものしかつくらない、そんなことを言っている人もいる。

1.江戸時代を研究する意味

「江戸時代を研究する意味」の「江戸時代」を「鉄舟」に置き換えて考えてもらえればよろしいかと思う。

「今は一身にして、二生を経る」
福沢諭吉が、明治になってから言った言葉。福沢諭吉は下級武士から明治時代になって慶応大学を創設し、文化をリードした人。幕臣とそれ以後の生活が2度来たということを意味している。鉄舟も幕臣と明治天皇の侍従と、2度生きた。福沢諭吉や鉄舟以外の幕末の人たちも「江戸時代」と「明治時代」の二つの時代を生きている。

二つの時代を生きるということは、現代でもほとんどの方が当てはまる。現代は長生きの時代で、85~90歳まで生きる。お勤めの時代、定年後、と2つの人生がある。

福沢諭吉は、140年前に今の時代も見抜いていたと考えた方が良い。さて、寿命が延び、2つ目の人生をどうするか?
一つ目は過去基準で生きる人。昔の勤め人と比較して、次の一生を考える。
二つ目は業界基準で生きる人。定年した者同士で、自分と他者を考える。
三つ目は可能性基準。どういう可能性を生きたかを考える。
ワールドカップでの日本のサッカーは世界的なレベルの戦いを想定していなかった、という記事が日経新聞に出ていた。練習でフルに力を出していなかった。練習で出なかった力をどうして本番で発揮できるのか?世界基準に合わせて練習していたのか、という内容。

ロンドンにはブックメイカーという政府公認の賭け屋があり、ここでのワールドカップの日本の掛け率は一番低かった。実力は、F組4チームの中では最下位だと予想されていた。FIFAの評価基準はF組内ではブラジルの次だったので、日本人はオーストラリア、クロアチアに勝ち、予選を通るという甘い見込みがあった。日本とロンドンでは見込みが違う。世界でみたときに日本の見解は甘い。

我々も基準をどこにおくか、可能性をどこに置くかを考えて、生きていかなくてはならない。では、鉄舟は基準をどこにおいたか、ということを考えてみる。

坂本竜馬は、みんな知っている。鉄舟は知らない人が多い。坂本竜馬はなぜ有名なのかというと、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』がヒットしたから。織田信長と坂本竜馬は日本人が大好きな二人で、この二人が登場すれば、テレビも本もヒットする。

なぜ、この二人が日本人に人気があるかというと、司馬遼太郎の描き方に原因がある。坂本竜馬は、お姉さんに甘えて育って、剣術は少しできたので、剣術修行のために江戸へ出た。あるとき世界を相手に商売する!これからは万国公法に基づくべきだ!と海援隊をつくり、明治維新の全体構造ができたと書かれている。
お姉さんに甘えて育ったのに、なぜ急に素晴らしいことが出来たのか?坂本竜馬は実は小さいときから頭が良かった。若い頃からオランダ語が出来た。剣術家ではなく、頭がよかったというのが真実らしい。しかし秀才が秀才になるのでは面白くない。馬鹿が一瞬にして頭が良くなる方が夢やロマンがある。

昨日も阿呆で今日も阿呆、それで明日は天才になるわけがない。今日の生き方が大事であり、日々の行動の積み重ねが生活習慣になり、人は変わることができる。鉄舟は日々の鍛錬によって自分を作り上げていった。

織田信長は何で人気あるのか?たわけもの、うつけものだと領民から馬鹿にされていた。しかし斎藤道三に会ったとき、礼儀正しく堂々と会話ができた。どうして、昨日まで馬鹿だった人が、平安時代の流れを汲む古式豊かな対応ができるのか。急にできるわけがない。信長には教養があった。

今の学生は、採用試験を受ける前に就職用の心理テスト、性格テストを何十回と勉強している。入りたい部署に合わせてテストを回答するので、入社して部署に入ったら、その仕事に向いていない、ということも発生する。適正が合わず鬱になることも多い。採用試験の仕組みを考えた学校側が、学生に採用面接や性格テストの対応をさせすぎてしまっている。採用試験の点数は良いけれど、その後何もできない人が多い。そして、そういう付け焼刃的な訓練は身につかない。

坂本竜馬、織田信長の生い立ちのように、阿呆だったものが一夜にして秀才になるというロマンテックな歴史の読み方ではいけない。厳しくしなければならない。

鉄舟には、織田信長や坂本竜馬のような浮ついた話は一つもない。両親を相次いで亡くし、17歳で小野鶴次郎の家に来たときには、11歳から2歳までの弟が5人居た。この弟たちを育てながら、合間に剣や書を勉強した。地道に努力してきたこの苦労がその後の生活に生きてきた。

何とかなるのではないか、という生き方で生きていても何ともならない。長期的に進めていかなければ飛躍はない。
鉄舟は、自分の人間の完成のために、亡くなる直前まで努力をした人。
山岡鉄舟は現代に欠けている“日本人は地道な努力の人である”ということを教えてくれる。江戸時代は地道な努力をする伝統文化が残っていた。第二次世界大戦で敗戦後、アメリカが入って、忘れ去られてしまった。

このところ、日本の伝統文化の大切さが認識され、見直そうとしている。江戸文化を勉強すること、鉄舟を勉強することは、昔の我々の良い生活習慣を自分のものにするための勉強をしていると理解していただきたい。


2.鉄舟の父の死にまつわるビックリ事項
①79歳まで飛騨高山代官所の郡代・・・生涯現役
②亡くなったときに二歳の乳飲み子がいた・・・77歳のときに生まれた
③母磯との再婚は63歳の時
④飛騨高山代官所の郡代への赴任は72歳の時
⑤鉄舟に渡された遺産現金額は3500両、この現代換算金額は?
   日銀貨幣博物館資料より
    米価から計算した金一両の価値
     江戸時代初期・・・10万円
        中後期・・・3~5万円
     幕末の頃・・・・・3~4千円
    父小野朝右衛門の死は嘉永五年(1852)、これは明治維新から16年前、ペリー来航の一年前であるから幕末時期に向う直前であるので、上の江戸時代中後期3~5万円で計算すると
10,500万円、14,000万円、17,500万円となる。
⑥この3500両を鉄舟はどのように使ったか、そこに鉄舟の生き様が顕れている

今は60歳で定年退職するのが当たり前だが、鉄舟の父である小野朝右衛門は勘定奉行から飛騨高山へ転勤したのが72歳で、79歳で亡くなるまで職場にいた。江戸時代は定年制がなかった。もちろん悪い人は辞めてもらうが、有能な人は死ぬまで雇用していた江戸時代を馬鹿にできない。

2002年の日経新聞文化欄の記事から江戸時代に定年制がなかったことがわかった。徳川幕府のサラリーマンであった江戸中期の平岡彦兵衛は無名な人ではあったけれど、在勤中9箇所まわり、喜寿(77歳)で辞めたという。
この記事から朝右衛門が79歳まで働いていたことが証明できる。

鉄舟の一番下の弟は、両親と死に別れた当時は2歳。朝右衛門、77歳の時の子供。
鹿島神宮の神官の娘であった磯さん(当時26歳)と再婚したのが63歳。磯さんの両親は、年が違い過ぎると反対したが、倅の代になっても大事にすることを約束し、懇願して結婚した。朝右衛門と結婚後、磯さんは6人全員男の子を生んだ。

山岡鉄舟も素晴らしい人だったが、お父さんもエネルギッシュで健康だった。そんな健康だった人が、なぜ急になくなってしまったのだろう。お母さんは46歳で脳卒中が原因で亡くなった。

磯さんが亡くなって5ヵ月後にお父さんが亡くなった。死因は黄疸という説と、脳溢血という説がある。黄疸は時間を掛けて悪くなる病気なので、2年前は元気だった朝右衛門の死因が黄疸であるとは考えにくい。では脳溢血か。

もう一つには切腹させられたという説もある。朝右衛門は亡くなるときに鉄舟を枕元に呼んで、“残された幼い弟たちのことを、親代わりになって育ててくれ”と頼んで亡くなった。朝右衛門は子供たちに3500両を残していた。

3500両という金額は現在の価格にするといくらか?どの本にも書かれていない。
江戸時代を研究してみると、3500両を現在の金額に換算することが、なかなか難しい。難しい理由がいくつかある。

江戸時代は金・銀・銅の3つが流通しており、3つ全てに相場があった。日本という国に円・ドル・ユーロがあるようなもの。江戸時代の人は頭がいい。レートがあるから為替で設けた人もいるでしょう。

2つ目は小判に入る金の含有量が改鋳されて、年々少なくなってきているので、時代によって、金の価格が変わる。当事の米、蕎麦、労働の賃金で判断して逆算するしかない。ただそれも天候異変があり、頻繁に飢饉があったため物価が安定せず判断基準がない。それでは身も蓋もないので、物価が安定していた文政時代(1820年代)の資料をみる。
食費を基準にすると1両4~20万円、平均して12万円、労賃を基準にすると1両20~35万円、平均27万円。それぞれ3500両をかけてみる。食費の平均12万円に3500両を掛けると4億2000万円。労賃の平均27万円に掛けると9億4500万円。定年退職して退職金を1億円もらえる人はいない。

次に、日銀に貨幣研究所があって、そこで調べてみた。日銀では米価換算で金額を出している。江戸初期は、1両=10万円、江戸の中・後期は1両=3~5万円、幕末は1両=3~4000円。

朝右衛門の亡くなったのはペリーの来る1年前~ペリーが浦賀に来てから15年間を幕末という~なので、江戸後期として平均4万円を取る。3500両×4万円と計算すると父親から残された金額は1億2000万円。4億2000万円、9億4500万円、1億2000万円、この3つのうちどれかになると思われる。

そんなに代官の収入はあったのか?当時の代官の給金は5万石=600両、高山は10万石なので1200両、幕府から給金をもらえた。家賃は無料、使用人はついており、磯さんもしっかりしていたので、3500両を残せるほどの金額は貯められたでしょう。

両親が残した3500両を鉄舟はどのように使ったのか。小野鶴次郎は当事跡取りだったが、鉄舟には冷たく弟たちの面倒は見てくれなかった。鉄太郎は弟を5人も育てられないので、1人500両の持参金を付けて養子に出した。義理の兄である鶴次郎に900両を、残りの100両を持って鉄太郎も山岡家に養子に行った。


3.父母の死にまつわる疑問説・・・成川勇治氏の見解・・・正史か稗史か

成川勇治氏は1920年生まれの86歳で、鉄舟の血筋を継ぐ方。鉄舟と鉄舟の奥さん英子さんの間に子供が3人いる。最初の子は亡くなり、長女は松子、次女嶌子、長男直記、この直紀が山岡家を継いだ。

直記は、詐欺まがいのことをして子爵を取り消された。お金がないから、勝海舟にお金を貰いに行っている。勝海舟の明治31年の日記にお金を貰いにきたことが載っている。どうしようもない子供である。このため、鉄舟の子孫は調べていくといやがる。子孫はどこにいるかわからない。

直記の奥さんがまさ子さん、子供は鉄雄さんと龍雄さん、きくさん、武男さんの4人居たが、武男が生後70日のときに、直紀の会社が倒産し財産没収になった。武男は、鉄舟の弟子の成川忠次郎のところへ養子に出された。忠次郎の子供が精一、精一さんの子供が行子さんで、その行子さんと結婚させた。このお二人から生まれたのが、成川勇治氏。

成川氏は、鉄舟の娘・松子さんが精一さんに鉄舟の両親が何故亡くなったかをしゃべったという。磯さんは幕府の隠密に毒殺された。朝右衛門が陣立てといって、演習を何回もやったので幕府は謀反を起こすのではないか、と疑い高山に隠密を送った。栗狩りのとき、磯さんは栗に毒を入れられて急死した。また、3500両という大金の蓄財疑惑もあった。この蓄財疑惑はその後調べたら疑惑ではなかったが、その責任を取って小野朝右衛門は切腹したという自刃説がある。

この説を調べた方がいる。小島英煕さんという日本経済新聞の記者で、小島直記さんの息子さん。6年ほど前に毎週土曜日に鉄舟の記事を書いていた。この方の書いた本に毒殺説が出ている。

鉄舟の息子・直記さんについて少し話すと、優秀な山岡鉄舟の息子に、なぜどうしようもない人が生まれたのか?ありえるのか?親の教育が悪かったとは思いたくない。親が優れすぎているために子供が苦労することもある。
河合隼雄さんの『影の現象学』には、親が影のない生き方をした~人のために尽くした宗教家、教育者など~の場合、子供に影が出来ることがあると書いてある。親には全くなかった影を子供が全て引き受けてしまうことがあるようだ。


【事務局の感想】
江戸時代は生涯現役だったという認識は、皆様の中にもなかったのではないでしょうか。この話をきいてから、テレビ番組の中で、名前はわすれましたが、戦場にでた兵士の年齢が72歳であったという話を聞きました。
まったく山本さんの説を裏付けるものでした。
鉄舟を通じて、新しい切り口で歴史を学ぶことができるのも、山本さんの鉄舟研究によっていますので、今後ともよろしくお願いいたします。

投稿者 staff : 12:26 | コメント (0)

2006年07月14日

鉄舟のお父さん


ジリジリ、暑〜い真夏の夕刻、今月も鉄舟サロン例会は行われました。
ご参加の方もじわじわと増え、会に活気が出てきました。常連さんも最近参加された方も、和気あいあいと楽しみながら、マジメに学んでいらっしゃる姿に、あらためて鉄舟先生が呼び寄せてくださったご縁に感謝しなければと感じました。

今月の発表は森田さん。森田さんは東京・汐留の遺跡調査に携わられたそうで、遺跡調査のエピソードをいろいろ語っていただきました。遺跡調査というのは未知の世界でしたので、いろいろと興味深いお話でした。
汐留は、江戸時代仙台藩と竜野藩の屋敷があり、その石垣などが出土していますが、そこに火事が何度もあった痕跡が残っていたのだそうです。森田さんが文献で調べられたところによると、仙台屋敷は江戸時代を通じて10回火事に遭っているそうです。20年に1回ぐらいは焼けていた計算になります。ホント多いですね。景気が悪くなると火事を起こしていたなんて説もあるそうで、まさに「江戸の華」だったということが遺跡からもわかるというわけです。

続いては、山本さんのお話。今回は鉄舟のお父さんに関するビックリエピソードを聞きました。
鉄舟のお父さんは79歳で亡くなられたそうですが、そのとき2歳のお子さんがいらっしゃったそうです。鉄舟の兄弟ということになります。当時にしては長命であったことも驚きですが、77歳にしてお子さんを設けられたことも驚嘆に値します。このエネルギッシュな父の影響を、鉄舟は少なからず受けているだろうと推測します。
お父さんは79歳で亡くなられた訳ですが、そのとき3500両の遺産を残されたそうです。今のお金にすると、1億〜1億7千万円!江戸時代は複数の貨幣が流通しており、米価なども含めるとレートが複雑で単純に換算することはできないのですが、それでも一億数千万円の遺産を相続したのです。しかし鉄舟は、その大半を兄弟たちに分け養子に出し、自分は残りわずかのお金を持って山岡家に入ったのです。鉄舟の大きさというのはこういうところにあらわれているのではないかと思います。やはり鉄舟はすごい。

(田中達也)

投稿者 lefthand : 07:53 | コメント (0)

2006年07月12日

7月例会は7月12日開催です

7月の例会は、7月12日(水)第二の水曜日に開催いたしますので、ご予定お願いいたします。
(*第三水曜日ではありませんので、ご注意願います)
講師は、森田さんと山本さんです。
森田さんには、『門前の小僧習わぬ遺跡調査を・・・』 副題:汐留の遺跡調査を体験して 
を発表いただきます。
ご参加お待ちしています。

投稿者 Master : 08:16 | コメント (0)

2006年07月03日

鉄舟の臨機応変行動力

鉄舟の臨機応変行動力
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

JR田町駅近く、都営浅草線三田駅を上がったところ、第一京浜と日比谷通り交差点近くのビルの前に「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見の地 西郷吉之助書」と書かれた石碑が立っている。その石碑の下前面、向かって左側に「この敷地は、明治維新前夜慶応4年(1868)3月14日幕府の陸軍参謀勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた『勝・西郷会談』の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所である・・・。」と書かれ、石碑の下前面、向かって右側に高輪邉繒圖が描かれている。

この薩摩藩蔵屋敷で会う前日の3月13日、海舟と西郷は芝高輪薩摩屋敷で第一回の会談を行った。駿府において行われた鉄舟と西郷との会見結果を受け、正式に海舟は幕府陸軍・軍事総裁、西郷は東征軍大総督府参謀として会見・交渉に臨んだのであった。
海舟と西郷はすでに元治元年(1864)の第一次長州征伐時に、大坂で会っていた。
この時は西郷が海舟を訪ね、海舟が滔滔と展開した時流見識に、完全に圧倒された西郷であったが、今は立場が逆転し、海舟が西郷を訪ねたのであった。

二人の間では、静寛院宮の安全についてのみ確認し合い、あとの議題は翌日に回し、海舟が西郷を愛宕山に誘った。
愛宕山は海抜26メートル、さほど高くない丘であるが、台地の東端にあり、ここから見下ろすと、江戸の町が北から南まで見渡せ、その先に広々とした海と白帆の船を望むことができる。また、徳川家康が建立した愛宕神社があって、江戸城南方の鎮護として当時も今も名所となっている。愛宕神社に参拝するためには、寛永11年(1634)の曲垣平九郎が馬で上った急勾配、その男坂86階段を上らなければならないが、海舟と西郷もここを上ったことであろう。

愛宕山の見晴らしのいい場所に西郷を案内し、海舟は「江戸市中が焼け野原にならずにすみ申した」とぽつりとつぶやいた。その言葉の背景には、官軍の江戸城攻撃による戦災を防げたという意味と、海舟の準備した焦土作戦、それは官軍が江戸に入ったならば、ロシア軍がモスクワに火を放ってナポレオン一世の野望をくじいたと同じく、官軍進撃の退路を火で断つ作戦があったこと、それを言外に漂わせたものであった。

この当時の江戸は素晴らしい調和のとれた景観都市であった。それを証明するのがイギリス人写真家「フェリックス・ベアト」の写真である。撮影したのは慶応元年(1865)から2年(1866)頃で、江戸市中をパノラマ写真として残している。海舟と西郷もベアト写真が証明している整然とした江戸景観を眺め、西郷に海舟がいろいろ説明したであろう。
今、愛宕山から眺めると、ベアトが撮影した当時の景観は望むべくもない。ベアトと同じ位置から見た現代の東京の街並み、それを今回改めて撮影したので、見比べて欲しい。貧しく哀れさを感じるほど、現代は調和美が失われている。

ここでベアトの写真を研究している小川福太郎氏(元NHK放送博物館)の見解を紹介したい。小川氏によると「①写真の中に人物が殆ど写っていないという。当時のカメラは露出時間が長く、移動する対象人物等は乾板に写らなかったと推測される。②しかし、よく見ると愛宕山下の真福寺庫裏玄関右に、住職と思える人物が一人上方の屋根を見ている。また、中央の片桐石見守屋敷の庭で屋根に梯子をかけて一人が休んでいて、右側の青松寺先の屋根物干し台に三人いることが分かる。③つまり、合計五人が止まった状態にいたので写っており、いずれも屋根に関わった位置にいて、その見ている屋根方向が一様に壊れていている状態を併せ考えると、江戸の町は台風が襲来し被害を受けた時期、多分、8月から9月に撮影されたと思われ、撮影時刻は瓦職人の昼食の休み時間であろう」と推測している。なかなか面白い見解であり紹介したい。

さて、上野寛永寺大慈院一室で、将軍慶喜から直接命を受ける異例の事態となった鉄舟、その後はどのような行動を採ったのであろうか。それについて「西郷氏と応接之記」に次のように鉄舟が記している。
「余は、国家百万の生霊に代りて生命を捨るは素より余が欲する所なりと、心中青天白日の如く一点の曇りなき赤心を一二の重臣に謀れども、其事決して成り難しとて肯ぜず。当時軍事総裁勝安房は余素より知己ならずと雖も、曽て其胆略あるを聞く。故に往て之を安房に謀る」
一介の旗本に過ぎず、一度も政治的立場に立ったことがない者が、幕府存亡危機を救う外交交渉に向かうよう命を受けたのである。一般的にそのような状況に立ち至ったとき、どのような行動を採るであろうか。常識的には政治的立場の上層部に相談するであろう。鉄舟も同じであった。何人かの幕府上層部人物を訪れ、相談し指示を仰いだのであるが、皆、単独で駿府へ行くことなどは無謀であり、不可能であるからといって相手にしてくれない。そこで、最後に、今でいえば当時の首相の任にあった、軍事総裁としての海舟のところに向かったのであった。

そのころの鉄舟は「山岡鉄太郎は危険人物だ。海舟を狙っている。注意しろ」と、大久保一翁からいわれるほどの警戒人物であった。事実警戒される背景要因も過去の鉄舟にあり、これについては後日詳しく述べたいが、これらから当然に鉄舟と海舟は面識がなかった。更に、和戦派の首領であった海舟は、主戦派から官軍に屈した憎き男として、刺客に付けねらわれていたことから常日頃用心深くしていた。
そこに現れたのが鉄舟である。当然、居留守を使ったが、六尺二寸、二十八貫という巨躯の鉄舟が「主命を帯び、火急の用事があって、会いにきているのだ。取り次げ」と大喝する気迫に「玄関口ではとても謝絶しかね」とうとう会うことになった。
鉄舟も自らの評判を知っていて「安房は余が粗暴の聞えあるを以て少しく不信の色あり」(西郷氏と応接之記)と自ら記している。
だが、海舟は一瞬にして鉄舟の本質を理解した。海舟日記に「旗本山岡鉄太郎に逢う。一見その人となりに感ず」(3月5日)と記し、その上、後年海舟は次のように回想している。
「おれにことの仔細を告げて、答弁を求められたけれども、おれもこれまで山岡のことは、名だけ聞いていたけれども、いまだその心事がしれんから、即答せずにひそかに山岡の言動を察するところ、なんとなく機の失うべきでないことを悟っているふうに見えたから、おれが山岡に問いを発した。『まず、官軍の陣営に行く手段はいかにするや』と。山岡答えて、『臨機応変は胸中にある』と縷々と説明したが、毅然とした決心の固いのには感服したよ」

この時点で官軍は品川に迫っていた。目前の敵中を突破しなければならない立場になったとき、普通の人間は何を考えるであろうか。多分、敵中突破の方法論を検討するであろう。駿府までの距離・時間を計り、陸路か海路か、馬の用意、変装用具など、多くの手段を考え講ずるに違いない。それが当たり前の一般的な準備としての考え方である。
しかし、鉄舟は違った。海舟に「縷々と説明した」こととは、方法論ではなく開ききった心境であり、これが鉄舟の「臨機応変は胸中にある」という次の内容であった。
「余の曰く、官軍の営中に到れば彼ら必ず余を斬るか将た縛るか外なかるべし。然る時は余は双刀を解きて彼らに渡し、縛るなら尋常に縛に就き、斬るならば斬らす可し。何事も先方に任して処置を受く可し。去りながら、何程敵人とて、是非曲直を問わず只空しく人を殺すの理なし、何の難き事あらんと」(西郷氏と応接之記)
己の身を、すべて目的遂行のために投げ出し、敵に対して小細工を用いず、相手のなすままに対応しようとする清みきった心境、それが鉄舟の「臨機応変」なのである。

後日、海舟が鉄舟の「臨機応変」について次のように評している。
「これが本当だよ。もしこれを他人にしたならば、チャンと前から計画するに違いない。そんな事では網を張って鳥を得んと思うの類だ。決して相手はそうくるときまってはないからナァ。ところが山岡なぞは作戦計画はなさずして作戦計画が出来ているのだから、抜目があるとでも評しようよ。まァ御覧よ。彼が西郷との談判工合やら、敵軍中を往来する事、恰も坦途広路を往くが如く、真に臨機応変のところ、ホトホト感心なるものだ」
海舟は鉄舟を正しく、妥当に評価したからこそ、幕府の運命を鉄舟に託したのであった。

投稿者 Master : 05:31 | コメント (0)

2006年07月02日

6月例会記録(2)

6月例会記録(2)

■山本紀久雄氏
「鉄舟の高山子ども時代を考える」

矢澤さんから格調高いお話しがあったが、解る人と解らない人がいるでしょう。
初めて聞く話だとわかり易いが、聞いたことがないと難しいかもしれない。過去に経験がある人はわかる。それは今までの生きてきた環境による。
何を言いたいかというと、自分の中には生まれたときからの過去が入っている。
子どもの頃の体験は忘却の彼方かもしれないが、脳細胞が影響を受けており、無意識の感覚で入っている。“経験“が多い人は親に感謝しなくてはいけないし、そうではない人は親の教育が甘かったのかもしれない。

山岡鉄舟が大きな仕事ができたのは、子供時代の経験が深かったからであり、それは両親の影響でしょう。

今の子どもは、親が忙しいからテレビを見させている。1943年に自閉症がアメリカで始めて発見された。その12年前の1931年にアメリカで始めてTVが放映された。テレビの影響があるのではないか。
一方通行で体験が入ってくると受身の人間になってしまう。共通的概念だけ入ってくるので、個性や想像性が少なく可能性がある。テレビからの情報はある意味で良いようなものの、問題もあるでしょう。

テレビがなかった時代、子どもは親や地域、周囲からの影響を受けていた。

1.鉄舟の高山子ども時代の特徴的出来事
①寺子屋で学んだこと
②書に優れた才能を見出したこと
③寺の鐘にみる尋常でない頑張り精神
④お伊勢参りで学んだ時代の先端思想
⑤しかし、最も大きかったのは両親が相次いで亡くなったこと。今回は母磯からの影響を考えてみる

鉄太郎は飛騨高山の代官の子息であった。父親の小野朝右衛門は、代官ではなく、代官よりも石高の高い直轄地を任されている郡代。(62箇所の直轄地のうち10万石以上を郡代と言った。)郡代は非常に高い地位であり、本来なら家庭教師を呼んで、郡代の屋敷で勉強させるが、両親はあえて町人が教育する施設である寺子屋にいかせた。
“郡代の子息を町人風情と勉強させるのはいかがなものか?”そのような批判もあったでしょう。しかし普通の侍として勉強させるより、寺子屋で勉強させることにより、民主的な思想を植えついた。明治時代になってからも差別意識がなかったのは、この寺子屋で勉強したという子ども時代の経験に要因があったのではないかと推測される。

この集まりは鉄舟研究会であり、この説はあくまでも推測。研究は推測です。論理的に考えてそう思いませんか。

鉄舟は毎日書を500枚かいた。廃仏毀釈で損害のあった寺社も鉄舟の書で復活した。
鉄舟の書の才能を見出した人は高山時代に鉄太郎に教えてくれていた人である。
書を書き、その結果鉄太郎に書の才能があることが見出せたのは先生だが、先生を選んだ親も素晴らしい。

鉄舟の性格は、柔ではない。どんな性格だったか、尋常ではない精神だったことがわかるエピソードをお話しする。
鉄太郎が宗猷寺に遊びにきていたとき、鉄太郎が鐘楼の鐘を眺めていた。和尚が鉄太郎に“そんなに鐘が好きならあげるよ”と冗談を言った。鉄太郎は喜び、走って郡代の屋敷まで戻り(宗猷寺から屋敷までは大人の足で徒歩7分くらいでしょう)父親に“和尚さんがお寺の鐘をくれるって”と報告した。朝右衛門も冗談だとわかったが“そうかそうか”と言った。鉄太郎が郡代の人足を集めて寺の鐘を下ろそうとするので、和尚が冗談であることを伝えた。すると鉄太郎は和尚に“人には嘘を言ってはいけないと言ったでしょう!”と言った。
当時の和尚は教養ある人であり、地元の教育界の中心人物だった。
鉄太郎の言葉に二の句が告げなくなった和尚は朝右衛門のところへ行き、鉄太郎の説得を頼み、親と和尚の二人掛かりで鉄太郎を説得した。
この鉄太郎の尋常でない性格が江戸無血開城に結びつけた。

鉄太郎は元服のお祝いに兄とお伊勢参りの旅に出ている。旅先で会った2人の人物に刺激を受け、社会はどのように動いているかを知った。もし旅に出なければ、高山の美しい景色をみて、書と剣道にあけくれていたのではないか。

海外旅行をする人が増えているが、観光だけして帰ってくるのではいけない。
たとえばヨーロッパ旅行でも旅行会社がTAKECAREしてくれるので、旅行先で現地の人と話すとしたら、ホテルのフロントかおみやげ屋、レストランのスタッフとしか話さず、町の人と話さないでしょう。ホテルのフロントかおみやげ屋、レストランのスタッフはサービス業の人で、その方の言動に文句つけたり褒めたりして、その国をみたような気になっていませんか。そのサービス業の人たちは、旅行先の国の人ではないことが多い。
東欧諸国の人がパリでもドイツでもサービス業に従事している。外国に行って、外国人と話して、対応を受けて、その国の人と話したような気になって、帰ってくる。

鉄太郎のお伊勢参りは外国旅行にいったようなもの。
幕府を倒そうと思っている本人である藤本鉄石と話し、林子平著『海国兵談』という書物を写した。
外国の船が日本中に来ていることなど外国事情が情報として鉄太郎の知識になった。
伊勢神宮の宮司から日本の国体の説明を受けた。当事将軍のほかに、天皇がいることを知っていたのはほんの一部の人たちであった。鉄舟が知っていたのは、国学思想を勉強していたから。
710年は平城京が開かれた年、それからずっと天皇、綿々と続いている。
世界中みて、これだけ長く続いている国はない。中国4000年というが王朝が変わっている。

鉄太郎が16歳のときに、相次いで両親が亡くなった。父親がなくなるということは経済的な支柱がなくなること。

朝右衛門は71歳のときにお蔵奉行から飛騨代官に昇進した人。当事は定年制がない人物本位主義だったようですね。江戸時代は素晴らしい時代だったということを学びたいと思っている。今年12月の鉄舟全国大会には、江戸時代の魅力を語ってくださる北海道大学の井上勝生先生をお呼びしたいと思っている。

お父さんが79歳でなくなったとき、子供は2歳だった。
お母さんは若かったが、突然死で、言葉も交わさずになくなってしまった。

2.母磯から受けた影響・・・孝経(孔子)の忠孝
・忠孝とは「孝を以って君に事(つか)うれば、則ち忠なり」
・磯の解釈「忠も孝も人間の心の柱、土台石。人間として守りつとめる道。忠とは、君に正しく命がけで仕えること。孝とは、子として親を喜ばすよう正しく仕えること」
・鉄舟の反問「では母上は、上様に、父上に、どのような忠孝を実践されているのですか」

お母さんは鉄太郎に忠孝について詳しく教えている。鉄太郎は母親に素直に質問した。親は子供に素直な質問をされたと困ってしまう。そのとき母親の磯さんは、絶句した。鉄太郎に教えておきながら自ら実行していないことに気がつき、鉄太郎に謝った。

江戸時代の女性を調べるのは結構難しい。男性の記録はあるが、女性の記録はない。
女性を中心にした小説もない。磯さんみたいな女性が多数居たかも解らない。

いくつか本を調べると、才女の記録もある。才女の中には、只野真葛(ただのまくず)さんという方がおり、『むかしばなし』という小説を書いている。才女であることは、次の発言からわかる。
たとえば「雲助と呼ばれる者の賃金を時間性にしなさい。足早く、力あるものには賃金を沢山払いなさい。能力給にしなさい。西洋人は肉食だから短命だが、脳を使うこと学問・技術において、菜食主義の日本人には及ばない。」などと述べている。彼女の優秀さには滝沢馬琴も驚いている。

幕末の御典医の娘である今泉みねが書いた『名残の夢』という思い出話のエッセイを読むと幕末の女性の動きが垣間見られる。官軍が江戸に攻めてきたとき、明日は攻撃されるかもしれない、家の主が攻撃されて殺されて死ぬようならここで腹を決めて、死になさいということになる。彼女は、“死ぬとは何だ、怖いかしら?”終わったら甘いもの食べちゃおう。と軽妙である。真剣に考えていない。

このように江戸の女性像について、いくつか記録がみつかるが、ただ、鉄舟のお母さんの磯さんは地方の出身。江戸の人とは違う。

3.儒教(儒学)は孔子を祖として始まった中国古来の政治・道徳の額。日本には応神天皇(15代、五世紀前後の記紀・・古事記と日本書紀とを併せた略称・・示された天皇)の時に「論語」が伝来されたと称せられるが、社会一般に及んだのは江戸時代以降。


4.靖国神社問題はこの儒教解釈の取り入れ方から発生しているという主張・・・逆説の日本史13巻、井沢元彦
① 中国人が考える「孝」・・・元の時代(1,271~1368)の「二十四孝」郭巨(かくきょ)の説話から考える・・・「考」がすべての道徳概念に優る
②日本人が考える「孝」・・・姨捨山にみる姿
③靖国神社は墓所でないことを理解できない中国人・・・高橋哲哉東大大学院教授
④中国版靖国神社「岳王廟」の事例・・・国のために戦い抜いた岳飛を「護国の神」として祀った廟の境内前庭に後手に縛られた「敵の秦檜(しんかい)夫婦像」が置いてあり、参拝者はこの「夫婦像」にツバを吐きかけるという。死んでも悪人は悪人という考え。永遠に悪人のまま。
⑤日本人の感覚は清水次郎長に顕れている。幕府海軍の咸臨丸が撃沈され清水港に遺体が打ち上げられた。官軍は遺体を葬ってはいけないと命令した。しかし、次郎長は「仏に官軍も賊軍もない」という考えから、処罰覚悟で遺体を埋葬し、それを機縁に鉄舟と親しくなった。死んでしまえば悪人も善人も皆同じ。

鉄舟に続いて、靖国神社を勉強したい。『逆説の日本史・13巻』(井沢元彦著)
儒教は孔子を祖としてはじまった。中国は世界に中国の文化を広めるために世界140カ国に孔子学院をつくる計画をしている。現在50施設完成している。日本文化センターはまだ10数施設しかない。説明できる人が居なければ日本文化が普及しない。

中国の政治道徳の思想について、日本文化と中国文化の違いから話す。
儒教が日本に入ったのは5世紀の前後というが、実際に勉強したのは江戸時代。しかし本家中国と日本では差がある。
中国で考える忠孝の「孝」について、「二十四孝」の説話を紹介する。
郭巨(かくきょ)は大変貧しい暮らしをしており、食べるものが足りなかった。母・妻・子供の4人家族であったが、母の体が弱ってきて今にも死にそうである。母は食事を取らず、郭巨の息子、彼女にとって孫に食事を与えていた。郭巨は食料を自分の息子に食べさせるか、自分の親に食べさせるか悩み、子どもがいなければ母親が食べられるという理由から子供を殺す、という結論に至る。

中国ではこれが儒教である。日本では先が短い親が身引く。
例えばタイタニックが沈没するとき、最初に救命ボートに乗せるのは、中国ではお年寄りであり、お年寄りの男性を最初に乗せる。日本人は、将来性がある子どもをお年寄りより先に乗せるだろう。日本と中国では儒教について考え方が違う。よって発言に差が出る。

靖国問題について有名な方である東京大学の高橋哲哉氏にお話しを伺った。
中国人は日本の神社が理解できない。靖国神社をお墓と思っている。

中国版靖国神社には中国のために戦った戦死者の墓があり、そこにお参りするには
敵の石碑につばを吐きかけてお参りする。中国では悪人は死んでも許さない。

清水次郎長と鉄舟が親しくなったきっかけは、幕臣の遺体を引き上げたこと。
遭難した船を攻撃され、幕臣の遺体が流れ着いたとき、死んだら官も賊も関係ないと遺体を引き上げて弔った。

良いか悪いかは皆さんが判断すること。思想が違う人はいくら説得してもわからない。


5.靖国神社問題はソ連がロシアになって発生したという見解。・・・中国の作成している世界地図から判断(池上彰)


どの国でも世界地図の中央はその国である。中国の世界地図では北方領土4島とも日本の領土と認めている。なぜ中国は日本の味方をしているか?敵の敵は味方。中国の敵はソ連、ソ連の敵は日本。ところがソ連からロシアになって、中国とロシアが仲良くなってしまうと中国と日本がダイレクトに敵になってしまった。
その頃から靖国問題が発生している。高橋先生から“国際政局で動く”と聞いた。


6.靖国神社は戦争遂行のための「感情に働きかける装置」であったという見解から、春夏の靖国神社例大祭が重要な行事なので8月15日参拝は問題ないという見解(高橋哲哉東大大学院教授)
   
*とにかくいろいろ見解はあるので、これからも研究する予定
靖国神社というのは追悼施設ではなく明治政府ができてから作られた慰霊の施設。
日本人の軍隊は徴兵制であり、戦死者の親兄弟が政府に対して“戦争はやめろ!”と言い出したら困るので、例大祭で天皇陛下が頭を下げて、感情の変遷をさせる。
戦死者の家族が持つ恨みを“お国のために死んでくれてありがとう!”と感謝してしまう。
家族の悔しさをお国のために死んで良かった、と靖国神社で思いの変換をさせる場にした。
8月15日に参拝するのは問題ではない。本来は例大祭のときでなければいい。
靖国神社については、上米良さんに分析してもらって、お話ししていただきたい。

鉄舟も儒教を学んできた。中国の孔子からできたものが、中国の儒教と日本の儒教は違う
儒教を学んで中国に行くと中国の儒教は違うということを鉄舟について学びながら知ってほしい。


7.鉄舟の母磯に見る江戸時代の女性・・・「家刀自」(いえとじ)

磯さんは典型的な江戸時代の優れた女性だった。立派なお母さんだったから鉄舟のような人物が育ったのだと思う。次回はお父さんも含めてお話します。


【事務局の感想】
 山岡鉄舟と靖国神社が結びついてしまいました。誰も想像もしなかったと思うのは私だけでしょうか。儒教や江戸時代の女性の行き方、靖国神社など歴史的に勉強をしていなくて恥ずかしいのですが、鉄舟サロンに参加して、山本さんから本を読むより分かり易く、興味深く解説していただけ、しかも歴史だけでなく、その内容が今回のように現代といつも結びついているのが、山本鉄舟研究です。
 私もぬりえと鉄舟がどうのように結びつくかまだ分かりませんが、今の時代を知るためにも、これからも鉄舟を続けていきたいと思っています。

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6月例会記録(1)

6月例会記録

■ 矢澤昌敏氏 
『日本の西洋美術談義 PARTⅡ』 
 副題:フェノロサ&岡倉天心&ボストン美術館

1.油絵略史
わが国と西洋との出会いは、1543年(天文12年)ポルトガル人の種子島漂着に始まる。【鉄砲の伝来】 1549年(天文18年)フランシスコ・ザビエルが来日、キリスト教を伝え、1569年(永禄12年)には、織田信長がルイス・フロイスの京都在住と伝道を認めた。 布教や交易のために、多くの人々とともに南蛮渡来の品々が入って来た。
 その後、徳川幕府の鎖国政策のため、この伝統が継承されなくなった。
 しかし、8代将軍徳川吉宗は1720年(享保5年)、キリスト教以外の書籍の輸入を許可した。 以来、蘭学が盛んになった。
オランダから輸入された書籍の挿絵図は銅版画であった。
明暗法や透視遠近法を用いた緻密な西洋画風の表現は、当時の人々を驚かせ、再び洋画の研究が始まった。
当時の画家には、平賀源内(1728~79年):日本初の洋風画「西洋婦人図」、小田野直武:おだのなおたけ(1750~80年):杉田玄白ら「解体新書」の挿絵画家、佐竹曙山:さたけしょざん(1748~85年)、司馬江漢:しばこうかん(1747~1818年)、亜欧田田善:あおうだでんぜん(1748~1822年)らがいる。
 幕府は19世紀中葉に、英、仏、独などの洋学を研究、教育する機関を創った。
名称は洋学所(1855年:安政2年)、蕃書調所:ばんしょしらべしょ(1857年:安政4年)、洋書調所(1862年:文久2年)、開成所(1863年:文久3年)【「開成所」は、幕府の教育機関の中でも最重要の位置を占めるに至った。そして、明治維新とともに新政府に移管され、「開成学校」として再編された。
「開成学校」は、現在の東京大学 法・理・文三学部に発展した。】などと変わったが、ここに洋画技法の研究機関があり、川上冬崖:かわかみとうがい(1827~81年)が指導者であった。高橋由一の本格的な洋画研究も、ここから始まった。油絵の始まりでもあった。

2.近代洋画の創始者:高橋由一と近代日本画の創始者:
狩野芳崖
高橋由一(1828~94年):【 代表作「鮭」「花魁」「豆腐」など 】と狩野芳崖(1828~88年):【 代表作「悲母観音」「仁王捉鬼:におうそっき」「大鷲図」など 】は、同年生まれの画家で、共に武士の家に生まれ育った彼らは、明治維新で身分を失う。
由一は、持ち前の文章力を生かして自己の窮状を訴える一方、維新前から学習した油絵の大作を博覧会やウィーン万博に出品し、活躍する。

*山岡鉄太郎(鉄舟)との交遊は、1874年(明治7年)由一(47歳)は、山岡鉄太郎(宮内少丞:39歳)の紹介で「海魚図」「田子浦冨嶽図」「興津海岸」を宮内省に献上、賞典を下賜(かし)される。

これに対し、芳崖の絵は全く売れず、生活は悲惨を極める。
二人の運命を逆転させたのは、1882年(明治15年)のフェノロサによる洋画排斥論で、予てよりフェノロサの知遇を得ていた由一は、この突然の「翻意」で、忽ち 元の不遇に陥る。
一方、フェノロサに認められた芳崖は、彼の助言の元、「大鷲図」のような力作を発表して西洋に通じる新しい「日本画」の創造に邁進する。         

2.アーネスト・F・フェノロサと岡倉天心
   【日本美術品の海外流失………江戸から明治】:
   (江戸期から始まっていた美術品の海外流失):
中国の混乱による磁器の輸出減少に伴い、日本の磁器、古伊万里、色鍋島、柿右衛門などがヨーロッパに輸出された。蒔絵も加わり輸出は増えていった。浮世絵が加わったのは、その後である。
 特に、ヨーロッパで日本文化を広めたひとりにオランダ商館の医師シーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト)がいる。彼は、精力的に日本の資料を集め、その資料の収集の中に日本の地図があったことからスパイ容疑を招き、1829年に強制退去させられた。【シーボルト事件:1828年(文政11年)】帰国したシーボルトは、1830年から自宅で収集したものを公開した。後に、これら収集品はレイデン国立博物館(オランダ:レイデン市)の基礎となった。このことが、ヨーロッパで日本文化を広めるきっかけとなった。

(明治の美術品流失……神仏分離により始まった廃仏毀釈)
1880年(明治13年)には、ジークフート・ピングが来日し、東京・神戸・横浜に支店を造り、収集した美術工芸品をパリに送った。彼のパリ:東洋美術工芸品店に【廃仏毀釈】による、ただ同然の仏像や仏具、絵巻物がどれだけ送られたかの記録はない。日本人が、自分の国の美術品に価値を見出さないのに、外国人が高い価値を見出し、警鐘を鳴らした。その1人が、大田区に縁の深いエドワード・シルヴェスター・モースである。彼は、「大森貝塚」の発見で知られているが、2度目の来日で、日本中から系統的に陶磁器を収集した4千点を超える収集品はボストン美術館の東洋美術の基礎となっている。
また、彼がアーネスト・フランシスコ・フェノロサを日本に呼び寄せたことは、大事な功績の一つである。
フェノロサは、来日した日本で【廃仏毀釈】が吹き荒れ、日本寺院が破壊されていることに大きな衝撃を受け、保護に立ち上がった。彼は、文部省に掛け合い、美術取調委員となった。
フェノロサと弟子の岡倉天心は、全国の社寺を回り、美術品の学術的な解明と保護に努めた。
この折、彼自身も自分への給料で、多くの美術品を買い求めた。
収集品は、2万点にも登る美術品はボストン美術館に寄贈された。
この時の金額は、28万ドルであったと言われる。
因みに、鹿鳴館の総工費は、この3分の2であった。
同様に、友人で医師のウィリアム・スタージス・ビゲローは、密教に興味を持ち、収集品は5万点にも登る。この日本と中国の美術品をボストン美術館に寄贈した。

(日本人による、積極的な美術品の輸出):  
林忠正は、フランスのパリ万博を機会に、フランスの印象派の画家たちに《浮世絵》を売った。彼の仲間の小林文七も、フェノロサ・ビゲロー・モース・フーリアに大量の美術品を売った。 アメリカに山中商会を開いた山中定次郎は、アメリカの大富豪や博物館に美術品を売った。彼らは、日本美術を世界に広めるという理想があったかも知れないが、あまりにも大量の《浮世絵》などが流失したため、日本には殆ど残らなかった。明治年間に、《浮世絵》の第一級品は、日本から姿を消したのである。
 勿論、《浮世絵》に価値を見出さなかった日本人に責任があるが、
しかし、仏像や仏具・絵巻物の類になると明治初期の【廃仏毀釈】
の影響が大きかったと言わざるを得ない。
古道具屋に、山と積まれていた仏具や寺宝は、日本人は誰も買わなかったのである。 
価値を見出さなかったのである。
 「日本人が売るのだから買うのだが、実に勿体無いことだ」と言うフェノロサたちの言葉を聞き、岡倉天心が日本美術の保護(国宝保存法)に乗り出すきっかけとなった。

ボストン美術館が購入した「吉備大臣入唐絵詞:きびだいじんにっとうえことば」(日本にあれば国宝)がきっかけとなり、1933年(昭和8年)法律が制定され、美術品の輸出が制限された。
やっと美術品の流失に歯止めがかかったが、既に 多くの美術品が流失した後だった。

1.「日本美術の恩人」:アーネスト・F・フェノロサ
(1853~1908年)
まず、「日本美術の恩人」:アーネスト・F・フェノロサの功績は、
1.西欧崇拝の風潮の中、「美術真説」(1882年:明治15年)などで日本美術の優秀性を鼓舞し、伝統美術(日本画)復興に大きく寄与した人。
2.寺宝物調査に参加し、岡倉天心とともに、法隆寺夢殿「救世観音:ぐぜかんのん、あるいは くせかんのん」を強引に開扉(1884年:明治17年)、世に紹介した人。 【現在、春と秋にこの「救世観音」が特別公開されるのは、フェノロサのお陰!】
3.高い鑑識眼で、古美術品を蒐集。 その日本画を中心とした体系的コレクションは、今 ボストン美術館にあり、自らも東洋部長を勤めた人。
しかしながら、フェノロサは、もともと美術研究家ではなかった。

アメリカの日本美術研究家。マサチューセッツ州セーラム(現ダンバース)出身。
1870年に、ハーバード大学に入学して哲学を学ぶ。4年後に首席で卒業。
その頃から絵画に興味を持ち始め、24歳でボストン美術館に新設された絵画学校に入学する。1878年(明治11年)25歳で来日。東京大学で哲学・経済学を教える。

当時の日本は、先進国の欧米に追いつくために、学者・技術者・軍人などの多くの欧米人を「お雇い外国人」として、高給で雇い入れた。              
ピーク時の1874年(明治7年)は、500人以上が招かれ、明治期全体では延べ3千人にものぼった。
しかし、1877年(明治10年)の西南戦争で財政難に陥り、次第にその数は減っていく。
因みに、フェノロサが来日する直前に、大久保利通が暗殺されている。

 フェノロサは来日後すぐに、仏像や浮世絵など様々な日本美術の美しさに心を奪われ、「日本では全国民が美的感覚を持ち、庭園の庵や置き物・日常用品、枝に止まる小鳥にも《美》を見出し、最下層の労働者さえ山水を愛(め)で花を摘む」と記した。
彼は、古美術品の収集や研究を始めると同時に、鑑定法を習得し、全国の古寺を旅した。
 やがて、彼はショックを受ける。日本人が日本美術を大切にしていないことに。

明治維新後の日本は、盲目的に西洋文明を崇拝し、日本人が考える《芸術》は海外の絵画や彫刻であり、日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受けていた。
東州斎写楽、葛飾北斎、喜多川歌麿の名画に、日本人は芸術的価値があると思っておらず、狩野派・土佐派と言ったかっての日本画壇の代表流派は世間からすっかり忘れ去られていた。

 特に、最悪だったのが仏像・仏画。
明治天皇や神道に《権威》を与えるために、仏教に関するものは政府の圧力によって、タダ同然で破棄された。また、全国の大寺院は寺領を没収されて、一気に経済的危機に陥り、生活のために寺宝を叩き売るほど追い詰められていた。
  【廃仏毀釈】(はいぶつきしゃく):
日本人の手で、日本文化を破壊した最悪の愚行。
1868年(慶応4年:明治元年)、明治維新の直後に神仏分離令(3月13日)が発布され、各地の寺院、仏像が次々と破壊された。(廃仏毀釈運動が起こる)
約8年間も弾圧が続き、全国に10万以上もあった寺院は半数が取り壊され、数え切れぬほどの貴重な文化財が失われた。

フェノロサは、寺院や仏像が破壊されていることに強い衝撃を受け、日本美術の保護に立ち上がった。自らの文化を低く評価する日本人に対し、如何に素晴しいかを事あるごとに熱弁した。

2.「日本美術界の巨人」:岡倉天心:本名 覚三
(1862~1913年)

近代日本を代表する文明批評家・美術史家で、1862年(文久2年)横浜:貿易商の家に生まれた。
幼少から英語を学び、東京大学入学後に、教師のフェノロサの通訳を務めるほど堪能だった。
卒業後、1880年(明治13年)18歳:文部省に勤務、フェノロサらとともに奈良・京都の古社寺を調査し、美術学校の設立に尽力するなど、明治政府の美術文化行政の確立に目覚
しい功績を上げ、1889年(明治22年)27歳の若さで帝国博物館(現在の東京国立博物館)理事兼美術部長となり、翌1890年(明治23年)28歳で東京美術学校(現在の東京藝術大学)の2代目校長となった。

 しかし、彼の指導方針に反発する派との対立から、1898年(明治31年)36歳:に帝国博物館、東京美術学校を相次いで排斥され辞職し、橋本雅邦・横山大観・下村観山らと日本美術院(「本邦美術の特性に基づき、その維持開発を図る」ことを目的として創設された民間団体)を創立し、野に下った。

 以後、岡倉天心は、1901年(明治34年)インドで詩人ラビンドラナート・タゴール(1913年、アジア人として初のノーベル文学賞を受賞。1861~1941年)の一族と親交を結び、インド独立運動の青年たちに影響を及ぼす一方、1910年(明治43年)アメリカのボストン美術館中国日本部長となる。

英文著書『東洋の理想』(The ideals of the East:1903年 ロンドンで刊行。 冒頭に掲げられた《Asia is one.》[アジアは一つである]の言葉は、天心の思想を語る上で欠かせない。) 『日本の覚醒』(The Awakening of Japan:1904年 ニューヨークで刊行) 『茶の本』(The Book of Tea:1906年 ニューヨークで刊行。)を出版するなど、国際的に活躍の場を広げた。


3.ボストン美術館
アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン市にある、世界有数の規模を持つ美術館である。

 ボストン美術館は、1870年(明治3年)地元の有志によって設立され、アメリカ独立百周年にあたる1876年(明治9年)に開館した。王室コレクションや大富豪のコレクションが下になった美術館とことなり、ゼロからのスタートし、民間の組織でして運営されてきたと言う点、ニューヨークのメトロポリタン美術館と類似している。所蔵品は50万点を数え、「古代」、「ヨーロッパ」、「アジア・オセアニア・アフリカ」、「アメリカ」、「現代」、「版画・素描・写真」、「染織・衣装」および「楽器」の8部門に分かれる。
エジプト美術、フランス印象派画家などが充実している。

 ボストン美術館は、仏画、絵巻、浮世絵、刀剣など日本美術の優品を多数所蔵し、日本との関係が深いことでも知られる。エドワード・シルヴェスター・モース、アーネスト・フェノロサ、ウィイリアム・スタージス・ビゲローなどの収集品が多く所蔵されている。
20世紀の始めには、岡倉天心が在職しており(1904年:ボストン美術館へ入り、1910年には東洋美術部長となった。)、敷地内には彼の名を冠した小さな日本庭園「天心園」が設けられている。
*なお、このボストン美術館所蔵の肉筆浮世絵展「江戸の誘惑」
が、既に《神戸展》4月15日(土)~5月28日(日)神戸
市立美術館、今現在は《名古屋展》として、6月17日(土)~8月27日(日)名古屋ボストン美術館、最後に10月21日(土)~12月10日(日)江戸東京博物館で開催され、かつ 開催中であり、予定されています。本展覧会は、明治時代にアメリカに渡って以来、一世紀ぶりの里帰りとなり、またとない機会です。 是非 ご高覧ください。

3.おわりに
フェノロサについて《貴重な日本美術を海外に流出させた》 と批判する意見がある。

 日本に残っていれば100%国宝指定を受けていた作品は、尾形光琳「松島図屏風」、雪舟「花鳥図屏風」、住吉慶恩「平治物語絵巻」、狩野永徳「龍虎図屏風」など。
しかし、どんな資格があって日本人が、彼を批判できるのか?流出させたのは日本人自身だ。
フェノロサは、日本人が気づかなかった《美》を日本画に見出し、価値が判るから購入したのであり、彼が集めた2万点の美術品は、ボストン美術館が大切に所蔵・展示している。

 日本人は、自らの手で仏像を破壊し、古寺を廃材にした。
寺宝や浮世絵が古美術商の店頭に並んでいても買わなかったし、誰も美術品と思わず欲しなかった。
そんな自分たちのことを棚に上げて、フェノロサを非難するなんてチョット酷過ぎる。
来日した医師ビゲローは書いている『維新後に、名品が大量に市場に出たのは、2つの原因による。 1つは、経済的に困窮した貴族層が値段の見境なく売りに出したこと、もう1つは、日本人の間に極端な外国崇拝があること。』
フェノロサも天心に呟く『日本人が売るから買い求めるのですが、本当に勿体無いことです。………』
フェノロサは、日本の美術や文化を単なる酔狂やポーズで好んでいたのではなく、本気で愛していた。
能楽を習い、茶室に滞在し、改宗して仏教徒にまでなった。日本美術への眼識の高さは、名匠さえ唸らせるものであり、日本美術界の未来まで考えて、東京美術学校のために奔走するなど、その愛情の注ぎ方は、極めて熱く誠実なものだった。そして、フェノロサは日本政府に美術品を収蔵する施設として帝国博物館の設立を訴え、西洋一辺倒の日本人に『日本美術の素晴しさに気づいて欲しい。』と心から願って活動・行動をした。その行動の核に、純粋さがあったからこそ、あの頑固者の芳崖でさえ、彼を受け入れた。岡倉天心との古寺調査は、国宝誕生のきっかけとなったし、海外に日本美術の魅力を紹介することで、日本の国際的地位をも高めてくれた。

だから、フェノロサは日本美術にとって、強いては日本国の恩人と断言できるのである!!

以 上

参考文献:
ミネルヴァ書房「狩野芳崖・高橋由一 ― 日本画も西洋画も帰する処は同一の処」より
NHKブックス「油絵を解剖する―修復から見た日本洋画史」より
新潮日本美術文庫「高橋由一」より
河出書房新社「日本美術の恩人」影の部分 ― フェノロサより
小学館「明治時代館」より
ぎょうせい「名画の秘密 ― 日本画を楽しむ」より
東京大学出版会「日本美術の歴史 ― 縄文からマンガ・アニメまで」より
集英社「日本近代の出発」(日本の歴史NO.17)より
フリー百科事典『ウィキペディア』より 
他文献多数


【事務局の感想】
矢澤さんに発表していただいたのは、ついこの間と思っておりましたが、ぬりえ美術館での発表でしたので、もう2年前のことでした。矢澤さんの美術好きは、お持ちの資料からもよく分かりますが、ずっと続けて絵を見続けていることが感じられます。その矢澤さんの関心のテーマを、私たちも継続して発表を聞くことで、内容を深めることができるので、大変ありがたいと思っています。今後も、次の時代の発表を期待しておりますので、よろしくお願いいたします。

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