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2008年08月31日

第五回 山岡鉄舟全国フォーラム開催のご案内

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第五回 鉄舟全国フォーラム2008を開催いたします。
今年は明治神宮にて開催いたします。

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■日 時 2008年11月29日(土)

■会 場 明治神宮
     http://www.meijijingu.or.jp/

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お申し込みはこちらをクリック

今回の全国フォーラムは2部構成にて開催いたします。

【フォーラムその1】
  明治神宮参拝 11:00〜11:30 神楽殿にて
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  ■集合 10:30 神楽殿に集合
   神楽殿にて参拝
   その後、各自で昼食をおとりください。

【フォーラムその2】
  全国フォーラム 13:00〜17:00 至誠館 弓道場会議室にて
  ■12:30      受付開始
  ■13:00〜     開会
  ■13:30〜15:00 佐藤一伯氏 講演
  (休憩)
  ■15:15〜16:45 山本紀久雄氏 講演
  ■17:00      閉会

 →詳しい地図や案内などをダウンロードしてご覧ください  
  パンフレット(オモテ)tessyuu_2008forum_01.pdf
   パンフレット(ウラ)tessyuu_2008forum_02.pdf

■講 師

●明治神宮権禰宜・佐藤一伯(さとう・かずのり)氏
forum08_satou.JPG講演タイトル
「明治天皇と山岡鉄舟」
明治天皇の実像については、なかなか一般的に知られておりません。今回は明治天皇について、明治神宮の神職の方より詳しくどのようなお人柄であったか、そして明治5年明治天皇の侍従となり、10年間明治天皇のお側にお仕えした山岡鉄舟との触れ合いなどについて、発表をしていただきます。

昭和44年(1969)、岩手県生まれ。
岩手大学人文社会科学部卒業。國學院大學大学院文学研究科修了。
現在、明治神宮権禰宜(ごんねぎ)。明治神宮国際神道文化研究所主任研究員。
國學院大學研究開発推進機構共同研究員。博士(神道学)。
※明治神宮国際神道文化研究所について
今年で創建88年、戦後復興50年を迎える明治神宮(東京都渋谷区)が神道文化の“発信力”強化に取り組むため「国際神道文化研究所」を設けた。研究員はロンドン大の博士号取得者や、元外務省職員など、国際色豊かな顔ぶれである。これまで「明治維新140年記念セミナー」を開くなど公開研究会の開催を始め、秋には神宮復興の歴史をたどる書籍を発行する予定。

●山岡鉄舟研究家・山本紀久雄氏
forum08_yamamoto.JPG講演タイトル
「鉄舟のブレない生き方に学ぶ」

1940年生まれ。中央大学商学部卒。
日仏合弁企業社長、資生堂事業部長を歴任。
現在、「有限会社 山本」代表取締役。
経営コンサルタント、山岡鉄舟研究家。
著書
『フランスを救った日本の牡蠣』(小学館スクエア・2003)
『笑う温泉・泣く温泉』(小学館スクエア・2004)
『ぬりえ文化』(金子マサ共著・小学館スクエア・2005)
『ぬりえの心理』(金子マサ共著・小学館スクエア・2006)
『ぬりえを旅する』(金子マサ共著・小学館スクエア・2007)
連載
『「命も、名も、金も要らぬ」山岡鉄舟』(月刊ベルダ)
『世界よりみち紀行』(月刊ベルダ・ペンネーム:南 石堂)

■参加費 【神楽殿参拝】初穂料 1,000円
     【フォーラム講演】参加費 3,000円

■懇親会
フォーラム終了後、「和民」代々木駅前店にて、懇親会を開催いたします。
参加費:3,000円~3,500円(食事・飲み放題付き)

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お申し込みはこちらをクリック

【お問い合わせ】
山岡鉄舟研究会 TEL:03−3892−5391(金子)
お申し込みについて TEL:03−6806−6510(田中)
または、メールにてお問い合わせください。info@tessyuu.jp

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投稿者 lefthand : 07:34 | コメント (0)

2008年08月29日

9月例会のご案内

開催日時:9月10日(水) 午後6:30〜8:00
開催場所:東京文化会館 中会議室1
※第2水曜日の開催になりますので、くれぐれもお間違えのないようにご注意ください。
発表1:「明治維新と西洋音楽(2)唱歌の誕生」高橋育郎
発表2:「鉄舟研究」山本紀久雄

皆さまのご参加をお待ちしております。
初めてのご参加も大歓迎です。

>>>参加お申し込みはコチラ!

投稿者 lefthand : 22:18 | コメント (2)

2008年08月28日

靖国神社にお礼に行ってきました

残暑厳しき折、いかがお過ごしでしょうか。

去る6月15日に開催しました「靖国神社正式参拝と遊就館見学〜周辺散策」のお礼をお伝えするため、靖国神社を訪問いたしました。

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代表の金子さんをはじめ、山本氏ほか5名で訪問し、三井権宮司にお礼を申し上げました。
そして、お礼として、ご参加された方に寄せていただいた「お礼と感想文集」を謹呈させていただきました。

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いつも大挙して押しかけ、無理なお願いばかりして申し訳ございません。
しかし、今後毎年一回、靖国神社にて参拝と例会を催させていただけることになりそうです。感謝です。

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雨が降ったりパッと晴れ間がのぞいたりと、とても気ままなお天気でしたが、訪問者全員、三井権宮司の寛大なお人柄に触れとても心地良い気持ちで神社を後にしました。

(田中達也・記)

投稿者 lefthand : 19:43 | コメント (0)

2008年08月24日

7月例会記録(1) 「明治維新と西洋音楽事始」その1

■高橋育郎氏
「明治維新と西洋音楽事始」その1  ペリー艦隊の軍楽隊がやって来た


 西洋音楽と改めて言いましたけど、要するにドレミの音階でできている音楽で、邦楽とは、聞いてのとおり全くちがうものです。
 いまでは日本中どこでも西洋音楽が、日常茶飯事に溢れています。しかし、明治の始めに西洋音楽を導入するに当たっては、大変な苦労がありました。特に唱歌の事始は想像を絶する命がけの取り組みがありました。
 信長の時代には、キリスト教の伝来にともなって、グレオリア聖歌(教会音楽)が入ってきましたが、間もなく禁止され、普及するまでにはいたらず、隠れキリシタンによりわずかに残された程度でした。

 年表をみながら話をすすめましょう。文久2年に生麦事件がありました。NHK大河ドラマ「篤姫」に久光が出ていますが、事件の話はこれから出てくるでしょう。
 久光の行列に英国人が、前を横切り「無礼者」と薩摩藩士に斬られたのです。これが薩英戦争に発展しました。ただあの頃は、艦上の大砲から放つ弾丸があまり遠くに飛ばなかったので、陸から顔が見えるほどの接近して停泊していました。
 艦上では、朝な夕なに軍楽隊がパレードを行い、兵士は歩調をとって行進し、太鼓に合わせて挙手の礼をしたり、一糸乱れぬ行動をしました。
 日本では足並みをそろえて行進する風習はありませんでした。またその音楽は精神を揺さぶる素晴らしいもので、薩摩の兵士や集まった群集は聞きほれてしまったそうです。
 そうしたことで維新後、薩摩の兵士がいちはやく軍楽伝習生となって、習ったそうです。習った場所は、横浜山手の妙香寺境内で、指導は英国歩兵軍楽隊長のフェントンでした。
 薩英戦争で薩摩は英国と仲良くし、森有礼が英国へ留学したり、薩摩にとってよい影響がもたらされたのですから面白いですね。
 軍楽は薩摩をはじめ各雄藩が競って、習い始めました。はじめは洋太鼓で、最も力を入れました。太鼓は信号です。信号とは、命令を伝える。行進や行動に使う。といった二つの役割を持ちました。「気をつけ、前にならえ、敬礼、前にすすめ、とまれ」といった一連の動作を太鼓によって規制したのです。太鼓用の楽譜もありました。
 このように太鼓を軍事用として用い、西洋音楽に近づいていったのです。

 1854(嘉永7)横浜村沖にペリー艦隊は停泊、日米和親条約交渉が大詰めになったときに、林大学頭ほか5名の幕府交渉委員をポータハン号に招いて午餐会を催しました。
 甲板では軍楽隊の演奏があり、そのあと「エチオピア人ミンストレル一座」のショーがあって、これを見た林大学頭ら一行は抱腹絶倒したそうです。同時代のフォスターの曲は盛んに歌われていた時で、「おおスザンナ」や「草競馬」は演奏されたでしょう。日本人が最初に聞いた西洋音楽でした。

明治4年、岩倉欧米使節団は、横浜を出発しました。オーケストラやオペラに接し見聞を広め、大きな収穫を持ち帰りました。

【事務局の感想】
西洋音楽の歴史は幕末から明治にかけて生まれてきたようです。日本人が規律良く並ぶことができなかったとは、驚きの事実でした。音楽の世界でも、西欧に追いつくために非常な努力をしていたことが、分かりました。9月の唱歌の流れについても楽しみです。

投稿者 staff : 11:47 | コメント (0)

2008年08月16日

7月例会記録(2) 「清河八郎と運」 1/2

■山本紀久雄氏

「清河八郎と運」 1/2

 当時我々の歩き方って今とは違ったんですね。ペリーは上陸したときピシリと並んでいるのに、日本人はバラバラと立っていたようです。 
我々は大きく変化して、変化するに当たっていろんな人が出てきました。日本人の中には日本人は辞めようと思った人もいました。18ヶ月の間11名も外国人が斬られ、最後の外人切りが、島津久光が江戸から帰る途中に起こった生麦事件です。犯人はいないといい薩摩藩に英国は怒り、薩摩と英国が戦争し、仲良くなりました。

鉄舟の勉強会が淑徳大学で行われています。鉄舟がなぜ凄いか?鉄舟自身がぶれない生き方をしているから、こうして集まって勉強しています。


アメリカの株が下がっています。アメリカは去年の7月までは絶好調な金融界だった。金子さんがぬりえ展でニューヨークに1ヶ月暮らしていましたが、その居酒屋で聞いた話では、あるウオール街で働く男性は、私のボーナス300万円だった、私の上司は1億円ボーナスをもらっているらしいと言っていたそうです。そのくらい景気が良かったのに、それから1年経ってみたら、3万人5万人が首になっています。粉飾決済で、取り付け騒ぎが起きています。アメリカの景気が悪くなったら、アメリカに頼ってきた国・企業は関係が悪くなるのです。アメリカと関係が深い日本も中国もブラジルも危険です。一瞬にして変わってしまうと不安感が出てきます。10ドルだった重油が140ドル・150ドルになっており、フランスの漁船も操業を停止して、国が補償しています。

幕末もそうです。ペリーが来たことによって日本はどうなるんだと不安になりました。人間の不安心理は時代が違っても同じです。その中でぶれない生き方の人間がいました。それが鉄舟でした。どうぶれないか、具体的に教えてほしいというが、それはだめです。簡単に教えると簡単に忘れてしまうからです。鉄舟は、どこに対しても対応できる戦略がありました。一介の旗本が敵の参謀長であった西郷隆盛を説得できるわけです。戦略無き人が行ってもお願いするだけで終わってしまいます。

篤姫は家茂の夫人となった和宮と一緒に徳川家を救おうとするわけです。篤姫が「私は徳川家の嫁になる」と、斉彬から言われたことを捨てて戦略転換しました。斉彬の養女で入ってきたが、親離れして成長します。それが複線となって江戸無血開城に貢献したというストーリーになるはずです。

鉄舟が単身駿府に行き西郷隆盛と決着をつけたと史実に基づいて話しています。篤姫と和宮はどういう貢献したのかがこれから出てきます。フィクションと史実としての事実をどう織り交ぜるかがシナリオライターの腕の見せ所です。
時代の感覚を認識、共鳴するような内容で構成しないと視聴率は上がりません。時代の底流を含めているから評判が良いわけです。利口な一人の少女が日本の中心の江戸城の女官のトップに立ったというサクセスストーリーを展開しており、歴史を今の時代に蘇らせることに成功しました。篤姫は家定が死んだ後、国家のために何をしたか、混乱の中で一方向を示すことを描くわけです。

鉄舟と仲間だった清河八郎の運について話します。清河八郎は最終的に暗殺されます。清河八郎は運も良いし、実力もありました。
自分の実力以上の運が来たとき、二つにわかれます。鍛えぬいた実力通りなら問題ないが、それを越えた運が来たときに本来の自分が出ます。本来持っているものが時代と合っていると、ますます運がついて良くなるが、合っていないと運が良いために、だめになってしまいます。実力以上の運は気をつけなければなりません。
歴史の、ある人物を蘇らせて現代の生き方を学んでいます。NHK大河ドラマもやっています。私たちも鉄舟を研究しながら蘇らせていきたいと思います。

1.鉄舟の書
清和会で講演することになったら、アメリカ人から何て書いてあるか読んでほしいと鉄舟の書が清和会に届きました。他の人の書はくずし字書を見れば何と書いてあるか読めますが、鉄舟先生の書は字書を見ても当てはめられません。鉄舟先生の字は宇宙で書いています。自分の気持ちで書いています。書を読むことに入ると品評会だけになってしまいます。田中さんから画期的なことを考えていると提案がありました。楽しみにしていてください。

2.清河八郎と関係するもの
① 草津温泉湯畑の石塔とベルツ博士と鉄舟の肝臓硬化症
草津温泉の湯畑に清河八郎の名前があったと教えてもらいました。
草津温泉ほど有名な成功している温泉街はありません。温泉業界どこも苦しいですが、草津温泉は元気です。毎年夏になると世界的な音楽祭が開催されます。周りがすばらしく整備されています。
お抱え外国人として明治5年に日本に来たドイツのベルツは東京大学の医学部の教授であった人です。日本の温泉はドイツの温泉学の影響を受けています。ベルツさんが日本を見て回って、草津・伊香保がドイツに一番近いのでドイツ風のサナトリウム的な温泉を作りたいと構想を温めていました。
30年ほど前にベルツさんの構想をみつけ資料を訪ねてドイツに渡って帰ってきた草津の温泉の中沢ヴィレッジの社長中沢さんがベルツさんの構想に近い温泉を作りました。古い温泉街が、おしゃれになりました。
中沢ヴィレッジに泊まったら、雨が降ろうが雪が降ろうが社長が毎日朝6時30分にフロントに立っており、一緒に山を散歩します。自分の住んでいる旅館の草花、池、鳥を社長が説明します。土地を愛するものが観光業の使命。お客さんは土地にあるものを求めてきます。住んでいるものがお客様に詳しく説明しないと、と続けた結果中沢ヴィレッジはお客がいっぱい来ています。これが戦略です。
鉄舟が病気になったときにベルツさんが肝臓硬化症という診断を下しています。鉄舟とも関わりがある人です。
草津温泉になぜ清河八郎が行ったのでしょうか。江戸で事件を起こし清川八郎を何とか捕まえたいと仕掛けた罠に掛かってしまいました。全国を回っているうちに草津の地で癒すかとしばらく逗留しました。草津に逗留した著名人のうち100人の一人として清河が紹介されています。

投稿者 staff : 16:32 | コメント (0)

7月例会記録(2) 「清河八郎と運」 2/2

■山本紀久雄氏

「清河八郎と運」 2/2

② 坂下門外の変
清河八郎は坂下門外の変でも有名です。桜田門外の変で井伊が殺されましたね。和親・通商条約を結んで開国してどんどん進めて反対する人を牢に放り込みました。あんなのがいたら日本は良くならないと井伊大老を殺しました。徳川幕府は打撃を受けるだろうと幕府は元気がなくなるだろうと井伊大老を殺したが全然そうなりませんでした。


井伊大老を継いだ安藤信正という老中が優秀でした。井伊大老は公武合体をしようとして、孝明天皇の妹・和宮さんを家茂将軍の妻にほしいと要求したが断られました。しかし安藤信正は公武合体をしたわけです。交渉に長けた優秀な人です。
今まで尊王攘夷では、幕府が開国、天皇が攘夷でしょう。それが結婚によって幕府と天皇が一緒になりうやむやになりました。結婚によって親戚同士にした結果、世間ははけ口の持っていきようがなくなりました。尊王攘夷の過激派集団は、孝明天皇に文句を言えませんし、徳川家には和宮がいます。一瞬にして何となくちょっと安定した、でも公武合体はおかしい、という社会風潮になりました。問題があるが、その突破口をつぶさない限り整理できません。マグマが下に収まったままの社会になりました。
安藤信正が優秀すぎるから、安藤を殺せば良いと起きたのが、坂下門外の変です。水戸浪士6名攻めてきても、桜田門外の変で警戒しているからその場で全員殺さました。しかし安藤は背中に傷を負いました。
当時英国から神戸や横浜を開港しろと言われていました。安藤は包帯しながら状況を説明して交渉しました。その様子を英国の公使が感激して、延期になりました。三田村鳶魚さんがこの安藤信正がやったことは今なら大勲章ものだと高く評価しました。
しかし、後ろ傷を負ったことは武士にあるまじきことと江戸城内では非難轟々で、安藤は老中を辞任しました。非難轟々を起こす元がありました。公武合体は和宮の拉致だ、孝明天皇が言うことを聞くだろうという策を弄したのではないかと言いふらす人が出てきました。孝明天皇が言うことを聞かないと廃帝させるという噂を流しました。それを仕掛けて広めたのが清河八郎で、九州遊説に回りました。
尊王攘夷の時代ではない、倒幕王政だ、天皇が直接政治を行う時代だと説きました。みんな乗ってきて京都に尊攘志士たちが300名集まりました。
塙保己一の息子塙次郎は廃帝について研究している理由で暗殺されました。なんと首相・伊藤博文が殺しました。

③ 伏見寺田屋事件
 文久2年に伏見の寺田屋に集まっていた薩摩藩の藩士が争った事件です。斉彬系統と久光系統の争いです。斉彬は毒殺されたと西郷隆盛は思っています。藩主の父親だったのでなだめていたのが大久保です。
久光は、幕府は改革すれば良いと千名の兵士を連れて上京しました。そのときに清河八郎は、久光が倒幕王政をするために千名の兵士を連れてくるという檄文を書いて日本中を配りました。これがまた名文でした。清河が書き、話すことは日本中に知れ渡るほどの実力者でした。各地の尊王攘夷の志あるものは、時が来たと続々と京都に集まりました。
長州藩も反幕ですから薩摩が動くならと藩を上げて動きました。浪士(清河)・薩摩藩・長州藩の3ブロックありました。久光が上京し、大阪の屋敷に入って、他藩の藩士・浪士と付き合ってはいけない、問題を起こしてはいけないと発言しました。久光は保守派ですから、当初から誤解だったとわかりました。倒幕王政だと思わせたのが清河です。すごい策士です。
久光にその気がないから俺たちだけでやろうと寺田屋に集結しました。久光はそれを知って、説得しても行動するなら上意討ちとなりました。寺田屋に居る者と親しくて剣の強い男を9名選びました。それで戦いが起きました。7名が死んで2名が負傷しました。浪士は捕まって薩摩屋敷に連れて行かれました。
首謀者の清河八郎は寺田屋に居ませんでした。

④ 京都の田中河内介
・田中は但馬出石の医師の第二子であったが、京都に遊学している間に、権大納言中山忠能に召し抱えられ、中山家の家臣である田中近江介の家を継ぎ、諸大夫となった。

・諸大夫とは、公卿に次ぐ家柄で、朝廷から親王・摂関・大臣家などの家司、つまり、事務を司る職位で、四位・五位の官人である。
   
・伏見寺田屋事件で、田中は薩摩行きの船の上で、薩摩藩によって殺害され、死体は海中に遺棄され、後日、小豆島に流れ着いた。

・後日談であるが、田中は権大納言中山忠能に仕えた諸大夫であり、明治天皇の生母は忠能の娘中山慶子であったため、田中は幼少時の祐宮のお守役をつとめたことから、天皇は田中のことを記憶にあり「河内介爺はどうしただろうか」と案じていたので、側近が「田中はしかじかのことで、薩摩藩によって殺されました。その際の当局者は内務卿大久保利通でございます」と言上したが、大久保は下を向いたままだったという。
 
⑤ 清河八郎の運
どうして清河が居なかったかについては9月に話します。

家内が2週間インドに行ったので戦略を持って行動しようと思い、2週間朝昼晩は自分で作って食べるという方針を作りました。毎日スーパーに行って2週間でどのくらいの食材を買うのかを調査しました。3年くらい料理教室に行っているからレパートリーがあるわけです。
料理教室で昼間からビール13種類出てきました。料理が終わると食べながらビールが出てきます。赤字ではないかと聞くとメーカーから提供されているということでした。料理教室はマルエツが経営しています。マルエツという魚屋出身のスーパーがあり、V字回復しました。イオンの傘下だが、マルエツだけが回復しています。当初はイオンとダイエーから社長が来ていたが、高橋さんという魚屋出身の人を社長にしたら、生鮮食品中心のスーパーになって過去最高利益です。メーカーもマルエツなら協力しようと協賛してくれます。時代がマルエツの業績になって、料理教室の業績になっています。

日本中毎朝宴会しているのもありますね、カラスです。街中にカラスがいるのは日本だけです。どうして日本だけカラスが異常に多いのですか?ごみの出し方に問題があるからです。スーパーからのレジ袋で出しているからです。中国もドイツもスーパーのレジ袋を出しません。ドイツはゴミボックスがあります。そういう仕組みを作ればカラスは餌がないから街にこなくなります。

佐々木譲さんが、榎本武揚が今から130年前に今の温暖化を予測して、極東の氷が解けることを予想して航路を作れと言っていたと新聞に書いていました。最短距離でヨーロッパに行けると予測していた、と本に書いています。時代を見抜いているのは榎本だと新聞の夕刊に載っていました。

鉄舟も今の時代と結びつけなきゃ、蘇らせられません。何が今の時代から学べるかのか、そういう勉強をこれからもしていきたいと思います。
以上

【事務局の感想】
 ひさびさにNHK大河ドラマ「篤姫」を見ています。8月10日(日)は、今回話しにでました桜田門外の変がどのように描かれるのか、オリンピックの放送はそっちのけでテレビを見てしまいました。視聴率は、26.4%で、フジテレビが生中継していた柔道の内柴選手の金メダル獲得を上回ったそうです。
 俳優がいいのか、脚本がいいのか8月10日の井伊大老と篤姫をお茶のお手前を通じての二人のやり取りに味わいがありましたが、大きなテーマの場面を見たいと高い視聴率となったものと思われます。
 歴史の捉え方もいろいろ考えられるわけですが、まさに鉄舟研究は、そのような意味で歴史を考え、今と結びつける、時代感覚を取り入れるということを続けています。
 ますます山本鉄舟研究は筆が冴え渡っていきます。

投稿者 staff : 16:20 | コメント (0)

2008年08月07日

鉄太郎の結婚その二

鉄太郎の結婚その二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

安政二年(1855)に小野鉄太郎(鉄舟)20歳と、山岡英子16歳は結婚し、鉄太郎は山岡家の信吉の養子となり、口が利けない信吉に代わって山岡家を継いだ。いよいよ山岡鉄舟となったわけである。

当初、鉄太郎は山岡家に婿入りする気持ちは全く無かったが、槍術の師山岡静山の突然の逝去という事態になり、家督相続者として、静山の妹英子が、鉄太郎を懇望し情熱を示したことによって結婚したのであった。

後日、これを証明する言葉として、弟子の小倉鉄樹に次のように語っている。
「おれも若い時、今の家内に惚れられて、おれでなくちゃならぬというから、そんなら行こうと山岡へ行ったんだ」(俺の師匠 島津書房)

ここで素直に考えて疑問が残る。

結果として、鉄舟は山岡家を家督相続したが、師である山岡静山との厚い信頼関係、それは一年に満たない僅かな期間であったが、静山は武術というものを単なる技量とせず、人間陶冶の道と考え修行していたから、鉄舟から見て静山という人物は理想像であり、静山から鉄舟を見れば自分の分身とも見える関係として、お互い理解が通じ合っていた。

そのような関係であったから、山岡家の関係者と隣家の高橋泥舟家でも、鉄舟が最適な家督相続者として認識していた。これは当然であろう。

ところが、鉄舟の方では、英子と結婚する気が全然見られなかったのである。どうして鉄舟はその気がなかったのであろうか。

勿論、山岡家や泥舟から鉄舟に家督相続の話を持ち込めば、鉄舟の性格からして結婚を直ちに決心承知したであろう。事実その通りになったわけであるが、何故に自ら家督相続に対して最初に意思を表明しなかったのであろうか。つまり、鉄舟は最も尊敬し、敬愛した師、静山の後継者に誰がなるかということ、そのような重大事項に関心を持ちえていなかったのである。不思議ではないか。

その理由として、考えられることはいくつかある。

まず一つは年齢である。鉄舟は20歳、英子の16歳は当時の女性が結婚する適齢期であるが、男性の20歳はまだ若い。

江戸時代の平均結婚年齢をいろいろ調べてみると、男性は20歳前半、女性は10代半ばといわれている。井原西鶴「好色一代女」(貞享三年 1686)に、娘盛りを15歳から18歳とあることからも、女性は10代半ばあたりが適齢期と考えられる。

一方、男性はどうか。町人の例を見ると比較的遅く、町人としての職が自立できるのが20代の半ば過ぎで、その頃が結婚適齢期であった。これは食べることが出来なければ結婚できないということからも頷ける。だが、大店の奉公人として暖簾分けしてもらえる立場の場合は、40歳近くにならないと結婚を許されなかった。それだけ、暖簾分けするには厳しい奉公期間が必要であったのだろう。余談だが、性の面は遊郭や岡場所が多く、独身男性はそちらに行っていたようである。

武士の結婚適齢期はハッキリしない。家督相続なども様々なケースがあり一概に言えず、平均としての年齢は分からない。

だが、20歳の鉄舟は、結婚することは考えていなかったであろう。

何故なら、当時の鉄舟にはすべきことが多々あった。

まず、第一は剣の修行である。剣の道で自らの才能を発揮したいと玄武館道場で一直線修行にはいり、ボロ鉄から鬼鉄とまで言われるようになり、若くして翌年幕府が開設する予定の講武所に、世話役として推薦されるほどの実力者となっていたから、結婚という考えは持ち得なかったであろう。

もう一つは色道修行である。「嘉永六年六月四日(1853)の朝、鉄太郎は内藤新宿の女郎屋で目を醒ました」と南條範夫の小説「山岡鉄舟」(文春文庫)にあるように、ペリー提督が浦賀に来航した日にも色道修行をしていたほどであった。

この時期の鉄舟、高山から一緒に江戸へ戻った弟たちを、すべて持参金付で養子に出し、一人身の自由を謳歌していた上に、六百石の旗本の子息であるから、小遣いには不自由なかった。恵まれた環境下で剣と色道修行に励んでいたのである。

だがしかし、このような理由もあったが、英子との結婚が胸中になかった、その最も大きく重要な理由は、剣への志にあった。

師の山岡静山は、槍術の名人である。そこに弟子入りした鉄舟は、当然、槍の稽古に励んだが、その槍と剣とで苦しみもがくことになった。

本来、人は自分のことを知らない。ソクラテスの「汝自身を知れ」の通りである。自分とは何かを解明することが生きる上で最大の課題であり、鉄舟も同様であった。

鉄舟が剣の道に入ったのは九歳の時。久須美閑適斎に心影流を学び、後に井上清虎から北辰一刀流、続いて玄武館道場、その間、ずっと殆ど狂気のような修行で頭角を現し、周りに敵うものがいなくなり、驕慢な態度が表れてきた頃、山岡静山と出会い、立合いし、木っ端微塵に打ち砕かれ、自分より遥かに強い剣客がいることを再認識した結果、静山に弟子入りしたのであった。

それまで、剣一筋に歩んで、剣の道で奥義を極めれば、相手が何で来ようと、立派に対応できると思っていたが、槍の静山に完膚無き負けを喫し、今までの決心がぐらつき、このまま剣の道でいくか、それとも槍も併せて学ぶのか。どちらに自分は向うことが適切なのか。人生の岐路に立っていた。

それも、身近に静山という、自分が目指すべき理想像に接し得たために、師のような人物になるのか、それとも師とは異なる方向性に行くべきなのか、返って迷い、それに、子どもの頃から負けず嫌いで、一度思いこんだら徹底的になるという鉄舟の性格であったため、鉄舟はこの時期、相当悩み、考え込んだ。
その時、静山からも、隣家泥舟の義父にあたる高橋義左衛門からも、次のように言われたと、子母澤寛は小説「逃げ水」(嶋中文庫)で、鉄舟に語らせている。

「おれはな、御隠居(高橋義左衛門)にも紀一郎(山岡静山)どのにもいわれたのだ。お前はずいぶん稽古するが槍よりは先ず剣をやれ、槍はやっても免許から奥にはすすめんとな。はっはっ、その通りだ、その言葉をおれがこの頃井上先生(井上清虎)から血嘔吐を出す程にひっぱたかれてな、やっと解りかけて来ているんだ。凡そ武芸は技ではねえ、だから稽古だけではどうすることも出来ねえものがあるんだ。おれは今になってはじめて剣を遣うが面白くなってきた」

 この鉄舟の語りは、自分の中に内在する無意識分野イメージ、それを自我意識分野に取り込んだことを示していると思う。静山という稀有の槍の名人に出会うことによって、槍への限界能力を悟らされ、鉄舟はもともと潜在的に剣に志向していたのだと、改めて確認し目覚めさせてくれたのである。

したがって、槍については静山の弟泥舟もいるし、静山の弟子達もいるのであるから、自分が山岡家を継ぐという意識を持ち得なかったのである。鉄舟の立場からは当然であった。

しかし、結果として鉄舟は山岡家に入った。それは英子の情熱からであったが、そのことに併せ、生前の静山が鉄舟を評していた言葉を、改めて知ったことも深く影響した。

それは、山岡家の家督相続者に困った泥舟が、酒井家に養子にいった鉄舟の実弟金五郎を通じ、実は、金五郎は泥舟に槍の稽古受けている関係で、次のように鉄舟に伝えたのであった。

「静山は生前よく、“世間に青年はたくさんいるが、技が達者なものは勇気に欠け、気性の勝ったものは技がまずい。そういう中で小野鉄太郎(鉄舟)は世間で<鬼鉄>といわれている通り剛毅なうえに、精神の寛やかなことは菩薩の再来ともいえるほどだ。彼は将来必ず天下に名を成すものになるだろう。実に頼もしい青年だ”といって嘱望していた。しかし、山岡家と小野家とでは身分格式の差がありすぎるので、養子に来てくれともいえぬしなぁ・・・・」(山岡鉄舟 大森曹玄著 春秋社)

これを聞いた鉄舟は、心から尊敬する静山が、自分をそれほどまでに信頼していてくれたのかと感激し、加えて、英子の気持ちも知り、自ら進んで山岡家の家督相続者になったのであった。

これについて、勝海舟は次のように鉄舟の人柄を評している。

「自分の家の方が高禄で、山岡家とはとても話にならんほど格式が上で、おまけに小野家の相続者である鉄舟が高橋(泥舟)の心中を察し、思い静山に至り、名利を忘れ、決然起って山岡家相続に出かけた」と心情を語った上で「以上の話で、どのくらい鉄舟が馬鹿正直か、いかに潔白かが彷彿としてお前の心中に浮かぶであろう」(山岡鉄舟 大森曹玄著 春秋社)

また、その頃飛騨高山の書の師匠である岩佐一亭に宛てて「小生事も様々、今年相応の養子口出来、身分も先々堅り候」と手紙を出している。(山岡鉄舟 小島英煕 日本経済新聞社)

ここで改めて鉄舟の業績を振り返ってみたい。

それは、まず「江戸無血開城」である。駿府で官軍総参謀西郷隆盛を説得し得たことによって、明治維新は大混乱なくスタートできたのである。

では、鉄舟が駿府掛けしたのは誰の指示か。勿論、15代将軍徳川慶喜である。しかし、鉄舟は身分低き一介の旗本、慶喜が上野の寛永寺に蟄居しているとはいえ、お目通りできる身分でない。だが、慶喜の護衛役として寛永寺につめていた泥舟の推薦によって、鉄舟は慶喜から直接指示を受け、世に出たのである。

仮に、鉄舟が静山と泥舟の妹英子と結婚していなければ、泥舟の推薦があったか疑わしい。英子と結婚したことよって、泥舟は鉄舟をより身近で見聞き接し、その人物を熟知していた。だからこそ、泥舟は敢えて鉄舟を投入したのである。

というのも、この時、幕府の対官軍交渉は手詰っていた。静寛院宮(14代家茂夫人)、天璋院(13代家定夫人)、輪王寺宮公現法親王による打開工作も通ぜず、官軍先鋒は品川まで迫っていた。
最後の奇策としての鉄舟投入であり、鉄舟はその重大な意味を理解し、十分承知していた。鉄舟が失敗すれば、江戸城総攻撃となり、江戸市中は戦火の坩堝となる。

今までの交渉者に比し、あまりにも身分・格が低き鉄舟であったが、ただ持ち得ている剣修行で鍛えぬいた身体から発する鉄舟の「決死の覚悟」のみが、この危機を救う手段であると泥舟が判断し、海舟も納得し、西郷説得という一大事を鉄舟に掛けたのであった。結果は見事に成功し、江戸無血開城となり、明治の世へ道が開いたのであった。

考えてみると恐ろしい。人とは「才能と努力と運」で決まる。鉄舟が英子から思慕されなければ山岡家に入れず、泥舟の推薦を受けることにならなかった。いくら鉄舟が剣の才能と、剣の修行を続けていても、剣客として世に名を残したではあろうが、英子と結婚していなかったならば西郷説得という場面には登場しなかった。

つまり、鉄舟を江戸無血開城という、時代を画する一大出来事に遭遇させた要因を遡って考えてみれば、英子と結婚して山岡鉄舟になったことであるといえよう。

六百石の旗本身分から、極貧の生活に陥ったことが、鉄舟に「運」を与えたのである。

人はいくら才能があっても、運にめぐり合えなければ才能を発揮できない。

また、人はどのように努力しても、努力が報われるような運に出会えなければ、その人の努力は水泡に帰する。

つまり、人は運が最も大事で、その運は計算して出会えるものでなく、それらを超えたレベルから授かるものである。

そのことを鉄舟の結婚が教えてくれ、その鉄舟に巡ってきた運が江戸無血開城につながったのである。

次回は、講武所世話役としての新婚家庭の状況をお伝えしたい。

投稿者 Master : 16:22 | コメント (1)

2008年08月05日

山本紀久雄氏講演のご報告

8月5日(火)、清話会主催のセミナーで、山本紀久雄氏による
山岡鉄舟に学ぶ「激動期のブレない生き方」
と題した講演が行われました。
その様子をご報告いたします。
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当日は雷が鳴り豪雨も降る不安定なお天気でしたが、70名近くの熱心な清話会・会員さんがお集まりになられました。

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清話会・お世話役の佐々木さんの司会で始まりました。

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いささか緊張気味の山本氏。
いつもの鉄舟研究会とは勝手が違います。

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ビデオカメラ2台に録音機にデジカメが山本氏の一挙手一投足を捉えます。
手が抜けません。

軽い緊張感とともに始まった講演。
今回の講演は、いわゆる「山岡鉄舟初心者」の方々への入門コースのような側面もあったかと思います。
お話は鉄舟が生きた時代背景の語りから始まり、次第に一介の身分低き旗本の鉄舟がなにゆえに歴史の檜舞台に登場したかが語られていきます。

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途中から雨が激しくなり、雷鳴も轟く中、山本氏の話も次第に熱を帯びてきます。
いつもの「山本節」が響き渡りました。

なぜ、山岡鉄舟を学ぶのか。
山岡鉄舟は私たちに何を教えてくれるのか。

『鉄舟は、自らの人生に戦略を持ち、戦術を持って行動した人物である。
 その「ブレない」生き方は我々に大いなる示唆を与えてくれる。』

このことを、あらためて感じることのできた講演でした。


満場の拍手の中、大団円。
雨もいつの間にかやんでいました。
山本さん、お疲れさまでした。ありがとうございました。

(田中達也・記)

投稿者 lefthand : 22:59 | コメント (0)