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2012年09月23日

10月例会 鉄舟・泥舟・静山所縁のお江戸史跡巡り

「山岡鉄舟研究会」 10月例会
鉄舟・泥舟・静山所縁のお江戸史跡巡り

1.見どころ     

今回は、小野鉄太郎(後の山岡鉄舟)が、裕福なる少年時代を過ごした飛騨高山から、一転 貧乏旗本として、約20年間(嘉永5年:1852年 ~ 明治5年:1872年)江戸:小石川で暮らした所縁の地を訪ね、当時の江戸の面影を探る機会になればと企画しました。

その歴史的背景や混迷の時代を生きた幕末の鉄舟・泥舟・静山、そして 清河八郎などを偲びたいと思います。 見どころ多く、お楽しみになれます。

2.開 催 日    平成24年10月27日(土)13:30~16:30

3.集合場所    東京メトロ丸ノ内線「茗荷谷駅」改札口 13:30
  
4.会  費    1,500円

5.コ ― ス    
今般、距離的には約4.5kmですが、坂の多い処だけに足元の準備をしっかりとお願いします。

【播磨坂】 桜並木 ⇒ 【小石川鷹匠町】 高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡 ⇒ 極楽水 ⇒ 宗慶寺 【吹上坂】⇒ 【小石川金杉水道町】 小野鉄太郎旧居跡 ⇒手塚良仙旧居跡 【三百坂】 ⇒ 浪士隊結成の地「処静院の跡」 ⇒ 傳通院(処静院跡の石柱、清河八郎の墓:貞女阿蓮の墓、祥道琳瑞和上の墓など) ⇒【善光寺坂】 幸田露伴宅跡・沢蔵司稲荷 ⇒【白山通り~蓮華寺坂】 ⇒ 【小石川指ヶ谷町】
蓮華寺(山岡鉄舟建立山岡家累代の墓:静山):此処で、一応 解散しますが、最寄りの駅は都営
三田線「白山」駅(A1出口)まで約3分です。

*** 皆様、お疲れ様でした ***


♠ ♠ ♠ 此処からは、希望者のみでの懇親会 ♠ ♠ ♠

6.懇 親 会     17:00~19:00予定

(「史跡巡り」により、開始時間早まる可能性もあり。)

居楽屋 個室空間「千年の宴」白山駅前店
         都営三田線「白山」駅 A1番出口 徒歩1分
         TEL:03-5684-1988
         会費:4,000円(宴会コース)

(会場にて、徴収させていただきます。)

7.お申込み・お問合せ
  
 下記の参加申込書にご記入の上、FAXにて送信してください。

 担当:矢澤昌敏  携帯:090-6021-1519
             TEL&FAX:0480-58-5732
             E-mail:m_yaza10@eos.ocn.ne.jp ないし
             info@tessyuu.jp

                                                        以 上

投稿者 Master : 08:57 | コメント (0)

2012年9月開催結果

2012年9月開催結果

① 矢澤昌敏氏   

10月27日開催例会の「鉄舟・泥舟・静山所縁のお江戸史跡巡り」を、ご案内いただきました。今まで知らなかった史跡を含め、楽しみな内容になっております。これにつきましては別途ご案内しておりますので、ご出席をご予定される方はFAX連絡にてお願いいたします。

② 木下雄次郎氏
   
寛政の改革・松平定信書の掛け軸二軸ご持参願い、解説していただきました。一軸は「老中就任時のもの」、もう一軸は「失脚時に詠んだもの」。木下氏は掛け軸と向かい合う場合、この書は「我々に何を伝えようとしているのか」という問いから発し、その背景を推考し、当時の歴史事実を追及することで、掛軸とコミュニケーションをとることが、大事で必要な要件であると、鋭く、分かりやすく、納得感のある解説を展開され、その内容に大変感服いたしました。

11月例会時にも、新たな掛け軸をご持参いただき、同様の解説をいただきますので、ご期待願います。

 ③ 山本紀久雄

明治天皇の心の深化に鉄舟が如何に影響を与えたのかについて、以下の項目について解説し、併せて「七月大歌舞伎に鉄舟が登場」と「最近の政治状況から推察できること」について少々補足説明いたしました。

  1.韓国は「国書・親書を返す国」
  2.征韓論で西郷隆盛下野
  3.岩倉使節団欧米視察で岩倉、大久保、木戸の国造り構想が異なった
  4.留守を預かった西郷政権が明治天皇に与えた影響
  5.西郷と鉄舟の天皇に対する対応の違い

投稿者 Master : 08:53 | コメント (1)

鉄舟県知事就任・・・其の三

鉄舟県知事就任・・・其の三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

明治四年(1871)十一月、鉄舟は大久保利通の指示をうけ茨城県に参事(県知事)として任じられた。理由は茨城県が難治県という事にあったが、茨城県に続いて伊万里県権令(佐賀県知事)にも赴いたが、ここも難治県対策としてであった。

今は難治県といってもピンとこなく、当時の実態状況を整理しないと難治県という意味が分からないだろう。

まず、明治二十五年(1892)刊行の一書によれば、難治県とは「新潟、富山、茨城、愛知、山梨、秋田、石川、鳥取、島根、高知、福島、佐賀、熊本」の十三県となっており、茨城県は第三位、佐賀県は第十二位にランクされている。(「茨城県政と歴代知事」森田美比著)

宮武外骨(明治〜昭和期のジャーナリスト)は、明治八年(1875)の朝野(ちょうや)新聞(明治七年~明治二十六年まで東京で発行された民権の政論新聞)の記事から推測して、難治県とは不平士族の多い県であり、県庁の役人が手こずる県であり、また、中央政府(大蔵省、内務省)にたてつく県をいう。

そして、七難県とは、佐賀、鹿児島、高知、山口、石川に加えて愛媛、酒田を指していったものと思うと(「府藩県制史」昭和十六年)、佐賀県をトップに位置付けている。

この明治における両年資料を比較すると、八年では鹿児島、愛媛、酒田が難治県として認識されていたが二十五年では抜け、新たに新潟、富山、茨城、山梨、秋田、鳥取、島根、福島、熊本が加わり、この中に茨城があって、鉄舟が大久保の指示でわざわざ出向いたのであるから、廃藩置県当時で既に相当難しい県と考えられていたことは間違いないであろう。

その証明ともなるのが、茨城県発行(昭和四十九年)の「茨城県史料・近代政治社会編Ⅰ」である。茨城県自体が以下のように認識している。

「明治初年の茨城は、政府-県当局側にとっても、また民衆の眼からみても激動と波瀾がたえずくりかえされていたのである。

こういうのはほかでもない。茨城地域は、日本全体が維新変革の渦中にまきこまれたその一環として位置づけられるだけでなくして、旧水戸藩を中心とする十数の小藩、数多くの天領、旗本領が幕藩制の倒壊と明治維新政権の誕生ドラマに一役演じていたからである。とりわけ幕末の元治甲子の乱( 元治元年に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊王攘夷派によって起こされた一連の争乱)にみられる天狗、諸生の党争は、ひときわ鋭い爪跡を維新後にももちこむこととなった。

すなわち周知のように、明治維新政権が成立し、水戸藩主徳川慶(よし)篤(あつ)*も慶応四年(1868)のはじめには新政府に協力する姿勢をとっていた。しかし藩内で勢力の強い家老市川三左衛門派は、水戸城を占拠し、その後会津藩の佐幕軍と手を結んで政府軍に抵抗し、さらに水戸に舞い戻り水戸城を襲って『弘道館の戦い』(明治一年十月一日水戸城三の丸内にあった水戸藩藩校・弘道館における保守派の諸生党と改革派の天狗党の戦い)をひきおこし、新しい時代の夜明けのなかで、水戸藩内の党争は激しさをくわえていたのである。明治初年の政府派、佐幕派に分れての対立抗争や動揺、混乱は、結城とか下館などの諸藩にもみられた。

この党争は廃藩置県後にも尾をひき、対立は旧士族の間だけではなく、荒廃せる村々の内部や民衆の意識の底にも暗い重い影を投げかけていた。

彰孝館蔵(江戸時代に水戸藩が大日本史を編纂するために置いた修史局)『雨谷直見聞集』によると、このころは五派に分れ『五千ノ貫属(かんぞく)(水戸藩に属する者)一人此派ヲ遁ルヽ者ナシ市人村民ニ至ル迄亦其類ヲ媛(ひ)ク』というありさまであった。

当時の世相にかんして明治五年(1872)十一月の『茨城県および隣県状況探偵報告書』はひとつの手がかりをあたえてくれる。報告書は、その内容をみればあきらかなように、下総、上総の民情と常陸(現在の茨城県北東部)のそれを差別して、常陸の民衆は党派をかため、頑固で、猜疑心が強く、時代の変化に思いをはせる態度に欠けていると、論じている。

明治政府にとってみれば、茨城県は反政府的な空気が強いだけに目の上の瘤の存在であった事情も想像できる。茨城の『近代化』への歩みは、明治政府との関係からみて、まことに多難であった。
『自分たちの国を他国者に支配』させないというその水戸気質と、反政府的な動きこそは、幕末、維新以来の旧水戸藩内の抗争の重い遺産としてもちこまれてきていた。その遺産がまた茨城の地域にとってみれば、明治政府から継子扱いを受けざるをえなかったひとつの原因ともなっていたのである」

これらの記述は茨城県発行の史料であるから、述べられている中味は重い。さらに次のようにも書き綴られている。

「県域にはさらに多くの問題がもちあがっていた。たとえば徴兵制の免疫条項をたてにとっての徴兵忌避の傾向とか、小学校維持経費の負担の重みなどの理由で児童の就学率は男子が53パーセント、女子はなんと15パーセントにすぎなかったことは、その証左の一例であろう」

「茨城地域のなかで、明治初年に農業人口は全人口の90パーセントをうわまわり、生産物のなかでも農産物の比重は圧倒的に高かった。米穀、雑穀などの自給性の強い作物の比重が高く、商品性にとんだ原料作物はひじょうに弱い。しかも水稲の反当収量は、全国平均とくらべても、20パーセント以上も低く、農業生産力は、45府県中39位でもっとも低いほうにぞくしていた」

「茨城県内には政府から手厚い保護を受けた企業もほとんどみあたらず、この地は工業、軍事的にも重要でない地域としてとりあつかわれてきた。事実、茨城県は国是遂行のための幹線鉄道計画の対象から長期間はずされていたありさまである」

「難治県は権力の作用によってその度合いを強められ、さらに後進性を付加されていく。しかも統治のうえから作為的に後進県として扱われていけばいくほど、民衆は、『荒っぽい気質』の茨城県人の根性を表出していくのである。民衆は、大多数を構成する無気力な層や無言の抵抗者をふくめて、国の政治方針に単純に同化したり、追随していくはずがない。なかには落後者も輩出する」

これらの記述、自県をあまりにも客観的に冷静に分析しているので、これが県庁の発刊した史料とは思えない気もするが、明治新政府に水戸藩から登用されるような人材がほとんどいなかったという悲惨な実態から考えると事実であろう。

では、どうしてこのように指摘される問題県になってしまったのか。それは幕末時点の藩主の政治力に起因していることは間違いないと思う。

元々水戸藩は、家康の第十一子頼房から始まる徳川御三家という天下に由緒正しき名門であり、水戸黄門として著名な頼房の子光圀が大日本史の編纂に着手し、やがてその先に水戸学の発祥につながり、幕末時に朝廷から一般民衆まで熱く強く唱道された尊王攘夷論の発祥地である。

尊王攘夷とは、米使ペリーが、艦隊を率いて浦賀に来航した嘉永六年(1853)から、明治維新(1868)までの十五年間吹き荒れた思想だが、この始まりは、水戸烈公(斉昭)の弘道館記にある「王を尊び、夷を攘(はら)*ひ、允(まこと)*に武に、允に文に」の一句からであったように、尊王攘夷論大本山は水戸藩であり、当時の藩主は徳川斉昭(烈公)であった。

文政十二年(1829)八代藩主斎(なり)脩(のぶ)が逝去、その跡継ぎとして斎脩の弟の敬三郎が斉昭として九代目藩主となった。だが、斉昭が藩主になるに当たっては、すんなりと収まったわけでなく藩内で激しい跡継ぎ抗争があり、それがその後の水戸藩の混乱を助長させた最大要因となったが、斉昭を支えた人物の会沢正志斎、藤田幽谷とその子藤田東湖などが、いずれも攘夷論者として優秀な鋭い論客であって、その影響を受けた斉昭は強固な攘夷論を唱導する人物となり、攘夷論者から巨頭として仰がれる存在なっていた。

ところが、斉昭が六十一歳で急死。この死には水戸浪士による井伊直弼大老桜田門外の変の報復暗殺だという説もあるが、斉昭亡き後藩内が混乱を極めてきた。

それは、次の藩主慶篤、これは斉昭の子であったが、全ての判断に主体性がなく、家来からちょっと強く主張されると「それがよかろう」と答えるので、「よかろうさま」と陰口を叩かれるほどであったので、異論溢れる藩内を統一できるはずがなく、混乱に混乱を重ねて「茨城県史料」が指摘する状態になったわけである。

つまり、藩主の性格に基づく政治力の問題から茨城県は苦境に陥ったのである。

では、伊万里県はどのような状況だったのだろうか。

伊万里県は茨城県とはまったく違って、幕末時に名君鍋島直(なお)正(まさ)(閑叟(かんそう))*が登場し、明治維新立役者藩の薩長土肥という一角を占めた実力藩であり、上野の彰義隊を一気に打ち破ったアームストロング砲を製造・保有していたように、当時最も軍事改革が進んだ開明的な藩であったが、ここも茨城県とは異なる理由で難治県であった。

まず、佐賀県の特徴を佐賀県政史(昭和54年佐賀県発行)から拾ってみたい。

「県内の山野には樟(くす)が多い。昔は一層繁茂していたようで、『肥前風土記』には樟の巨樹説話があり、佐賀の地名は樟が栄えていたので名付けられたとしてある」

「佐賀平野は自然条件に恵まれ、有明海沿岸では古来不断の干拓による耕地の拡張が行われてきた。幕末、佐賀藩は均田制と称される農地改革を行い、土地所有・農業経営が合理化され、大正末年から灌漑が機械化され、いわゆる『佐賀段階』(飛躍的に農業が発展した段階)といわれる高反収の農業を確立した」

「幕藩体制が確立し、鎖国による危機感のない平和な時代を迎え、藩内のモラルが低下すると、佐賀藩士山本常朝は『葉隠』を著して、藩士の心を引きしめた。この内容は佐賀人の精神文化面に大きな影響を与えた。

幕末の名君鍋島直正は、外国船が日本沿岸をたびたび来航する中で、いち早く国防の必要性を建策、佐賀藩の独力で築地と上多布施の二か所に反射炉をつくり、鉄製大砲を鋳造した。これは日本における最初のものである。ここでつくられた大砲は品川台場、長崎台場などに備えられた。幕末の佐賀藩は日本最大の兵器廠であった。

一方、玄界灘沿岸は最も大陸に接近しているので、古来彼我の交流密接であった。『魏志倭人伝』にみえる『末蘆(まつろ)』は東西松浦郡付近とみられる。古代に銅鏡や銅剣などがいち早く輸入されたごとく、近世、中世より製陶技術が伝来して、唐津焼や有田焼の郷土産業を興す嚆矢となった」

この県政史で分かるように、佐賀県は恵まれた自然・風土にあり、そこに名君鍋島直正が登場したのであるから、幕末時の佐賀藩は全国でも有数の豊かな藩となっていた。

しかし、直正の父第九代藩主斉(なり)直(なお)の時代は財政が厳しく、藩の負債額は膨大になっていて、天保元年(1830)に直正が第十代藩主となって、江戸屋敷から国元に向かおうとした時、借金の取り立てに押しかけた商人たちのために、藩邸から出ることができず、一日延ばしたという。

これ以来、直正は倹約統治を進めた。粗衣粗食、役所の経費切りつめ、参勤交代人数と経費の減少、江戸藩邸維持費の減額を行い、続いて藩の役人人数を三分の一整理し、全ての家臣に対して知行地・切(きり)米(まい)(俸禄米)の支給をやめ、藩政を担当している「勤役(つとめやく)」の場合、千石以上の者には知行(切米)の20%を支給、役職をもたない「休息(きゅうそく)」の者には15%の相続米(生活費としての実費)を渡すことにした。

また、人事の刷新と共に行政機構の改革を進めたが、最も効果が大きかったのは「利留(りどめ)永(えい)年賦(ねんぶ)」「打(うち)切(きり)」という手段をとった事である。これは利子を払わず何十年もの年賦返済であり、一部返済し残りは踏み倒ししたりした。

その一例としては、長崎商人たちへの返済は、ほんの一部を支払うだけで、後は七十年年賦とか百年年賦というもの。大坂の豪商三井は借銀の四分の三を献金させられた。

加えて、見逃せないのは「加地子(かじし)猶予(ゆうよ)」であろう。これは藩に納めるべき年貢(地子)を確保させるために、小作人が地主に納める「加地子米」を猶予させる事であった。これは地主の立場を否定するものであって、あくまで年貢を完納させることが目的であった。

さらに、防風林・木材・薪としての榛(はん)の木の移植、綿花の栽培、甘蔗の栽培による砂糖製造、平戸からの鯨の締(しめ)(占)買(がい)(買占め)、石炭採掘などにも熱心に取り組み、藩主直正は大坂商人たちから「算盤大名」とまで呼ばれるほどであった。

加えて、教育面も重視し、医学館の建設と藩校の弘道館を拡充させ、軍事面では幕府が安政二年(1855)に設立した長崎海軍伝習所、これは海軍士官養成のためで、オランダ軍人を教師に、蘭学(蘭方医学)や航海術などの諸科学を学ばせるためのものだが、ここの伝習生百三十名のうち、幕府からは四十名だったが、佐賀藩からは四十八名を派遣させ、オランダ人との交流にも積極的だった。

したがって、幕末時の雄藩であったから佐賀県には難治県の要素がないように考えられる。だが、既にみたように明治八年、二十五年の両方資料で佐賀県は難治県として認識されている。そこには茨城県とは異なる理由が存在したが、これについては次号以下で述べたい。

さて、この両県に鉄舟が県知事として赴任したのであるが、鉄舟は必ず戦略を明確にしてから行動する人物である。戦略が明確だからこそ判断が適切・妥当となる。ここが鉄舟の最大の魅力であり、今の政治家の多くが持ち得ていない要素である。

一介の下級旗本で、一度も政治的立場に立ったことがない鉄舟が、実質官軍総司令官である西郷隆盛との外交交渉に駿府に向かうよう、徳川慶喜から直接命を受ける異例の事態となり、当時の首相の任にあった軍事総裁としての勝海舟と練り上げた戦略は「徳川慶喜の生命確保」であり、他の和平条件はすべて受け入れる事で、江戸無血開城に結び付け、日本の新時代を切り拓いたのである。いかに時流に的確な戦略が大事だという証明である。

水戸や伊万里に赴くにあたっても同様、それぞれの状況に合致した戦略を明確にし、行動した結果が、茨城県ではたったの二十数日という短期在任、伊万里県でも一か月程度で東京に戻るという背景にあった。では、その戦略とは何か、これも次号に譲りたい。

投稿者 Master : 08:41 | コメント (0)