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2007年04月27日
4月例会記録(2)
■山本紀久雄氏
山岡静山との出会い・・・その三
二見さんは大変な方なので、何も申し上げることない。今いただいたアンマのパンフレットの後ろから2頁目にアンマが教育について書いている「教育には2種類あります。生きるための教育と、生きることの教育です」心を打ちますね。
この鉄舟研究会は生きることの勉強会ですね。山岡鉄舟を勉強することは生きることの道を学ぶということ。二見さんの今のお話と通じる。
二見さんが合気道や武士道を普及していますが、日本人はあちこちに行き普及活動をしている。フランスの女子柔道の柔道人口は日本より多い。人口は日本の半分なのに。柔道が強い天理教がヨーロッパ各地に柔道教育の拠点を作った。それがフランスの女子柔道を強くした。宗教の話ではなく、地域に広めた結果今のフランスの女子柔道がある。
1.静山に完敗し弟子入り。
静山については、中村正直(敬宇)さんが『静山伝』を書いている。司馬遼太郎が『竜馬がゆく』を書いたが、どれも種本がある。静山についての本は、どれも中村さんが書いた短い小文を元にしている。中村さんは天保に生まれ、明治23年に亡くなっている。鉄舟が明治21年に亡くなっていますから、ほぼ鉄舟と同じ時代を生きた方。この方は昌平坂で佐藤一斎から儒学を学んで、幕末にイギリスに留学し、江戸幕府が終わったあと日本に帰り明治新政府の大蔵省に仕え、東大教授、元老院の議員・貴族院議員を歴任した。サミュエル・スマイルズの『自助論』、J.S.ミルの『自由之理』を翻訳しベストセラーになった。彼が『静山伝』を書いたので、静山のことを知ることができる。
鉄舟が玄武館に行って、めきめきと腕を上げ、鉄舟に敵う人がいなくなると、鉄舟は鼻が高くなっていた。そこで井上清虎が鉄舟を静山先生のところに連れて行った。静山先生は門弟と立ち合わせた。
ここまでは書いていないが、いろんなことから想像している。あるときは自分が静山に、あるときは鉄舟にならないと書けない。槍と剣の立ち合いについては困ったことに槍を持ってどう動くか想像しないと書けない。
小さいとき、貸本屋が家の前にあった。子どものとき、その貸本屋入り浸って読んだ本は伝記本。真田、荒木又衛門、猿飛佐助、塚原卜伝、など昔の有名人を読んだ。武将の伝記物には戦いの場面が出てくるので、これを思い出して書いた。
槍と刀だったら、槍のほうが長いわけですから、木刀持ってきても、物量でいうなら負ける。勝つなら、槍で突かれたら払うしかない。払って、もう一度槍を突っ込む間に木刀や竹刀で相手を打つしかない、と想像した。
鉄舟は突きが得意なので、先方の門弟は負けた。鉄舟は「どうだ!強いだろう」という態度に出たのだと思う。
先月「面影」という話をした。人はみな、人の顔をみて第一印象を受けるが、行動で人を見る。考えは顔に出ていない。行動はかくれた影(シャドウ)の部分。考え方をしっかりしないと表に出てくる。
鉄舟は当然、まいった!といわせたわけですが、静山や清虎は一流の人間なので鉄舟の考えを見抜く。清虎が静山に「お願いします」と目で合図した。静山は「お見事!では私がお相手しましょう」という。鉄舟は喜ぶ。
槍は真剣では倒れるから、先にタンポ(綿)をつけてある。
静山と対した鉄舟は攻め込もう、打ち込もうと思っても一歩も足が出ない。静山は5尺7寸(170センチ)、6尺2寸(185センチ)、体格はぜんぜん違う。しかし鉄舟から比べたら小さい静山の体が大きな岩のようになって、攻めてくる。じりじりと羽目板に追い詰められる。そのとき静山は穂先で誘い水をした。誘い水とわかっているが、後ろは羽目板だから誘い水に乗って打ち込むしかない。静山に掛かった瞬間空転して道場に倒れた。20貫(108キロ)の体重を生かして、静山に体当たりでぶつかろうと思った瞬間、また突かれて気を失わんばかり倒れた。鉄舟は「参りました!」となったわけです。
今、想像の話をしています。
静山はどうやって腕を磨いたか。22歳で幕府が新しく作った講武所の槍の師範になる。弟は山岡泥舟で「槍一本で伊勢守」といわれ、朝廷から従5位の位を貰った人。この2人は祖父から槍を学んだ。
山岡家と高橋家は並んで建っていた。今度、文京区にある居宅跡に行ってみる。
静山のお母さんのお父さん(高橋家)が二人の兄弟に槍を教えてくれた。
刀心流、刃心流、中村先生は、刃心流は菅原道真が起こしたと言われている。
ややこしいが、この時鉄太郎は小野家だった。この静山と泥舟の山岡兄弟は、下駄は歯が二つあるが、歯が一つだけの下駄を履かせられた。下駄の歯が36センチ(1尺2寸)という不安定な下駄を履かせて、義左衛門おじいさんは45センチメートル(1尺5寸)の扇型の槍みたいなものをもって、掛かってこい!といい、2人は交代に掛かって行き、倒れるまで払われ続ける。目が飛んで、吐くくらい、ふらふらになるまでやった。
その後、静山は9キロ(15斤)の槍を持って、1日1000回槍をつく。それを30日間連続する。道場ができたら、昼間に門弟に稽古をつけたあと、午前2時になると起きて、荒縄で腹を縛って、真冬だったら氷を割って、水を何杯も体に掛けて3000~5000回槍の稽古をした。
そういうことをした結果、山岡静山は、日本でも無双の槍の名人として名が立ち、幕府に認められて、お城にお勤めに上がった。山岡家は貧乏だがお勤めしたから給料を貰って生活をした。
3000~5000回は本当か?中村正直先生の『静山伝』にあるから、どの本でも引用している。事実の検証をしたいと思った。けど検証のしようがない。
横綱大鵬に会った。現在は相撲博物館館長をしており、双葉山、若乃花、大鵬、と昭和を代表する3大名横綱のお一人で、歴代優勝47回。
しかし彼は、世間では私のことを天才という、昔から体が大きく、運動神経がすばらしく、力も強かったから順調に横綱になったのでしょう、と言われる。ライバルの柏戸は天才だった。柏戸は山形県の農家のぼんぼん育ちで体格が良く、相撲勘が良かった。大鵬は学校を出て営林署で勤務して、17歳で体が大きいからと入門した。お父さんはロシア人で、お母さんはロシア人と結婚したから北海道の実家にも帰れず苦労した。相撲界に居ればご飯が食べられるから居た。
親方から、大鵬は中々好いと、エリート教育のしごきがはじまった。瀧見山が専門コーチになって、稽古では、土俵で捕まえては投げつけられる。気を失うと塩を口に入れられる。何度も繰り返しているうちに塩が鼻に入り蓄膿症になり、手術したという。へとへとになったあと、毎日四股を500回。四股は、足を上げるので全身運動。土に向かって、自分の足を下ろすのは、土は神、神と接する意味があるという。
四股が終わったら、鉄砲といって柱に向かってつく練習を2000回。毎日しごきを受けたあと、500回の四股と2000回の鉄砲、それからご飯になるが、食事は胃には入らない。食べられないと胃を麻痺させるため、日本酒を飲まされる。その後どんぶり飯を食べさせられる。
山岡静山が1日3000回槍をついたという話と、大鵬の四股500回と鉄砲2000回、はどうなのか?今の力士はそんな練習をやっている人は誰もおらず、野球選手と一緒にトレーニングしている人もいるという。相撲の筋肉は押す力で、押す力をつけるためのトレーニングが鉄砲。大鵬が経験した練習は今誰もやっていない。昭和に入って大鵬が一番やったといってよいのではないか。大鵬と静山の練習は、どっちが凄いと思いますか?事実としたら静山の方が凄いですね。
しかし、これは回数の問題ではなく、何かのときに熱中した期間が必要ということ。ひとつのことに夢中になった時期が人生になければ、次の人生は転換ができない。
鉄舟は、春風館道場の誓願 「一死を掛けて稽古す」は師匠の静山からヒントを得ていると思います。大鵬がそれほどの稽古をして大横綱になり、それを上回る稽古をしたのが静山。泥舟は静山の弟だが、10メートル離れた米俵を上げたという。二見さんのお話の人知を超えたものがあると思う。
2.坂本竜馬が海舟に弟子入りしたとの違い。
鉄舟は上には上が居ると静山に弟子入りさせてもらったが、それから六ヶ月くらいで静山はなくなった。
龍馬は勝海舟に弟子入りした。弟子入りするいきさつがその人を表す。龍馬は勝海舟を殺そうとして、元氷川町の家にいった。殺そうと思ったら勝海舟が地球儀を広げて、日本はここだ、小さい、イギリスも小さい、しかしイギリスは世界を征服している。日本国を世界に持っていかなくてはならないと、とうとうと説いた。弟子にしてください!と竜馬は勝海舟の弟子になった。龍馬は智の人だったから大政奉還などができた。
3.鉄舟は天性の素質があった。
鉄舟は剣に対する素質があった。遡ると、伊藤一刀斎の高弟小野次郎右衛門忠明、小野一刀流の開祖は神子上典膳、この小野一刀流から剣を学んでいる。
その流れが鉄太郎まで来ている。父・朝右衛門も好きだったから、陣立てをやって、幕府から疑われて自刃したいきさつもあるくらい武術の人、お母さんの磯さんは塚原家、塚原卜伝の家系。両親ともに剣の家系だから剣のセンスがあった。
素質を伸ばすことが大事。学校は生きるための教育をしてくれる。生きることの勉強は、嫌いなことを一生懸命にしてもだめ、好きなこと、得意なこと、自分の中の才能を見つけるために生きる。
4.静山は槍術の師、何故に槍術を受け継がなかったのか。
鉄舟は槍の師匠である静山に心服し、静山に弟子入りした。静山は槍を教える。なぜ山岡家に落ち着いたのに、鉄舟はなぜ槍ではなく剣なのか? 鉄舟は自分ということを知った。槍より剣のほうがやりやすい、と思った。
日ごろの自分観察も大事で、槍も研究したけれど、静山からも剣の方が宜しいのではないかとアドバイスもあったと思う。
自分が何に向いているか、自分で自分を客観的に見て、向いていることを自分で見つけないといけない。しゃべっている私を見ている私がいるから考えながらしゃべれる。見つめているもう一人の自分がいる。この関係を持つことは、子どもの教育も、夫婦喧嘩も同じこと。これがコントロール。
鉄舟もやっている自分を見つめる自分が居るので、自分をコントロールできる。頭で理解していても自分で体験して身に着けておかないとできない。
人前で話すと緊張してしまうが、緊張しない自分を持つ。コントロールできる自分を持つことも大事。ひとつのことを10年間続ければ物になる、目先にいろいろ出てくるのは無駄道なので、自分に合ったものを見つけて10年間やればプロになれる。
1日3000回の素振りはできないが、自分の修行のリズムを作り上げてきているので、体に無理なく楽しんで、できる。この中に自分の道筋があって続けることが宜しいのではないか。
5.鉄舟は六尺を超え、二十八貫を超す巨躯、鍛えぬいた筋肉質の体。
鉄舟は108キロ180数センチあった。剣で鍛えた。裸になったら筋肉が凄い。
6.当時の一般武士の体と大衆層の体比較・・・逝きし世の面影「渡辺京二」
当時武士はどのような体をしていたか、客観的事実が羅列してある『逝きし世の面影』(渡辺京三著)に書いてある。
日本に来た外国人がほとんどの人が共通して言っているのが、上流階級の体格が貧弱であるが、肉体労働者の体は、なんと、ギリシャ彫刻のような素晴らしい肉体美をしている。たくましい男性美を黄金時代のギリシャ彫刻を理解しようとするなら、夏に日本を旅行する者があると言っている。
なんて調和の取れたからだの線をしているのかと、日本人の体を絶賛している。
上層と下層とでは、著しく肉体上の違いがあり、上流階級の男性は痩せて病弱だが、下層階級は背が高く筋肉が発達しており強壮で、衣服と体つき美しさの点で上流階級をしのいでいる。しかし、注意しておきたいのは、この意外な記述が見られるのは、幕末から明治初期に限られる。それ以後はだめで、欧米人は、男の容貌や肉体について醜いと述べている。
7.鉄舟研究は長年の疑問について解明してくれる。犬の散歩と鼻をかむ。
犬を飼っているが、言うことを聞かない。
フランスに行くと、犬はホテルのフロントでもエレベータでもレストランでも主人にコントロールされておとなしく座っている。
日本では人間が犬の歩く方向に歩く。その原因は訓練が悪いという人もいる。日本の犬は一般的にはお犬様、わがまま放題に育っている。
日本は江戸時代がからそうだった。欧米人が日本に来て驚いたのは、そこらじゅう犬だらけ。邪魔だからと犬に石を投げても犬は逃げない。石を投げられたことがないのではないか?
日本人は、日本人の中に昔から伝わる「草・木・国土、ことごとく皆仏」という考えがある。
宣教師ブラウンは、文久3年薩英戦争の頃、新約聖書が訳されて日本人に教えに来た。
“人間は神の最高の目的たる被造物だ”人間が一番偉い、という文章に出会った日本人は、地上の木や動物より人間が優れているとは何たることだ!と驚いた。ねずみ、ねこ、へび、ムカデ、牛、豚、も共に住むもの同士。肉食しなかったのもそういうことある。
ヨーロッパは犬を調教し、自分の支配下に置いてコントロールさせるが、日本は、犬と私はお友達という考え。
ますます犬も猫も調教はしません。
フランス人と会議していると男女ともにハンカチを出して大きな音で鼻をかむ。
紙の量が江戸時代は豊かだったので、日用品として安かった。ヨーロッパは紙が貴重品だから、ハンカチで鼻をかむ。
鉄舟を研究して、何十年と疑問が解明した。そういう効果もある。
【事務局の感想】
現場での確認、現場からの報告を旨とされている山本さんの鉄舟研究ですが、今回は大鵬さんとのお話から、鉄舟の修行の凄さ、本物度合いと確実のものとしてくださいました。
そして疑問に感じられたことをずっと考え続けることもされていますが、4月の話では、欧米人のハンカチで鼻をかむということの理由が解明されたことが発表されました。
毎回我々にとっては驚きの連続ですが、それにより、楽しく興味深く鉄舟を知ることができます。これからも新しい発見を楽しみにしています。
以上
投稿者 staff : 2007年04月27日 13:10