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2005年05月11日

「現代に生きる武士道 2」

二見さん発表4月(3)
●台湾総督府に
農商務大臣と台湾総督府民政部長官の後藤新平から台湾に是非来て欲しいと招聘がきており三度目にようやくその求めに応じた。この任務に就く前に一年間の猶予を求めた。欧州の植民地、特に熱帯地方のものに関する調査のため欧州を巡回した。
●一九〇二年二月 稲造は、台湾総督府技師に任命された。そのころの台湾は、明治二八年(一八九五)四月に日本の領土になったばかりであった。しかし最初三年間はうまく統治ができないでてこずっていた。台湾統治へ補助金はうまく機能しなかった。新たに一八九八年二月赴任した児玉源太郎新総督は、副官である後藤新平への権限を大幅に増やした。児玉、後藤のコンビ三年で行政上の問題が解決し、後は経済開発が残されていた。そこに殖産課長となった稲造が就任し精糖産業を再興して、その効果が出て数年の間に生産高が三倍になり、その為、日本は砂糖を輸入しないですむようになった。
●「武士道」の影響
武士道がアメリカで出版された一〇ヶ月後、日本で明治三四年(一九〇一)一〇月 出版。「武士道」は、日本版、アメリカ版、イギリス版だけでなく、印度の言語、ドイツ語、イタリア語、ポーランド語、ノルウェー語、スペイン語などにも翻訳された。
● 明治三八年(一九〇五)四月一二日 メアリー夫人とともに明治天皇に招かれて皇居を訪れ、天皇に「武士道」を献上した。時に稲造四三才。 
           

● 明治三九年(一九〇六)七代目の第一高等学校長、
教え子  矢内原忠雄 南原繁 森戸辰男 河合栄治郎 後藤隆之介 
明治四十二年(一九〇九) 東京帝国大学教授にも任命される。
明治四十四年(一九一一)カーネギー平和基金による日米交換教授として稲造は招待状が届き、明治四四年九月一日に横浜を出航し、翌大正一年九月に帰国した。
「われ太平洋の橋になりたい」と述べた。
大正七年(一九一八) 五六才 東京女子大学初代学長となる。
● 大正九年(一九二〇) 五八才 正式に国際連盟事務局次長となる。
ジュネーブへ移る。
功績が大きいもの   知的協力委員会の仕事
委員として12人 物理学のキュリー夫人  アインシュタイン教授
「日本の恥となるようなことはするな」  モットー
連盟設立まもない頃 あるパーティで ジュネーブで最も人気のある人物を
1、2、3と 順番に三人上げたうち全員が 新渡戸稲造を上げた。
昭和一年(一九二六) 六四才 国際連盟事務局次長辞任。貴族院議員となる。
昭和四年(一九二九) 稲造は太平洋問題調査会(IPR)理事長に推挙される。
昭和八年(一九三三) 七一才 カナダでの弟五回太平洋会議に出席のため出発。一〇月一六日 ビクトリア市で膵臓園と肺炎で逝去。
バンクーバーの教会で告別式が行われた。

新渡戸稲造は、死後 勲一等瑞宝章が贈られ、天皇は勅使を派遣された。
青山斎場で行われた葬儀には、約三千人が出席された。
新渡戸稲造は生涯を通して道徳主義を貫いた
モットーは 「最も身近にある義務を果たせ」

●事務局の感想
新渡戸稲造の名は武士道と共に有名ですが、今回の発表を聞いて新渡戸稲造の活躍を知りました。彼のような人でも、日本にいたら武士道を書くことはなかもしれません。外国に住んで、外国の人から問われたことが、書くキッカケになったように思います。次回は、核心の新渡戸稲造の武士道になりますので、ますます楽しみです。

投稿者 Master : 2005年05月11日 00:02

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