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2007年09月29日
9月例会記録(1) 1/2
■田中 達也氏
「変体仮名を読む その2 鉄舟の書をもとに」
変体仮名について、なぜこの場でしゃべるというかと申しますと、学生のときに古典、特に近世文学について勉強していたからです。その時の薄れ行く知識を引っ張り出して、皆さんにお話できればと思います。
まずは、昨年2006年4月にも同じタイトルでお話しているのですが、そのときの内容をおさらいさせていただきます。
1.変体仮名とは 〜おさらい
変体仮名とは、ひらがなの一種です。現在使っているひらがなは、あ・い・う・え・お・・・という、いわゆる50音です。ひとつの「あ」という音に対してひとつの文字「あ」がセットになっている、これが私たちの習っているひらがなです。
ひらがなの成り立ちというのは、最初から現在のような1音=1字の50音だったわけではありません。
中国から漢字が輸入されて、それに日本語の音を無理矢理つけて使っていたのですが、それが次第に簡略化されてひらがなが生まれました。
ひらがなが生まれる過程で、現在の「あ」という仮名は、「安」という字を字母として作られました。しかし、元々「あ」という音を表現する文字は、今は「安→あ」と決まっているのですが、昔は仮名のもととなる「字母」が何種類か存在していたのです。「安」「阿」・・・など。これをこんにち、「変体仮名」と呼んでいます。
変体仮名は、約300文字くらいあります。昔の人はこれを使ってひらがなを表記していました。漢字が「変体仮名」に固まったのが西暦1000年前後ですので、今から1,000年くらい前になります。変体仮名はそれから約900年間使われてきました。
現在使っている「ひらがな」は、明治33年(1900年)、小学校令という法令により、整理統一され、1音=1字に決められました。
ちなみに、明治33年といいますと、鉄舟は亡くなっています。明治21年に亡くなっておられますので、私たちが現在使っているこの50音を知ることはなかったのです。鉄舟は変体仮名を使って文字を書いていたのです。
私たちが使っているひらがなは1900年制定ですので、まだ100年くらいの歴史しかありません。現在使っている50音のひらがなのほうが歴史は浅いのです。
以上が変体仮名の歴史です。
その変体仮名で古典は書かれておりますので、それを読み解くことが中世から近世にかけての書物の原本にあたるときの基本的な知識になります。
変体仮名に触れていただくために資料を用意いたしました。
2.変体仮名を読む
ウォーミングアップ代わりに簡単な変体仮名を読み解いていただこうと思います。「脳トレ」にもなりますよ。
<図1>
<図2>
『麻疹能毒養生弁』(はしかのうどくようじょうべん)
この資料は江戸の瓦版で、麻疹が流行したときに配られたものです。出版年の記述があります。「文久二年七月」に配られたものです。
ちなみに、文久二年(1862年)という年は、鉄舟27歳で、浪士隊の取締役になり、浪士を連れて京から江戸に移動したり、清河八郎とおつきあいしていた頃です。その頃麻疹が流行って、この瓦版が出たのです。
早速読んでいきたいと思います<図2>。
麻疹や能毒の良いものと、悪いものが番付してあります。大関・関脇・小結・前頭・・・というように並んでいます。ちなみに、当時は「横綱」という位はありませんでした。大関が最高位でした。
<図2>を右から呼んでみましょう。
■大関=くろまめ
■関脇=あづき
最初の文字が「あ」、最後の文字が「き」とわかります。「あずき」と想像することができますが、真ん中の文字は「ず」ではなく、字母が「徒」の「づ」です。
■小結=やへな(奈)り
緑豆だそうです。
■前頭=やきふ
■前頭=くわゐ
字母「王」の「わ」です。よく出てくるので覚えておかれると便利です。
■前頭=はすの根
「者」を字母とする「は」、「す」は「春」が字母です。
■前頭=にんじん
「じ」は「志」に濁点の「じ」、「いんげん豆」の「げ」は「介」に濁点です。■前頭=ながいも
■=つくいも
「あづき」と同じく、「徒」を字母とする「つ」です。
9月例会記録(1) 2/2
それでは、いよいよ鉄舟の書を読むことに挑戦したいと思います。
鉄舟さんの書のうち、掛け軸や襖などは漢文体で書かれたものが多いのですが、これらはみな漢字を崩したものです(草書体)。これらは私の専門外(書道の領域)ですので、ここでは仮名で書かれている書を取り上げます。
<図3>
■一行目=行先に我が家
■二行目=ありけり
■三行目以降=か(可)たつむり(梨)
<図4>
■一行目=馬車ならて 我乗物(わがのりもの)
ならて=ならで。「で」は打ち消しの接続助詞。ならないという意。
「乗物」の「物」は、瓦版の資料<図2>「食してよろしき物の方」の「物」と同じ崩し方です。ですから「物」はこのように崩す規則であることが分かります。
■二行目=は(者)火の(能)車 か(可)け取る
掛取り=借金取り
■三行目=鬼のたゆる間も
たゆ=絶ゆ=絶える
「間」=門構えや冠をこのように崩すパターンが多いです。鉄舟の落款「山岡」の「岡」をどこかで見ていただければ分かりますが、これが鉄舟の門構えや冠の略し方のパターンです。
■四行目=な(奈)し
(意訳)
「馬車ではなく、私の乗り物は火の車です。借金取り(鬼)の絶える間がありません」
鉄舟が、自身の貧乏話を句にしています。
ここで、鉄舟の貧乏のエピソードを、『鉄舟居士乃真面目』(全生庵発行)に収録されているものからご紹介します。
『居士(こじ)壮年時代は極めて貧乏であったが、なかんづく元治元年の大晦日には、わずか八両の支払いができぬため、晩方より掛け取り一同が台所口へ詰め寄せて、代わる代わる催促する。時に居士、台所にて大あぐらかいて、晩酌のご機嫌斜めからぬ折からであったので、
「さけのめば なにか心の 春めきて 借金とりは 鶯の声」
と高声に口吟して一向平気でいられる。彼らは苛立っていよいよ厳しく催促する。居士また、
「払うべき 金はなけれど はらいたき こころばかりに 越ゆる此暮」
とうなりつつ。やがて脇差の巾着の内より二朱と二百文を取り出し、彼らに示して、「こは余の軍用金なれば、片時も手放しがたし」と言われた。彼ら一同この体を見て大笑して去ったと。』
元治元年の大晦日の話です。
元治元年(1864年)は鉄舟29歳のときです。その前年、清河八郎が刺客に殺されています。また、浅利又七郎に剣を学び始めた頃で、その4年後、33歳のときに駿府に赴き、江戸無血開城の交渉を西郷隆盛と行ったのです。無血開城の4年前は、こんなに貧乏だったのですね。
鉄舟さんの書をご紹介しつつ、その原文を読み解いてみました。
3.鉄舟の書について
「書法に就いて」(『鉄舟随感録』・山岡鉄舟筆記・国書刊行会)より
『・・・世或いは云う。山岡鉄舟の書は書として何流にもかなわぬものにて、書か画か判然すべからずと。こはすこぶる明言にて、一点抗弁を用いるの余地なし。これの如きはすべてその人の心の鏡に任せ写さば可なり。以上の如くにて、余がこんにちの書はすなわち鉄舟流なり。・・・
明治18年12月30日 鉄舟 山岡 高歩(たかゆき) 誌』
私の書はあなたの心で見てくださいという、鉄舟の教えです。
その言葉を最後に、締めさせていただきます。また機会がございましたら、お話させていただきたいと思います。ありがとうございました。
【事務局の感想】
田中さんには、昨年4月に発表をしていただいてから、久しぶりの発表でしたが、内容的に大変分かりやすく、興味深いものでした。まず簡単なものからということで、『麻疹能毒養生弁』を変体仮名一覧と読み比べて、準備運動。
そして、鉄舟の書を読むことにチャレンジ。少し読めて嬉しくなりました。
今後も田中さんに鉄舟の書を教えていただきたいと願っております。
以上
2007年09月28日
9月例会記録(2) 1/2
■山本紀久雄氏
「鉄舟の貧乏その一」
田中さんの解説よかったですね。同じ日本人なのに100年以前の文字が読めない。これほど残念なことはない。教育の結果なんですけれど。事実をつかむことの難しさですね。日本語が読めない、調査ができない。また発表をお願いしたいと思います。
今の世の中は混乱しており、生き方が解らないという人が多い。浅草の浅草寺から、生き方がぶれなかった人、鉄舟の生き方について話してほしいと依頼きました。鉄舟は貧乏でも生き方を変えないで、最終的に素晴らしいと評価を得た。
17日の敬老の日に映画「HERO」を観ました。驚いたことがいくつかありました。まず映画館は満員でした。満員ですが立ち見はありません。今は事前に席を予約して、ネット決済でき、席もファーストクラスみたいに広くて館内は感じが良い。映画館内には親子連れが多い。お父さん・お母さんが、小学生の低学年の子供と一緒に観に来る。この年齢で「HERO」を観てわかるのか?騒ぐんじゃないかと思ったら静かに見ている。観終わったあと「よかった!」という。
「HERO」は裁判の話です。木村拓哉が検事、書記官が松たか子で、殺人事件の自供した男が法廷で私は自供したことをやっていないと覆す。弁護人(松本幸四郎)は、状況証拠を、検事の方で殺人をしたことを説明しろ!と言う。木村拓哉は自分が調べたわけではなく、先輩が調べたものを引き受けたものですが、素直に調べます。徹底的に調べたら、結果的に自供した内容が正しくて、政界の黒幕まで出て来て、最終的には検事が勝つんですね。木村拓哉がやっていることは、かっこいいことではない。あきらめないで、殺人犯が殺人したことを証明するためにひとつひとつ調べて調べて調べ抜いていく。
消防署は、火事を観に来る人を火事場には放火魔がいるはずだということで、写真撮影する。映画でも放火犯の中に殺人犯がいるんじゃないかと、853枚の写真をみて、犯人がいないかどうか写真一枚一枚調べる。
根性が大事、それが『HERO』=英雄、ということをこの映画は示している。
「オーシャンズ13」アメリカの人気映画。フランクシナトラの「オーシャンと11人の仲間」のリメーク版の三作目。バックは全部日本です。カジノのオープンに土俵を作って相撲する、太鼓を打つ、乾杯は日本酒・久保田、何か飲みますか?と問えば「煎茶か緑茶」と日本語で言う。
映画は注意してみていないといけない。「おもしろかった」で終わりにしてはダメ。私は研究家ですから、背景を見る。要するに映画の中には今の時代を反映しており、観客が沢山来ているということは、観客はその映画の中味を観に来ている。時代です。「HERO」が人気があるということは、時代は根性ある人を持ちたい、なりたいと考えている人がいると思います。
調べるといえば、マイケル・ムーア監督はアメリカの医療制度を調査した映画「シッコ」を作りました。アメリカ人は歯が痛くても歯医者に行かない。なぜなら保険がないから、費用が莫大になる。
日本は3割負担で済む。アメリカは世界の超大国なのに行かない。隣のキューバは医療費が無料。アメリカ人の歯が痛い人、お腹が痛い人が、キューバに行って無料で診てもらっている。アメリカはカストロに反対して、キューバを経済封鎖したんですよ。それなのに、アメリカ人はキューバに行って治療してもらっている。キューバは谷亮子選手と決勝戦を争ったくらい柔道も強い、陸上も強い。食料自給率は100%近い。経済封鎖されたことをキッカケにして、いまや素晴らしい国に変身した。これは、ムーア監督が調べた結果わかったことです。
私も調査のために毎月世界中を周っており、先月はインドのムンバイに11日間行きました。インドで生き方を学びました。インドにはヒンズー教徒、仏教徒もいる。仏教徒の家に連れていってもらいました。仏壇には「南妙法蓮華経」とある。日蓮ほど素晴らしい生き方を教えてくれた人はいない。その人はヒンズー教ですが、日蓮の教えを宗教ではなく、哲学として受け取っている。日蓮は、すべての世の中の起きる原因は私の中にあると教えてくれた、と哲学として解釈している。すべての原因は我あり。そういう生き方を観につけたら素晴らしい。悩みがなくなる。
安倍首相は、そう思っていますかね。戦後はじめて53歳の人が首相になったんですね。70%の支持率で颯爽とスタートしたが、日々下がり、耐えられなくなり辞任しました。民主の前原さんも偽メール事件で辞めましたね。若いものは頼りにならないと71歳の福田さんが出てきた。若い人が福田さんはしっかりしたこというなぁと話を聞く。
安倍さんは自分がわかっていなかった。頭が良くて2枚くらいの紙なら暗記するし、読書量も政界一らしい。それなのになぜこうなったかというと体が弱い。1年前の新聞記事を読んだら、好きな食べ物は焼肉、ラーメン、スイカ、嫌いな食べ物は、生カキとある。生カキが嫌いな人は食べてお腹を壊したことがあるからです。新鮮ではないカキを食べたか、よく噛まずに食べたか、です。ちなみにビールと生カキはあいません。白ワインが合います。お腹が弱い人はよく噛んでもお腹を壊す。胃が弱いということです。
首相が激務であることが次第にわかってきた。能力ではない、適職を探さないとならない。情勢判断学会というのがあり、そこで戦略を作る。戦略はロマンだと計算しないで大きいものを作ると言っても2、3日で辞めてしまう。高い望みを持ってもいいですが、自分の立場を分析して、10ヵ年計画、3ヵ年計画、詳細な直近3ヶ月の計画を作りこむとわかります。そのためには自分自身を知らないといけない。調べるということです。「HERO」の木村拓哉はそれを教えてくれる。安倍さんは、それをしなかった。体が弱いことぐらいわかっていたはず。
凧は形状が斜めになっていて、紐でひっぱると上に上がる。上昇しようと思ったら斜めになるのは飛行機も同じです。物事を受けるときに正面から受けるのは一番よくない、まじめすぎはだめ、ほどほどということもある。
安倍さんは全国遊説してどこに行っても同じことを言っている。安倍さんは成蹊大学出身で、成蹊大学は吉祥寺からバスです。安倍さんは吉祥寺で保坂さんの選挙応援に行った、安倍さんは学生時代の吉祥寺の思い出を語るのかと思いきや、一切しないで他と同じことをしゃべっている。結果保坂さん落選です。要するに弾力性、その場対応で判断して行動しなければならない。
鉄舟は駿府に行くとき、慶喜から、勝海舟から、どういう風に行くのかと尋ねられた。船で行く、歩いていく、そういうのは計画です。鉄舟は「臨機応変わが胸にあり」と応えた。出たとこ勝負、その奥に自信がある。
人間は計画通りに行かない。そのときの風・民意と合っていなかった。合っていないことをやると体に障害が出る。時代の流れをつかんでいくことが必要だと思います。
9月例会記録(2) 2/2
1.インドの金持ちはキリが無く、貧乏人もキリが無い。
インドは時代の流れを掴みつつある。BRICs(ブラジル・ロシア・インド・中国)の4カ国が成長して、世界の経済を引っ張っている。前年日本が中国に投資した内の10%がベトナムとインドに流れている。インドは凄いと皆インドへ行く。
インドには金持ちが沢山いる。世界の結婚式ベスト1は、ベルサイユ宮殿で120億円掛けたインド人です。 その反対にストリートチルドレンやホームレスも街にいっぱいいる。ムンバイは安全だから歩きまわってみた。金持ちの人のところに調査に行った。なぜ金持ちなのか聞いてみた。インドには財閥がいくつもあって、同じ宗教の人、ヒンズー教ではなく、パールシー教というゾロアスター教の流れを汲む人たちが占めている。パールシー教の信者は世界で20万人しかおらず、そのうちの7万人がムンバイに住んで、証券取引所を作って成功している。この中のTATA財閥は車・バス・コンピュータ、何でもやっており、インドのGDPの3%を占めている。
なぜこのような財閥ができたのか?イギリスがインドを植民地にしたとき、イギリスが直接ヒンズー教を支配するのは大変だから介在者を作った。パールシー教の人はイラン系で顔立ちがヨーロッパ寄りだった。このパールシー教をヒンズー教との間に挟んだ。ヒンズー教徒も直接イギリスと対したくなくて、パールシー教を介した。イギリスが撤退したときにイギリスの財産をすっかり置いていった。これがパールシー教の財閥です。
ヒンズー教にはカースト制度が残っている。ヒンズー教は「今の状態を納得しなさい」といっている。生き方の中で当然なのだから脱皮はやめなさい、しようとすると来世でよいカースト制度に上がれません、といっている。
日本では、明日は未来がある、今日より明日、という人がいるから明るい。インドの人は明日も今日と同じ。
金持ちの家に行くとお手伝いさんが居て、コックさんがいる。この人たちは読み書きできない。一番下のカーストに生まれたが、そこから脱皮しようという気がないから、そこにいる。だから貧乏人はずっと貧乏人です。
このパールシー教の財閥がインドを支配しているだけなら、ここまで成長しなかった。これにITが入ってきた。ITに関する職業は今までのカーストにない職業。カースト制度には3000くらいの職業あって、制度により職業が決まっているが、突如として出てきた職業がITです。従来のカースト制度にない職業は、貧乏人でもその職業につけて、高収入を得られる。インドは工業化という第二次産業を経ないで、第三次産業に入っており、すでに第三次産業はGDP50%を占めている。
インドの貧乏と鉄舟の貧乏は同じですか?
2.「道を修める者、衣食の為にする勿れ」大燈国師(妙超・南北朝時代の禅宗の僧)
鉄舟も貧乏です。1ヶ月のうち7日くらいしか3食食べられなかった。断食したことありますか?1回くらいなら水を飲んでいれば大丈夫ですが、それを毎月ですからね。それくらい貧乏なんですね。
不思議に思うのですが、皆さんお金がないときはどうしますか?お金を得たいと思いませんか?食べ物を子供や奥さんに与えたいと思うでしょう。お金を貰うために働きますよね。生活のために働いても良いじゃないですか。
3.鉄舟は何故収入を求めて働かなかったのか・・・山岡静山は勘定方(幕府財政の運営や幕府直轄領の支配・貢租徴収業務)勤務だった。鉄舟は勤務しなかったのか?
山岡静山はお城の勘定方に勤めていた。弟の高橋泥舟も勘定方。山岡家を継いだら鉄舟もお城勤めをしてもいいわけです。しかし鉄舟は、勘定方に就いていない。どの本も触れていないが、私は疑問を持っている。
または、お城勤めしていなかったら、剣が強いのだから、剣を教えたら良いじゃないですか。指南料、入門料など貰える。しかし、それもしない。
4.英子(ふさこ)は結婚当初文字を書けなかった。
「英子は貧乏生活のため、読書にいそしむことがないまま鉄舟と結婚したが、その後は読書、習字を一心不乱に学び、晩年はなかなか上手くなって、手紙等をみると師匠と間違えるほどであった。絵も上手になった。明治21年12月3日の大阪毎日新聞の記事に『山岡紅谷女史は故鉄舟居士の未亡人なるが頗る写生画に巧みにして来春を期し当地に来り揮毫せんと、即今其の支度中の由に聞く』とあるが、これは偽者で当時鉄舟の名声が高かったので、こういう偽者が各所に出没したのである」
(『おれの師匠』小倉鉄樹箸《絶版》島津書房)
5.子爵内命時の鉄舟と海舟(明治二十年五月)
「食ふて寝て働きもせぬ御褒美に 蚊族(華族)となりて又も血を吸ふ」鉄舟
「いままでは人並の身と思ひしが 五尺に足らぬ四尺(子爵)なりとは」海舟
鉄舟と海舟の子爵内命時の歌。鉄舟は、自分はろくな働きをしていないのに、士族になってまた金をもらっちゃうと言っている。海舟は「子爵」を嫌味にしている。結果、海舟は子爵から伯爵になった。
海舟は自分の働きを知っている。海舟がいなければ、インドと同じ植民地になっていた。当時世界のことを知っていたのは海舟くらい。オランダ語を学んでアメリカいって、広い世界を知っていたから、和平派になった。小栗上野介みたいに武士の本分が立たない!と戦争していたら日本はどうなっていたか?
大航海時代、コロンブスがアメリカにたどり着いてから、世界中にいろんな土地があることがわかり、スペイン・ポルトガル・イギリス・フランス・オランダが海から来て、海から攻撃してインドのムガール帝国もアフリカもやられて植民地にしてしまった。海から来ると思っていないから、海からの防衛が弱かった。そこを狙って入ってきて、そこに住んでいる○○族と××族の双方に「あっちやれ」と突いて、内戦状態にしてお互いを崩しあう。国が一本になっていないから互いに戦い、植民地化されてしまった。
日本が突かれていたらどうですか。官軍にイギリス、幕府にフランスがついていた。幕府内から戦争をしないで和平を講じようといったのは海舟です。海舟は立派です。伯爵になってもいいじゃないですか。自分の価値を述べた正直な人です。
鉄舟のことを信奉する人は、信奉するあまり、海舟のことを悪く言う人もたまにいる。鉄舟だって借金、女性問題、剣道場、講武所のことなど問題はあります。
6.海舟への批判
「海舟は死して金を残し、鉄舟は徳を積んで無一物であって、そこに二人の人間としての差がある」とも述べる人もいるが?・・・。
海舟も貧しかった。オランダの医学の本を写して売った。それを聞いて海舟はふざけたやつだという人もいる。海舟は死んだときに財産があった、鉄舟は財産がなかった。鉄舟は志で生きたから素晴らしい、死して金を残した海舟はけしからん、という人もいる。若いときにお金に苦労した人が子供に苦労させないようお金を残して死ぬことは悪いことですか?悪くないですよね。あたり前のことですよね。海舟と鉄舟を比較して、海舟は金が汚いとけなす人もいるが、私はそうは思いません。海舟が普通です。畳の下の床板をはいで火を燃やした、そういう貧しい暮らしに二度と戻りたくないから、海舟は貯金した。
7.講武所から遠のく
教授頭の男谷精一郎との関係
当時流行った「ちょぼくれ」で批判あり
「講武所始めたところが、稽古にゃなるまい。剣術教授大馬鹿たわけが、何を知らずに、勝手は充分、初心につけ込み、道具のはずれを、打ったり突いたり、足柄かけては、ずどんと転ばせ、怪我をさせても平気な面付、本所のじいさん(男谷精一郎)師範なんぞはよしてもくんねえ、高禄いただき、のぞんでいるのがお役じゃあるめえ、門弟中には、たわけをつくすを、叱らざなるめえ・・・」
講武所の連中がたるんでいる。髷はゆるく(防具を被るため緩く結んだ)、セキレイ(セキレイという鳥がいて、尾が長いので、石たたききせると呼ばれた)といい、面の隙間から煙草を吸うため吸う部分を細くして講武所風としていた。
鉄舟はこのような乱れを嫌った。そして荒れた鉄舟のことをみんな怖がった。
講武所の所長の男谷精一郎は鉄舟に、酒はほどほど、女遊びもほどほど、おぬしの剣は鋭すぎると言った。
男谷精一郎は剣の腕が立ち、1本目は自分が勝ち、2本目は相手がどんなに弱くても勝たせ、3本目には必ず勝った。剣聖と言われたが、性格が穏やかだから、講武所内を厳しく指導しないため、講武所内は乱れてきた。鉄舟はせっかく世話役になった講武所を辞めた。幕府の訓練所ですから、給金があった。辞めたらどうなります?辞めた途端に鉄舟はさらに貧乏になった。
【事務局の感想】
今回は大変会場が盛り上がりました。それは身近にある新しい題材を分かりやすく解説していただいて、皆様が納得した笑いではなかったかと思います。テレビで柔道の世界選手権をご覧になった方は多かったとおもいますが、谷選手と戦った選手の国、キューバの国状が話しにでてくるとは思わなかったことでしょう。インドのムンバイの件もそうですが、日本を考えるときに日本だけを考えていただけでは、もう十分ではないということではないでしょうか。無血開城の凄さも、日本だけでなく、世界の情勢から比較をして考えてみたら、日本にとってどれだけ幸いなことであったか。鉄舟を通して、現状を理解していく手立てとしていただければと思います。
2007年09月20日
9月例会の感想
8月のお休みを挟んで約2ヵ月ぶりの例会が行われましたので、その様子をご報告いたします。
今回は私・田中が発表の大役をおおせつかり、眠れぬ日々を過ごしておりましたが、事に及んで二心なしと、鉄舟の生き様を今こそ見習うべきと腹を決め、発表に臨みました。
内容は「変体仮名を読む〜鉄舟の書をもとに」。
鉄舟の遺された句の原文を解説いたしました。
鉄舟が自ら語っておられるように、鉄舟の書に触れ、皆さんそれぞれの心の鏡で何かを感じ取っていただく機会になればと願い、ご紹介させていただきました。
鉄舟の研究については山本紀久雄氏が精力的に進めておられますが、これとは違った角度から、すなわち鉄舟の遺した書を通じて、鉄舟の人間像について迫っていけるようになれたらと思います。
続いては、山本氏の発表です。
今回のテーマは「鉄舟の貧乏」。
鉄舟はその壮年時代、大変な貧乏をしました。
鉄舟ほどの使い手であれば、剣で身を立てるなど、方法はあったと考える方のが自然です。
なぜそれをせず、専ら心身の鍛練に勤しみ、貧乏であるがままであったのか。
それは、10月6日の鉄舟全国フォーラムで明らかにされるそうです。
全国フォーラムをお楽しみに。
是非足をお運びください!
(田中達也・記)
投稿者 lefthand : 18:24 | コメント (0)
2007年09月12日
山本紀久雄氏が浅草寺主催講座に登場
山岡鉄舟研究家の山本紀久雄氏が、浅草・金龍山浅草寺主催「仏教文化講座」で、鉄舟について講演いたします。
日時 2007年9月26日(水) 14:00~15:00
場所 新宿明治安田生命ホール(新宿駅西口正面)
演題 山岡鉄舟の生き方から学ぶ
入場料は無料
なお、当日の15:00~16:00は名古屋市立大学大学院教授、吉田一彦氏による「最澄と神仏習合」の講演があわせて開催されます。
弟たちの世話に明け暮れる
弟たちの世話に明け暮れる
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
嘉永五年(1853)七月、鉄太郎(鉄舟)は両親の相次ぐ死で、飛騨高山から江戸に戻った。戻った先は異母兄の小野鶴次郎(古風)の屋敷であり、鉄太郎の後ろに五人の弟が連なっていた。金五郎、忠福、駒之助、飛馬吉、それと末弟の務は二歳の乳飲み子であった。
異母兄である小野鶴次郎の屋敷は、元治元年(1864)の江戸切絵図に掲載されている。当時の歩兵屯所の跡地が現在の靖国神社、その青銅の大鳥居の北側に九段高校、白百合学園があり、その奥に衆議院議員宿舎があるが、その中間あたりに鶴次郎の屋敷があって、今の住所は千代田区富士見二丁目である。なお、このあたりは旗本屋敷が多く、年々歳々役職が変わっていくので、そのたびに移転が多く、切絵図は度々改変されている。因みに安政三年(1856)の切絵図を見ると、同所は小野朝右衛門で六百石となっていて、切絵図の記載から鶴次郎が小野家を継いだことが分かる。
この鶴次郎について鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹の著書「『おれの師匠』島津書房」に
「異母兄小野古風は凡庸の資で、取り立てて云ふほどのこともない。晩年には師匠(注 鉄舟)の人格に深く傾倒して、弟を『先生、先生』と呼んでいた程の好人物であったが、飛騨から多勢押しかけた事については、お互いの不幸を嘆く前に一方ならず迷惑視したらしく、冷やかな待遇を興へてゐる。末弟の務は生後僅かに二歳で、しきりに乳を求めるので、鐵舟は兄に乳母を雇って貰い度いと懇願したが、とんと取りあっては呉れなかった。仕方がないので、鐵舟は務をいだいて、近所に貰ひ乳をしてあるき、夜は重湯に蜜をといで、枕邊にあたためて置き、毎夜自分が添寝をして育てたと云ふことである。十七歳の若年鐵舟を鍛錬したものは決して剣禪のみでなく、幸福なるべき六百石の若殿は、早くも浮世の辛酸と雄々しくも戰闘を開始して、不退轉の心情を陶冶してゐたのである」
とある。
飛騨高山では乳母がいたので末弟務の世話はしなくてすんだが、江戸に戻ってからは何から何まで鉄太郎が面倒を見なければならない。次弟の金五郎ではまだ赤ん坊の面倒は無理である。乳母も雇ってもらえず、鉄太郎が一切の子育てをしたのであるが、これはなかなか十七歳の少年に出来ることではない。
父母を失うという已む得ない事情と、鶴次郎から冷たい待遇を受けながらも、鉄太郎は必死に弟たちの面倒を見て江戸での生活をスタートさせたのであった。このようなことを通じ後年の鉄舟人間の基礎が出来ていったのである。
さて、父小野朝右衛門の死については、巷間自刃説が伝わっていると前回お伝えした。小倉鉄樹の著書「『おれの師匠』島津書房」には次のように記されている。
「小野郡代の急死については當時色々の取沙汰があったが、朝右衛門が盛んに武道を奨勵し、幾度か陣立を行った爲に、幕府にうたがはれ、遂に違法として咎を受け、自刃したと云ふ説がある」しかし、この後に「然し師匠自身は『父は脳溢血で死んだのだ』と言われている。發喪せられたのは死後四ヶ月もすぎた六月五日で、其の時の廻状等今も残っている」とも記しているので、前号では脳溢血による病死と解説した。
だが、以上は正史の類であり、小野朝右衛門の死については、不審な異説がある旨の主張を、小島英煕著「山岡鉄舟」(日本経済新聞社)で展開しているので、その概要をお伝えしたい。
「異説の主張者は鉄舟の血筋という成川勇治氏である。成川勇治氏は、鉄舟にほれ込んで、弟子入りした人物の成川忠次郎の孫である。孫となる経緯は、鉄舟の長男山岡直記、この人物は鉄舟の子どもと思えない出来の悪い存在だったが、その直記の子どもである武男を、事情あって成川忠次郎が引取り育て、忠次郎の長男精一の娘と結婚させ、生れたのが勇治氏であるから、確かに鉄舟の血筋を引いている。この勇治氏が、やはり山岡直記の娘であるきくの孫と結婚している。鉄舟の血筋を守ろうとした武男の考えであったという」
この武男の祖母にあたる、鉄舟の長女松子から聞かされた話として、以下の記述が同書にあるのでそのまま紹介したい。
「鉄舟は彼女(注 松子)に『小野家が郡代の時、うちに竹矢来を組まれ、父は蟄居、切腹させられたのだ』と語っていた。しかも、母の磯は幕府隠密の手によって毒殺されたという。小倉鉄樹の語った噂を松子は真実として話したことになる。
勇治氏の話をまとめれば、当時、高福(注 朝右衛門)には謀反の疑いがあった。幕府に無断で陣立を実行したからだ。小野家では毎年、近在の農家に行って、栗粥を食べる行事があった。この時、農家の者が幕吏に脅迫されて粥に毒を入れて、みせしめのために磯を殺した。これによって磯の三千両蓄積疑惑が浮かんだ。高福も一連の責めを負い、切腹させられた。
それが喪を長く伏せた理由であり、その間に疑惑は晴れた、ということらしい。小野家は断絶せず、鉄舟の異母兄の鶴次郎が相続したからだ」
このように小島英煕著「山岡鉄舟」に書かれているが、これは鉄舟の血筋という成川勇治氏へのインタビュー結果からである。成川勇治氏は高山まで行き、いろいろ調べたが誰からも相手にされずに、結局、嫌気がさして小島英煕氏に語るまで沈黙してきたという。
だが、これが真実だとしたら、鉄舟が江戸無血開城に動いた幕府への忠誠心と、この両親の不審死よる幕府への葛藤心理、それらをどのように内面的に調整していったのか。母が毒殺され、父が切腹させられたことへの屈折した感覚、それが鉄舟の幕府不信へとつながる可能性は大きいと思うが、鉄舟は慶喜を助け、結果として江戸無血開城を成し遂げている。自らの深い心の陰影を押し殺し、それを超え、鉄舟は江戸無血開城に動いたことになる。成川勇治氏の発言は重い意味を持っている。
なお、この成川勇治氏とは、数年前に埼玉県小川町でお会いしたことがあるが、その際にこのような内容について、何もお話しがなかったことを記憶している。
成川勇治氏は、鉄舟の長男山岡直記の三男武男を父としている。山岡直記が武男を成川忠次郎の養子に出したから、成川勇治氏が生れたのである。
山岡直記の評判はいたって悪い。いずれ詳述することになると思うが、勝海舟も明治三十一年十月二十三日に「山岡にもよわるよ。母(山岡未亡人英子)の方へは、月に百円ずつ、千駄ヶ谷(徳川宗家)から出るが、直記はワシの方に来て困るよ。モウ切ってあるのだが、まだ来て困るよ」(『海舟座談』岩波文庫)と述べているほどである。また、事件を起こし鉄舟が受けた爵位も取り上げられ、生活に困窮したようで、その結果、子どもを養子に出したのであり、その一人が武男であった。
山岡直記については記録があまり残っていないし、関係者の間では禁句になっているようで、実際の姿は不明であるが、偉大な鉄舟の子息としては残念ながら不出来の人間である。どうして鉄舟のような親から直記のような「山岡家を潰した」人物が生れたのか。
鉄舟の生き様を研究している者として、ずっと疑問に思っている大きな問題点の一つであるが、最近、ふと手にした河合隼雄著「『影の現象学』講談社学術文庫」に次の内容があった。
「宗教家、教育者といわれる人で、他人から聖人、君子のように思われている人の子供が手のつけられない放蕩息子であったり、犯罪者であったりする場合が、それである。世間の人はどうして親子でありながら、あれほど性質が異なるのか、といぶかったりも息子の親不孝ぶりをなじったりする。あるいは、聖人、君子と言われていても案外子供には冷たいのではないかとか、親子関係の悪さを勘ぐったりする。しかし、これはそのような次元では了解できないことであり、たとえ、親子関係に一般的な意味での問題がないとしても、親の「影のない」生き方自身に、子供の肩代わりの現象を呼び起こす力が存在しているのである。一般に信じられているように、親が悪いから子供が悪くなるという図式で了解されるような場合は、治療も簡単である。しかし、いわば親が良いために子供が悪くなっているとでも言うべきときは、治療はなかなか難しいのである」
鉄舟の長男である山岡直記は、この河合隼雄氏の見解に該当するのではないかと思っている。人間はなかなか難しいものである。
両親を失った鉄太郎の手許には三千五百両というお金があった。父母が遺してくれた財産であった。この三千五百両について、いろいろの試算計算結果から、今のお金に換算して大金であることは前号で述べた。
このような大金をどうやって蓄財したのか。母磯の死が三千両蓄積疑惑に絡んだものであり、後日疑惑が解けたにせよ、大金蓄財が疑問視されたと成川勇治氏が指摘している。
しかし「磯の父である塚原石見の遺産に加えて、日々の生活を切り詰めて貯めたものだ」という見解もある。(佐藤寛著「山岡鉄舟 幕末・維新の仕事人」光文社新書)
ここで江戸時代の代官の収入についてみてみたい。
「郡代、代官はその家禄を有するわけですが、代官の職務を行うための属僚の手当ておよび役所の諸入費に当てるため、はじめ口米や口永と称して、年貢の中より徴収していたが、享保十年(1725)には、口米や口永は幕府の収入とし、代官にはその支配高に応じて、一定の米金を給することにした。支配高五万石につき米は七十人扶持、金は西国が七百五十両、中国が六百七十両、その他の地方では六百両でした」(石井良助著「江戸時代漫筆」井上書房)とあるように、飛騨高山代官所は石高十万石を超えていたので、普通の代官所の倍の手当てを受けていたはずで、約七年もの代官所郡代としての期間、収入を大事に節約していけば、三千五百両の貯金はそれほど無理なく貯まると思われるので、不正蓄財ではなかったと考える。
ところで、江戸に戻った鉄太郎は弟たちの世話に明け暮れていたが、それを見かねた剣道師範の井上清虎は弟たちを養子に出すことを勧めた。
井上清虎は千葉周作の玄武館道場の四天王として名声があり、その井上清虎を小野朝右衛門が飛騨高山に迎え、鉄太郎の指導者となったのであるが、この井上によって鉄太郎の剣が一段と伸び、その後も二人の間は信頼の関係でつながっていて、鉄太郎の育児苦労に対する救いの手段として養子を勧めたのであった。
当時の旗本・御家人は生活に困窮している者が多く、身元確かで多額の持参金のある子どもは、引き取り手が多く、五人の弟に各五百両をもって養子に出し、鉄太郎は百両だけ手許に置き、残りすべてを小野鶴次郎に渡して三千五百両を整理したのであった。
鉄太郎のもとに残した百両は、自らが貧乏な山岡家に養子に行くに当たっての持参金としたのであったが、ここに金銭に恬淡として生きた鉄舟の人柄が顕れている。
2007年09月02日
月刊「致知」に、山岡鉄舟全国フォーラム告知掲載される
月刊誌『致知』は、創刊以来26年間一貫して、いつの時代でも問われる人の生き方を探求する“人間学の月刊誌”です。10月号の「こまく」欄に、第四回山岡鉄舟全国フォーラムの告知がされました。
多くの方の関心を呼ぶことを期待しています。