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2005年10月23日

11月の例会は神道について

11月の例会は、11月16日(水)に開催いたします。
講師は上米良さんと山本さんです。
上米良さんには「神道」について発表していただきます。
*尚、11月26日~27日に静岡への研究旅行がございますが、例会も開催いたしますのでご参加よろしくお願いいたします。

投稿者 Master : 21:42 | コメント (0)

薩摩藩上屋敷の今はホテル

鳥羽伏見の戦いの原因となったのは、江戸薩摩藩上屋敷への攻撃でした。薩摩藩上屋敷は三田四国町にあって、今は港区芝三丁目辺りである。東西約800メートル、南北約300メートルの敷地を有する広大な屋敷でした。
ここを幕府のお雇い武官であるフランスのブリューネも参加し、砲撃を加えたのである。攻撃の主力は庄内藩で、その他に上之山藩や鯖江藩なども加わった。

この経緯について「徳川慶喜公伝4」(渋沢栄一編)と、当時、外国奉行並町奉行であった「朝比奈甲斐守昌弘(閑水)」の手記を要約してものが「西郷隆盛」(海音寺潮五郎著)にあり、それらを整理すると次の通りである。
「慶応3年10月頃から江戸市中で、強盗が富商の家に侵入して、江戸府内をさわがせたので、町奉行で調査したところ、このうちの七八人あるいは十人余の賊は三田の薩舟邸から出ていることが判明した。しかし、この頃の町方与力や同心らは軟弱な輩ばかりで、手に負えないので、庄内藩主酒井忠篤に市中の取締りをさせることにしたが、なおやまなかった。酒井家に新徴組を所属させて、これもまた市中巡視にあたらせたが、やはりそれほどの効果はなかった。
幕閣では種々協議したが、薩摩藩邸を攻撃すべきという意見と、事前に京都にいる慶喜の指示を仰ぐべきであるという意見が対立し、議論は三昼夜に及んだが、朝比奈の意見で慶喜の指図を仰ぐという意見が通ったのが12月24日。この決定を早速攻撃派に伝えたが頑強に抵抗され、すぐに攻撃すべきだと逆に強行主張され、圧され、とうとう閣老らは攻撃策に踏み切ってしまい、翌25日、遂に薩摩藩邸とその支藩佐土原藩の三田の邸を焼いた」

この薩摩藩の跡地は、現在どうなっているか。広大な敷地であったので、細かく所有者が分かれているが、中心部分には芝三井ビル・セレスティンホテルが建っている。このセレスティンホテル西側には「芝さつまの道」と称して、当時の面影を残す雰囲気で散歩道が造られています。そこには「江戸東京重ね地図」(安政三年・1856年)と「薩摩島津藩上屋敷図」(寛政二年・1790年)のパネルが表示されていますので、ご関心ある方は一見の価値ありです。

投稿者 Master : 13:40 | コメント (0)

2005年10月22日

フォーラム参加者の声

■参加者の声
講演会は好評でした。参加者の声をアンケートより一部ご紹介します。

■それぞれの専門家のお話なのでとても奥が深く、基本的考え方や方法から テーマの詳細な見解までのお話で、本には書かれていないような内容は貴重な 機会でした。各参加者も鉄舟についての知識・造詣の深い方ばかりなので質問も参考になりました。
(50代・男性)
■今まで知らなかった事のお話が聞けて幸いでした。(70代・男性)
■今回も大変充実した内容で勉強になりました。先生方の資料も大変助かります。 時間が足りないのが残念でした。大変解りやすく勉強になりました。(50代・女性)
■鉄舟の書と次郎長宛のカナ書きの心遣いに感心しました高橋先生の奥深い知識に歴史の面白さを再認識しました。同時に山本さんの研究の幅広さにも驚嘆いたしました。
(60代・男性)
■三講演各々ベースとなる切り口が違い、とても勉強になりました。(50代・女性)

事務局より
第二回山岡鉄舟全国フォーラムにご参加いただきまして、大変ありがとうございました。鉄舟・21・サロンでは、鉄舟研究と現代の今に生きるということを主眼に、歴史的事実の確認だけでなく、それが現代にどのように関係して、生かしていったらよいのかという視点で研究を進めておりますが、今回国立歴史民俗博物館の高橋名誉教授のお話からも、歴史家はそのような観点で歴史を研究しているのではないかと思いました。これからも継続して参りますので、よろしくご支援をお願いいたします。

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山本紀久雄氏「山岡鉄舟を再認識する」を語る(2)

第二回山岡鉄舟全国フォーラム2005記録

1、駿府、松崎屋源兵衛宅での西郷との会見、その真の意味
レジュメの1番の西郷との会見というのは、資料だけで理解していいのかと疑問を感じる。慶喜が恭順の意を示して、自分の守る城である江戸城を出て降伏した。その降伏した意思に対して、薩長は許さず、品川まで攻めて来てしまった。交渉したが、ぜんぜんらちがあかない。鉄舟は慶喜から勅命を受けて駿府に行った。
薩長側からは5つの条件があった。1,江戸城を明け渡しなさい。2,江戸城にいる人間も 3,兵器も 4,軍艦も引き渡しなさい。5,慶喜を備前藩(岡山)に預けなさい。備前藩は官軍に寝返った藩であり、慶喜を敵方に渡したら、命をどうされるかわからないでしょう。5つ目の条件、慶喜だけは絶対に渡せないと鉄舟は必死に説得した。西郷に対して、説得最大の論理は、「あなたの藩主島津公にたとえてみてください。もし島津公だったら、差し出しますか?」と。

西郷を研究すると、当時の藩主は、島津忠義で、その父は久光。久光は3人兄弟の三男であり、一番上は名君誉れ高い斉彬。
斉彬は正室から生まれたが、久光は町家生まれのお由羅という側女から生まれた。父親が、甚だしく久光を可愛がったため、お由羅は、久光を殿様にできないかと、お家騒動が始まる。このことは『南国太平記』(直木三十五)に書かれている。斉彬の子供全部殺すため、調伏した。本当に斉彬の子供が死んでいってしまう。斉彬も突如おなかを壊して死ぬ直前に、久光には譲らない、お前の息子の忠義に譲る、といった。

西郷は、斉彬を暗殺したのは久光ではないか?という疑いを持っていたので、忠義の父である島津久光、この久光が実質の薩摩藩を仕切っていたのであるが、その久光とはお互い犬猿の中。西郷は2回島流しにあっている。
1回目、安政の大獄で身が危険になった清水寺・成就院の住職月照(薩摩と朝廷の橋渡しをしていた)と体を縛り上げて海に飛び込み自殺を図った。月照は亡くなって、西郷は罰として奄美大島に流された。
2回目は久光の命に従わなかったため沖永良部島に流された。最初、徳之島であったが、そこでは厳しくないという理由で沖永良部島になった。その沖永良部島で西郷が生活していた場所を見てきた。それは酷い環境だった。海岸淵にあり、屋根はあるが、壁がない。周りを仕切ってあるだけで、大型台風がきたら、体が持たない。見かねた村長の判断で島の中に移動させ、ようやく命が助かったという経緯がある。

人間というのは感情ですから、西郷と言えども、鉄舟の説得は理論的には分かっても、それだけでは「慶喜を助ける」というセリフは出ないでしょう。
鉄舟の論理だけではなく、何か別のところで西郷の心が動いたのだと思います。

西郷は、求道の精神を持っていたことを、奄美大島の生活態度から類推する。
島に流され、島の子供に教育した。「世の中で一番大事なことは何か?」と西郷は子供に尋ねる。「一番大事なことは物を欲しないこと。一つのお菓子があったとして、兄は妹、妹は親に譲る。欲しがらない気持ち、譲る気持ちが輪を作る」と説いた。そういう人物ですから、全てを捨てて自分に向かってくる人間に感動する。鉄舟の慶喜のことを論理立てて言う姿勢と同時に、体全体から出る「慶喜を助けたい!」という気持ちに打たれたと思う。

西郷は鉄舟をみた瞬間に自分と同じ捨て去る精神を持っていると感じた。
鉄舟は石坂周造が何回失敗しても助ける。西郷が理想としている人間像が鉄舟だった。鉄舟以外の人間が西郷に対面しなかったら、駿府の会合は成功しなかった。

2、駿府に鉄舟がたどりついた三つの道程
駿府の松崎屋源兵衛宅に鉄舟が尋ねた道程には3つの説がある。
①駿府まで益満休之助が一緒だった。
同行した益満休之助は薩摩人。薩摩言葉で、通行手形もあったので、たちどころに問題なく駿府についたというが、東海道に官軍が充満しており、駿府までの距離は長いのに、問題なくつくでしょうか?
②益満休之助は箱根で病気のため脱落し、駿府に行かず
益満休之助は鉄舟と会う3日前(12月25日〜3月3日まで)牢屋に居た。運動もしていないのに、鉄舟の早足で走らされて、病気して駿府に行かなかった。
③益満休之助が回復し駿府で再開した
益満休之助は途中で休んで、最終的には駿府で再開した。

いろんな説があるが、2と3かと思う。3の場合は、鉄舟が西郷と駿府で会合したときに益満がいたとは書いていないので疑問が残る。

海舟は「山岡鉄舟の武士道」の中で、松崎屋源兵衛宅で西郷と会見後、益満休之助も鉄舟と一緒に出発したと書いてある。海舟の言葉を信用すれば益満休之助は松崎屋源兵衛宅いたことになる。
しかし、海舟はいい加減なところがあり、頻繁に言葉が変わる。一番肝心要の3月13日江戸無血開城、最終決着の14日についても、13日は高輪の薩摩邸。14日同所にて、とある。実際は芝・田町の薩摩蔵屋敷として通説で認められている。日記でも書き違える。わざとの場合もあるが。正確に書けない場合もある。勝海舟のことを信用するしないではなく、駿府には益満休之助はこなかったと思う。

駿府には益満休之助は来ないとなると、鉄舟が一人で駿府まで行ったことになる。ここで、昔から言われていたが、一般的には公に認められていない説が急浮上する。

3、駿府に送り届けた人物が功績者 望嶽亭
『危機を救った、藤屋望嶽亭』という若杉さんがまとめた冊子がある。それを基に望嶽亭の女将、松永さだよさんにお会いし、お聞きし、望嶽亭の歴史を詳しく伺った。
望嶽亭は東海道の難所「薩?峠」の入り口にあり、慶応四年のときはかくさんが女将で、かくさんは33歳であり、そのときに官軍に追われて逃げてきた鉄舟を、かくさんが玄関戸を開けて助けた。そのお嫁さんが、けいさん・みきさん、けいさんは早くお亡くなりになりましたのでみきさんが後妻で、その子のお嫁さんがそのさんである。そのさんが18歳でお嫁にきましたが、そのとき73歳がお元気で直接にかくさんから鉄舟を助けた経緯を聞いている。
その、そのさんが55歳のときに、現在の女将のさだよさんが19歳で嫁にきた。さだよさんは、そのさんから望嶽亭の歴史を直接教えてもらった。137年前の話は古いようだけれど、鉄舟を助けたかくさんから、今のさだよさんまで、たった1人そのさんしか間に入っていない。
資料はないというが、資料というものはそもそも人間が作ったもの。人間を信用しないと、資料は成り立たない。さだよさんが話しているのは直近の話であり、この内容を信用すべきではないか。
鉄舟が江戸から駿府にいくプロセスで残っている資料は、望嶽亭のことしかないので、この資料で何か構築するしかないのではないでしょうか。間に一人しかいないので、大変重要な資料だと思う。

山岡鉄舟についてわからないことは沢山あるが、鉄舟の残した業績の真相をこれからも究明していけたらと思っている。

【事務局の感想】
今回も、幕末の時代になぜ外国船が来たかということで、「鯨油の時代」という新たな視点、発見を教えられました。また望嶽亭の松永さだよさんのお話も、時間を軸に検討してみるとそんなに時間が経っていないので、信憑性があるのではと、視点を変えればまだいろいろなことが発見できるという山本講師の話でしたので、これからも例会での研究発表が楽しみです。

投稿者 Master : 16:00 | コメント (0)

山本紀久雄氏「山岡鉄舟を再認識する」を語る(1)

第二回山岡鉄舟全国フォーラム2005 記録

―はじめに―
毎月第3水曜日18時30分に文化会館で例会をしております。毎回30分鉄舟の研究内容をお話している。『ベルダ』という雑誌に鉄舟の研究内容を掲載している。小川さんから写真のお話をいただきましたが、現物の大きい写真は、江戸東京博物館に展示してある。高橋先生から大変含蓄のある話をお伺いした。資料がない中から何とか調べ、点から立体にすべきだというお話。これからも鉄舟の魅力を研究していきたい。

何で、尊王攘夷の過激派の保守派だった鉄舟が海舟と一緒になって、江戸無血開城をやったか?人間ですから、何か時代・社会を受けて本人が変わる理由があった、それを解明しないと役に立たない。鉄舟を勉強するということは、現代に役立てることが大切。鉄舟は、日本生命保険の加入第一号者。明治時代に生命保険の制度ができ、現在の安田生命、共済五百名社、頼母子講みたいなものから始まり、今のように保険を広めた。鉄舟は現代の保険の制度と結びついていると考えると鉄舟が身近な存在になりませんか。

4、歴史とは今を学ぶこと・・・時代のあり方
レジュメの4番、鎖国していた江戸時代1853年に、ペリーが浦賀に4隻の船で日本へ来たことがきっかけとなり、日本が世界に開いていった。ペリーが来たことによって日本は大騒ぎになったというが、幕府はペリーが来ることが1年前にわかっていた。一年前から回答の予行演習を長崎出島でオランダ人に対して行っていた。徳川宗家18代当主の徳川恒孝さんがそのようにおっしゃっていた。「日本は人口3000万人で自給バランスは取れている。外国と貿易したら、自給バランスが壊れてしまう。ただ諸外国の船の水や薪が不足したら、何とかしましょう。」という内容で回答するはずだった。幕府からみたら、交易しなくてもやっていける、というのは筋が通っている。しかし、世界から見れば問題である。ハリスの通訳で暗殺されたヒュースケンは、「もし、日本の高い山に登ったら、たくさんの船がアメリカの旗を翻し、何千マイルも越えて、日本の岸まで鯨を取りに来ているのが見えるだろう。勇気があり、活動力にも欠けていない日本人が、なぜアメリカの岸まで行って、日本の旗を掲げようとしないのか。」

―鯨油の時代―
どうして当時、捕鯨船が日本近海にきたかというと、今は石油文明ですが、当時は、鯨の油の文明だった。欧米では本を読むときの灯りは鯨油。本の出版印刷にも、石鹸の製造にも鯨油は欠かせなかった。石鹸をつくるときに使うグリセリンにニトロを混ぜると、ニトログリセリン、爆薬ができる。ノーベルが巨万の富を気づいたのは鯨油文明だった。鯨を乱獲しており、北欧から、ノルウェー・スエーデンからも鯨を捕り尽くして、日本近海に来た。『風とともに去りぬ』にも登場するコルセットも鯨のひげで作った。
世界は鯨文明だったので、鯨を求めて欧米は遥々日本海に来るが、途中野菜も水も不足するが、日本の港に行けば、鎖国ですから、寄航した船は捕縛してしまう。今の時代、他国の人でも遭難したら助けるのは当たり前でしょう。
グローバルスタンダードに参画しなさいとペリーは言いに来た。

―歴史を学んでいまの日本を学んで行きたい―
明治維新の始まりは鳥羽伏見の戦いなんですね。大阪近辺に、幕府軍は1万5000人くらいいた。薩長は10分の1の1000~2000人の兵しかいなかった。
数で言ったら、幕府軍が多いのに、どうして幕府軍が負けたかというと幕府軍は時代の風に当たっていなかった。幕府軍は時代と社会に負けた。薩摩は当時最先端の強国イギリスと戦い結果は五分五分だった。勝ち負けよりも、欧米の軍事力を認め、学び、取り入れた。
長州は1864年、アメリカ・イギリス・フランス・オランダに攻められて、降伏した。長州の精神的な武力じゃだめだ!と切り替えて、欧米の科学技術を取り入れた。薩長は世界最先端の軍事力に触れていた。幕府は外交交渉ばかりで、知識としては欧米のことは知っていたが、実践経験はなかった。世界の流れを知らない軍隊と、実践ある軍隊とでは、後者が勝つのが事実。現代でもわれわれは時代を知っているようであるけれど、時代を肌で感じる体験が、時代の流れを体系的に知っておくことが、大切だと思う。

投稿者 Master : 15:55 | コメント (0)

小川福太郎氏ベアトの写真の秘密を語る

第二回山岡鉄舟全国フォーラム2005記録

ベアトの写真の秘密を見て気がついたことをお話いたします。
愛宕山は、大正14年3月22日に初めてラジオ放送が始まった日本の放送が生まれた場所。NHK放送博物館は、それまで展示していただけだったが、来館者に説明を行うことになり、私は平成8年からボランティアとして放送博物館にて来館者説明していた。
―1866年と今の景観が大きく変わらないのではないか―
配布したのはベアトの撮った写真で、この写真がNHK放送博物館に展示してあり、いつも眺めていた。勝海舟、西郷隆盛がご覧になったのはこの写真を撮った1868年より2年前ではないか。道路やお寺は変わっていない。眺めているうちに、そう景観は変わらないであろうと気がついた。右の森には専修寺、道を隔てた森の前辺りが慈恵医大、左側の道路は愛宕下通り、真ん中の写真の上が江戸湾(東京湾)、近くに見える森は浜離宮、左側、大きなお寺風の屋根は築地本願寺。

真ん中に大きな木があるが、関東大震災まであった新橋のおばけ銀杏。国道一号線のところに浅野内匠守終焉の地、自刃の碑があり、中村碁盤店にこの木が立っていた。もう一つの資料の住宅地図は凡例図、お寺は黒塗りになっている。
―牧野備前守の屋敷―
中央手前に写っている白と黒の壁は108メートルくらいある。建物の後ろの方にある牧野備前守の屋敷は敷地3500坪あったのでは?
手前のところの一見平屋のように見えるが、2階屋。真ん中の写真。左から右のほうに見ていくと、屋根の下に屋根がある。これを見ますと、江戸上屋敷・下屋敷というが、全部塀で囲ってあり、塀の中には下級武士(一般社員)が入っている。上屋敷は上司・奥方が住んでおり、その周りには下級の職の方が住んでいたのでしょう。それぞれにご覧にいただくと、櫓あります。自分の家に火を出さない火の用心・盗難防止を含めて、火の見やぐらの意味も持つ。
よくご覧になると真ん中の写真の左のほうに屋根の下に屋根がある。これは、屋根があって、その下の小さな屋根はスライドの屋根になって、煙だしの口。
ということは、そこは勝手口。現在の換気扇という生活状態だったろうと思う

―人が写っていない―、―しかし良く見ると―
写真には夜でもないのに、人が一人も写っていない。これは、当時は写真の露出時間が長いからです。シャッターを切って、映像が感じるまでの時間が長いので、動くものは写らない。
しかし、写真をよく見ると、4・5人移っている。たとえば写真の一番下。欄外に「幕末写真帖(愛宕山から見た江戸のパノラマ)」の「見」の字の3cmくらい上、お寺の庇の下の所に屋根を見上げている人の頭が写っています。愛宕下の真福寺のお坊さんでしょう。何を見ているかというと、真福寺の屋根の一番端の瓦が壊れている。真ん中の一番上の方に梯子が掛かっていて、屋根瓦を直している。その右の上に松の木が見えて、2つ森が見えて、その下あたりもそうだが、3人の人が見える。あらゆるところの屋根瓦が傷んでいるので、9月ごろの台風の後であろうと推測する。

住宅地図は、すべて名前の向きが違っている。写真の一番下中央より右側に道路があり、に反対側に松平正三郎と名がある。すべてこの住宅地図は正面玄関の方を向いて、名前が書かれているということも勉強になった。

住宅地図の真ん中の上にある「虎ノ御門」は、現在の虎ノ門です。
明治の跡、すべて壊して、京浜東北線になった。右のほうの黒くなっている。

新橋の駅の近く、お堀、地下が銀座線。ずいぶん様相が変わっているが、道路はあまり変わっていない。西郷と勝海舟がおのぼりになったあと、愛宕神社の45度の急な階段86段を上っていた。ここから、このような状況でこの雰囲気で、西郷・勝は、鉄舟の計らいでお会いになって、官軍で火を放つことはなかった。
写真を見て気がついたということで、ご披露させていただきました

【事務局の感想】
NHK放送博物館には、一度お邪魔して小川さんに解説をしていただいたことがありました。珍しいものが残されています。その中の一つが、今回解説していただいた
写真です。この発見も毎日見ている人でないと気が付かない事柄でしょう。
皆様もぜひ一度NHK放送博物館に足を運んでみられてはいかがでしょうか。

投稿者 Master : 15:52 | コメント (0)

高橋敏名誉教授「山岡鉄舟と清水次郎長」を語る(2)

第二回山岡鉄舟全国フォーラム2005 記録

3、鉄舟・次郎長・愚庵
天田愚庵は、安藤信正5万石の家臣甘田平太夫の子である。
戊辰戦争に加わり、官軍と戦うが、圧倒的な武力で負ける。天田愚庵は逃げるが、戻ったときには両親と妹が行方不明。親を探して東京に出てくるが、生活に窮した。
明治政府からみれば、賊軍ですから、世間は非常に冷たい。事実明治維新政府は会津を筆頭に賊軍だった人は登用しなかった。最初は神田のニコライ堂にロシア正教の寄宿舎に置いてもらった。ロシア正教に入信しなければならなかったが、愚庵は、儒学思想に凝り固まっているから、ニコライ堂から出る。明治は武士道が生きていた時代であり、小池詳敬という明治新政府に仕えている人の食客となる。そこで天田愚案は鉄舟に出会う。そのころの天田愚庵は明治新政府に反感を持っていて、きな臭い雰囲気を持った人物だった。社会も危険な状況が明治10年の西南戦争が終わるまで続く。そんな政情定かではない状況の中で、鉄舟は天田愚庵を心配して面倒を見る。鉄舟は何人も差別しない人で愚庵の話を聞いてやる。

清水次郎長も博徒であり、恐喝も人殺しもした、人前で褒め称えられる人ではない。その清水次郎長に対しても、鉄舟は実に温かい。鉄舟は人の長所に対して温かく評価して、悪いところは見ない。石坂周造には大変迷惑を蒙ったと思うが、苦楽をともにした腐れ縁なのだろうか、鉄舟は終生縁を切らず助けた。

4、書簡から見える鉄舟の人間性
鉄舟の温かみを書簡で説明したい。
―次郎長あての手紙はひらがな―
次郎長に宛てた手紙は、ほとんどひらがなで書かれている。次郎長はようやく読み書きが可能な程度で識字としてはたどたどしい。山岡鉄舟は配慮して、次郎長への手紙は文章も実に明快で、読みやすくしている。天田愚庵を呼びつけて、心配だから次郎長に愚庵を預かってくれと頼んでいる。

次郎長も鉄舟に迷惑をかける。鉄舟寺を建立するときに、伊豆の石を使い320円かかったが、支払えず、鉄舟の書600枚でお金の代わりにしている。
また、末広という旅館の落成祝いの記念に鉄舟の書を1008本扇子に書いてもらっている。鉄舟はこれを引き受けた。

鉄舟が次郎長を知ったきっかけの一つとして、9月18日の咸臨丸事件がある。咸臨丸が難破して清水港に入ったとき、官軍が降伏している乗組員を全部殺してしまった。収容しないため戦死者の死体が港内に浮いていたのを、次郎長が「死んでしまったら敵も味方もない、皆仏だ」と収容し、葬った。それを知って鉄舟が「お前はいい男だ!」と知り合ったという説と、3月9日、望嶽亭から駿府に入ったときに介在していたという説がある。

―石坂周造あての手紙は漢字―
石坂周造に宛てた手紙、清水次郎長に宛てた手紙とは違って漢字が多く、読みにくい。相手を区別して、手紙を書いて送っていた。石坂周造は、やることなすこと詐欺師的だったが、弁舌爽やかで人を本気にさせる才能は持っていた。石油開発にのめりこんで、資金を集めては破産してしまう。鉄舟は保証人になっていて、当時高給取りだったが、今で言う裁判所に財産を押さえられた。
鉄舟は金銭にわだかまりのない人で、信用した人は終生の友だったのでは?
博徒取り締まりで国家の施策として次郎長がつかまった。救援に当たった天田愚庵が『東海遊興伝』を出版したが、これはどうにもならなかった。次郎長の救援も、天田愚庵が次郎長の養子をやめて戻るときも鉄舟は関わっている。

鉄舟に対して残っている資料は点のようにしかないが、研究を進め、一点をつなげていくことにより、鉄舟の魅力は結実していくと思う。

【事務局の感想】
歴史の研究者からみても、鉄舟の記録がないということは研究の難しさがあるということがわかりました。鉄舟・21・サロンでは山本紀久雄氏という研究家がいるお蔭で、その難しい問題に正面から取り組んでいるサロンということで自信が持てます。
歴鉄舟の暖かい人柄ということを歴史研究家から発言していただくことには重みがあります。鉄舟の様々な業績の背景には、この鉄舟の人柄が大きく反映していることは間違いのないことでしょう。

投稿者 Master : 15:48 | コメント (0)

高橋敏名誉教授「山岡鉄舟と清水次郎長」を語る(1)

9月11日開催 
第二回山岡鉄舟全国フォーラム2005 記録


■「山岡鉄舟全国フォーラム2005」
日時:2005年9月11日(月)13:00~16:00
講演:国立歴史民俗博物館名誉教授 高橋敏氏
元NHK放送博物館館員 小川福太郎氏
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄氏
場所:学士会館
参加者:63名

■国立歴史民俗博物館名誉教授 高橋敏氏
「山岡鉄舟と清水次郎長」
―高橋先生の歴史に対する考え方―
鉄舟の専門家ではないですが、30年くらい歴史学の研究者をやっている。
歴史学の研究は公的な学問であり、江戸時代だと支配、マルキシズムの影響を受けて社会経済学的な側面からみた堅い歴史が教科書になっている。
長年歴史に携わってきて、歴史は正史だけを扱えばいいのかと疑問を感じた。
正史、稗史 (正史に対して民間が語り伝えたもの)と2種類あるが、どちらかというと文献に残らない、排除されたものを拾っていくのが歴史の研究には必要なのではないかと考える。アウトローであった国定忠治や清水次郎長が、時代と社会の中を、どう生きてきたかに興味を持ち、国の博物館では異例の内容だったが、歴史学としてどのように扱えるかを研究し、展示した。

―鉄舟研究のきっかけ―
次郎長については浪曲から、映画、芝居など、1000とくだらない著作・作品がある。岩波書店から『清水の次郎長と幕末維新-『東海遊侠伝』の世界-』を出版したが、これは、天田愚庵が次郎長の話を聞いてまとめた『東海遊侠伝』を資料とした研究書である。種本をアカデミックに研究することは今まで誰もやらなかったことだが、今後次郎長に対して、研究するときに基準になるであろう本である。この次郎長の研究の際に山岡鉄舟を研究した。

次郎長の養子にもなった天田愚庵を次郎長に紹介したのが山岡鉄舟である。
鉄舟について書かれている本はあるが、アカデミズムの研究者が本格的に
扱っていない。理由は、山岡鉄舟が書き残した、もしくは周辺の人が書き残した第一次資料がないからである。

―鉄舟研究の難しさゆえに魅力があり、新事実の可能性がある―
国定忠治には伝記や、取り締まり側の代官が書いた資料があるからアカデミックな研究書も書ける。
鉄舟は自らの栄誉とか名誉について語っていない。幕末に活躍した人は勲章を貰って、偉くなったつもりで銅像や伝記を作らせた人もいるが、鉄舟は、そういうことをしなかった人でしょう。そのことが研究を難しくしているが、逆に謎だから魅力がある。鉄舟の資料は点のようにしか存在しない。
歴史というのは、これら線を面にし、立体化していかなければならない。鉄舟21サロンで「現代と山岡鉄舟を結びつけて」とおっしゃっているように、時代がどのように変わろうとも、鉄舟は、その時代時代の中で見直され、読み直されていくのではないか。鉄舟は描くのが難しいといわれている人だが、逆に謎だから魅力があり、研究により新しい事実が発見される可能性がある。


1.幕臣山岡鉄太郎の周辺
―江戸時代には旗本・御家人株が売買できた―
江戸時代の初めから、系譜、家譜、由緒といい、大名・旗本・御家人と制度的に決められていくが、江戸時代の幕末には、旗本・御家人株の相場があり、お金があれば買うことができた。

勝海舟の出自は本来の勝家とは血縁関係はない。
徳川幕府は18世紀ごろから変容していくが、身分の移動は幕府が潰れていく証拠じゃないかというとそうでもない。徳川幕府の人材登用の一つの政策だったのではないかと考える。
かつては百姓・町人、豪商が侍になろうと御家人株・旗本株を買って、旗本や御家人に納まった。養子になれば問題ない。
元はといえば、海舟・鉄舟の旗本・御家人は幕府の支配体制でいえば下の方だが、
幕末に躍り出てくるのは、彼らの持っている能力や人間性である。

―鉄舟は小野道風の子孫―
「寛政重修諸家譜」という幕府が公認した系譜がある。山岡鉄太郎、元は小野鉄太郎。小野家を調べると、小野家は600石の旗本。旗本では中クラスで、将軍に御目見えできる。嘘か本当か分からないが、小野道風の子孫であると書かれていた。鉄舟が書家なのは、隔世遺伝ではないか?といえば面白い。

―鉄舟の生い立ち―
鉄舟の父、朝右衛門は、寛政2年に600石の旗本を継いだ。御蔵奉行にもなり、将軍からいただいた俸禄の600石分の知行所を支配している。
朝右衛門の場合は知行所から上がる年貢分の600石と役料として200俵・飛騨郡代のときは400俵もらっていた。この年貢の分と役についている役料分が1年間の収入になる。この御蔵奉行にしても、飛騨郡代でも、実入りが良いのではないか。『江戸の訴訟』(岩波新書)にも書いたが、江戸時代は賄賂と贈答の世界。御蔵奉行、飛騨郡代としても、結構な職であって、見入りがあったのではないかと思う。郡代役所に加え、出張陣屋が2つあり、手付け・手代だけで24人いた。小説を紐解くと能力のない人といわれているが、それなりに出世した人ではないか。鉄太郎は、朝右衛門の後妻の子供。朝右衛門のあとは長男が継ぐことになっていたので、鉄太郎は、部屋住みであった。

母の磯は3番目の奥さん。おそらく朝右衛門の知行所は常陸にあり、その知行所を差配していた地方の役人、塚原岩見の娘。塚原は朝右衛門の知行所を切り盛りしていた。磯とは年が離れていたが、朝右衛門は一生面倒見るからと証文を書き、結婚した。嘉永4年、鉄太郎16歳のときに母親が、翌年父親が亡くなる。乳飲み子も含めて弟が5人おり、父親は枕元で鉄太郎を呼んで、後のことを託したという。

磯は、身分的には百姓・町人の娘だが、金銭面の管理もしっかりした人だった。
600石の小野の家は腹違いのお兄さんに持っていかれる。産んだ子6人をどうにかしなきゃいけない。鉄太郎も含めた兄弟たちが養子にいくための持参金として3500両を子供に残した。旗本が養子にいくには数百両の持参金が必要であり、持参金としては決して多い数字ではないが準備していた。

小野家の年収は、概算でおよそ502両である。7年くらい飛騨郡代をやったとすれば3500両くらいにはなる。年収すべてを貯めることはできないから、3500両を残すことはすごい数字ではあるが、磯の管理と贈り物などで、実際にこの金額があった可能性はある。

山岡鉄舟は自分の剣術の先生山岡静山の妹、英子と結婚し、山岡家を継ぐ。高橋泥舟の家は、もっと家についている年収は低いが、足し高の役料がある。

2)江戸切絵図
復元江戸情報地図で朝右衛門の家を調べたところ、
現在の千代田区九段の衆議院議員宿舎付近で、1000坪あるかないかのお屋敷。
山岡鉄舟・高橋泥舟の家は隣同士といわれており、現在の小石川4丁目付近。
鉄舟の屋敷地所は横に曲がっていて、やや広め。道場も作ったというし、清川八郎の首を鉄舟が一時庭に埋めたという話しもある。100坪以上あるので、清川八郎の首も庭に埋めることができたでしょう。

2、幕臣の明治維新
今日お話しする、鉄舟・清水次郎長・天田愚庵、この人物は魅力的。明治維新で幕府は倒れ、明治新政府により、明治が始まった。
フランス革命のように非常にドラマチックなことは起きなかったが、一大変化が起きた。徳川家も生き延び、血を流すとか、悲劇的なことは避けた革命であった。明治維新の変革は日本型の改革として評価してよいと思う。

3人を結びつけるのは、明治維新に対して旧幕の負い目を感じている点。
幕臣でありながら明治新政府に出仕した勝海舟なども負い目を感じていたのではないか。

鉄舟を有名にしている明治元年3月9日、駿府に徳川慶喜の密使として、江戸を戦乱の大火から守った。幕臣でありながら、自らが徳川幕府にピリオドを打たせたキッカケを作った。そのことが鉄舟という人物に対して、大変暖かい人間性をつくったような気がする。鉄舟の周囲には天田愚庵、石坂周造、村上俊五郎など、鉄舟なくては生きられない人が食客としている。

しかし鉄舟は、当初尊皇攘夷運動に賭けていった清川八郎と一番近かった。
清川は自分の村の名で本当の姓は斉藤で、ゆたかな家の資金を投じて、尊王攘夷を組織していく。危険人物である清川八郎と繋がっていたが、鉄舟は旗本で屋敷を構えているので、江戸の治安を守る町奉行は手を出せない。鉄舟を捕らえるには、目付の許可が要る。旗本であったことで、幕府を否定する側の清川と組んでいても危なくなかった。

投稿者 Master : 15:40 | コメント (0)