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2006年07月23日

7月例会記録

■ 山本紀久雄氏
「鉄舟の父にまつわるビックリ事項」

資料の古地図(切絵図という)に靖国神社があり、鉄舟が江戸に戻って住んだ
小野鶴次郎の家も載っている。

(資料の補足:印刷が切れた文字部分)
「17歳の鉄太郎が江戸に戻って住んだ異母兄小野鶴次郎屋敷、嘉永5年(1852年)」

当時切絵図が頻繁に販売されており、この資料(切絵図)の前の版では、小野鶴次郎の家が、お父さんの「小野朝右衛門」になっている。切絵図は江戸に来た人が買い求めて、これを持って江戸を見物して歩いた。先ほどの森田さんのお話では、会津藩と仙台藩が10回火事にあったといっていた。これはケインズ経済学で、景気が悪くなると火をつける。民間の長屋はまた燃えるからと簡単なものしかつくらない、そんなことを言っている人もいる。

1.江戸時代を研究する意味

「江戸時代を研究する意味」の「江戸時代」を「鉄舟」に置き換えて考えてもらえればよろしいかと思う。

「今は一身にして、二生を経る」
福沢諭吉が、明治になってから言った言葉。福沢諭吉は下級武士から明治時代になって慶応大学を創設し、文化をリードした人。幕臣とそれ以後の生活が2度来たということを意味している。鉄舟も幕臣と明治天皇の侍従と、2度生きた。福沢諭吉や鉄舟以外の幕末の人たちも「江戸時代」と「明治時代」の二つの時代を生きている。

二つの時代を生きるということは、現代でもほとんどの方が当てはまる。現代は長生きの時代で、85~90歳まで生きる。お勤めの時代、定年後、と2つの人生がある。

福沢諭吉は、140年前に今の時代も見抜いていたと考えた方が良い。さて、寿命が延び、2つ目の人生をどうするか?
一つ目は過去基準で生きる人。昔の勤め人と比較して、次の一生を考える。
二つ目は業界基準で生きる人。定年した者同士で、自分と他者を考える。
三つ目は可能性基準。どういう可能性を生きたかを考える。
ワールドカップでの日本のサッカーは世界的なレベルの戦いを想定していなかった、という記事が日経新聞に出ていた。練習でフルに力を出していなかった。練習で出なかった力をどうして本番で発揮できるのか?世界基準に合わせて練習していたのか、という内容。

ロンドンにはブックメイカーという政府公認の賭け屋があり、ここでのワールドカップの日本の掛け率は一番低かった。実力は、F組4チームの中では最下位だと予想されていた。FIFAの評価基準はF組内ではブラジルの次だったので、日本人はオーストラリア、クロアチアに勝ち、予選を通るという甘い見込みがあった。日本とロンドンでは見込みが違う。世界でみたときに日本の見解は甘い。

我々も基準をどこにおくか、可能性をどこに置くかを考えて、生きていかなくてはならない。では、鉄舟は基準をどこにおいたか、ということを考えてみる。

坂本竜馬は、みんな知っている。鉄舟は知らない人が多い。坂本竜馬はなぜ有名なのかというと、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』がヒットしたから。織田信長と坂本竜馬は日本人が大好きな二人で、この二人が登場すれば、テレビも本もヒットする。

なぜ、この二人が日本人に人気があるかというと、司馬遼太郎の描き方に原因がある。坂本竜馬は、お姉さんに甘えて育って、剣術は少しできたので、剣術修行のために江戸へ出た。あるとき世界を相手に商売する!これからは万国公法に基づくべきだ!と海援隊をつくり、明治維新の全体構造ができたと書かれている。
お姉さんに甘えて育ったのに、なぜ急に素晴らしいことが出来たのか?坂本竜馬は実は小さいときから頭が良かった。若い頃からオランダ語が出来た。剣術家ではなく、頭がよかったというのが真実らしい。しかし秀才が秀才になるのでは面白くない。馬鹿が一瞬にして頭が良くなる方が夢やロマンがある。

昨日も阿呆で今日も阿呆、それで明日は天才になるわけがない。今日の生き方が大事であり、日々の行動の積み重ねが生活習慣になり、人は変わることができる。鉄舟は日々の鍛錬によって自分を作り上げていった。

織田信長は何で人気あるのか?たわけもの、うつけものだと領民から馬鹿にされていた。しかし斎藤道三に会ったとき、礼儀正しく堂々と会話ができた。どうして、昨日まで馬鹿だった人が、平安時代の流れを汲む古式豊かな対応ができるのか。急にできるわけがない。信長には教養があった。

今の学生は、採用試験を受ける前に就職用の心理テスト、性格テストを何十回と勉強している。入りたい部署に合わせてテストを回答するので、入社して部署に入ったら、その仕事に向いていない、ということも発生する。適正が合わず鬱になることも多い。採用試験の仕組みを考えた学校側が、学生に採用面接や性格テストの対応をさせすぎてしまっている。採用試験の点数は良いけれど、その後何もできない人が多い。そして、そういう付け焼刃的な訓練は身につかない。

坂本竜馬、織田信長の生い立ちのように、阿呆だったものが一夜にして秀才になるというロマンテックな歴史の読み方ではいけない。厳しくしなければならない。

鉄舟には、織田信長や坂本竜馬のような浮ついた話は一つもない。両親を相次いで亡くし、17歳で小野鶴次郎の家に来たときには、11歳から2歳までの弟が5人居た。この弟たちを育てながら、合間に剣や書を勉強した。地道に努力してきたこの苦労がその後の生活に生きてきた。

何とかなるのではないか、という生き方で生きていても何ともならない。長期的に進めていかなければ飛躍はない。
鉄舟は、自分の人間の完成のために、亡くなる直前まで努力をした人。
山岡鉄舟は現代に欠けている“日本人は地道な努力の人である”ということを教えてくれる。江戸時代は地道な努力をする伝統文化が残っていた。第二次世界大戦で敗戦後、アメリカが入って、忘れ去られてしまった。

このところ、日本の伝統文化の大切さが認識され、見直そうとしている。江戸文化を勉強すること、鉄舟を勉強することは、昔の我々の良い生活習慣を自分のものにするための勉強をしていると理解していただきたい。


2.鉄舟の父の死にまつわるビックリ事項
①79歳まで飛騨高山代官所の郡代・・・生涯現役
②亡くなったときに二歳の乳飲み子がいた・・・77歳のときに生まれた
③母磯との再婚は63歳の時
④飛騨高山代官所の郡代への赴任は72歳の時
⑤鉄舟に渡された遺産現金額は3500両、この現代換算金額は?
   日銀貨幣博物館資料より
    米価から計算した金一両の価値
     江戸時代初期・・・10万円
        中後期・・・3~5万円
     幕末の頃・・・・・3~4千円
    父小野朝右衛門の死は嘉永五年(1852)、これは明治維新から16年前、ペリー来航の一年前であるから幕末時期に向う直前であるので、上の江戸時代中後期3~5万円で計算すると
10,500万円、14,000万円、17,500万円となる。
⑥この3500両を鉄舟はどのように使ったか、そこに鉄舟の生き様が顕れている

今は60歳で定年退職するのが当たり前だが、鉄舟の父である小野朝右衛門は勘定奉行から飛騨高山へ転勤したのが72歳で、79歳で亡くなるまで職場にいた。江戸時代は定年制がなかった。もちろん悪い人は辞めてもらうが、有能な人は死ぬまで雇用していた江戸時代を馬鹿にできない。

2002年の日経新聞文化欄の記事から江戸時代に定年制がなかったことがわかった。徳川幕府のサラリーマンであった江戸中期の平岡彦兵衛は無名な人ではあったけれど、在勤中9箇所まわり、喜寿(77歳)で辞めたという。
この記事から朝右衛門が79歳まで働いていたことが証明できる。

鉄舟の一番下の弟は、両親と死に別れた当時は2歳。朝右衛門、77歳の時の子供。
鹿島神宮の神官の娘であった磯さん(当時26歳)と再婚したのが63歳。磯さんの両親は、年が違い過ぎると反対したが、倅の代になっても大事にすることを約束し、懇願して結婚した。朝右衛門と結婚後、磯さんは6人全員男の子を生んだ。

山岡鉄舟も素晴らしい人だったが、お父さんもエネルギッシュで健康だった。そんな健康だった人が、なぜ急になくなってしまったのだろう。お母さんは46歳で脳卒中が原因で亡くなった。

磯さんが亡くなって5ヵ月後にお父さんが亡くなった。死因は黄疸という説と、脳溢血という説がある。黄疸は時間を掛けて悪くなる病気なので、2年前は元気だった朝右衛門の死因が黄疸であるとは考えにくい。では脳溢血か。

もう一つには切腹させられたという説もある。朝右衛門は亡くなるときに鉄舟を枕元に呼んで、“残された幼い弟たちのことを、親代わりになって育ててくれ”と頼んで亡くなった。朝右衛門は子供たちに3500両を残していた。

3500両という金額は現在の価格にするといくらか?どの本にも書かれていない。
江戸時代を研究してみると、3500両を現在の金額に換算することが、なかなか難しい。難しい理由がいくつかある。

江戸時代は金・銀・銅の3つが流通しており、3つ全てに相場があった。日本という国に円・ドル・ユーロがあるようなもの。江戸時代の人は頭がいい。レートがあるから為替で設けた人もいるでしょう。

2つ目は小判に入る金の含有量が改鋳されて、年々少なくなってきているので、時代によって、金の価格が変わる。当事の米、蕎麦、労働の賃金で判断して逆算するしかない。ただそれも天候異変があり、頻繁に飢饉があったため物価が安定せず判断基準がない。それでは身も蓋もないので、物価が安定していた文政時代(1820年代)の資料をみる。
食費を基準にすると1両4~20万円、平均して12万円、労賃を基準にすると1両20~35万円、平均27万円。それぞれ3500両をかけてみる。食費の平均12万円に3500両を掛けると4億2000万円。労賃の平均27万円に掛けると9億4500万円。定年退職して退職金を1億円もらえる人はいない。

次に、日銀に貨幣研究所があって、そこで調べてみた。日銀では米価換算で金額を出している。江戸初期は、1両=10万円、江戸の中・後期は1両=3~5万円、幕末は1両=3~4000円。

朝右衛門の亡くなったのはペリーの来る1年前~ペリーが浦賀に来てから15年間を幕末という~なので、江戸後期として平均4万円を取る。3500両×4万円と計算すると父親から残された金額は1億2000万円。4億2000万円、9億4500万円、1億2000万円、この3つのうちどれかになると思われる。

そんなに代官の収入はあったのか?当時の代官の給金は5万石=600両、高山は10万石なので1200両、幕府から給金をもらえた。家賃は無料、使用人はついており、磯さんもしっかりしていたので、3500両を残せるほどの金額は貯められたでしょう。

両親が残した3500両を鉄舟はどのように使ったのか。小野鶴次郎は当事跡取りだったが、鉄舟には冷たく弟たちの面倒は見てくれなかった。鉄太郎は弟を5人も育てられないので、1人500両の持参金を付けて養子に出した。義理の兄である鶴次郎に900両を、残りの100両を持って鉄太郎も山岡家に養子に行った。


3.父母の死にまつわる疑問説・・・成川勇治氏の見解・・・正史か稗史か

成川勇治氏は1920年生まれの86歳で、鉄舟の血筋を継ぐ方。鉄舟と鉄舟の奥さん英子さんの間に子供が3人いる。最初の子は亡くなり、長女は松子、次女嶌子、長男直記、この直紀が山岡家を継いだ。

直記は、詐欺まがいのことをして子爵を取り消された。お金がないから、勝海舟にお金を貰いに行っている。勝海舟の明治31年の日記にお金を貰いにきたことが載っている。どうしようもない子供である。このため、鉄舟の子孫は調べていくといやがる。子孫はどこにいるかわからない。

直記の奥さんがまさ子さん、子供は鉄雄さんと龍雄さん、きくさん、武男さんの4人居たが、武男が生後70日のときに、直紀の会社が倒産し財産没収になった。武男は、鉄舟の弟子の成川忠次郎のところへ養子に出された。忠次郎の子供が精一、精一さんの子供が行子さんで、その行子さんと結婚させた。このお二人から生まれたのが、成川勇治氏。

成川氏は、鉄舟の娘・松子さんが精一さんに鉄舟の両親が何故亡くなったかをしゃべったという。磯さんは幕府の隠密に毒殺された。朝右衛門が陣立てといって、演習を何回もやったので幕府は謀反を起こすのではないか、と疑い高山に隠密を送った。栗狩りのとき、磯さんは栗に毒を入れられて急死した。また、3500両という大金の蓄財疑惑もあった。この蓄財疑惑はその後調べたら疑惑ではなかったが、その責任を取って小野朝右衛門は切腹したという自刃説がある。

この説を調べた方がいる。小島英煕さんという日本経済新聞の記者で、小島直記さんの息子さん。6年ほど前に毎週土曜日に鉄舟の記事を書いていた。この方の書いた本に毒殺説が出ている。

鉄舟の息子・直記さんについて少し話すと、優秀な山岡鉄舟の息子に、なぜどうしようもない人が生まれたのか?ありえるのか?親の教育が悪かったとは思いたくない。親が優れすぎているために子供が苦労することもある。
河合隼雄さんの『影の現象学』には、親が影のない生き方をした~人のために尽くした宗教家、教育者など~の場合、子供に影が出来ることがあると書いてある。親には全くなかった影を子供が全て引き受けてしまうことがあるようだ。


【事務局の感想】
江戸時代は生涯現役だったという認識は、皆様の中にもなかったのではないでしょうか。この話をきいてから、テレビ番組の中で、名前はわすれましたが、戦場にでた兵士の年齢が72歳であったという話を聞きました。
まったく山本さんの説を裏付けるものでした。
鉄舟を通じて、新しい切り口で歴史を学ぶことができるのも、山本さんの鉄舟研究によっていますので、今後ともよろしくお願いいたします。

投稿者 staff : 2006年07月23日 12:26

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