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2007年03月29日

3月例会の感想

鉄舟サロン3月の例会の様子をお知らせします。
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この日は汗ばむほどの陽気で、桜もさぞ気持ちよくつぼみをほころばせているだろうと思いつつ、上野にまいりました。
不忍池まで足を伸ばした参加者に聞いてみると、桜もさることながら、お花見の場所取りの人であたりはあふれかえっていたとのこと。あにはからんや。

今回の発表は松村さん。「日本再生のキーワード」と題して、政治、経済、教育、文化と幅広い視点からお話しいただきました。
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その中で印象的だったのが、「持続可能な開発のための教育の10年」という国連のキャンペーンが2005年から行われていることです。こういうことが行われていることを知らなかった上に、これを国連に提案したのは当時の小泉内閣とのこと。時間の関係で詳しい内容をご説明いただくことができませんでしたが、パンフレットをご提供いただきましたので、じっくり勉強してみたいと思いました。

続いて、山本さんの発表。
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今回も豊富な話題と鋭い分析で笑ったり唸ったりでした。
今回学んだのは、「鉄舟の人生の目的」。
鉄舟は大変大きな人生の目的を持ち、それに向かって修行に励んだのです。
鉄舟が掲げた人生の目的、それをぶれることなく貫く意志力。
やはり鉄舟はすごい。

学ぶことの喜びを感じることのできた例会でした。

投稿者 lefthand : 20:53 | コメント (0)

2007年03月16日

2月例会記録(2)

■山本紀久雄氏
「山岡静山との出会い・・・その一」

 松永さんから大変いいお話をいただいた。鈴与グループは大きなグループの会社でして、そこで研究をされている。配られたタバコの害を読むと副流煙の方が害は大きい。どのくらい離れたら害がないか専門家にきいたら、煙は70メートル流れてくるとのこと。防衛できませんね。

 人口問題の件も、幕末時の人口は2700万人だったが、現在の人口は1億2600万人と4.7倍に増えている。その結果いろんな矛盾が起きている。歴史は流れですから、少子高齢化は流れの中にあると思っている。松永さんみたいに元気な方が生産性をあげていく。全要素生産性として、労働生産性、資本生産性だけでないほかの部分で生産性を上げて、一人当たりのGDPを増やせば、豊かな暮らしができる。

 松永さんのお父さんは望嶽亭でお生まれになった。西郷隆盛に交渉に行く前に官軍に追われた山岡鉄舟を助けた望嶽亭は、現在23代松永さだよさんが守っている。

 朝倉さんの本は納得した。調べ抜いて、データも戸籍からもってきていますから、データのチェックとしてすごく役立つので高く評価している。

 金子さんは3月に外交評論家や和田中学校校長の藤原さんなど著名な人の講演会を行っている清話会で、経済界の人たちに講師としてぬりえの話をする。

 午後テレビ局の人が8人ほど来て、取材の収録があった。「本に出会う」という30分間のテレビ番組で3月3日と4日に放映される。前半はフランスを救った日本の牡蠣、後半は脳力開発の、こういう仕事をするきっかけとなった城野先生の教えについて話した。話しだけではつまらないですから、生牡蠣とフランスから買ってきたワインをあけてみせることをやる。牡蠣はノロウィルスで大変ですが、スポンサーから撮影用にたくさん送ってくれた。毎日食べている。おいしいですよね。

1.蓮華寺・山岡静山の墓
 蓮華寺は、文京区白山にある。現場から発想するということで、静山のお墓に行った。わからないので庫裏に行って、お寺の奥さん=大黒さんに尋ねた。

 なぜ大黒さんというのですかね?頭巾かぶって左肩に袋もって、小槌もって、俵の上に載っているのが大黒さん。大黒さんは炊事場に飾る習慣があるので、大黒さんとなった。

 ご住職が持ってきた紙には、「山岡静山、明治20年死ぬ」という記述があって、明治20年というのは山岡鉄舟がなくなった日で、静山は江戸時代に亡くなっている。
 立派なお墓ですが、120年くらい経っており、文字が擦り切れて読めない。「山岡累世墓」この意味が住職もわからず、困っていた。

 先日家内の母が亡くなり喪主として役目を果たした。仏壇屋に聞いてみたら、調べてくれて「累世墓(るいせいぼ)」と読み、代々のお墓という意味がわかった。
 目の前におきたことを結びつけて解決していく。そうしていかないと人生は動いていかない。

 蓮華寺は名門のお寺で、建立は豊臣秀吉が小田原北条を攻めたころ、ヨーロッパでは、スペイン無敵艦隊が負けたころにできた。武士寺として武士しか祭られなかったという由緒あるお寺。自分のところに歴史的なものがあれば研究して誰が来ても説明できるように。

 間違いなく、静山のお墓だというものを確かめないとならない。お墓の後ろに戒名があいてある。明治10年山岡鉄太郎建立とある。歴代の戒名が多数書いてある。そこから静山を探さないといけない。写真を撮って家で調べた。静山の戒名は、「清勝院殿法授静山居士」安政2年六月晦日とあって、静山のお墓であるとわかった。

 院殿=院号=位の高い人、法授=道号、静山=法号=生前の名前、居士=仏教徒
静山は鉄舟が敬愛し、尊敬し、影響を受けた人。静山と鉄太郎が会わなければ、あのような人物にならなかった。


2.ペリー来航時の日本の外交政策
13代将軍・徳川家定   
老中首座・阿部正弘
海防参与・徳川斉昭

(明治10年に山岡鉄太郎と書いている。いつから鉄舟になったのかは解明しないとならない。)
 嘉永6年、ペリー来航時、鉄太郎は18歳。ペリーが来て、江戸中が大騒ぎになった。南條範夫さんの話によるとその前の晩、鉄舟は新宿のいかがわしい場所にいた。道場に行くとひそひそ話しをしていて、鉄舟は情報集めに走った。

 当時の国際法を説明する。欧米諸国は勝手に世界中を文明国と半未開国とにわけた。文明国=欧米のみ、半未開国=トルコ・ペルシャ・朝鮮・中国・日本、で領事裁判権を認めない。未開国は国と認めていない。未開の国に入っていって認めたら、自分の国という。文明国国際法に基づいて交渉に入ってくる。そういう国際法があった。

 将軍徳川家慶が亡くなって、家定が将軍になる。日本が迎えた大事件の発生、時のトップがなくなって、次の世襲制によりなった。家定は体が弱い。
 老中首座の阿部正弘、名宰相を言われた人で10年以上老中首座であった。若いときから有能で、包容力、柔軟性があったが、後に働きすぎで過労でなくなった。

 阿部老中首座は、このとき初めてペリーから来た国書を諸大名、旗本、御三家に回して、意見を求めた。打ち払う(戦争)、戦争を避ける、条件付に貿易をする、開国論といろんな意見が出た。
○簡単に貿易を許すべし
○5年・10年公益を行い、その間に守りを備える
○公益を行って、国益に会わなければただちにやめる。
○アメリカ・ロシアは許すが、イギリスは許さない
○朱印船を復活して貿易をはじめる

 喧々諤々、まとまらないときに、徳川家の斉昭が意見を出し、その政策に決められた。
「ぶらかし」=ごまかし政策
胡麻菓子=小麦粉に胡麻を混ぜて焼き膨らませたお菓子で、外見だけで中身がない。
時間を稼げということ。ペリーが何を言ってもへらへらして、あきれて飽きてしまってアメリカに帰るのではないかというのが、苦心惨憺してあみだした妙計だった。石井先生の本に書いてある。大変な政策。

 表面上は鎖国ですから、「戦う」というけれど、実際は和で行こうというすっきりしないことをいうからペリーは怒り狂う。

 次の政策は、あぶもとらずはちもとらず政策という珍策。長崎において、今年から3年間、石炭を供給する。3年間汽船で試験的に貿易する代わりに石炭を供給する。一案二案ともたいしたことがない案。ペリーは、どうしようもないな、と帰っていくのではないかという考え。アメリカから徹底的に議論でやられ、とうとう和親条約を結ぶ。


3.足高制による人材登用
    岩瀬忠震・旗本三男部屋住み

 ペリーとの交渉政策は、徳川斉昭が提案した。有能な官僚は、上級旗本ではなく下級旗本だった。吉宗の時代から能力のある下級武士を登用する足高制度を導入し、弾力のある組織にしていた。封建といいながら、こういう施策を取っている。

筒井政憲、岩瀬忠震、川路聖謨、水野忠則、勝海舟
 当時の日本を支えたのは、こういう有能な人。ペリーも驚いたのは、サスケハナ号に乗ってきた与力が、地球儀を指し示しながら、NY、ワシントン、パナマ運河を見て、パナマ鉄道を作っているらしいがもう完成したか、という質問をした。


4.アメリカ・メジャーリーグと鉄舟に通じるもの・・・プロ意識

 ロサンゼルスにあるアナハイム・エンゼルスの球団職員タック川本氏と会った。2002年にワールドチャンピオンになったが、チャンピオンになると選手、球団職員はダイヤモンドのついた指輪をもらう。
 ヤンキースはワールドチャンピオンになっていない。タック氏は「運は簡単な運ではだめだ。もって生まれたものでもない。日ごろからの行動を正しくしていないとワールドチャンピオンにはなれない」と言う。

 テレビのインタビュアーから、経営コンサルタントのほかに海の牡蠣、世界の温泉、鉄舟、ぬりえと幅広く研究されているが、どれがあなたの素顔か?と聞かれたが、どれも素顔。脳力開発は戦略的思考を身につけること。城野先生の本によって身につけた。また、山岡鉄舟と脳力開発とはつながりますか?と質問を受けたので、当然つながりますと答えると、どういう意味ですか?と聞かれた。

 鉄舟は23歳のときに「宇宙と人間」を書いた。天皇陛下、武士公家、農民、これはぶれていない。天皇陛下の下に国体を維持する。西郷隆盛に国体の姿を天皇のところから判断していけば、西郷隆盛の思想同じ。戦略的思考をぶれないで持っているから迫力も生まれるし、西郷隆盛も納得する。

 開国すべきか議論が起きる。高山に「アメリカがきたおかげで、毎日忙しい生活をしておりますと手紙を書いている」みんなと一緒になって、あちこちに行っている。
 そのときの剣の師匠の井上清虎が鉄太郎に、「今おまえはどんな立場に居る?ペリーがきて騒いでも、おまえが解決できるか?それは政治の仕事だろう」といなされた。

 北川さんと伊古奈で早朝経済教室をやった。北川さんは経済とは、人間が朝起きてご飯食べて仕事するという一人一人の積み重ねという。ペリーがきた、テロがあった、核が飛んでくるというのが政治。政治と経済をごちゃごちゃにしてしまうと考えがまとまらない。

 鉄舟もペリーが来たとことによって入ってしまうと、自分の目的を見失う。ペリーの対応は幕府の政治家が行う。おまえは修行することが目的ではないか。そうだ!と目覚めて、剣の修行を再開した。

 何を言いたいかというと、自分の内面にあることを大事にしないとならない。
 「武士の一分」という映画は、毒見で失明した夫のために、奥さんはお百度参りして直そうとする。神仏に頼る。自分の内側に問題を抱え込むということ。

 静山という人物は、「およそ人に勝とうと思うならば、まず自分に徳を身に着けなければならない。徳がまさに敵を自然に降参させる。真の勝ちとはそういうものだ。」と述べている。

 自分を大事にしないとならない。外のことに目をくれるか、うちのことに目を向けるか。内因、外因とした場合、問題が起きたときに自分の中に問題があるから問題が起きた、主因は内因にありと、脳力開発でもいうが、こういうことを静山は言っている。「武士の一分」もそう。

 伊古奈に行って、「伊古奈」は、事代主命の奥さんの名前。神話の世界。日本の成り立ちの話を知らないと理解できない。
 すべての問題は自分側にある。外ではない。今の世の中は、外因が中心になっている。テロ、インターネットで情報が入ってくる。外因だけに目を奪われているとバランスが崩れる。「武士の一分」は、内因を鍛えなさいということを言っている。

 タック川本さんもそれを言っている、大リーグで成功するためには、一日4食食べなさいという。最後の4食目は寝る前に野球以外の知識を食べなさい。人間がゆがんだ人は本当の大リーガーになれない。知識を身につけることによって、自分の才能を自分で見つけることができる。
 日本人が高校を出て、タックさんの下に来る。技術があっても成功しない人がいる。
50名くらい大リーグに入るが、その人たちにタックさんは「氷が解けたら何になりますか?」と質問をする。「ウイスキーの水割りがもういっぱいほしくなる」「南極の氷がとけたから船が進む」「海水が増える、春だから」という答えがでる。

 高校時代に覚えたことを変えないから、変化できなくて大成できない。自分の中に変化するものを見つけて、プロになっていけというのが、大リーグで成功するはなし。

 テレビの取材で申し上げたが、いろんなことをやっていて、どれが素顔?どれも素顔。自分の中にある財産を探す旅をしている。その財産を他人が認めてくれたときにプロになる。自分だけが認めているうちはアマチュア。

 日本の選手が頑なに教えてもらったことをやっているようではプロにはなれない。
タックさんの大リーグの話も、鉄舟の話も生き方は共通している。内因の話を鍛えていく、探していく。自分の中にあるプロといえる道を探していく。

 鉄舟は静山に会うことによって、23歳で、「宇宙と人間」を書いた。ここからぶれないで一つのことをやっていった。戦略が正しければ、ぶれずに続けていく人が強い。

【事務局の感想】
 鉄舟研は、毎回現場からの研究を続けていただいていますが、その他に山本さんがお会いになった方や出来事などから、皆様にお伝えすべき情報をお話していただいています。
 今回は、内因、内面など自己の内側を探求することを発表していただきました。
つい忙しさにかまけて、忘れてしまう又は見ないようにしてしまう内因、内面について、立ち止まって考えなければいけないテーマをいただいたと思います。

投稿者 staff : 12:43 | コメント (0)

2月例会記録(1)

■松永純一氏

「私の仕事」
(国からの研究助成をもらっている産学官連携促進事業を中心として)

 父親の生家に鉄舟からもらったピストルが伝わっている関係でこの鉄舟会に参加させてもらっています。現在の私の仕事について紹介をさせていただきます。ちょっと長い自己紹介になりますが、ご勘弁ください。

 食物の仕事をしており、国の研究助成をもらっている仕事に2つほど関わっているので、紹介します。
資料1に私の履歴をつけさせていただきました。昭和13年生まれ、先月お話に出た「国民学校」の最後で、入学が国民学校、その年に終戦だった人間です。 
       
 製薬会社に勤め、現在は、鈴与総合研究所で食品関係のことをやっております。大学などの研究会に参加しております。研究助成が産業界、学会、官=役所、が協力して早く大学の研究成果を商品化して、早く儲けて、早く税金を収めろ、という関係になっている。研究助成のテーマが発表されてから人をすぐに集めるのは大変なので、大学の先生があらかじめ研究会を立ち上げていて、それに顔を出しているので、たくさんの研究会に参加している。
 ほかにもいろいろ関係しているものがあります。


 現在私の関係している国からの研究助成をもらっている産学官連携促進事業
・都市エリア産学官連携促進事業(文部科学省)について
「心身ストレスに起因する生活習慣病の克服をめざしたフーズサイエンスビジネスの創出」
 
 産学官連携促進事業の愛称が「フーズ・サイエンスヒルズ」という呼び名。静岡県では西の浜松を中心としたフォトンバレー、東は県立のがんセンターを中心にしたファルマバレー、中部が食品でフーズ・サイエンスヒルズという愛称で呼んでいる。新規機能性食品等開発研究会、研究会で大学と契約を結ぶ運営委員をやっている。


 静岡県には、山は南アルプスと富士山、海は湾として一番深い駿河湾。農林水産物がいろいろ取れ、全国順位で一番のものはお茶とみかんが有名ですが他にも資料3に載せたようなものが取れる。富士山からの湧き水の恩恵で虹鱒の養殖もできる。この様な農産物、海産物を利用して新しい食品産業を興そうというのが、一番の狙い。

 ロゴマーク(資料4)を今年から作ったので紹介させていただきます。輪は産学官の3つの輪を表し、赤い輪は研究者の情熱、緑の輪は山の幸、青の輪は海の幸、輪を卵型にして卵をうまく孵化させて育てよう、という心積もりで、ロゴマークを作った。ロゴマークの制定委員にもなっていた。

 「心身ストレスに起因する生活習慣病の克服を目指したフーズサイエンスビジネスの創出」を研究課題にしている。鈴与総合研究所は4番目の「抗ストレス食品・化成品素材の開発および発現機構の解析とその応用製品への展開」を共同研究でやっています。

資料5
(「酸化ストレス」という言葉ありますが、抗酸化食品は抗ストレス食品であると考えられている)
  抗酸化食品に関連した試験を紹介いたします。
 ノーベル賞を受賞した小柴さんのカミオカンデで使用された光電管を作った会社が浜松ホトニクス。浜松ホトニクスではこの光電管技術を応用して微弱発光を捕まえる機械を販売しています。
 抗酸化とは、他のものより自分が先に酸化されてしまうため、他のものを酸化から守るという事です。酸化されるということは一種の燃えるということなので、ほんの少しの光がでます。その微弱発光を検出する機械で、これを買って野菜の抗酸化力を色々調べてみました。

 野菜で抗酸化力に一番強いのが「おくら」だった。「抗酸化力のある食品は体が錆付くのを防止する」と表現されるので、本当に釘のさびを防止できるかをやった試験を紹介します。

イ:対照で過酸化水素水に釘を入れたものです。
ロ・ハ:オクラの種の抗酸化力が高かったので、オクラの種を乾燥させて粉末にしたものを0.5と0.1グラムをあらかじめ入れておいて、これに過酸化水素水と釘を入れて調べた。
ホ・ヘ:オクラ種の大部分はセルロースだが、セルロースには抗酸化力はないので、陰性対象としてセルロースを0.5と0.1をおいた。
チ・リ:抗酸化力が高いとして有名なのでビタミンCの粉末を使って陽性対照とした。
オクラとビタミンCは錆が少なく、抗酸化力が目に見える形で表すことができました。

資料6
 経済産業省の研究助成で、地域新生コンソーシアム事業に応募した。母体は清水商工会議所です。静岡と清水は合併したが、商工会議所はまだ合併していない。清水は日本軽金とか日本鋼管等の重厚長大産業で潤っていたが、その産業がだめになった。これではだめだと商工会議所が中心になって、しみず新産業開発振興機構を作り、駿河湾地域新事業推進研究会を立ち上げて、陸上養殖、バイオセンサー、高輝度LED、亜臨界水処理の4つのことを研究テーマとしグループをつくった。
 この、高輝度LEDと亜臨界水処理グループが一緒になって地域新生コンソーシアム事業に応募し採択された。


・地域新生コンソーシアム事業(経済産業省)について
「高輝度LEDと亜臨界水抽出法による薬用植物生産システムの構築」
 私は、LEDを照射するほうをやっております。いちごパックを利用して紫蘇のスプラウト(芽)にLEDを照射したらどうなるかを調査しました。
 資料の上段の写真は青のLED、下段は赤と青の混合のLED、3日半LEDや蛍光灯の元で育てた後の結果は、赤が少し枯れかかっている。青は全体にアントシアニンですが、赤紫蘇の色がついている。赤と青の混合LEDを照射したものも青と同じような状態。

 蛍光灯、窓際は日光も差し込みます。双葉の周りだけにアントシアニンができている。首にもできている。ブラックライトは可視光線に近い紫外線です。あまり危険はないということになっている。他に比べると育ちが悪くてほとんどアントシアニンができない。

 ビタミンCとアントシアニンの含有量で測定した結果です。
 アントシアニンはブルーベリーで目に良いことで有名だが、ブルーベリーのアントシアニンとは構造的に違う。

資料7
 1赤、2青、3赤・青の混合、4蛍光灯、5ブラックライト、6日光(日光が入る窓際)で、光の種類によって成分が変わる事がわかった。
 紫蘇も蘇葉という名前で生薬になっている。他の薬効成分も変わる可能性がある。黄連、柴胡を中心にやっていこうと思っている。

 研究助成とは違うが、社長がお中元にホワイトアスパラをつかっていた。最近は手に入りにくくなったので、鈴与総合研究所でどうにかならないかと言われた。喜多方の農家に作ってもらって社長のお中元には問題ないようにした。

 いずれにしろ、地球の温暖化により、真水は非常に少なくなってくる。水、肥料をリサイクルする、余ったものを回収することが出来る水耕栽培に興味を持っていたので、アスパラガスを水耕栽培で育てようとやっています。

資料8
 成長促進作用があるといわれるものをアスパラガスの苗で調べた試験です。園試はスタンダード的に使われる水耕栽培の養液の処方で、窒素・燐・カリ以外にも鉄・銅・亜鉛など必要とする金属は入っている。試験を開始したときの植え込み材料込みの重さは5グラム程度で、植え込み材料が4グラム、1グラムがアスパラの重量とお考えください。
 83日間育て、特殊なアミノ酸を使ったところ、他は20・30グラム程度なのに、100グラムちかく重量が増えた。信じていいのかわからないので、再試験をやっている。統計解析ができるだけの本数でやる準備をしている。

資料9
 来年度の文部科学省、経済産業省の今年の募集研究開発助成一覧です。研究助成は、ほかの農林省などの国や県・市でもやっている。静岡県でも200件ほどやっている。
 研究をやるときは、国なり県なりに補助を得ることを考えた方が良いと思いますので参考にして下さい。

資料10・11
 新聞の切り抜きですが、科学技術に対する助成に批判を浴びている。きっかけは早稲田大学の先生が変な使い方をしたのが原因。次の資料も、第2の公共事業にするなという書き方をしている。早稲田の事件から事前の経理的統制が非常に厳しくなっている。事後のチェック、バウチャー制にしろという意見も出ている。

 しかし、実際に国からの助成をもらう研究に携わって、一番困っているのが単年度決済という事です。都市エリアは3年、地域コンソーシアムは2年間ということなのに、単年度で決済、特に消耗品で買ったものはその年度で使い切れ、といわれる。2年だったら2年の予算でやらしてもらいたい。そのほうが能率も上がる。

 このようなことに首を突っ込む理由は、自分が興味を持っている事と関係があります。


私が興味を持っていること
・禁煙
 静岡がんセンターの総長山口建先生がつくられた「タバコの害」を下敷きにして小学校4年生に以上に配っている。中学生にタバコの害を教えても遅いから小学校の生徒から教えている。
 長年タバコをすっていると肺がんは防げなくなるが、心臓とか血管とか胃腸の病気は、やめたとたんに正常に近くなるから、今更やめても遅いという人が時々いますが、そんなことはないことをご理解いただきたい。

 少子高齢化、子供が増える対策をどうするか、ということを言っている。この間の国連の気候変動に関する政府間パネルでは今世紀末までに6.4度気温が上昇するだろうといわれている。原因は人間の活動による温暖化ガスの放出によるとほぼ結論づけられている。

・地球温暖化
「宇宙船地球号は定員オーバー」
 人口80億にはまだ達していないが、もう定員オーバーだろうと私は思っております。したがって、世界の人口は減らさないとならない。

「人口減の日本を世界の手本に」
 日本は人口が減ったから世界の手本にならないとだめだろう。いろんな人の意見をきいていると増やす論調が多いから腹が立っております。それをやろうと思ったら、老人が、広い意味での生産活動をしなくてはならない。必死になって病気を予防することを考えないとならない。
 医療費は国民所得の10%になるのだろうと思います。昭和36年一年間の医療費は5400円、平成15年は24万7000円、物価は20倍にはなっていないが、いかに伸びているかがわかるだろう。病気になったらだめ、病気にならず健康に気をつける。運動と休養と食事、その食事について考えることができる情報の発信がしたいと思っております。
65歳を過ぎてこのような仕事についていられることに対して、幸福に感じております。

・アンチエイジング
  元気な老人社会の実現を目指して行っている
実験の一部
・「おくら」の釘錆防止試験
・アスパラガス成長試験
・LED照射試験
を紹介させていただきました。

 運動と休養と食事で生活習慣病を予防し元気な老人社会を創りましょう。

【事務局の感想】
  松永さんからは、「私の仕事」と題しまして、発表していただきました。このような研究をされている方が鉄舟サロンにいらっしゃるのかと思いますと、参加者の方々は、大変有能で、タレントにあふれている方がお集まりだと思います。
 仕事に加え、松永さんの関心(禁煙、環境、アンチアイジング)も発表していただいて、このテーマもこれからの人々の重大関心事だとおもいますので、今後も研究を続けていただきたいと思います。

以上

投稿者 staff : 12:34 | コメント (0)

飛騨高山の少年時代その一

飛騨高山の少年時代その一
  山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
   

駿府における西郷隆盛と山岡鉄舟の会談において、西郷は鉄舟に江戸無血開場への言質を与えた。それは勿論、鉄舟の「すべてを捨て去り迫ってくる人間力」に感動したことからであったが、もう一つその背景に西郷の政治家としてのしたたかな計算があったに違いない。それは徳川幕府の体制を新政府として最大限に活用しようという強い意志である。

新政府樹立を目前にした西郷の頭の中には、倒幕後の政治体制が描かれていたはずである。徳川幕府を徹底的に壊さないと新体制は不可能であると思っていたに違いない。したがって、徳川幕府のシンボルである十五代将軍慶喜を抹殺すること、それが革命の最大目標であって、敵の最高指導者を現存させることは、真の革命成功とならないと考えていた。

これは過去の歴史が指し示す教訓である。一時は革命が成功したように思えても、敵の大将を温存させたばかりに逆転された事例を多くの歴史が物語っている。それを十分に知っている西郷は、慶喜の生命を生きながらせることは、最大の危険を残すことにつながると危惧していたはずである。

しかし結果的に、西郷は慶喜抹殺策どころか、江戸無血開場という和平策に転換した。それは、西郷が鉄舟という一介の旗本によって、鉄舟のような優れた人材を輩出する徳川幕府の懐の深さと徳川政治システムのよさを改めて認識し、それを可能な限り活かしたいという方向へ戦略転換したのであった。

考えてみれば、一九世紀後半当時、欧米先進諸国は植民地を求めてアハジア・アフリカなどへ進出、極東に位置する日本にも侵略の足音はひたひたと押し寄せていた。そんな状況下、日本という国をスムースに新体制へ戦略転換するためには、革命の混乱を最小限にしなければならない。そのためには徳川幕府のよさを最大限残し、それを新体制へうまく取り入れていく革命方向が望ましい――そのような弾力的な思考が西郷の中に生まれたとしてもおかしくはない。

否、そのような変化は、実質的な官軍総司令官としての西郷にとっては、当然の思考であったと推測する。当時の西郷は人生で最も輝き冴えていた時であり、西郷の意思ひとつで日本の針路を決まるという重責を担っていた。

その優れて弾力的な西郷の頭脳の中に、鉄舟が登場し、鉄舟の示した言動に幕府体制を再認識し、幕府システムへの評価を変え、その結果として江戸無血開場戦略に変更したのであった。鉄舟が西郷の内面に与えた影響力は大きい。

小泉政権によって国と地方の「税配分」を見直す三位一体改革が、他の改革とあわせて進めらた。この改革の出発点は危機的状況にある国家財政をどう立て直すかにあった。そのためには「地方分権型社会」への転換しなければならない――これは国民誰しもが頷くところであろう。

では、江戸時代は中央集権型であったのか地方分権型であったのか、どちらであったのだろうか。
一言でいえば、幕府と各藩の関係は「各藩の十割自治」であり、各藩の各藩の自治に任せていた。

したがって、いかに大名家が財政難で困窮の度合いを深めても、基本的に幕府は援助をしない。つまり、現在の地方交付金や補助金などに該当するものは存在しなかった。

とはいうものの各藩は、幕府が実施する普請(土木工事)・作事(建築)に労働力や資材・金品を負担させられ、徳川将軍に対する忠誠心を表明させる制度、参勤交代制の遵守を強いられた。これらの経済的負担は大変であったといえる。

幕府は藩経営について「お手並み拝見」という態度をもち、仮に財政破綻して、藩が危機に瀕すれば「家事不行き届き」の名において、その大名の改易(潰すこと)が行われた。徳川時代の信賞必罰は過酷であった。

さらに、大名改易は幕府体制確立期においては、意図的に行って直轄領を増やす政策を採っていたので、問題のある藩政治・経営をすることは直ちにお家断絶につながる恐れが生じた。幕府はそれだけの権限をもっていたのであるが、藩経営には直接的には介入しないという「各藩十割自治」システムを基本としていた。

小泉政権による三位一体改革は、明治新政府が中央集権体制システムによってスタートさせた結果、発生した問題点の改革であり、江戸時代には三位一体改革なぞの必要性はまったく存在しなかったということを理解する必要がある。

さて、幕府の各藩に対する「十割自治」政策は、幕府直轄地=天領にも該当した。天保九年(1838)当時における天領は六十二か所、規模は豊臣秀吉から与えられた関東八か国を中心に、北海道を除く全国各地に散在していた。

天領には郡代・代官を置き、警察や裁判を担当する「公事方」と、租税・経理などの一般行政を担当する「地方」に分かれていた。

飛騨高山は、代官所より規模が大きく、全国でも四か所しかなかった郡代役所であった。その四か所とは九州日田十一万七千五百石、美濃笠松十万千五百石、関東江戸八十三万四千石。それに飛騨高山十一万四千石。一万石以上を大名と称したのであるから、十万石を超える飛騨高山天領は幕府にとって重要な拠点であり、そこの郡代として小野鉄太郎(鉄舟)の父小野朝右衛門高幅が赴任したのである。

鉄舟宅の内弟子として、晩年の鉄舟の食事の給仕や身の回りの世話などを、取り仕切っていた小倉鉄樹の著書「おれの師匠」(島津書房)に「父朝右衛門高幅は、あまり聞かぬところをみると尋常の人であったらしい」とあるが、幕府直轄地として全国に四か所しかない郡代に任命されるほどであるから、それなりの人物であったと考えたい。

飛騨高山は現在でも観光客が集まる人気の高い町である。二〇〇五年二月に周辺の九町村と合併して、約二千百八十平方キロメートルの面積を持つ日本一広い高山市となった。その魅力とは、豪華絢爛な屋台が街中を巡行する春と秋の祭や、宮川沿いの朝市、低い軒先に出格子の町家がつづく趣のある家並み、江名子川の東山地区一帯に雲龍寺、大雄寺、宗猷寺などの由緒ある神社仏閣が数多く点在するなど、古い歴史と格式に満ちた町並みにあるといえよう。年間の観光客数が三百万人ともいわれているが、これは現地を訪ねれば頷けるところである。

郡代代官の子息・鉄太郎の住まいは高山陣屋であった。その広さは生れた江戸本所の御蔵奉行役宅とは大違いである。番所がついた大門は十万石の格を示す御門で、両脇には葵の御紋が入った高張提灯が提げられている。その大門を入って石畳の道を十間も進むと、式台のある玄関の間がある。そこから廊下伝いに、御役所、御用場、帳綴場、書役部屋、大広間、使者之間と続き、その奥、北西には渡り廊下で郡代役宅が続いている。

この郡代役宅への渡り廊下の先で、少年鉄太郎が生活していたかと思うと、役宅が今の時代に生き返ってくるような気がする。

というのも鉄太郎が走り回った当時の役宅を、96年までの数次にわたる復元工事で再現されているからである。渡り廊下すぐに座敷があり、その先に居間、扇面之間、嵐山之間、茶室、浴室がつづき、どの部屋からも広大な庭が見渡せ、池のほとりにはツツジが配してある。感慨ひとしおである。

陣屋の東側には年貢米を収めていた御蔵が十二棟建っていた。地震があっても潰れないように、四方の壁が内側にわずかに傾斜し、先すぼみになっている。四方転びといわれるつくりである。陣屋が火事になっても、中まで火が通らないように工夫されていた。

高山での鉄太郎は、朝は陣屋の剣道場で撃剣、午後は寺子屋で手習い、夕方は習字の習いを日課とした。鉄太郎が寺子屋に通うこと、その意味は町方の子供と一緒に机を並べるということであり、飛騨高山郡代の子息である鉄太郎には相応しくない、という問題提起もあったが、両親、特に母の磯は意に介さなかった。

磯は常陸の国鹿島神宮神官の娘であったが、武家ではなく農耕もする百姓も兼ねていた。神官の父が小野家所領地の管理を担当していた関係で、磯は小野家に奉公していたところを、朝右衛門に見初められた後妻であった。磯は「至って丈高く色黒く気分鋭し」」(『おれの師匠』)とあるように、頭脳鋭き長身の女性であったが、飛騨高山郡代の奥方身分になっても、決しておごらず威張らず変わらずに人に接していた。陣屋での生活でも、いつも自分で身体を動かす陰日なたのない明るい性格であった。

このような磯であったからこそ、鉄太郎を寺子屋に通わせることにしたのであろう。寺子屋とは町人や下級武士の子弟が通っていた民間の初等教育機関であって、全国に設立していた。江戸で寺子屋を営んでいたのは、勤番の余暇を生かした御家人や町人による専業経営者が多く、入学金・月謝などは家々の経済状態によって融通がきき、これが就学率をあげる大きな要因になっていたが、これは高山でも同様であったと思われる。

この草の根庶民教育の広がりと、教育水準の高さが、明治維新になって日本の近代化を推進するための大きな力になったのであった。しかし、草の根教育施設であるから、郡代の子息が通うということは異論を呼ぶことになった。

だが、母の磯は鉄太郎を町中の町民と同じ教育を受けさせた。豊かな自然環境のもと、町方の普通の子供と一緒に学んだ鉄太郎は、当然のことながら明るい物事にこだわらない性格を構成していった。

一方、郡代としての父小野朝右衛門高幅は有能な郡代であったと、「飛騨天領史」(高山市教育委員会発行)は以下のように述べている。
「郡代は幕末三舟の一人、山岡鉄舟の父です。幕府・旗本の出で、通称を朝右衛門といいます。弘化二年(1845)四月八日、飛騨郡代に任ぜられ、同年八月二十四日、高山陣屋に入りました。『高山市史』と『岐阜県史』は、小野郡代は豊田郡代(注 前任の郡代)の行った天保改革政策のあとを受けて、その維持につとめたと、ひとしくのべています。市史には具体例として、町会所を利用して医師が会談することをすすめ、飛騨人がもつ丙午出世児の迷信を打破するよう諭し、この頃宗門人別帳が形式的であったものを、より実際的にするよう指導し、また、八十歳以上の長寿者に褒美を与えるなど、具体的な例をあげています。当時日本の国では、外国船がひんぱんに出入りするなど、緊迫した世情でもあり、それに備えて嘉永五年(1852)閏二月、城山で狼煙の実演を行い、上野(三福寺)では陣立を実施しています」

陣立とは、軍勢を整え、隊伍を連ねることですから、小野朝右衛門郡代は時代の感覚に敏感な人物であったと想定される。しかし、この陣立によって小野朝右衛門が死を招いたという説もあり、それを伝えるのは小倉鉄樹の著書「おれの師匠」である。

「小野郡代の急死については当時色々の取沙汰があったが、朝右衛門が盛んに武道を奨励し、幾度か陣立を行った為に、幕府にうたがわれ、遂に違法として咎を受け、自刃した云ふ説がある。然し師匠(注 鉄舟のこと)自身は『父は脳溢血で死んだのだ』と言われている。発喪せられたのは死後四ヶ月もすぎた六月五日で其の時の廻状等今も残っている。遺骸は宗猷寺に葬られ、法謚は、徳照院殿雄道賢達大居士である」

真実は分からないが、第二十一代飛騨高山郡代の小野朝右衛門高幅という人物の一面を示していると考えたい。

このような両親との高山陣屋での生活は、鉄舟の生き方に大きく影響を与えていった。次号も鉄太郎の豊かな感性を育ててくれた、高山時代とその背景をお伝えする。

投稿者 Master : 06:17 | コメント (0)