« 7月例会記録(2) 「清河八郎と運」 2/2 | メイン | 7月例会記録(1) 「明治維新と西洋音楽事始」その1 »

2008年08月16日

7月例会記録(2) 「清河八郎と運」 1/2

■山本紀久雄氏

「清河八郎と運」 1/2

 当時我々の歩き方って今とは違ったんですね。ペリーは上陸したときピシリと並んでいるのに、日本人はバラバラと立っていたようです。 
我々は大きく変化して、変化するに当たっていろんな人が出てきました。日本人の中には日本人は辞めようと思った人もいました。18ヶ月の間11名も外国人が斬られ、最後の外人切りが、島津久光が江戸から帰る途中に起こった生麦事件です。犯人はいないといい薩摩藩に英国は怒り、薩摩と英国が戦争し、仲良くなりました。

鉄舟の勉強会が淑徳大学で行われています。鉄舟がなぜ凄いか?鉄舟自身がぶれない生き方をしているから、こうして集まって勉強しています。


アメリカの株が下がっています。アメリカは去年の7月までは絶好調な金融界だった。金子さんがぬりえ展でニューヨークに1ヶ月暮らしていましたが、その居酒屋で聞いた話では、あるウオール街で働く男性は、私のボーナス300万円だった、私の上司は1億円ボーナスをもらっているらしいと言っていたそうです。そのくらい景気が良かったのに、それから1年経ってみたら、3万人5万人が首になっています。粉飾決済で、取り付け騒ぎが起きています。アメリカの景気が悪くなったら、アメリカに頼ってきた国・企業は関係が悪くなるのです。アメリカと関係が深い日本も中国もブラジルも危険です。一瞬にして変わってしまうと不安感が出てきます。10ドルだった重油が140ドル・150ドルになっており、フランスの漁船も操業を停止して、国が補償しています。

幕末もそうです。ペリーが来たことによって日本はどうなるんだと不安になりました。人間の不安心理は時代が違っても同じです。その中でぶれない生き方の人間がいました。それが鉄舟でした。どうぶれないか、具体的に教えてほしいというが、それはだめです。簡単に教えると簡単に忘れてしまうからです。鉄舟は、どこに対しても対応できる戦略がありました。一介の旗本が敵の参謀長であった西郷隆盛を説得できるわけです。戦略無き人が行ってもお願いするだけで終わってしまいます。

篤姫は家茂の夫人となった和宮と一緒に徳川家を救おうとするわけです。篤姫が「私は徳川家の嫁になる」と、斉彬から言われたことを捨てて戦略転換しました。斉彬の養女で入ってきたが、親離れして成長します。それが複線となって江戸無血開城に貢献したというストーリーになるはずです。

鉄舟が単身駿府に行き西郷隆盛と決着をつけたと史実に基づいて話しています。篤姫と和宮はどういう貢献したのかがこれから出てきます。フィクションと史実としての事実をどう織り交ぜるかがシナリオライターの腕の見せ所です。
時代の感覚を認識、共鳴するような内容で構成しないと視聴率は上がりません。時代の底流を含めているから評判が良いわけです。利口な一人の少女が日本の中心の江戸城の女官のトップに立ったというサクセスストーリーを展開しており、歴史を今の時代に蘇らせることに成功しました。篤姫は家定が死んだ後、国家のために何をしたか、混乱の中で一方向を示すことを描くわけです。

鉄舟と仲間だった清河八郎の運について話します。清河八郎は最終的に暗殺されます。清河八郎は運も良いし、実力もありました。
自分の実力以上の運が来たとき、二つにわかれます。鍛えぬいた実力通りなら問題ないが、それを越えた運が来たときに本来の自分が出ます。本来持っているものが時代と合っていると、ますます運がついて良くなるが、合っていないと運が良いために、だめになってしまいます。実力以上の運は気をつけなければなりません。
歴史の、ある人物を蘇らせて現代の生き方を学んでいます。NHK大河ドラマもやっています。私たちも鉄舟を研究しながら蘇らせていきたいと思います。

1.鉄舟の書
清和会で講演することになったら、アメリカ人から何て書いてあるか読んでほしいと鉄舟の書が清和会に届きました。他の人の書はくずし字書を見れば何と書いてあるか読めますが、鉄舟先生の書は字書を見ても当てはめられません。鉄舟先生の字は宇宙で書いています。自分の気持ちで書いています。書を読むことに入ると品評会だけになってしまいます。田中さんから画期的なことを考えていると提案がありました。楽しみにしていてください。

2.清河八郎と関係するもの
① 草津温泉湯畑の石塔とベルツ博士と鉄舟の肝臓硬化症
草津温泉の湯畑に清河八郎の名前があったと教えてもらいました。
草津温泉ほど有名な成功している温泉街はありません。温泉業界どこも苦しいですが、草津温泉は元気です。毎年夏になると世界的な音楽祭が開催されます。周りがすばらしく整備されています。
お抱え外国人として明治5年に日本に来たドイツのベルツは東京大学の医学部の教授であった人です。日本の温泉はドイツの温泉学の影響を受けています。ベルツさんが日本を見て回って、草津・伊香保がドイツに一番近いのでドイツ風のサナトリウム的な温泉を作りたいと構想を温めていました。
30年ほど前にベルツさんの構想をみつけ資料を訪ねてドイツに渡って帰ってきた草津の温泉の中沢ヴィレッジの社長中沢さんがベルツさんの構想に近い温泉を作りました。古い温泉街が、おしゃれになりました。
中沢ヴィレッジに泊まったら、雨が降ろうが雪が降ろうが社長が毎日朝6時30分にフロントに立っており、一緒に山を散歩します。自分の住んでいる旅館の草花、池、鳥を社長が説明します。土地を愛するものが観光業の使命。お客さんは土地にあるものを求めてきます。住んでいるものがお客様に詳しく説明しないと、と続けた結果中沢ヴィレッジはお客がいっぱい来ています。これが戦略です。
鉄舟が病気になったときにベルツさんが肝臓硬化症という診断を下しています。鉄舟とも関わりがある人です。
草津温泉になぜ清河八郎が行ったのでしょうか。江戸で事件を起こし清川八郎を何とか捕まえたいと仕掛けた罠に掛かってしまいました。全国を回っているうちに草津の地で癒すかとしばらく逗留しました。草津に逗留した著名人のうち100人の一人として清河が紹介されています。

投稿者 staff : 2008年08月16日 16:32

コメント

コメントしてください




保存しますか?