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2007年06月17日
6月:明治神宮参拝の様子
鉄舟サロン特別企画、明治神宮参拝に行ってまいりましたので、その様子をご報告いたします。
明治神宮入口(代々木方面・北参道から)。
雨という予報でヤキモキしていましたが、予報は見事に外れ、カンカンと照りつける絶好の参拝日和の中、明治神宮参拝の行事が執り行われました。
北参道。深い新緑に包まれ、とても清々しかったです。
明治神宮文化館で昼食&午後から集合の方との待ち合わせ。
神宮御苑内へ。中は森の中に迷い込んだよう。都会の真ん中にいるとは思えない、緑あふれる空間でした。
菖蒲田。色とりどりの菖蒲が満開でした。絶景!
明治神宮本殿へ。本殿の前で記念撮影。
結婚式が数多く行われていました。多いときは20組以上の挙式があるとのこと。とても素敵でした。神前挙式ってイイですネ。
明治神宮参拝の後、宝物殿へ。貴重な品の数々を見学しました。
「至誠館」武道場にて、稲葉館長による「鹿島神流」居合道の演武をご披露いただきました。
その迫力とスピードに、写真もピンボケてしまいました。
稲葉館長による「武士道」講義。
武士道とは何であるか。
曰く「その人の、命を脅かされたときの対処の仕方」である。
勝ち負けでは決してない。
ましてや、拍手賞賛を送るものでもない。
この言葉が、心に残りました。
以上(田中達也・記)
投稿者 lefthand : 12:40 | コメント (2)
2007年06月11日
飛騨高山の少年時代 その四
飛騨高山の少年時代 その四
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄
昭和二十年八月十五日の玉音放送、始めて聞いた昭和天皇の肉声によって、その意味する敗戦の事実を知った日本国民は、ショックで一瞬にして虚脱状態に陥り、町中異常な静けさに覆われたことを、子ども心にも確り強く記憶している。
これと同様の悲哀を江戸市民も今から138年前に味わった。今まで将軍様より偉い人は知らなかった江戸っ子にとって、京に天子様がいるなぞということは、ずっと長い間意味のない存在だった。その身近で最も偉い将軍様であった十五代将軍徳川慶喜が、突然大坂から戻ってきて、江戸城で喧喧諤諤の大評定をしていると思っていたら、突然上野の山に隠れてしまって、代わりに京の天子様の命令で、薩長の輩が官軍という名聞で江戸城に攻めてくるという。攻撃されると江戸市中は火の海になって、壊滅するかもしれない。店や住まいが燃えてしまう。これは大変だ。どうしたらよいのか。町中大騒ぎになって、ただ右往左往しているだけだった。今まで考えたこともなかった事態が突如発生し、混乱の極に陥っていた。
この時に山岡鉄舟が登場したのであるが、そのことを歌舞伎役者の八代目坂東三津五郎が次のように述べている。
「山岡鉄舟先生は、江戸城総攻めの始末がついてからのち、それでなくとも忙しいからだを、つとめて人に会うようになすった。それも庶民階級、まあ、出入りの植木屋さんから大工さん、畳屋さんから相撲取りから、話し家、役者、あらゆる階級の人たちに会って、鉄舟さんのおっしゃった言葉は『おまえたちが今、右往左往したってどうにもならない。たいへんな時なんだけれども、いちばんかんじんなことは、おまえたちが自分の稼業に励み、役者は舞台を努め、左官屋は壁を塗っていればよいのだ。あわてることはない。自分の稼業に励めばまちがいないんだ』と言うのです。このいちばん何でもないことを言ってくださったのが、山岡鉄舟先生で、これはたいへんなことだと思うんです。
今度の戦争が済んだ終戦後に、われわれ芝居をやっている者は、進駐軍がやってきて、これから歌舞伎がどうなるかわからなかった。そのような時に、私たちに山岡鉄舟先生のようにそういうことを言ってくれる人は一人もおりませんでしたね」(『日本史探訪・第十巻』角川書店)
さすがに歌舞伎界の故事、先達の芸風に詳しく、生き字引と言われ、随筆集「戯場戯語」でエッセイストクラブ賞を受賞した八代目坂東三津五郎(1906~75)である。鉄舟にも詳しい。それもそのはずで「慶喜命乞い」の芝居を演じた際に鉄舟を随分研究している。前述の「日本史探訪・第十巻」は、当時の鉄舟研究第一人者である大森曹玄先生との対談で語られたものであるが、鉄舟の子ども時代から江戸無血開城の経緯、明治天皇の侍従時代、剣・禅・書についても詳しくふれている。さすがに芸術院賞受賞者である。
しかし、八代目が「山岡鉄舟先生のようにそういうことを言ってくれる人は一人もおりませんでした」と述べているが、実際には同様のことを述べた人物はいたはずだ。日本人はそれほど愚かではない。敗戦と言う事実に直面し、混乱している殆どの人たちの中にあって、冷静に明日以降の日本について考察した人物が日本各地でいたはずである。
だが、鉄舟と同様のことを述べたとしても、鉄舟とは比較にならない影響力であったと思う。人物の器が違っている。鉄舟ほど一般大衆に対して大きな感化力を持つ人物が、敗戦直後の日本には存在しなかった。180度転換する価値観激変社会状況下にあって、一般大衆に、それぞれが持つ自らの仕事と関係付けて、分かりやすい言葉をもって語りかけ、それが素直に納得され、受け入れられていくような教え諭し、このようなことができる人物が本当の政治家ではないかと思うが、そのような人物がいなかったという事実を八代目が述べたのだと思う。つまり、鉄舟の偉大さを語るために八月十五日と江戸無血開城をつなげて語ったのだ。
さて、鉄舟の少年時代に入りたい。当時、それなりの武士にとっては、剣と禅は当然のたしなみであり、それが武士として修行する一つの型であった。今の時代は、その生きる型がなくなっている。それを自由と言い換えればそれまでだが、生き方の型を知らないと言うことは、定石を知らずにして囲碁・将棋を指すのと同じである。良い型を持たない人物は大成しないと思う。
鉄太郎(鉄舟)は九歳のときから、真影流久須美閑適斎の道場で剣術を習い始め、高山に移ってから朝は陣屋の剣道場で撃剣、午後は寺子屋で手習い、夕方は習字の習いを日課としていた。だが、武士としての型である禅修業には入っていなかった。父小野朝右衛門から「禅を学べ」と言われたのは十三歳の時であったが、機会に恵まれず、始めたのはようやく二十歳になってからであるが、修業に入ると半端ではなく、明治十三年(1880)三月三十日払暁「釈然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを覚ゆ」(『剣法と禅理』山岡鉄舟)と「大悟」するまで、禅修業は命懸けであった。大悟とは悟りを得ることである。
ここで悟りということについて、先日あるお坊さんからお聞きしたことをお伝えしたい。このお坊さんがおっしゃるには「悟りとはご大層なものではなく、日常に転がっている、生活の中のあらゆる気づきが悟りであり、朝起きて、ああ、今日はいい天気だ、とか、そうだ、今日はゴミの日だ、などと気がつくこと、これも立派な悟りである」と言い、「漢字も悟るだけでなく、覚、知、体、解、それらすべてサトルと読み、それらが意味しているものすべてが悟りである。つまり、覚える、知る、体得する、解る、悟る、すべてが『サトル』ということになる」というお話であった。この内容をお聞きし、一瞬そうかなと思ったのであるが、改めて鉄舟の「大悟」に至るまでの命がけ修行を振り返ってみれば、このお坊さんのお話されている「悟り」と、鉄舟の「悟り」とではその間に大きな開き、それは雲泥の差とも霄壤の差とも言えるほどのレベル差があるのである。これについては後日、鉄舟禅修業の姿で詳しくお伝えしたい。鉄舟の修行は一般人と桁が違うのである。
さて、鉄舟の少年時代で外してはならない、大きな影響を受けたものにお伊勢参りがある。嘉永三年(1850)十五歳の時、父の代参で異母兄の鶴次郎(小野古風)と、供を二人連れてお伊勢参りに出発した。鉄太郎の元服儀式に伴って父が与えてくれたお祝いだという説もあるが、始めての長旅は鉄太郎にとって新鮮な感動の連続だった。
ところで江戸時代は、基本的に目的のない旅は本来許されていなかった。農民の離散は、農業生産の低下をもたらすことに通じ、年貢の減少につながるからであった。商工業者にとっても同様であり、また、住所不定の輩が増えることは治安の問題を引き起こすことにつながるので、江戸では無宿人狩りが頻繁に行われていた。とにかく人の移動を自由にするということは、住所不定の人間を増やすことにつながるので、人々が観光などの遊び目的の旅は制限されていたのである。
しかし、そのような状況下であっても、お伊勢参りに代表される寺社詣でと、病気治療を理由とした温泉への湯治は認められていた。寺社詣でと温泉はセットで江戸時代を通じ盛況産業であり、そのためのシステムが組まれていた。特にお伊勢参りは「伊勢講」という組織が各町や村につくられ、メンバーが旅行費用を積み立て、順番に毎年人数を決めて、その人が代表ということ、これを「代参講」と称していたが、このシステムでお伊勢参りに行くのである。一番規模が大きかった年は享保三年(1718)で、享保の改革を断行し「幕府中興の祖」の八代将軍吉宗の時代であるが、年間参拝者数が約五十万人であった。この人数は第二位の寺社詣でが、善光寺参りが幕末頃時点で約二十万人であったことを考えると、如何にお伊勢参りが群を抜いていたことが分かる。
この「代参講」は家単位で加入するシステムで、加入者は檀家と呼ばれ、安永六年(1777)の「伊勢講」檀家数は全国で四百三十九万軒以上になっていた。一世帯を五人と推定すると二千二百万人となるが、安永三年(1774)の人口が二千五百九十九万人だったことを考えると、約八十五パーセントに当たる人々が「伊勢講」に加入していたことになる。貧しさ等の理由で参加できない人以外は、日本人全員が加入していたと言っても過言でないすごさである。
また、この寺社詣でが盛況となった理由のもうひとつは、旅に温泉がセットされていたことであった。例えば江戸からお伊勢参りに行く場合、行きに箱根湯本温泉で一泊、伊勢神宮に参拝した後は四国に渡って道後温泉に一泊、帰り途中に京都見物をして中山道を通って善光寺を廻って詣で、戸倉温泉や伊香保温泉に一泊し、ようやく江戸に戻る長丁場の旅であった。このルートはどう見ても観光旅行であり、このような旅に国民の八十五パーセントが参加していたということは、当時から日本人は旅を好み、泊るのは温泉と相場が決まって、その習慣が今日までつながっているのである。日本人の温泉好きは江戸時代の寺社詣でに原点があっと思われる。
さて、鉄太郎のお伊勢参りは高山からであるから、ルートは益田街道を下り、飛田川(益田川)に沿って中山七里の奇勝を観て、美濃加茂から名古屋を経て伊勢湾に出て、松阪から宇治山田(伊勢市)に行く行程であるから、下り坂が多いので、さして困難な道ではないが、少年鉄太郎にとって距離は相当あった。
この旅で、鉄太郎は二人のすぐれた人物に邂逅した。一人は藤本鉄石であり、もう一人は足代弘訓(注ルビ、あじろひろのり)である。(『定本山岡鉄舟』牛山栄治著))
藤本鉄石(1816-63)は岡山藩士、脱藩して長沼流軍学を学び、諸国を遊歴し、私塾を伏見に開き、文久二年(1862)に真木和泉ら尊攘派と倒幕を計画、翌年天誅組を組織し挙兵したが惨敗、和歌山藩陣営に斬りこんで戦死した人物である。また、鉄石は後日鉄舟と因縁の友となる清河八郎とも因縁があり、清河八郎が十七歳の時、生家のある羽前斎藤家で多大な影響を与え、その関係から万延元年(1860)に清河八郎が、鉄舟らと共に尊皇攘夷党を結成した時には幹事として名を連ねた。
この鉄石とは偶然の機会から旅宿を一緒にすることになり、鉄太郎に林子平(1738-93)「海国兵談」の写本を貸し与え、それをもとに海外の情勢を説き明かしてくれた。林子平とは江戸中期の経世家で幕臣の二男、長崎に遊学しオランダ商館長のフェイトに海外事情を聞くなどして新知識の吸収につとめ、「三国通覧図鑑」「海国兵談」を著した。「三国通覧図鑑」では朝鮮・琉球・蝦夷の地理民俗とロシア南下の防衛として蝦夷地を開拓する必要性を説き、「海国兵談」では海国たる日本の沿岸防衛を説いたが、幕府の不興を買い、版木・製本ともに没収され蟄居を命じられ病死した。
この林子平著の写本「海国兵談」を、鉄太郎は旅の間に写し終えるということをしたと言う。その結果は鉄太郎の若い頭脳に、最新の海外事情が入ったことが容易に予測つく。
更に、足代弘訓(1784-1856)とは江戸後期の国学者で、伊勢神宮神主の子であって、歌学、律令、有職故実に通じ、特に古典の考証にすぐれ多数の著述を残した。大坂町奉行所の与力で、大塩の乱の首謀者である大塩平八郎とも親交があり、志士と交わり尊皇憂国を説いた人物である。この足代弘訓にも鉄太郎は接することができ、数度自室に招かれて、日本の国体について講義を受けたと言う。
このようにこのお伊勢参りで、当時の先端的国際情勢と国学思想に接することができたのであるが、それはどのような内面的変化を、少年鉄太郎に派生させたのであろうか。高山という山深い小さな小都市で、朝は陣屋の剣道場で撃剣、午後は寺子屋で手習い、夕方は習字の習いという変らない日常を過ごしていた鉄太郎、旅という非日常場面の連続と、時流を伝えてくれた二人によって、内面に大きな影響を受け、思想変化をもたらしたのであるが、その結果として偉大な業績江戸無血開城につながっていったのである。これについては後日詳しくお伝えしたい。
さて、お伊勢参りに代表される寺社詣でと、温泉の旅が盛んに行われたという意味と、十五歳の鉄太郎が遠い道のりを歩いて何泊もする旅ができたということ、これをどのように理解したらよいであろうか。それは江戸時代が庶民にとって物見遊山の旅に出かけられるほどの安全な体制下であったことを意味する。このことを徳川宗家十八代当主の徳川恒考氏は、この当時世界で子ども女性が安心して旅ができたのは日本だけだったと力説している。街道、旅籠、茶店の整備等の旅をする基盤が整備されていたことを意味する。やはり、このようなことから考えても、江戸という時代は豊かな社会であったといえる。