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2009年07月26日

飛騨高山・鉄舟法要と追悼記念講演会ご報告

鉄舟法要と追悼記念講演 ご報告
2009年7月19日(日)
岐阜県高山市・宗猷寺

鉄舟が少年期を過ごした飛騨高山・宗猷寺にて、鉄舟の命日法要と講演会を行いましたので、報告いたします。

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前日に高山に乗り込んだ鉄舟会メンバー。
東京方面からは8名が参加しました。
高山では、今回の法要研究会を現地で取りまとめてくださった水口(みなぐち)武彦先生(元校長先生)、田中彰様(高山市郷土資料館学芸員)のご尽力で、チラシの配布や新聞等への紹介をいただき、多くの地元の皆様の関心を集めることができました。また、鉄舟会メンバーの北村様のお母様(以前訪問したときも手料理の歓迎をいただきました)や宗猷寺お向かいの銭湯・鷹の湯の清水様、そして岩佐一亭のご子孫、岩佐清様ほか多くの方々のご協力で、会の準備が万端整いました。

前日の打ち合わせを終えた東京からのメンバーは、ホテル近くの居酒屋で士気を高め、ホテルの展望スパで汗を流し、明日に備えました。

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前日からのあいにくの雨模様にやきもきしながら、当日の朝を迎えました。
当日はどんより曇り空でしたが、雨が降っていないことでよしとし、朝食をとって宗猷寺に向かいました。
当日は50名を超えるご参加をいただきました。昨年まではこの宗猷寺ではご住職がおひとりで法要を行っておられたとのこと。鉄舟居士も、そしてご両親も喜んでくださったのではないかと感慨ひとしおでした。

7月19日9時15分。鉄舟臨終の時刻です。
参加者は鉄舟のご両親の墓前に集まり、ご住職親子の読経とともに塔参諷経(とうさんふぎん)が始まりました。
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塔参諷経を終え、本堂に入り、鉄舟居士の法要(毎歳忌)に移ります。
参加者は順に焼香し、鉄舟居士の霊を弔いました。
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法要が終わり、ご住職から法話を頂戴しました。
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続いて、高山市を代表して、高山市郷土資料館・田中彰様からご挨拶を頂戴しました。
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現在、高山市郷土資料館は館の増築を行っておられます。完成すれば現在の倍の広さの資料館となる予定だそうです。そして、そこには鉄舟のコーナーも設け、資料館で収集されている鉄舟ゆかりの品などを展示されるそうです。楽しみです。着工は今年の末だそうです。

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休憩の後、山本紀久雄会長の講演を行いました。
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私たち山岡鉄舟研究会は、山岡鉄舟の生き方を通じて、現代に生きる私たち自分自身の生き方の指針とすべく研究を重ねています。その目的で鉄舟という人物像を探求していけばいくほど、そのブレない生き方は大いに学ばねばならないと感じさせられます。そして、そのブレない生き方を実践した「人間力」は、鉄舟が少年時代を過ごした、この高山の地に依るところが大きいのではないでしょうか。
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私は、今回の高山法要に先駆けての打ち合わせ等で初めて高山の地を訪れました。豊かで、緑深き山々に囲まれた大自然の中に、小京都と謳われる瀟酒な街並が碁盤の目のように広がり、その間を人が行き交い活気に溢れています。さすがミシュランが三ツ星をつけた街と納得しました。講演の最中にも、欧米人の観光客が数組、本堂を覗き込んでいきました。
しかし、何よりも感激したのは、高山の方々のお人柄です。現地での広報や、懇親会の仕出しの手配など、とても熱心にお手伝いくださいました。本当に感謝申し上げます。
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鉄舟は代官の子としてこの地に赴き、今でいうと小学校高学年〜高校生ぐらいまでの時期を過ごしました。その間、寺子屋で地元の子どもたちと一緒に学び、岩佐先生に書の手ほどきを受け、井上清虎から剣を学びました。山本会長の講演を聴きながら、少年鉄太郎もこうやってこの地でいろんなことを学んで成長していったのだなあと思うと、感慨ひとしおでした。そして、鉄舟の人間力を醸成した高山の地で、このような盛大な研究会を行えたことに、あらためて感謝の意を強くしました。

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山本会長の講演の後は、参加者の親睦を深めるべく懇親の席を設けました。
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鉄舟のために多くの人が集まり、席を同じくするご縁ができたことを本当に嬉しく思います。ご参加くださいました皆様、ありがとうございました。また、この日のために現地で大変なお骨折りをくださったお世話役の皆様、そして、宗猷寺ご住職の今城様、本当にありがとうございました。

今後は、この毎歳忌を、山岡鉄舟研究会の全国大会と位置づけ行っていこうと考えています。
来年の7月19日も、皆様と高山でお会いできることを楽しみにしております。

(事務局 田中達也・記)

投稿者 lefthand : 19:17 | コメント (2)

2009年07月21日

高山での鉄舟法要と追悼記念講演会 無事終了しました

7月19日、岐阜県高山市・宗猷寺にて『鉄舟法要と追悼記念講演会』を無事執り行うことができました。
ご参加の皆様、並びに開催にあたりましてご尽力賜りました皆様、ありがとうございました。
報告は後日ご連絡申し上げます。
お楽しみに。
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8月の例会は夏休みです。
9月は16日(水)18:30〜、東京文化会館・中会議室2(会議室が変わります)です。
皆様、よい夏休みをお過ごしください。

投稿者 lefthand : 15:31 | コメント (0)

2009年07月16日

尊皇攘夷・・清河八郎その四

尊皇攘夷・・清河八郎その四
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

清河八郎が江戸を追われ、全国各地の逃亡先で出会った中に、京都の田中河内介がいた。田中は但馬出石の医師の第二子であったが、京都に遊学している間に、権大納言中山忠能に召し抱えられ、中山家の家臣である田中近江介の家を継ぎ、諸大夫となった。

諸大夫とは、公卿に次ぐ家柄で、朝廷から親王・摂関・大臣家などの家司、つまり、事務を司る職位で、四位・五位の官人である。

 ここで権大納言中山忠能(1809-88)に触れなければならない。後日、鉄舟と同じく明治天皇を囲む酒飲み仲間となった人物であり、明治天皇の外祖父である。

祐宮(明治天皇)の生母は忠能の娘中山慶子で、嘉永五年(1852)9月22日に、中山家敷地内に設けられた、浴室と厠のついた二間だけという質素な産所で誕生したが、この産所を建築する際に、借金をしなければならないという貧しい中山家であった。

いまでもこの産所は京都御所を取り巻く御苑の北の端に、板塀で仕切られた屋敷跡があって、その庭の一角に残っている。明治天皇がこのような質素な産所で生れたのは、宮中の慣習によるものであった。出産は建物を穢す、と古くから信じられていたからであり、代々、天皇の御子は宿下がりした生母の家近くで生まれるのが普通であった。

 明治五年、鉄舟が明治天皇の侍従番長として宮中に出仕するようになって、明治天皇と鉄舟については多くの逸話が残っている。後日詳しく展開する予定であるが、ここでは中山忠能との関係を、侍従高島鞆之助の語ったものから紹介したい。

「御酒量も強く、時々御気に入りの侍臣等を集めて御酒宴を開かせられしが、自分は酒量甚だ浅く畏れ多き事ながら何時も逃げ隠れる様にして居た。所が彼の山岡鉄舟や中山大納言(忠能)の如きは却々の酒豪で、斗酒猶辞せずと云ふ豪傑であったから聖上には何時も酒宴を開かせ給ふ毎に、此等の面々を御召し寄せになっては、御機嫌殊に麗はしく、勇壮な御物語りを御肴として玉杯の数を重ねさせ給ふを此上なき御楽しみとせられた」(『明治天皇』ドナルド・キーン著 新潮社)

このように、鉄舟と中山忠能は明治天皇の「御気に入りの侍臣」であり、酒宴の常連メンバーであった。

さて、時は文久元年(1861)に戻るが、当時の中山忠能は、それまで祐宮の外祖父として威勢をふるい、外国との条約勅許にも強硬に反対したが、一転、皇女和宮の降嫁では推進斡旋役に回ったことから、尊攘派からにらまれ、逼塞せざるを得ない状況下にあり、対外的には子息の中山忠愛が動き、ここに清河は目をつけていた。

 清河と田中河内介の出会いは、田中と旧知である虎尾の会同志の北有馬太郎から、田中が剛毅な性格で頑固な尊王論を持ち、京都では知られた人物であると聞いていたので訪ねたのである。

清河は誘われるままに、田中の屋敷で一泊し、得意の弁舌で尊皇攘夷・倒幕論を説きながら、噂話であるがという前提つきで「皇女和宮を人質にとって孝明天皇に条約勅許を迫り、天皇があくまでこばめば廃帝を断行する、そのために和学者の塙次郎に古例を調べさせている」と切り出したところ、田中の反応は予想以上に多きいものだった。

「怪しからんことだ。それが本当なら、言うも憚る不逞なことだ。しかし、その噂はどこから出たものか」
「水戸です」
「水戸? なるほど水戸か」
「水戸藩内には、この噂に憤激し、安藤信正老中を刺そうとする動きがあります」
「そうだろう。この噂を聞いて水戸が黙っているはずはない」
「しかし、それがしは安藤老中を討ち果たしても時代は変わらないと思います」
「なぜた?」
「それは今まで二百数十年、天下を仕切ってきた幕府の骨組みは意外にしたたかで、容易には倒れないと考えるべきで、井伊大老が首を斬り取られても、すぐに安藤に代わり、その安藤が井伊を上回る狡知をもって、皇女和宮の降嫁により事態をうやむやに収めようとしている動きを考えれば、他の方策が必要だからです」
「うーん。そうかも知れん。そこで、そこもとに打開策があるのか」
「ございます」
「話されい」
「ご承知の通り、九州は元々勤皇の土地柄です。九州に下り、有志に義挙を説き、同志を募り糾合し、京に上がります」
「そのようなことが、貴殿に出来るか。それに一人では無理だろう」
「その通りです。そこで田中様にお願いに来たのです」
「何か」
「それは、大納言中山忠能卿のご子息中山忠愛卿は英邁な方と伺っています。田中様のお力で一度お会わせいただき、忠愛卿から親書を賜りたいのです。それと田中様は九州の尊攘志士と親しいとお伺いしております。それがしを、かの地の志士達に周旋する書状を書いていただきたいのです」
「親書や周旋状をどういうように使うのか」
「九州に参り、青蓮院宮の密使と偽って呼びかけます」
「青蓮院宮を騙るなぞ、穏やかならぬことだ」
「いや、順序が前後するだけでしよう。京に糾合した同志によって、京都所司代を討ち、青蓮院宮を奪い奉って尊王倒幕義軍の総帥に頂く、というのがそれがしの企てで、その後に諸国の尊皇攘夷の士に呼びかけるなら、天下の草莽の志士達は一斉に宮の下に集まり、倒幕の一大義軍が出来ます」
「うーむ・・・。危険な策だが・・・。もしかしたら出来るかもしれないな。よし、周旋状を書き、中山忠愛卿に会えるようにしよう」
「ありがとうございます。九州の説得は必ずやり遂げて見せます」

 ここに現れた青蓮院宮とは、伏見宮邦家親王の第四子で、のちに孝明天皇の養子になり、京都郊外粟田口の青蓮院に住んでいた。朝廷が政治の表面に出るようになって、孝明天皇の諮問に応える形で、条約勅許問題では、最も強硬な反幕姿勢を打ち出し、尊攘派公卿の中心的存在となり、井伊大老ににらまれ、慎みを言い渡され、相国寺内に幽閉される身分となっていたが、諸国の尊攘派志士達からは、ひとつの拠り所とされていた人物であった。

 その青蓮院宮の密使と偽るためにも、祐宮の外祖父として権威のある中山忠能の子息忠愛から、親書を書いてもらう必要があったのだ。実際に田中の斡旋で忠愛とも会え、親書を書いてもらうことが出来、田中の周旋状を持ち、勇躍して九州に向ったのであるが、それを可能にしたのは田中を説得できたことであり、説くための切り札は「廃帝」の噂であった。

 では、「廃帝」の噂が当時事実として存在したのか。これを検討してみたいが、そのためには、井伊大老の後を継いだ安藤信正老中に触れなければならない。

井伊大老後の政治は安藤・久世広周政権となって、この政権が行ったことは、皇女和宮と第十四代将軍家茂との婚儀を整えることで、いわゆる公武合体政策の推進であったが、この結果は尊攘志士から狙われることになり、文久二年一月の坂下門外の変となった。

だがしかし、かねてから、この事あろうと安藤側では屈強な藩士を警護に当てていたので、襲撃した水戸浪士六人全員斬り伏せられ、安藤の生命に別状なかった。だが、警護の一瞬の隙から駕籠の外から刀で貫かれ、頭部と背部に傷を負った。

 その後、この傷は思いのほか日がたつにつれて深くなっていった。まず、第一の傷は非難する声の高まりである。安藤が武士にあるまじき、後ろ傷を負ったということである。駕籠の後ろから刺されたので、後ろ傷を負うのは当然であるが、戦わずして背後から斬られたように聞える非難である。

次の傷は、三月になって全快したので、再登城しようとしたところ、幕府大目付、目付衆がこぞって反対したことであり、これらの雰囲気を感知した安藤は、自ら願い出て老中を辞任してしまった。

 なお、これら動きには薩摩藩も同調した。薩摩藩主島津忠義の父久光が一千余の藩兵をひきいて、京都に乗りこみ朝廷に差し出した建白書には、安政の大獄で処分された公卿や一橋(慶喜)、尾張(慶勝)、越前(慶永)等の謹慎を解くべきというものから、安藤老中を速やかに辞めさせるようにとも、書き込んであったほどである。

 このように述べてくると、安藤の評判はいたって悪いということになりそうだが、実はかなりの有能な人物であったらしい。

 そのことを述べているのが福地桜痴である。福地は天保十二年(1841)生れの幕臣、明治になってからはジャーナリストとして活躍し、その著書に幕末政治家(岩波文庫)がある。そこに安藤について次のように書いている。

 「英国オールコック公使を説きて、英国が五ヶ年間の開市延期を承諾し、これに対する報酬は、輸入物品中幾分の減額に止まらん事を談判し、その坂下御門の変に、頭部および背部に負傷して病牀にあるを顧みず、創を包み傷みを忍びて英公使を引見し頻りにその尽力を望みたりしかば、英公使も安藤が憂国心の厚きに感じて、しからば自ら英国に請暇帰朝して、事情を詳細に外務大臣に具陳し、日本のために竹内等(筆者注 欧州使節として派遣された竹内下野守)を助け、以てこの談判を都合よく帰着せしむべしと請合い、果してまず英国をして、第一に延期承諾の覚書に調印するに至らしめたり。これ実に安藤が特別の功労あらずや」

と書き、このような外国との交渉成果は、明治時代であるならば、勲一等に叙せられるほどだと高く評価しているし、その他多くの識者も安藤を認めている例は多いから、確かに有能であったのだろう。
 
この安藤老中が「廃帝」を図っているというのである。では、その出所はどこか。それは坂下門外の変の斬奸趣意書の中に次のように書かれていた。

 「このたび皇妹御縁組の儀も、表向きは天朝より下しおかれ候ようにとりつくろい、公武合体の姿を示し候えども、実は奸謀威力をもって強奪し奉り候も同様の筋に御座候ゆえ、この儀必ず皇妹を枢機として、外夷交易御免の勅諚を推して申下し候手段にこれあるべく、その儀かなわざる節は、ひそかに天子の御譲位をかもし候心底にて、すでに和学者どもへ申しつけ、廃帝の古例を調べさせ候始末、実に将軍家を不義に引き入れ、万世の後まで悪逆の御名を流し候よう取計い候所行にて、北条、足利にもまさる逆謀は、われわれども切歯痛憤の至り、申すべき様もこれなく候」(『幕末閣僚伝』徳永真一郎著 PHP文庫)

 この斬奸趣意書は坂下門外の変を陰で指導したという、宇都宮の儒者で尊攘家の大橋訥庵が書いたといわれているが、この結果、和学者の塙次郎が暗殺されるという事態となった。塙次郎は「群書類従」の編纂で知られる盲目学者の塙保己一の四男で、父の死後に家を継ぎ、幕府の和学講談所で史料編集と国史研究にあたっていた。

坂下門外の変があった文久二年の年末、自宅に戻ったところを襲撃され斬られ、首を麹町九段目の黒板塀の忍び返しの上にさらされた。犯人は長州の伊藤俊輔(博文)と山尾庸三であった。

伊藤博文は後の首相・初代韓国統監であり、かつて千円札に肖像が印刷された人物。山尾庸三はロンドンに留学し工学関係の重職を務め、後に初代法制局長官になっている。幕末時の異常・非常混乱事態下とはいえ、暗殺犯が後日、日本のトップリーダーになっているということ、何か割り切れない気持である。

さて、清河は京都で成功した「廃帝」の噂を武器に、勇躍九州へ向い、その結果続々として尊攘志士達が上洛、合わせて薩摩藩島津久光が一千余の藩兵をひきいて乗りこみ、幕末風雲の動きは京都で一段と激しさを増す。次回は清河の九州遊説と薩摩藩の動向をお伝えしたい。

投稿者 Master : 05:45 | コメント (0)