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2012年08月25日

 2012年9月例会のご案内

9月は定例の第三水曜日19日が文化会館メンテナンス休館日ですので、20日(木)に第一中会議室で例会を開催いたします。

開催日 2012年9月20日(木)
場所  東京文化会館第一中会議室
時間  18:30から20:00
会費  1500円
発表者 山本紀久雄
テーマ 「鉄舟の明治天皇への影響、それは西郷政権から始まった」

10月開催について

10月は「10月27日の鉄舟・泥舟・静山所縁のお江戸史跡巡り」を例会として開催いたします。

具体的内容は例会の報告に掲載したしました。
皆様のご参加をお待ちしております。

投稿者 Master : 06:01 | コメント (0)

山岡鉄舟翁顕彰会命日法要及び講演会

岐阜県高山市の「山岡鉄舟翁顕彰会命日法要及び講演会」のご報告

7月19日(木)10時から12時に宗猷寺にて、鉄舟命日法要と講演が行われました。

①北村豊洋氏の講演

鉄舟研究を通じた学びをビジネスに生かしている事例発表として

●山岡鉄舟は、自らの剣法を「一刀正伝無刀流」と名付け、「一刀流兵法箇条目録」のなかで十二箇条あげている。その一・二条の「二之目付(にのめつけ)之事」「切落(きりおとし)之事」を日常のビジネスとして「会話力」「洞察力」「スピード力」につなげて実践している事例について具体的にご発表いただき頷くところ大でした。

●鉄舟の書が読めない。先人達の意味ある漢字が読めない。つまり、先人と会話が出来ないという実態に我々は陥っているが、それにはどのような背景があるのか。それは明治維新時の漢字に対する様々な見解と、戦後の漢字全廃の動きなどが影響していることについての解説

②山本紀久雄の講演

明治天皇に鉄舟が如何に影響を与えたかについては、明治天皇21歳時点の写真と、36歳時点の御真影を比較することで解説し、その鉄舟が持つ人間力には「高山の地」が強く反映しているので、その「高山の地」が持つ素晴らしい潜在力を高山の皆さんが究明する事が必要で課題だと述べました。

投稿者 Master : 05:58 | コメント (0)

2012年7月開催結果


2012年7月開催結果

Ⅰ.末松正二氏のご発表

7月例会は、最初に末松正二氏から
「明治38年(1905)ポーツマス条約(日ロ講和条約)の背景と意義、その後現代にまで与えた影響」
についてご発表いただきました。いつものように末松氏のご発表は、十分な調査に基づく貴重な内容で感服いたしましたが、特に印象に残った項目は次の三点でした。

①明治37年(1904)2月4日の御前会議で対露開戦が決定され、明治天皇の開戦反対、早期講和の意向を熟知している元老伊藤博文は、金子堅太郎を当日招き、渡米して、アメリカの世論工作と金子のハーバード大学の同窓生で親しいルーズベルトに秘密裏に講和斡旋を依頼して欲しいと命じた。明治38年(1905)6月1日時点で、日本は戦争継続限度と判断し、講和をルーズベルト大統領に申し入れ、同大統領は駐露大使ジョ―ジ・マイヤーにロシア皇帝への説得を伝え、6月9日に日露両国に対し、講和交渉開催を提案した事から調印に至ったが、このような高度な外交政策を展開した伊藤博文以下と、太平洋戦争当時の政治家を比較すると、残念ながらその差が歴然としている事を再確認できる。

②明治38年(1905)9月5日に講和条約調印となったが、講和内容に国民が激怒し、全国的な反対運動が盛り上がり、特に日比谷焼き討ち事件が有名で、戒厳令まで出された。このポーツマス講和条約は日本の国力からみて、絶好のタイミングで締結された大成功の条約締結でしたが、政府側は極めて大きな将来に禍根を残すミスを犯した。一つは、日露戦争は大勝利だったと国民を熱狂させたままで、実は戦争継続の余力が全く無くなっていることを説明しなかった事です。加えて日露戦史編纂で「軍の内情機密、勤務上機密、捕虜虐待、旅順の戦いの記載禁止など」で、正確な情報を伝える事をしなく、この当時から情報隠蔽が行われていた事がわかりました。

③日露戦争の戦費は外債発行と、ユダヤ系金融業者クーン・ロープ商会の支配人シフの「日本を好きで貸したのではない。同胞を苦しめるロシア帝政を懲らしめ、大変革を望むので日本に貸したのだ」という背景で調達できましたが、この件について友人のユダヤ系アメリカ人から、祖父母がロシアから逃れた経緯を聞いていましたので、末松氏のご発表に頷くところ大でした。
末松氏の鋭い的確なご発表に感謝いたします。

Ⅱ.矢澤昌敏氏のご発表   

矢澤氏から10月27日開催「鉄舟・泥舟・静山所縁のお江戸史跡巡り」ご案内をいただきました。今まで知らなかった史跡を含め、楽しみな内容になっております。これにつきましては以下の通りでございますので、ご出席をご予定される方はFAX連絡にてお願いいたします。


「鉄舟・泥舟・静山所縁のお江戸史跡巡り」

1.今回は、小野鉄太郎(後の山岡鉄舟)が、裕福なる
少年時代を過ごした飛騨高山から、一転 貧乏旗本と
して、約20年間(嘉永5年:1852年 ~ 明治5年:
1872年)江戸:小石川で暮らした所縁の地を訪ね、
当時の江戸の面影を探る機会になればと企画しました。
 その歴史的背景や混迷の時代を生きた幕末の鉄舟・
泥舟・静山、そして 清河八郎などを偲びたいと思いま
す。 見どころ多く、お楽しみになれます。

2 開 催 日    平成24年10月27日(土)13:30~16:30

3.集合場所    東京メトロ丸ノ内線「茗荷谷駅」改札口 13:30
      
4.コ ― ス    今般、距離的には約4.5kmですが、坂の多い処だけ
          に足元の準備をしっかりとお願いします。

【播磨坂】 桜並木 ⇒ 【小石川鷹匠町】 高橋泥舟・
山岡鉄舟旧居跡 ⇒ 極楽水 ⇒ 宗慶寺 【吹上坂】
⇒ 【小石川金杉水道町】 小野鉄太郎旧居跡 ⇒ 
手塚良仙旧居跡 【三百坂】 ⇒ 浪士隊結成の地
「処静院の跡」 ⇒ 傳通院(処静院跡の石柱、清河
八郎の墓:貞女阿蓮の墓、祥道琳瑞和上の墓など) ⇒
【善光寺坂】 幸田露伴宅跡・沢蔵司稲荷 ⇒ 
【白山通り~蓮華寺坂】 ⇒ 【小石川指ヶ谷町】
蓮華寺(山岡鉄舟建立山岡家累代の墓:静山)
:此処で、一応 解散しますが、最寄りの駅は都営
三田線「白山」駅(A1出口)まで約3分です。

*** 皆様、お疲れ様でした ***

♠ ♠ ♠ 此処からは、希望者のみでの懇親会 ♠ ♠ ♠

5.懇 親 会     17:00開催予定で約2時間、会場は都営三田線:
             白山駅近くの「居酒屋」を予定しています。
            会費的には、4,000円程度
            会場の場所などは、後日 決定次第 ご案内を申し
            上げます。

6.お申込み・お問合せ
         下記の参加申込書にご記入の上、FAXにて送信し
てください。
担当:矢澤昌敏  TEL:090-6021-1519
E-mail:info@tessyuu.jp

                                    
参加申込書      
鉄舟・泥舟・静山所縁のお江戸史跡巡り(平成24年10月27日開催)に出席します
お  名  前
緊急のご連絡先(携帯電話など)
懇親会へのご参加 参加します    参加しません
申込締切:10月18日(木) FAX送信先:0480-58-5732(矢澤)


Ⅲ.山本紀久雄の発表

明治天皇の心の深化に鉄舟が如何に影響を与えたのかについて、以下のご項目について、系図・図を使用してご説明しました。

①悠(ひさ)仁(ひと)親王はご誕生時において皇位継承第三位となられている

②天皇家系図を説明し、万世一系を守るための孝明天皇の祖父である光格天皇即位の状況

③明治天皇は祐宮(さちのみや)としてご誕生、睦(むつ)仁(ひと)親王になられたのは九歳

④明治天皇は子供に不運だった

⑤維新の三傑の相次ぐ死も明治天皇に大きな打撃を与え、いよいよ鉄舟の精神家として力量が明治天皇に影響していくタイミングになった
木戸孝允・・・明治十年1887年五月病没
西郷隆盛・・・明治十年九月西南戦争で戦死
大久保利通・・明治十一年五月暗殺死

投稿者 Master : 05:53 | コメント (0)

2012年08月24日

鉄舟県知事就任・・・其の二

鉄舟県知事就任・・・其の二
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

東日本大震災時の日本人行動が世界中から称賛され、その行動の底流に武士道精神があり、それは仏教に関係していると先号でお伝えした。
既に触れていることであるが、多くの日本文化人は、この称賛されている行動について、あまり詮索せずに、せいぜい日本人のDNAだろうとか、本来持っているものが顕現された、というような表現で新聞紙上に発表している。

ところが、諸外国の新聞では「何故に日本人はあのような行動がとれるのか」という本質追求、実態を探ろうとする論調での報道が多くなされている。ここが日本人の感覚と異なるところであるが、今のところそれへの解答が日本人から正式になされているとは思えず、この鉄舟連載で述べているくらいではないかと思っていたところ、あの村上春樹がバルセロナで外国人に対し解答を行ったので、それをまずは紹介したい。

2011年6月9日スペイン・バルセロナにおけるカタルーニア国際賞授賞式での講演である。

「日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている 世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。

『すべてはただ過ぎ去っていく』という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。

自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のこと であるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。

どうしてか?

桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。

そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では『仕方ないもの』として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも 影響を及ぼしたかもしれません。

今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。

でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。

結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたか らといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共 存していくしかありません」と。

諸行無常sabbe-saMkhaaraa-aniccaa, とは、仏教用語で、この世の諸行という一切のつくられたものや現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。

この諸行無常が古代から日本人の中に宿っていて、それが無意識に「危険や災難を目前にしたときの禁欲的な平静さ」という行動を導き、再びその精神によって復興させていくのが日本人の特性だ、と村上春樹は述べているが、その通りであろう。

やはり村上春樹は鋭いと思う。世界から日本を見ている。世界の人々が今の日本をどう見ているかという事実をつかんで、そこから外国人に向かって説明しているのである。

普通に考えれば、文学賞の受賞講演であるから、自らの文学スタイルについて話すというのが通常ではないか。

ところが、村上春樹は無情という事を通じて被災地の日本人行動を語り、次に福島原発に対する見解、それは当然に日本政府と東京電力への批判を述べたのである。世界中の人々は、日本のバカらしい政治家の争いなどには興味を持っていない。今や福島原発への関心が最大事項であり、続いて日本人の被災地行動要因について知りたいのである。

この事実を殆どの日本人識者は知っているだろうが、世界に向かって解説していない。新聞は毎日バカバカしい国内政治騒動に紙面を費やし、それを読む日本人はくだらないと思いつつ、その方面に興味と話題が向いてしまい、世界から日本を見るという視点を忘れる。その上に記者クラブ性という世界でも稀な特殊報道機関体制の日本であるから、全く正しい妥当な情報が流されているとは思えない。

福島原発問題の日本政府報道が、世界から批判されていながら、改善しないままであるから、世界の知的階級は的確な情報に飢えているのである。その証明がボストンコンサルタントグループによる調査で「訪日の安全性に関し、その情報源の評価を聞いたところ、日本政府を信頼できるとした回答はわずか14%」(2011.6.14日経新聞)という実態であるから酷いものである。

そのような状況を村上春樹は理解しているので、バルセロナの講演となったわけで、さすがと思う。講演の最後に「今回の受賞賞金は東日本大震災への義援金にする」という言葉に、盛大な拍手が鳴りやまなかった。世界で通用する作家としての本質がバルセロナで再び証明されたのである。

 さて、本題に入るが、鉄舟が県知事であった事について、多くの人が不思議がる。あの剣豪の鉄舟が、というもので、いかに鉄舟という人物像がワンパターンで世上に広まっているかの証明である。

 また、物事は当時の状況から判断しなければならない。今の時代の価値観で昔を断じてはならない。

明治四年七月十四日(1871年8月29日)の廃藩置県により、新たに藩主に代わる知事が任命されたのであるが、旧幕時代とは縁のない人物を基本的に任命した背景を理解しないといけないだろう。

廃藩置県当初は、藩をそのまま県に置き換えたため三府三百二県あり、その後明治四年十月から十一月に三府七十二県に統合された。という意味は当然に、三百二から七十二に二百三十も減ったのであるから、ひとつの県の中に旧幕時代に異なる藩主によって治められていた地区が、多く入り混じって合併されたという事になる。

当時は、藩が異なれば政治行政も違っていたし、幕府直轄地もあれば、旗本の領地もあり、それらによって領民の文化や祭りごとも生活習慣等異なっていた。いわば江戸時代265年の長きにわたって、歴代の藩主によってそれぞれ完全自主経営管理下にあった領民が、隣国や近辺国であっても、かつては敵国として戦った経緯もあったであろうし、怨讐が複雑に絡み合っていた他藩の領民と同じ県に所属し、ひとりの県知事治世の下になるという事態になったわけである。

先の戦争中、都会地の子供が地方に疎開した事を思い出せばよい。習慣も制服も言葉も違っていて、多くの子供達は馴染むのに大変苦労したものである。

従って、新たに設置された括りとしての県民同志になったとしても、中には昔からの遺恨もあるだろうし、年貢として大事な田に必要な水の確保という争い、これは南北朝時代には将軍家にまで訴訟があがり、江戸時代には一段と水争いが激しさを増し、ひとつの川筋にはいくつもの藩が絡んでいたので、たびたび幕府にまで裁定を仰いでいた歴史があるように、仲がよくない領民が一緒になるのであるから、面白くないという感覚を持つ人々が多かったはずで、簡単にはまとまった政治はできないと容易に予測がつく。

 つまり、県知事の人事は難しいのであり、中でも「難治県」といわれるところに派遣する人物選定には困ったであろう。

 その「難治県」の代表もいえる茨城県と伊万里県(佐賀県)に、鉄舟が選任されたのである。その理由は明確で静岡における鉄舟の業績にあった。

話はさかのぼるが、慶応四年(1868)五月、徳川宗家を継いだ田安家のまだ五歳の亀之助(後の徳川家(いえ)達(さと))に徳川家の禄高が七十万石、領地は駿府一円と遠江国・陸奥国と通告された。

しかし、与えられた陸奥国は当時戦争中であって、徳川藩への引き渡しは事実上できず、そこで改めて遠江国諸侯領と駿河国久能山領、三河国御領と旗本領を加えたものにしたのであるが、そのためには諸侯のいない三河国御領と旗本領以外の二国、駿河と遠江の領主を移封させ、新たなる静岡藩をつくったわけで、いろいろ難しい問題があった。

その第一は、徳川家臣とその家族の江戸からの大量移住である。家臣達の静岡での生活は激変し、特に衣食住問題への対応は厳しく苦しかったが、一気に増えた移住者によって食料が不足し、それが一般民衆の生活まで影響し、難しい困難な政治運営とならざるを得なかった。

第二には禄高七十万石にするために、幕府直轄地であった三河国御領と旗本領以外の、駿河国・沼津、小島、田中(藤枝)三藩と、遠江国の掛川、相良、横須賀(掛川市の一部)、浜松の四藩、計七藩が新たに加わった政治・行政の難しさである。

第三には駿府地区特産のお茶が諸外国へ輸出され、この地に未曽有の好景気をもたらしていた事から幕府を支持する層と、幕藩体制下で疎外されていた遠州報国隊、駿州赤心隊、伊豆伊吹隊などの、神職中心の倒幕運動層との間に発生した殺傷事件問題の後始末である。

第四はこの地が清水の次郎長に代表されるように、博徒が輩出する地域でもあった事。どうしてそのような土地柄になったのかであるが、それはこの地域の歴史的特殊性にある。東照神君の地にして徳川幕府揺籃の地三河・駿河地域は、本来徳川幕府のモデル地区として最も法令が守られ、無宿や博徒が入り込む余地がない優等生の地でなければならないはずであるが、皮肉にも徳川幕府発祥地という由緒が、大名や旗本に三河以来の地縁を求めて少しでもいいから飛び地を持つことを希望させた結果、小藩が分立し、しかも大名の交代が非常に激しかったので、常に七から十一の藩が分立し、五十二もの藩が生まれそして消えていった。中でも吉田藩(七万石)で十回、西尾藩(六万石)・刈谷藩(二万三千石)は九回領主が代わった。のみならず尾張藩、沼津藩などの飛び地や幕領が点在し、加えて六十余家に及ぶ旗本の知行所がばらまかれた。

しかも三河の譜代藩は東照神君に連なる名門の血筋であり、多くが幕閣枢要の職に就いて専ら江戸にあって幕政に腐心し、国元の治世を疎(おろそ)かにしたので、取り締まりも十分でなく博徒が輩出したのである。

このような状態下の静岡藩で鉄舟は、明治元年(1868)に勝海舟と共に幹事役となり、明治二年(1870)九月に権大参事・藩政補翼という要職へ九名と共に任じられ、それぞれ役割を分担したのである。

幼い藩主家達の年齢から考え、事実上の県知事に当たる立場で、徳川幕府崩壊という徳川家と家臣達の瀬戸際の時代を、鉄舟は静岡の地で藩政治に全力を持ってあたり奮闘したのである。

また、チーム鉄舟の高橋泥舟も志田郡田中の奉行、中条金之助と松岡万も奉行として骨を折り、剣術の師匠であった井上清虎は浜松兼中泉奉行となり晩年に第二十八国立銀行(静岡銀行の前身)の頭取となったように、明治四年七月の廃藩置県までそれぞれ精進したのであった。

さて、廃藩置県によって徳川家達が、多くの旧藩主同様に東京に集められ、家禄を与えられ静岡を去る機会に、鉄舟も他の藩士等と共に東京に戻ったのである

県知事には権大参事で藩政補翼兼御家令であった大久保一翁が任命されたが、考えてみると慶応四年から明治四年までの静岡藩の四年間は、廃藩置県によって諸問題が発生すると予測される各県のテストケースとなったのではないか。

それは意図されたものではなかったが、様々な要因が複層し混線する難しい藩経営を行わざるを得なかった結果が、廃藩置県後の「難治県」対策のとしての事前実験シミュレーションとなったのであり、その実質的リーダーとして仕切ってきた鉄舟を密かに注目していた人物がいた。

それは大蔵卿の大久保利通であった。当時の大蔵省は今の財務、総務、厚生労働、国土交通、経済産業等の省庁を包括する巨大官庁で、国内政治を一手に仕切る部門であったが、大久保の心配の種は廃藩置県によって必ず起きるだろうと予測される「難治県」での「新政府に対する反抗」に対してどういう処置をとるべきかであった。

この件は明治四年七月九日、木戸孝允の邸で開かれた廃藩置県の最終会議で、木戸と大久保の大論争で結論がつかなかったものである。

その懸念する大久保の眼に、静岡藩における鉄舟の行政手腕と功績が映ったのである。鉄舟を廃藩置県後の「難治県」対策として登用したいと。

幕末から幕府崩壊まで、鉄舟と大久保とはあまり縁はなかった。西郷隆盛とは江戸無血開城駿府会談を機に、お互い信頼し合う間柄であったが、大久保とは接点がなかった事もあり、特に親しいという間柄ではない。

その大久保から鉄舟に直々の呼び出し状が届いたのである。呼び出される内容に心当たりはなく、用件は静岡での出来事での問い合わせ事項かなと思って、大久保の前に立った。

「静岡では大変ご苦労をおかけいたしました。おかげで無事静岡県に移管する事が出来ました。ついては山岡さん、茨城県の参事をお願いしたい」

鉄舟はビックリ仰天。鉄舟は新政府の役人になるつもりは毛頭なく、さらに剣・禅の修業をと思っていたところである。

茨城県は、十一月に水戸県等周辺六県が合併して成立することになっていた。その初代参事(知事)である。

既に決定した人事であるから断れない鉄舟、辞令を受けると直ちに「難治県」の水戸に向かった。

投稿者 Master : 05:37 | コメント (1)