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2008年09月23日

9月例会記録(2) 1/2

「時代環境を取り入れ、逆境をのがれた清河八郎」
山本紀久雄氏

高橋さんの話を聞いていたら、日本人には「ファ」(音階)がないそうです。我々の習慣ですよね。時代の中で生きていくのは習慣で生きていますね。
鉄舟に対して関心を持ち、今日たくさんの方がお見えになっています。今の時代、鉄舟の生き方、哲学が求められていて、そこに気づかれた方です。我々も一歩近づいて行き、鉄舟のような習慣をつくりたいと思っています。
清河も同じ人間ですが、清河としての習慣・生き方があり、その生き方が成功に導き、そして暗殺されました。

1.水戸の鉄舟展
1.胴乱
鉄舟が西郷のところに行くときに、勝海舟から預かった手紙を入れて走ったという胴乱が展示されていました。トンボが2匹描いてあり、素材は牛革と書いてありました。

2.和宮の家政取締
鉄舟は和宮の家政取締で、静寛院の宮から頂いた重箱が展示されています。

3.尊攘遺墨
6月9日に全生庵に行ってきました。尊攘党・虎尾の会(こびのかい)の発起人の言葉が書いてある文章は全生庵に保管されていると『俺の師匠』書いてありました。尊攘遺墨を見せていただき、広げたら15メートルくらいあり、いっぱい名前が書いてありました。尊攘遺墨と思われるものがたくさんあり、調べていますが、該当するかどうかわかりません。

2.和宮降下に対する孝明天皇の立場
和宮は、公武合体のときに家茂将軍にお嫁に来ました。当時、尊王攘夷が倒幕に結びついてしまい、既に開国しているところに、幕府をいじめようと長州が中心となって「攘夷をしろ」と言ってきました。開国反対が倒幕になってきました。「尊王」のところは、孝明天皇の意思に反して条約を結んだということで、尊王に反していると幕府をいじめました。
井伊大老を継いだ安藤老中が、天皇家と幕府が結びつき一体化すれば、攻撃される筋合いがなくなると考えたのが、公武合体です。結婚した途端に「尊王」は追求できなくなり、世の中は静まりました。攘夷は、既に開国しているからできっこありません。
公武合体で和宮がほしいと言い出したのは幕府側で、孝明天皇は許婚がいた和宮の嫁入りには反対したというのが通説です。有栖川宮と婚約が整っており、和宮も関東に行くのは困ると孝明天皇に申し出ており、孝明天皇も困っていました。

一昨年、鉄舟全国大会で講演していただいた北海道大学の井上勝生先生が、幕末維新の新説を出しています。ある限られた条件の中で述べられていることが多い中、それに井上先生は挑戦されています。明治維新からついこの間までいろんな資料が出てなく、特に孝明天皇に関しては研究が遅れていまして、和宮について孝明天皇は反対したのが通説だけれども、孝明天皇と慶喜は非常に緊密な関係がありました。慶喜は家茂将軍のときに京都に在住していました。孝明天皇は和宮に「家茂将軍の元に行かなければ尼になりなさい。もし納得しなければ生母観行院と兄の橋本実麗(はしもとさねあきら)を処分する」と秘かに関白に指示しているということが書かれていて、孝明天皇の幕府に対する政治スタンスを知ることができます。天皇は大きく一転して、幕府側に偏っている、と述べ、その後の孝明天皇の亡くなった要因に引っかかるのではないかという暗示まで書いてあります。

孝明天皇は、慶応2年の12月天然痘にかかり、一時小康状態のあと急死します。36歳でした。死因は天然痘、もうひとつは砒素による中毒説というのもあるんですね。孝明天皇が亡くなった途端に岩倉具視と薩長連合が出ます。仮に孝明天皇が健在であれば、たとえ岩倉と薩長が連携しても天皇を奪取する宮廷クーデターは無理だったでしょう。当時から毒殺説が囁かれておりましたが、この毒殺説は消えることはないだろうと北海道大学の井上先生が書いておられます。

3.元治元年(1864)の四国艦隊下関砲撃によって、持ち去られた大砲はどこに?
今日の日経新聞の夕刊に、山口長府が出ておりますね。功山寺の境内、尊攘堂で高杉晋作が決起したことによって時代が動いた、そういう場所なんですね。7月30日に行ってきました。

朝廷側から幕府は、和宮さんをもらうために約束してしまったんですね。わき目も振らず、夢中になって目先のことだけを約束すると大変なことになってしまいます。開国して、外国と貿易して横浜も大変な港になっているのに、外国と縁を切って鎖国体制に戻すのが攘夷です。和宮さんをもらうために幕府は「攘夷するか?」と聞かれ「します!」と言い切ってしまいました。矛盾しています。ここで外国に出て行けと言ったら戦争になります。
朝廷からは、家茂は上洛して孝明天皇に何月何日を期して攘夷するか宣言しなさいと責められました。江戸城では大変な議論があったわけです。攘夷すると言ったけれど、常識に考えたならば外国と貿易しているわけです。生糸が優れていて輸出しており、幕府は関税収入があります。どうして攘夷ができるのか、鎖国ができるのか、というのが慶喜の意見です。そういうけれども約束したではないかという意見もありました。
朝廷の手として、岩倉具視が朝廷側に「天皇陛下は反対かもしれないけれど、和宮を幕府に出せば、幕府に征夷大将軍として任せているが大事なことはすべて相談しにきなさいという朝廷政治に戻せます」という説得が効いて、孝明天皇が承諾して、和宮を嫁に出しました。

いつ攘夷するのか朝廷から責められ、とうとう家茂将軍が上洛することになりました。
家茂将軍が上洛する10日ほど前に、清河が画策した浪士組ら二百数十人が京に行きました。
朝廷から言われた江戸幕府は、議論を戦わせました。一橋慶喜は、開国しているんだから、鎖国したら戦争状態になると言い、政治総裁の松平春嶽が、ここは一応、公の論として攘夷にしておいて、そのあと開国しませんか、とやりあいました。一度和宮の条件があるから、春嶽の意見で攘夷を宣言しに行きました。
朝廷に「攘夷します」「文久3年5月10日にやります」と言ったその日に、長州藩は沖合を通る外国船に鉄砲を撃ったわけです。長州としては当然のことです。5月10日にアメリカの商船を、外国に宣言していないのに大砲で撃ち、22日はフランス軍艦、26日オランダ軍艦を攻撃しました。当然のことながら、外国は反撃します。翌年アメリカ・フランス・イギリス・オランダの四カ国の四国艦隊が、長州に上陸してめちゃくちゃにして、長州砲60門を全部持ち去りました。 

持ち去られた砲台はどこにあるのか?
前にお話したのは、パリのアンバリッド(ナポレオンのお墓があるところ)にあると、フランスの文学研究者の高橋さんが本に書いています。庭に行くと毛利藩の紋章がついた砲門があって、多くの観光客がなぜ日本の砲台がここにあるのか興味深そうに見ています。山口県はフランス政府に返してくれと何回も要望しているわけですが、フランスは戦争で捕獲したものを返したことがないわけです。まだ返していないという話をしました。
ところが、パリに行ったときにアンバリッドの庭を探したが、どこにも砲門が見当たりません。いろいろ調べたら実は昭和59年に日本に戻っていました。高橋さんの本が書かれたのが昭和58年でした。
下関市立長府博物館に行き、長州砲を見て、説明を聞きました。昭和59年の山口新聞のコピーまでいただきました。
直木賞作家古川薫さんの著書『長州砲流離譚』に、パリに行って長州砲を見つけて、外務大臣だった安倍晋太郎(安倍元首相のお父さん)が努力して、砲門が山口県に戻ってきた経緯が書いてありました。その代わり、長府の国宝級の鎧をフランス・アンバリッドに貸与する相互貸与で砲門は戻ってきました。一年契約だが、双方申し出がない限り永久に貸与です。古川薫さんは、砲門は3門あるが、あと2門見当たらない、どこに消えているかそれが気がかりだとおっしゃっていたので、今度調べてきますと古川さんに手紙を書きました。過去にあった場所の連絡が来ました。アンバリッドの管理局に正式アポイントを取って調査してこようと思います。事実確認しておかないと、鉄舟の研究の一環として絡んできます。

投稿者 staff : 2008年09月23日 11:03

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