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2005年03月29日

4月は二見さんの武士道(2)と山本さんの鉄舟研究です。

●4月の例会ならびにその他のご案内
4月例会は、4月20日(水)6:30より開催いたします。
発表者は、二見さんと山本さんです。
1)二見さんからは、「武士道」について、隔月で4回〜5回に分けて発表していただきます。4月は武士道の第二弾で、新渡戸稲造の「武士道」のからになります。

2)山本さんからは、時流問題と「鉄舟研究」の発表をしていただきます。
4月もご参加をお待ちしております。

3)4月3日の跡見学園女子大学(新座市)の「観桜の会」にも、大勢の方のご参加をお願いいたします。出欠の連絡をまだなさっていない方は、金子宛に至急ご連絡をお願いいたします。

4)5月18日の例会から、会場が変わります。上野の東京文化会館の会議室になりますので、お間違えの無いようにお願いいたします。

投稿者 Master : 15:16 | コメント (0)

江戸無血開城までの道のり

山本さん発表
3.1 
1)山田風太郎の明治物小説にはよく山岡鉄舟がでてきて、フィクサー役の役割をしている。
明治時代、日本は法律、医学、軍隊組織など多くのことをヨーロッパから学んだ。その時代、船で渡りフランスのマルセイユに入り、列車でパリのリヨン駅に到着した。そのリヨン駅は大変豪華な駅で、ベルエポック時代の壁画が描かれた「ル・トラン・ブルー」という高級レストランがある。

ル・トラン・ブルーの店内写真

2)明治五年、パリを訪れた日本人に成島柳北(幕府の学者の子として生まれ、将軍の侍講を若くして務めるという才能を示したが、明治維新によって新聞記者として朝野新聞の社長となる。明治五年に外遊する)がいた。パリで大道芸人となっていた江戸時代の馴染みであった新橋芸者、それとノートルダム寺院の前で偶然出会ったところ「幕府の人間が、明治政府の役人と一緒に来て、通訳みたいな仕事をして、男の意気地はないのか」と言って万人が見ている前で顔を痛打された。この件について「海舟も鉄舟も二君に仕えた」と、わざわざ風太郎は書いているが、それほど、二君に使えるのは当時は非常識な行動であったのである。

3)ここで二君に仕える話をしたのは、新井喜美雄という元東急エージェンシーの社長が、「悪玉、大逆転の幕末史」を書き、その中で鉄舟を「精神が貧しい男」とこき下ろしている理由が「海舟も鉄舟も(二君に)仕えた」からであることから、当時の時代雰囲気をお話したのである。しかし、新井喜美雄氏という、それなりに名経営者と言われている人物が、このような判断基準を持っていることについては、次回にもう少し解説したい。この考えの延長に今話題となっているライブドアの問題もあるからである。また、新井喜美雄氏とは直接お会いして、鉄舟について話し合ったとがあるので、そのときの状況もお話したいと思っています。

3.2「江戸無血開城までの道のり」
1)「覚王院義観の生涯」(長島進著 さきたま出版会 2005年2月)という本を浦和の伊勢丹で見つけた。推薦者は上田清二埼玉県知事であって、これは郷土埼玉県の朝霞に立派な人物がいたということから、「覚王院義観」の立場にたって書かれた覚王院義観側からの維新史である。この内容を紹介したい。

2)山岡鉄舟が駿府に出発したのは3月5日の夜か、6日の早朝であって、7日駿府に到着、8日東帰と考えるのが妥当である。7日と考えると輪王寺宮が大総督有栖川宮と会い、覚王院義観が参謀の西郷と林玖十郎に会った日と同じである。輪王寺宮と覚王院義観が同じ駿府にいるのであれば、鉄舟から一言の挨拶もないということはおかしい。
また、鉄舟は半日も経ない短い交渉で西郷から「五箇条」の慶喜助命の回答を引き出して、さっさと江戸に立ち返ってきてしまっている。

3)覚王院義観は、7日の会談の後、5日も引き延ばされて3月12日に慶喜助命の条件を提示されたのである。覚王院義観が江戸に戻って、官軍との交渉成果を報告しようとしたときには、すでに海舟と西郷の品川会談が行われ済みであって、覚王院義観の苦労した駿府行きは無駄骨でなったのである。(山本注 これがその後の官軍に反する彰義隊による、上野戦争に向かった一つの要因とも言われているところである。何故なら、覚王院義観と鉄舟の論争、それは鉄舟の彰義隊解散勧告であるが、これを覚王院義観が拒否した真の理由とも言われているのである)

4)江戸に戻った覚王院義観は、駿府で会談を引き延ばされ、鉄舟によって成功した江戸無血開城の裏には何かの陰謀があると考えるのに、充分過ぎるほどの出来事であった。
覚王院義観は「何かがある」と深い疑問を持ち、その探索を間諜を使って調べた。間諜は細川家(肥後藩)の家臣である志方鞆之進であり、志方は岩倉具視と知り合いでもあるので、真相の探索を依頼したのである。

5)志方鞆之進から20日ほどたって報告が届いた。
「駿府城会談のすべてを背後で演出していたのは、岩倉具視である。全ては『神道復活、廃仏、輪王寺宮の格下げ』が狙いである。

6)有馬頼義著「北白川宮生涯」
作家の有馬頼義も「北白川宮生涯」(別冊文芸春秋第105号)の中で次のように書いていると長島氏が同書で指摘している。これは島峯颯平資料にある内容である。

「私が手にいれた資料と、島峯颯平資料の共通点で正史と違っているのは、江戸城の無血開城は、西郷と勝の会見によって決定したのでなく、最初から岩倉具視の策略であったという一点にすぎない」

「岩倉具視は私(有馬頼義)の曾祖父にあたる。岩倉には三好某という家臣がいた。
三好老人の口から、岩倉が勝海舟を過大評価していて、勝を助けるために密使をもちいて、西郷と勝に、あの大芝居を打たせたのだ、ということを聞いたのである。上野を逃れた輪王寺宮へ追討の命令を下したのも、岩倉であった。

7)このような主張は立場によって異なるのであって、それに異論を挟む必要はない。何故なら、鉄舟が西郷との会談を成功させたことを否定しているわけではないからである。鉄舟の功績を正しく認識しているが、覚王院義観も正しく理解して欲しいというのが長島進氏の主張である。

8)いずれ長島氏に当会に来ていただいてお話を伺う予定である。その際に根拠を詳しく語ってもらいたいと思っている。

●事務局の感想
今回は、最近パリに行った現場感覚の話で、今という時代と明治時代が結び付けられ、大変臨場感ある発表と感じました。「ル・トラン・ブルー」は私も何度か食事をしたことがありますが、初めてその場に立つと本当に装飾が素晴らしいのに感激する歴史あるレストランです。
今回は立場の違うところからの歴史の発表でしたが、どの立場かはっきりしていれば、その立場の意見を発表できる、史実は一つでないということを教えていただきました

投稿者 Master : 15:10 | コメント (0)

剪画文化をめざす

3月の記録
事務局よりのご案内
1)4月3日(日)跡見学園女子大学「観桜会」開催のご案内
2).鉄舟・21・サロンとして「山岡鉄舟研究会」の幟を成のご案内。書体は、HPの書体と共通の隷書体
3)5月18日開催の例会から、会場が上野の東京文化会館の会議室に変更になることのご案内。
4)ぬりえ美術館より
テレビ朝日「報道ステーション」の番組内で、1月〜2月に亡くなった方の人生を何人か振り返るコーナーがあります。ここで、蔦谷喜一が、3月30日、又は31日に放送される予定。1〜2分程度
5)月刊「VERDADベルダ」3月号に山本紀久雄氏の温泉本「笑う温泉 泣く温泉」の書評が掲載されました。
6)サイボクハム研修ツアーのご案内
日時:5月21日(土)10:45〜16:30
場所:サイボクハム
集合:サイボクハム本社「心友の像」の前 10:45厳守
会場費:1500円
7)ペネロップ日本展2005「煌きの食卓への誘い」
(メンバーの吉田さんが、企画をされている展示会でございます)
開催日程:05年4月23日(土)〜5月7日(土)
時 間: 10:00〜20:00 
会 場: 東京プリンスホテルパークタワーボールルーム
入場料:当日券2800円、前売り入場券2500円

1.岡崎さん発表 「剪画文化をめざす」
1)「剪画」の名前の由来:剪画も一言で言えば「切り絵」但し鋏を使わず、カッターで切ることが原則 
和紙が生まれた頃から切り絵はあったが、切り紙細工ではあって、切り絵とは呼ばれていなかった。切り絵という言葉は、朝日新聞で連載していた「滝平二郎」さんの絵から名付けられた。
同じく切り絵作家であった石田良介氏は、通信講座を終了した生徒を中心に、「創切会」を設立、芸術の一分野として確立させるため、1984年「日本剪画協会」と名称を改めて、会を再編成し、現在に至っている。
1993年には文化庁の後援を受け、2002年にはNPO申請登録、2003年〜モントリオール、ニューヨーク、2004年ニューヨークで海外展開催、05年大崎O美術館で第21回展覧会開催
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2)岡崎さんは、多摩美術大学でテキスタイルを勉強したが、卒業と同時に結婚し、7〜8年間は、育児で今まで勉強したことを生かせなかった。型染めなどを好きだったことから、石田氏の本「切りえ入門」を持っていた。」個展を見に行って、通信講座を受講し1982年講師認定取得 高輪の石田先生の自宅で勉強会に通って勉強し、現在は石田氏の小渕沢転居にともない、東京会員中心で活動。

3)剪画の制作方法
図案をコピーする→図案を黒い紙の上にとめる→白い部分をナイフで切り抜く→コピーした図案を取り除き、台紙の上に載せて、糊をつけ、貼る。
紙は和紙。洋紙より丈夫で、毛羽立たない。専用の熱圧着剪画和紙もある。

4)剪紙や切り紙細工との違い
技法の違い。ナイフは両刃をつかう。竹を主原料にした紙を20〜70枚重ねて、一度に切り抜く。「突き彫り」のようなもの。寄席の芸は、「切る」というテクニックをみせる芸で、紙切りと言って、切り絵とは言わない。

5)下絵を描くことが80〜90%
切るだけなら、誰でも沢山切れば出来るが、「何を描くか、どんな表現にするか、全体的にどんな絵にするのか」ここが大事。その意味で下絵をそのまま本画にする日本画に近いのではないか?

6)石田良介氏とは:
日本剪画教会の会長。谷根千の辺りを描いている。谷中の商店街の入り口看板や「谷根千」の小冊子の表紙やカットを描いている。

7)鉄舟との出会い
石田さんの本の中に、全生庵が載っている。全生庵の円朝祭りに行っていたが、そこに鉄舟の墓があるとは知らなかった。

8)協会としては、作品集、せんが抄を毎年作成している。図案集を最近発行。

9)美術館開館の夢・・・3つの柱
(1)作品の発表・・・年1回展覧会+各支部の展覧会
(2)知ってもらう、教える場所の筋道をつける・・・カルチャー講座、市民講座を会員の地元で開催
(3)文化として確立していきたい
歴史というものは記録された瞬間に残っていくもの。昔の作品を収集し、それを展示する場を作る。系統だてて集めて、残していく。記録から作ろうと考えている。
総括的にすることで、文化として残して行きたい。見るだけでなく、作りたいという方々と一緒にジョインしていきたいと考えている。


●事務局の感想
岡崎さんがぬりえを見にいらして、ぬりえと鉄舟の関係に関心をもたれて鉄舟のサロンに参加されるようになったことを考えると、「切り絵」から「剪画」に名前を変え、さらなる飛躍の美術館開館の夢と剪画を文化にしていきたいということをお聞きして、同じ方向に歩まれていることを知り、ご縁の不思議さを感じました。これからもお互いにご協力していきましょう。

投稿者 Master : 15:07 | コメント (0)

義経の実像とは、そして鉄舟の脳とは

2.山本さんの発表
1.源義経の実像(平治元年〜文治五年 1159年〜1189年)
義経が美形の人物像に描かれているが、実はチビで出っ歯の男だった。
源平争乱より200年後の室町中期に、類まれな美貌の持ち主として定着する。

2.新選組 沖田総司の実像
沖田総司も、あばた面の酷い男だったようだが、憧れの男性に変化していく。

3.バレンタインのチョコレ−ト・・・フェニルエチルアミン
チョコレートの中には、フェニルエチルアミンという神経伝達物質が含まれていて、食べると脳が"愛""幸せ"を感じることができる。シナプスの動きを良くして、頭の回転を良くする。薔薇の花にも、同じ成分が含まれている。

4.アインシュタインの脳・・・グリア細胞が多い
脳の重さは、だいたい1400g位であるが、アインシュタインは、1230g
それでも素晴らしい業績を残している。子供の頃には、言語障害があった。
アインシュタインは、脳の重さは少ないが、脳細胞の周りにグリア細胞が多くある。

5.鉄舟の脳・・・目的から入る思考(西郷との会談に向かうに当たって海舟の問いに対する答えから類推する)・・・脳のワ−キングメモリ−(作業記憶)に強い・・・大脳新皮質の前頭葉と側頭葉のネットワ−ク力が強い
普通の人は、手段から考える人が多い

6.東海遊侠伝について
1)東海遊侠伝の中味は次郎長と黒駒勝蔵の争い
<すべては米国ペリ−の来航から始まった>
幕府の対策として急遽江川太郎左衛門英龍が登用された。黒船ショックを経験した幕府は、ようやく江戸湾防備の重要性を気づき、以前からそのことを進言していた伊豆韮山代官の江川が幕府の中枢に登用されたお台場作りを懸命にした。

2)竹井安五郎、通称「吃安」という無宿人、今で言えばヤクザであり博徒島抜けをした。
お台場作りは急務である。お台場作りの人足候補者として博徒が使われた。その博徒の親分が大手を振って幕府の危急困難時の対策に活躍したのである。
その博徒の親分が間宮久八(後に大場久八と言われた)であり、この久八と兄弟分が竹居安五郎であり、安五郎はこのタイミングに久八のところに逃げ込んだのである。
竹居安五郎は甲州に戻り、そこで博徒として売り出していく。そこに隣の村から子分入りしたのが黒駒の勝蔵である。
この勝蔵は「東海遊侠伝」の中では、男伊達清水次郎長に対して敵役の卑怯者としてイメ−ジしやすい描かれ方をしている。
ところで、その後竹居安五郎はどうなったか。指名手配人物としてとらえようとするのが幕府の法としての当然行動であるが、それが上手くいかないので二束草鞋の博徒を使って捉えようとするゲリラ戦法をとった。
それは国分三蔵(高萩万次郎)一味の投入である。この三蔵グル−プが安五郎を騙まし捉え、牢内で毒殺との説もある死に方をさせる。これに勝蔵は怒り、その後の闘いが激化していく。
三蔵と清水次郎長は盟友である。ここに安五郎の意思を継いだ勝蔵と、三蔵の盟友としての次郎長の二大勢力が闘う構図が出来上がった。

3)慶応四年(1868)正月21日、赤報隊として突如勝蔵が現れる。
その後の勝蔵はどうなったか。明治三年8月に御暇を貰い、黒川金山開発を目論見中、帰隊の日限を守れず脱退と見なされ、明治四年正月25日伊豆蓮台寺で温泉治療の帰途捕えられ甲府に送致された。
この脱退したことと、国分三蔵との闘いで相手の子分三人を殺害したことを問われ、明治四年10月甲府で斬処された。

4)一方、勝蔵の喧嘩相手、敵役の清水次郎長はどうなったか。次郎長も勝蔵一派の子分を多く殺害している。それは「東海遊侠伝」に書かれていることで分かる。また、次郎長は幕府側での行動をとっていた。ということは官軍の世界になってみれば、次郎長こそが捕まって罪に問われるはずである。それが次郎長は過去の博徒喧嘩の殺人は不問にされて、明治時代に力をつけて生延びたのである。勝蔵とは天地雲泥の差である。この差は何故発生したのか。生き残った次郎長の背景には誰がいたか。それへの究明・研究が次の課題である。

●事務局の感想
バレンタインのチョコレートから、アインシュタインや鉄舟の脳までの解説に思わず、手段人間の私としては、うーんと唸ってしまいました。臨機応変にということばを念仏のように唱えたいと思います。
東海遊侠伝は昔浪花節で聞いたり、東映の映画で見たことがありましたが、歴史的背景を山本さんが大変面白く語ってくれるので、優しく頭に入ってくるようです。

投稿者 Master : 15:04 | コメント (0)

「現代に生きる武士道」—新渡戸稲造・山岡鉄舟・恩田木工—

1.二見さんの発表(2月その2)
▼明治までの武士道関連の主要書籍
●甲陽軍鑑(こうようぐんかん)著者 小幡景憲(おばた かげのり)(1573?1663)
武田家興亡の歴史、武田流軍学の理論、甲州武士の心構えなどを書いた全20巻からなる。
1 戦争の目的を忘れるな  
2 攻撃こそ最善の防御
3 人材の尊重と活用 「人は城 人は石垣」
4 内政の充実こそ勝利への道
5 全軍を手足のように
● 「五輪書」(ごりんのしょ)著者 宮本武蔵(みやもと むさし)
(1584?1645)全五巻。宮本武蔵が到達した兵法の心をまとめた書。
 地之巻、水之巻、火之巻、風之巻、空之巻からなる。
● 「山鹿語類」(やまがごるい)
著者 山鹿素行(やまが そこう)(1622?1685)
泰平の世における武士の役割と心構えを説き文武両道を求めた。
● 「葉隠」(はがくれ)著者 元佐賀藩士山本常朝(やまもとつねとも)(1659?1719)
口述。田代陣基(たしろつらもと(1678?1748)
筆録全十一巻。武士の言行の批判を通じ、道徳を説く。
注 「武士道というは死ぬことと見つけたり」という文章で、有名。
しかし、死を賛美するよりも、武士が本分を全うするために、最後迄勤め上げるための心構えを説いている書である。
● 「武道初心集」(ぶどうしょしんしゅう)
著者 大道寺友山(だいどうじ ゆうざん)(1639?1730)。
葉隠れと似ているが 義を中核においた。

■「春風」の表紙の由来
●建築家伊東忠太(一八六七〜一九五四)
▼ この「春風」の仁王様のような不思議な表紙に巡り会ったのは、忘れもしない昭和四一年一二月二五日であった。品川先生七六才、私二〇才であった。辞するときに頂いた小冊子が「野人の叫び」誌であった。
「野人の叫び」誌の装幀は、故東京帝国大学名誉教授工学博士忠太、伊東先生の独特の筆になった、見るからに凛然たる野人不動の勇姿である。
私は、品川先生が「野人の叫び」誌を創刊されたのと同じ、四十才の昭和六一年九月に「春風」を創刊。その表紙に品川義介先生の長女にあたる榊原節子様宅にお伺
いし、品川先生の表紙(忠太による仁王様)をお譲り頂き「春風」の表紙とさせて頂いた。
▼忠太を人物辞典で調べると。
慶応三年に山形県に生まれ、明治・大正・昭和前期の建築家。東大工科を卒業、東大教授で、昭和二十六年に八十四才で文化勲章を受賞し、昭和二十九年 八十七才で逝去された。
ちなみに「春風」の題字は、江戸城の無血明け渡しの功労者の鉄舟の菩提寺にあたる全生庵の住職であられた平井玄恭老師に揮毫頂いた。
忠太の設計した建築を挙げると昭和九年 築地本願寺をインドの仏教建築の様式にて設計。昭和初期には 靖国神社 明治神宮などを日本建築として設計。
他に震災記念堂、湯島聖堂、阪急梅田駅壁画など数多くある。
忠太はインド、日本風の建築だけでなく西洋のロマネスク様式の建築もてがけていた。昭和元年 一橋大学の兼松講堂・事務棟・図書館などはロマネスク様式による忠太の作品である。


●事務局の感想
合気道歴がながい二見さんに「武士道」をお願いするのが一番ふさわしいということで忙しい中を数回にわけて、隔月の講演をお願いいしました。何事も自分から実践される姿に、大変尊敬をしています。4月もよろしくお願いいたします。

投稿者 Master : 15:01

「現代に生きる武士道」―新渡戸稲造・山岡鉄舟・恩田木工―

2月例会記録
1.二見さんの発表(2月その1)
来年で創刊満20年になるのを区切りに、春風で追い求めてきた、「日本の心」を偉人の逸話や伝記を基に、整理し紹介していきたいと願っていた。このところ、武士道の話題も続いている。
今春から一年かけて偉人群像をお手本にして、「現代に生きる武士道」として連載することを決意した。
一 恩師の紹介
私が、「日本の心」を多少でも学び得たのは、大勢の故恩師のお陰である。春風も恩師に恩返ししたいという思いで始めた。               
●富木 謙治(とみき けんじ)
 秋田県角館生まれ。競技合気道創始者で弟子の大庭英雄と共に競技合気道を普及せられた。
●品川 義介(しながわ ぎすけ)
萩の生まれ。都会で手に負えなくなった感化院の不良少年を北海道の原野で更生された。その名を北海道家庭学校という。品川先生は、吉田松陰の孫弟子に当たる。
注)その月刊「野人の叫び」誌は、私の青年期におけるこころのバイブルであった。
●朝比奈宗源(あさひな そうげん)
円覚寺で坐禅だけでなく平和実現に世界連邦の話も伺った。日本国を蒙古来襲から護った北条時宗がいたことや昭和天皇の話も伺った。
●逸木定親(いつき さだちか)
九州八幡に居られ、剣道九段で、人間道場を主宰されていた。今親鸞といわれ北九州界隈で尊敬を受けていた。

二 私の尊敬する偉人群像
山岡鉄舟、恩田木工、渋沢栄一、双葉山、二宮尊徳、山田方谷、西田天香、西郷隆盛
今村 均、吉田松陰、良 寛、伊庭貞剛
注 日本の心 魂をもった先人達で、「春風」誌 創刊以来十七年かけて、その人物を伝記形式で紹介してきた。特に線を引いた人物を尊敬。
 
▼「現代に生きる武士道は?」と問われたら、
私は 躊躇なくThe Soul of Earth と答える。意訳すると、地球武士道となる。
人間の本分は、徳を積むことを柱にして、国や地域への社会貢献と地球環境保全の三位一体を実践することに尽きるのではなかろうか。

■現代に生きる武士道 2 
第一章 武士道の流れ
「武士道」の語が、使われ始めたのは、およそ戦国時代後半ないし、末期頃である。
武士道の解釈は、時代により変遷してきた。中世から幕末までの流れを「戦場の精神史」(著 佐伯真一NHKブックス)を参照にして、紹介致します。

1.中世、戦国時代の兵の道
1)武士道という倫理の前に、謀略をしかけあい、敵を倒そうとした神話から戦国までの武士の姿がある。だましあいを肯定する。戦場で生き残ることを根本においていた。
2) 武士としての生き方を、極めるべき「道」として考えた例が最初に登場したのは、室町時代の「義貞軍記」である。
この時代の「武士道」は、武士らしい勇ましい行動を示す言葉であり、まだ倫理理念までは昇華していない。甲陽軍艦にその例がある。
3)勝利へのあくなき執念をもって兵法の道とすることを説いた「五輪書」は、戦国武士の後継をなしている。
2江戸 太平の世の武士道
1)武士たらんものは、一年中常に死を覚悟して過ごせと「武道初心集」には述べられている。同様なことは、「葉隠」にも述べられている。
2)しかし、「葉隠」は、敵を討ち取るよりも主の為に死にたることが良いとまでになった。これが、日本陸軍の悪しき無謀な特攻につながっていく。
3)山鹿素行による、「士」の役割は、戦うのではなく、忠、信、義といった儒教的徳目を守ることとされるようになった。即ち「武士道」ではなく、「士道」として説いている。
4)吉田松陰は、儒教に由来する士道と併せて甲陽軍艦の教える武道鍛練の影響を受けて、尊王攘夷を説いた。

5)以上の変遷を経て、明治になって武士道が倫理道徳の意味合いを帯びて登場してきた。  
事例を4つ。
第一 山岡鉄舟  1887 明治二十年  武士道講話口述 1902 明治三十五年出版 
第二 福沢諭吉 1891 明治二十四年脱稿 明治二十七年奥羽日々新聞に掲載 「痩せ我慢の説」
第三  雑誌「武士道」(1898 明治三十一年 大日本武術講習会 月刊で四号まで発行された。
第四 新渡戸稲造 1899 明治三十二年 アメリカで刊行 書名「The Soul of Japan 」(和訳 武士道)。翌年日本でも英語版が刊行。

6)安岡正篤の説く 武士道
大正13年 若干27歳 「武士道哲学新論」を講じた。
士の意義  書経において  裁判官
周代では  四民の上にたって大夫の下に属する者。 全ての有官者 禄を受ける者 
春秋左子伝では、戦場において兵隊を率いる者
さらに 義理を行う者 道徳的行為の主体者

投稿者 Master : 14:56 | コメント (0)

2005年03月28日

「笑う温泉・泣く温泉」がトップ売れ筋となる

「笑う温泉・泣く温泉」がトップ売り筋となる

■山岡鉄舟研究家で、鉄舟・21・サロンで毎月講師を務めている山本紀久雄氏は、世界の温泉の研究家でもあります。その山本紀久雄氏の著書「笑う温泉・泣く温泉」が昨年末に小学館スクウェアから出版されております。

■この「笑う温泉・泣く温泉」が、紀伊国屋のBookWevでの最近一ヶ月の売れ筋でトップとなりました。温泉専門書としての分野です。

■読者からも読後感が届き始め、日本とヨーロッパの温泉比較が具体的によく分かるということと、この本によって「ヨーロッパの温泉治療」の実態が詳しく分かったという声でした。

■また、フジテレビの日曜七時半から放映されている「報道2001」の黒岩祐治キャスターからも「参考になった」というハガキが届きました。

投稿者 Master : 11:20 | コメント (0)

2005年03月27日

愛知万博視察・・・その二

経営ゼミナール7月例会は愛知万博視察・・・その二

■開幕二日間は不振

開幕二日目で初の週末となった3月26日(土)、愛知万博の入場者は約四万六千人で、万博協会はこの日の入場者を約15万人と想定しており、その三分の一にとどまりました。
開幕日に続く低迷に「率直に言って土曜日なので、もう少し来ると思った」と、万博協会の中村事務総長が嘆いています。
しかし、全期間入場券の完売もあって、入場者見込みについて「現時点では楽観も悲観もしていない」と語り、そのうえで「来場者の感想を聞き、問題点があるなら知りたい」と述べました。

■今後はどう展開するか

愛知万博の目標来場者数は1500万人です。開催日数は185日ですので、一日平均8.1万人という目標となります。これに対して開幕日と二日目は、天候が悪いこともあって大きく下回っています。
今後状況がどうなるか。トヨタがバックについているのですから、何らかの対策を講じるのか、それともこのまま天候回復と共に上昇していくのか。そのあたりが見ものです。

■ドイツ・ハノ−バ−環境万博の状況

2000年に開催したドイツ・ハノ−バ−万国博覧会について、筆者(山本紀久雄)が視察後YAMAMOTOレターで報告いたしました内容を下記いたしますので、愛知万博に対する状況分析にご参考にしていただきますと幸甚でございます。

●10月でドイツ・ハノ−バ−万国博覧会EXPOが閉幕しました。メインテ−マは「新しい世界の創造〜人間・自然・技術」で別名「環境万博」と銘打って開催されましたので、ここへ関心のある方々と9月に行ってまいりました。

●二日間、足に豆が出来たほどタップリ会場を歩きました。まず一日目は全体の概要把握を行って、二日目は現地在住の日本人通訳をつけてしっかり見学しました。日本出発前にハノ−バ−のホテルだけが旅行会社では予約できず、とうとう現地の知り合いの会社にお願いして、ようやくホテル手配が出来たほどでしたので、入場者もかなり多く賑わっていると予測してまいりましたら、何と大変な不評EXPOとの事でビックリしました。現地ではホテルは直ぐに予約できるのに、日本での情報ではどのホテルも満員であり、料金もバカ高い事を言われていましたので、現地に着いてEXPOの状況を実際に見て、聞いて驚いた次第です。いかに日本の情報が当てにならないかの証明でした。

●不評の原因を一言で表現すれば「楽しくない」との評価なのです。面白くない・娯楽性に欠ける・真面目すぎるなどで、4000万人予定の入場者に対して40%程度の実績で、とうとうEXPOのテ−マとして「環境」を選んだ事に根本的な失敗があるのだ、とも言われる始末です。会場の行き帰りタクシ−を利用しましたが、ドライバ−当然現地のドイツ人ですが、乗るや否や「どうだお客さん面白くないだろう」と決め付けてくる始末です。乗車する多くの入場者が同じ印象を漏らすので、我々も同じだろうと当然の如くに発言しているのです。

●確かに環境がメインテ−マですから、各国のパピリオンも一生懸命PRしていますが、これまでのEXPOのように技術と産業振興のためにビックリさせ、評判になり長蛇の列がつながるような展示物はありませんので、楽しさに欠ける事はやむをえないと思います。

●その最たる典型パピリオンは日本館です。建物全部を紙で造り、紙で造った自動車の展示、終わったら再生紙として再活用するという、環境に配慮した立派なコンセプトテ−マ館となっています。だが、他国のすべてが設置しているお土産売り場や飲食店の設置は一切無く、とにかくデ−タと資料展示で「勉強になりました」との台詞が出口で自然に口から出てくるのが我が日本館で、徹底的に環境をテ−マに取り組んでいる最優等生パピリオンです。

●一方世界の覇者アメリカは環境がテ−マでは出展しても儲からないから、最初から参加を見送っています。割り切りが早く、徹底しているのがアメリカです。


この続きは次回になります。

投稿者 Master : 11:23 | コメント (0)

2005年03月26日

経営ゼミナール7月例会は愛知万博視察

鉄舟・21サロンで毎月研究結果を講演している山本紀久雄氏が、代表をしております「経営ゼミナール」が「愛知万博視察ツアー」を行いますので、鉄舟ファンの方もご参加自由ですので、以下ご案内いたします。

経営ゼミナール7月例会は愛知万博視察・・・万博情報その一

経営ゼミナールの7月25日(月)例会は、3月25日から始まった「愛知万博」(愛・地球博)視察を行います。愛知万博を視察予定の方は、経営ゼミナール主催の「万博ツアー」にご参加お待ちしています。詳しい内容は後日ご案内いたしますが、筆者(山本紀久雄)が前回の万博、それはドイツのハノーバーでの2000年開催に視察しておりますので、そことのつなぎから「愛知万博」への視点を整理してみたいと思います。

■万博154年の歴史を振り返る・・・特筆すべきはパリと大阪だった

1851年のロンドンでに始まった万国博覧会、すでに154年の歴史を要しているが、そのコンセプトは「産業振興を競う場として発展し、技術万能主義を主体」としてきた。
その長い歴史の中でも、目立った開催としては、1889年のフランス革命100周年を記念して、開催されたパリ万博であるが、そこでは高層建築の走りとなったエッフェル塔に、世界中の人々が驚嘆したのであった。
1970年には大阪で開催された。ここにはアメリカが宇宙から持ち帰った「月の石」が展示され、それを目的に長い行列が出来たことはまだ記憶に生々しい。この大阪の入場者は史上最高の6420万人を記録した大成功の万博であった。また、この万博を起点に日本は更に高度経済成長を果たしたのであった。

■2000年のハノーバーはどうだっか・・・それは失敗であった

ドイツで開催された2000年のハノーバー万博は、当初計画4000万人を見込んでいた。しかし、終わってみれば1400万人、目標比35%と無残な結果であった。
ハノーバー万博のテーマは「人間ー自然ー技術、リオ地球サミットでの宣言『持続可能な開発』を基盤にする」でした。少し長い正式テーマですが、要するに「環境万博」だったのです。
集客の失敗理由として「入場料が高い(大人標準の日本円で3500円。これは前売り券と午前・午後券や週末券などに細かく分かれているので大体の平均価格である)ことや、ドイツ当局の運営が官僚的という指摘もあったが、よくよく行かない人々に聞いてみた結果「万博のテーマに『環境』を選んだことに根本的な過ちがあった」との見解になった。
この見解と集客失敗の結果をみて、愛知万博は計画を修正せざるを得なくなったのである。

この続きは次回掲載になります。

投稿者 Master : 11:55 | コメント (1)

2005年03月23日

徳川宗家18代当主に聞く

徳川宗家18代当主 徳川恒孝(つねなり)氏(徳川記念財団理事長)から聞く

                            山本紀久雄
2004年は開国150周年

日本開国(1854年3月)は、日米和親条約(神奈川条約)によってなされ、昨年の2004年はその150周年にあたりました。
その150年を記念する事業が各地で行われ、その一環の一つとして2005年の3月19日(土)に東京都港区主催で「江戸250年の天下泰平を支えた仕組みと心」と題し、徳川宗家18代当主の徳川恒孝氏の講演が行われました。

徳川時代に今を当てはめれば享保の改革の時代

徳川時代は265年続きました。その265年間という長い年月、それに明治維新から今日までの137年という年月を当てはめたとしますと、それは徳川時代の八代将軍吉宗の時に当たります。
吉宗が登場したときは、江戸初期から上昇を続けてきた米価が、享保時代に入って急激に下落し、逆に諸物価は高騰し、米を売って暮らす武士は困窮化した。経済的は物価引下げが幕府の大きな課題であった。

吉宗の行った享保の改革の中味

吉宗は享保の改革といわれる諸政策を展開した。その政策の最大の目標は「開府当初の家康の強力な幕政を理想とする復古主義であり、それと上の経済政策であった。
そのために行ったことは多々あるが、そのなかでも享保六年(1721年)の目安箱設置である。庶民から投書を受け付けるという当時としては思い切った改革情報手段を採ったのである。
その目安箱の鍵が徳川宗家に今でも宝物として残っているという。目安箱は将軍しか開けられない決まりであった、と徳川恒孝氏が述べた。本当に将軍しか開けなかったのか、それは事実なのかはよく分からないが、目安箱を設置して、ここに当初される項目内容を考えると将軍しか開けられないということの意味が分かる。

続きは例会で発表

徳川恒孝氏の講演内容については、4月20日の鉄舟・21・サロン例会で発表いたしますので、お楽しみにしてご参加お願いいたします。

投稿者 Master : 11:24 | コメント (0)

2005年03月20日

跡見学園女子大学「観桜会」のお誘い

「鉄舟・21・サロン」春のイベント
跡見学園女子大学「観桜会」
副題 : 創立者 跡見花蹊の生涯

05年度の春のイベントを下記要領にて開催いたします。
ご参加お待ちしています。(お申し込み方法をご覧の上、お申し込みください)

1.日  時   平成17年4月3日(日)13:30〜16:00
2.場  所   跡見学園女子大学(埼玉県新座市中野1−9−6
TEL:048-478-3333 庶務課まで)http://www.atomi.ac.jp/daigaku/

3.集合時間   13:00厳守(13:10発 大学バス利用)
&集合場所   JR武蔵野線新座駅北口ロータリー:大学バス停

4.イベント 
(1)花蹊記念資料館見学(特別展開催)     30分
……… 移 動(4号館「コモンルーム」) ………
(2)開 会 代表 金子 マサ氏
内  容 
(3)跡見学園130周年の歩み   跡見学園女子大学
(創立者:跡見花蹊伝) 60分  学長 山崎 一穎氏
……… 移 動( 「 グランド 」 ) ………
(4)キャンパス「観桜会」           45分
(5)閉 会
* 16:10発 大学バスにて新座駅へ
5.親 睦 会   16:30〜 18:30
(山崎学長もご同席くださいます)
相撲茶屋ちゃんこ「江戸沢」新座店(新座駅より徒歩5分)
新座市野火止6−4−2    TEL:048-482-1177
会 費:3,500円(当日徴収)
*現地にて解散

6.参加申込
(1)TEL申込    03-3892-5391 ぬりえ美術館内事務局
(2)FAX申込    03-3892-5392     〃
(3)E-mail申込   info@tessyuu.jp    〃

*参加希望の方は、上記のいずれかの方法にて、下記の順序にて
参加申込をお願いいたします。
・氏 名  ・参加人数  ・自宅住所  ・自宅電話  
・親睦会参加可否

投稿者 Master : 18:53 | コメント (0)

2005年03月19日

5月の例会より、会場が変わります

5月18日(水)開催の5月の例会より、会場が変わります。
新会場は、上野の「東京文化会館」の会議室となります。交通の便もよくなりますので、更に多くの鉄舟ファンの方にご参集願いたいと思っております。
これからもよろしくお願いいたします。

投稿者 Master : 18:49 | コメント (0)

2005年03月18日

武士道第二弾

4月例会

4月の例会は4月20日(水)6:30~8:00pm ぬりえ美術館において開催いたします。講師は、二見さんと山本さんです。
武士道の2回目、ご期待願います。
時流とともに「鉄舟研究」を講演する山本さんのお話も毎回好評です。
4月もご参加をお待ちしています。

投稿者 Master : 18:48 | コメント (0)

2005年03月17日

パリ農業祭2005のアルバム2を掲載いたしました

パリ農業祭アルバム2005(2)


パリ農業祭2005のアルバムの第二弾を掲載いたしました。
規模、展示場つくり、演出方法、楽しみ方、どれもフランス的。
この写真から日本との違いを感じていただけるでしょうか?

投稿者 Master : 12:04 | コメント (0)

2005年03月15日

ゲランド塩視察

今年の2月27日にフランスはブルターニュ地方の塩田として有名なゲランドに行ってきました。


<冬の塩田>冬場は塩田を休めています。

ゲランドの塩の最大の特徴は、古代から伝わっている生産方法を現在でもそのまま守っていることです。天日塩(てんぴしお)といいまして、これを完全に伝えているのは、世界でもゲランドのようです。他の地区の天日塩は、海水から塩を作る過程において、人間の手に科学的な生産方法を取り入れています。
出来上がった塩のミネラル配分は、科学的な方法と、ゲランドの自然生産方法でも同じ海のミネラルが配分され、原理的には同様なのですが、料理に実際に使ってみると微妙な味への変化があることから、フランス料理のシェフにとってはゲランドの塩が最も大事な隠し財産になっています。
シェフが推奨することで、今や世界的に著名なブランドになりました。

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<ゲランド村の風景>

投稿者 Master : 17:24 | コメント (0)

2005年03月13日

鉄舟研究3月号を掲載しました

鉄舟研究として毎月連載している山本紀久雄氏の「鉄舟研究」は、今回は「江戸無血開城への道のり」として、鉄舟の西郷との会談成功は「岩倉具視の謀略」によって、仕掛けられたものである、という長島進氏の見解を掲載しました。いろいろな立場から鉄舟の業績についてご検討いただくことは大事なことですので、長島進氏の著書「覚王院義観の生涯・さきたま出版会」を紹介しました。

投稿者 Master : 16:33 | コメント (0)

2005年03月10日

0502〜03月のドイツ・フランスの視察情報(1)

独・仏視察アルバムを掲載しました。
絵の始まりのアルタミラの洞窟画を始め、フランスのオルセー美術館、ルーブル美術館、カルティエ現代美術館、そしてパリの農業祭の模様など、写真を掲載しました。
今回はNO.1として、今後更に詳細情報を掲載していきます。

投稿者 Master : 12:03 | コメント (0)

2005年03月06日

山本紀久雄氏の本が雑誌で紹介されました

山岡鉄舟研究家であり、毎月の例会でユニ-クな鉄舟論を展開している「山本紀久雄」氏が、昨年末に小学館スクウェアから「笑う温泉・泣く温泉」(2000円)を出版しました。この「笑う温泉・泣く温泉」が月刊誌「ベルダ」三月号で書評紹介されました。

書評の中で「日本の温泉改革の試みの一つとして、本書は貴重な提案書であり実態報告書となっている」とあります。日本の温泉が国際化・近代化することで、大きく発展して欲しいとの想いから「温泉地発展戦略論」を書いたものですが、それが正しく評価されている書評になっています。

  ベルダ http://www.kkbestbook.com

投稿者 Master : 17:45 | コメント (0)