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2008年05月22日

5月例会の感想

真夏を思わせるよい天気になりました。
5月例会の様子をご報告します。

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今月も、来たる6月15日(日)、靖国神社への正式参拝に向けて、上米良恭臣氏から靖国神社についてのお話をいただきました。

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上米良氏が敬慕されておられる幡掛正浩氏から、「士」とはこういうことだということを教わったそうです。

『子曰く、己を行うに恥有り、四方に使して君命を辱めざるは、士と謂うべし』

まさに鉄舟が生涯追い求めた己の姿と思います。
公人として、己を捨てて君のために尽くした鉄舟の胆力は、士と呼ばずして何と呼ばんや。
深く感じ入った一文でした。


続いては、山本紀久雄氏の鉄舟研究です。

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今月のテーマは「幕末の風雲は清河八郎の九州遊説から開幕」でした。

清河八郎は「虎尾の会」を結成し、鉄舟は発起人に連なりました。
結成の盟約書の中で清河は「(自分たちに)敵対するものは醜慮(しゅうりょ・外国人)と同罪であるから、王公将相もことごとくこれを斬る」と、大変過激なことをいっています。

『天璋院篤姫』(宮尾登美子・講談社文庫)によれば、天皇家は外国人など見たこともなかったので、水戸斉昭が朝廷に醜い姿の偉人を描いた錦絵などを送り、外国人のイメージを歪めて植え付け、攘夷に走らせたのだそうです。
ちなみに、本書で山岡鉄舟は登場はしませんが、名前は二箇所出てきます。江戸城無血開城のくだりの天璋院と鉄舟のそれぞれの西郷への談判の顛末は、読んでのお楽しみということで。これをNHKが大河ドラマでどう料理するか楽しみです。

話が逸れました。
虎尾の会結成は、後の鉄舟駿府駆けの壮大なドラマの序章となるものでした。
ここで、駿府駆けの重要人物である益満休之助と出会うのです。
清河八郎は、江戸無血開城という一大革命を成し遂げた縁(えにし)を繋いだのです。

その後、清河は彼をマークしていた同心を斬ってしまい、全国を逃亡することになるのですが、この逃亡生活が九州遊説に転化することになります。
幕末の風雲は九州遊説から始まった。
なぜでしょう。
来月をお楽しみに。

(田中達也・記)

投稿者 lefthand : 20:20 | コメント (0)

2008年05月17日

山岡静山との出会い・・・その三

山岡静山との出会い・・・その三
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

 鉄太郎は槍との立合いは始めてであったが、「なに、剣も槍も同じだ」と相手に対した。しばらく睨み合いが続き、相手が「トウーー」の掛け声とともに繰り出してきた槍を左に払い、相手がバランスを崩したところに、鉄太郎得意の突きで相手の喉を強烈に刺した。

後ろによろめき倒れた相手が「参った」という声とともに、勝負は一瞬に終わった。鉄太郎の完勝で、瞬間であったが肩を聳やかしたのを静山も井上清虎も見逃さなかった。

「お見事」という静山の声が道場にこだまし、静山は井上清虎を振り返る。清虎は「あの態度を懲らしめ鍛えてやってくれ」という眼差しを静山に送る。

頷いた静山、「では、拙者がお相手いたす。遠慮なく」と、鉄太郎の前に立った。
「ありがとうございます」鉄太郎の期待は深まり、玄武館で鍛えてきた腕が試せると、深々と静山に一礼する。

静山に向って竹刀を構えてみて、鉄太郎は唸った。足が一歩も前に出ない。間合いが詰められない。身動きができない。逆に、たんぽ槍の穂先が真槍の鋭さをもって、にじりじりと迫り、とうとう道場の羽目板に背中がつくところまで圧された。

五尺六寸(170センチ)あまりの静山の体が、六尺(180センチ)を超す鉄太郎にのしかかってくる。静山が巨岩になっている。圧迫で息が苦しい。何とかしたい。だが、体が動かない。何かに縛られている感じだ。背中を汗が伝わり流れる。

その時、静山が穂先をわずか下げた。相手を誘う動きだ。誘い水だと分かっていたが、金縛りの状態を打開するには、このチャンスしかない。相打ちでいこう。鉄太郎は「エイー」と諸手突きを、静山の喉元めがけ打ち込んだ。

その瞬間、鉄太郎の息が止まった。体が反転した。自分の体がどうなったか分からない。気がつくと道場の床に這いつくばっていた。

しかし、鉄太郎は必死の形相で立ち上がりながら、低い姿勢から一気に静山に向って体当たりしようとした瞬間、再び、穂先が鉄太郎の喉元に突き刺さった。どうしようもできない速さの突き。鉄太郎の巨体がのぞけり、どうと倒れ、道場内に大きく響き渡った。

「参りました」意識が朦朧で、喉を突かれ声にならない声で、両膝を折った。完膚無き負け。敗北感が全身をおおった。

鉄太郎はそれまでこのような徹底的な敗北感、その感覚を味わったことはなかった。九歳のときに真影流久須美閑適斎の道場で剣術を習い始め、高山に移ってから井上清虎に師事し、江戸に戻って玄武館道場に入門し、すぐに鬼鉄と称される腕前になっている。

書にしても、師岩佐一定に提出した十五歳の時に書いた誓約書「書法入門之式一札」が現在に残っているように、見事な筆跡であり、これを提出してからわずか半年後、一定が鉄舟に弘法流の免状を与えたことが示すように、優れた才能を示してきた。

もともと剣と書について天性の素質を持っていた。特に、剣は小野家の祖先高寛が、伊藤一刀斎の直弟子小野次郎右衛門と小太刀半七の両士の門に入り、剣法に達し、禅道の薀蓄を極めたと、鉄舟居士自叙伝にあるように代々武術に興味がある家系であった。

それを証明するかのように、鉄太郎の父朝右衛門は、高山代官であった時に盛んに武道を奨勵し、幾度か陣立を行った爲に、幕府にうたがはれ、遂に違法として咎を受け、自刃したと言う説があるほど武術に興味があった。

また、母磯の生家である塚原家は、塚原卜伝を輩出したように武術家の血筋である。このような両家の遺伝を受けた鉄太郎の剣はもともと優れた天分があった。

だから、今までの剣の修行は厳しく激しいものであったが、自らを磨くという意味で、その厳しさも、激しさも、次への段階への鍛えとしての充実感が漲り、残るものであった。だから、今回味わった徹底的な敗北感という感覚、それとは今まで無縁であった。

だが、静山の槍は、今までの修行レベルを超えていた。充実感なぞという感覚は吹っ飛ぶレベルだった。「完敗」という感覚が体の奥底から巻き上がってきた。

 「このくらいでよろしいですかな」と、井上清虎に語りかける静山の乱れのない静かな声が、まだ朦朧としている鉄太郎の頭上に聞えた。

 「鉄太郎、身繕い終わったら静山先生のお宅に参れ」という井上清虎の呼び掛けに、「承知いたしました」という声も出せず、崩れた姿勢の中から、ようやく頭を下げるのが精一杯であった。

道場の裏側にある井戸端で、鉄太郎は赤く腫れた喉元を冷やし、汗を拭こうと見事な筋肉で締まっている上半身裸となった。桜の大木から花吹雪が飛んできて、花びらが上半身にまといつくのも気がつかず、鉄太郎の中にある想いが決意となって凝結する。

静山の「すごさ」が畏敬の念となり、それが塊となって「師として仕える」決心を固めさせたのである。鍛えぬいた上半身を拭い、改めて静山の屋敷を見つめる鉄太郎の目が、期待感で輝き弾んだ。

鉄太郎の肉体は当時でも際立っていた。身長は六尺(180センチ)を超え、体重は二十八貫(105キロ)という巨躯、相撲取り並である上に、剣の修行で鍛え抜いていたので筋肉隆々とした偉丈夫であった。
この時代、武士の体はどうであったのだろうか。武術で鍛えているから鉄太郎を含め一般的に立派な体であったのだろうか。

しかし、意外な事実であったことを「『逝きし世の面影』渡辺京二著 平凡社」が伝えている。支配者層であった武士は一般的に体格が貧弱だった反面、下層階級の人々の体は肉体美にあふれていたという。

 そこで、ちょっと寄り道になるが、鉄太郎が過ごした幕末から明治初期の日本人の体格について、外国人が賞讃する下層階級に所属する人たちの肉体美について同書からみてみたい。

 「エミール・ギメは人力と車夫という典型的な肉体労働者の体格を次のように描写する。『ほっそりと丈が高く、すらりとしていて、少ししまった上半身は、筋骨たくましく格好のよい脚に支えられている』。荷車を曳く車力は『非常にたくましく、肉付きがよく、強壮で、肩は比較的広く、いつもむき出しの脚は、運動する度に筋肉の波を浮き出させている』

ヒューブナーも日本人船頭の『たくましい男性美』を賞揚し、『黄金時代のギリシャ彫刻を理解しようとするなら、夏に日本を旅行する必要がある』という」
また、ギメの乗った船が明治九年、横浜港に着いた時、同乗していた主人を迎えに来た若い日本人たちを
「『彼らの主人の荷物の上に、浅浮彫にみられる風情で、どっかり腰を下した。優美な襞、きまった輪郭、むき出しの腕のポーズ、組んだ足、下げた頭、衣服と組み合わされて調和のとれた体の線、すべてが古代の彫刻の荘重な美を思い出させる』。そしてギメは問う。『なぜ主人があんなに醜く、召使がこれほど美しいのか』」と。続けて「上層と下層とで、日本人の間にいちじるしい肉体上の相違があることは多くの観察者が気づくところだった。チェンバレンは端的にいう。『下層階級は概して強壮で、腕や脚や胸部がよく発達している。上流階級はしばしば病弱である』。メーチニコフも『日本の肉体労働者は衣服と体つきの美しさという点で、中流、上流の人々をはるかにしのいでいる』という事実に気づいた。スエンソンは『下層の労働者階級はがっしり逞しい体格をしているが、力仕事をして筋肉を発達させることのない上層階級の男はやせていて、往々にして貧弱である』。ヴェルナーは『下流の者の間では、まるで体操選手を思わせるような、背が高く異常に筋肉の発達したタイプにめぐりあう』」

同書はさらに続けて「注意しておきたいのは、日本労働大衆についてのこういう意外な記述がみられるのは、幕末から明治初期の記録に限られることだ」としている。また、「後年、日本を訪うた欧米人は、日本の男の容貌や肉体についてしばしば゛醜い゛と記述している」とも書いている。

武士階級は武術で鍛えていたはずだから、一般的に逞しい肉体を保持していたと思い込みやすいが、実は貧弱だったと言う外国人の指摘結果、その反面、江戸時代の労働大衆は素晴らしい肉体美を持っていたという事実に、思いがけない江戸という時代を認識する。

 身繕いを整えた鉄太郎は、山岡家の玄関に立ち案内を乞った。
 奥から現れたのは十五歳の英子である。近い将来、この大男が自分の伴侶となることなぞ露知らず「小野様、奥へ・・・」と案内してくれる。
 奥の部屋には静山と井上清虎が対座している。二人の顔は和やかである。多分、鉄太郎の剣筋について話し合っていたのだろう。

 鉄太郎は、敷居の手前でぴたりと座り、両手をつき井戸端で決意したことを述べた。
「山岡先生、私をご門弟の端にお加え賜りたく、伏してお願い申し上げます」
「鉄太郎、どうだ、分かったか。上には上があるだろう」と井上清虎、「ハハー」と鉄太郎は畏れ入り「今までの振る舞い、ただただ、忸怩たる思いでございます」
「それが分かったか。よろしい。山岡先生、拙者からもお願いしたい。鉄太郎をご門下に入れてやっていただけないか」
「鉄太郎氏の師である井上先生が、そのようなお気持ちでござれば、遠慮なく当道場へいつかからでも参られい」と静山は答え、「お城勤めの身、不在の時は、弟の高橋精一(泥舟)がお相手するときもあるでしょう」と加える。
「ありがたき幸せにございます」と敷居の手前の縁側で、大きな体を深々と頭を下げる。

そこへ英子がお茶を運んできて、鉄太郎の振る舞いを好意的な眼差しで見た。
「鉄太郎、この方は山岡静山先生のお嬢さんで、英子さんだ」と井上清虎、続けて「英子さん。この大男は小野鉄太郎、別名鬼鉄という暴れん坊です。今日から静山先生の弟子となりましたので、厳しく扱ってください」
「まぁ、厳しくなんて・・・。こちらこそよろしくお願い申し上げます。それにしてもそのような大きな体で敷居際におられますと、私が出入りできませんので、どうぞ中にお入りください」
「これは気がつかずに失礼いたしました」
四人の明るい笑いが座敷に満ちた。


これが鉄舟が真に傾倒した静山という人物との出会いであり、生涯を変えることになった英子との出会いであった。鉄舟の弟子であった小倉鉄樹は、その著書「『おれの師匠』島津書房」で静山に次のように語っている。

「鉄舟が真に心を傾倒した師匠が一人ある。それは槍術の師、山岡静山その人である。静山は当時日本で一か二かと推奨せられた槍術家であったが、鉄舟はその技倆に感服したのではなくて、その人格に心服したのである。このことは後に鉄舟が小野姓から山岡姓を名乗る因ともなったのである。そんなら静山といふ人はどんな人であったか。
静山は號で、通称は紀一郎、名は正視、字は子厳と云ひ、幕臣の極く軽い身分であったが、槍法では天下を鳴らしたもので、当時関西槍術の雄築後柳川の南里紀介と立ち合って、四時間も勝負がつかず、二人の槍先が砕けて一寸余りも短くなったといふ話がある。けれども静山の優れたところは、かかる技倆の問題よりも寧ろその人格にあった。親には大変孝行で、たった一人の母のいふことは、どんなことでも聴き、また母の用事はなんでも自分でやった。母の肩が凝るので、毎晩その肩を按摩してやったのだが、段々弟子も増えて身辺が忙しくなり、按摩して居る暇が無くなってきたので、一六の日は母の按摩と定め、どんな用事があっても屹とこの日は母の肩を揉むことにしてゐた」

静山と鉄太郎が師弟として交じり合ったのは、一年に満たない僅かだった。静山が二十七歳の若さで突然亡くなったからだが、その後の鉄舟に対して与えた影響は計り知れない。単なる武術としての槍術だけでなく、人格的な教えを多々受けた。また、静山の激しい猛稽古は、後年、鉄舟が春風道場を開いたときの「誓願」猛稽古、その意味は一死を誓って稽古をするということであるが、これも静山の猛稽古からヒントを得たと思う。

では、その激しい静山の稽古はどのようなものであったか。次回に述べたい。

投稿者 Master : 04:38 | コメント (0)

2008年05月05日

4月例会記録(1) 

■上米良 恭臣氏

『私論。誄歌でたどる靖國神社』

今回は祀られている人ではなくて祀る側の話にして、次回は祀られている方たちを中心にお話したい。靖国神社はナイーブな問題を抱えていて、空論にはしたくないので、私の身近で知っている人、面談をしたことのある人、尊敬している人を主題にとらえてお話を進めさせていただきます。
「誄歌」は「るいか」と読みます。神主さんがお祭りで述べるのが祝詞(のりと)です。葬式で神主さんが述べるのが誄詞(しのびことば)と言います。祝詞は大きい声で奏上しますが、誄歌は声を低くして静かに述べるのが普通です。誄歌とは神様を敬い偲ぶ和歌です。

明治天皇御製 
わが国の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき
 靖國神社のことを詠んでおられます。和歌にしろ、論語にしろ声を出して詠んでください。

特別攻撃隊、九軍神の忠烈を深く偲びて
み濠べの寂けき櫻あふぎつつ心はとほしわが大君に    三浦 義一

三浦義一さんという日本浪漫派と言われた人の和歌です。昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃に特殊潜航艇五隻で突入され、ついに帰られなかった九軍神を偲んで詠まれています。

靖國神社に金子さん達と下調べに行き、正式参拝をさせていただきました。玉串をささげて、頭を下げますと、こめかみのこの辺にびりびりときました。そのあと非常にさわやかな風が頬を撫でてくれました。いろいろな思いがあるのですけれども、私の論のひとつは心の問題です。

私論一 原初、靖国は率直なこころの問題であつた
中国からの非難や総理大臣の正式参拝など政治的、理知的?なことに絡めて、靖國神社の本当の姿が見えないのではないかというのが私の考えです。

濫觴=下関、桜山招魂場祭、元治元年(一八六四)の高杉晋作(東行)の誄歌
後れても後れてもまた君たちに誓いしことを我忘れめや

東行という号は西行にちなんでいます。濫觴と書きましたが、まだ社がなく、榊を立てて神様を天空からお呼びして、お祭りをしたのが、下関の桜山招魂場です。長州藩が最初の攘夷運動として外国船を攻撃して報復され、その戦いで亡くなった方たちの魂をここへお呼びしてお祭りしました。そのときに晋作が詠んだ歌です。

はつかしと思ふ心のいやまして直会御酒も酔得ざるなり

私が大好きな歌です。招魂祭で祭られた人たちに向かって今の自分の行動が恥ずかしい、その心がぐっと増してきて、お神酒にも酔うことができないと歌っています。現代に生きるものとしても行き着くところだと思っております。この二首の内「はつかし」はあまり知られていないのですね。

創始=招魂社。明治二年(一八六九)より、戊辰戦死者を祀る

ただ単に広場でお祭りしていたものが、社になり招魂社といいまして、靖國神社の今の場所です。最初に祀られたのが、戊辰戦争でなくなった官軍側です。

国家の根幹=世界の独立国家は賛否なく戦死者を尊崇。ビッテル神父の進言。※資料1

駐日ローマ教皇代表バチカン公使代理ブルーノ・ビッテル神父の進言です。敗戦直後に靖国神社を焼き払ってしまえという論が占領軍にあって、それをキリスト教会に諮問しました。(中略)
「靖国神社を焼き払ったとすれば、其の行為は、米軍の歴史にとって不名誉きわまる汚点となって残ることであろう。歴史はそのような行為を理解しないにちがいない。はっきりいって、靖国神社を焼却する事は、米軍の占領政策と相容れない犯罪行為である。(中略)
 我々は、信仰の自由が完全に認められ神道・仏教・キリスト教・ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のため死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを、進言するものである。」

私論二 心の問題を理知、法規で云々の愚―いはゆる戦犯合祀、いはゆる政教分離―

私は靖國神社には心をからお参りする。国のために戦で亡くなられた人たちに感謝と報恩の念をささげることだと思いますけれども、世間は頭でっかちでやっているんですね。戦犯合祀の問題、政教分離。神道には、政教分離はありませんが、祭政一致はあります。

神道祭祀への非難を越へて―「祭政一致」と政教分離。「一君万民」と民主主義

五箇条のご誓文のときでも、天皇が五箇条のご誓文を天神地祇に誓われて、その後発布されます。両方「まつりごと」ですがお祭りを第一にして、それから政治(まつりごと)を行う。神道の発想です。よく民主主義といわれ、戦後になって初めて民主主義が出てきたように思われますが、これは嘘です。日本らしい民主主義、鉄舟先生も書いておられたように「一君万民」これが日本の本来の民主主義です。今のアメリカナイズされた民主主義とは違います。

未曾有の国難、敗戦と、占領六年八ヵ月、植民地にならなかった奇跡!

日本が外国に侵略される、こういうことは歴史上かつてなかったことで、大変な敗戦であったわけです。降伏してサンフランシスコ講和条約までの六年八ヶ月アメリカを中心とする連合軍に占領されていました。六年八ヶ月も占領されておれば、植民地にされるのが普通ですよね。それを植民地にならないように日本人の生き残った方たちも努力してこられた。

二四六万六五〇〇余柱(内二一三万三九〇〇余柱は大東亜戦)のご祭神

ご祭神を柱と言います。その靖國神社に祀られているご祭神は二四六万六五〇〇余柱です。うち二一三万三九〇〇余柱が、大多数が大東亜戦争でなくなられたご祭神ということです。

私論三 松平永(なが)芳(よし)第六代宮司の三原則と第七代大野俊康宮司の必死懸命を偲ぶ。
昭和殉難者奉祀と国家護持より国民護持といふ考へ方
一、 神道祭式堅持 二、社殿不変 三、社名不変(やすくにの正字は靖國)

松平春嶽公の孫、松平永芳宮司の『誰が御霊を汚したのか―靖国奉仕十四年の無念』(諸君・平成四年十二月号)という文章がありますが、それには靖國神社は私がいる限り、神道の祭式を堅持する。国家護持ではなく、国民護持。戦前も靖国神社のお祀りで、ほとんどが参拝者、崇敬者のお金で成り立っていたにも関わらず、所轄の官庁から微々たるお金が出て、国家護持といわれたわけですけれども、そのような国家護持はおかしい。名前だけで政治に牛耳られる。国家護持になると、神道のお祓いもやめて、二礼二拍手一礼もやめて、頭を下げるだけとか、そんなようなことがやられかねない。尊敬心のある方たちの力によって靖國神社を護持していこうではないかと松平宮司は言っておられます。靖國神社の桜の下で会おうというのが大東亜戦争で亡くなられた方たちの合言葉だったので、社殿も傷んだ部分だけ取り替えて、砂で磨くとか補修してできるだけ変えない。社名は絶対に変えない。そう言っておられます。やすくにの正字は「靖國神社」です。

大野宮司の必死懸命。何と現代の菊池千本槍か

その後を継がれた大野俊康宮司、私と同郷の熊本天草本渡諏訪神社の宮司さんから抜擢されて靖國神社に御奉仕になったわけです。大野宮司の息子さんと連絡が取れまして、大野宮司の「必死懸命」というお仕えの仕方をお聞きしました。
わが郷土に菊池川があります。砂鉄が取れました。その砂鉄で菊池千本槍、槍というか短刀を作って、それを携えて靖國神社にお仕えになったそうです。非常に厳しい、首相などになるよりももっと厳しい姿勢ではないかと思っております。失敗があれば腹を切るということです。
石田和外(かずと)氏、醍醐(だいご)忠(ただ)重(しげ)中将、そして練習艦隊上の父。※資料3

練習艦隊という言葉はご存知ですか?今の自衛隊もやっているんですけれど、旧軍では日露戦争の後、明治三十八年から昭和十四年まで練習艦隊が出ています。艦隊ですから二隻から三隻で世界中を周ります。あるときはアメリカに、あるときは地中海に行ったりしています。私の父も昭和十二年の六月七日から四ヶ月間地中海に行っております。その艦(磐手)の艦長は醍醐忠重中将。
松平永芳さんは新任少尉で乗艦され、のちに醍醐中将の娘を奥さんにされております。
石田和外さんは、最高裁長官、全日本剣道連盟会長を務められ、さらに鉄舟の一刀正伝無刀流第五代です。その方の推薦で、松平さんが宮司になられた。福井県の人脈です。

(日本人同士の)恩讐を超えたいと私は思っているのですが。国道一号の三島に近いところに山中城があり、その箱根古道の脇に菊池千本槍の碑が建っています。
『建武二年(西紀一三三五年)十二月十一日、ここ箱根古道、山中一帯で行われた水呑峠の合戦で、後醍醐天皇の命を承けた宮方軍の先鋒菊池肥後守武重公の率いる軍勢は、足利勢と壮絶な戦いを展開した。菊池一族一千余の将士たちは、竹の先に短刀を結ぶ新しい武器を用い、足利勢を山の峰に追い上げ大勝利を収めた。しかし足柄路の友軍は、竹下合戦に敗れて、宮方総崩れとなり、菊池勢は殿軍を勤め死闘を繰り返し、将士七百名を失った。此の箱根 “竹下合戦” は南北朝対立のかなしい時代の幕開けであった。(中略)
のちにこれが菊池千本槍と呼ばれ、武重公の武勲と共に、菊池氏誠忠の歴史に輝きを放っている。
 菊池同族の末裔ゆかりある者ここに碑を建て、史実を顕彰すると共に、建武の昔箱根の戦いに斃れた両軍将士の御霊に深い祈りを捧げる』
最後のところが肝心です。両軍の将士の御霊に祈りを捧げるというところです。

余滴 靖国に祀られる人、祀られぬ人。―恩讐は超へられぬのか―
    吉田松陰・坂本龍馬・高杉晋作・真木和泉守・清河八郎・昭和殉難者・広田弘毅・松尾敬宇中佐疎開船対馬丸児童父兄・ひめゆり部隊・従軍看護婦・終戦後死去の樺太真岡電話交換手
西郷隆盛・白虎隊士・八甲田山行軍訓練死者・佐久間勉艇長・東郷元帥・乃木大将・古賀峯一元帥

「吉田松陰」から「終戦後死去の樺太真岡電話交換手」までが祀られる人。「西郷隆盛」から「古賀峯一元帥」は祀られておりません。

疑問 わが国は今真実の独立国家なのか?パール判事の日本無罪論と日本を叱る言葉。※資料2
パール博士というインドの判事でただ一人東京裁判を否定した方の話が残っています。日本に何度か戦争のあと来られています。
「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらいい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観という歪められた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。」(一九五二昭和二七年十月)
広島に訪れた際にパール博士は「過ちは繰り返しませぬから」碑文を見て激怒したそうです。
「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。落した者が責任の所在を明らかにして《二度と再びこの過ちは犯さぬ》というならうなずける。この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である。」
靖国神社遊就館前にパール博士の碑文がたっております。

結語 平和な時にこそ、聞かう!靖国の神々の声を。

かつて未曾有の敗戦といいましたが、今は未曾有の平和ですね。平和に越したことはありません。平和の中に人間の規律というものをもっと確立していくべきただと思いますが、戦争のことを思えば思うほど、今日の平和は貴重です。平和な時代になりますと靖國神社にお参りする人が減少するのではないかと言われておりますが、行ってみると大変にたくさんの人出であります。平和な時代にこそ、お参りし、御祭神の声に耳を傾けてお聞きし、今の生活にどう生かしていけばよいのか、それを皆さんと一緒に考えさせていただければ非常にありがたいと思います。
私は「はつかしと思ふ心のいやまして直会御酒も酔得ざるなり」に行き着いてしまいます。
お話を終了させていただきます。ありがとうございました。


【事務局の感想】
6月に靖国神社を参拝させていただきますが、靖国神社についてはやはり上米良さんに教えていただくしかないと思い、今回をお願いをいたしました。
私論一 原初、靖国は率直なこころの問題であつたというお話をお聞きして、それでよいのではないかと思いました。素直な心参拝をさせていただければ、良いのかなと思っています。
靖国神社に行ったことのない方は、ぜひ、この機会にご参加くださいますよう、お願いいたします。

投稿者 staff : 12:02 | コメント (0)

2008年05月03日

4月例会記録(2) 1/2

■山本紀久雄氏

「清河八郎の戦略転換」 1/2

靖國神社の問題は、以前はありませんでした。中国から出された問題で、それに翻弄されています。中国に行って説明しますと靖國神社はお墓だと思っているんですよね。神社の存在から説明しないとわかりません。

今チベットの問題で、世界中が中国の対応について遺憾の意見を評していますね。特にフランスの発言で、中国はカルフールの不買運動をメールで起こしていますが、カルフールは中国に50店くらい出ています。北京のカルフールに行きましたが中国人は買っていました。ウオールマート、伊勢丹、カルフールにもお客さんは入っていました。実際には買っているけれど、不買運動をするのが国情だろうと思います。
ぜひ来月も上米良さんに伺い、靖國神社の知識・理解を深めたいと思います。

鉄舟研究会のホームページを見ていましたら、田中さんも金子代表も清河のことを誤解していた、新しい見方をしたというニュアンスのことを書いていました。現代でも同じで、我々もひとつの見解で人を見るということをしてしまいます。これは靖國神社のことにも通じます。
どういう人間か知らないままに世間一般の策士という評で清河イメージしてしまうという意味でも、現代に生きる鉄舟の研究を学ぶ意味があります。
幕末維新の時代、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允が三傑といわれましたが、そのほかにもたくさんいます。幕府側では、鉄舟、海舟、泥舟、清河八郎も異色だけれど幕末維新に貢献しています。どう貢献したかを話して行きます。

1.文武二道指南の道を目指す
清河八郎は学者になろうと山形から江戸に出てきました。酒屋の息子でしたが、勉強が好きだから、一流の学者になろうと江戸に出てきて塾も開いて、清河が初めて文武二道をやりました。

2.江戸神田三河町に「経学、文章指南、清河八郎」塾を安政元年(1854)十一月に開いたが、その年末に火事で消滅

3.次の塾として薬研堀の家屋を購入したが、これも安政二年(1855)十月の大地震によって壊れ、塾開設をあきらめ故郷に帰る
安政の大地震で被害に遭いました。普通だったら、一軒目が火事、二軒目が地震で、江戸で学者になろうと塾を開いて、やったけれども、二度続いてこういうことがおきると、今の日本人の多くは“俺はついていない。またあるんじゃないかな”と思う人がほとんどですよね。そうなったときに清河八郎は故郷で徹底的に勉強しました。
人間はあるとき徹底しなければなりません。没頭しない人間は哲学がありません。哲学を磨かないと維新の英雄になれません。名を残した人は徹底的に他を省みず自分の目的のために没頭した期間があります。

4.この前は火事で、今度は地震、自分の将来へ一抹の不安を暗示しているのではないかと、一瞬脳裏に宿ったが、それを打ち消すかのように郷里で猛烈な著述活動を開始した。清河の多くの著述の大半はこの時期になされた
「古文集義 二巻一冊」(兵機に関する古文の集録)
 昔からのいろいろな兵器を集めて説明する辞書です。
「兵鑑 三十巻五冊」(兵学に関する集録)
 兵学に関することを集めて書く。書いたら覚えますよ。頭を使う基本です。
整理して、分類して、書く。これが考える作業です。

「芻蕘論学庸篇」(大学贅言(ぜいげん)と中庸贅言の二著を併せたもので、芻蕘(すうじょう)とは草刈りや木こりなどの賤しい者を意味し、自分を卑下した言葉で、この本の道徳の本義を明らかにし、後に大学・中庸を学ぶ者に新説を示したもの)
贅言は無駄な言葉という意味ですが、無駄な言葉ではないです。清河は謙遜して言っています。いろんな塾で教えている以外の、独自の教科書を作りました。清河の持っている体系知識が違う、人と違ったものの見方ができました。違う見方ができるということは視点が広いということです。

「論語贅言 二十巻六冊」(論語について諸儒の議論をあげ、独特の説を示したもの)

 「芻蕘論文道篇 二巻一冊」(尚書・書経を読み、百二篇の議論をあげ、独特の説を示したもの)
 「芻蕘武道篇」(兵法の真髄を説いたもの)
その他に論文もあり、清河の勉学修行は並ではない。
日本人の観光ツアーに行って、右といわれた時に一人だけ左を見るということをする。これが大事。こういうことをしているから物事の見方が鋭くなるのです。これだけのものを書くということは凄いでしょう。書いたら頭に入り、頭に入るということは知識があるということです。その上江戸にいるときに旅をしています。四国から関西を回っていて、京都に勉強に行って、良い先生がいないから九州まわって、オランダ人とも会って帰ってきています。お母さんを連れて、関西から四国を歩いています。仙台や蝦夷地にまで行ったといっています。旅行が頻繁にできない時代です。

日本人は世界一電車に乗ります。一年間で平均3000キロ電車に乗ります。第2位はフランスで、1800キロですから、日本はダントツの鉄道利用国民なんですね。鉄道が普及しているということです。

要するに当時鉄道がなく、歩きです。歩きでたくさんの行動をしたら、お金も要るし、体力がなければだめです。頭が良くても体力がないとだめです。頭使い過ぎて死んだ人はいないが体力がなくして倒れる人はいます。

清河は22歳で剣道をはじめました。千葉道場でも必死に修業して、人より早く中目録をもらいました。清河八郎は策士といわれていますが、策がない人は策士とは言われません。人をリードできるのは、広い学識があるからです。日本では珍しく旅をしてまわっています。こんな人に会ったら引き込まれませんか。武士階級は出張できない。清河は横断して情報を整理して、本にしています。論理的だと思います。口がうまいでしょう。時代解説ができます。町村の様子を日記に書いているんです。これが清河八郎記念館にあります。

5.安政の大地震が攘夷運動に与えた影響

この清河八郎の薬研堀の家が地震で倒れたということは、安政の大地震は、
どの歴史書にも出ていますが、大変な被害を与えました。人が多く死んだこともありますが、当時の優秀なる時代のリーダーが死んでしまうわけです。
当時日本をリードしたのは水戸藩です。国学の中心になった水戸斉昭が江戸城にいて海防参与の役職につきました。斉昭が攘夷運動をリードして、斉昭の裏には藤田東湖という優秀なブレーンがいたが安政の大地震で亡くなってしまいました。一番たくさんの家臣が死んだのは水戸藩です。後楽園のところに水戸藩の屋敷がありました。表の塀が倒れて、住んでいた下級武士が死んでしまいました。裏長屋に住んでいた重臣も倒れました。即死46名、負傷84名と被害報告が提出されています。御三家の尾張藩は今の市ヶ谷防衛省、紀伊藩は赤坂で今の迎賓館があるところでどちらも高台・岩盤で江戸幕府に出した報告書によると被害は家が少し倒れただけでした。
この水戸斉昭と将軍継嗣問題で争ったのが井伊大老で、井伊家は外桜田に藩邸があり、ここは岩盤ですから、さしたる被害なしと報告しています。水戸藩だけが被害を受けてしまいました。藤田東湖が死んでしまったことによって、水戸斉昭の言動がぶれてしまいました。リーダーがぶれるとみんなぶれます。西郷隆盛も志士たちも、水戸藩の藤田東湖のリーダーの攘夷論に従いました。方向を一時失ったわけです。清河の塾も倒しましたが、大地震によってそういう影響を引き起こしました。

6.安政四年(1857)駿河台淡路坂に塾を開くが門人少ない
再び江戸に出てきました。ところが、知識があって日本中を回って立派な話をするわけですが、門人が少ない。最初の神田三河町のときはいっぱい来たのに今度は来ない、売り上げが上がらないのは、なぜでしょうか。時代が変わってしまったのです。
今、スーパーもデパートでも売り上げが前年を下回っています。江戸時代も今も同じです。黒船が来る、尊王攘夷でもめている、地震はくる、もっとほかにあるんじゃないか?塾で論語を勉強している場合ではないんじゃないかと不安心理が世の中に蔓延しました。清河はこれを体験しました。これは次の布石です。

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4月例会記録(2) 2/2

■山本紀久雄氏

「清河八郎の戦略転換」 2/2

7.千葉道場で鉄舟と出会う
清河八郎は22歳で千葉道場に入門して急速に剣が強くなりました。鉄舟は鬼鉄と言われるくらい剣が強い人です。鉄舟は清河の弁論と知識に惹きつけられました。もっと大事なことは、人間同士があった瞬間に気が合うのは、どちらかというと性格が似ている場合があります。


鉄舟はどういう性格ですか?子供時代に寺の鐘を坊さんが欲しければあげるぞといったら、鐘を下ろそうとしました。和尚さんは人に嘘を言ってはいけないということを教える人物なのに、鐘を私にくれると言ったではないか、と言い、和尚さんが鉄舟のお父さんを連れてきて許してやってほしいと言わせた大変な人物です。言い出したら聞かない人です。
また酒の席で、主が一日で成田までの140キロを往復すると言い、“俺はできる!”と鉄舟が言って、鉄舟は一人で往復してきました。
清河八郎も同じで、「ど不適」といわれるくらいに思ったことはやりぬく強い性格です。二人は親しくなりました。


8.安政六年(1859)、隣家からのもらい火で塾消失

9.同年六月お玉が池に塾開設
これも立派なものです。火事2回に地震に負けていません。ここであったのが、井伊大老の桜田門外の変です。これが清河の一生を決めました。世の中の事件です。アメリカの9.11と同じです。アメリカも変わりました。水道の調査に行ったら、源泉は見せないといわれ見学できません。
井伊大老が殺されたということは、時の最高権力者が路上で登城するときに水戸浪士が17名、薩摩藩士1名の18名に襲われたということは、世の中の時代が変わったこと、幕府の力が落ちたということを明らかにさせました。幕府の力が落ちたら政治が混乱します。
この大事件を清河はどう受け止めたかというと、清河はすぐに現場に行き、歩き、資料を集めました。情報収集したらどうしますか?編集です。整理して、田舎に送ってあげようと20枚に顛末を作りました。これが「霞ヶ関一条」です。

9.安政七年(1860)三月三日桜田門外の変を「霞ヶ関一条」に綴る
誰がやったか、誰が起こしたか、その日の朝水戸家の侍は脱藩届けを出したので浪士です。清河八郎が目を離せなくなったのは、水戸浪士一覧表です。見たら、最高が200石、ずっと見ていくと樵、神官に仕える仕官、鉄砲士、世が世なら、世に出ない人たちがいました。士分がずっと低い人がいました。大名が殺したとか、高級旗本とか、重臣ではありません。清河はこれを見て唸ってしまいました。この人たちが世の中を変えたのか、自分も山形の同じような、自分よりずっと貧しい人たちが日本のことを考えて起こしたということをみて、志を変えました。それまでは学者になることが志でしたが、倒幕に切り替えました。

10.戦略転換は水戸浪士の禄高一覧表から
戦略は小さいときから死ぬまで貫くのが良いです。白金の三ツ星レストラン「レストラン カンテサンス」に行きました。シェフが33歳で、挨拶に出てきてくれましたが、高校を出て、最初からフランス料理人になろうと思ったそうです。日本中のフランス料理を食べ歩いて一番おいしいと思ったところで弟子入りして、修行します。その間フランス語を勉強して、フランスに行き、フランス中のフランス料理を食べ歩いて、一番おいしいと思ったところで働かせてくださいと言って勉強します。そして日本に帰ってきて白金にお店を開きました。今でも一日16時間は厨房に居るそうです。戦略が統一しています。

清河八郎は戦略転換をしました。吉と出るか、凶と出るか、結果的に暗殺されました。鉄舟も清河と近しかったが、鉄舟、海舟、泥舟は畳の上で死にました。西郷は城山で自刃、大久保は紀尾井坂で暗殺されました。清河が暗殺されたのは、戦略転換が影響しました。鉄舟とはどう違うのかは次回です。

以上


【事務局の感想】
清河八郎の博識の背景が今回わかりました。没頭すること。没頭し哲学を身に付ける。「集めて、分けて、比べて、組み合わせて、選ぶ」ことが考えるということ。これを清河八郎はやってきた人物でした。この清河八郎と鉄舟の接点が、「性格」「気があう」という点で、この点は書物の勉学ではないので、非常に人間的ですが、これもまた定石ということではないでしょうか。
来月の清河八郎と鉄舟との違いが楽しみです。

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