2008年10月19日

「鯛屋旅館」に鉄舟書を訪ねる

静岡県富士市吉原商店街通りの「鯛屋旅館」に鉄舟書を訪ねる

山岡鉄舟研究家
山本紀久雄

東海道線吉原駅に降り立つと、ホームから富士山が見える。さすがに静岡県と納得する。吉原駅からは岳南鉄道に乗り換えた。
岳南鉄道は開業が昭和23年(1948)、正に団塊の世代の生まれで、今年は60周年の還暦を迎えている。

運行する列車車両はたったの一両で赤色。吉原駅のどこかに岳南鉄道と書いた看板表示物があれば写真を撮ろうと、切符売りしている係員に尋ねたが「そうですね・・・見当たりませんね・・・」というつれない返事。のどかなものである。全線で駅が10ヶ所しかなく、地域地元の足となって熟知されているので、看板などは必要ないのだろう。
ただし、さすがに車両の先頭運転席上部には岳南鉄道と表示されている。


さて、車両が吉原駅を出発すると、すぐに田子の浦埠頭の船が見え、倉庫が並んでいる地帯が続き、次に住宅が見え始めたかと思うと、もう二駅目の「吉原本町」。ここまでの所要時間は五分。

駅を出て、踏切を渡って、結構立派なお店が並んでいる旧東海道五十三次吉原宿、その商店街を歩いて五分、道路上空中に「つけナポリタンの吉原商店街へようこそ」の横断幕がある。これは何だろうと思いつつ、商店街の真ん中の「鯛屋旅館・吉原本宿」と書かれた看板の前に立つと、この横断幕の案内チラシがおいてある。テレビで報道された達人チャンピオン料理らしい。町おこしが盛んに行われている気配を感じる。

さて、「鯛屋旅館」の玄関に入ると、フロント脇に吉原街おこしのパンフレットがたくさん並んでいて、その向こうに「鯛屋與三郎」と板木に豪快に大書した鉄舟による看板が悠然と掲げられている。いつもながら鉄舟の書はすばらしい。看板の左には坂本竜馬の写真、右には「身延山 妙法講定宿」と書かれた板木が掲示されている。
「鯛屋與三郎」の板木説明書きには、鉄舟が宿泊代の代わりに書いたとある。これがちょっと気になる。鉄舟はこの旅館が気に入ったので、書いてあげたのだろうと推測する。

「鯛屋旅館」は天和二年(1682)創業で、今年で325年になり、店主は18代目であるから徳川幕府より長い。ここは鉄舟や次郎長の定宿であったとご主人の佐野大三郎さんが語ってくれる。
佐野さんは清水の「静岡鉄舟会」のメンバーであり、昨年の中央大学会館で開催された、山岡鉄舟全国フォーラムにも参加され、今年11月29日の明治神宮で開催されるフォーラムにも参加するという熱心な鉄舟ファンです。

さて、鯛屋旅館は最近、玄関から食堂までの一階を改装し「吉原宿歴史処」をつくり、フロント回りにも吉原の歴史をパネルで語るようにした。
その「吉原宿歴史処」の一角には、鉄舟が西郷隆盛との駿府会談に向う途中の危機を救った望嶽亭の本と、鉄舟会事務局長の若杉さんの著書も置かれている。また、食堂では「吉原本宿 歴史講座」が開催されている。熱心である。

ところでフロントの女性が「ここは東海道でめずらしい左富士ですよ」などと、ずいぶん吉原の歴史に詳しく説明してくれる。ご主人の佐野さんに「大変詳しい女性ですね」と伝えると「あの女性は町内会から派遣されているのです」との答えにびっくりする。吉原通りを活性化させようと町内会が熱心に進めていることが、このフロントの女性派遣体制に顕れている。すばらしい。

東海道五十三次の宿場で創業当時から同じ場所で経営されている「鯛屋旅館」。確か東海道筋で創業から同じ場所で継続している宿は二軒しかないはず。その長い歴史のお宿に泊まってみると一段と趣を感じる。

夕食では佐野さんと地酒の「鉄舟」と「次郎長」を傾け、鉄舟について語り合ったことをご報告し、「鯛屋旅館」の鉄舟の書を訪ねる報告としたい。

投稿者 Master : 15:13 | コメント (0)

2008年10月12日

ロンドンで鉄舟に出会う

ロンドンで鉄舟に出会う
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

今年は、安政五年(1858)に徳川幕府と米英仏蘭露の五カ国が修好通商条約を結んで150年に当たる。
それを記念して各国で様々なイベントが開催され、そのひとつとしてロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)で「山岡鉄舟書展」が開催されているが、こちらは鉄舟没後120年も併せてであり、期間は九月三日から十二月十四日まで。鉄舟も国際的に認識されつつある。




9月27日土曜日にV&Aを訪ねてみた。
同館はロンドンのサウスケンジントン駅から歩いて10分。
世界中から蒐集された膨大なコレクションが所蔵展示されている。


 正面玄関を入り、ホールを右手に行くとJAPN展示室があり、そこを入って右側壁面全部に鉄舟書が展示されている。真ん中あたりに展示されている「龍虎」大書が眼に飛び込んでくる。鉄舟の書はロンドンでも異彩を放つ迫力である。

 鉄舟のほかに海舟と泥舟の書もあり、最後に故寺山旦中先生の書も展示されていることから分かるように、二松学舎大学教授であられた寺山先生所蔵書によっての開催である。

 寺山先生は筆禅道、これは筆で禅を行ずる意味であるが、その由来は鉄舟が大悟され「余、剣・禅の二道に感ずる処ありしより、諸法皆揆一なるを以て書も亦其の筆意を変ずるに至れり」と覚他されたこと、つまり、剣と禅で自覚するところがあったら、書の筆勢が変わったということであるが、この後継者が寺山先生で、二〇〇一年にもV&Aで寺山先生所蔵の書展を開催していたことから、今回も展示されたのである。

それにしても鉄舟の書をロンドンでも著名な博物館で堪能した楽しいひと時であった。

投稿者 Master : 13:43 | コメント (0)

2008年09月15日

さいたま市常泉寺

鉄舟の書を訪ねる
山岡鉄舟研究家 山本紀久雄

新しい企画として鉄舟の書を訪ねる旅をしたいと思います。
日本各地や世界のどこかにも鉄舟の書は数多く存在しています。
その鉄舟の書を、存在する場所に訪ね、その背景を探る企画です。



そこで、皆様にご協力お願いしたいのです。
鉄舟の書が存在しているところをご存じの方、
また、実際に鉄舟書を保有されている方は多いと思います。

その情報を山岡鉄舟研究会にご連絡いただき、皆様のご協力、
ご参加のページで進めたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。

最初は、地元さいたま市の常泉寺です。

埼玉新聞の2008年8月8日に以下のように掲載されました。
「さいたま市見沼区染谷の曹洞宗『常泉寺』の本堂正面には、江戸無血開城に尽力した山岡鉄舟(1836~1888年)直筆の山額(横一㍍二十七㌢、縦五十二㌢、厚さ四㌢)が掲げられている。鉄舟は剣、禅、書の達人として知られた」

山額の文字は「瑞谷山」(ずいこくさん)「正四位山岡鐵太郎書」とある。
明治初期、常泉寺が火災で本堂を焼失した際、鉄舟が住職に協力して本堂再建をし、その際に書いたもの。

「瑞谷山」は山号である。常泉寺は寺号。

「瑞」とはめでたいこと、めでたいしるし。「谷」は水のあるなしにかかわらず、山間のくぼんだ所を意味する。
「正四位」(しょうしい)と記名していることから、鉄舟が「正四位」に叙せられたのは明治十五年(1882)であるから、それ以後のものであろう。

下記の写真は常泉寺で出される煎餅である。煎餅に「瑞谷山」と書かれている。因みに味はあまり甘くなく、程よいバター味で、食べた後味が大変よろしい。

なお、常泉寺内には「広島・長崎の火」が燃え続けている。原爆投下された後の焼跡の火である。その設置の経緯を書いたものも境内に掲示されている。

投稿者 Master : 15:13 | コメント (6)