山岡鉄舟とは

鉄舟年譜


年号 西暦 年齢
天保七年 1836 一歳 六月十日、江戸本所に御蔵奉行小野朝右衛門高福の四男として生まれる。母は磯女塚原氏。
弘化元年 1844 九歳 久須美閑適斎に就いて剣法を学ぶ。
弘化二年 1845 十歳 八月二十四日、郡代となりし父母に伴われ、飛騨高山に赴く。
嘉永三年 1850 十五歳 「修身二十則」をつくる。岩佐一亭(当時六十九歳)に書法を習う。
嘉永四年 1851 十六歳 九月二十五日、母磯女、高山陣屋に病歿す。享年四十一歳。
十二月、父の招請により北辰一刀流井上清虎、高山に到着。
嘉永五年 1852 十七歳 父朝右衛門高福、高山陣屋に病歿す。享年七十九歳。弟らを連れて七月二十九日、江戸に帰り、異母兄、小野古風(鶴二郎)の許に寄る。
安政二年 1855 二十歳 正月、講武所に入り、千葉周作について剣を学び、山岡静山に槍術を学ぶ。静山急死のあと、望まれて山岡家の養子となり、静山の妹英子と結婚す。
安政三年 1856 二十一歳 剣道の技倆抜群により、講武所の世話役となる。
安政四年 1857 二十二歳 剣禅二道に精進す。「修身要領」をつくる。
安政五年 1858 二十三歳 憂国の志を抱き「宇宙ト人間」の一篇を作り、自己の進むべき方針を定む。
『修心要領』、『心胆錬磨之事』も執筆す。
安政六年 1859 二十四歳 安政の大獄起こる。尊皇攘夷党を結び、清川八郎らと盟約す。『生死何レガ重キカ』を成す。
文久三年 1863 二十八歳 浪士隊(新撰組の前身)の取締役となり、将軍家茂の先供として京都に上り、幾ばくもなく浪士を引き連れて江戸に帰る。同志清川八郎刺客に斃さる。浅利又七郎に剣を学ぶ。
元治元年 1864 二十九歳 「父母の教訓と剣と禅とに心せし事」「其人傑と問答始末」を成す。
明治元年 1868 三十三歳 精鋭隊歩兵頭格となる。慶喜の命を受け、三月九日駿府(静岡)に至り、東征の大参謀西郷隆盛と松崎屋源兵衛方にて会見、徳川家の安泰を約す。
五月、若年寄格幹事となる。
七月、江戸を東京と改称。
明治二年 1869 三十四歳 六月、静岡藩々政補翼となり、清水の次郎長と相識り、「壮士之墓」を揮毫して与う。
明治三年 1870 三十五歳 静岡に在って旧幕臣の善後処理に日夜苦心す。
明治四年 1871 三十六歳 七月、廃藩置県、新政府に出仕す。
十一月、茨城県参事となる。
十二月、伊万里県権令(現在の知事)となる。
明治五年 1872 三十七歳 六月、侍従番長となり、明治大帝の側近に奉仕す。伊豆三島龍沢寺星定和尚に参禅す。
明治六年 1873 三十八歳 五月、皇居炎上、淀橋の邸より駆けつける。この月、宮内少丞となる。
十月、淀橋へ転居。
明治七年 1874 三十九歳 三月、西郷南州説得のため九州へ差遣。
十二月、宮内省庶務課長となる。
明治八年 1875 四十歳 四月、宮内大丞となる。
明治十年 1877 四十二歳 二月、西南の役起こる。宮内卿代理−宮内大書記官−庶務内廷両課長−静寛院華頂宮家政取締役となる。
明治十一年 1878 四十三歳 八月、竹橋騒動に御座所を守護す。
八月末、明治大帝北陸東海御巡幸御用掛として従う。越中国泰寺越叟と相識る。天長佳節に静岡に於いて、次郎長に愚庵の身柄を託す。
十二月、皇后宮亮兼務となる。
明治十二年 1879 四十四歳 越中国泰寺の再興に尽力す。
明治十三年 1880 四十五歳 三月三十日、払暁大悟徹底。遂に適水和尚の印可を受け、剣も無敵となり一刀流正伝を継ぎ、無刀流の一派を開く。
六月、明治大帝の山梨、三重、京都巡幸に先発す。植物御苑掛となる。
明治十四年 1881 四十六歳 二月、国泰寺奉納屏風千双成る。東京本郷麟祥院にて、乞食供養をなす。
五月、宮内大書記官兼皇后宮亮、従五位、宮内少輔。
明治十五年 1882 四十七歳 三月、『戊辰の際、西郷と応接の記』を書く。
六月、元老院議員となる。
同月、宮内省を辞したれど恩命により宮内省御用掛。特旨をもって正四位に叙せられる。『剣法邪正弁』を作る。
明治十六年 1883 四十八歳 東京谷中に普門山全生庵を建つ。また駿河久能寺(現、鉄舟禅寺)の再建を発願す。
明治十七年 1884 四十九歳 五月、白隠禅師の国師号宣下に尽力す。
明治十八年 1885 五十歳 『書法について』を執筆す。
明治十九年 1886 五十一歳 十月、大蔵経書写を発願す。
明治二十年 1887 五十二歳 五月、特旨を以て華族に列せられ、勲功により子爵を授けらる。胃癌を病む。
明治二十一年 1888 五十三歳 二月、紀元節に最後の参内をなす。
六月、従三位を贈らる。
七月十九日午前九時十五分、座禅のまま大往生を遂ぐ。行年五十三歳。