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2008年06月06日

5月例会記録(2) 1/2 

■山本紀久雄氏

「幕末の風雲は清河八郎の九州遊説から開幕」 1/2 

 上米良さんからお話を伺いまして、靖國神社の有意義な問題だと思います。現地でいろいろお話を伺えると思います。
清河八郎の続きです。清河八郎は山形県の清河村から江戸に出てきて、最初は学者を目指しましたが、地震で1回・火事で2回、3回も自分の塾が壊れる・閉鎖することになりました。普通なら向いていないのではないか、縁起が悪いのかとあきらめるところですが、4回目にお玉が家に清河塾を作りました。

最初に塾を開いたときには塾生がたくさん入ってきましたが、今回はあまり入ってきませんでした。時代が変わって落ち着いて勉強する人が少なくなったと思ったときに桜田門外の変が起きました。田舎に知らせようと桜田門外の変について調べているときに水戸浪士の一覧表を見て、そういう時代なのかと大変なショックを受けました。一番高い身分で200石、士分ではない人もいました。自分より社会的地位が低いと思われる人が井伊大老を倒していました。儒者として儒教を教えるままでいいのか?時代を変える人間になるべきではないかと学者の道から改革・革命家の道に方針を転換しました。

大老は260年間江戸幕府の中でたかだか10名しかいません。あの有名な阿部正弘は老中首座です。そういう「大老」を倒したということは大変なことです。
お玉が池の塾の机の上から本は消えて、出入りするのは多くの浪士・浪人・幕臣、薩摩藩の人たちになりました。

1.「虎尾の会」結成。(こび)
時期は安政六年(1859)または万延元年(1860)。
「虎尾の会」とは尊王攘夷党であり、「虎尾」とは「書経」の
「心の憂慮は虎尾を踏み、春氷を渡るごとし」より起った言葉で、
「危険を犯す」という意味。

2.発起人は清河八郎以下次のメンバー。
薩摩藩   伊牟田尚平 樋渡八兵衛 神田橋直助 益満休之助
肥前有馬  北有馬太郎
川越    西川錬蔵
芸州    池田徳太郎
下総    村上正忠 石坂周造
江戸    安積五郎 笠井伊蔵
幕臣    山岡鉄太郎 松岡万

3.盟約書は以下のとおり。
「およそ醜慮(しゅうりょ・外国人)の内地に在る者、一時ことごとくこれを攘わんには、その策、火攻めにあらずんば能わざるなり。しかして檄を遠近に馳せ、大いに尊王攘夷の士を募り、相敵するものは醜慮とその罪を同じうし、王公将相もことごとくこれを斬る。一挙してしかるのち天子に奏上し、錦旗を奉じて天下に号令すれば、すなわち回天の業を樹てん。もしそれ能わずば、すなわち八州を横行し、広く義民と結び、もって大いにそのことを壮んにせん。いやしくも性命あらば、死に至るもこの議をやすんずるなし」

全生庵に盟約書の全文があるということですので、この文章と全生庵の蔵から出てくる文書は同じか、チェックしてきます。
この時代、外国人は歓迎されません。どこに火をつけるかというと影響力の強い場所である横浜居留地です。当時は横浜に外国人が住んでいました。横浜に火をつければ、目立つだろう、幕府が困るだろうと考えました。幕府は日本国内の治安を担当しています。幕府を困らせることによって、外国人は出ていってほしいというのが攘夷です。外国人に味方する人は外国人ではなくても殺してしまうと書いてあります。
ここに山岡鉄太郎がいたのです。鉄舟はそんな人だったのか?鉄舟が大好きな人たちが集っている会なのに・・・これも解明していきます。

4.「虎尾の会」に薩摩藩の益満休之助がいたことの事実は重要。
この時代ほとんどの人が攘夷です。インフレも起き、習慣の違いで色々なトラブルが起きました。自然の感情として外国人が居なければ良いのにと考えたのが攘夷です。
一般の人は思うだけですが、志がある人たちは集まって勉強会しようというのが尊王攘夷党と考えてください。

会員のあさくらさんが埼玉県の公文書館に清河の資料があり「当時の清河八郎の人気ぶりがわかります」とコメントを寄せてくれました。
清河は当時日本で一流の志士でした。清河八郎の言っていることが受けたということです。今では策士と言われますが、当時は人気でした。そうでなければこんなに人は集まりません。あれだけの学問・知識を持ち、旅した記録を作って、自分の儒学の知識と各藩の歩いたところを考えているから、普通の人の空理空論とは違うわけです。鉄舟もあった瞬間から引き込まれました。
清河はどんな人間かをイメージで考えると、勝海舟に似ているような気がするんですね。頭が良いこと、相手の話をひっくり返して、自分のほうに持ってくるところです。海舟は清河を嫌いました。同じ型の人間は嫌いなんですね。同じ性格よりも違う性格が良いものです。清河八郎の才気に国際的要素を加えたのが勝海舟だと思います。

先日サンフランシスコに行きました。アメリカで最も美しいといわれる美術館(カリフォルニアリジェンドオブオーナー)のひとつに行きました。美術館の庭に勝海舟が来て100年という碑が建っていました。
勝海舟は咸臨丸の副艦長として海外を見ていますね。勝海舟は苦労しているけれど、清河は実家がお金持ちですから苦労していません。清河は育ちが良くお金の苦労がないですから勝海舟より純情です。手練手管があるのが勝海舟だと思います。
虎尾の会に益満休之助がいたことが大変な縁ですね。鉄舟が駿府に行ったときの通行手形は薩摩弁で、品川を越えたら官軍が居て、総大将は長州と薩摩ですから薩摩弁でしゃべれば通行できたでしょう。益満休之助が同行して薩摩弁をしゃべったから鉄舟は駿府まで着きました。

「幕末の風雲は清河八郎の九州遊説から開幕」 2/2 に続く 

投稿者 staff : 2008年06月06日 15:43

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